2015年03月11日

吉行淳之介さんが「きゃっとさけんでろくろ首になる」とたとえた不意にやってくるはずかしい記憶

「村上さんのところ」によせられる相談で、
わかいころの失敗がおもいだされ
はずかしくてならない、みたいなのをときどきみかける。
それにたいする村上さんの回答はそれぞれで、
たしかにケースバイケースにかんがえるしかないのだけど、
基本的にこの手の記憶はどうしようもない。
おこってしまったことはけせないし、
やりなおせるわけでもない。
だからこそ、うまくやりすごすやり方を
いろんなひとが村上さんにたずねたくなるのだろう。
だれもがやってることなのに、
自分のふるまいは、とりわけひどいあやまちとしておもいだされてしまう。

こういう相談をよむと、
吉行淳之介さんがエッセイにかかれていた
「きゃっとさけんでろくろ首になる」をおもいだす。
ずいぶんまえによんだ本なので、うろおぼえだけど、
不意におとずれる おろかなふるまいの記憶を、
吉行さんは「きゃっとさけんでろくろ首になる」と表現したのだ。
吉行さんのことだから、おそらく女性がらみの失敗だ。
あの吉行さんにして、そうしたおもいでがあるというのは意外だけど、
そうしたときの心情を「きゃっとさけんでろくろ首になる」とは
うまくあらわしたものだと感心する。
まったく、首がかってにながくなっていくような、逆上したくなる気分だ。
「ろくろ首」になったときの対応までかかれていたかはおぼえていない。
人生の達人としてしられる吉行さんの奥ゆきのある人格は、
「ろくろ首」級の失敗にまなび、きたえられた たまものなのかもしれない。

もちろんわたしにもはずかしい失態がすくなからずあり、
だれにもしられたくないし、もちろんいいたくもない。
ときどきその残念な記憶がよみがえって、いまだに「ろくろ首」となる。
そうした おもわず大声でさけびたくなるようなあやまちは、
わかいころにかぎられるようで、
年をとるにつれて成長するというか、みのほどをしるというか、
「ろくろ首」にならずにはおれない ひどい失態はしなくなった。

冒頭でもかいたように、
「ろくろ首」には効果的な対応がなく、
基本的には時間がつらさをうすめてくれるまで、まつしかない。
しかし、こうした相談がおおいことからもわかるように、
いつまでたっても、ときどき不意におもいだされ、
「ろくろ首」のおもいをするのがおそろしいところで、
おそらくゼロにはならない。
そうやって、ひどい記憶につよくいましめられるので、
ひとはなんやかやとまなんでいくのだろう。

「ろくろ首」にはならないけど、
この時期に自分のふがいなさをおもいしるのは、
震災への支援がぜんぜんできなかったことだ。
職場としても個人でも、今年はどちらもうごけなかった。
目標にかかげながら かたちにならなかったのだから いいわけのしようがなく、
自己嫌悪にじわじわとうちのめされる。
得意のひらきなおりも、こればっかりは
ますますキズをふかくするし、
ふとんをかぶってやりすごそうとしても、
ダメ人間の烙印がそこらじゅうにおされるばかりだ。
こういうときのはずかしさは、どんなたとえをしたら気がらくになるのだろう。

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2015年03月10日

『血と暴力の国』(コーマック=マッカーシー) かわいた文体の魅力

『血と暴力の国』(コーマック=マッカーシー・黒原敏行:訳・扶桑社)

コーマック=マッカーシーの本が
「村上さんのところ」でとりあげられていた。
すごくおもしろそうだ。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/03/01/173700
図書館にあった『血と暴力の国』をよんでみる。

よけいなことはしゃべらない。
ことばすくなにすこしひねったことをいう。
ことばはかわいているけど、こころには血がかよっている。
これはきわめつけのハードボイルドだ。
なによりも文体がかわっていて、
みじかくことばがきられれ、リズムよく
どんどんはなしをさきにすすめていく。
心理描写はなく、ひとのうごきがこまかくかきこまれている。
まんなかくらいまでよんだとき、
やっとこの小説は「テン」をつかわずにかかれているのに気づいた。
すごくながい文章でもテンがない。
会話でよくつかう「◯◯、といった」みたいなのもほとんどない。
会話をあらわすカギカッコがこの本にはみられず、
みじかいことばのやりとりだけがならべられている。
卵はいくつ使った?
四つよ。
トーストはもうないのか?
あと二枚焼いてるから。ねえ腕どうしたのよ、ルヴェリン?
どういう答えが聞きたい?
ほんとの答え。
ときどきとんでもなくながくて テンのない文章がでてくる。
おれがその男におれはあんたに侮辱されたんじゃないあんたのためにできるだけのことをしたと言いにきたんだあんたがやったんじゃないと思ってるからこの結果は残念だと思っていると言うと男は後ろにそっくり返って笑ってからこう言った。
こんなにながい文章なのにテンがつかわれておらず、
それで意味がわかってしまうのだから、
テンとはいったいなんなのだろう。
テンがないのによんでいて違和感がなく、
この本にはこの文体がぴったりのようにおもえてくる。
わたしは本多勝一氏の『日本語の作文技術』を参考にして、
かなり注意しながらテン(読点)をうっており、
本多氏の原則からはずれたテンのつかい方をみると
ついいらいらしてしまう。
それなのに、コーマック=マッカーシーの本がすんなりよめるのは、
よほど黒原敏行氏の訳がこなれているからだろう。
そういえば、野坂昭如氏がにたような文章をかいていたような気がして
ひっぱりだしてみる。
テンはたくさんあるけどマル(句点)のない文体だった。
テンのうちかたには、その小説家の特徴があらわれる。
コーマック=マッカーシーは、
効果的にテンをつかわない、究極の文体だ。

『血と暴力の国』には、ハードボイルドらしく
気のきいたやりとりがいくつもでてくる。
おれを信じてくれ。
その言葉嫌いなんですよね。前からずっと。
自分で言ったことはないのか?
いや。ありますよ。だからあてにならないって知ってるんです。
コーマック=マッカーシーの本をつづけてよみたくなった。

posted by カルピス at 11:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月09日

Jリーグがはじまる J2からあがってきたチームのいきおいがすごい

2015年のJリーグがはじまった。
今シーズンは、なんといっても
2シーズン制の採用に注目があつまる。
第1ステージにつまづいても、第2ステージでやりなおせるのだから、
優勝あらそいが単調にならない。
といって、2シーズン制むけの対応がなにかあるかというと、
そんなにかわった策をとれるわけではないので、
けっきょくはつよいチームが上位に顔をだすだろう。
個人的には1シーズン制のほうがすっきりしていてすきだけど、
優勝への関心をたかめ、お客さんにたくさんきてもらわなければ
リーグの存続があぶないという判断があった。

第1節を 「Jリーグタイム」でみたにすぎないので、
ほんの表面的な印象でしかないけど、
J2からあがってきたチームにいきおいがあり、これからがたのしみになる。
J2といえども、ひじょうに激戦リーグなので、
J1にあがってきたチームが、それなりにちからがあるのは当然ではある。
浦和対湘南の試合など、すくなくとも前半までの湘南は、
とてもJ2からあがってきたチームにはみえなかった。
とにかくはしりぬくという自分たちのスタイルをもち、
そこにまよいがないチームはとても魅力的だ。
残念ながら1-3でまけてしまったけど、
これからの活躍に期待したい。
松本山雅にしても、はじめてのJ1とはいえ
熱心なサポーターにささえられ、
はっきりした特徴のあるチームなので、
リーグをおもしろくしてくれる存在になりそうだし、
J1でもじゅうぶんに通用するちからをもっているようにみえる。

新監督をむかえたチームが5つあり(神戸・横浜・柏・鳥栖・甲府)、
チームをどうまとめていくのかに期待したい。
スタートにつまづいても、第2ステージでやりなおせるのだから、
2シーズン制は新監督にとって有利な制度だろう。

第1節では、きめるべきひとが得点をあげていた。
大久保・工藤・武藤(2)・大前(2)・佐藤・宇佐美・豊田・闘莉王など、
2015年の得点王をあらそいそうなメンバーが名をつらねた。
なかでも宇佐美(ガンバ)と武藤(FC東京)は、
得点王への意欲を口にしているのがたのもしい。
闘莉王はPKをけりながらも、お約束のようにきめられなかった。
あのひとがPKをきめたところをみたことがない。
そこがまた闘莉王の魅力なのだけど。

気になったのは、疑問のでるジャッジがいくつもあったことで、
基準があいまいというより、みのがしがおおかったようにおもう。
いつもいわれていることだけど、
選手だけでなく、審判の方々にも適切な試合はこびをもとめたい。

代表監督がバヒド=ハリルホジッチ氏きまったのも
あかるいニュースだ。
ハリルホジッチ氏といえば、
2010年のWカップ南アフリカ大会で、
たいくつとしかいいようのない試合はこびだったアルジェリアチームを、
ブラジル大会ではみごとにベスト16にみちびいたことで、
つよい印象がのこっている。
フモフモさんによる代表のよび名がおかしかった。
http://blog.livedoor.jp/vitaminw/archives/53102063.html
さまざまな「◯◯ジャパン」リストをみると、
どれもなれるのがたいへんそうだ。
どこにおちつくのか 興味ぶかい。
わたしは「◯◯ジャパン」といういい方がきらいなので、
「日本代表」か「A代表」でいいんじゃないかとおもう。

posted by カルピス at 12:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月08日

ブログと夕ごはんのメニューがよくにていること

スーパーでかいものをしたかえり道、
ブログと夕ごはんのメニューがよくにていることに気づいた。

メニューがきまらないまま 夕方をむかえることがあるけど、
とにかくその時間になったら なにがしか
テーブルにのってないといけないわけで、
「夕ごはんなし!」というわけにいかないから、
なんとかなるのだ。
なんとかするしかないのはつよい。

ブログにしても、
なにをかくのかが なかなかきまらないこともあるけど、
夜になるとなんとなくテーマがしぼれてきて、
くるしまぎれであっても、1回分の文章ができあがっている。
こういうのは、しめきりのあるありがたさだ。

夕ごはんは、かいものにいくまえからメニューがきまっていることもあるし、
お店のうり場をあるきながら きめることもある。
ブログをかこうと、エバーノートをふりかえって 材料をえらんでいるみたいだ。

めちゃくちゃなメニューの日がすくなくないのもおなじだ(あくまでもわたしのブログについて)。
炭水化物ばっかりだったり、メインディッシュがなかったり。
なにかの専門店じゃないし、きっぱり日がわり定食といいきる内容でもないし。

おなじネタがつかえない点は、夕ごはんとちがうかもしれないけど、
じつはけっこうにたようなことをかいてたりして
(ということも、なんだかすでにかいたような気がする)。

糸井重里さんの「ダーリンコラム」がわたしはすきで、
毎日たのしみにしている。
なんでもないようなひとことでも、
糸井さんが角度をかえて あちこちいじくりまわしていると、
まったく気づかなかったおもしろみがでてくる。
ことばつかいの達人であり、魔術師だといつも感心させられる。
その糸井さんが、あるとき まったくおなじネタをとりあげたことがあった。
「あーりゃりゃこりゃりゃ」と非難するのではなく、
わたしはすごくうれしかったのをおぼえている。
いつも完璧な内容におそれいるよりも、
糸井さんでさえそうなんだから、と気がらくになる。
糸井さんのことだから、わざとスキをつくってくれたのかもしれない。
それ以来わたしは、なんだかもうかいたことがあるような気がしても、
安心して「はじめて」の顔をつらぬけるようになった。

ほかにも、だれかたべてくれるひとあっての夕ごはんであるとか、
おしゃべりがあったほうがたのしいとか、
ブログと夕ごはん(というか食事だ)は本質的によくにている。
いちばんちがうのは、ブログはとくになくても平気、ということだろうか。
それはつまり、ぜんぜん「本質的にいっしょ」じゃないということか。

posted by カルピス at 15:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月07日

ヤッソ800体験から、世界はなんだってありの自由に気づく

きのうは はじめて「ヤッソ800」に挑戦してみた。
http://runnet.jp/community/dictionary/item.php?_num=413
800メートルをある一定のスピードをたもち、くりかえしはしる練習法だ。
おもしろそうだけど、これまでわたしは
ゆっくりなペースでながい距離(10キロとか1時間)ばかりをはしってきた。
いまさらスピード練習をとりいれるのは、しんどいし こわいしで、
以前にもブログでとりあげながら、なかなかおもい腰があがらならなかった。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/244698858.html
きのうはきがえているときに たまたま、
「毎日なにかあたらしいことを体験するといい」
なんてだれかのことばが頭にうかび、
はじめてヤッソ800にむかう気になった。

「ある一定のスピードでくりかえしはしる」とかいたけど、
この練習法のおもしろいところは、
フルマラソンの目標タイムをイメージできるところにある。
たとえば、4時間くらいではしりたいひとは、
800メートルを4分のスピードで、
3時間ではしりたいひとは、800メートルを3分ではしる。
それぞれの800メートルは、400メートルながしてつなぎ、
それを10回くりかえす。
フルマラソンで目標にする時間を、800メートルの「分」におきかえると
それがだいたいおなじレベルの負荷になるというのが不思議だし、
挑戦しようという意欲がわいてくる。

はやいペースをたもつくるしさに、わたしはビビっていたのだけど、
とりあえずやってみようとジムのトレッドミルではしりだした。
わたしはフルマラソンを4時間50分ではしったことがあり、
つぎのレースでは、4時間30分くらいを目標にしたいところだ。
そのためには、
「フルマラソンX時間Y分=800mX分Y秒×10本のインターバル」
の公式から、
800メートルを4分30秒ペースではしることになる(時速11キロくらい)。
1本目の800メートルはかなりきつかった。
こりゃとても10回はくりかえせないな、
まあ、いけるところまでつづけたらいいやと、
いつでもやめるかまえだ。
それでもだんだんからだがなれてきて、
なんとか10回の800メートルをはしりおえた。
いつもはゆっくりでしかはしってないので、
800メートルとはいえ時速11キロを維持するのはかなりきつい。
スピードをたもてた達成感はなかなかのもので、
この練習をくりかえしたら、たしかにちからがつくような気がした。

はじめてのヤッソ800で調子にのったわたしは、
図書館でランニングのトレーニング本をさがしてみた。
なにか画期的なトレーニング法はないだろうか。
それが、特徴をだそうとしているのか、
どの本もそれぞれ ものすごくちがうことがかかれている。

・ピッチがおそすぎる
・ピッチをあげたほうがいい
・ながい距離(30キロ)はマラソンの練習に必要ない
・レースまえに30キロを体験しておくべき
・上半身ではしれ
・足をおろす場所が大切
・スピードの練習は必要ない
・ゆっくりばかりの練習ではダメだ

正解はなく、そのひとにあった練習法はそれぞれちがうのだろう。
あたりまえといえばあたりまえだけど、
それだったら、なにをかいてもある部分はだれかにあっていることになる。
両極端な主張で2冊かいても、だれかにはあてはまる。
かんがえてみたら、おおくのジャンルは
なにをかいてもある面は「ただしい」のだ。
英会話・人生論・健康法・勉強法・読書論。
いろんなひとがいろんな根拠から、自分の説を主張している。
それらはおおむね、だれかにとってはただしい。
わたしは、これまでにかいた自分の文章が、
遠慮しすぎているようにおもえてきた。
根拠となるかんがえがあれば、堂々と自分の説を主張したらいい。
まったくおそまつなアイデアもあるだろうけど、
それでもだれかにとどく。
とどかなければ、ものすごくオリジナルなアイデアかもしれない。

posted by カルピス at 16:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月06日

『黄金のブックガイド 私をつくった名著 人生を変えた1冊』

『黄金のブックガイド 私をつくった名著 人生を変えた1冊』(東洋経済新報社)

全部で11章からなるビジネス書中心のガイドブックで、
8章には久恒啓一氏の「読後のアウトプットに有効な”図読”のすすめ」がのっている。
久恒氏は、
日本全国どこの組織でも同じ問題を抱えていることに気づきました。相似形になっています。どこに行っても「うちには考える人間がいない」と嘆いているのです。
として、
自分でかんがえるための技術「図解コミュニケーション」を提唱されている。
本の内容を要約する習慣のない人には、知識はなかなか蓄積していかないと思います
というかんがえから、
読書においてはとくに
「A41枚の図に要約する”図読”」が読後のアウトプットとして有効だという。
とはいえ、ここでとりあげたいのは、その「図読」についてではない。
「うちには考える人間がいない」ことと読書、とりわけ精読とは、
どんな関係にあるのかが気になってきた。

久恒氏は、おなじ章におさめられているエッセイ「知的生産と読書」のなかで
寺島実郎氏・佐藤優氏・梅田望夫氏のノート術を例にあげている。
 要約文、一行のタイトル、キーワードと形は違っても知的生産者たちは、読書の面では精読の技術として自ら開発した情報の圧縮技術を駆使しています。深く処理した情報でなければ頭に残りません。彼らはその要約を材料として自らの頭で考え抜き、すぐれた知的生産を成し遂げているのです
さすがに達人たちはすごいものだと感心する。
すでにたかいレベルにたっしている方々なのに、
いまもなお地道な実践をつみかさねておられるのだ。
しかし、かんがえてみれば、これらは要するに本の内容をしっかり理解し、
本からえた情報を自分のものにするための技術であり、
そこからどう自分の発見につなげていくかのはなしではない。

梅棹忠夫さんは『知的生産の技術』のなかで、
読書のあと、なにをカードにかきこんでいるかを紹介している。
 よみおわって、読書ノートとして何をかくのか。わたしの場合をいうと、じつはカードにメモやらかきぬきやらをするのは、全部第二の文脈においてなのである。つまり、わたしにとって「おもしろい」ことがらだけであって、著者にとって「だいじな」ところは、いっさいかかない。(中略)著者の文脈をたどって、かきぬきやらメモやらをつくっていたのでは、けっきょくその本一冊をそっっくりカードにうつしとるようなことになってしまって、むだなことである。(中略)
 「わたしの文脈」のほうは、シリメツレツであって、しかも、瞬間的なひらめきである。これは、すかさずキャッチして、しっかり定着しておかなければならない
梅棹さんの読書カードは自分の気づきについてのもので、
作者のいいたいことではなかった。
本をよんだときに、なにをひらめくかは ひとそれぞれであるし、
蓄積したカードをくみかえて、あたらしい発見につなげる方法も、
ノウハウにたよるのではなく、自分でみつけるしかない。
「瞬間的なひらめき」は、まねるわけにはいかないのだ。
『知的生産の技術』では、さらっとかいてある読書カードだけど、
そうやって蓄積したカードを発見につなげるのは そうかんたんではない。
梅棹さんのすごさは、蓄積した膨大な情報を活用して、
あたらしいひらめきを生み出すちからにある。
そこの部分は、なかなか「技術」にならないのではないか。

posted by カルピス at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月05日

『乙女の読書道』(池澤春菜)わかい女性の活字中毒者がどう本をよんでいるか

『乙女の読書道』(池澤春菜・本の雑誌社)

『本の雑誌』に連載されていた記事を中心に
書評をまとめたもので、
自称「末期的活字中毒者」な池澤氏は、
「朝起きて読み、朝ご飯を食べながら読み、
授業中に読み、休み時間に読み・・・」と
ずっと本をよむ生活をおくっている。

『乙女の読書道』では60冊以上の本がとりあげてあるのに、
わたしがよんだことがあるのはたった1冊、
『ビブリア古書堂の事件手帖』だけだった。
紹介してある本のほとんどがSFとライトノベルで、
わたしがいかにこのジャンルにうといかが、そのままあらわれたかたちだ。
自分のしった本はすくなかったけれど、
これだけ本ずきなひとが紹介すると、
たとえ関心のないジャンルのものでも、
池澤さんのいきおいに圧倒されて たのしいよみものとなる。
紹介されている本を、「よんでみよう」とはおもわない。
「よーやるわ」とあきれながら、
極端にはしるかわったひとを 興味ぶかく観察するかんじだ。
SFとライトノベルを専門にした、
女性活字中毒者の生態が、この本であきらかになった。

それだけ重度な中毒者が、紙の本をきんじられたらどうなるか。
本書には、池澤氏がiPadだけで1週間をすごしたルポがのっている。
まだiPadミニがなかった時期のようで、
機械のおもさがつらかったのと、
ページをめくるのが意外とめんどくさいなど、
あらためて紙の本がどれだけすぐれたものかに気づいたそうだ。
 保存性も高い。データが飛んでなくなるという心配もない。
 だから、紙の本のインターフェイスは百年後も二百年後もぜったいにかわらないし、なくならない、駆逐されないと、私は確認した。
 でも、だからといって、電子書籍を完全否定するのも違うんじゃないか、と思う。
紙の本の優位性に気づきながらも、
電子書籍の将来を否定しないのは さすがにさきをみる目がやわらかい。
わたしにとってもよみやすいのは紙の本で、
全体の量の把握や、まえによんだところをさがすときなど、
紙の本だったら、とおもうことがよくある。
しかし、電子書籍が得意な面では(電子データーである点など)
ずいぶん便利であるのもまちがいなく、
紙の本と電子書籍との共存がこのましいのもたしかだ。
それに、初期の電子書籍リーダーでありながら、
重度の活字中毒者である池澤氏が、
くるしみながらも1週間をやりすごせたのだから、
電子書籍の機能がすでに一定のレベルにあることをしめしているのだろう。

posted by カルピス at 12:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月04日

実用的でためになる「村上さんのところ」のやりとり

「村上さんのところ」はいまも更新がつづいていて、
ここをのぞくのがわたしの大切な日課となっている。
もし予定どおりに3月いっぱいでこのサイトがおしまいになると、
ずいぶんさみしいおもいをしそうだ。
ブログにかきたくなるたのしいやりとりがおおく、
気をつけないと「村上さんのところ」だけの話題になってしまう。
かんたんにはとりあげないよう 自分をいましめてきたけど、
きょうは解禁していくつかを紹介したい。

きのうのアップされた村上さんからの回答には、
「鍋焼きうどん、いいですよね」とかかれている。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/03/03/204000
そんなことをいわれると、わたしも鍋やきうどんがたべたくなってきた。
わたしの感覚からすると、
おやつや夜食としての鍋やきうどんはあっても、
夕ごはんにはなんだかなー、という気がするけど、
村上さんの文章をよむと、そんなことは関係なくなってくる。
村上さんの小説が、なぜかビールをほしくさせる現象とおなじだ。
こうしてわが家の夕食は、鍋やきうどんにきまった。
ただ、鍋やきうどんだけではすこしさみしいので、
あわせてたきこみご飯とやき魚も用意する。
夕ごはんのメニューについても、
そこまでイメージをふくらませてくれるなにかが このサイトにはある。

すこしまえのメールに
「あいつは東へ向かったと、猫柳俊子さんにお伝えいただけませんでしょうか」
(七味、男性、37歳、会社員)
という伝言がのった。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/25/113900
わたしのジャッジでは、この回のやりとりは、村上さんがまけている。
貴重な(とおもえる)こうした機会で、
猫柳俊子さんへの伝言だけにとどめる七味氏は ただものではない。
村上春樹ファンの層のあつさをおもいしるとともに、
猫柳俊子さんのご健勝をねがうばかりだ。

猫柳俊子さん関連でいえば、
「猫柳俊子さんはイチゴジャム入りの紅茶を飲まれますか?」
(ウエストスター☆、女性、49歳、自由業)
http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/25/113500
もなかなかいけてる。
どうなのだろう。わたしもなんだか猫柳俊子さんのことが気になってきた。
だんだん猫柳俊子さんの話題がひとりあるきしてるのがおかしい。

「完璧な勃起」への質問にもかんがえさせられた。
私は女性なので、想像する事しかできませんが、時計の針のようにグルグル、グルグル回っている状態なのではないかと、推測しております。
(中二病、女性、31歳)とある。
http://www.welluneednt.com/entry/2015/02/25/203400
そこまでいくと、たしかに完璧といえるかもしれない。
参考までにほかの比喩を紹介すると
「ガザのピラミッドのように完璧だったし」
(『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド下巻』・P280))
というのもあった。
「完璧な勃起」は、イメージをゆたかに刺激するみたいだ。

posted by カルピス at 10:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月03日

介護報酬のひきさげが、インセンティブとしてどうはたらくか

今朝の朝日新聞に、来年度からの介護報酬のひきさげで
現場である事業所や利用者がなにをかんじているか、という記事がのった。
事業所側の意見として、
「消費税を8%に上げたのは社会保障の充実が目的だったはずなのに」
と法人幹部がコメントしている。
また、今回の変更では介護度のおもい人へのサービスが手あつくなるそうで、
「事業所が介護度の重い人ばかりを優先し、
 軽い人が見捨てられるのでは」(NPO事務局長)
と心配する声も紹介されている。

ここらへんのかけひきというか、
政府のねらいと、事業者側の対応、利用者の反応などをみていると、
いまよみかけている『ヤバい経済学』
(スティーヴン=D=レヴィット・スティーヴン=J=ダブナー)の
「インセンティブ」とはこのことかとおもった。
ウィキペディアによると、インセンティブとは
「人々の意思決定や行動を変化させるような要因」
なのだそうで、『ヤバい経済学』では「誘引」となっている。
それは、お金かもしれないし、道徳心にうったえることかもしれないし、
ひとから評価されたいという社会的な欲求かもしれない。
『ヤバい経済学』では、子どもをむかえにくるのがおくれる保護者にたいし、
罰金制度をとりいれた保育園が例にあげられている。
「罰金制度が始まると、親の遅刻はすぐに・・・増えた」のだそうだ。
お金をはらえば遅刻していいなら、
そっちのほうが気がらくだ、と保護者はうけとめたわけで、
保育園側のもくろみどおりにインセンティブがはたらかなかった。
だったら罰金をもっとたかくしたらいいかというと、そうでもないだろうし、
かといって罰金制度をやめても 遅刻者数はもとにもどらなかったという。
インセンティブがどうはたらくのかはすごくむつかしく、興味ぶかい。

政府は介護保険がうまくまわるために、
効果的なインセンティブとなるよう議論をつくしたことだろう。
介護報酬をへらせば事業所は文句をいうだろうけど、
いまのままでは放漫経営の事業所でも生きのびてしまうから、
すこしぐらい報酬をへらしても大丈夫ではないか。
利用者からすると、1割負担がへるのはありがたいけど、
事業所の経営がいきづまるとサービスがわるくなるのが心配だし、
家族からしても、事業所がつぶれてしまっては
親をみてくれるひとがいなくなるとこまってしまう。
いまだけでなく、将来にまでわたって安定した介護サービスを定着させる。
今回の改正は、そうした調整をねらっているはずだ。

国がかんがえたとおりに事業所や利用者がうごくとはかぎらない。
事業所がやる気をうしなえば、こまるのは利用者と家族だ。
いま国が道をあやまると、長期的におおくのひとがたいへんな目にあう。
インセンティブという視点から今回の介護報酬きりさげに注目したい。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月02日

引用には blockquoteタグがあることもしらなかった

倉下忠憲さんがメルマガで、
あたらしく出版された『書評記事の書き方』についてふれられている。
http://www.amazon.co.jp/dp/B00U1M1H90/
電子書籍「月刊くらした」シリーズの11冊目だ。
内容は、メルマガに連載されたものがおおいそうで、
それなら今回はかわなくてもいいか、とおもっていたら、

一部書き下ろしがあります、それが「引用の要件」という章です。

とある。
自分の文章が、引用のきまりをただしくまもっているのか気になったので、
『書評記事の書き方』をダウンロードして確認する。
あのひとことがなかったらかわなかったわけで、
なかなかじょうずな宣伝といえそうだ。
もっとも、そのおかげでこれまでしらなかった知識をえた。

引用のルールについて、わたしは本多勝一さんの
『日本語の作文技術』からまなんだような気がしていた。
でも、確認しようとひっぱりだしてみると、
引用について なにもふれてない。
いったいだれの本だったろうか。
自分の意見とひとの意見を はっきりわけるようにきびしくかかれており、
わたしにはありがたいお手本となった。
どこまでが自分の意見で、
どこからが本やサイトから引用したものであるかを
だれがみてもわかるようにしめす。
あまりにも当然であり、もしへんな引用をしていたら、
著者に失礼だし、よんだひとにもまちがった情報をあたえることになる。

『書評記事の書き方』では、引用について いくつかの要件がおさえてあり、
わたしのつかい方は、おおむね問題のない範囲におさまっているようで安心した。
もっとも、記事によっては引用がおおすぎるときもある。
自分でもわかっていながら、わたしが説明するより現物をと、
どうしても引用がおおくなりがちだ。
「必然性」の点で、もうすこし配慮が必要かもしれない。
「ネタバレ」についても、きわどいというかアウトのときがあるかも。
こうしてみると、わたしの文章はまだまだワキがあまい。

『書評記事の書き方』をよむと、

幸いブログであればblockquoteタグがあります。

ともかいてあり、さっそくこのタグを きのうかいたブログでためしてみる。
これまでは、カギカッコで引用をあらわしていたけど、
会話がはいったりすると、二重カギカッコになり、
そこにまた本の名前が紹介されたりすると
なかなか統一したあらわし方ができず、こまっていた。
blockquoteタグをつかえばずいぶんスッキリする。
そんなこともわたしはしらなかったのだ。
その気になってよくみると、
わたしがつかっているシーサーブログには、
ツール一覧のなかにちゃんと引用のボタンがもうけられていた。
しかるべき機能をいかせば、わたしのブログも
もっとみばえがよくなるだろうに、
「どーせ日記だから」とか
「進歩ほどやっかいなものはない」などとひらきなおってしまい、
いつまでたっても原始的なレイアウトのままだ。

わたしがすきな高野秀行さんのブログは、
最新の記事のしたに、シャッフルされた過去の記事が10ほどのっている。
http://aisa.ne.jp/mbembe/archives/3894
関連した記事ではなく、分野も日付もバラバラなので、かえって興味をひかれる。
記事のよこにはかきだしが2行そえられており、
それをみていると、いかにもおもしろそうなので、
ついそのつづきがよみたくなってクリックする。
プロだけあって、かきだしがじょうずなのだろう。
もっとも、一部だけをしめされると、
かくされているほかの部分もしりたくなるのは、
ある程度だれにでもある欲求だ。
はじめからすべてをのせるより、「ちょっとだけよ」は
好奇心をくすぐる効果的な方法かもしれない。
それに、シャッフルというのはおもしろいアイデアで、
こうしたしくみがあれば、
いちどよんだきり うずもれている記事を、ふたたびおもてにひっぱりだせる。
わたしのブログにもとりいれたら、
よんでくれるひとへのサービスになるし、
わたしにとってもおもいがけない「再会」がありそうだ。

引用だけでなく、ブログの常識にもっと関心をはらえば、
わたしのブログも もうすこしみばえがよくなるだろうに。
でもまあ、どーせ日記なんだから、もうしばらくこのままいくか。

posted by カルピス at 20:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月01日

『極北』(マーセル=セロー)

『極北』(マーセル=セロー・村上春樹:訳・中央公論社)

あれはてた集落に、ひとりでくらす少女。
なんらかの原因で、人類は絶滅の危機におちいり、
生きのこったわずかな人間たちが、
無秩序な世界でほそぼそとくらしている。
暴力が支配するすさんだ世界は、
近未来のSF映画みたいだ。
世界がなぜそんなにかわりはててしまったのか、
状況説明がないので、はじめはよくわからない。
わからなくても、興味ぶかくよませるからたいしたものだ。
ちかい将来、放射能だったりあたらしい兵器の開発だったりで、
こうした世界になるのは、いかにもありそうな気がする。

半分くらいよみすすめると、ようやく世界の輪郭がつかめてくる。
それまではおおくを説明せず、
主人公であるメイクピースのうごきをおううちに、
だんだんとものがたりの世界観がつかめてくる構成だ。
メイクピースはなんどもとらわれながら旅をつづけ、
世界がどんな原理でなりたっているのかをしろうとする。
邪悪なちからに支配された、とりとめのない世界におもえていたのが、
のこされた町や人間たちの意味がしだいにみえてくると、
シンプルで、自分がよくしっていた世界にすぎないことがわかってくる。

メイクピースは、ふたたび自分の町にもどってきた。
なんだかんだと いろんなことがおこるけど、
けっきょく自分たちは 遺伝子をつたえるために生きていることをかんじる。
失われてしまったものは惜しいけれど、
あるいはこれがいちばん良いことだったのかもしれない。
二百年ばかり地球は休みをとるのだ。
その間に雨が汚れを洗い流してくれる。
そして私たちは歴史の堆積層のひとつとなる。

メイクピースは自分の子にむけて記録をのこす。
ひとたびおまえが旅立ってしまえば、
あとがどうなるかはわかっている。
五年後か十年後か、あるいはもし幸運に恵まれればもっと早く、
ある冷え込んだ朝、馬が私を振り落とすだろう。
あるいは眠っている間にストーブが引火するだろう。
あるいは私はただキャベツ畑の中に倒れているだろう。(中略)
それに対する恐怖は、私の中に微塵もない。

メイクピースは、自分ではよまないのに、
本を大切にする場面がなんどもでてくる。
本は、うしなわれた文明社会の象徴であり、
これから世界をひきついでいくものへの遺産なのだろう。
なにがあっても生きていこう、
そして、死ぬときがきたら しずかに運命をうけいれよう。
よみごたえのある、すばらしいものがたりだ。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする