2015年04月30日

ランドセルから本をとりだしてよみはじめた女の子

市内を自転車ではしっていたら、
バス停でバスをまっている小学生の女の子が、
ランドセルから本をとりだしてよみはじめた。
高校生以上がスマホをいじってばかりいるいま、
あらゆる世代のなかで 本をいちばんよくよむのは 小学生なのかもしれない。
中学生はスマホがあってもなくても、
以前からひとまえで本をよまなかったような気がする。

4月29日の「帰ってきた炎の営業日誌」(「web本の雑誌」)に
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
京浜東北線、南浦和始発。一車両80人くらい乗車のうち本を読んでるのは私を含め3人。新聞は2人、スマホは50人くらい。私の前の7人がけの座席は、 着席すると同時に全員がスマホを取り出した。電車のなかだけでなく、ホームで次の始発電車を待つ人もほとんどスマホを手にしている。ほんの十数年前、通勤 電車の風景はスポーツ新聞とマンガ雑誌だったような気がする。そのふたつはすでにほとんど見かけない。

と杉江さんがかいている。
いまでは日本全国、というか、世界じゅうでみかける 光景だろう。
それだけに、ごく自然に本をとりだした女の子がすてきにみえた。
これはまあ、スマホをつかわないわたしの偏見なわけで、
それでは、どんなひとがもっていたら「スマホもわるくないなー」という存在かを、
せんじつこのブログで紹介した西加奈子さんにならってたしかめてみたい。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/417656224.html?1430372059

はじめに西さんの記事をふりかえっておくと、
西さんは公園で、奥さんとのキャッチボールをまちきれずに、
ひとりで壁あてしている おじいさんをみかけた。
西さんはその姿を「叫びだしたいくらい可愛」いい、とおもった。
しかし、その景色をそのままかくのではなく、
おじいさんをほかのひとにいれかえたり、
どんなひとがこの景色にであったらおもしろいかをかんがえてみると、
ものがたりの種がそだっていくのだという。

スマホをもってるひとをみて、「いいなー!」とおもえるのは
どんなときだろう。
いくらすてきなひとでも、わかい女性がスマホをいじっていてはあたりまえすぎる。
ここはやはりIT弱者といわれる高齢者の出番だろう。
80をすぎたおばあさんが、スマホで情報をしいれていたら、
みているほうは感心するしかない。
たくみな指つかいでも、ふなれなあつかいでも、
きっとそれはわるくない風景だろう。
あるいはいかにも農家のひと、というかんじの
おじさん・おばさんも意外性がありそうだ。
麦わら帽子に手ぬぐいと長ぐつのおじさんだったら
スマホがあってよかったですね、とわたしは素直におもうだろう。

ほかに、スマホからとおいところにいるのは、どんなひとだろう。
3歳の子どもがたくみにあやつっていたら いやなかんじだし、
サルがもっていてもなんだか腹がたつ。
すこしかんがえてみても、
いまやスマホはあたりまえすぎる存在で、
たいていの職業や国籍をあてはめても違和感がない。

時代をこえて、ちょんまげをしたお侍さんがつかっていたら わるくないかもしれない。
宇宙人のジョーンズさんや、ソフトバンクの犬のお父さんもおもしろいだろう。
でも、そこまでいくとべつのはなしだ。
ちがういい方をすれば、それぐらい飛躍しないと いまやスマホは日常の風景で、
なんにでもとけこみ、とりこみ、どこにでもおさまってしまう。

こうしてみると、わたしがであった小学生の女の子は、
かなりいい線をついているのではないか。
そんなすてきな子がとなりにすわって本をよんだら、
おとなたちもスマホをかたづけて 本をひろげたくなるだろう。
そこで女の子は、さっと手もとのアップルウォッチに目をむけるのだ。

posted by カルピス at 14:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月29日

『博士の本棚』(小川洋子) 知らないでいることの静けさ

『博士の本棚』(小川洋子・新潮社)

本についてのはなしが中心のエッセイ集。
ときどき小川さんがいっしょにくらしている ラブラドール犬のラブがでてきて、
そのノーテンキさがとてもかわいい。
「知らないでいる」は、ラブが血尿をだしたときのはなしだ。

血尿をだしたラブを、小川さんとご主人が病院へつれていく。
尿をしらべるためには、尿道に管をさしこむので すごくいたそうだ。
でも、ラブはまわりが心配するほどいたみをかんじないのか、
あんがいけろっとしている。
急性前立腺炎と診断された。
あたりまえながら、オスの犬には前立腺があるのだ。
しらべるうちに熱が40度をこえているとわかり、注射をうち、点滴もされる。
それでもラブはいつもとおなじくらいげんきにふるまうし、
食欲もある。
苦痛を訴えもせず、嫌がって暴れたりもせず、ただ大人しくお座りをしている。尻尾まで振っている。自分の下半身で今何が起こっているのか、知ろうともしない。それどころか、自分に尿道というものを持っていることさえ知らない。

小川さんの感想はこうだ。
知らないでいる、などという難しいことを、お前は平気でやってのける。誰に教わったわけでもないだろうに、知らないでいることの静けさをちゃんと知っている。本当に賢いなあ。

ラブにしたら、かしこいから「知らないでいる」わけではないし、
しらないでいようとして しらないわけではない。
でも、事実として「静けさ」を身につけているのだから、
人間にはなかなかできないこころのもち方だ。
しるって、なんだろう、とか、
進化とは、なんていいだすとわけがわからなくなるので、
ここはシンプルにかんがえる。
しらないでいるしずけさを、人間も身につけられるだろうか。

「知らないでいる」は運命をうけいれることとセットだ。
ラブがもし病院へいってなければ、
急性前立腺炎がわるくなって、いのちをおとしたかもしれない。
動物たちにとって、死はうけいれるしかないものだから
「知らない」ですませられる。
いっしょにくらしている人間は、
かんたんに死なれたらこまるので犬を病院へつれていく。
犬のため、というよりも、自分たちのためだ。
人間も、自分が病気かどうかをしらないでいるためには、
病院へいかなければいい。
健康診断やガン検診もうけない。
病気の発見がおくれ、ガンで死ぬかもしれない。
しかし、病気がわかったからといって、ガンが早期でみつかったからといって、
すべてがうまくいき、なが生きできるわけではない。
それよりもしずけさを手にいれるほうがいい、というかんがえ方もある。

わたしはだいぶそっちにかたむいてきたけど、
いざ余命を宣告されたら しずかでいられる自信はない。
しずかでいられる ひとつの方法が、「知らないでいる」ことではないだろうか。
動物とちがい、人間には死にたくないという煩悩がある。
なんで死にたくないのか、理由などなくても、
ほとんどのひとは とにかく死にたくない。
いろんなことをしればしるだけ、よけいにジタバタしてしまう。
凡人にとってしずけさは、しらないでいることによってのみ、手にできる こころのおちつきにおもえる。

posted by カルピス at 15:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月28日

ネパール大地震 すこしでもはやい救助活動をねがう

今月25日にネパールでおきた大地震により、
おおくの方がなくなったりケガをされている。
行方不明の方についても、状況がまだ正確に把握されていない。
できるだけはやく、救助活動が必要なひとにとどくようねがっている。

ネパールについて、おもいでがふたつある。
ひとつは自分がネパールを旅行したときのことで、
もうひとつは、日本でであったネパール人のサジャンさんだ。

わたしがネパールをおとずれたのは1987年だから、
もうずいぶんむかしのことになってしまった。
そのときからすでに旅行者がおおくなり、
むかしながらの素朴さがうしなわれた、といわれていたものの、
わたしにはじゅうぶんふるめかしい国におもえた。
カトマンズの旧市街はいつもゴチャゴチャひとがいっぱいで、
お寺もたくさんあるけど、タイとはぜんぜんちがう雰囲気だ。
わたしはおもにカトマンズの西200キロにあるポカラという町で、
2ヶ月くらいぐずぐずすごした。
居心地のいい場所から旅行者がうごけなくなるのを「沈没」というそうで、
たしかにあれは旅行というにはあまりにも怠惰な毎日で、
なにをするわけでもないのに いちにちがちゃんとすぎていく。
ビザがきれてしまうので、事務所に延長の手つづきにいき、
それもまたきれるので、しかたなくつぎの国にうごくか、
みたいなことをおおくの旅行者がやっていた。
わたしはダルバートというネパール料理がすきになり、
ひるごはんと晩ごはんに
おかわり自由なこの定食をたべるのがたのしみだった。
国べつではタイ料理がいちばんとして、
どれかひとつ、といわれれば
わたしにとってダルバートがいちばんすきな外国料理だ。
ヒマラヤのうつくしいけしきもいいけれど、
ネパールというと、つぎにたべるダルバートをたのしみに、
ゲストハウスでゴロゴロした日々をおもいだす。

サジャンさんとは22年まえ、成田空港から東京へむかう電車のなかで であった。
彼はニューギニアでヘリコプターのパイロットとしてはたらいており、
ビザの申請で日本をたずねていた。
ニューギニアにはネパール大使館がないので、
日本のネパール大使館がその機能を代行しているという。
わたしはタイの旅行からかえったところで、
サジャンさんは「Can you help me?」と
電車のなかで乗客にきいてまわっていた。

はなしをきくと、日本にきたのがはじめてで、
とまるところのあてがなく、ネパール大使館の場所もわからず、
こまっているようだ。
アジアを旅行していると、旅行者をたすけるのは
おたがいさま、みたいな感覚になるので、
わたしはためらわずサジャンさんを姉の家につれていった。
さいわい姉もそのダンナも、サジャンさんを歓迎してくれて、
わたしはしばらくサジャンさんといっしょに 姉の家でやっかいになった。

つぎの日からわたしはサジャンさんにつきあって、
ネパール大使館とエア=インディアのオフィスをさがして東京の町をあるく。
用事はすぐにすみ、そのあとはなんとなく東京観光みたいになった。
サジャンさんはカンのするどいひとで、
わたしのつたない英語にも、すぐにさっしをつけ 理解してくれる。
歌舞伎町も案内した。
わたしだってよくしらないし、おっかないので はやあしに案内すると、
サジャンはものたりなかったのか、
つぎの日は自分ひとりで もういちどたずねていった。

サジャンさんはとても紳士的なひとで、
姉の家族に気をつかい、おみやげのおかしをかってくれた。
はなしていても外国のひとだというかんじがしない。
相手やまわりのひとを、なんとなくリラックスさせるところがある。
夕ごはんに手まきずしパーティーみたいなことをしたら、
サシミでも納豆でもなんでもたべてくれた。
そのとき5歳だったわたしの甥は、
サジャンさんとのであいがすごく印象にのこったようで、
おとなになってからも、そのときのことをはなしてくれる。
5歳だから、そんなにこまかいところまでおぼえていないはずなのに、
彼にいわせると、家にかえったらしらない外国のひとがいて、
すごくおどろいたのだそうだ。
甥は、姉の家族としてはめずらしく海外志向で、
ワーキングホリデーでオーストラリアへいったり、
商社につとめたたりしたので、
あんがいほんとうにつよい影響をうけたのかもしれない。

サジャンも日本を気にいってくれた。
町がとてもきれいだし、こんなにだれもが親切にしてくれる国はほかにない、といっていた。
サジャンさんはカトマンズに奥さんと子ども2人をのこし、
ニューギニアにある会社ではたらいており、
こんどカトマンズにかえったら家をたてるつもりだ、といっていた。
そのころ漠然と結婚をかんがえていたわたしは、
サジャンさんに「結婚をどうおもうか?」とたずねてみる。
サジャンさんはすこしかんがえてから、
「いろいろあるけど、結婚は いいとおもうよ」とこたえてくれる。
そのひとことを、わたしがどうおもったかわすれたけど、
1年後にわたしは結婚することになる。

サジャンさんがニューギニアへかえってからも、
なんとなくわたしの意識のなかにサジャンさんとネパールがあり、
いつかカトマンズをたずねてヘリコプターにのせてもらおうとおもっていた。
ネパールはそのあと王制から民主制へとかわり、
政治的に混乱した時期がながくつづいた。
今回の大地震は、観光がおもな産業のネパールにとって、
はかりしれないダメージをおよぼすだろう。
援助活動と復興に、協力できることをさぐっていきたい。

posted by カルピス at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月27日

田んぼの水管理が なかなかうまくいかない

きょうで5日つづけて田んぼにでかけている。
水管理のためで、ちょうどいい量の水を なかなかたもてない。
水をいれることも、ぬくこともできるけど、
微調整がおもっていたよりもむつかしい。
まえのブログに、
「(排水口の)底のほうから水がもれていたけど、
そんなに完璧をめざさなくてもいいだろう」
なんてかいたけど、もれがだんだんひどくなり、
きのうなんかはとてもせきとめているとはおもえないぐらい
いきおいよく水がもれていた。
もう4日も水の量の調整がきまらずに、
おおくなりすぎたり、すくなすぎたりをくりかえしている。

田うえ時期の田んぼは、苗がすこし水から顔をだすように、
絶妙なふかさにたもたれている。
一面の田んぼぜんぶをそんな状態にたもつのは、
じつはかなりの経験が必要だ。
水道の蛇口みたいなのがあるわけではないので、
水の調整は、板や土で上からくる水をせきとめておこなう。
天気により、用水路の水量はいつもおなじとはかぎらない。
農家の方が、朝と夜に水のみまわりがかかせない、というのは
こういうことだったのかと、やってみてはじめてわかる。
そのうちなれてくれば、田んぼと用水路のクセがわかってきて、
こまかな調整ができるようになるはずだ。

田んぼは池やプールではないので、
ほっておくと どこからか水がもれていく。
もれないで、水がたまっているほうが不思議だともいえる。
水がもらないように、あぜに土をぬって
ぬけ穴がない状態をつくるわけだけど、
わたしの田んぼはたがやしていないので、
とてもあぜぬりができないことにきょう気づいた。
クワをいれると土に草がいっしょにくっついてきて、
それをあぜにぬったところでたいらな面にならない。
なんにもしないのが基本方針なので、
あぜぬりもなしとする。できないからしょうがない。
農家のひとがわたしの田んぼをみたら、
いったいなにをしてるんだとおもうだろう。
種まきをして、苗がある程度おおきくなれば
田んぼらしくなるだろうから、それまであと1ヶ月くらい
水のたまった荒れ地状態がつづくことになる。

4日まえに草かりをしたばかりなのに、
もう草がずいぶんそだってきた。
とても草をかったようにはみえない。
このところいい天気がつづいているので、
草にとってもここちよい環境なのだろう。
水管理に不なれなわたしが、水をはったりひいたりしてるので、
草にとっては絶好の水分補給になっているのかもしれない。
水がなくならないように、用心して田んぼにたくさん水をいれると、
あふれた水が下の畑にながれこみ、畑を田んぼ状態にしてしまう。
こんなに水の調節がむつかしいとは おもってもみなかった。
はじめからあんまりうまくいけば、
米づくりをなめてしまうだろうから、
これくらいのつまずきがあってよかったと おもうことにする。
自分がたべる米を自分でつくれるなんて、
わたしにとったら最高にたのしいあそびだ。
DSCN1893.jpg
「奥が田んぼ。てまえが畑(予定地)」

posted by カルピス at 21:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月26日

『その女アレックス』(ピエール=ルメートル)

『その女アレックス』(ピエール=ルメートル・文春文庫)

オビに「読み終えた方へ」として
「101ページ以降の展開は、まだ読んでいないひとに
けっして話さないでください」とある。
話さないけど かくのはいいんだな、というほどひねくれてはいないけど、
なんだよ、もったいつけて、とはおもった。
でも、よんでみるとわかる。
たしかにこの本はストーリーをあかされたらたまらない。

アレックスが誘拐され、せまいオリにとじこめられる場面から
ものがたりははじまる。
服をぬがされ、水とたべものはろくになく、排泄もままならない。
部屋はさむく、つらい姿勢をながくつづけるうちに、
アレックスはだんだんと正気をうしなっていく。
警察は、このかわいそうな女性をすくいだせるのか、
というのがものがたりの前半だ。
アレックスの状況と、警察の捜査が交互にテンポよくかかれている。
そのうちよわってきたアレックスにネズミがちかづいてきて・・・、と
ふつうのミステリーだったらこの捜査だけで1冊になるところだろう。

オビには「本屋大賞・翻訳小説部門受賞」ともある。
たしかにハラハラさせられるけど、
このひどい状況をひとによんでもらいたいとおもうかな、と
店員さんの気もちがすこしひっかかる。
でもちがった。
ものがたりはその後おもわぬ展開をみせる。
奇想天外なプロットで読者をおどろかすというよりも、
ありえないような事実が残酷にくみあわされる衝撃に、
よみながら だんだんとことばをうしなっていく。

「訳者あとがき」に
この作品を読み終えた人々は、プロットについて語る際に他の作品以上に慎重になる。それはネタバレを恐れてというよりも、自分が何かこれまでとは違う読書体験をしたと感じ、その体験の機会を他の読者から奪ってはならないと思うからのようだ。

と橘明美氏がかいている。
わたしもこの意見に全面的に賛成だ。
これは特殊な体験といっていいだろう。
つらい内容にショックをうけながらも、
完成度のたかさが 本物のミステリーをよむよろこびをおしえてくれる。
プロットがすばらしいし、登場人物の造形やセリフなど、
すべてが第一級のレベルで、安心して作品の世界につかる。
こんなにミステリーをたのしめたのは、『卵をめぐる祖父の戦争』以来だ。

登場する人物がそれぞれたくみに描写され、
いかにもそこらにいそうなリアリティがある。
カミーユ警部がいっしょに捜査をすすめる同僚たちもいい。
アルマンはきわめつけのケチで、ルイはいいところそだちの好青年。
捜査をすすめるときに、ふたりの特徴がうまくからんでくる。
いい小説には、いい脇役の存在がかかせない。
その顔を見れば、かつての美女がそのままでいたいと望んだためにすべてを台無しにしたのだとわかる。
マシアクはフランスに同化しすぎてアルコール依存症になりました。ポーランド人らしくよく飲み、その結果よきフランス人にもなったわけです。
そこへフェリックスが手をずらそうとしたので、アレックスはすぐに止めた。といっても手首にそっと触れて押しとどめただけで、禁止というより約束だ。
問題はどうやって口を開けるかだ。ハンマーでも使わないことには一日かかってしまいそうだ。ならハンマーを使えばいい。
「違法でないとご存知なら、なぜ嘘をついたんです?」
「そんなのあんたたちに関係ないでしょう」
それは場違いな発言だった。
「ヴィスールさん、この状況で、警察に関係がないことなどあると思いますか?

こうしたいいまわしがわたしはだいすきだ。
訳もこなれており、気もちよくよめる。

よみおわって、すっかり感心したわたしは、
あいたスペースに「これはすごいわ!」とかきこもうとしたら、
もうすでにおなじことばがかいてあった。
なんにちかまえのわたしも、ふかく感心したみたいだ。
この本をよんでいるあいだ、わたしは作品の世界に完全にひたり、
カミーユ警部やアレックスをすぐそばにかんじていた。
これだけ充実感のある読書は、たしかに特別な体験といえる。

posted by カルピス at 20:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月25日

松江での国際会議をどうよびかけるか

すこしまえの朝日新聞・島根版に
「国際会議 県に呼び込め」という記事がのった。
2013年に日本でひらかれた国際会議を 開催都市別にみると、
松江は8件で12位にランクされているそうだ。
1位の東京は228件、2位の京都が52件と、
上位の都市にはとおくおよばないものの、
10位の千葉と奈良が10件の開催なのだから、
人口20万人の町としてはよく健闘しているといえるだろう。
なんで国際会議をひっぱってきたいのかといえば、
地元でお金をつかってくれそうだからだ。
会場になることがおおい「くにびきメッセ」の中島哲専務理事は
「海外での島根県の知名度はゼロに等しいが、これまでの人脈も生かし、誘致していきたい」
とはなしている。

そうだろうか。
「知名度はゼロに等しい」をアドバンテージにしたのが
「鷹の爪」の自虐ギャグで、
島根県の印象がうすければうすいほど、
自虐ネタが効果的だった。
国際会議を誘致しようとするときにも、
「鷹の爪」に活躍してもらえばいいのにとおもう。
知名度のひくさをいかした宣伝をしたらいいのだ。
「鷹の爪」の作品のなかには、島根の自然と歴史を紹介したもののある
(島根県が依頼してつくってもらったのだろう)。
なによりも、「鷹の爪」のわらいは 日本人よりも、
むしろ外国人によろこばれるとかんがえられ、
「鷹の爪」をうりこむことが、そのまま島根の宣伝にもなる。
島根県の宣伝に、松江市ものっかればいい。
境港市が「鬼太郎ロード」など、妖怪で生きていこうときめたように、
島根は、そして松江も鷹の爪にかける。

2008年に吉田くんが「しまねSuper大使」に任命されて以来、
島根県の知名度がどれだけあがったかをおもうと、
これからも「鷹の爪」に島根県と松江市の宣伝を期待するのは
当然のながれではないか。
あの「鷹の爪」の舞台ともなった島根県といえば、
日本なれした外国人にも魅力的な開催都市にうつるだろう。
なにもいいところがないのに
だましてつれてくるわけではなく、
東京にはみられない松江の町なみやくらしぶりにふれるのは、
外国からの旅行者にとって めあたらしい体験となるにちがいない。

市の担当者は
「歓迎看板を用意したり、懇親会で安来節などの郷土芸能を提供したりといった支援メニューをそろえている」
というけど、
そんなことよりも、ふだんの生活をそのままみてもらえばいい。
松江のたたずまいに自信をもっていいし、
自信をもてるような町と市民であってほしい。
べつに国際会議の開催数がだいじなわけではないけれど、
大都市よりも松江をえらんでもらえるのは光栄だ。
そして、そのきっかけとして「鷹の爪」という適役がいてくれる。
知名度のひくさを宣伝にいかすのは
すでに「鷹の爪」が道をひらいている。
堂々と「穴場」「秘境」として松江をうりこめばいい。

posted by カルピス at 18:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月24日

「パン屋さんをおそいたいくらい」おなかがすいた

きのうは夜の11時ごろ、きゅうにおなかがすいてきた。
パン屋さんをおそいたいくらいの空腹、といえばわかってもらえるだろうか。
圧倒的な空腹をまえにすると、まともなことをかんがえられなくなる。
かんがえられるとしたら、パン屋さんがなければ
ハンバーガー屋さんで妥協してもいい、くらいのことか。
とにかくなにかお腹にいれたいというはげしい衝動だ。

そんなおそい時間に胃にものをいれたくないけど、
おなかがすきすぎてるとねむれないし、
エネルギーぎれをつぎの日までひきずってしまう。
いったんエネルギーがきれると、たとえ朝ごはんをたっぷりたべても、
脳や筋肉にエネルギーがいきわたるまでに そうとうな時間がかかり、
それまでからだがつかいものにならない。
わたしのからだはエネルギー効率がわるいようで、
ふとらないかわりに、つねに一定のグリコーゲンをたもたないと
いうことをきかなくなる。

で、おにぎりをつくってたべる。
おにぎりならそんなにお腹にこたえないし、
ノリとうめぼしはいつでもテーブルにおいてある。
『パン屋再襲撃』のふたりは、
なんでお米をたいておにぎりをつくならかったのか。
きっとお米をきらしているか、もともとお米をたべないひとたちなのだろう。
だったらコンビニは?いまならふつうコンビニにはしるだろう。
「僕」がだした「オールナイトのレストランを探そう」という提案が、
「夜の十二時を過ぎてから食事をするために外出するなんて
どこか間違ってるわ」と妻に却下されているので、
コンビニなんかで空腹をやりすごすのも問題外だったにちがいない。
空腹をみたせたら、なにをやってもいいわけではないのだ。
こまかな点をかんがえると、『パン屋再襲撃』は
ずいぶんきみょうな小説だ。
きっと、パン屋さんをおそいたいくらい おなかがすいたときに おもいついたはなしなのだろう。
動機とおそう店、それにメンバーをかえれば、いくらでもバリエーションができる。

ちゃんと『パン屋再襲撃』をよめば、
「パン屋襲撃」でかかえこんでしまった「のろい」を解消するために
もういちどパン屋さんをおそうことに気づく。
おにぎりやコンビニでのかいものでは のろいの解消につながらない。
いまでは「真夜中のパン屋さん」なんていうのもあるそうだから、
わたしとしてはそっちを提案したい。
ハンバーガー屋やさんより つつがなくのろいをとけるのではないか。

さいわいわたしの空腹は、とくにのろいとは関係なかったようだ。
おにぎり1個をたべるとお腹がぴったり納得して、
おだやかにねむりにつく。
のろいがなかったのではなく、
おにぎりにはのろいをなくす 特別な効用があるのかもしれない。

posted by カルピス at 20:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月23日

田んぼの草かりと水はり

いい天気がつづき、気温もあがってきた。
田んぼにでかけ、草かりと水はりをする。
春にそだった草が田んぼのなかでのびてきたので、
それを草刈機でかり、そのあと用水路から水をひく。
2週間ぐらい水をはった状態にしたら 草のいきおいがよわるので、
そのあと種まき(じかまき)というながれだ。
わたしがめざす福岡さん方式の自然農法がうまくいけば、
草かりはやらなくてもいいはずだけど、
いまの田んぼに種をまいたら きっと草にまけてしまうだろう。
最初だけはお手つだいさせてもらおうとおもった。

ふつうの稲作だったら、田うえのまえに3回ほどたがやして、
土をこまかくするところを、
わたしの田んぼは まえのもちぬしが
きょねんの秋にたがやした1回きりですませようとしている。
これからさき、どれだけ手間をはぶけるかたのしみだ。

水はりは、田んぼのちかくをながれる水路から
田んぼまで水をひけるようになっているので、
そこをせきとめればいい。
水の量は板をつかって調整する。
いきおいよく水がながれている水路なので、
4時間ほど水をひくと、田んぼに10センチくらい水がたまった。
田んぼから水をだす排水口も4ヶ所あり、
水をきりたいときはそこをひらくようになっている。
いまは水をためたいので、排水口は板でせきとめた。
せきとめたつもりでも、底のほうから水がもれていたけど、
そんなに完璧をめざさなくてもいいだろうと、
きょうのところはこのままにして、様子をみることにする。
あとはこの状態をたもつように、水の量を板で調節しながら
稲がそだつ数ヶ月をすごす。

わたしがかりた田んぼは、そこだけ孤立した場所にある。
農薬と除草剤をつかわないので、病気になった、虫がでたと、
まわりから苦情をいわれるとやりにくいけど、
おとなりさんに気をつかわなくてもいいのは すごくたすかる。
水の管理も、自分の田んぼのことだけをかんがえればいいようになっており、
水について、どこからも文句をいわれることがない。
だからといって、田んぼがすごくせまかったり、ひあたりがわるいわけでもない。
ほんとうに、絶好の場所をかりることができた。

草かりは、田んぼだけでなく、まわりの斜面や道路ぎわもうけもつことになる。
あしもとがわるい場所がおおく、
2時間ほど草刈機をうごかしていたら、
けっこうつかれてしまった。
きょうは田んぼでゆっくりしようとおもい、お弁当もちできている。
家からキャンプ用のガソリンストーブやヤカンなどもってきた。
お湯をわかして紅茶をいれる。ピクニック気分の休憩だ。
あそんでるみたいで すごくたのしい。
農作業というと、手間をかけてなんぼ、みたいにいわれており、
苦労とセットでかんがえられることがおおい。
福岡さんの自然農法は、
人間がよけいなことをしなくても、
ぜんぶ自然がうまくやってくれる、というもので、
まわりからすれば、なまけものの米つくりにみえるかもしれない。
わたしとしては、やらなくていいことは できるだけしないですませたい。

1ヶ月ほどまえにうえたジャガイモとエンドウのようすをみに、
畑へいってみる。
ジャガイモとエンドウとも、芽がでている。
たがやさずに、草のなかに種をうめたエンドウが、
その草のなかから顔をのぞかせている。
きれいに整理され、草がはえていない畑より、
草といっしょにそだっているエンドウはうつくしいとおもう。
わたしのすきな風景だ。
どんなふうにそだっていくだろうか。
DSCN1890.jpg

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月22日

サッカーと会社はそんなにちがわないかも

サッカーの試合をみていると、
仲間をしんじてはしりまわり、
仲間がミスしてもとがめず、
自分にパスをまわしてもらえなくてもくさらない。
10回に9回はむだばしりになっても
あいたスペースにはしりこむことを
なんどもなんどもくりかえしている。
サッカーは基本的に失敗するのが前提みたいなスポーツなので、
おもったところにボールがいかないし、こないのがあたりまえだ。
決定的なチャンスを仲間がはずすこともあるし、
自分だっていつミスをするかわからない。
おたがいの失敗について、けなしたり、あやまったりしない。
チームのためにつくすのが、けっきょくは自分のためにもなるとはいえ、
つくづく仲間への信頼がなければできないスポーツだとおもう。

つかれきってるときにミスをされるとあたまにくるだろうし、
ちゃんとカバーにはいらないといけないときに
手をぬかれたら腹もたつだろう。
仲間をしんじてはしりまわるなんて、
わたしにはとてもできそうにない。
おまえなにやってんだ!とつい文句をいうだろうし、
つかれてるときは、アリバイ工作でしかない
なんちゃってディフェンスでごまかしそうだ。
そのときの気分をすぐ顔や態度にだしてしまい、
チームの雰囲気をわるくするにきまっている。

サッカー選手はえらいなー、といつも感心してみてるけど、
かんがえてみたら、そういった態度だったり気もちのもち方は、
たいていの組織・集団でも必要なものだ。
チームのつよみをだせるよう、全員でいいところをうちだし、
にが手なところをカバーしあう。
気があわない同僚とでも、ちからをあわせて仕事をする。
仲間のファインプレーをみとめ、たたえる。
サッカーは90分と時間がかぎられているので、
いいところとわるいところが目につきやすいけれど、
仕事だって本質的にはにたようなものなのだ。
それができるチームや会社はすくないからこそ、
じょうずにマネージメントできる監督が貴重になってくる。

すぐにくさってしまうわたしは、
よいサッカー選手になれないばかりでなく、
組織でもうまくやっていく資質にかけるのだろう。 
調子よくいってるあいだはいいとして、
トラブルがあったり、リズムをくずしてるときに
仲間をしんじてむだばしりなんてできそうにない。
不平等にブーたれたり、はたらかない職員に嫌気がさしたりで、
そんな不機嫌や人間とは、自分でもいっしょにはたらきたくないとおもう。

すぐれたサッカー選手にも、まともな職員にもなれそうにないので、
わたしがめざしているのはよいサポーターだ。
わたしはひとのファインプレーをみとめるのが
わりとうまいような気がする。
おもてにはでてこないような、
献身的なプレーに気づき、評価することでなら
チームの役にたてるのではないか。
年齢のせいもあり、仕事の中心はわかい職員にまかせて、
周辺のことをストレスなくやりたいとおもうようになっている。
よいサポーターであることは、わたしのさいごのよりどころかもしれない。

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2015年04月21日

西加奈子さんの発想法に感心する

西加奈子さんが朝日新聞の文化欄で
「※食べられません」というコラムを担当されている。
きょうは「種」という題で、
どんなふうにものがたりの「種」が
西さんの胸にまかれ、そだっていくのかが あかされている。
西さんは、そしておそらくおおくの小説家は、
こんなふうに感動や気づきをふくらませていくのかと、
すっかり感心してしまった。

西さんが公園をランニングしているときに、
ご夫婦らしいおじいさんとおばあさんをみかけたのが「種」とのであいだ。
ふたりはグローブをもっておられたので、
おそらくキャッチボールをしようと公園にこられたのだろう。
そこにしりあいらしいもうひとりのおばあさんが合流し、
女同士のたちばなしがはじまった。
おじいさんはキャッチボールをはじめられず、
退屈そうにまっている、という場面だ。

・はやくキャッチボールがやりたくてうずうずしているおじいさんが
 壁当てをしていた姿は、叫びだしたいくらい可愛かった。
・実際はしりながら(西さんは)ちょっと叫んだ。
・その瞬間脳内物質がぶわあっと溢れ、
・私はこう思うわけだった。「書きたい!」

「叫びだしたいくらい可愛かった」という気づきがすばらしいと、
この記事をきりとりたくなった。
でも、そのさきをよみすすめると、
西さんの小説家魂とでもいうべき発想法で
気づいた材料を発展させていく過程があかされる。

・この素晴らしい景色をそのまま書くのではだめだ。
・例えば退屈のあまり本気で壁当てをしているのがおばあさんだったら
 もっと素敵かもしれない。
・それか、力強く素振りをしているのは?
・本格的なキャッチャーミットをはめていても面白いかも。
・この景色に出逢うのはどんな人間だろう。
・おそらくこの景色に出逢うまでは鬱々とし、苦しんでいた人物だ。
・それは女性だろうか、男性だろうか。
・子供かもしれないし、日本にやってきた外国人かもしれない。
・どうして苦しいのだろう。
・どうして救われたのだろう。
こんな風に、私の胸に物語の種が植えられる。種はいつか育ち、その頃には元見た景色はあとかたもなくなっていることもある。でも私は種が植えつけられた瞬間のことを忘れない。種は芽吹いた後も、私の胸の中でいつまでも光っているのだ。

引用という域をこえて、
西さんの記事をぜんぶのせてしまった。
文章を箇条がきにしたら、そのまま発想法として参考になる。
全文を引用なんて、われながらブログとしてどうかとおもうけど、
わたしがへたにいじれないほど「感動」が完璧にきりとられているので、
これでいいのだ、とひらきなおった。
発想法はテクニックだけど、「感動」は西さんならではのものだ。
だれもがキャッチボールをまつおじいさんをみて
「叫びだしたいくらい可愛かった」とおもうわけではない。
その感動がほんものだったから、
「叫びだしたいくらい可愛かった」という「種」は、
西さんのゆたかな土壌のもとでおおきくそだっていく。

よみはじめたときは、おじいさんをみてこころをうごかされる西さんに感心し、
そのさきをよむと、感動を発展させていくテクニックにプロをかんじた。
やわらかなこころと、感動をいかすテクニックがあるのだから、
西さんの本はとうぜんおもしろくなる。
わたしがその公園でキャッチボールをまつおじいさんをみたら、
なんとおもっただろうか。

posted by カルピス at 15:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月20日

『バグダッド・カフェ』「仲がよすぎる!」といってでていく女性を大切にしている作品

『バグダッド・カフェ』(バーシー=アドロン監督・1987年・西ドイツ)

あいた時間ができたので、
録画してあった『バグダッド・カフェ』をみる。
リビングというか、台所でみるのだから
どんな作品でもいいわけではない。
『ハート・ロッカー』はおもすぎるし、
『イングリッシュ・ペイシェント』には集中できそうにない。
というわけでえらんだ『バグダッド・カフェ』。

ドイツ人の女性旅行者ジャスミンが、
さびれはてたバグダッド・カフェにたどりつく。
あらゆるところにほこりがたまり、
ガラクタでいっぱいの、雑然としたカフェとモーテルだ。
みかねたジャスミンが徹底的にそうじをして
店をきれいにすると、だんだんにぎわいをとりもどす。
さびれたお店もなかなか味があったけど、
客としてすごすにはひどすぎるかもしれない。
カフェなのにコーヒーがないし、
モーテルの部屋だってただベッドがおいてあるだけだ。

製作は西ドイツとアメリカ合衆国ながら、
雰囲気はフランス映画をみているようだ。
ながれものの旅行者の存在が、まわりのひとたちをかえていく、
というよくありがちなストーリーで、
とくに新鮮味はないのに みせる。
こういうかぎられたせまい空間でのはなしがわたしはすきだ。
こんなところでおなじひとの顔をみながら
かわりばえのしない毎日をすごすのも わるくないような気がしてくる。
わたしの生活だってにたようなものなのに、
画面でみるとまたちがった味わいがかんじられる。

ジャスミンのマジックショーがあたり、
長距離トラックの運転手でにぎわうようになり、
店のスタッフがいきいきとはたらき、
すべてがうまくまわりはじめたときに、
モーテルでくらしていた女性が でていくといいだす。
「家族同然だったのに」とまわりがおどろいていると、
「仲がよすぎる!」とその女性がいった。
このひとことがあるのとないのとでは、
作品のなりたちがぜんぜんちがってくる。
和気あいあいとした雰囲気では、
やっていけないひともまた、この作品は視野にいれている。
うたとおどりの、にぎやかでたのしそうな画面のあとで
そんなシーンをもりこんだのがうまい。
ジャスミンみたいなながれものも、
さびれた店のままずっとほっておいたような ろくでもない店員たちも、
お店のたのしさにひかれてくる常連客も、
だれもを「バグダッド・カフェ」はうけいれる。
そして、「仲がよすぎる」といって
はなれていくひとの存在もまた、みんながみとめている。
それが「バグダッド・カフェ」の世界観だ。

なにかをなしとげるとか、
夢をかなえるとか、
お金もちになるとか、
そんなはなやかさがなくても、
ぼちぼちくらしていけたら それもまたしあわせな人生だ。
トホホなことがおおくて、これからもたいしたことなさそうなわたしの人生も、
それもまあいいか、という気にしてくれる。
愛があれば、それでなんとかなる。
愛がないと、人生はちょっとつらい。
「仲がよすぎる!」といってでていった女性が
どこかしあわせにくらせる場所にたどりつくようねがっている。

posted by カルピス at 14:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月19日

「自由ポータルZ」にのった いまいちばんうれていない文房具は?

「自由ポータルZはじめます」という記事が
「デイリーポータルZ」にのった。
http://portal.nifty.com/kiji/150411193212_1.htm
なんのことかというと、「デイリーポータルZ」に
だれでも投稿できるコーナーが もうけられたのだ。
おくられてきた作品について、
デイリーポータルZ編集部がコメントもよせるという。

「こんな皆様の作品をお待ちしております」として、
・デイリーポータルZみたいな余計なことがしてみたい
・自分としてはまともだけど人から「デイリーポータルZっぽい」と言われた
・デイリーポータルZで執筆したい

という対象者があげられている。
ポータルZみたいなことをしたいひとがいる事実、
そのひとたちにとびらをひらく こころみがすばらしい。

「デイリーポータルZの記事の考え方」が、
よく整理してまとめられている。
・好きなことをする
自分が好きなこと、興奮できることをするのが鉄則です。その楽しさを専門用語を使わずに人に伝えてください。興奮している自分の顔でもいいです。
うけるために危険なことをするのは避けてください。そういうことでうけるとどんどんエスカレートしなきゃいけなくて辛いですよ。
・知識よりもエピソード
情報なんて調べれば誰でも分かってしまいます。だったらそこにいた自分はどう行動していたか、周りの人はどうだったのかとか生々しいエピソードを書いてください。そっちのほうが人の記憶に残ります。
・3時間はねばる
記事を書くための行動は、3時間ぐらいまでは記事のクオリティと正比例するので、ある程度までは時間をかけるといい記事になります。
(それ以上かけてもあまり変わらないことが多いです)

これらの要点は、きっとおおくのことに共通するおさえどころだろう。

そして、「自由ポータルZ」にはじめて掲載された作品に、
”今、一番売れていない文房具は「情報カード」”
という記事があった。
http://yang-hua.hateblo.jp/entry/2015/04/11/195909
これは、文房具屋さんずきの作者が、
ふるくからある文房具店で
いまなにがうれない商品かを「調査」した記事だ。
その1位に堂々とかがやいたのが、「情報カード」だった。
「情報カード」とは、いわゆる京大型カードのことで、
「倉庫にいっぱいあんねん」と
お店のかたがはなしている。
作者の「くぼた先生」も、コメントをよせた編集部の林さんも、
「情報カード」の存在をしらなかったそうだ。

わたしは梅棹忠夫さんの『知的生産の技術』に刺激され、
京大型カード(情報カード)をつかっていたことがある。
読書カードや日記など、できるだけこのカードにかいた。
文具店でかっていてはお金がかかりすぎるので、
3000枚くらいを印刷屋さんに注文した。
『知的生産の技術』には、覚悟をきめるため、
1万枚くらいを注文したらいい、とかかれているけど、
3000枚でもかなりの分量がある。
「大それたことをしてしまったかも」と
ビビるくらいの量だ。
けっきょくアイデアノートとしていかすことができず、
そのおおくをつかいきれなかった。
30年くらいたったいまでも、そのときののこりが手もとにある。

そんな、ひとつの時代をつくったともいえるカードが、
いまは文具店でいちばんうれない商品になっているなんて。
投稿した「くぼた先生」にしたら、
こんなカードをつかっていた時代のほうが不思議なのかもしれない。
わかいひとはカードをみたこともないというあまりの断絶に、
ときのうつりかわりをつきつけられる。

「自由ポータルZ」にのったこの記事はすこしショックだったけど、
このコーナーは、記事のかき方など、すぐれた若手育成の場となっている。
コーナーをはじめた趣旨がすばらしい。
やらなくていいことをして、行かなくていい場所に行く。かっこよく言うと酔狂とか風流というものかもしれません。
自由ポータルZに投稿して余計な方向に人生の幅を広げてみよう!

わたしがこれまでブログにかいた記事で、
なにか応募できるものはないかとみたけど、
当然ながらみあたらない。
・好きなことをする
・知識よりエピソード
・3時間ねばる
という要点をおさえてないと
とても応募できる質の記事にならない。
「自由ポータルZ」は、やわらかいようでいて、
ふところのふかいコーナーだ。

posted by カルピス at 11:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月18日

ヤクルトがついに首位にたつ 期間限定の神さまの、村上さんへのごほうび

「村上さんのところ」では、
いまもまだ読者とのやりとりがつづいている。
それにともない、ある一定のわりあいで、
ヤクルトについての話題がとりあげられる。

そのヤクルトが、ついに首位にたった。
横浜と最下位をあらそいながら5位をめざそう、
みたいなことを村上さんはよく回答にかいている。
メールでの質問は、1月31日までによせられたものなので、
その時点でヤクルトファンがもつこころがまえとしては
おそらくただしかったのだろう。

開幕してしばらくは、予定どおり下のほうをうろついていたのに、
いつのまにか首位とはすごい。
これはもうなんといっても
毎日しこしこメールへの返事をかいている 村上さんへのごほうびではないか。
神さまはいるのだ。きっと期間限定の神さまだろうけど。
さあー、この調子でガンガンいくぞ!と
素直にはおもえないであろう村上さんの心境をかんがえると
ちょっとせつない。

わたしは野球をほとんどみない人間だけど、
子どものころはそれなりに野球少年だったし、
神宮球場にもいちどいったことがある。
たしか横浜(当時は「大洋ホエールズ」)との開幕戦で、
開幕戦にもかかわらずナイターだった。
はじめてみたナイターは
あかりにてらされた芝生がとてもきれいで、
いなかから東京をおとずれた少年に、
都会のうつくしさをつよく印象づけた。
試合では、田代選手があの独特のすくいあげるようなフォームで
3打席連続ホームランをうっている。
うちあげただけで、かんたんにスタンドまでとどいてしまう(ようにみえる)。
ホームランって、あんなにかんたんにうてるものなのかと
おどろいてしまった。

ネットでしらべると、その試合ヤクルトは0-9でやぶれている。
そして、この年のヤクルトは、
前年の優勝から一転して最下位となり、
広岡監督が途中で解任されるいまわしいシーズンだった。
田代選手の3打席連続ホームランは
そのさきゆきを暗示するスタートだったのかもしれない。
あのころのヤクルトには投手に安田と松岡、
野手では若松やヒルトンがいたことをおもいだす。
35年もむかしのはなしだ。

「村上さんのところ」でヤクルトがとりあげられても、
わたしにはもうなじみの選手がおらず、はなしについていけない。
サイトをもりあげてくれたヤクルトが、村上さんの予想どおり、
横浜との最下位あらそいを おさえられるだろうか。
それぐらいささやかなねがいは、
いくらヤクルトにつめたい神さまだって
きいてくれてもいいようにおもう。

posted by カルピス at 11:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月17日

『エージェント6』(トム=ロブ=スミス) レオ3部作の完結編に ふさわしいしあがり

『エージェント6』(トム=ロブ=スミス・田口俊樹:訳・新潮文庫)

レオ=デミドフ3部作の完結編だ。
1作目の『チャイルド44』をよんだのは5年まえで、
すごくおもしろかったことしかおぼえていない。
2作目の『グラーグ57』は、レオの忍耐力がだいぶつらかった。
3作目の『エージェント6』を、なかなかよむ気にならなかったのは、
『グラーグ57』がおもすぎたからだ。
しかし、『エージェント6』は
これまでのシリーズとはちがう構成が生きた作品となっている。
1作目・2作目がソビエト内だけのものがたりだったのに対し、
3作目はいっきに世界じゅうを舞台へとひろがった。
スケールがおおきく、ふかみもましている。
完結作としてふさわしいしあがりだ。

トム=ロブ=スミスは「つかみ」がばつぐんにうまい。
ものがたりは、アメリカ人の世界的なポップシンガー、
ジェシー=オースティンが、ソビエトにやってくる場面からはじまる。
オースティンはソビエトの共産主義体制をたかく評価しており、
ソビエトとしては、オースティンのモスクワ滞在ちゅうに、
市民がつくる行列や、商品のならんでいない棚といった
「事実」をみられるわけにいかない。
なんとかよそいきのすがた、つまり設備のととのったホテルや、
品物のあふれたスーパーなどをみせようとするけど、
オースティンはそんな見学さきに満足せず、
市民たちのいつもの生活をみたいと、案内する役人をこまらせる。
市民がくらすアパートや、行列ができたスーパーなど、
オースティンが気まぐでおもいつく見学さきを、
なんとかととのえようと右往左往する
ソビエトの役人たちがおかしい。
悲劇であるソビエトのまずしさと自由のなさが、
喜劇としておかしさをさそう。

しかし、かるいわらいは最初の場面だけで、
すぐに深刻でつらいものがたりがうごきはじめる。
家族にふりかかってきた悲劇にたいし、
レオは復讐をちかうのだけど、
ソビエトの体制でレオにできることはごくかぎられている。
いかりにもえながら、レオはどうにもならない現実に絶望する。

そのままずっと復讐ではなしをひっぱると、
たとえレオとしてはただしくても よんでる側はくるしかっただろう。
かなしみや絶望はもっともとしても、
個人的な復讐を1冊かけてやられるのはさすがにつらい。
トム=ロブ=スミスがうまいのは、
あいだにアフガニスタンをはさみ、
ものがたりのながれをいったんかえたことだ。
ソ連がアフガニスタンにのりこんだのは事実であり、
その歴史的な背景をいかして
国際社会の複雑なからみを作品にとりこむのに成功した。
アフガニスタンでのはなしがすすむにつれて、
もう復讐はないと読者はおもうし、
レオもまたほとんどあきらめていたのではないか。
アフガニスタンでのレオは、絶望のあまり正気をうしなっている。
なにしろあのレオが、ヒゲもそらず、ゴムぞうりがあたりまえの、
だらしのない男になっている。
いつもスキがなく、自分にきびしいレオをずっとみてきた読者にとって、
さすがのレオも策がつきたようにみえた。
ところがそうではなかったのだから、
おもいがけない展開がまったくうまい。

1作目の『チャイルド44』をよんだのは、
社員旅行でソウルへにいったときのことだ。
2泊3日とみじかい旅行だし、自由時間なんてあまりないだろうからと、
おろかなことに『チャイルド44』の上巻と、
あともう1冊しかカバンにいれなかった。
よみはじめるとすぐにひきこまれ、
かなりはやい段階で、よみおえたときのことを心配しはじめる。
下巻をつづけてよめないイライラに、わたしはたえられるだろうか。
『チャイルド44』というと、
ソウルのうすぐらいスターバックスで、
のこりのページ数を気にしながら
夢中によんだことをおもいだす。

『エージェント6』も、1作目におとらずおもしろい。
よみはじめるひとは、
ぜひ下巻もあわせて用意されることをおすすめしたい。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月16日

「日本タイトルだけ大賞」に宮田珠己さんの作品がノミネート

『本の雑誌 5月号』で宮田珠己さんが
「日本タイトルだけ大賞」をとりあげている。
宮田さんの本が2冊もノミネートされたのだそうだ。
「本の中身は評価の対象じゃないので、
 褒められても20%ぐらいのうれしさ」らしいけけど、
それにしても2冊えらばれたら たいしたものだ。

宮田さんは、いいかげんそうな本の内容とはうらはらに、
タイトルにはものすごく気をつかっている。
「中身とマッチしているかどうかは、実際にはとても重要なポイント」
「よくあるのが、セリフ+ジャンル名パターン」など、
タイトルを分類・分析してみせる。
「うまくハマれば結構面白いので、私もこの線で考えてみることはときどきある」
など、いろんな面からちゃんとふかくかんがえておられるのだ。

タイトルがうまいとおもうのは椎名誠さんで、
『わしらは怪しい探検隊』
『インドでわしも考えた』
『哀愁の街に霧が降るのだ』
など、タイトルをみただけでよみたくなる。
「日本タイトルだけ大賞」は、今回が7回目といい、
もっとむかしからあれば椎名さんはノミネートの常連になっていたのではないか。

なお、大賞には
『人間にとってスイカとは何か』(池谷和信・臨川書店)がえらばれている。
3月3日の朝日新聞によると、
スイカの原産地のアフリカで、スイカが鍋やせっけんなど幅広く生活に利用されている実態を紹介しながら、人間とのかかわりを探っている。
という。
たしかに興味をひかれるタイトルで、
わたしはふつう「あなたにとって◯◯とは何か?」という質問がきらいだけど、
こんなふうに正面からスイカをつきつけられると
その迫力にタジタジとなる。
ほんとうに、人間にとってスイカとはなんなのか。

朝日新聞といえば、
いつもだと本屋大賞の受賞作および、この賞の意義などを 社会欄でとりあげるのに、
ことしは「ひと」欄に上橋菜穂子さんがのっただけで
印象でいえば黙殺にちかい。
本屋大賞の実行委員会と朝日新聞とのあいだに
なにかあったのか、あるいは
それだけ本屋大賞が賞として市民権をえたあらわれかもしれない。
上橋さんの受賞作『鹿の王』は、いかにもおもしろそうだけど、
わたしと本屋大賞とはあまり相性がよくなく、
何冊かつづけて「はずれ」だったので
今回はあわててかわずに必然的なであいをまちたい。

なお、宮田さんのチェックポイントから『鹿の王』をみると、
タイトルだけではなんのことかわからず、あまりいただけない。
「中身とマッチしているかどうか」
からははずれているし、
「タイトルだけ」で勝負できるほどのインパクトもない。
タイトルとは、このように なかなかむつかしいものなのだ。
だからこそ「本の中身は評価せず、タイトルだけで勝負」という
「タイトルだけ大賞」が必要になったともいえる。
タイトルがさえていて、なかみも最高、みたいな最強の本のために、
なんねんかしたら、またべつの賞がつくられるかもしれない。

posted by カルピス at 13:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月15日

「劇団ハタチ族」の公演をみにいく。365日連続公演プロジェクトがすばらしい

となり町である雲南市へ、「劇団ハタチ族」の公演をみにいく。
http://20zoku.jp/
「劇団ハタチ族」はいま、東京でなくても演劇がまいにちみられる町をめざし、
365日の連続公演に挑戦ちゅうだという。
365日まいにち公演!
なんと大胆かつ無謀で魅力的なくわだてだろう。
これこそハタチのわかものがいどむにあたいする冒険だ。
この挑戦にはルールがあって、
「観客0人になったとき、そこでチャレンジを中止する」という。
お客がいなければ意味がないので、
当然であり、いい覚悟だ。
https://faavo.jp/shimane/project/439
すこしまえにフランスのコミックサーカス「うさぎたべるズ」の公演をみて、
こんな舞台を日常的にみられたらすてきだとおもった。
「劇団ハタチ族」は、まさにそのねがいにむけて挑戦してくれている。

きのうの題目は『演劇入門』。
初日の公演ということで、
「開演前はいつもよりも賑やかな雰囲気でございました」
と劇団のブログにかかれている。
http://20zoku.jp/?p=1082
お客さんは17人(うち子どもひとり)もあつまった。
どんな舞台かわからないので、会場につく前は
客がひとりだとこまるなーとおもっていた。雨の日の平日だったし。
チェリバホールという、この地方ではわりとおおきなホール、
のロビーに舞台がつくられている。
舞台のまえに10脚ほどのイスが2列ならぶ。
夜8時からの開演で、10分まえには前列がもううまっていた。
お客さんたちは、劇がはじまるまえからたのしそうだ。
きれいな女性がおおい(ような気がする)。
「ハタチ族」がすきですきで、という愛がつたわってくる

『演劇入門』といっても、どんな内容なのかまるでしらされてない。
エンヤの曲にあわせてゆっくりおどりながら
役者たちが舞台にあがってくる。
スローモーションは役者の基本なのだそうで、
劇団とはなにをするところか、また、
役者はどんなふうに練習しているのかを、この劇では紹介するという。
というのはおもてむきのテーマで、
ほんとうは
「ハタチ族の演劇はどうみればいいのか」
というお客さんからのといかけにこたえた内容らしい。
「ハタチ族」の劇とはいったいなにか。
まじめにみたらいいのか、なにをもとめたらいいのかという、
根源的な疑問だ。
どんなコンセプトにするのかは、
劇団が劇によってコードをしめしながら
だんだんと「こんなかんじ」ができあがってくるのだろう。

なんでもありです、と代表の西藤さんはいう。
たとえば写真をとってもいいし、ケータイも自由です、
お客さんはなにをやってもいいんです、
といっていたところに役者のあきふみさんのケータイがなり、
ゴニョゴニョいいながら舞台をおりてしまった。  
こんなかんじが「劇団ハタチ族」なのだ。

みおわったあとでも、
いったいどんな劇だったのかといわれたら
たしかによくわからない。
よくわからないけど、すごくたのしかった。
きっと、それが「劇団ハタチ族」には大切なことなのだろう。
みていたお客さんたちも、とてもリラックスして しあわせそうだ。
舞台と客席との一体感がすばらしい。
コントと演劇をわけるギリギリの線をラジカルにつき、ばかばかしくておかしい。
「こんな作品やっていいのか!」と、
感きわまった西藤さんがきゅうになきだす。
「だれだよ365日やろうなんていったのは!もうしんどいよ!」
なんて本音もでてきてすごくおかしい。
いい雰囲気だ。

舞台がおわったあとの挨拶で、
4ページにもみたない脚本だったとあかされる。
「こんなかんじ」でつないであるらしい。
それでいいじゃないかとおもった。
まいにち公演まで、あと261日。
またみにいこう。こんな劇団があるのはすばらしい。
プロジェクトがみごとに成功するようねがっている。

・追記1
「反省会」までアップされている。
https://www.youtube.com/watch?v=YAFWbgRZfBI

・追記2
鷹の爪団の「吉田くん」のふるさとは、
ここ雲南市にある吉田村(いまは町)です。

posted by カルピス at 12:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月14日

ピピの調子がわるいので、金沢ゆきをとりやめる

金沢にすむ友だちのところへ あそびにいこうとおもった。
松江から金沢まで500キロ。
高速道路はつかわないので、どこかで1泊したほうがいい距離だ。
そうしたおとまりもふくめて 5日間するにすると家族につたえる。

「野宿野郎」の愛読者としては、
ビジネスホテルなんかにとまるのは論外なので、
当然とちゅうの町で野宿をこころみる。
まえに金沢へいったときは、
オバマ大統領で有名になった福井県・小浜市の公園にとまった。
そうしたいき・かえりの野宿をふくめて
たのしみにしていた金沢ゆきだ。
スーパーで1杯ずついれるタイプのドリップコーヒーや
まぜるだけのスパゲッティソースをかい、出発にそなえる。
寝袋はもちろん、ガソリンストーブまで準備した。
自転車とちがい自動車でいくのだからと、つい荷物がふえてしまう。
雨ふりがつづいたり、冬みたいにさむかったりで、
なかなか出発できなかったけど、
ようやく「いまだ!」という日がみえてきた。

でも、それとあわせるようにピピの調子がわるくなり、
トイレまでおしっこをがまんできないことがふえてきた。
ふとんのなかでおしっこをされないように、
朝わたしがピピをかかえてトイレにむかうと、
だかれながらおしっこをはじめてしまう。
いっしょにくらす母の部屋のコタツでも
なんどかおしっこをしていた。
ピピとしてもそうした事態は不本意なようで、
「失敗」したあとは不機嫌そうにテーブルの下でうずくまっている。

そんなピピをみた配偶者は、あろうことか
「こんなときになんで旅行にいくの。
 面倒みきれないかもしれない」
なんてつめたくいいはなつ。
よくあるうつくしいはなしでは、
調子のわるいペットを心配しながらも、
「あとのことはわたしたちがやるから、旅行をたのしんできて」
と家族がいってくれるけど、現実はもっとシビアだ。
それにしても「面倒みきれない」なんてひどい。
5日間るすにすれば、きっとピピはいつかおしっこをするだろう。
そのときに だいじにされなかったら、ピピがかわいそうだ。
残念だけど、金沢ゆきをあきらめて、松江にとどまることにする。

金沢の友だちは、ちょうど(といっていいのかどうか)仕事をやめたところで、
わたしの滞在にじっくりつきあってくれそうだったのに。
わたしがわかいころ、その友だちと、もうひとりべつの友だちの3人が
おなじ町にすんでいた。
いまは、3人とも世間でいうまともな仕事につかず、
仕事をはじめてもすぐにやめたりで、不安定にくらしている。
3人が3人とも定職をつづけられないのは、
なにかおたがいにひかれるものがあったのだろう。
今回の金沢ゆきでは、そんなはなしをたっぷりしようとおもっていた。

旅行をとりやめたと金沢の友だちにつたえる。
おたがいに残念ながら、つぎの機会をねらうしかない。
せっかく野宿の準備をしたのだから、
ちかくの海か山へひとりででかけようともおもったけど、
けっきょくめんどくさくなり、すべてをとりやめた。

朝、ねぼけまなこのピピは、だっこするとおしっこしてしまうので、
タオルを腰にあててオシメのようにつかうコツがわかってきた。
タオルがおしっこをすえば被害はない。
それに、ムニャムニャやってるあいだにすばやくベッドから床におろせば、
呆然としながらも あんがいひとりでトイレにいけるようだ。
いまのところ、たべたりのんだり、
そしてトイレもなんとかできるとはいえ、
かなり不安定な状態でつなわたりしているようにみえる。
ある日きゅうにおきあがれなくなり、なんて日がきても
あわてなくていいように、後悔しないように、
できるだけつきそっておきたい。
のがした旅行は残念だけど、いまはピピといっしょに夜をすごせるしあわせに感謝しよう。

posted by カルピス at 14:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月13日

自転車のパンク修理がうまくいかなかったこと

むすこがわたしに「パンクなおせる?」とたずねてきた。
通学用の自転車がパンクしたそうだ。
ママチャリのパンク修理はあんがいやっかいなので、
「なおせる」とは よう断言できない。
とはいえ、多少なりとも自転車に関心をもつものとして
できることはやってみようと、
修理道具をだしてパンクのようすをみる。

わたしはマウンテンバイクとシクロクロスを1台ずつもっていて、
日常的にも自動車より自転車にのることがおおい。
きっとむすこはそれなりの知識と経験が、わたしにあるとおもっているのだろう。
でもほんとうは、なさけないことに、
きわめてメカによわいトホホな自転車のりで、
これまでまともにパンクをなおせたのは いちどだけだ。
それさえも修理に2時間くらいかかった。
うまくいかなかったときは どうなったかというと、
なおったとおもったらべつに2つ穴をあけたり
(タイヤレバーのつかい方がわるいとこうなる)、
パッチをはってもちゃんとくっつかなかったり
(パッチが反対にはってあったそうだ)、
とろくなことがなく、
このごろはたいてい自転車屋さんにもっていくようになった。
自転車修理の本をみると、
パンクなんてかんたん、とか
なれれば10分で、とかいてあるのに、
わたしがやるとチューブをタイヤからはずすだけでもたいへんだ。

むすこの自転車をみると、空気をいれるバルブが
チューブからとれてしまっている。
よほどいいかげんなチューブだったのだろう。
自転車は、むすこがホームセンターでかってきた中国製で、
1万円ぐらいだったとおもう。
きっと敗戦まぎわの日本の飛行機みたいに、
ペラペラの材料でつくってあるのだ。

わたしの手におえないので、自転車屋さんにもっていこうと
チューブをもとにもどそうとするけど うまくいかない。
バルブだけでもはめようとしたら、
ナットがスムーズにまわらなくて、
スパナでちからずくまわしたらおれてしまった。
ローマ帝国末期の、まぜものをした銀貨みたいに、
なにかとんでもない材料でつくってあるみたいだ。

とはいえ、どうおおげさにかこうとも、
しょせんはたかが自転車のパンクだ。
それすらもまともになおせないことにがっかりする。
修理ができないだけでなく、もとにももどせないし、
よけいなことをして部品をこわしてしまった。
時間だけは1時間半もかかっている。
むすこの自転車なのだから、
自分で修理にいかせるのが筋だけど、
なんでこんな状態になったのかがしりたかったので、
わたしが自転車屋さんにもっていった。

自転車屋さんはタイヤのようすをみて、
「空気をいれないでのっていたからでしょう」といわれる。
空気がない状態でのっていると、
バルブに無理なちからがかかり、
ナットがねじれたりするそうだ。
バルブがチューブからはなれたのは、
値段なりの自転車だからで、
ふつうはこんなことにならない、といわれる。
けっきょくパンクではなく、バルブがはがれていたのが原因で、
それをまねいたのは空気がすくなかったからだ。
チューブを交換したので、修理代は3020円もかかった。
いくら自転車本体が1万円とやすくても、
こんなふうにあとからお金がかかるのだから、
やすものがいの銭うしないの、典型的なかいものだ。

自転車屋さんが修理するのをみていると、
タイヤをはずすまでにけっこういろんな部品をいじっている。
チェーンまでいったんバラさないと
タイヤはとりだせない。
ママチャリのタイヤ交換は、
とてもわたしの手におえるものではないことがよくわかった。
ただ、パンクだけならひとりでなおせるようになりたい。
わたしの技術では、どう訓練をつんでも
「ナリワイ」にはなりそうもないけど、
パンク修理は自転車のりとして最低限の能力だ。
今回の体験は、いろいろな意味で
あまりにもなさけなかった。

posted by カルピス at 12:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月12日

『2つ目の窓』(河瀬直美)の雑感

『2つ目の窓』(河瀬直美:監督・2014年・日本)

ストーリーの展開でたのしませるのではなく、
わたしが苦手とするタイプの作品だ。
それでも画面をおっているうちに、作品の世界にはいりこんでいる。
生と死とか、
奄美のうつくしく、あらあらしい自然など、
鈍感なわたしでも いろいろおもうところがある。
とはいえ、もっともらしい分析などできないので、
かんじたことをそのままならべてみる。

映画がはじまってすぐと、まんなかへんの2回、
ヤギをころす場面がでてくる。
ヤギの首筋にナイフをあて、皮膚をきりさき、血がほとばしる。
さっきまで生きていた動物が、あんなにかんたんに死んでしまうのだ。
そのあっけなさとともに、
いのちをうばう行為から目をそむけてしまう自分のよわさをしる。
動物の肉をたべながら、いまさら残酷などというつもりはない。
でも、わたしのかぼそい精神は、
ころされていくヤギのせつなそうな声にたえられなかった。
以前はこうではなかった。
子豚のあたまをトンカチでつよくたたいてころすところや、
宗教的な儀式として羊の首にナイフをあてる場にたちあっても、
冷淡にみつづけていた。
なにかがわたしのなかでかわったのだ。
本でも残酷な場面(そのどれもが動物にたいするものだ)につよく動揺してしまう。
残酷な表現だからダメだ、といいたいのではない。
かわった「なにか」を整理し、むきあわなければ、
いまのわたしの精神は あまりにもよわく、
世界に通用しないことをかんじる。

映画のおわりで、わかいふたりがはだかで海をおよぐ場面がある。
高校生のおさないからだつきではなく、
かといっておとなのからだでもない。
一般的にいって、高校生のからだつきは、
ムダな肉がついてないのはもちろん、
おとなとして必要な肉もついてないから、
なんだか奇妙に無防備で、イノセントにみえる。
たとえば『ウォーター・ボーイズ』にでてきた男の子たちは、
水泳選手としてたくましいからだつきなのではなく、
からだはおおきいけど、筋肉のつきかたがまだおさない。
そのアンバランスさがあの年頃の若者らしかった。
『2つ目の窓』のふたりには、そのアンバランスさがなく、
おとなではないのに成熟をかんじてしまった。
男の子のほうは、ほんとうに高校生だったのだから、
なぜそんな印象になったのかわからない。
制服をきているときは、いかにもそこらへんにいる高校生だったのに。

杉本哲太がうまかった。
どこかでみたことが・・・、とエンドロールで確認したら、杉本哲太だ。
村のおじさんが出演しているのかとおもわせるほど、
俳優の雰囲気をけしている。
これがあの『あまちゃん』にでていた駅長さんとはしんじられない。
つよい個性をうちだすよりも、
こういう役のほうがうまいひとなのではないか。

奄美の自然とひとのつながりのなかでは、
死はかなしいだけのものではない。
家族としたしいひとにみまもられ、
すきな曲をひいてもらってみとられるのは、
最高の死に方ではないか。
そして、死んだあとでも
のこされたひとたちとの つながりをかんじられるのだから、
死んでいくひとも、のこされるひとも、
こわさとさみしさをうけいれられる。
あんなにもおだやかな死を、わたしはしらない。

posted by カルピス at 10:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月11日

『ナリワイをつくる』(伊藤洋志)これからはこの方針でやっていこう

『ナリワイをつくる』(伊藤洋志・東京書籍)

ナリワイとはなにか。
 個人レベルではじめられて、自分の時間と健康をマネーと交換するのではなく、やればやるほど頭と体が鍛えられ、技が身につく仕事を「ナリワイ」(生業)と呼ぶ。
 これからの時代は、ひとりがナリワイを3個以上持っていると面白い。
はたらくというと、どこかの会社に就職するか、
なにかひとつの仕事を専門にやっていくかたちがおおいけれど、
それとはべつの生き方もある、というのが伊藤さんの提案だ。
なんだかいまの生活がくるしいなー、というひとは、
なにがなんでも会社につとめることだけが生きていく方法ではないと、
こうやって実例をしめされたら気がらくになるだろう。

「ナリワイ」というと、サービスを提供するのだから、
完全なかたちで相手に手わたしたいと ついかんがえてしまいがちだ。
しかし、この本ではあまり完成度をめざさないし、
相手にもサービスに依存しすぎない関係をもとめる。
もちろんぜんぜん仕事になってないようではダメだけど、
あるていど訓練したら、あんがいできることはおおい。
家をつくることも、床をはりかえるのも、
むかしは特殊技能ではなかった。
キーワードは「コツを覚えて特訓すれば人間たいていのことはできる!」だ。専門家という既得権益者の前にひるんじゃいけない。

この本でいう「ナリワイ」は、あまり専門的である必要はなく、
生活にむすびつき、必要にせまられた仕事
(草かりでも結婚式プランナーでも、家の床はりでも)を
いくつもくみあわせてくらしていくやり方だ。
3万円程度の「ナリワイ」をいくつかもち、支出をおさえれば
じゅうぶんにくらしていけるという。

田舎ぐらしはひとづきあいがむつかしいとか、
農業をはじめるには300万円なければとか、
いろいろなことをおもいこまされてきたけれど、
じっさいに現場にたってからだをうごかせば
あんがい仕事をみつけられるという。
もちろん田舎でなくたって、都会でもそうした生き方はできる。
ふつうに会社ではたらけば500万円もらえるこのご時世に、
「ナリワイ」でやっていこうとするひとは
まだそんなにおおくないから、
「そこには手付かずで広大なフロンティアがひろがっている」らしい。

この本には、どんなふうにナリワイをみつけたらいいのか、とか、
じっさいにナリワイをはじめるときのコツなどの
ノウハウについてもかかれている。
とはいえ、こまかいマニュアルではなくて、
基本となるかんがえ方をうちだしたもので、
こんなに楽でたのしいなら、
ぜひ自分でもやってみようという気になってくる。
会社につとめるいっけん安定したくらしも、
かんがえ方によってはリスクがたかい。
病気になるほどはたらくのは論外としても、
老後までの保障を会社や社会にもとめていると、
自分の人生をかなりの程度きりうりすることになる。
会社づとめがなんだかあわないとかんじるひとは、サブタイトルにある
「人生を盗まれない働き方」を、
すこしかんがえてもいいかもしれない。
ナリワイの考え方の真髄の一つは、稼がなきゃ稼がなきゃと外部の環境に振り回されるより、自分の生活をつくる能力を磨き、それをちょっと仕事にしてしまうほうが確実ではないか、ということなのである。

わたしはずっとまえからこういうくらし方に関心をむけていた。
支出をおさえるとか、1年間お金をつかわないで生きるとか、
すくないもちものだけでやっていくはなしがだいすきだ。
電気をつかわない生活にも興味がある。きっとケチなのだろう。
この本は、まさにそうした方針を全部ひっくるめたようなもので、
まさにわたしのためにかかれた本のような気がする。
わたしの弱点は社会性がないことなので、
そんな人間にも無理なくできるナリワイをつくっていこう。

posted by カルピス at 20:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする