2015年03月31日

コンクリートブロックと板でつくる本棚でわかったこと L字型にくむと、22センチのたかさが本にピッタリ

コンクリートブロックと板をつかった本棚がくみあがり、
本のひっこしをした。
180センチ幅の本棚が2つふえたのだから、
余裕で本がおさまるかとおもっていたのに、
じっさいはそれほどあまりのスペースはできなかった。
これまで2列にならべてたり、本棚のすきまにかさねてつっこんでいた本を
すべて均一にあつかったからだろう。
それでもいろんな本棚が無秩序にならぶよりも
ずっとすっきりした部屋になった。

本をならべてみると、
この本棚は おもっていたよりずっとすぐれものなのがわかった。
とくにL字型にくめば、本のたかさと とても相性がいい。
ブロックひとつは10センチのたかさがあるので、
2つつむと20センチ。
20センチだとあまりにもピッタリすぎて
あつかいづらいけど、
L字型は板のあつさ分をべつの板きれで調整するので
くみあげた棚のたかさは22センチとなる。
この22センチというのが絶妙で、
たいていの本は22センチのたかさにおさまる。
『ミニ書斎をつくろう』(杉浦伝宗・メディアファクトリー新書)では、
基本形のブロック(奥ゆき39センチ×幅19センチ×たかさ10センチ)を
3段にかさねるようすすめられているが、
30センチのたかさが必要な本はあまりない
(もちろんひとによってちがう。あくまでもわたしの場合)。
3つかさねはせいぜいいちばん下の段だけにとどめ、
あとの段はブロック2つのたかさでじゅうぶんだ。
また、本棚の奥ゆきも、39センチは幅がありすぎるので、
半分にきったブロックのほうがあつかいやすい。
そのほうが本のおおきさにもあっているし、
幅がせまいぶん、板の値段もぐっとやすくなる。

まとめてみると、わたしのおすすめは
・半分にきったブロック(奥ゆき19センチ×幅19センチ×たかさ10センチ)をつかう
・板の幅もブロックにあわせ19センチ前後にするとやすい
・L字型にくむ(これにより、棚のたかさが22センチになる)

180センチの幅があると、本をならべたときに板がしなってくるので、
支柱となる板をまんなかにかませればいい。
このときにも釘やネジは必要なく、ただ棚とおなじたかさの板をおくだけで
じゅうぶん用をたす。
いずれにしても、道具をつかわずに本棚ができてしまうので、
このブロックと板をつかったつくり方は
大工仕事がにがてなひとにもおすすめだ。

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2015年03月30日

田んぼをかりる 2 農業委員会に農地利用をみとめられる

かりた田んぼのもちぬしといっしょに
役場にある農業委員会へでかける。
農地をかりるには それなりの手つづきが必要なためだ。
窓口で対応してくれた職員の方は、
わたしが農地と農機具をもっているかをまず確認された。
農地法というのがあり、
農地のかしかりは農地をもっているひとでないとできないらしい。
最低30アールの農地というから、
わたしがかりようとする3倍以上のひろさをもってないと、
そもそも農業はできないのだ。
農林高校で米づくりをやったことがあるとか、
うまく米ができなくても、まわりの草かりだけはちゃんとするから、と
わたしがたのんでも、
そんなことは法律のまえではなんのちからももたない。

それでもはなしをきいてくれた職員の方は
電話で上司にうかがいをたててくれ、
「そんなにへんなことにはならないでしょうから」という判断のもとに
わたしを田んぼのかり手としてみとめてくれた。
「何年やるつもりですか?」とたずねられ、
「とりあえず3年」とゴニョゴニョいったら、
田んぼのもちぬしの方が
「3年なんてすぐだから5年にしなさい」と
となりからいいなおされた。
こんなふうに、かすほうのひとは
わたしが農家でなくても、なんの抵抗もなくかそうとしてくれる。
おかげで、「農用地利用集積計画同意書」におたがいのハンコをおして、
わたしはほんとうに田んぼをつかう権利を手にいれた。
農業委員会がみとめてくれたのだから、
わたしは米つくりの免許をえたおもいがする。

きのうのブログでは、農機具のレンタルがしくみとしてない、とかいたけれど、
そもそも法律が農家以外の参入をこばんでいる
農業に関心があり、米づくりをやってみたいとおもっても、
そういうひとは制度として田んぼをかりられない。
そんなことをいってたら、農業をやりたいひとがいなくなってしまうので、
だんだんとゆるやかな運用にかわってきているのだろう。
農業委員会で農機具のことをきいたら、
ここでもレンタルはやっていないという。
農協ではかりられるかもしれないと、
連絡さきをおしえてもらい 電話でたずねると、
「水稲については農機具のかしだしをしていません」
とすごく丁寧ながら「おことわり」された。
農作業を農協に委託する方法があります、といわれるけど、
それでは田んぼをかりて米づくりをする意味がまったくない。
Iターンのひとが農村にはいって農業にとりくむケースは、
「どうぞきてください、農業をやってみてください」と、
うけいれる側が制度をととのえているのだろう。
わたしがやりたいのは「農業」というほどの規模ではなく、
家族がたべる分をつくれたらいいや、というささやかなものだ。
おおくのひとがそんなやり方をのぞんでいるのかとおもったら、
そういう人間は機械にたよらないか、
しりあいのお世話になって機械をかしてもらうしかないみたいだ。

わたしはたがやさず・農薬・肥料をつかわない自然農法がやりたいとおもいつつ、
1年目はふつうに田うえをしての米つくりをやろうとおもっていた。
しかし、こういうふうに農機具をつかえない状況では、
自然なながれとして自然農法(シャレではない)をえらばざるをえない。
本をよんだだけで、わたしとしても確固たる自信があるわけではないけれど、
これもなりゆきだから、最初から自然農法でやってみようか。
ぶじに田んぼをかりられたのはうれしいものの、
いざ自由にやっていいということになると、なんだかとまどってしまう。
でもまあ、火星でジャガイモをつくることをおもえば、
地球でお米をつくるなんて はるかにハードルがひくいだろう。
『火星の人』のワトニーみたいに創意工夫でのりきろう。

posted by カルピス at 20:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月29日

田んぼをかりる

せんじつのブログに畑をかりたとかいた。
畑をお世話になったしりあいに、
米づくりができたら、と将来的な希望をはなしたら、
なんとほんとうに田んぼをかりれることになった。
しりあいの家のうらに、
なんねんか米をつくってない田んぼがあり、
そこのひとにたのめばなんとかなるかもしれないという。
ほんとうに田んぼがかりれるなんて、ねがってもないことなので、
ぜひはなしをすすめてほしいとおねがいする。

きょうはしりあいといっしょに田んぼのもちぬしの方をたずね、
あいさつをする。
その方としても、田んぼをつくらずにほっておくよりは
だれかにつかってもらったほうがいいみたいだ。
といっても、だれでもいいわけではないだろうから、
しりあいがあいだにはいってくれたのでたすかった。
3枚にわかれた7アールほどの田んぼをかりることになる。
田んぼをかりる契約には、農業委員会での手つづきが必要といわれ、
あす農協にでかけることになった。

わたしとしては、福岡正信さんの自然農法がやりたいのだけど、
1年目はふつうの田うえによる米づくりをやってみて、
今年の秋からばらまきをはじめられたらとおもう。
田うえをするには、まず田んぼをたがやして、
つぎは水をいれた状態でかきまぜて、と
3回ほどたがやさないといけない。
7アールはひろくはないけれど、クワでぜんぶおこせるほどせまくもない。
耕うん機をかりたらいいや、とおもっていたら、
いまはトラクターでやるのがふつうで、
耕うん機のレンタルなんてないのだそうだ。
耕うん機もだけど、できた稲の脱穀(穂からもみをはなす)や
もみすり(もみを玄米にする)の機械も
かりるのはむつかしいという。
いまの農家は、自分でやるのは田うえまでで、
あとは農協や大規模に米をつくっている会社に
農作業をやってもらうのがふつうなのだそうだ。

わたしの頭にある米つくりと、じっさいの農村のすがたは、
ずいぶんずれてしまっているようだ。
いまはだれも耕うん機なんてつかわない。
脱穀は収穫のときにコンバインでいっぺんにすませてしまう。
ハデに稲をほすのは、よっぽどのものずきだ。
そういえば、畑で耕うん機なんてみかけなくなった。
つかわれているのは耕うん機よりもうすこしちいさな管理機で、
これで田んぼをたがやすのはさすがにたいへんそうだ。

農的なくらしに関心のあるひとが米つくりをするときに、
みなさんはどんな方法で田うえや収穫をされているのだろう。
だれでも手がるにとりくめるように、
農機具をかんたんにかりれるのかとおもっていたけど、
大規模に米づくりをやるひとと、
よそに農作業を委託するひとと、
農家は両極端にわかれているようだ。
ちょっと米づくりをやりたいとおもって、
なんて人間のことは想定されていない。

とはいえ、せっかく田んぼをかりれるのだから、
とにかく米づくりをやってみよう。
収穫のことは、またそのときにかんがえる。
そのあいだになにかいいアイデアがうかぶだろう。
お米ができたのに、それをたべれないなんていやだから。

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2015年03月28日

キリンチャレンジカップ チュニジア戦 あたらしいチームのはじまりにワクワクする

キリンチャレンジカップ、チュニジア戦。
ひさしぶりに代表戦をみる気がする。
Wカップで予選リーグ敗退。
アジアカップはベスト8どまり。
アギーレ前監督が八百長疑惑で解任と、
なんだかモヤモヤしたものが代表チームにまとわりついていた。

ボスニア出身のハリルホジッチ氏があたらしい監督にきまったのが2週間前。
その後、実質4日間であたらしいチームの方向性をうちだし、
きのうの試合をむかえた。
「どの選手にもチャンスがある」とはどの監督もいうセリフで、
しかしじっさいにはじまってみると レギュラー陣が固定され、
チームに競争意識がなくなっていくものだ。
しかし、ハリルホジッチ監督のふるまいからは、
くちさきだけで競争をあおっているのではなく、
かつために必要だから公平に選手たちをあつかっているのがつたわってくる。
適切な競争意識にもとづく 規律のあるチームづくりを期待させてくれる。

初招集が川又と藤春。川又はバックアップメンバーとして
小林のかわりに招集され、代表デビューをはたした。
いずれもハリルホジッチ監督が視察した試合で
印象にのこった選手としてよばれている。
宇佐美・永井・槙野・水本も、初招集ではないものの、
数年ぶりにえらばれた。
そして、その川又・藤春・永井がスタメンとしてピッチにたつ。
ゴールキーパーは川島でも西川でもなく權田。
清武がスタメンとしてトップ下にはいる。
ケガから復活したばかりの山口もボランチとして顔をみせる。
よびよせたすべての選手をつかってみたい、ということばどおり、
ハリルホジッチ監督は6人の交代枠をつかいきる。
常連の本田・香川・岡崎はベンチスタートとなった。
海外組だけでなく、Jリーグも、J2でさえ、目をくばっているという
すばらしいメッセージになっている。
こんなにたのしみな代表戦はひさしぶりだ。
あたらしいチームのはじまりを、つよく印象づけた。

ハリルホジッチ監督がかちにこだわるきびしい態度をみせ、
たてにはやくつなぐプレーをもとめているせいか、
選手たちは緊張しつつ、監督の期待にこたえようと、
とにかくまえへボールをはこぼうとする。
そのぶんボールがおちつかないかんじはあるものの、
フレッシュなメンバーによる積極的なプレーに好感をもつ。
後半の途中から本田・香川・岡崎がはいると、
その3人がからんであっけなく2点とってしまった。
まえのチームの主力メンバーが活躍するのは
たのもしいような、残念なような。
しかし、彼らにしても公平できびしい競争のなかにたたされており、
自分たちの地位が約束されたものでないのは
よくわかっているはずだ。
解説の方がいっていた
「フレッシュな選手たちの野心と、常連の選手のプライド」
がうまく作用した試合となる。
Wカップ予選にむけ、ハリルホジッチ監督のチームづくりがとてもたのしみとなる。

チュニジアというと、先日おこったテロの記憶が生々しい。
その直後なので、サッカーどころではないのかとおもっていたのに、
番組ではあの事件についてまったくふれられなかった。
また、ハリルホジッチ監督が前回のWカップで指揮をとっていたアルジェリアは、
チュニジアのすぐとなりの国であり、
友好試合など、日常的な交流があったかもしれないのに
(なにしろ陸つづきだから、車ですぐにいききできる)、
そうした隣国同士の関係についてもコメントはない。
サッカーだけをやってればいいというものではないだろうに、
なにか現実の生活からサッカーだけをとりだして、特別あつかいしているみたいだ。
試合をはなれて番組全体をみたときに、
うわっつらばかりで、ふかみのないものたりなさをかんじた。

posted by カルピス at 10:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月27日

『ミニ書斎をつくろう』を参考に本棚をととのえる

本棚をおいている部屋が、
書庫というよりも、ものおきじみてきたので、
おもい腰をあげてようやく部屋をととのえる。
作戦はこうだ。

・タタミのうえにウッドカーペットをしき、
 なんちゃって板の間にする
・ブロックと板をつかって5段の本棚を2つつくる

タタミはもうずっとかえてないからボロボロで、
みただけで「書庫」の雰囲気をけしている。
タタミをみえなくしつつ 本棚をおくには、
ウッドカーペットが役にたってくれる。
とはいえ、ウッドカーペットをしくには、
まず部屋にあるものをいったん全部となりの部屋にうつさなければならない。
かんがえるだけでもめんどくさくて
なかなかうごけなかったのだ。
今回は、ネットでウッドカーペットを注文したから、
ものがとどくまえになんとか本のひっこしをおえないと
ますますどうにもならなくなる。
かんがえるからめんどうになるわけで、
頭をからっぽにして、ただ機械的に本をうごかした。

本棚のほうは、『ミニ書斎をつくろう』(杉浦伝宗・メディアファクトリー新書)
を参考にしたものだ。
コンクリートブロックに板をのせるだけのつくりだから、
釘やネジが必要ない。
ほんとうに、ただならべるだけで かんたんに本棚になる。
L字型にくんだので、180センチ幅の本棚(5段)がいっぺんに2つできた。
本では基本形のコンクリートブロックをつかうことになっているけど、
ふつうのブロックはながさが39センチもあり、
その幅の板をかおうとするとすごくたかくつく。
本をならべるのに、そんなに幅は必要ないので、
けちって20センチ幅の荒板をかい、
それにあわせようと、半分にきったブロックをおいた。
こんなに本格的な部屋のみなおしは、
これからの人生でそうやらないだろうから、
ちゃんとお金をかけてしっかりしたものをつくるべきかもしれないけど、
ホームセンターで品物をみていると、つい値段が気になってくる。
ブロックと板で1万5000円ほどのかいものだった。

これで、本をいれる場所がずいぶんふえた。
おしいれにしまっているマンガもならべられるかもしれない。
わたしが本をかうペースは、いちねんに100〜150冊程度なので、
いまある本棚もつかえば、しばらくは本の場所になやまなくてすむ。
いまは、ほんとにめちゃくちゃな状態だ。
作家別・ジャンル別にいちおうわけているけれど、
本をいれるじゅうぶんなスペースがないので、
いろんな場所にいくつかのかたまりがでててしまった。
雑誌のバックナンバーさえ、順番にならべていない。
最近ではかった本を床におくようになったので、
これ以上ほっておくと、雑然としすぎて
おちつけない部屋になるところだった。

いまは本棚をくみあげているとちゅうだ
(L字型にくむと、たかさの微調整が必要で、
そのための板を準備してなかった)。
じっさいに本をならべたときにどんな感想をもつだろうか。
幅がものたりなかったり、
やすい板になにか問題があるかは、
つかってみないとわからない。
とにかく本をならべる場所が確保できたのはおおきい。
本を棚にうつすとき、うもれていたおもいがけない本にであえるのをたのしみにしている。

posted by カルピス at 22:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月26日

畑をかりる。なんちゃって自然農法的やさいづくり

しりあから畑をかりられることになった。
そのひとは、近所の農家の方から声をかけられたのをきっかけに、
自給畑としていろいろな野菜をつくっている。
わたしも仲間いりさせてもらい、
その一角を自由につかえるようになった。

わたしは福岡正信さんの自然農法にしびれたことがあり、
農的なくらしを漠然と夢みている。
でも、おもっているだけではいつまでたっても形にならない。
なんでもいいからじっさいのうごきにうつそうと、
今回こうして畑をかしてもらったのだ。
自分のたべる米や野菜を自分でつくり、
燃料も石油や電気にたよらないでくらせたらすてきだ。

福岡さんの自然農法は、
たがやさず・草をからず・農薬や肥料もつかわないで
米や野菜をつくっている。
人間が作物に手をくわえるのではなく、
自然にまかせておけば、自分でそだっていく、
というかんがえ方だ。
福岡さんだけでなく、
自然にまかせようとするひとたちはすくなからずいて、
日本各地で(世界でもいろんな場所で)自然農法を実践されている。
せっかく畑をかりたのだから、
わたしの野菜づくりも自然農法をとりいれたいとおもった。

自然農法による野菜づくりの本も出版されており、
何冊かを図書館でかりてきた。
草のなかでげんきにそだつ野菜が写真で紹介されている。
ただほったらかしにしておけばいいのではなく、
野菜がどんな状態なのかをよく観察しなければ、
とかかれているけど、
わたしには観察眼もないので、
できるだけ手をくわえない、ということしかできない。

きょうはジャガイモとエンドウをうえた。
しりあいが畑を機械でおこしてくれたので、
わたしがやるのはうねをたて、種イモをうえるだけだ。
自然農法なので、肥料はつかわない。
化学肥料だけでなく、鶏糞や油かすもいれない。
エンドウは、種があまったので、
草がはえているところにもまいてみた。
カマで草をかり、すこし土をほってから種をおとす。
草のなかにうもれれてしまったので、
目じるしとして竹をさしておいた。
写真もとったけど、ただの草はらにしかみえない。
エンドウ.jpg
ささやかな一歩だけど、とにかく野菜づくりへのうごきがとれてうれしい。
わたしのしりあいは、いまではほとんど野菜をかわないそうで、
わたしもそれだけの技術を身につけたい。

posted by カルピス at 20:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月25日

「スイムラン」もうしこみにむけての抱負

多岐の「スイムラン」事務局から封筒がおくられてきた。
毎年8月におこなわれるレースで、
「スイムラン」という名前のとおり、
およいでからはしるレースだ。
こんな時期にたよりがとどいたことはなく、
あんまりはやいので、
レースはとりやめになりました、という
残念なおしらせかとおもった。
さいわいことしも予定どおりひらかれるようで、
いつものようにロングの部、つまり
2.4キロの水泳プラス21キロのランニングに参加する。

これまでに8回出場しており、3時間3分を最高に、
3時間をきったことがない。
傾向としては、多少のデコボコがあるものの、
年齢がますにつれてタイムがおちている。
老化がすすんだ気はしないのに、事実として3時間からとおざかっている。
水泳のタイムはみごとに安定しており、
練習をしてもしなくてもほとんど関係なく52分程度だからいいとして、
というかおそらくもうどうしようもなく、問題はランニングだ。
タイムはともかく、いつも足にちからがはいらず、
自分ではしっている気がしない。
これ以上とばせないくらいつかれているけれど、
全力をだしきるというよりも、
ヘロヘロになって足をなんとかまえにだし、
ようやくゴールにたどりつく、というかたちだ。
レースうんぬん以前の段階であり、
自分で足をあやつっている実感がなかった。

わかいころにLSD(ながい距離をゆっくりはしる)というトレーニング法に影響をうけ、それ以来ゆっくりはしってばかりいたら、
みごとに回転のあがらないからだになってしまった。
ずっとゆっくりばかりの練習しかしてないので、
ある意味では何十年もかけて からだをおそくなる体質に
つくりつづけてきともいえる。
なんでそんなことをしたかといえば、
ゆっくりはしったりおよいだりするのは、それなりの快感があるし、
トレーニングとしても楽だからだ。
スピードをめざすメニューはからだに刺激をあたえつづけるため、
それなりにストレスがある。そこからにげていた。
長距離をはしるのに、ほんのちょっとはやくなったところで、とか、
からだはもうわかくないのだからとか、
もっともらしい理由はいくらでもつけられる。
LSDをトレーニングにとりいれるひとは、
スピード練習もあわせておこなうよう
じゅうぶん配慮されたほうがいいとおもう。

ブログにもかいたけれど、
最近はスピードを意識した練習をとりいれており、
いくらかの手ごたえをかんじている。
いまさらからだはかわらないだろうとおもっていたのに、
それなりに変化をうけいれてくれるみたいだ。
今年こそしっかりはしった充実感とともにゴールをくぐりたい。

posted by カルピス at 21:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月24日

『すべての美しい馬』(コーマック=マッカーシー)つよく、うつくしく、誠実で、かなしい

『すべての美しい馬』(コーマック=マッカーシー・黒原敏行:訳・早川書房)

読点がとてもすくなく、かわいた文体。
その文体が、今回のような西部の土地にはよくにあう。
そして、マッカーシーがえがく世界の独特の雰囲気は、
この文体でなければなりたたない。

といっても、はじめはなかなかものがたりにはいりこめなかった。
場面がどんどんうつり、しかし説明はなく、状況がよくわからない。
そんなことはおかまいなしにマッカーシーははなしをすすめ、
やがて主人公のジョン・グレイディは相棒のロリンズと旅にでる。
旅といっても、馬にのって野宿しながらメキシコをめざしてすすむ、
西部劇みたいなスタイルだ。
野営するところをきめると火をおこし、
毛布にくるまってねむる。
しっかり食料を準備しているわけではないので、
食事はしたりしなかったり。
ジョン・グレイディも、ロリンズも口かずがすくない。
アメリカ人はひとつの理想として、
こういう男らしさを尊重するのではないか。
よけいなことはいわない。「いたい」なんて弱音をはかない。

旅をするうちに、はたらける農場がみつかり、2人はそこで世話になる。
ジョン・グレイディは、カウボーイとしてのうでがみとめられ、
充実した時間をすごす。
しかしそれもながくはつづかず、
やがてトラブルにまきこまれ、2人は壮絶な暴力の世界におくりこまれる。
どんな状況でも、ジョン・グレイディは
自分はやらなければならないことを淡々とこなす。
ひとにたよらない。あまえない。

ものがたりのはじめに、
「16歳の少年」とちゃんとかいてあるけれど、
旅にでてからのジョン・グレイディはとても少年におもえない。
20代後半の青年みたいだ。
まわりも一人前の大人としてあつかっている。
はやく成熟しないではいられない社会なのだろう。
じっさい、ジョン・グレイディはなんだってできるのだ。
酒がのめるしタバコもすう。
銃をうてるし、馬のあつかいは一流だ。
だからといって粋がっている青二才ではない。
女ともうまくやれるし、
なんと脱臼までなおせる。
なによりも、男としてふるまえるし、
ふるまうだけでなく、男として生きている。

マッカーシーの本をよむとわたしは姿勢をただされる。
成熟したおとなとして生きたいとおもう。
でも、そんなのは、ねがったところでかんたんにできることではない。
これまでどう生きてきたか。
いま、どう生きているか。
それだけに、世界はシンプルともいえる。
やるべきことをすればいい。

ものがたりのおわりでロリンズがジョン・グレイディにたずねる。
おまえ、これからどうするんだ?
出ていくよ。
どこへいく?
わからない。
油田で働いたらどうだ。えらく給料がいいらしいぞ。
ああ。知ってる。
おれの家にいたっていい。
まあ、でていくことにするよ。
この辺もまだ捨てたもんじゃないぜ。
ああ。わかってる。でもおれの住む場所じゃないんだ。
ジョン・グレイディのつよい精神と誠実なひとがらが、
まわりからみとめられないわけではない。
しかし、ジョン・グレイディはあまりにも自分にきびしい。
ジョン・グレイディがおちつける場所はあるだろうか。

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2015年03月23日

『火星の人』(アンディ=ウィアー) 火星で1年半いきのびるには

『火星の人』(アンディ=ウィアー・小野田和子:訳・ハヤカワ文庫)

どんな死に方はしたくないか。
毒ヘビにかまれる。
ライオンにたべられる。
水死。
飛行機事故。
いろいろと、できればさけたい死に方があるけど、
宇宙にひとりとりのこされるのは
かなり上位にくるのではないか。
もし自分が火星にひとりですごすことになったら、
どうすればよくて なにができるのか。
『火星の人』は、まさにそんな場面からはじまる。

ワトニーはアクシデントから火星にひとりとりのこされてしまう。
つぎに探索隊がやってくるのは4年さきであり、
しかも3200キロもはなれた地点だ。
外界との通信はとざされており、
NASAはワトニーが生きていることをしらないし、
生きのびるための情報をえることもできない。
どうかんがえても絶望的な状況だけど、
ワトニーは状況を整理し、のこされた1年分の食料で、
どうしたら4年間生きびられるかを工夫する。

これは火星でのサバイバル小説だ。
生きるのに必要な水・空気・食料をどう確保するか。
地球とふたたび連絡をとりあうのになにが必要か。
火星という、地峡とはまったくちがう環境のもとで、
さまざまな問題がつぎつぎにもちあがってくる。

たとえば水は、居住空間にそなえてある量ではたりないので、
自分でつくりださなくてはならない。
「幸いなことに、レシピはわかっているー水素を用意する。そこに酸素を加える。そして燃やす。ひとつずつ準備していこう」
酸素の確保には
まず手始めに二酸化炭素を集めて、高圧容器にためる。燃料プラントにハブから電気を供給してやれば、1時間あたり0.5リットルの液体二酸化炭素が無期限に手に入る。10ソル後には125リットルの二酸化炭素ができていて、それを酸素供給器に入れてやれば125リットルの酸素ができる。
それだけあれば250リットルの水がつくれる。ということで、酸素プランは完成。
化学記号がたくさんでてきて、なんのことかさっぱりわからない。
わからないけど、ワトニーがおおくのアイデアをおもいつき、
実行にうつす能力にたけているのはわかる。
ワトニーは絶対にあきらめない。
最悪だ。もう死ぬ!
よし、おちつこう。絶対なんとかなる。
をなんどもくりかえしてワトニーは生きのびていく。

ワトニーは必要なカロリーをおぎなうためにジャガイモもそだてる。
ジャガイモをそだてるにも、こまかな計算がもとになっている。
ぼくはアレス4がくるまでのあいだ、生き残りをかけて農作業に精を出し、毎日1100キロカロリーつくりださなくてはならないのだ。(中略)
62平方メートルの農地で1日につくりだせるのは約288キロカロリー。したがって、生きのびるためには現行計画の4倍近い量が必要ということになる。
土はある。水はつくった。
肥料には、火星の土に排泄物をまぜ、それに地球の土をかける。
地球の土のなかには何10種類ものバクテリアがすんでいるので、
死んだ土を生きた土にかえてくれるからだ。

しかし、ジャガイモをそだてたからといって、
ジャガイモだけをたべつづけられるものだろうか。
補助栄養剤により、ビタミンとタンパク質は確保できるものの、
必要なカロリーをとりこむためには、いちにちに10個のジャガイモをたべなければない。
火星での生きのびることは、すべて計算をもとになりたっているので、
お腹をこわしてカロリーを吸収できなければ、計画がくるってくる。
ワトニーが生きのびれるかどうかは、
ゆたかなアイデアと科学的な知識だけでなく、
じょうぶな胃腸かどうかにもかかっていた。

ワトニーは、とにかく生きのびることで精一杯だ。
生きるだけでも、まるでいじわるをするみたいに
おもいもしない問題がでてきて、あたらしい課題をワトニーにつきつける。
ワトニーは、ひとつずつ難題をクリアーし、
救出用の船にたどりついた。
しかし、そこでもまた絶体絶命の状況がまっていた。

ワトニーをすくいだすために、
おおくの関係者が膨大な時間をついやして計画をたて、
必要な物資と費用も天文学的な数字にのぼる。
なぜそれだけのコストを人類はワトニーにみとめたのか。
ぼくを生かすためにかかったコストは何億ドルにもなるはずだ。ぼかな植物学者ひとりを救うために、なんでそこまで?
うん、オーケイ。ぼくはその答えを知っている。一部はぼくが象徴しているもののためだろうー進歩、科学、そしてぼくらが何世紀も前から描いてきた惑星間宇宙の未来。だが、ほんとうのところは、人間はだれでも互いに助け合うのが基本であり、本能だからだと思う。
いいことばだ。ほんとうにそうであってほしい。
本書は『おすすめ文庫王国2015』で2位(SF部門では1位)にえらばれている。
SFによわいわたしにも、さいごまでおもしろくよめた。

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2015年03月22日

『怪しい彼女』70歳のこころで20歳を生きるあやしさがおかしい

『怪しい彼女』(ファン=ドンヒョク監督・2014年・韓国映画)

はじめてまともに韓国映画をみる。おもしろかった。
あんなにわめかないと(さけばないと)
コミュニケーションできないのかと
はじめのほうは、わざとらしさ・さわがしさにだいぶひいてしまった。
スクリーンに集中できたのは、主人公の女性がわかがえってからだ。

70歳の女性マルスンは、まわりから年よりあつかいされ(儒教の国であっても)、
からだも頭もおもうようにはたらかなくなり、
むかしをなつかしむさみしい時間がおおくなっている。
もっとふけこむまえに、写真をとっておこうと
たまたま目についた写真店にはいると・・・。

70歳がきゅうに20歳になったのだから、
外見はわかわかしくてもしぐさや価値観はふるくさく、
どうしても「怪しい」ふるまいになってしまうのがおかしかった。
わかい女性が年よりじみたことをいっても
まわりはユニークなひととうけとめてくれる。
反対に、70歳の女性が20歳みたいにふるまったら
気もちわるがられるだけなのに。

自分のからだがほかのひとといれかわるはなしはあるし、
むかしに(あるいは未来に)タイムスリップするのもよくみかけるけど、
自分だけが50歳わかがえり、まわりはいっしょ、という設定がおもしろかった。
SFにならず、なぜかリアリティがある。
10〜15歳わかがえるのだとアンチエイジングのはなしだけど、
50歳もいっきょにかわってしまえばべつの世界だ。
マルスンはもういちど20歳を体験することで、
まずしくてつらかった時代にはあじわえなかった人生をたのしむ。
わかがえったマルスンがうたうと、
おおぜいのひとのこころにひびく。
むかしの苦労をおもいながらうたうのだから、
そりゃソウルがこもってくるだろう。

バンドでうたううちに、歌番組で人気をあつめ、
コンサートに出演するまでになり、
マルスンは仲間たちと「ありえたかもしれない人生」を生きる。
脚本がよくねられ、ラストシーンまでテンポよくひっぱっていく。
おわりのほうで、仲間のおじいさんが「青春写真館」にいくオチがよかった。
あそびごごろ、ふざけ方がよくわかっている監督だ。
「まちがいをおこすまえに、はやく献血にいきな」がおかしい。
マルスンは、20歳でも70歳でも、いつもかわらずマルスンだ。
「たのしい夢をみたよ」「あんなにたのしい夢をみたのははじめてだ」
マルスンも家族も、さいごには ひとかわむけてあかるくなった。

もしわたしが20歳のもどったら なにをしたいだろう。
うたっておどれるわけでもないし、
格別にやりたい夢なんてかんがえなかった。
容姿については、70歳ならともかく、
50台のいまは まだ切実にわかさをもとめるまではいってない。
結局おなじようなさえない人生をくりかすのではないか。
「ありえたかもしれない」もうひとつの人生をおもいえがけない。
あんがいわたしはいまの人生に満足しているのかもしれない。

そうえいば、数週間まえの松江は、竹島をめぐってさわがしかった。
右翼の宣伝車がたくさんやってきて、領土などについてはなしていた。
韓国の映画をみるというあたりまえのことが
あたりまえでなくなる社会はたのしくない。
はじめてみた韓国映画は、日本の作品とはちがうエネルギーにあふれていた。
さいごのおとし方もきれいにきまり、いい気分で席をはなれた。

posted by カルピス at 11:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月21日

日本語を勉強し、原文で村上さんの本をよみたいという外国人ファンの熱意

「村上さんのところ」には、日本人だけでなく、
外国人の読者からもたくさんのメールがとどいているようだ。
英語でかかれた質問がこれまでにいくつものったし、
「勉強中です」という日本語でかかれたものもたくさんある。
漢字圏の国だけにとどまらず、いろいろな国から
日本語でかかれた質問がおくられている。

文面には、村上作品にたいするあついおもいと、
村上さん本人への敬意があらわれており、
よむもののこころにストレートにとどく。
それらのファンに共通するのは
「村上さんの本を日本語でよみたくて」
日本語の勉強をはじめたことだ。
村上さんの本の魅力が世界じゅうのひとびとを夢中にし、
日本語をまなぼうという熱意までかきたてている。

わたしにも、翻訳された本ですきなものはたくさんあるけれど、
それを原文でよみたいとおもったことはない。
そのまえにあきらめがさきにたち、
現実可能な選択肢として意識にのぼらない。
日本語を勉強してまで村上作品を原文でよみたいという読者もすごいけど、
彼らにそうした気もちをひきおこす、村上さんの本のちからもすばらしい。

日本語を勉強するときに、
はなしたり、きいたりするのは、そうむつかしくないとおもう。
発音が簡単だし、文法もシンプルだ。
しかし、日本語をよみ、自分もかこうとした場合は
漢字・ひらがな・カタカナがいりまじった表記法、
なかでも漢字がおおきな壁となって
日本語学習者の意欲をなえさせるのではないか。
ひとつの漢字がなんとおりにもよめたり、
おくりがなが一定でないので、辞書をひくのにも苦労する。
そのあつくたかい壁にもたじろかず、
村上さんの本をよもうと日本語を勉強しているひとが
こんなにもたくさんいるなんて。

よく、外国語を身につけるのにいちばんいい方法は、恋愛をすることだ、
なんていわれるけれど、
原文でよみたいという動機も、非常にたかいレベルで学習意欲をかきたてるようだ。
「学習」というよりも、そのひとたちにとって
どうしてもそれをせずにはおれない、
つきうごかされるような あつい気もちとなっている。

日本人は何年も英語を勉強するのに なかなかはなせないのにたいし、
外国人はずいぶんはやくほかのことばになれていく。
その不思議についてよく話題になるけれど、
どれだけ本気でそのことばをしりたいとおもっているか、が
おおきな理由であることを、村上さんのファンたちはおしえてくれる。
彼らはすばらしい意欲で日本語の勉強にむかっている。
そのエネルギーは、村上さんの本をもっとふかくしりたいという熱意から生まれている。

ひらがながおおく、よみやすい質問がのったとき、
「お、なんだかわたしがかいたみたいな質問だな」とおもったら、
7歳の女の子からのメールだった。
わたしたちは、大きくなるのがたのしみです。大きくなったら、じぶんたちで本をかいにいきます。げんきで、また本をかいてください。

http://www.welluneednt.com/entry/2015/03/07/173100
これもまたこころにとどく、すばらしい手紙だ。

posted by カルピス at 10:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月20日

世界征服をめざすのをやめたら ただのなかよしグループ

「秘密結社 鷹の爪」をみていたら、
例によって総統と吉田くんがいいあいしていた。
吉田 もういいかげん(世界征服なんか)あきらめたらどうですか。
総統 あきらめないよ。
   あきらめたらわしらたただのうたとおかしがすきな、
   なかよしグループになっちゃうじゃないか。
吉田 いーじゃないですか、じっさいそうなんだし。

「世界征服をめざすのをやめたらただのなかよしグループ」
が胸にささる。
なかよしグループを、ただのオヤジにかえてもいい。
総統は、ただこの一点で気もちをたもっている。
そして、みんなあんがいそんなものかもしれない。
◯◯ができるから、
◯◯があるから、
わたしはそれなりの存在なのだと、
事実かどうかにかかわらず、こころのささえにしている。
そんなときに「いーじゃないですか、じっさいそうなんだし」
とつきはなされると、ちょっとこたえる。

わたしの場合はなんだろう。
トレーニングをやめたらただのオヤジか。
ただのオヤジでわるいか、という議論があるのはわかるけど、
たいていのひとはただのオヤジといわれたくないはずだ。
本をよまなかったら、ただのオヤジ、もけっこうきつい。
鷹の爪をみなかったら、ただのオヤジ、
というのが いちばんわたしの本質をついていたりして。

こうしてみると、総統と吉田くんとの会話は、
おおくのひとが自分にもおもいあたるこころのうごきであり、
問題提起ととらえることができる。

1.もういいかげんあきらめたらどうか
2.あきらめない。あきらめたらただの◯◯になるから
3.じっさいそうなんだから、いーじゃないか

それぞれもっともな発言で、それなりに理にかなっている。
「じっさいそうなんだから」と引導をわたされた総統はどう反応したか。
それが、1から3までをメモするのにせいいっぱいで、
肝心であるそれからの展開をすっかりわすれてしまった。
どうせたいして内容のある反論ではないだろうが、
なんだか気になってきた。
吉田くんに「いーじゃないですか」といわれたときのきりかえしを
自分なりにかんがえてみたい。

posted by カルピス at 13:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月19日

「とことん暑苦しい音楽」がはじまった・・・とおもったら、再放送だった

ひさしぶりに子どもたちをおくる仕事が6時をすぎた。
NHK-FMをきいていたら、おなじみのイントロがながれてくる。
「とことん暑苦しい音楽」だ。
しらなかった。
あの番組が、またはじまっていたのだ。
ちょっといやなことがあった日で、気もちがふさいでいたけど、
1曲目(あとでしらべると「Wild Thing」だった)ですぐごきげんになる。
「Smoke on the Water 」なんて、
これからとんでもなくいかれた演奏につっこんでいくんだという予兆がすごい
(かんがえてみれが、「すごい」のは番組ではなく、演奏なのだけど)。
血がさわぎ、アドレナリンってなんなのかがはっきりわかる。
DJホットマンのしゃがれ声もいつもどおりだ。
世界はひろく、ロックはふかい。
つまらないことで下をむいているのは、
あつくるしい音楽の興奮をしらないアホだ。
DJホットマンの世界にあそんでいると、たいていのことがどうでもよくなる。

うれしくて、スキップしたい気分でネットをみると、
残念ながら、きょねんのいまごろながれていた番組の再放送だった。
今夜から0時の番組をたのしもうとおもったのに、
番組表にのってるのはヒロシの「とことんやさぐれ・ふてくされソング」(これも再放送)で、
「とことん暑苦しい音楽」は夕方だけ再放送されている。
どうやら「とことん」シリーズはいま、
再放送でつないでいるみたいだ。
「とことん暑苦しい」は、あれだけ特徴のある番組だから、
きくひとをえらぶにしても、おおきな反響があったのではないか。
別の番組でもいいから、またDJホットマンの自由なおしゃべりと選曲をたのしみたい。

そういえば、深夜に「とことん暑苦しい音楽」をきいたあと、
ガラッと雰囲気をかえて「名曲アルバム」がはじまるのがおかしかったものだ。
あのギャップがあるからのぼせすぎなくて ちょうどよかったのかも。
ロックしたあと世間をしる、みたいな。

posted by カルピス at 10:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月18日

まつがっても、ま、いいか

FM山陰をきいていたら、
女性の司会者がつぎにかける曲名をまつがいて紹介し、
あとでそれについてつっこまれたときに、
ぜんぜんわるびれずに、
「漢字と数字とかたずけがにがてな松島彩です」と
サラッとながしたのに感心した。
ふつうだったらあやまりたおしたり、
「なかったこと」にしてごまかしそうな場面で、
司会者としてなかなかあんなにひらきなおれない。
松島彩さんは、自分のそんなおおざっぱな面を肯定的にとらえ、
へんになおそうとしないのだろう。
ラジオをきいていると、おなじようなキャラの司会者がおおくておもしろみがないけど、
松島彩さんのまつがいとその対応はいいかんじだった。
こうしたひらきなおりを美点としてとらえるかどうかは微妙なところで、
いつもそうやって自分を肯定していたら
いきづまりもはやいかもしれない。
でも、このひとはこれでいいんだ、とおもわせるのがそのひとの特徴なのであり、
わたしは松島彩さんの断固としたいいかげんさを評価する。

ぜんぜん別のはなしで、
このまえスパゲッティをゆでようとすると、
いつものメンよりかなりほそいことに気づいた。
まつがえて、ちがうふとさのメンをかっていたのだ。
ディ=チェコのNo9でふとさは0.9ミリ。
いつもはNo11をつかうので(1.6ミリ)、
番号はたった2つのちがいだけど、ならべてみるまでもなく、
ずいぶんほそい。
ほそいだけに、たった2分でゆであがるらしい。
ほそすぎるのでは、といままでつかわずにいたけれど、
これはこれで、あんがいいいかも。
スパゲッティのいちばんの弱点である、ながすぎるゆで時間の問題をクリアーできる。
2分なんて、ほんとにあっという間だ。
なにしろカップメンよりはやい。
弱点は、スパゲッティをたべている気がしないことで、
このほそいメンにとくにあったソースをつかわないと(なんだろう?)
パスタでもないし、かといってもちろんソーメンでもない、みたいなかんじになる。

いつものようにゆでたてのメンにバターとしょうゆをいれてまぜ、
そのうえにノリをちらす。
ほそいので、すぐにバターをすいとってしまうのか、
ずいぶんボソボソした食感だ。
まずくはないけど、期待している味とはだいぶちがう。
ちがう料理だとおもえばいいんだと、
自分にいいきかせながらたべる。

松島彩さんのひらきなおりと、
スパゲッティのまつがいに なにか関係があるのか。
いかにも教訓がありそうにまとめようとしたけど、
どうも共通点は「まつが」ったことだけで、
たいしたはなしにしあがりそうもない。
まつがっても、たいしたことない、というはなしなので、
これでいいのだ、という方向でまとめたい。

posted by カルピス at 11:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月17日

「寒さの正体」が ”「ワンランク上」というワナ”ではおもしろみがない

14日の朝日新聞に、稲垣えみ子編集委員の記事「寒さの正体」がのった。
サブタイトルは”「ワンランク上」というワナ”だ。
稲垣さんは、「原発事故以来、電気に頼らぬ生活とは何かが知りたくて、冷暖房を使わぬ暮らしをして」おり、
エアコンもコタツもホットカーペットも、すべて処分し、家にはないという。
湯たんぽをつかったり、お湯をわかしてあたたまる工夫が、
”やみつき「暖房ゼロ生活」”という記事で きょねんの1月に紹介されていた。
けしてさむさにつよい体質なのではない。
私たちは経済成長とともに「ある」幸せを求めてきた。(中略)でも実は、「ない」中にも小さな幸せは無限に隠れているのだ。
という発想の転換だ。
今回の記事は あれから1年たち、稲垣さんはついに「寒さの正体」をみやぶったという。

「暖房ゼロ生活」では、稲垣さんがそれまでだいすきだった風呂が、
苦行の場となってしまった。
「つい長湯になり湯が冷めてくる→わかし直す→長湯→冷める→わかし直す→長湯→冷める・・・ああ無間地獄」

稲垣さんは、どうしたものかと頭をかかえるうちに、
苦痛の原因は「寒さ」そのものではないのではないか。「寒さ」と「暖かさ」の差が苦しみを生み出しているのではないか。
と気づく。
じっさい、脱衣場と風呂場の温度差が、「ヒートショック」として脳梗塞などをまねき、
おおくの方が救急車ではこばれているという。
人はそこそこの豊かさを手にいれてもなお、差をつけることで更なる豊かさを追求したいのだ。差がなければ豊かさを実感できないのかもしれない。冷暖房だってそう。温度差をつけて、豊かさをかみしめる。で、その差は本当に幸せをもたらしたのか。
私たちは一体何を求めてきたのだろう。

なんだか含蓄のあるはなしにおもえるけど、
よくかんがえると、つめたいビール、あたたかいお茶など、
温度「差」をあじわうことはそのまま快感であり、
いまさらそれを「その差は本当に幸せをもたらしたか」
なんていわれてもピンとこない。
ほかの場面でも、たとえば観光や食事だって、
いつもとちがう「差」を体験することが魅力なのであり、
その「差」をあじわうことが”「ワンランク上」というワナ”といわれては
たのしみに水をさされる気がする。

快感というゆたかさをもとめた結果がヒートショックにつながったとしても、
それはそれ、快感は快感であり、
なにもかもをいっしょくたにして
”「ワンランク上」のワナ”とうたがっては生活の質がまずしくなる。
稲垣さんがいわなくても、”「ワンランク上」のワナ”的な発想は、
すでにさんざんきかされてきた。
稲垣さんには、気もちのもちかたではなく、
具体的にさむさをしのぐテクニックを工夫してほしかった。
江戸時代までは、だれもが「暖房ゼロ生活」でやっていたわけで、
当時の生活に現代の技術をくわえたら、
もっと快適な「暖房ゼロ生活」の環境がつくれないだろうか。
稲垣さんの記事は、結局のところ気もちのもちようで さむさをやりすごそうとしているようにおもえる。
わたしにはとても無理だと、ためしてみるよりも あきらめがさきにたってしまった。
来年のいまごろ、稲垣さんがどんな記事をのせるかをたのしみにしている。

posted by カルピス at 20:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月16日

県の説明会に参加する「日本には国枝慎吾がいるじゃないか」

「障がい福祉関係事業者等説明会」に参加する。
県の障がい福祉課(島根県は「障がい」という表記をえらんでいる)
がひらく会で、
国の施策が変更になったときなど、
県内の事業所をあつめてこうした説明会がひらかれる。
来年度は、3年ごとのふしめの年になるため
サービス報酬がかわるなど、おおきな変更がいくつもある。
事業所をあつめておきながら、まだきまってないという説明がよくなされる。
国の最終的な決定が、3月末にならないとわからないため、
県としても歯ぎれのわるい説明となるのはしかたのないところだ。
3年前もこうだった。
放課後等デイサービスがはじめてうごきだすときで、
4月からの事業が3月中旬になってもまだわからないことがあり、
事業所もたいへんだけど、県の担当者も苦労されていた。

来年度の障害福祉サービス予算案は1兆849億円で、
これは10年前の2倍以上の金額となっている。
障害者が2倍にふえたわけはないので、
なにかがこの10年ではっきりかわったのだ。
以前にはなかったサービスがいまはつかえるようになっているし、
家族だけで世話をするのがあたりまえだったのが、
いまは社会全体でみる意識になってきた。
それにしても10年で2倍はすごい。
いいことなんだろうけど、いいとばかりはいってられない数字だ。

会のおわりのほうで、「障害者差別解消法」についての説明があった。
「障害を理由とする差別の解消の推進に関する法律」ということで、
2013年の6月に公布・一部施行されており、
2016年の4月1日に全体が施行される。
この法により、「合理的な配慮」がなされなければ法的に「差別」したとみなされる。
たとえば、視覚障害者がいるとわかっているのに
資料をよみあえげて説明しなかった、とか、
弱視の方に拡大コピーを用意しなかった、がこれにあたる。
わたしは介護業界ではたらきながら、こうした法律があることもしらなかった。

障害者スポーツのはなしになったとき、
日本の記者がテニスのフェデラー選手に
「なぜ日本のテニス界には世界的な選手がでてこないのか」と
たずねたはなしが紹介された。
フェデラー選手は、
「なにをいってるんだ、日本には国枝慎吾がいるじゃないか」
とこたえたという。
とてもいいはなしだけど、はずかしくもなる。
国枝慎吾選手は車いすテニスで圧倒的なつよさをみせつけているのに
わたしは名前すらしらなかった。
たとえば2020年の東京オリンピックはパラリンピックとセットなのに、
おおくのひとは健常者の大会ばかりに目をむける。
錦織圭選手も東京オリンピックも、わたしはたいして関心がないけれど、
国枝慎吾選手とパラリンピックへの理解のひくさは
ひとりのスポーツ愛好家としてはずかしいレベルだ。
「障害者差別解消法」でも、差別なんてしてないといいながら、
わたしの頭には差別的な価値観がすりこまれているかもしれない。
いつになくもりだくさんの説明会なのはよかったけれど、
自分の意識のひくさにがっかりした日でもあった。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 児童デイサービス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月15日

『本の雑誌 4月号』荻原魚雷さんの ”「日課」が作品をつくる”

『本の雑誌 4月号』のおすすめは、荻原魚雷さんの
”「日課」が作品をつくる”。
荻原さんは自分の怠惰な日常をまくらに、メイソン=カリー氏の
『天才たちの日課 クリエイティブな人々の必ずしもクリエイティブでない日々』(金原瑞人・石田文子訳・フィルムアート社)
を紹介している。
天才たちはどんな日常的な習慣のもとにすぐれた作品をかきつづけたのか。
荻原さんの気づきはこうだ。
 
なんとなく薄々そうではないかとおもっていたのだが、長期にわたって創作活動を持続している人たちは、規則正しい生活を送っている人が多い。あと仕事依存症ではないかとおもわれる人もけっこういる。

「日常的な習慣」といえば村上さんだ、とおもってよんでいたら、
ほんとに村上さんがでてきた。
 
日本の作家では、村上春樹がとりあげらえている。長編小説に取り組んでいるときは、午前四時に起き、五、六時間ぶっとおしで執筆し、昼すぎにランニングか水泳をする。そのあと雑用をこなし、本を読んだり、音楽を聴いたりして、午後九時に寝る。
「この日課を毎日、変えることなく繰り返します」

村上さんの規則正しい日課は筋金いりだ。
「村上さんのところ」によせられたある質問に、
村上さんはこうこたえている。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/03/14/113400
規則正しく生活し、規則正しく仕事をしていると、たいていのものごとはやり過ごすことができます。誉められてもけなされても、好かれても嫌われても、敬わ れても馬鹿にされても、規則正しさがすべてをうまく平準化していってくれます。本当ですよ。だから僕はできるだけ規則正しく生きようと努力しています。朝 は早起きして仕事をし、適度な運動をし、良い音楽を聴き、たくさん野菜を食べます。それでいろんなことはだいたいうまくいくみたいです。

時代の波にうまくのっかって、パッとうれたのではなく、
村上さんのすぐれた作品は、規則正しい日常をつみかさねた結果である。
まさに「日課が作品をつくる」。
とくに確信的な夜型でもないのに、なんとなくぐずぐずしてるうちに
いちにちをムダにすごしているわたしとしては耳のいたいはなしだ。

もちろん、村上さんみたいな朝型ばかりではなく、
夜型の作家も紹介してある。
 
デカルトも夜型だった。朝寝が大好きで、目がさめてからもベッドの中でぐずぐずし、「優れた頭脳活動をするには、怠惰な時間が不可欠」と考え、「ぜったいに働きすぎない」ことを心がけていた。

夜型の知的生産者といえば梅棹忠夫さんで、
ひるごろにおきだして午後からの会合にでかけ、
みんながつかれて頭がよくまわらなくなったころに目をさまし、
会のながれを自分のおもうほうにひっぱっていたと
加藤秀俊さんが紹介している。
すくなくとも、梅棹さんはけして朝型ではなかった。

ひくいほうにながれるわたしは、
どうしても自分に都合のいいやり方や発言をとりいれて、
なまけがちな日常の理由にしてしまう。
『天才たちの日課』をよんでみたいような、みたくないような。

posted by カルピス at 11:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月14日

ネコがいたらとりあえずなんとかなる「村上さんのところ」

「村上さんのところ」では、
村上さんはよく「猫をかえば?」とアドバイスをされており、
ほとんどの問題はネコによっておおむね解決できるみたいだ。
そのなかでも黒ネコへの評価がたかく、
いくつもの回答に
気の良い黒猫が飼えるといいんですが
とある。
わたしはいちど黒ネコとくらしたことがあり、
黒ネコはなんだか表情がよみとりにくいような気がしたけど、
村上さんは黒ネコのどこに魅力をかんじているのだろうか。

「村上さんのところ」はジャンルわけが
「猫」あるいは「ヤクルト・スワローズ」関連
というくくりになっている。
猫とスワローズを、おなじカテゴリーにもってくるなんて、
かんがえてみたらムチャなはなしだ。
ネコずきなひともスワローズファンも、
おたがいに「あいつといっしょにするな」と
おこっているのではないか。
なぜネコが「その他おおぜい」みたいに
雑にあつかわれてしまったのだろう。

先日アップされた「うちのアホ猫」は、
http://www.welluneednt.com/entry/2015/03/12/113400
うちの猫が、鰹節の袋を食い破り、飲み込みきれず猫草ごと調理台に吐き散らしたうえ、鰹節パワーで興奮して、猫パンチの連打を繰り出してきます。
村上さん、うちのアホ猫を叱って下さい。

という、いくらか問題がありそうなネコについての相談だった。
ネコらしいふるまいがおかしいけど、
そんな「アホ猫」にも村上さんは基本的にやさしくて、
「あきらめてかわいがってやってください」
と回答している。

どんなにアホ猫であっても、どんなにかわいい子ネコでも、
ネコとさいごまでつきあうと、人間の介護とおなじように、
どうしても食事と排泄への配慮が必要になる。
死ぬときは「ねむるように」いってくれるのをねがうけれど、
いいとこどりばかりはできず、
だんだんと年おいてよわっていく過程で
おしっこの問題になやまされることがおおい。

きのうベッドをととのえていたら、ふとんがぬれているのに気づいた。
ピピがおしっこをしていたのだ。
ふとんをひろげてみると、いくつもシミができてるので、
いちどだけの失敗ではない。
ひるまずっとペッドですごした日がなんどかあり、
そのときはふとんのなかでおしっこをしていたらしい。
さむくてトイレにいくのがめんどくさい、というよりも、
ピピの場合はからだがよわっているために、
トイレにいくだけのげんきがないのだろう。
ぬれているふとんを、アイロンとストーブでかわかした。

ピピがまだわかくげんきだったころは、
ときどきじゅうぶん「アホねこ」だった。
いまはもうごはんをたべ、トイレにいく以外は、
いちちにちのほとんどを コタツやベッドでまるまってすごしている。
このままだんだんとたべる量がへり、
ねむる時間がながくなるのだろう。
ピピのおかげでずいぶんたのしいおもいをさせてもらった。
おしっこの被害に気をつけて、さいごまでつきあわせてもらおう。
「気のいい黒猫」ではなかったけど、
ピピとであうことができて わたしはしあわせだった。
村上さんのアドバイスにあるように、
ピピがいてくれたおかげで わが家がどれだけすくわれたことか。

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2015年03月13日

悪魔がささやく不安

末井昭さんが著書『自殺』のなかで、
悪魔がささやくについてかいている。
「お金があれば神のようになれるぞ」とあなたの(僕の)耳元でささやくのが悪魔です。(中略)悪魔は不安を人に植えつけます。人の不安を煽ることは商売の基本です。病気になったらどうしようという不安を煽り、保険やサプリメントや健康グッズが売れ、病院も儲かります。老いて醜くなるという不安があるから、美容整形や化粧品やアンチエイジング関連が繁盛します。負け組になりたくないという不安があるから、学習塾や教育関係の商売が成り立ちます。
 あらゆる不安から逃れたいがために、みんなお金に執着します。しかし、悪魔の支配下でのことですから、いくらお金を貯めても、不安はどんどん増幅されるようになっています。(『自殺』p135)

このまえベトナムとラオスへでかけたとき、
わたしはせっかく旅行にきていながら、
かたい気もちがなかなかほぐれなかった。
ほかの旅行者がいくようなところばかりに目がむいて、自由な発想でうごけない。
のりものの予約をしても、むかえがちゃんとゲストハウスにくるかどうかなんてことまで心配になる。
悪魔がでてくるまでもなく、自分ひとりで旅行をまずしくし、ずっこけていた。

心配しなくてもなんとかなることに、あとになって気づく。
むかえがこなくてもたいしたことではないし、
そのときに対応をかんがえたらいい。
なんであんなに心配ばかりしていたのだろう。
心配すると発想がまずしくなり、フットワークがにぶる。
もしうまくいかなくても、どうってことなくて、
そのことをずっと気にするほうがよっぽどもったいない。
心配していいことなんて、なにもなかったし、
心配しなくても問題はおこらなかった。
わかいころのほうが自由にうごけたのは、
こわいものがなく、さきの心配なんて、おもいもしなかったからだ。

にたようなことで、
堀江謙一さんが「想像力がいちばんこわい」
というようなことをいっていた。
ちいさなヨットで海にのりだすときに、
もし嵐がおそってきたら、とか
もしトラブルで水がなくなったら、とか
そんな想像が頭をかすめると、海にでるのがこわくなってしまう。
想像しなければ、なにもおこらない。
かんがえないほうがうまくいく、というのもおなじで、
ああだこうだかんがえてしまうと、
不安や心配な気もちになって、足がまえにすすまなくなる。
かんがえずにおれないのが、人間のこまったところなのだけど。

そんなこといっても、と悪魔がまたささやく。
なにかにそなえるのはもっともなことだし、
みじめな老後をむかえてもいいのか。
それでもわたしは、心配しない生き方をえらびたい。
断言するほとつよくないので、えらびたいとおもう。
心配の追放がわたしのねがいだ。
うまくいかなかったら、そのときにかんがえる。
自分が心配してもどうしようもないことがおおいし、
心配してどうにかなるものは、まえもって心配する必要がない。
わたしはいったいなにを心配しているのだろう。

posted by カルピス at 11:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月12日

車とつきあうときの距離感

きのうは親戚の法事があり、車ででかける。
わたしのホンダ・フィットは、
2年ちかくまえに中古でかったときから、
いちどもあらってないので、ずいぶんよごれてしまった。
あんまりきたない自動車では、
法事にふさわしくないだろうと、
なんにちかまえにざっとあらってみた。

バケツに水をくみ、スポンジをその水につけて、よごれたところをふく。
たったそれだけで、みちがえるようにきれいになった。
「みちがえる」ほどきれいになったとおもうのは、
ふだんどれだけよごれているかのあらわれであり、
マメにワックスをかけているひとからみれば、
はなしにならない「きれいさ」だろう。
でも、それで用がたりるわけだから、
バケツとスポンジの洗車でじゅうぶんだとおもった。

とかいていて、そういえば、車をていねいにあらい、
ワックスまでかけるひとを、あまりみかけなくなった気がする。
わたしがわかいころは、すこしのよごれもみおとさないように、
全精力をかたむけて車をひからせているひとがめずらしくなかった。
そんなやり方で大切にする神経がわたしには理解できず、
いまでもあまりすきな風景ではない。
そうしたひとをみかけないのは、
車がそれだけあたりまえの存在になったからだろうか。
わたしがワックスをかけているひとをみかけたのは、
これからバブルに突入しようという、
うかれていた日本の準備期間だったから、かもしれない。
女の子とつきあう必需品として車にお金をかけ、
うごく不動産みたいだった車の時代は、
もうとおくへいってしまった。
いまは車なんて交通機関のかわりに移動できればよく、
できるだけガソリンをくわなければありがたい、
みたいな必要悪の存在だ。

ほんのちょっとあらっただけで
きれいになったフィットに満足していたのに、
よくみると、そうじをやりのこした窓のよごれが気になってきた。
わたしはもっとフィットにかがやいてほしくなり、
つぎの日もういちどバケツとスポンジをひっぱりだして、ガラスの部分をきれいにふいた。
車なんてうごけばいい、とうそぶいていたのに、
10年以上まえの型である初期のフィットをなんどもあらうのは、
けっけこうまずしい風景だなーと、自分でつっこむ。
いいんだ。わたしは道具を大切にする常識人だから、と
貧乏にスポンジをうごかす自分にいいわけする。

せっかくきれいにしたフィットだけど、
山陰の冬によくある雪まじりの雨で、
法事のまえにまたもとのよごれた中古車にもどってしまった。
これからもフィットをあらいつづけるか、
いっときのかんちがいにおわるのか。
ワックスまではのぼせずに、
バケツとスポンジにとどめるのがわたしの美学であり、
ときどきよごれをおとすぐらいのつきあいがちょうどにあっている。
さすがに2年にいちどでは、ちょっとすくなかったか。

posted by カルピス at 11:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする