2015年04月12日

『2つ目の窓』(河瀬直美)の雑感

『2つ目の窓』(河瀬直美:監督・2014年・日本)

ストーリーの展開でたのしませるのではなく、
わたしが苦手とするタイプの作品だ。
それでも画面をおっているうちに、作品の世界にはいりこんでいる。
生と死とか、
奄美のうつくしく、あらあらしい自然など、
鈍感なわたしでも いろいろおもうところがある。
とはいえ、もっともらしい分析などできないので、
かんじたことをそのままならべてみる。

映画がはじまってすぐと、まんなかへんの2回、
ヤギをころす場面がでてくる。
ヤギの首筋にナイフをあて、皮膚をきりさき、血がほとばしる。
さっきまで生きていた動物が、あんなにかんたんに死んでしまうのだ。
そのあっけなさとともに、
いのちをうばう行為から目をそむけてしまう自分のよわさをしる。
動物の肉をたべながら、いまさら残酷などというつもりはない。
でも、わたしのかぼそい精神は、
ころされていくヤギのせつなそうな声にたえられなかった。
以前はこうではなかった。
子豚のあたまをトンカチでつよくたたいてころすところや、
宗教的な儀式として羊の首にナイフをあてる場にたちあっても、
冷淡にみつづけていた。
なにかがわたしのなかでかわったのだ。
本でも残酷な場面(そのどれもが動物にたいするものだ)につよく動揺してしまう。
残酷な表現だからダメだ、といいたいのではない。
かわった「なにか」を整理し、むきあわなければ、
いまのわたしの精神は あまりにもよわく、
世界に通用しないことをかんじる。

映画のおわりで、わかいふたりがはだかで海をおよぐ場面がある。
高校生のおさないからだつきではなく、
かといっておとなのからだでもない。
一般的にいって、高校生のからだつきは、
ムダな肉がついてないのはもちろん、
おとなとして必要な肉もついてないから、
なんだか奇妙に無防備で、イノセントにみえる。
たとえば『ウォーター・ボーイズ』にでてきた男の子たちは、
水泳選手としてたくましいからだつきなのではなく、
からだはおおきいけど、筋肉のつきかたがまだおさない。
そのアンバランスさがあの年頃の若者らしかった。
『2つ目の窓』のふたりには、そのアンバランスさがなく、
おとなではないのに成熟をかんじてしまった。
男の子のほうは、ほんとうに高校生だったのだから、
なぜそんな印象になったのかわからない。
制服をきているときは、いかにもそこらへんにいる高校生だったのに。

杉本哲太がうまかった。
どこかでみたことが・・・、とエンドロールで確認したら、杉本哲太だ。
村のおじさんが出演しているのかとおもわせるほど、
俳優の雰囲気をけしている。
これがあの『あまちゃん』にでていた駅長さんとはしんじられない。
つよい個性をうちだすよりも、
こういう役のほうがうまいひとなのではないか。

奄美の自然とひとのつながりのなかでは、
死はかなしいだけのものではない。
家族としたしいひとにみまもられ、
すきな曲をひいてもらってみとられるのは、
最高の死に方ではないか。
そして、死んだあとでも
のこされたひとたちとの つながりをかんじられるのだから、
死んでいくひとも、のこされるひとも、
こわさとさみしさをうけいれられる。
あんなにもおだやかな死を、わたしはしらない。

posted by カルピス at 10:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする