2015年04月10日

『ただ走る哲学者 海外マラソン9連戦始末記』(原章二)気がるに参加できる海外のレースがうらやましい

『ただ走る哲学者 海外マラソン9連戦始末記』(原章二・平凡社)

この本は、『マラソン100回の知恵』の著者が、
なぜはしるようになったのかをふりかえっている。
そして、タイトルにもあるように、
海外で参加した9つのレースの紹介だ。

『マラソン100回の知恵』は、
100回もマラソンに参加した経験から、
どんな練習にとりくめば、マラソンが完走でき、4時間をきれるようになるか、
そして、さらにそのさきにすすむべき道までもがしめされていた。
今回のこの本は、『マラソン100回の知恵』よりも10年まえに出版されており、
原さんがはしりはじめたころをまとめたものだ。
原さんは、どのようにして市民ランナーの道をあゆみはじめたのか。

原さんは、フルマラソンのデビューをぶじにはたし、
でもちゃんと故障も経験し、
はしることのたのしさとむつかしさをかんじるようになる。
そうした、いわばいちにんまえの市民ランナーとしてスタートをきったころ、
原さんは仕事さきの大学で、半年間の研究休暇をとれることになった。
せかっくだから、外国のマラソン文化を体験してまわろうと、
原さんはおもな滞在さきにカナダのモントリオールをえらぶ。
この本は、休暇のあいまに半年間で6カ国・9つのレース
(フルマラソン7回・ハーフ1回・10キロレース1回)
に参加した記録である。
そして、おおくのレースに参加するうちに、
ひとはなぜはしるのかについて、
原さんはあるこたえにたどりつく。

原さんがはしりはじめたのは、よくあるはなしで
中年期をむかえたときに、生活習慣病の症状があらわれたからだ。
痛風・胆石・高血圧と、40代はんばで
10年間にわたる美食のツケがまわってきた。
体調がくずれ、酒や料理がおいしくなくなる。
これからもうまい酒、たくさんの料理をあきらめたくなかった原さんは、
もうはしるしかない状態だった。
練習しはじめたころは、息がすぐにあがって
30メートルもはしれなかったという。
それが、フルマラソンで3時間40分まで復活したのだから
(原さんは元陸上部で中距離専門)、
ランニングとの再会が、ギリギリまにあったというべきだろう。

こうやって、いくつもの海外レースを紹介されると、
コースのうつくしさや大会運営がうらやましくなってくる。
たとえば、海外レースは当日でも参加をうけつけてくれる大会がおおいそうで、
それだけはしることが ひとびとの日常となっているのがわかる。
日本だと、当日どころか、数ヶ月まえでも
参加がすぐにしめきられてしまう。
レースの数がすくないことと、立派な選手名簿をつくり、
しっかりした大会運営をめざしたりするからだろう。
参加するほうからしたら、どんな立派なレースよりも、
ささやかでもいいから参加できるレースのほうがありがたい。

また、原さんが参加したレースは、
どのコースもうつくしい景色のなかをはしれたようで、
わたしが毎年参加しているレースの単調さをおもうと すごくうらやましい。
田舎みちで、田んぼや川をながめながらはしるのは、
都会のひとにはめずらしいかもしれないが、
わたしにとってはあまりにもみなれた景色で 目あたらしさがない。
はしるだけでも気もちがいいような大会に、
ぜひ参加したいものだ。

ゴールしたあとのパスタパーティーもたのしそうだ。
レースのあとはともかく、レースまえの夜でも 原さんはしっかりワインをのみ、
土地の料理をあじわっている。
じょうぶな胃腸がうらやましいけど、
もっとも、だからこそ原さんは生活習慣病になるくらい
のみすぎ・たべすぎてしまったわけだけど。

原さんがいわれるように、
マラソンレースは世界中でおこなわれており、
気がるに参加できる大会もおおい。
何ヶ月もまえからひとつの大会にむけて調整しなくても、
旅行にいったついでに土地のレースをしらべるだけで、
かんたんに出場できそうだ。
トラベル&ランは、とくに気合をいれなくても
だれにでもひらかれている。
とにかく旅行にでかけてしまうことが肝心だ。

「ケベックシティマラソン」では、名誉会長による挨拶があったそうだ。
名誉職の挨拶は迷惑なことがおおいけど、
このかたのはなしはすばらしい。
関係者の努力を讃え、第一回ケベックマラソンの「歴史的意義」に触れ、その末永き将来を祈り、ランナーを鼓舞しつつ、マイペースを勧めるという、簡にして要を得た、そして情の籠もったものだった。

こんな挨拶をきけるなら、
参加したかいがあるというものだ。

わたしはまだタイのチェンマイマラソンしかはしったことがない。
つぎの旅行では、観光だけでなく、土地のレースについてもしらべてみたい。

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2015年04月09日

『星間商事株式会社社史編集室』(三浦しをん)オタクと商社をちからずくでむすんだおもしろさ

『星間商事株式会社社史編集室』(三浦しをん・ちくま文庫)

タイトルからわかるように、
ある商社の社史編集室が舞台だ。
主人公の幸代は同人誌が趣味のオタクで、
同僚には女ずきの30代男性と、
20代のキャピキャピギャルがいて、
編集室の責任者は、遅刻ばかりしている仕事のできない課長だ。
でだしでは、いかにダメなメンバーかがむりやり強調されており、
「ショムニ」をもっとドタバタにしたおわらい版ならちょっとつらいなーと、
あまり期待しないでよんでいく。
でも、そのうちに、社史と同人誌という、
いっけん関係ないふたつがうまくからみあってきて、
いいかげんそうにみせながら、じつはよくねられた設定なのがわかってくる。
あとになって気づくような、いろいろな伏線がじょうずにはってあるのだ。
ものがたりの壮大といってよい構成と、
メンバーのかるさがうまくあわさっている。

日本が敗戦から復興していくときに、
アジアの国々で商社がどんなやくわりをはたしたか。
そうした商社のあまりおもてにだしたくない過去と、
やおいの同人誌をむすびつけるなんて、
いかにボーイズラブずきのしをんさんといえども
よくおもいついたものだ。
登場人物がやおいのオタク、というだけでなく、
同人誌やコミケという小道具がうまくいかされており、
実社会ではおもてからみえないオタクの世界が
この小説の主役でもある。
かんがえてみれば、ページをわりふり、デザインをきめ、印刷会社と交渉し、製本までもっていくのは、
同人誌も社史もたいしてかわらないのかもしれない。

社史をつくるメインストーリーのなかに
同人誌にのる4つの小説がからんでくるので、
しをんさんはあわせて5つの作品をかきわけながら ものがたりをすすめることになる。
その作品というのが、ひとによまれたら赤面するしかないような
ロマンチックだったりボーイズラブのぬれ場(しかもオヤジの)だったりする。
幸代でなくてもかくのは はずかしいだろうけど、
同人誌にのせるというひとごとの設定なので、
しをんさんはあんがいたのしくあそべたのではないか。
たくみにかきわけてあり、わるのりにあきれながらもよませるから、さすがにしをんさんだ。

お仕事小説としてもよめないことはない。
こんなテキトーな職場だったら楽でいいだろう、という意味だけでなく、
ゆるいなかにも仲間でちからをあわせ、という場面がそれなりにあり、
ものがたりのクライマックスになっている。
基本的には正義感がつよく、仕事ができるひとたちなのだ。

それにしても、本書にも登場するコミケのもりあがりはすごい。
出店するひとたちと参加者をあわせると、
数十万人が国際展示場をおとずれるそうだ。
それだけおおくのエネルギーがうごく社会現象でありながら、
あくまでもオタクたちによる裏社会の行事としてとらえられている。
ものすごい数のひとがふかい関心をむけているにもかかわらず、
おもての社会ではほとんど認識されていないオタクの世界を、
しをんさんは作品にうまくいかした。
これをかいているとき、しをんさんは趣味のオタクであそびまくり、
たのしくてしかたなかったのではないか。
そのたのしさが、作品にそのままあらわれて、
しをんさんならではの快作となっている。

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2015年04月08日

『文藝別冊 梅棹忠夫』文化が各民族間の相互理解をむつかしくしている

『文藝別冊 梅棹忠夫』(河出書房新社)

本をおさめる場所がととのったので、
すこしずつ本の整理にとりかかる。
これまでベッドのよこの本棚にあった本をうつし、
そこに梅棹さんの本をもってきた。
それぐらいのことは、もっとはやくやればいいのに、
なんとなく とくによみかえすことのない本を
いちばん手もとにおいていた。
こうやって、梅棹さんの本が手をのばすところにあると、
どれをとってめくっても 興味ぶかい再読となる。

ゆうべは『文藝別冊 梅棹忠夫』(河出書房新社)をひっぱりだす。
裏表紙の写真は、「カラコラム・ヒンズークシ探検」のときのもので、
当時35歳だった梅棹さんが やわらかな表情で
ジルニーの村のひとたちとうつっている。
このときの探検は、のちに『モゴール族探検記』として、
梅棹さんのはじめての著作となる。
探検記でありながら、格調がたかく、ふかい教養のにじみでる作品で、
なんどよみかえしても、そのつど完成度のたかさにおどろかされる。
歴史的な知識を土台に、目のまえでおきているできごとを観察し、仮説をたてる。
アフガニスタンでおきている部族間対立の分析から、
これから世界の国々は、各民族の相互関係が問題になることを予言する。
そんな作品を、写真にうつるこのわかい青年が、デビュー作としてかきあげたのだ。

梅棹さんのことをかくと、
さきをみる目のたしかさにいつも感心してばかりだ。
『梅棹忠夫』には「人類の未来」という題でおこなわれた
桑原武夫氏との対談(1972年)がのっており、
ちかい将来、人口が70億をこえるであろう地球を、どうとらえるかがはなされている。
梅棹さんは、各民族間の相互理解をむつかしくしているのが文化だという。
殺し合いの最大原因はそれですよ。文化ですよ。価値体系が違うということ、相手の価値体系を認めないということが文化の本質なんですから。

文化に頼れば頼るほど、結果は相互不信と相手の価値体系を認めないということが出てくるだけやないかと。文化の多様性というのは、観念の上ではありえますよ。しかし、そのメカニズムを考えてごらんなさい。そんなことできないですよ。

世界中にいろいろな文化があることをしるのは大切だ。
しかし、理解しようなどとおもっても、かんたんにはできないことを
梅棹さんはしりぬいていた。
文化には多様性がある。それはそれとして、そっとしておかないと
へんにいじったりしたらどうにもならなくなる。
観念のうえで、わたしたちは文化に優劣がないことをしっている。
しかし、それでもなおさまざまな民族問題がおきるのは、
おおくのひとが自分たちの文化こそただしいと主張するからだ。
文化がもつ問題があまりにむつかしいから、
対談のなかで梅棹さんは脱文化をかかげている。
日本固有の文化をまもらないと国がほろびる、なんていっていると、
ほかの国とうまくやれるはずがない。
おたがいに自分たちの文化の優秀さをほこるのではなく、
固有の文化から脱出することが、
これからの世界ではすくいになるというかんがえ方だ。
それぞれ固有の文化などというものは、人類全体にのしかかっている人口七十億の圧力のものすごさを考えたら、吹けば飛ぶような存在です。というより人類全体の運命から考えたら、完全にマイナス要因だということです。要するに、相互不振の原因になるだけですよ。

文化は価値体系であり、価値体系はひとつしかとりいれられない。
文化のすばらしさはよく耳にするけど、
文化のあつかいづらさについて
わたしはあまりきいたことがない。
梅棹さんのいわれることと、おおくのひとがかかえる問題意識とは あまりにもちがう。
こんなはなしを1972年にされても、
なかなか理解されなかったのではないか。

「みんぱく」は世界の文化を紹介する博物館であり、
世界にはこんなにたくさんの民族が
それぞれの文化をもっていることをおしえてくれる。
自分たちの文化だけを特別あつあつかいしてはならないことが、
「みんぱく」の展示をみればよくわかる。
自分たちの文化を尊重し、ほこりにおもえばおもうほど、
ほかの文化をうけいれられなくなるのだから、文化はやっかいだ。
相互不振が原因でおこるさまざまな国際問題は、
梅棹さんが指摘する文化のむつかしさをあらわしている。
梅棹さんのいうように、文化からはなれるしかないのだろうか。

posted by カルピス at 13:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月07日

じかまきによる米づくりの日程をたてようと、高校のときの先生をたずねる

お米づくりについて作業日程をたてようと、
高校のときの先生をたずねる。
わたしは農林高校の農業科を卒業しており、
米づくりでお世話になった先生が、
近所にすんでおられるのだ。

卒業してもう35年もたつけど、
さいわい先生はわたしのことをおぼえていてくれた。
当時は2人ひとくみで10アール(50メートル×20メートル)の田んぼをうけもち、
生徒が中心になって米づくりにとりくんでいた。
先生のなかに、じかまきを研究されている方がおられたけど、
当時のわたしにとって、米づくりは水田と田うえがセットになっており、
不耕起やじかまきは、自分に関係のない、かわった農法でしかなかった。
今回わたしがたずねた先生は、じかまきの担当ではないものの、
そばにいてよくみておられたので、
きっと参考になることをおしえてもらるだろうとたずねたのだ。

でも、なにぶんむかしのはなしなので、
先生はじかまきのやり方をよくおぼえていないといわれる。
田んぼに水をはる時期や、種の量などを確認したかったけど、
はっきりしたことがいえないそうだ。
とにかく日程表をつくらないと、
いつ・なにをしたらいいのかわからないので、
いろいろ質問しながらだいたいのカレンダーをつくった。

・「きぬむすめ」という、5月20日ごろに田うえをする品種をつくるので、
 種まき(じかまき)は5月10日にする。
・そのまえに田んぼに水をはり、あぜぬりをすませておく。
・じかまきは、発芽をそろえるのがむつかしいので、
 種をまくまえに4日ほど水につけて芽がでやすいようにしておく。
・種を5倍ほどの量の粘土(または赤土)とまぜてよくねり、
 種子団子をつくる。
・種の量は、ふつうの田うえだと、
 わたしがかりた7アールには1.8キロでいい計算になるが、
 じかまきは芽がでにくいので、2.5キロ全部をまくことにする。
・草をおさえるために、芽がでてからも田んぼは水をはった状態をたもつ。

確認できたのはこれだけだ。
いちばん気がかりなのは、ぶじに芽がでることであり、
それさえうまくいけば、あとはまじめに草とりをすればいい。
福岡さんの本には、ひとがなにをしなくても、自然がすべてをやってくれるという、
生き方としての自然農法はかかれていても、
具体的にいつ・どんな作業をしたらいいかはほとんどふれられていない。
ネットでも、じかまきの情報はあまり参考にならなかった。
せっかくまいた種が鳥やネズミにたべられたり、
草がおいしげって稲がまけたらどうしようなど、
いろんな心配ごとが頭をかすめる。
何年もかけていい状態の田んぼにもっていくのであって、
はじめからたくさんの収穫をのぞまないほうがよさそうだ。
うまくいかないこともおおいだろう。
いつ・なにをしたのかを記録にのこして
来年以降の米つくりにつなげていきたい。

なんてかくと、いまから失敗をきめつけているみたいだ。
もちろんほんとうは、めちゃくちゃうまくすすんで、
なんにもしないのに たくさんお米ができました、
というあまい夢をみている。
大豊作となり、見学のひとでこみあったらどうするかを心配しておこう。

posted by カルピス at 14:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月06日

このごろ気になったこと

”むすこによる「おれおれ詐欺」”
おれおれ詐欺がよくやりだまにあがる。
ひどいはなしだ。とんでもないやつがいる。
でも、他人がやるから非難されるけど、
じつのむすこだって、あんがいにたようなことをしていたりして。
実質的にはむすこと「おれおれ詐欺」が、
たいしてかわらないことをした場合には、
「むすこ詐欺」というのだろうか。

”おおきな曲がり角”
「日本の安全保障が大きな曲がり角をむかえようとしています」
となにかの番組でいっていた。
「大きな曲がり角」って、よくきく表現だけど、
どんな曲がり角だろう。
外国語の直訳なのか、日本的ないい方なのか。

”旅番組の女性レポーター”
旅番組で女性が「かたり」をやると、
なぜあんなにうれしくてたまらないみたいに
うっとり、ふわふわ、夢ごこちなしゃべり方になるのだろう。
旅行にでかけている「非日常感」をだそうとすると、
だれもがああいうはなし方になってしまうのか。

”まつがい”
「ほぼ日」の「まつがい」に
体重計に乗るとき、
つい、
お腹をひっこめてしまいます。
変わらないですよね。
(ダイエット中)
 
という報告がのった。
ほんとうにこれは「まつがい」なのか。
お腹をひっこめると、あるいは息をひそめると、
とうぜん体重計の針は その分をさしひいてくれる(はず)。
もしそうでないのなら、
あまりにも人情味がない、という気がする。

”ほんとうは、”
「鷹の爪」をみていたら、
レオナルド博士が巨大化してロボットになり、
なかまのはずの菩薩峠くんを攻撃しはじめた。
ダークワールド(わるいやつ)が
「どうなってるんだ?」と部下にきくと、
「たぶんほんとうは仲がわるいんだとおもいます」
と部下がこたえる。
「たぶんほんとうは仲がわるいんだとおもいます」。
すばらしい。
「ほんとうは仲がわるい」のに
いっしょにいることって、社会ではよくある状況で、
それをすぐにみやぶった部下はさえてる。

posted by カルピス at 12:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月05日

『世界食激動』 「買い負け」し、牛肉がはいらなくなるのは問題か

『世界食激動』(NHKスペシャル)をみる。
中国が世界中から食糧をかいあつめるようになり、
「買い負け」する日本には、牛肉や大豆が
これまでのように はいらなくなっている状況が紹介されている。
経済力をつけてきた中国が、どんな政策をとるかによって、
食糧の世界市場でさまざまな影響をおよぼしている。
ついこのまえまで、やすい牛丼がたべられたのに、
いまではずいぶん値あがりしたし、
このさき材料の確保はもっとむつかしくなりそうだ。
牛肉や大豆だけでなく、回転寿司でたべる魚や、
カラアゲにつかう鶏肉だって
これまでのようにはたべられなくなるかもしれない。

中国にすむ10億人が先進国のように肉をたべはじめれば、
こうした状況になるのはわかっていたはずだ。
番組でもいっていたように、それだけの牛や豚に必要な飼料が中国にはない。
飼料をつくる負担に中国の環境はたえられないし、
飼料をもしつくったとしたら、べつの食糧を輸入しなければならなくなる。
中国が大量の大豆を輸入するようになったことで、
ブラジルでは環境破壊がすすみ、異常気象がすでにおこっている。
世界の環境は、あたらしく10億人分の胃袋をやしなう余裕はない。

「たべたいものが自由にたべれなくなっては絶対にいけない」
と日本の商社のひとがはなしていた。
商社の立場からいえばそうだろうけど、
これまでが異常だった、とかんがえることもできる。
日本だけがひとりじめして、世界中から食糧を輸入できたほうがおかしかったのだ。
日本の経済力がおち、より競争力のある国があらわれれば
今回のように「買い負け」るようになる。
牛肉も大豆もマグロも、輸入にたよれなければ
自分の国でまかなうしかない。
わたしは、バターが品うすになっただけで
不自由をかんじるだらしのない人間だけど、
あくまでも個人的な意見として、
なにがなんでもいまの生活水準をまもろうとはおもわない。
毎日たべていた肉を、週にいちどにへらすようになっても、
それはうけいれなければならない変化であり、
むしろそちらのほうがもとめられる姿なのではないか。
世界中から食糧をかいあつめる生活は、
世界のどこかに負担をかけている。

それにしても、中国の人口10億人は、ものすごい圧力だ。
日本各地での「爆買い」が話題になっているけど、
それを世界中でやっているのだから
どうしてもいろんな国とぶつかるようになる。
旅行ひとつをとっても、
中国人観光客がたくさん花見におとずれたために、
日本のホテルが満室になったとニュースになっていた。
特需だと、いまはよろこんでいても
そのうち日本にとって、そして世界じゅうで、
中国人旅行者のうごきがおおきな問題になるのではないか。

posted by カルピス at 11:34 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月04日

『マラソン100回の知恵』(原章二)ただしい市民ランナーへのみち

『マラソン100回の知恵』(原章二・平凡社新書)

このごろスピードをとりいれたトレーニングに関心がむいており、
手もちのマラソン本をよみかえしている。
この本は、5年まえによんでそれなりに感心したはずなのに、
いつのまにか自分流のトレーニングにもどり、
内容をすっかりわすれてしまった。
いったいどんな本だっただろうか。

「はじめに」で、
「これは市民ランナーの市民ランナーによる市民ランナーのための本である」
と宣言してある。なぜそんな本が必要なのか?
名ランナー・名コーチはエリートマラソンの専門家だが、市民マラソンの専門家ではない。(中略)距離は同じでも、走る人間がちがう。走る人間がちがえば、走り方がちがう。

今回よみかえしてみたのは、わたしのトレーニングにおいて、
スピード練習をどう位置づけるかを はっきりさせたかったからだ。
たいていのマラソン本は、ゆっくりはしる練習とともに、
スピードをとりいれたメニューもすすめている。
わたしもこのまえからヤッソ800をためしたり、
ウィンドラン(100メートルほどを全力で)をとりいれたりしている。
しかし、スピード練習にはさまざまな方法があり、
うっかり足をつっこむと、マニアックになりすぎるし、
故障をかかえやすい。
ウィンドランをためしたつぎの日には、さっそくヒザがいたくなった。
ランニング愛好家レベルのわたしには、負荷がつよすぎるみたいだ。
フルマラソンが4時間台の市民ランナーにとって、
どれだけのスピード練習が適切なのか。

たとえば、ぶじにフルマラソンを完走したら、
つぎの段階としてスピードをとりいれた練習をしたくなるところだけど、
原さんは、
市民ランナーが市民ランナーであるかぎり、これまでとちがう練習をすることはないと思う。妙ないい方だが、市民ランナーはつねに練習不足であるほうが安全である。というのも、初フルを完走したばかりの段階で頑張りだすと、そこでまた故障することが多いからだ。

とはいうものの、いつもおなじ練習ではあきてしまうので、
「週に二、三回の練習のうち体調にいい一回を、少しだけスピードを上げて走ってみることである」
と、ごくささやかに「スピード練習」をすすめられている。

ウィンドスプリント・ペース走・距離走について原さんは否定的だ。
コーチも仲間もなしに単独で走ることの多い市民ランナーが、硬苦しく考えて真剣に取り組むものではないと思う。インターバルトレーニングを含めて、それらは三時間半を切って、サブスリーを目指して走友会に入ったり、わざわざランニング教室に通うランナーがするものと考えたほうが無難である。

ペース走と距離走は、どちらも専門家の本にはいろいろ書いてあるが、はっきりいって市民ランナーにはやりづらい。(中略)仮にそれが可能だとしても、なにか悲壮で滑稽な感じがする。別に滑稽でもかまわないが、あまり夢中になってやっていると危険なこともある。市民ランナーの練習コースは、子どもも老人も犬も猫も歩き、自動車も自転車も通るふつうの道である。

ケガにつながりやすいことと、
市民ランナーの域をこえてしまうからだ。
そして、公園や道路は一般市民がつかう場所でもあるという指摘はおもい。
市民ランナーには市民としてまもるべきマナーがあるのではないか。
いくら自分がうえのレベルをめざしたいからといって、
ジムや公園ですきにふるまっていいわけではない。

わたしがいくジムでも、
ながらくはしるひとがトレッドミルを占用してしまい、
ほかのひとの迷惑になっている例がある。
じつは、それはわたしのことで、
そんなふうにトレッドミルでランニングの練習をされたら
まわりのひとはたまらないと自分でもおもう。
1回に30分と、時間をくぎっているジムもある。
ランニングの練習は、外でやればいいのだ。
ジムのトレッドミルは、健康づくりとしてあるきたいひとが
優先的につかえたほうがいい。
市民ランナーは、ジムや公園をつかわせてもらっているという感覚をわすれないでいたい。

この本は、べつに市民ランナーとしてのマナーをといてあるわけではなく、
ちゃんとフルマラソンをめざすときの方法もおしえてくれる。
たとえば6章の「マラソンの走り方 パートU」には、
20キロをすぎて くるしくなったときにどうやりすごすかがかかれている。
なにかいいことをかんがえる、はなし相手をみつける、
はしり方をかえてみる(スライド、着地の仕方、うでのふりなど)。
そして、それでもダメになったら?
「お母さーん、助けてぇー」と叫ぶのである。こころのなかで叫ぶのだから平気である。叫んでいると、ほんとうにお母さんが助けてくれるような気持ちになる。そんなときに「お父さーん」はだめである。お父さんは笑ってみているだけである。

名コーチたちの本は、「お母さーん」とさけべなんて、まずおしえてくれない。

マラソン本にしてはめずらしく、原さんの本は文章がこなれている。
とおもったら、原さんは早稲田大学の教授なのだそうだ。
原さんのようなランナーがわたしたちの側にいてくれるのはこころづよい。
市民ランナーの品格までかんがえたくなったのは、
この本がはじめてだ。
わたしはただしい市民ランナーとして、
原さんのトレーニング法を参考にしようとおもう。
4時間がきれる気はしないけど、
2回目のマラソンにむけてはしりたい。

posted by カルピス at 20:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月03日

「世界で最も寒く過酷なレース カナダ・ユーコン700km」選手たちの健闘がすばらしい

「世界で最も寒く過酷なレース カナダ・ユーコン700km」(NHK-BS)をみる。
700キロの雪みちを、13日以内にはしるレースだ。
はしっても、スキーをはいても、
マウンテンバイクをえらんでもいい。
いつやすんでも、反対にどれだけさきをいそいでもかまわない。
すべての判断は、体調と環境条件を材料に、
選手たちが自分でくだしていく。
さむさはきびしく、気温はマイナス40℃までさがる。
汗がさむさでこおると体力をうばうので、
どうやってさむさから身をまもりつつ、
汗に対応するかに おおくの選手があたまをなやませる。
チェックポイントにつくと、
すぐに汗をかいた下着をかえるひとがいたし、
湯たんぽをせおってはしるひともいた。
2年に1どおこなわれるこのレースにむけて、
選手たちは工夫をこらしてくる。
前回はリタイアしたので、こんどこそ、というひともおおい。

番組の前半は、きびしいさむさを
どうのりこえるかに焦点があてられていた。
判断をあやまれば、いのちの危険にさらされる。
さむさでくつしたがくつにこおりついたり、
体温がさがりたべものをうけつけなくなったり。
いずれもほおっておけばレースをつづけられない。
なによりも、まだこのさきにまっている とほうもない距離と困難に
自分の存在のちいささをおもいしらされ、無力感をおぼえるようだ。
どこで、どれだけやすんでもいいルールだから、
やすみなしでいけるところまではしりつづけるか、
計画的に休憩をとり、自分のペースをまもるのかは
それぞれにまかされている。
さきをゆくほかの選手たちをみれば、あせりもでてくるし、
さむさとつかれは正常な判断力をうばってゆく。
野営してもいいけれど、制限時間以内に
チェックポイントをまわらなければ、
そこでレースはうちきりとなる。

番組の後半は、環境のきびしさよりも、
むしろ、このとほうもないレースに参加しなければえられない、
すばらしい体験がかたられる。
さむさのなかを10時間以上はしりつづけることを、
あたりまえのようにくりかえす選手たち。
レースがすすむにつれ、ものすごい距離をはしりつづけながら
あんがい平気そうな表情の選手がいるのでおどろいてしまった。
番組をみているうちに、選手たちは
レースに参加しているというよりも、
そうやって雪みちのなかをすすむのが、
ごくあたりまえな日常となっているようにおもえてくる。
700キロを13日と、あまりにもスケールがおおきいので、
どこかでとばしたり、
すこしぐらいチェックポイントでいそいだところで
決定的なアドバンテージにできるようなレースではない。
目のまえにひろがるのこされた空間を、
黙々とすすみつづけるしかない。
あまりにも機械的に距離をかさねていくので、
700キロにいどんでいるすごさがかんじられないくらいだ。
はしっていると、森の木々や動物がはなしかけてくる、
といっていた選手がいた。
100キロ・150キロのウルトラマンでも
意識がどこかへとんでいくというから、
700キロもはしれば正気がたもてなくてあたりまえだ。
オーロラにであえた選手もいた。
もうろうとした意識のなかでみるオーロラは、
とても現実の風景におもえなかったのではないか。

なんどもくりかえすけど、
なにしろ700キロというめちゃくちゃな距離だ。
フルマラソンの42.195キロでさえじゅうぶんくるしいのに、
700キロはその16倍以上になる。
マラソンをはしりおえたあと、
「はい、あと15回です」といわれたら、
ふつうのひとは気がへんになるのではないか。
アスファルト道路とはちがい、
雪みちはたとえ2キロでもあるくのはたいへんだ。
それが延々と700キロもつづくのだから、
レースのくるしさは、じっさいにはしったひとでないとわからない。
そして、レースの手ごたえもまた、参加したひとだけがしっている。

夜になれば自分のヘッドライトのあかりだけがたよりだ。
自分のちからをしんじてもなお、
ひとりですすむ原野はどれだけこころぼそいことだろう。
からだや精神に、なにがおこっても不思議はない。
生きてたどりついただけでもしんじられないような快挙だ。
そんななかゴールをむかえた選手たちは、よろこびだけでなく、
なにか不思議な感覚をおぼえているようにみえる。
その格別なおもいは、完走した選手だけのものだ。

優勝したのは61歳のイタリア人、エンリコさんだ。
「自分の限界をためしたい。
 極限のレースだけがその限界をこえる機会をあたえてくれる」
とレースをふりかえってはなしていた。
今回のレースでは、700キロ部門に30名が参加して、
そのうち完走したのは12名だった。
ゴールにちかづいてくると、
かちまけやタイムあらそいだけでなく、
レースに参加していること自体に
選手が価値をおいているのがつたわってきた。
あまりにもきびしいレースに、
わたしにはただ選手たちの健闘をたたえるしかできない。
このレースを完走したことは、
なにごとにもかえられない宝物になるだろう。

posted by カルピス at 20:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月02日

種もみをかいに。種もみはどこでかえるのか

米づくりというと、田うえをするのが一般的だけど、
じかまきといって種もみを田んぼに直接まく方法もある。
福岡正信さんの自然農法は、不耕起直播という、
たがやしていない田んぼに種もみをまくやり方だ。
田うえをするにしろ、じかまきにしろ、
いずれにしても、種もみがないとなにもはじまらない。
どこにいけば種もみをかえるのだろう。
ホームセンターにはないだろうし、米屋さんでもなさそうだ。
ネットをみると、バケツでつくるような米つくりセットとしては
種もみがあつかわれていても、
田んぼでの米つくりを対象にした種もみはのっていない。
かいたいものが、どこにいけばあるのか
よくわからないことがときどきある。
はじめてすることは、なんだってわからない。
でも、うごきまわり おしえてもらえば、たいていのことはなんとかなる。

わからないままにJAの販売店にいってみる。
「種もみがほしくてきました」というと、
おどろいたことにドンピシャだった。
すぐにもうしこみの紙をもってこられる。
そこに希望するお米の品種名と、どれだけの量が必要かをかきこめばいい。
苗をそだてられるんですか、とたずねられたので、
機械がないのでじかまきをしようとおもっています、とはなす。
手で田うえをするよりも、じかまきをためしてみたい。
じかまきは、農機具をもたないものが米つくりをしようとした場合、
いちばん現実的で、ほとんど唯一の方法のようにおもえる。
とはいえ、まだなにもやってないのだ。えらそうなことはいうまい。
10アールむけだと、2.5キロいりの種もみが1950円だ。
品物がはいりしだい連絡します、といわれた。

心配していた種もみの確保がぶじにすみほっとする。
これで米づくりのスタートがきれる。
うれしくなって家にもどったら、
農協の営農指導部の方から電話がかかってきた。
お店によったら、じかまきするというひとが種もみをかいにきたといわれ、
ちゃんと米つくりができるかどうか、確認したかったようだ。
確認というか心配というか、
米つくりをなにもしらないものに、
大切な種もみをうれない、とおもわれたのかもしれない。
「じかまきすると、もみが水にうきますからね」と
なにやらよくない方向にはなしがいきそうな雰囲気だ。
そんなやり方でうまくいくわけない、といいたげで、
これがふつうの反応だとおもう。
田んぼをたがやして、田うえをするのがあたりまえの米つくりにあって、
たがやさずにじかまきするのはかなり異端だ。

まったくはじめての米づくりではなく、2回ほど経験していること、
種もみは粘土団子にしてまくので水にうかぶ心配はない、と説明する。
すると、なぜか相手の態度はすっかりかわり、
「あ、団子にしてまかれるんですね。
 その方法だったら大丈夫です」といわれた。
種もみを粘土団子にしてまくのは
そんなに一般的なやり方ではないとおもうけど、
まったく対応がかわったのはどうしてだろう。
とにかく無事に種もみをうってもらえるので一安心する。
おもしろい方向になにやらうごきはじめた。

posted by カルピス at 11:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年04月01日

『走ることについて語るときに僕の語ること』でみえてくる村上さん

「村上さんのところ」をよんでいると、
はしることがよく話題にのぼっている。
そしてそのせいか『走ることについて語るときに僕の語ること』
にふれるひとがおおい。
2007年の10月に出版されたこの本を、
ひさしぶりによみかえしてみる。

第1章の「誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう?」は
2005年8月5日のハワイ州カウアイ島・ノースショアの風景からはじまり、
ランニングをめぐる心境を村上さんが率直にかたる。
どこかでよんだことがあるかんじ。
『遠い太鼓』だ。
旅行記とランニングという、
まったくちがう対象についてかかれているのに、
かきだしの雰囲気がよくにている。

この本は、11月のニューヨーク・シティマラソンにむけてはしる日々を中心に、
ランニングをはじめたきっかけや初マラソンのおもいでなどがかかれている。
村上さんがとなえる「カキフライ」論理のランニング版といっていいだろうか。
はしることをどうとらえるかは、
村上春樹とはどんなかんがえ方をするひとなのかを
ありのままにあらわすことになる。

前回の大会が屈辱的なレース展開とタイムになり、
もうあんな目にあいたくないと、村上さんは
「まったくゼロからやり直すつもりで」
ニューヨーク・シティマラソンをめざす。
しかし、ランナーとしての記録を客観的にみれば、
村上さんは失敗した大会のまえ、具体的には40代後半から、
すこしずつおちていくタイムをとめられなくなっていた。
シティマラソンは、だから村上さんにとって
自分がまだやれることをタイムのうえで証明する大切な機会だった。
月に300キロ以上はしりこみ、調整も順調にすすむ。
これまでの努力がきっとむくわれるだろうと、
期待と不安を胸に村上さんはレースをむかえる。
練習スケジュールは滞りなくこなした。これほど順調に練習を積み重ね、レースに臨んだことは、これまでにたぶん一度もなかったはずだ。だから近年になく良いタイムが残せるだろうという期待(あるいは適度な確信)があった。あとはただ貯まったチップを現金に変えればいいだけなのだと。
トレーニングをしているとよくわかるけど、
日々のトレーニングは、その都度ある種の決断によってなりたっている。
日常の仕事や雑用をやりくりして はしる時間を確保し、じっさいにはしるのは、
おげさにいえば奇跡みたいなものだ。
そんなトレーニングを、村上さんはほとんど毎日のようにつみあげてきた。
レースにむけたコンディションづくりに一発逆転はなく、
毎日のつみかさねが正直に記録となってあらわれる。
そして、しっかりトレーニングをつづけたからといって、
かならずしもそれ相当の結果をむかえるとはかぎらないのが残酷なところだ。
シティマラソンは、残念ながら村上さんにとって満足のいくレースとはならなかった。
いくら考えても納得がいかない。(中略)もし天に神というものがいるなら、そのしるしをちらりとくらい見せてくれてもいいではないか。それくらいの親切心があっていいのではないのか?
村上さんが毎日のようにはしっていることはよくしられている。
しかし、どんなトレーニングをこなし、
どんな心境でレースにいどむのかは、この本にはじめてかかれた。
55歳になり、もういちど4時間をきろうと目標にかかげ、
ほとんど毎日しっかりはしりこむ。
それがどれだけたいへんな、そしてすばらしいことかが
はしってみるとわかる。

「村上さんのところ」をみると、村上さんに影響されて
たくさんのひとがはしりはじめている。
はしることがすべてをかえるわけではないにしても、
みえてくる景色はすこしちがってくる。
カキフライをたべなければカキフライの味はわからない。
たべなくてもとくにさしさわりはないけど、
たべないでいるのはもったいないかもしれない。

posted by カルピス at 12:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする