2015年04月21日

西加奈子さんの発想法に感心する

西加奈子さんが朝日新聞の文化欄で
「※食べられません」というコラムを担当されている。
きょうは「種」という題で、
どんなふうにものがたりの「種」が
西さんの胸にまかれ、そだっていくのかが あかされている。
西さんは、そしておそらくおおくの小説家は、
こんなふうに感動や気づきをふくらませていくのかと、
すっかり感心してしまった。

西さんが公園をランニングしているときに、
ご夫婦らしいおじいさんとおばあさんをみかけたのが「種」とのであいだ。
ふたりはグローブをもっておられたので、
おそらくキャッチボールをしようと公園にこられたのだろう。
そこにしりあいらしいもうひとりのおばあさんが合流し、
女同士のたちばなしがはじまった。
おじいさんはキャッチボールをはじめられず、
退屈そうにまっている、という場面だ。

・はやくキャッチボールがやりたくてうずうずしているおじいさんが
 壁当てをしていた姿は、叫びだしたいくらい可愛かった。
・実際はしりながら(西さんは)ちょっと叫んだ。
・その瞬間脳内物質がぶわあっと溢れ、
・私はこう思うわけだった。「書きたい!」

「叫びだしたいくらい可愛かった」という気づきがすばらしいと、
この記事をきりとりたくなった。
でも、そのさきをよみすすめると、
西さんの小説家魂とでもいうべき発想法で
気づいた材料を発展させていく過程があかされる。

・この素晴らしい景色をそのまま書くのではだめだ。
・例えば退屈のあまり本気で壁当てをしているのがおばあさんだったら
 もっと素敵かもしれない。
・それか、力強く素振りをしているのは?
・本格的なキャッチャーミットをはめていても面白いかも。
・この景色に出逢うのはどんな人間だろう。
・おそらくこの景色に出逢うまでは鬱々とし、苦しんでいた人物だ。
・それは女性だろうか、男性だろうか。
・子供かもしれないし、日本にやってきた外国人かもしれない。
・どうして苦しいのだろう。
・どうして救われたのだろう。
こんな風に、私の胸に物語の種が植えられる。種はいつか育ち、その頃には元見た景色はあとかたもなくなっていることもある。でも私は種が植えつけられた瞬間のことを忘れない。種は芽吹いた後も、私の胸の中でいつまでも光っているのだ。

引用という域をこえて、
西さんの記事をぜんぶのせてしまった。
文章を箇条がきにしたら、そのまま発想法として参考になる。
全文を引用なんて、われながらブログとしてどうかとおもうけど、
わたしがへたにいじれないほど「感動」が完璧にきりとられているので、
これでいいのだ、とひらきなおった。
発想法はテクニックだけど、「感動」は西さんならではのものだ。
だれもがキャッチボールをまつおじいさんをみて
「叫びだしたいくらい可愛かった」とおもうわけではない。
その感動がほんものだったから、
「叫びだしたいくらい可愛かった」という「種」は、
西さんのゆたかな土壌のもとでおおきくそだっていく。

よみはじめたときは、おじいさんをみてこころをうごかされる西さんに感心し、
そのさきをよむと、感動を発展させていくテクニックにプロをかんじた。
やわらかなこころと、感動をいかすテクニックがあるのだから、
西さんの本はとうぜんおもしろくなる。
わたしがその公園でキャッチボールをまつおじいさんをみたら、
なんとおもっただろうか。

posted by カルピス at 15:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする