アイデアがうかんだら すぐにメモするように、といわれるけど、
たとえばはしったりおよいだりしているときには これができない。
なにかひとつのテーマをかかえ、それを煮つめながらはしるときはいいけど、
ふいに頭にうかんできたときのアイデアをどうするか。
それが、うまくしたもので、
そういうときのアイデアは あんがい頭のなかにのこるようだ。
はしりながらなにかアイデアがうかんだとき、
ちょっとそれをいじくりまわしていたら 記憶に固定される。
たとえ1時間後でも、メモ帳にむかえばすぐにかきこめる。
はしるのは、認知症の予防にもいいそうだから、
記憶はジョギングとの相性がいいのかもしれない。
と、はしったあと安心してメモにむかったら、
なにをかこうとしたのかわすれていたという
ウソみたいな体験をこのまえした。
「ダメじゃん、おれ」、とおもわず自分でつっこむ。
さいわいすこしかんがえたらおもいだせたけど、
「わすれたらこまる」という緊張感がなければ、
いくらジョギングといえども記憶からこぼれてしまう。
このときは、関連のない3つのことが はしりながら頭にうかんでいた。
2つまではなんとかなっても、3つ目は わたしの脳に負担がおおきすぎるみたいだ。
意外とこまるのが映画館で、
いいセリフやなにか気づいたことをメモしようとしても、
まっくらな場内ではむつかしい。
メモ帳としてつかっているロディア(12番)は、
ちいさすぎて くらいところでは役にたたなかった。
A4のノートだと、こんどはおおきすぎてあつかいにくいし、
ガサゴソへんなうごきをして、まわりの迷惑にもなりやすい。
また、紙面がひろいからといってたくさんかくと、
まえにどこまでかいたかわからなくなって、うわがきしたりする。
京大型のB6でもまだおおきい。
けっきょくわたしにはA6サイズがちょうどいいとわかった。
おおきなリングでとめてあるメモ帳がみつかり、便利につかっている。
かきこむごとに どんどんページをめくれれば、1件1項目の原則がまもれる。
もうひとつやっかいなのはお風呂にはいっているときだ。
わたしはたいてい本をもちこんで半身浴をしてるので、
なにかおもいついたときは、
その本の裏や表にある白紙のところをつかうようになった。
いぜんはなんとか線はひけても、
本に関係ないことなんて とてもかけなかったのに、
このごろはそういった抵抗がなくなった。
古本屋さんにうれなくなるけど、
お風呂にいるあいだモンモンとするよりもましだと おもうようにしている。
まえに『サザエさん』をみていたとき、本をまたいだカツオを サザエさんがしかっていた
(そういうサザエさんは、波平さんをまたいでカツオのもとにつめよっていた、というのがオチ)。
いまのわかいひとは、本をまたいだらいけないなんて感覚がわかるだろうか。
きたないかきこみをしながら、ときどき『サザエさん』のはなしをおもいだす。
2015年05月31日
2015年05月30日
『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ) 「気が付けば朝・・・」のこわさ
『アル中ワンダーランド』(まんしゅうきつこ・扶桑社)
ブログの『オリモノわんだーらんど』をみて、
そのつきぬけたわらいにすごさをかんじた。
このひとは、ただものではない。
で、すごくたのしみにこの本をかったのだけど、
こちらはわりとフツーにアル中を啓蒙する内容だった。
わらいはなく、お酒にまつわるまんしゅうさんの 負の体験談だ。
なぜまんしゅうさんは、お酒をのまずにはおれなくなったのか。
吾妻ひでおさんの『失踪日記2 アル中病棟』には、
すじがねいりの酒のみが アル中になっていく経緯がかかれているけど、
まんしゅうさんのこの本では、
アル中がもっとそこらへんにころがっているふつうの状況だ。
アル中には、すきでお酒をのんでいるというよりも、
お酒をのめば なんとか世間とむきあえるから、
とりあえずいまをのりきるためにのむ、というひともいるのだ。
病院をたずねたまんしゅうさんに、
お医者さんがしずかに宣告する。
本のさいごには、まんしゅうきつこ×小田嶋×中川淳一郎による「アル中鼎談」がついている。
やっとアル中からたちなおったまんしゅうさんにむかい、
中川さんは
「でもさ、まんしゅうさん。今後本当にお酒を飲まなくてもいいの?
だってそれだけ優れた肝臓を持つ人なんだったら、
節制して飲むんだったら大丈夫そうじゃない?」
なんてもちかけている。
まったく ひどいおじさんだ。
まんしゅうさんは
「うーん、実は迷ってるんですよね。
この本を描き終わったら、1杯だけ解禁しようかな・・って」
みたいに、けっこうあやふやな気もちだ。
小田嶋さんは
「絶対にスリップして、また飲酒が止まらなくなっちゃうと思いますよ。
やめたほうがいいです」
とちゃんと とめている。
お酒をやめられて 無事に社会復帰をはたしたら、
こんどはこういうさそいがまっているのだ。
わたしはまんしゅうさんのような「内蔵エリート」ではないので、
アル中になる心配はほとんどないけれど、
「飲みたい気持ちを我慢できないのはアルコール依存症です」
というお医者さんの診断には背筋がゾクッとする。
表紙には、わりとかわいらしいタッチの絵がかかれている。
しかし本編は、そんなみかけのおあいそははぶいてしまい、
とことん精神状態をリアルにあらわした絵でせまる。
だからよけいにこわい。
ブログの『オリモノわんだーらんど』をみて、
そのつきぬけたわらいにすごさをかんじた。
このひとは、ただものではない。
で、すごくたのしみにこの本をかったのだけど、
こちらはわりとフツーにアル中を啓蒙する内容だった。
わらいはなく、お酒にまつわるまんしゅうさんの 負の体験談だ。
なぜまんしゅうさんは、お酒をのまずにはおれなくなったのか。
吾妻ひでおさんの『失踪日記2 アル中病棟』には、
すじがねいりの酒のみが アル中になっていく経緯がかかれているけど、
まんしゅうさんのこの本では、
アル中がもっとそこらへんにころがっているふつうの状況だ。
アル中には、すきでお酒をのんでいるというよりも、
お酒をのめば なんとか世間とむきあえるから、
とりあえずいまをのりきるためにのむ、というひともいるのだ。
病院をたずねたまんしゅうさんに、
お医者さんがしずかに宣告する。
アルコール依存症ですねほんの数年でアル中ができあがってしまうなんて、こわい。
飲みたい気持ちを我慢できないのはアルコール依存症です
本のさいごには、まんしゅうきつこ×小田嶋×中川淳一郎による「アル中鼎談」がついている。
やっとアル中からたちなおったまんしゅうさんにむかい、
中川さんは
「でもさ、まんしゅうさん。今後本当にお酒を飲まなくてもいいの?
だってそれだけ優れた肝臓を持つ人なんだったら、
節制して飲むんだったら大丈夫そうじゃない?」
なんてもちかけている。
まったく ひどいおじさんだ。
まんしゅうさんは
「うーん、実は迷ってるんですよね。
この本を描き終わったら、1杯だけ解禁しようかな・・って」
みたいに、けっこうあやふやな気もちだ。
小田嶋さんは
「絶対にスリップして、また飲酒が止まらなくなっちゃうと思いますよ。
やめたほうがいいです」
とちゃんと とめている。
お酒をやめられて 無事に社会復帰をはたしたら、
こんどはこういうさそいがまっているのだ。
わたしはまんしゅうさんのような「内蔵エリート」ではないので、
アル中になる心配はほとんどないけれど、
「飲みたい気持ちを我慢できないのはアルコール依存症です」
というお医者さんの診断には背筋がゾクッとする。
表紙には、わりとかわいらしいタッチの絵がかかれている。
しかし本編は、そんなみかけのおあいそははぶいてしまい、
とことん精神状態をリアルにあらわした絵でせまる。
だからよけいにこわい。
2015年05月29日
『無人島に生きる十六人』(須川邦彦) 明治時代の日本人によるサバイバル記録
『無人島に生きる十六人』(須川邦彦・新潮文庫)
なにかの本で椎名誠さんが絶賛していたのでよんでみる。
実話なのだそうだ。
明治32年(1899年)に、日本の帆船がミッドウェー島ちかくで座礁し、
乗組員16人がおよそ半年のあいだ 無人島ですごしている。
船長の中川氏がリーダーとしてのりくみ員をまとめ、
1年後に全員が無事に日本へもどることができた。
その後も中川氏は練習船の教官として わかものの指導にあたっている。
著者の須川氏は、訓練生のときに 中川氏から無人島での体験談をきき、
こうして 一冊の本にまとめられた。
16人が、つよい気もちとたかい精神性をたもち、
ちいさな島で生きぬいたようすにおどろかされる。
嵐にあって、ちいさな無人島にながされても、
彼らはまったく絶望していない。
全員がかならず生きてかえれると希望をもちつづけ、
すこしのうたがいの そぶりもみせない。
たかい規律をたもち、まえをむきつづける。
こういう状況では、ひとりでもよわいこころをみせると、
全体の気もちがしずみ、よくない方向へむかうものだ。
16人がつづけた規律ある生活は、まったく感心するよりない。
この本のおどろきは2つある。
ちいさな無人島で知恵をしぼって生きのびたことと、
そんな状況のなかで、知的な生活をおくろうとしたことだ。
4000坪というから、島は1周が600メートルほどのおおきさだ。
サンゴ礁の島で、木は1本もはえていない。
いちばんたかいところでも4メートルしかない たいらな島だ。
のみ水をえようと井戸をほるけど、
塩気がつよい水しかでない。
木がないので、燃料は流木だけがたよりだ。
食料は魚やカメをつかまえるしかない。
木の実やくだものもとれない。
そんな状況にグチひとついわないで、
できることをさがしていく。
できないことはもとめない。
絶望せず、生きぬくだけでもたいへんな島で、
彼らは勉強にもとりくみ、文化的な生活をおくる。
現代人がおなじ状況になったとき、どれだけのひとが
これだけのつよい気もちをたもち、
生きのびるための知恵をはたらかせられるだろう。
井戸をほり、海水をにつめて塩をつくる。
何年もこの島でくらすときのことをかんがえ、
布を大切にしようと ふだんは服をきない。
忍耐づよく、規則をまもり、美徳をおもんじる。
これだけの生活を、
うえからの強制ではなく、
全員の意思としてつくりあげたのだから、
すばらしい海の男たちであり、
日本人であることを自慢したくなる。
わたしなんか、シャワーをあびられなかったら
いちにちでも我慢できそうにない。
まっさきに音をあげて、チームワークをみだしていただろう。
ぶじにたすけられることがはっきりし、
島でさいごの朝をむかえたとき、
のりくみ員のまえで 中川氏はこうあいさつしている。
もっとも、ほかののりくみ員たちも全員がすばらしいひとたちだった。
中心にすぐれたひとがいると、
まわりもその影響をうけて、
集団の質がどんどんたかまっていく。
『ロビンソン・クルーソー』や『15少年漂流記』につらなるすぐれた冒険記であるとともに、
過酷な状況のなかでも希望をもちつづける
人間のつよさ・うつくしさの記録としても第一級だ。
のりくみ員全員のゆたかな精神と、たぐいまれな行動力をたたえたい。
なにかの本で椎名誠さんが絶賛していたのでよんでみる。
実話なのだそうだ。
明治32年(1899年)に、日本の帆船がミッドウェー島ちかくで座礁し、
乗組員16人がおよそ半年のあいだ 無人島ですごしている。
船長の中川氏がリーダーとしてのりくみ員をまとめ、
1年後に全員が無事に日本へもどることができた。
その後も中川氏は練習船の教官として わかものの指導にあたっている。
著者の須川氏は、訓練生のときに 中川氏から無人島での体験談をきき、
こうして 一冊の本にまとめられた。
16人が、つよい気もちとたかい精神性をたもち、
ちいさな島で生きぬいたようすにおどろかされる。
嵐にあって、ちいさな無人島にながされても、
彼らはまったく絶望していない。
全員がかならず生きてかえれると希望をもちつづけ、
すこしのうたがいの そぶりもみせない。
たかい規律をたもち、まえをむきつづける。
こういう状況では、ひとりでもよわいこころをみせると、
全体の気もちがしずみ、よくない方向へむかうものだ。
16人がつづけた規律ある生活は、まったく感心するよりない。
この本のおどろきは2つある。
ちいさな無人島で知恵をしぼって生きのびたことと、
そんな状況のなかで、知的な生活をおくろうとしたことだ。
4000坪というから、島は1周が600メートルほどのおおきさだ。
サンゴ礁の島で、木は1本もはえていない。
いちばんたかいところでも4メートルしかない たいらな島だ。
のみ水をえようと井戸をほるけど、
塩気がつよい水しかでない。
木がないので、燃料は流木だけがたよりだ。
食料は魚やカメをつかまえるしかない。
木の実やくだものもとれない。
そんな状況にグチひとついわないで、
できることをさがしていく。
できないことはもとめない。
絶望せず、生きぬくだけでもたいへんな島で、
彼らは勉強にもとりくみ、文化的な生活をおくる。
島でかめや魚をたべて、ただ生きていたというだけでは、アザラシと、たいしたちがいはありません。島にいるあいだ、おたがいに、日本人として、りっぱに生きて、他日お国のためになるように、うんと勉強しましょう
一日の仕事がすんで、夕方になると、総員の運動がはじまる。すもう、網引、ぼう押し、水泳、島のまわりを、何回もかけ足でまわる。それから、海のお風呂にはいって、夕食という順序を、規則正しくくりかえした。明治時代の日本人ならではのつよさではないだろうか。
現代人がおなじ状況になったとき、どれだけのひとが
これだけのつよい気もちをたもち、
生きのびるための知恵をはたらかせられるだろう。
井戸をほり、海水をにつめて塩をつくる。
何年もこの島でくらすときのことをかんがえ、
布を大切にしようと ふだんは服をきない。
忍耐づよく、規則をまもり、美徳をおもんじる。
これだけの生活を、
うえからの強制ではなく、
全員の意思としてつくりあげたのだから、
すばらしい海の男たちであり、
日本人であることを自慢したくなる。
わたしなんか、シャワーをあびられなかったら
いちにちでも我慢できそうにない。
まっさきに音をあげて、チームワークをみだしていただろう。
ぶじにたすけられることがはっきりし、
島でさいごの朝をむかえたとき、
のりくみ員のまえで 中川氏はこうあいさつしている。
私たちはこの島で、はじめて、しんけんに、じぶんでじぶんをきたえることができた。そして心をみがき、その心のちからが、どんなに強いものであるかを、はっきり知ることができた。十六人が、ほんとうに一つになった心の強さのまえには、不安もしんぱいもなかった。たべるものも、飲むものも、自然がわけてくれた。(中略)これも、みんなの心がけがりっぱで、勇ましく、そしてやさしかったからだ。私は心から諸君に感謝する。ありがとう。これだけのはなしができるリーダーだから、みんながついていったのだろう。
もっとも、ほかののりくみ員たちも全員がすばらしいひとたちだった。
中心にすぐれたひとがいると、
まわりもその影響をうけて、
集団の質がどんどんたかまっていく。
『ロビンソン・クルーソー』や『15少年漂流記』につらなるすぐれた冒険記であるとともに、
過酷な状況のなかでも希望をもちつづける
人間のつよさ・うつくしさの記録としても第一級だ。
のりくみ員全員のゆたかな精神と、たぐいまれな行動力をたたえたい。
2015年05月28日
『忌野清志郎 トランジスタ・ラジオ』にでてきた アルマイトの弁当箱
清志郎をドラマ化した番組
『忌野清志郎 トランジスタ・ラジオ』をみた。
高校時代の清志郎を、
たまたま清志郎のふりをしてしまった
べつの男の子の視点でえがいたものだ。
わるくない内容で、清志郎がでてこないのに、
ぜんたいに清志郎のかおりがただよっている。
主人公の男の子が、アルマイトの弁当箱をつかっていたのに わたしは感心した。
校舎はコンクリート製だし(もちろん屋上もある)、
生徒たちはギターをひき、美術部では絵をかき、
いまの高校生と おなじような制服をきている。
そうした風景からは、いまとかわらない高校生活にみえるけど、
なにしろ40年以上まえのはなしなのだ。
そのころのお弁当箱といえば、当然アルミ製となる。
タッパーやプラスチック製は、まだ一般的でなかったはずだ。
アルミ製のお弁当箱を注文してわかったけど、
むかしながらの弁当箱をみつけるのは あんがいむつかしい。
番組をつくったひとたちは、よくアルマイト弁当をもたせてくれたとおもう。
いまの教室とかわらないような風景でありながら、
このアルマイト製のお弁当により、
このはなしが どれだけむかしなのかをさっすることができる。
細部にこだわると、こういう効果をうむのだ。
ぜんぜん別のドラマをみたときのはなし。
豪華客船が航海中 はげしい嵐につっこみ、
おおゆれのなか、それでも日常のスケジュールが、
いつもどおり消化されている場面がでてきた。
イギリスのドラマ『ブライズヘッドふたたび』だ。
どんなにゆれていても、いつもどおりにレストランはひらいているし、
そのあとホールではダンスがもよおされる。
ゆれにあわせてツツツーとすべるペアや、
ふらつきがらお酒をくばるボーイがでてくる。
みているだけで気もちがわるくなるほど、船のゆれがリアルだ。
こういうシーンはどうやって撮影したのだろうと、ふと気になった。
レストランでは、ゆれとともに お皿がテーブルのうえをうごいていたし、
イスにすわるひとたちのうごきもシンクロしていた。
ダンスホールでも、まさに船がゆれているように
ひとびとが「おっとっと」をしており、とても自然なふらつきだ。
もしセットでゆれている部屋をつくれば、ものすごくお金がかかるので、
わたしが監督だったら 役者さんたちの演技力に期待する。
そんなことをいったら『タイタニック』はどうなんだ、というはなしになるけど、
あれは大作であることが話題になる作品で、
おどろかすためだったら いくらでもお金をかけられる。
『ブライズヘッドふたたび』はそうではないはずだ。
たくさんの俳優さんが、だれかの合図とともに
おなじタイミングでからだをゆらしている撮影現場を見学したくなる。
映像では細部にこだわると作品がよくなり、
文章ではあまり細部をかくと、よむひとがついていけなくて
わけがわからなくなってくる。
細部は現場にひろがる あたりまえな状況であり、
神さまに細部にやどっていただくには、
それなりのいごこちのよさを提供しなくてはならない。
こまかさのサジかげんがむつかしいところだ。
『忌野清志郎 トランジスタ・ラジオ』をみた。
高校時代の清志郎を、
たまたま清志郎のふりをしてしまった
べつの男の子の視点でえがいたものだ。
わるくない内容で、清志郎がでてこないのに、
ぜんたいに清志郎のかおりがただよっている。
主人公の男の子が、アルマイトの弁当箱をつかっていたのに わたしは感心した。
校舎はコンクリート製だし(もちろん屋上もある)、
生徒たちはギターをひき、美術部では絵をかき、
いまの高校生と おなじような制服をきている。
そうした風景からは、いまとかわらない高校生活にみえるけど、
なにしろ40年以上まえのはなしなのだ。
そのころのお弁当箱といえば、当然アルミ製となる。
タッパーやプラスチック製は、まだ一般的でなかったはずだ。
アルミ製のお弁当箱を注文してわかったけど、
むかしながらの弁当箱をみつけるのは あんがいむつかしい。
番組をつくったひとたちは、よくアルマイト弁当をもたせてくれたとおもう。
いまの教室とかわらないような風景でありながら、
このアルマイト製のお弁当により、
このはなしが どれだけむかしなのかをさっすることができる。
細部にこだわると、こういう効果をうむのだ。
ぜんぜん別のドラマをみたときのはなし。
豪華客船が航海中 はげしい嵐につっこみ、
おおゆれのなか、それでも日常のスケジュールが、
いつもどおり消化されている場面がでてきた。
イギリスのドラマ『ブライズヘッドふたたび』だ。
どんなにゆれていても、いつもどおりにレストランはひらいているし、
そのあとホールではダンスがもよおされる。
ゆれにあわせてツツツーとすべるペアや、
ふらつきがらお酒をくばるボーイがでてくる。
みているだけで気もちがわるくなるほど、船のゆれがリアルだ。
こういうシーンはどうやって撮影したのだろうと、ふと気になった。
レストランでは、ゆれとともに お皿がテーブルのうえをうごいていたし、
イスにすわるひとたちのうごきもシンクロしていた。
ダンスホールでも、まさに船がゆれているように
ひとびとが「おっとっと」をしており、とても自然なふらつきだ。
もしセットでゆれている部屋をつくれば、ものすごくお金がかかるので、
わたしが監督だったら 役者さんたちの演技力に期待する。
そんなことをいったら『タイタニック』はどうなんだ、というはなしになるけど、
あれは大作であることが話題になる作品で、
おどろかすためだったら いくらでもお金をかけられる。
『ブライズヘッドふたたび』はそうではないはずだ。
たくさんの俳優さんが、だれかの合図とともに
おなじタイミングでからだをゆらしている撮影現場を見学したくなる。
映像では細部にこだわると作品がよくなり、
文章ではあまり細部をかくと、よむひとがついていけなくて
わけがわからなくなってくる。
細部は現場にひろがる あたりまえな状況であり、
神さまに細部にやどっていただくには、
それなりのいごこちのよさを提供しなくてはならない。
こまかさのサジかげんがむつかしいところだ。
2015年05月27日
動物たちにとって、天国のような田んぼ。あとは稲が芽をだしさえすれば・・・
2週間ほどまえに、種モミをまぜた粘土団子を田んぼにまいている。
しかし まだそれらしい芽がでない。
田んぼにはいろんな草がはえ、
稲らしいのもあるけど雑草かもしれない。たぶん雑草だろう。
なさけないことに、稲の苗と雑草との区別がつかない。
いつまでたっても芽がでないので、
3日まえに、くるしまぎれで田んぼに水をはる。
水につかっていたほうが、芽をだしやすいのかもしれないから。
きのうは草刈機でアゼにはえている草をかったあと、
お弁当をたべながら田んぼをじっくりみる。
ゲンゴロウ・おたまじゃくし・アメンボがおよいでいる。ヘビもいた。
トンボがおしりを水につけていたので、
これからはヤゴもそだってくるだろう。
いいかんじだ。
「いきものがかり」はこういうところでこそ係の意味がでてくる。

むかし大学の授業で、インドかバングラデシュの野性の稲が
こんなかんじの田んぼにはえている写真をみたことがある。
わたしの田んぼはその写真とおなじように、
いかにも稲の原産地というかんじで、
動植物のゆたかな世界がひろがっている。
農薬や肥料をいれてないので、
彼らにとって天国のような環境ではないか。
あたたかく、水がたっぷりあり、
人間がへんな機械をいれたり薬をまいたりしない土地。
あとは稲さえはえていたら いうことない田んぼなのに。
世の中には、ありそうでないものがいろいろある。
ちゃんとひとが管理しながら、稲のはえていない田んぼは
そのひとつの典型だ。
休耕田として ほったらかしているわけではない。
転作のため、べつの作物をそだてているのでもない。
わたしの田んぼは、現代日本において、とくに動植物にとって、
ありえない桃源郷といえる。
天国にいけるか地獄へおとされるかという さいごの審判のとき、
こんな田んぼを動植物に提供したわたしは、
きっとたかい評価をうけるだろう。
きのうよんだ本を参考に、
「あなたが8割の確率で天国へいけるたったひとつの方法」
というキャッチーなタイトルをおもいついた。
そんなテキトーなことをかくと、読者はふえるかもしれないが、
せっかくの評価がだいなしになって、天国へいけなくなってしまう。
しかし まだそれらしい芽がでない。
田んぼにはいろんな草がはえ、
稲らしいのもあるけど雑草かもしれない。たぶん雑草だろう。
なさけないことに、稲の苗と雑草との区別がつかない。
いつまでたっても芽がでないので、
3日まえに、くるしまぎれで田んぼに水をはる。
水につかっていたほうが、芽をだしやすいのかもしれないから。
きのうは草刈機でアゼにはえている草をかったあと、
お弁当をたべながら田んぼをじっくりみる。
ゲンゴロウ・おたまじゃくし・アメンボがおよいでいる。ヘビもいた。
トンボがおしりを水につけていたので、
これからはヤゴもそだってくるだろう。
いいかんじだ。
「いきものがかり」はこういうところでこそ係の意味がでてくる。

むかし大学の授業で、インドかバングラデシュの野性の稲が
こんなかんじの田んぼにはえている写真をみたことがある。
わたしの田んぼはその写真とおなじように、
いかにも稲の原産地というかんじで、
動植物のゆたかな世界がひろがっている。
農薬や肥料をいれてないので、
彼らにとって天国のような環境ではないか。
あたたかく、水がたっぷりあり、
人間がへんな機械をいれたり薬をまいたりしない土地。
あとは稲さえはえていたら いうことない田んぼなのに。
世の中には、ありそうでないものがいろいろある。
ちゃんとひとが管理しながら、稲のはえていない田んぼは
そのひとつの典型だ。
休耕田として ほったらかしているわけではない。
転作のため、べつの作物をそだてているのでもない。
わたしの田んぼは、現代日本において、とくに動植物にとって、
ありえない桃源郷といえる。
天国にいけるか地獄へおとされるかという さいごの審判のとき、
こんな田んぼを動植物に提供したわたしは、
きっとたかい評価をうけるだろう。
きのうよんだ本を参考に、
「あなたが8割の確率で天国へいけるたったひとつの方法」
というキャッチーなタイトルをおもいついた。
そんなテキトーなことをかくと、読者はふえるかもしれないが、
せっかくの評価がだいなしになって、天国へいけなくなってしまう。
2015年05月26日
『人気ブログの作り方』(かん吉) 参考になるテクニックと基本的なかんがえ方
『人気ブログの作り方: 5ヶ月で月45万PVを突破したブログ運営術 [Kindle版]
』(かん吉)
「なるほどなー」となんどもくりかえす。
こんなことに注意してかけば、
たくさんの読者をあつめられるのか。
ソーシャルメディアの重要性がたびたび指摘されており、
タイトルのつけ方など、いろいろと参考になる。
ブログ名にしても、どんな名前がいいのか具体的におしえてくれる。
タイトルに商品名やブランド名をいれるとスルーされてしまう、とある。
検索にひっかかりやすいよう、
とうぜんタイトルに名前をいれるのかとおもっていたけど、
どうもそうとはかぎらないようだ。
いまはSEOよりもSNS対策が大切となっており、
本文よりもタイトルでよむかどうかをきめられる。
たしかにしらない名前をあげられたら、
自分とは関係ない話題とおもいやすいだろう。
わたしのはやたらとながいタイトルのことがおおく、
あまりいいことではなさそうだ。
「記事はすべてレビューに帰結する」
「同じことを切り口をかえて何度も書く」
「ブロガーのゴールは電子書籍」
など、ほかにも参考となるかんがえ方が いくつもしめされている。
よみおえて自分のブログをふりかえると、
合格点をつけられるのは、毎日かいていることだけで、
あとはなにかと問題ばかり目についた。
「鷹の爪団の吉田くんは〜」なんて意味のないブログ名は、
自分でかってにずっこけてるだけみたいだ。
サブタイトルだってぜんぜんわけがわからないし。
なによりも、このソーシャルメディアの時代に
ツイッターとフェイスブックに背をむけているのは致命的といえる。
こうなってくると、よまれなさを かえってつよみにする道はないか
ひらきなおりたくなった。
いわゆる「よまれない力」だ。
いつかこの力によって、状況が逆転する日をむかえるだろうか。
そんなこといわないで、著者の指摘するとおりに みなおしていけばいいのだけど、
めんどくさがりやのわたしが さいごにおもったのは、
「まあ、いいけど」だった。
けっきょくわたしは なにもかえる気がないみたいだ。
本書にかいてあるのは正攻法であり、
いやらしいテクニックで裏をかくわけではない。
PVをふやしたいひとには、とても参考になる本といえる。
この本のみちびきにより、おおくのひとが「人気ブログ」をつくってくれるだろう。
その「人気ブログ」が、おもしろいブログとなることを ねがっている。
』(かん吉)
「なるほどなー」となんどもくりかえす。
こんなことに注意してかけば、
たくさんの読者をあつめられるのか。
ソーシャルメディアの重要性がたびたび指摘されており、
タイトルのつけ方など、いろいろと参考になる。
ブログ名にしても、どんな名前がいいのか具体的におしえてくれる。
タイトルに商品名やブランド名をいれるとスルーされてしまう、とある。
検索にひっかかりやすいよう、
とうぜんタイトルに名前をいれるのかとおもっていたけど、
どうもそうとはかぎらないようだ。
いまはSEOよりもSNS対策が大切となっており、
本文よりもタイトルでよむかどうかをきめられる。
たしかにしらない名前をあげられたら、
自分とは関係ない話題とおもいやすいだろう。
わたしのはやたらとながいタイトルのことがおおく、
あまりいいことではなさそうだ。
「記事はすべてレビューに帰結する」
「同じことを切り口をかえて何度も書く」
「ブロガーのゴールは電子書籍」
など、ほかにも参考となるかんがえ方が いくつもしめされている。
よみおえて自分のブログをふりかえると、
合格点をつけられるのは、毎日かいていることだけで、
あとはなにかと問題ばかり目についた。
「鷹の爪団の吉田くんは〜」なんて意味のないブログ名は、
自分でかってにずっこけてるだけみたいだ。
サブタイトルだってぜんぜんわけがわからないし。
なによりも、このソーシャルメディアの時代に
ツイッターとフェイスブックに背をむけているのは致命的といえる。
こうなってくると、よまれなさを かえってつよみにする道はないか
ひらきなおりたくなった。
いわゆる「よまれない力」だ。
いつかこの力によって、状況が逆転する日をむかえるだろうか。
そんなこといわないで、著者の指摘するとおりに みなおしていけばいいのだけど、
めんどくさがりやのわたしが さいごにおもったのは、
「まあ、いいけど」だった。
けっきょくわたしは なにもかえる気がないみたいだ。
本書にかいてあるのは正攻法であり、
いやらしいテクニックで裏をかくわけではない。
PVをふやしたいひとには、とても参考になる本といえる。
この本のみちびきにより、おおくのひとが「人気ブログ」をつくってくれるだろう。
その「人気ブログ」が、おもしろいブログとなることを ねがっている。
2015年05月25日
『平原の町』(コーマック=マッカーシー) 形だけでもまねしたくなるマッカーシーの世界
『平原の町』(コーマック=マッカーシー・黒原敏行:訳・早川書房)
「国境三部作」の完結編で、
『すべての美しい馬』にでてきたジョン=グレイディが主人公、
『越境』のビリーが脇をかためる。
あのふたりに、こんどはふたりいっしょにあえるなんて。
彼らのファンなら、こんなにうれしい配役はない。
本書の時代設定は1952年で、
グレイディは19歳、ビリーが28歳として登場する。
1作目と2作目をよんだときは、
ふたりともにたような性格だとおもっていたけど、
ふたりがいっしょにでてくると、ぜんぜんちがうことがわかる。
グレイディのほうがずっとハードボイルドのひとだ。
1952年になっても、ふたりはあいかわらず馬にのっている。
自動車があたりまえにでてくるし、
郊外にはハイウェイもはしっている。
この時代に、カウボーイがカウボーイとして生きられるのか。
グレイディは馬のあつかいにすぐれ、
だれもがいちもくおいている。
なんどかのやりとりのすえ、やっと説明する。
自分から自慢したりしない。
マッカーシーといえば、「テン」がすくなく、それなのに ながい文章がよくでてくる。
よほどかんがえてかいてあるのだろう。
わたしは、テンをどこにうつか、かなりかんがえるほうで、
でもマッカーシーの文章をみると そんな配慮がむなしくなる。
この作品ではあまり野営をしないけど、
トルティーヤのさいごのひときれでお皿をぬぐったり、
コーヒー豆のカスをコップのなかでもてあそんだり、
ステーキだけの食事をとったり、
カウボーイらしいしぐさが いたるところでえがかれている。
わたしもいくつか形だけまねしてみた。
まずコーヒー。
マッカーシーの本をよむと、
ざらっとしたコーヒーがのみたくなる。
コップの底にはカスがすこしのこるようなやつ。
で、パーコレーターをつかってみる。
キャンプのときつかったパーコレーターがまだうちにあった。
つかい方をわすれたので、ネットでしらべる。かんたんだった。
カスはのこらないけど、なんだか雰囲気がある。
とくにおいしいというほどではないにしても、
そうわるくもない。
マッカーシーの世界にグルメは必要ないのだから、
おいしすぎるより、これくらいがちょうどいい。
食事はトルティーヤと豆が基本だ。
生野菜のサラダなんてたべない。
あの時代のひとたちは、健康とか長生きなんて
かんがえてなかったようにみえる。
やたらとたばこをすい、ステーキだって野菜なしで 肉だけをたべる。
トルティーヤは、トウモロコシの粉をわざわざかうのがメンドーなので、
インド料理のチャパティでかわりとする。
チャパティはパサパサすぎるから、
イースト菌もいれてふくらませるナンにする。
ナンにはタジンがぴったりだから、
オリーブオイルをたっぷりつかってタジンをつくる。
水なんてもちろんいれない。
タジンのギトギトしたあぶらをナンのきれはしでふく。
マッカーシーだ。
ステーキもたべた。
配偶者が実家にかえった日に、
ニュージーランド産の牛肉をかってくる。
肉をやくときになって、
配偶者ぬきでこっそりたべるのは
さすがによくないだろうと、やっと気づいた。
なんでわざわざ彼女が実家にかえった日を えらんでしまったのだろう。
「物を分け合うのは旅をする者の仁義だ、そうだろ?」
がマッカーシーの世界なのに、
これではまったく逆だ。
馬にのっての旅を、いまの日本にあてはめると
自転車旅行になるのではないか。
自転車に最小限の荷物をつんで
あてもなくさすらう。
ホームレスみたいなものだから、
あわてなくてもそのうち実践するようになるだろう。
とにかくわたしは
マッカーシーの小説をよんだことで、
気分だけはそれなりのカウボーイになった。
お金がなくても気にしないし、
命や健康にもこだわらない。
わたしみたいなヘタレをそんな気にさせる、
マッカーシーの小説は、不思議なちからがある。
「国境三部作」の完結編で、
『すべての美しい馬』にでてきたジョン=グレイディが主人公、
『越境』のビリーが脇をかためる。
あのふたりに、こんどはふたりいっしょにあえるなんて。
彼らのファンなら、こんなにうれしい配役はない。
本書の時代設定は1952年で、
グレイディは19歳、ビリーが28歳として登場する。
1作目と2作目をよんだときは、
ふたりともにたような性格だとおもっていたけど、
ふたりがいっしょにでてくると、ぜんぜんちがうことがわかる。
グレイディのほうがずっとハードボイルドのひとだ。
1952年になっても、ふたりはあいかわらず馬にのっている。
自動車があたりまえにでてくるし、
郊外にはハイウェイもはしっている。
この時代に、カウボーイがカウボーイとして生きられるのか。
グレイディは馬のあつかいにすぐれ、
だれもがいちもくおいている。
ウルフェンバーガーの牝の仔馬だが、足が悪いとなぜわかった?グレイディは、なにかについてたずねられると、
見たらわかったんです。
足は引いてなかったぞ。
ええ。でも耳を見たらわかったんです。
耳?
ええ、片方の足を地面におろすたびに耳がちょっと動いたんです。
馬を見てたらわかりました。
なんどかのやりとりのすえ、やっと説明する。
自分から自慢したりしない。
マッカーシーといえば、「テン」がすくなく、それなのに ながい文章がよくでてくる。
初めて自分の仔馬をもらった年のそんな夜中には毛布を体に巻きつけて外に出て嵐に逆らって体を前に倒し小石のように強くあたる雨が降り始めるなか納屋へいき、ぼろ毛布をかぶった難民のような格好で壁の隙間から不意に断続的強烈な光が差しこむ長い通路を、電気の白い照明がつかのまひらめく幅の狭い舞台を歩くように馬房のつらなりに沿って進んでいき、仔馬が立ち上がって待っている馬房へくると掛け金をはずして扉を開け藁の上に坐って仔馬の震えがとまるまで両腕で首を抱いてやったものだった。こんなにながくてもよめてしまうだから、
よほどかんがえてかいてあるのだろう。
わたしは、テンをどこにうつか、かなりかんがえるほうで、
でもマッカーシーの文章をみると そんな配慮がむなしくなる。
この作品ではあまり野営をしないけど、
トルティーヤのさいごのひときれでお皿をぬぐったり、
コーヒー豆のカスをコップのなかでもてあそんだり、
ステーキだけの食事をとったり、
カウボーイらしいしぐさが いたるところでえがかれている。
わたしもいくつか形だけまねしてみた。
まずコーヒー。
マッカーシーの本をよむと、
ざらっとしたコーヒーがのみたくなる。
コップの底にはカスがすこしのこるようなやつ。
で、パーコレーターをつかってみる。
キャンプのときつかったパーコレーターがまだうちにあった。
つかい方をわすれたので、ネットでしらべる。かんたんだった。
カスはのこらないけど、なんだか雰囲気がある。
とくにおいしいというほどではないにしても、
そうわるくもない。
マッカーシーの世界にグルメは必要ないのだから、
おいしすぎるより、これくらいがちょうどいい。
食事はトルティーヤと豆が基本だ。
生野菜のサラダなんてたべない。
あの時代のひとたちは、健康とか長生きなんて
かんがえてなかったようにみえる。
やたらとたばこをすい、ステーキだって野菜なしで 肉だけをたべる。
トルティーヤは、トウモロコシの粉をわざわざかうのがメンドーなので、
インド料理のチャパティでかわりとする。
チャパティはパサパサすぎるから、
イースト菌もいれてふくらませるナンにする。
ナンにはタジンがぴったりだから、
オリーブオイルをたっぷりつかってタジンをつくる。
水なんてもちろんいれない。
タジンのギトギトしたあぶらをナンのきれはしでふく。
マッカーシーだ。
ステーキもたべた。
配偶者が実家にかえった日に、
ニュージーランド産の牛肉をかってくる。
肉をやくときになって、
配偶者ぬきでこっそりたべるのは
さすがによくないだろうと、やっと気づいた。
なんでわざわざ彼女が実家にかえった日を えらんでしまったのだろう。
「物を分け合うのは旅をする者の仁義だ、そうだろ?」
がマッカーシーの世界なのに、
これではまったく逆だ。
馬にのっての旅を、いまの日本にあてはめると
自転車旅行になるのではないか。
自転車に最小限の荷物をつんで
あてもなくさすらう。
ホームレスみたいなものだから、
あわてなくてもそのうち実践するようになるだろう。
とにかくわたしは
マッカーシーの小説をよんだことで、
気分だけはそれなりのカウボーイになった。
お金がなくても気にしないし、
命や健康にもこだわらない。
わたしみたいなヘタレをそんな気にさせる、
マッカーシーの小説は、不思議なちからがある。
2015年05月24日
『大人になるっておもしろい?』(清水真砂子)「生き延びて」という清水さんのメッセージ
『大人になるっておもしろい?』(清水真砂子・岩波ジュニア新書)
清水真砂子さんは、わたしが信頼する児童文学評論家だ。
宮ア駿さんの発言から『ゲド戦記』をしり、
その『ゲド戦記』を訳しているのが清水さんだった。
もっとも、『ゲド戦記』をよんだときには、
すでに評論家としての清水さんとであっている。
あなたの友だちはわたしの友だちかも、と
フェイスブックみたいに、いろんなひとが本をつうじて
イモづる式につながっている世界に、
わかかったわたしはおどろいたものだ。
この本は、Kさんへの手紙というかたちで 清水さんのおもいがつづられている。
オビには「大丈夫、生きてごらん」とある。
わかものたちに、「生き延びて」、と清水さんはねがう。
中年になったわたしだって、けしてらくではないけど、
いまは(あえて「いまは」といおう)おとなたちがめちゃくちゃで、
その影響がもろにわかもとたちへむかっているから
彼らはよほどたいへんなのだろう。
この本は13通の手紙という構成で、
清水さんが気になっているものごとのとらえ方について、ていねいに確認していく。
清水さんはまず「カワイイ」についてといかける。
カワイイということばがどんな問題をふくんでいるのか。
かわいくえがかかれた「ももたろう」と、リアルな赤ん坊としてえがかかれた「ももたろう」の、どちらがすきかを学生にたずねる。
かわいい「ももたろう」がすきという学生たちに、
「よくまあ、それで10代の人たちと向き合えますね」
と清水さんはいやみをいう。
たちどまってかんがえる体験を 学生たちにもとる。
ほかにも、
・けんかって、そんなにいけないこと?
・ひとりでいるっていけないこと?
・自信ってなんだろう?
・「いきいきと」へのうたがい
・退屈って避けなきゃいけないこと?
など、あたりまえとおもわれている「常識」に 疑問をなげかける。
「子ども時代のいちばん幸せな思い出は?」とたずねると、
すべての学生がどこかへつれていってもらったとき、とか
なにかをかってもらったとき、とこたえたという。
そんなはずはないと、その2つ以外のおもいでは、
とただしがきをしたうえで、
つぎの年度の学生たちにおなじ質問をすると、
「宝石のような」こたえをきけたと清水さんはよろこぶ。
ひとりでしずかにすごす時間を、いちがいに否定できない。
退屈にみえるその時間が、なにをそだてているのかは、だれにもわからない。
わたしがこれまで生きのびられたのは、
すぐれた本や映画、そして、それらをささえるひとたちとのであいがおおきい。
清水さんみたいなひとがいてくれるおかげで、
わたしはなんとかすてきな世界をしんじられる。
大人になるのはおもしろいか?
もちろん、と手ばなしに肯定はできないけれど、
わるくないよ、くらいのいい方で わかものの背中をおしたい。
清水真砂子さんは、わたしが信頼する児童文学評論家だ。
宮ア駿さんの発言から『ゲド戦記』をしり、
その『ゲド戦記』を訳しているのが清水さんだった。
もっとも、『ゲド戦記』をよんだときには、
すでに評論家としての清水さんとであっている。
あなたの友だちはわたしの友だちかも、と
フェイスブックみたいに、いろんなひとが本をつうじて
イモづる式につながっている世界に、
わかかったわたしはおどろいたものだ。
この本は、Kさんへの手紙というかたちで 清水さんのおもいがつづられている。
オビには「大丈夫、生きてごらん」とある。
わかものたちに、「生き延びて」、と清水さんはねがう。
中年になったわたしだって、けしてらくではないけど、
いまは(あえて「いまは」といおう)おとなたちがめちゃくちゃで、
その影響がもろにわかもとたちへむかっているから
彼らはよほどたいへんなのだろう。
この本は13通の手紙という構成で、
清水さんが気になっているものごとのとらえ方について、ていねいに確認していく。
清水さんはまず「カワイイ」についてといかける。
カワイイということばがどんな問題をふくんでいるのか。
かわいくえがかかれた「ももたろう」と、リアルな赤ん坊としてえがかかれた「ももたろう」の、どちらがすきかを学生にたずねる。
かわいい「ももたろう」がすきという学生たちに、
「よくまあ、それで10代の人たちと向き合えますね」
と清水さんはいやみをいう。
かわいい、かわいくないを決めるのはその人自身ではなく、いくらあなたがかわいくあろうとしても、周囲の受け止め方は個々人で違う「カワイイ」ということばをあえて禁じ、
たちどまってかんがえる体験を 学生たちにもとる。
ほかにも、
・けんかって、そんなにいけないこと?
・ひとりでいるっていけないこと?
・自信ってなんだろう?
・「いきいきと」へのうたがい
・退屈って避けなきゃいけないこと?
など、あたりまえとおもわれている「常識」に 疑問をなげかける。
「子ども時代のいちばん幸せな思い出は?」とたずねると、
すべての学生がどこかへつれていってもらったとき、とか
なにかをかってもらったとき、とこたえたという。
そんなはずはないと、その2つ以外のおもいでは、
とただしがきをしたうえで、
つぎの年度の学生たちにおなじ質問をすると、
「宝石のような」こたえをきけたと清水さんはよろこぶ。
祖母が入院し、祖父はお見舞いにいく時ときどき自分も連れて行ってくれた。その往復の電車の中で、祖父は隣に座った自分の膝をトントントントンたたき続けてくれた。それが子ども時代のいちばん幸せな思い出だと。(中略)まわりには退屈そうにみえるからといって、
「今まで気付かなかったけれど、あのトントントントンが、これまで私を生かし続けてきてくれたのかもしれません」
ひとりでしずかにすごす時間を、いちがいに否定できない。
退屈にみえるその時間が、なにをそだてているのかは、だれにもわからない。
わたしがこれまで生きのびられたのは、
すぐれた本や映画、そして、それらをささえるひとたちとのであいがおおきい。
清水さんみたいなひとがいてくれるおかげで、
わたしはなんとかすてきな世界をしんじられる。
大人になるのはおもしろいか?
もちろん、と手ばなしに肯定はできないけれど、
わるくないよ、くらいのいい方で わかものの背中をおしたい。
2015年05月23日
白夜の町で、ネコはねてばかり
岩合さんの「世界ネコ歩き」で
ノルウェーのネコをやっていた。
白夜の町にすむネコが いろんなところでくつろいでいる。
夜がない時期に、ネコはどうやって体調管理をするのだろう。
ねむれなくてたいへんではないか、
とおもったけど、これはきっと逆で、
夜行性のネコたちは ひるにそのぶんやすんでいるわけだから、
白夜のネコは ねてばかりというのが ただしい姿だ。
たいへんなのは、いちにちじゅう太陽がのぼらない冬のほうで、
ネコ的にいえばずっと活動時間がつづくことになる。
うちのピピは、夜中に2〜3回わたしをおこし、
トイレとごはんにつきあわせる。
ひとりでいけばいいのに、いかない。
わたしがねたふりをすると、ふとんのうえでおしっこしたりする。
夜中になんどもおこされるほうはたまらない。
ピピはわたしがあとからついてくるかどうかを確認する。
「トイレにいくのがこころぼそいからついてきて」ではなく、
「おれがトイレにいくんだから、
おまえちゃんとついてこなきゃダメだろう」と
しもじもをしたがえる態度だ。
かわいくもあり、ピピにあやつられる自分がなさけなくもあり。
「村上さんのところ」でネコの仮病が報告されていた。
家のネコが肉球をケガしたので病院にかよっていると、
べつのネコが元気をなくしたときに病院へいくと、
くわしくしらべても原因がわからない。
ネコは ひとのうごきと そのあとにおきた体験をむすびつけ、学習する。
ネコのまえでうかつなうごきはとれないし、
うっかりしたことはいえない。
ピピは、いまではおしっこのあとトイレにうずくまり、
わたしがだっこして台所までつれていくのをまつようになった。
これもきっと「学習」の結果だ。
こうやって、いろんな儀式をくっつけていくのが
ネコのかわいさであり、ぬけめのなさだ。
ネコとくらすだいご味ともいえる。
夜はなんだかんだといそがしくすごし、ひるまのピピはずっとねている。
あかるいときにいろんな活動をしてくれたらたすかるのに。
白夜のノルウェーだったら、ピピはいっしょにいても負担にならないネコだろう。
そんなことは、ぜったい口にだしていえないけど。
ノルウェーのネコをやっていた。
白夜の町にすむネコが いろんなところでくつろいでいる。
夜がない時期に、ネコはどうやって体調管理をするのだろう。
ねむれなくてたいへんではないか、
とおもったけど、これはきっと逆で、
夜行性のネコたちは ひるにそのぶんやすんでいるわけだから、
白夜のネコは ねてばかりというのが ただしい姿だ。
たいへんなのは、いちにちじゅう太陽がのぼらない冬のほうで、
ネコ的にいえばずっと活動時間がつづくことになる。
うちのピピは、夜中に2〜3回わたしをおこし、
トイレとごはんにつきあわせる。
ひとりでいけばいいのに、いかない。
わたしがねたふりをすると、ふとんのうえでおしっこしたりする。
夜中になんどもおこされるほうはたまらない。
ピピはわたしがあとからついてくるかどうかを確認する。
「トイレにいくのがこころぼそいからついてきて」ではなく、
「おれがトイレにいくんだから、
おまえちゃんとついてこなきゃダメだろう」と
しもじもをしたがえる態度だ。
かわいくもあり、ピピにあやつられる自分がなさけなくもあり。
「村上さんのところ」でネコの仮病が報告されていた。
家のネコが肉球をケガしたので病院にかよっていると、
獣医さんに「もう来なくて大丈夫です。きっと飼い主さんが見ていないところでは普通に歩いてますよ」といわれたという。
べつのネコが元気をなくしたときに病院へいくと、
くわしくしらべても原因がわからない。
何か最近変わったことはなかったかと聞かれ、「おしっこ癖が悪いので、このコいなくなったら楽になるねと軽口をたたいたぐらいですかねぇ」とジョークのつもりで答えたところ、「あ。それだ。傷ついたんですね。かわいそうに」とドクターや看護師に冷たい目で見られてしまいました。ありえるはなしだ。
ネコは ひとのうごきと そのあとにおきた体験をむすびつけ、学習する。
ネコのまえでうかつなうごきはとれないし、
うっかりしたことはいえない。
ピピは、いまではおしっこのあとトイレにうずくまり、
わたしがだっこして台所までつれていくのをまつようになった。
これもきっと「学習」の結果だ。
こうやって、いろんな儀式をくっつけていくのが
ネコのかわいさであり、ぬけめのなさだ。
ネコとくらすだいご味ともいえる。
夜はなんだかんだといそがしくすごし、ひるまのピピはずっとねている。
あかるいときにいろんな活動をしてくれたらたすかるのに。
白夜のノルウェーだったら、ピピはいっしょにいても負担にならないネコだろう。
そんなことは、ぜったい口にだしていえないけど。
2015年05月22日
『演劇入門』にとりくむ「劇団ハタチ族」へ あついエールをおくる
ゆうべは「劇団ハタチ族」の劇をみに雲南市のチェリバホールへ
(劇をやるのはホールいりぐちのロビー)。
先月のブログで紹介したように、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/417331410.html?1432272837
ハタチ族はいま、365日連続公演にとりくんでいる。
できれば月にいちどはかよって、
この魅力的で大胆なくわだてを応援したい。
ハタチ族の劇は、先月につづきこれが2回目で、
さすがに今回は、客がわたしひとりだったらどうしようと、
よけいな心配はしなかった。
とはいえ、まえの日はお客が5人だったというから、
あんまり気をゆるめないほうがいいかも。
お客さんは、2列のイスがほぼ満席となる18名。
演目は、前回とおなじ『演劇入門』だ。
いちどみているのだから、べつの日にいけばいいようなものだけど、
この日のほうがうごきやすかったし、
落語なんかはおなじはなしを あたりまえになんどもきくわけだからと、
あえて2ど目の『演劇入門』をえらんだ。
おなじはなしといっても、ハタチ族の演劇は落語とちがい、
試行錯誤しながらいろいろいじっている。
前回がわるかったわけではなく、
代表の西藤としては つねにあたらしい風をふかせたいのだろう。
結果からいえば、今回はその変化がいいほうにはでなかった気がする。
かえた部分がまだこなれておらず、
こころみがからまわりしているかんじ。
なんとなく間がわるく、
みる側も えんじる側も、わらいがひきつっていた。
先月みたときの開放感がなく、だれもが間をもてあましているみたいだ。
しかたのないことだとおもう。
おなじ劇をやっても、うまくいくときとそうでないときがある。
ましてや、あえて変化をくわえたのだから、
たくらみがぜんたいにしみとおるまで、もうすこし時間がかかるのだろう。
こんなふうにからまわりしたときは あとがきついだろうけど、
そうやってどこの劇団もうまくなっていく。
劇のなかでもいっていたように「だれもがとおってきた道」なのだ。
劇団ハタチ族の劇を、先月はじめてみたときは、
おもっているよりはるかにこなれていたのにおどろいた。
今回は、そのかろやかさはかんじなかったけど、
わるい印象はうけなかった。
こうやって試行錯誤をかさねながら ちからをつけていくんだと、
好感をもつ。
365日連続公演まであと224回。
最終日であるおおみそかには、
チェリバホールの500席を満員にするという。
そのこころざしやよし。
このいちねんの経験は、
ハタチ族にとって ぜったいにおおきな財産になる。
無謀な冒険に挑戦しつづけるハタチ族に、はげしくエールをおくりたい。
(劇をやるのはホールいりぐちのロビー)。
先月のブログで紹介したように、
http://parupisupipi.seesaa.net/article/417331410.html?1432272837
ハタチ族はいま、365日連続公演にとりくんでいる。
できれば月にいちどはかよって、
この魅力的で大胆なくわだてを応援したい。
ハタチ族の劇は、先月につづきこれが2回目で、
さすがに今回は、客がわたしひとりだったらどうしようと、
よけいな心配はしなかった。
とはいえ、まえの日はお客が5人だったというから、
あんまり気をゆるめないほうがいいかも。
お客さんは、2列のイスがほぼ満席となる18名。
演目は、前回とおなじ『演劇入門』だ。
いちどみているのだから、べつの日にいけばいいようなものだけど、
この日のほうがうごきやすかったし、
落語なんかはおなじはなしを あたりまえになんどもきくわけだからと、
あえて2ど目の『演劇入門』をえらんだ。
おなじはなしといっても、ハタチ族の演劇は落語とちがい、
試行錯誤しながらいろいろいじっている。
前回がわるかったわけではなく、
代表の西藤としては つねにあたらしい風をふかせたいのだろう。
結果からいえば、今回はその変化がいいほうにはでなかった気がする。
かえた部分がまだこなれておらず、
こころみがからまわりしているかんじ。
なんとなく間がわるく、
みる側も えんじる側も、わらいがひきつっていた。
先月みたときの開放感がなく、だれもが間をもてあましているみたいだ。
しかたのないことだとおもう。
おなじ劇をやっても、うまくいくときとそうでないときがある。
ましてや、あえて変化をくわえたのだから、
たくらみがぜんたいにしみとおるまで、もうすこし時間がかかるのだろう。
こんなふうにからまわりしたときは あとがきついだろうけど、
そうやってどこの劇団もうまくなっていく。
劇のなかでもいっていたように「だれもがとおってきた道」なのだ。
劇団ハタチ族の劇を、先月はじめてみたときは、
おもっているよりはるかにこなれていたのにおどろいた。
今回は、そのかろやかさはかんじなかったけど、
わるい印象はうけなかった。
こうやって試行錯誤をかさねながら ちからをつけていくんだと、
好感をもつ。
365日連続公演まであと224回。
最終日であるおおみそかには、
チェリバホールの500席を満員にするという。
そのこころざしやよし。
このいちねんの経験は、
ハタチ族にとって ぜったいにおおきな財産になる。
無謀な冒険に挑戦しつづけるハタチ族に、はげしくエールをおくりたい。
2015年05月21日
あたらしい波平さんの声をはじめてきく
テレビをつけたら『サザエさん』をやっていた。
はじめてあたらしい波平さんの声をきく。
永井一郎氏が亡くなられたのにともない、
きょねんの冬にかわったらしい。
当然だけどすごくへんなかんじだ。
永井一郎さんのあとでは
だれがやっても違和感があるにきまっている。
それでなんだかんだいわれるのだから、
かわった声優さんはたいへんだ。
ある一線をこえると、みる側はキャラクターと声優さんを
わけてかんがえられなくなる。
永井一郎さんの声は、あまりにも波平さんとむすびついていた。
山田康雄さんのあとに、
声がにている栗田さんがルパン役になったとき、
にていたらいいというものでもないとおもった。
ルパンの役をしているというよりも、
山田さんのモノマネをしてるかんじがぬけきれず、
にているだけにかえってちがいがイヤミにもなる。
といっても、ルパンぐらい声の印象がかたまってしまうと、
まるっきりちがう声にするわけにいかなかったのだろう。
石川五右衛門の声はとちゅうからかわっている。
テレビの旧シリーズは大塚周夫さんで、
新シリーズからは井上真樹夫さんだ。
このときはシリーズのあいだが5年以上あいていたし、
なんといってもセリフのすくない五右衛門なので、
社会的な話題にのぼらなかった(とおもう)。
寅さん作品では3人の俳優さんが「おいちゃん」をやっている。
亡くなったときだけでなく、
評判がわるいわけではないのに なんとなく、というときもあった。
だれでもいい、というわけではないにしろ、
一流の俳優ならそれなりの世界をつくれるのだから、
作品の雰囲気をこわしたりはしない。
役者さんがかわるのは、アニメより実写のほうが影響がおおきいはずだ。
ひとがかわればすべてがちがってくる。
それなのに、おいちゃんがかわっても
すんなりうけいれられるのは、
俳優さん本人としてではなく、その役をえんじていると
みる側が了解しているからだ。
極端なことをいえば、寅さん映画は渥美清さんがいれば、
あとはだれがかわっても決定的な影響はなかった。
(ということをかんがえると、
主役がなんにんもかわっているジェームズ・ボンドシリーズは
たいへんな冒険にいどんでいることに気づく)。
アニメは絵(うごき)でみせているのであり、
そんなに声のことをとやかくいわなくてもよさそうなのに、
声優がかわると違和感をもつ。
声優さんの演技力に不満なのではなく、
かわったこと自体がうけいれにくいのだ。
ただし、ただの違和感にすぎないので、
しばらくすると おさまるとこにおちついていく。
永井さんのそっくりさんをさがすのではなく、
あたらしい波平さんという路線でよかったとおもう。
わたしたちは、あたらしい波平さんの演技力に注目すればいい。
波平さんの声がかわったのをきっかけに、
『サザエさん』をみるのをやめたひとなんているだろうか。
それはそれで、「サザエさん現象」から開放されるわけだから、
わるいことばかりではない。
すべてに変化はつきもので、
そんななかで自分たちは生きていかざるをえないと、
日曜日の夕方に『サザエさん』が気づかせてくれる。
はじめてあたらしい波平さんの声をきく。
永井一郎氏が亡くなられたのにともない、
きょねんの冬にかわったらしい。
当然だけどすごくへんなかんじだ。
永井一郎さんのあとでは
だれがやっても違和感があるにきまっている。
それでなんだかんだいわれるのだから、
かわった声優さんはたいへんだ。
ある一線をこえると、みる側はキャラクターと声優さんを
わけてかんがえられなくなる。
永井一郎さんの声は、あまりにも波平さんとむすびついていた。
山田康雄さんのあとに、
声がにている栗田さんがルパン役になったとき、
にていたらいいというものでもないとおもった。
ルパンの役をしているというよりも、
山田さんのモノマネをしてるかんじがぬけきれず、
にているだけにかえってちがいがイヤミにもなる。
といっても、ルパンぐらい声の印象がかたまってしまうと、
まるっきりちがう声にするわけにいかなかったのだろう。
石川五右衛門の声はとちゅうからかわっている。
テレビの旧シリーズは大塚周夫さんで、
新シリーズからは井上真樹夫さんだ。
このときはシリーズのあいだが5年以上あいていたし、
なんといってもセリフのすくない五右衛門なので、
社会的な話題にのぼらなかった(とおもう)。
寅さん作品では3人の俳優さんが「おいちゃん」をやっている。
亡くなったときだけでなく、
評判がわるいわけではないのに なんとなく、というときもあった。
だれでもいい、というわけではないにしろ、
一流の俳優ならそれなりの世界をつくれるのだから、
作品の雰囲気をこわしたりはしない。
役者さんがかわるのは、アニメより実写のほうが影響がおおきいはずだ。
ひとがかわればすべてがちがってくる。
それなのに、おいちゃんがかわっても
すんなりうけいれられるのは、
俳優さん本人としてではなく、その役をえんじていると
みる側が了解しているからだ。
極端なことをいえば、寅さん映画は渥美清さんがいれば、
あとはだれがかわっても決定的な影響はなかった。
(ということをかんがえると、
主役がなんにんもかわっているジェームズ・ボンドシリーズは
たいへんな冒険にいどんでいることに気づく)。
アニメは絵(うごき)でみせているのであり、
そんなに声のことをとやかくいわなくてもよさそうなのに、
声優がかわると違和感をもつ。
声優さんの演技力に不満なのではなく、
かわったこと自体がうけいれにくいのだ。
ただし、ただの違和感にすぎないので、
しばらくすると おさまるとこにおちついていく。
永井さんのそっくりさんをさがすのではなく、
あたらしい波平さんという路線でよかったとおもう。
わたしたちは、あたらしい波平さんの演技力に注目すればいい。
波平さんの声がかわったのをきっかけに、
『サザエさん』をみるのをやめたひとなんているだろうか。
それはそれで、「サザエさん現象」から開放されるわけだから、
わるいことばかりではない。
すべてに変化はつきもので、
そんななかで自分たちは生きていかざるをえないと、
日曜日の夕方に『サザエさん』が気づかせてくれる。
2015年05月20日
『本の雑誌 6月号』 祝 創刊40周年
『本の雑誌 6月号』
今月号は「40周年ありがとう特大号」だ。
20周年をむかえたとき「本の雑誌社」は
ホテルをかりて盛大にいわっている。
椎名さんはなにかの本に
「こういうおいわいはこれがさいごだ、30周年はないだろう」
みたいなことをかいていた
(あんがい「200号記念」のおもいちがいかもしれない)。
30年も「本の雑誌社」はつづかないだろう、という意味と、
関係者がそろって健康でいられるのは
もうそうながくない、という予感からの発言で、
そんな理由もあって20周年を盛大においわいしたのだ。
さいわい30周年、さらにこうして40周年をいわえたたのだから
まことにおめでたいというべきだろう。
今回の40周年記念号は、
・目黒考二・沢野ひとし・木村晋介・椎名誠が
『本の雑誌』のおもいでやこれからにふれる記事
・「本棚が見たい!」で上記の4人の本棚を公開する
・本の雑誌が選ぶ40年の400冊!
という特集がくまれ、いつもよりページ数がおおく、
値段も1000円と、すこしたかくなっている。
わたしはふだん沢野ひとしさんの文章をほとんどよまないけど、
特集によせた「四十年の無言のはなし」は
これまで『本の雑誌』にのせるすべての絵をかいてきたのにもかかわらず、
いかに関係者や世間から黙殺されてきたかがつづられていておかしい。
『本の雑誌』の「かわらなさ」の魅力のひとつとして、
沢野さんの絵があるのはまちがいないのに、
どうも積極的な評価はうけていないようで、
それがまた『本の雑誌』らしくもあるから、まあしかたないか。
「本棚が見たい!」での目黒さんの本棚は、
「古いマンションの2DK2室を仕事場兼書庫として使用。
ミステリーの部屋、時代小説の部屋等、ジャンルごとに部屋を分けて収納している」
「蔵書は概算で5万冊は超えるだろうか。
どの部屋も床に本が横積みになっていて、足の踏み場がない」
ようすが写真で紹介されている。
よくこれで床がぬけないものだ。
「本の雑誌が選ぶ40年の400冊!」は
「本の雑誌」がえらぶノンジャンルの40冊と、
エンタメ・ノンフェクションなどの9ジャンルから40冊ずつ、
合計400冊がえらばれている。
40年にわたる総合1位がすんなりきまるはずもなく、
たしかに、これが本の雑誌の精神だ。
『本の雑誌』をつくりはじめたころの記録として
目黒さんが『本の雑誌風雲録』、
椎名さんが『本の雑誌血風録』をだしている。
『風雲録』が243ページで、配達部隊など、
雑誌をつくる裏側のようすがくわしいのにたいし、
椎名さんの『血風録』は567ページもあり、
例によってはなしはあちこちにとび、
初期の紙面ついてもふれてある。
どちらの本もそれぞれおもしろく、
『本の雑誌』の自由な気分がつたわってくる。
わたしにとって『本の雑誌』は、
いつのまにか なくてはならない存在になった。
おもしろい本を紹介してくれるだけでなく、
わたしのよりどころである 本の世界を形にしてくれる。
『本の雑誌』の50周年は、きっといまのすがたとそうかわらないだろう。
かわらないでいてほしいとねがう。
今月号は「40周年ありがとう特大号」だ。
20周年をむかえたとき「本の雑誌社」は
ホテルをかりて盛大にいわっている。
椎名さんはなにかの本に
「こういうおいわいはこれがさいごだ、30周年はないだろう」
みたいなことをかいていた
(あんがい「200号記念」のおもいちがいかもしれない)。
30年も「本の雑誌社」はつづかないだろう、という意味と、
関係者がそろって健康でいられるのは
もうそうながくない、という予感からの発言で、
そんな理由もあって20周年を盛大においわいしたのだ。
さいわい30周年、さらにこうして40周年をいわえたたのだから
まことにおめでたいというべきだろう。
今回の40周年記念号は、
・目黒考二・沢野ひとし・木村晋介・椎名誠が
『本の雑誌』のおもいでやこれからにふれる記事
・「本棚が見たい!」で上記の4人の本棚を公開する
・本の雑誌が選ぶ40年の400冊!
という特集がくまれ、いつもよりページ数がおおく、
値段も1000円と、すこしたかくなっている。
わたしはふだん沢野ひとしさんの文章をほとんどよまないけど、
特集によせた「四十年の無言のはなし」は
これまで『本の雑誌』にのせるすべての絵をかいてきたのにもかかわらず、
いかに関係者や世間から黙殺されてきたかがつづられていておかしい。
『本の雑誌』の「かわらなさ」の魅力のひとつとして、
沢野さんの絵があるのはまちがいないのに、
どうも積極的な評価はうけていないようで、
それがまた『本の雑誌』らしくもあるから、まあしかたないか。
「本棚が見たい!」での目黒さんの本棚は、
「古いマンションの2DK2室を仕事場兼書庫として使用。
ミステリーの部屋、時代小説の部屋等、ジャンルごとに部屋を分けて収納している」
「蔵書は概算で5万冊は超えるだろうか。
どの部屋も床に本が横積みになっていて、足の踏み場がない」
ようすが写真で紹介されている。
よくこれで床がぬけないものだ。
「本の雑誌が選ぶ40年の400冊!」は
「本の雑誌」がえらぶノンジャンルの40冊と、
エンタメ・ノンフェクションなどの9ジャンルから40冊ずつ、
合計400冊がえらばれている。
40年にわたる総合1位がすんなりきまるはずもなく、
「結局、どうやって1位を決めるんだ!」といういつものノリで意外な本がえらばれる。
「そんなに迷うんだったら『◯◯◯』にしませんか」
「小林さん、思い切ったことを言うなあ(笑)。
でも本の雑誌らしいといえばらしいよね」
たしかに、これが本の雑誌の精神だ。
『本の雑誌』をつくりはじめたころの記録として
目黒さんが『本の雑誌風雲録』、
椎名さんが『本の雑誌血風録』をだしている。
『風雲録』が243ページで、配達部隊など、
雑誌をつくる裏側のようすがくわしいのにたいし、
椎名さんの『血風録』は567ページもあり、
例によってはなしはあちこちにとび、
初期の紙面ついてもふれてある。
どちらの本もそれぞれおもしろく、
『本の雑誌』の自由な気分がつたわってくる。
わたしにとって『本の雑誌』は、
いつのまにか なくてはならない存在になった。
おもしろい本を紹介してくれるだけでなく、
わたしのよりどころである 本の世界を形にしてくれる。
『本の雑誌』の50周年は、きっといまのすがたとそうかわらないだろう。
かわらないでいてほしいとねがう。
2015年05月19日
ふだんやらないうごきなので ロコモ度テストはうまくできない
新聞にロコモ度のしらべ方がのっていた。
ロコモとは「ロコモティブ症候群」のことで、
ロコモ度がたかいと
「運動機能が落ちて介護が必要になるリスクが高い」ことから
このごろよく耳にするようになった。
40センチのたかさのイスから かたあしでたちあがれるか、と
2歩でどれだけ距離をかせげるか、のテストが紹介されている。
きょねんの10月にもおなじような記事がとりあげられた。
そのときの感想をわたしはブログに
「たしかに筋力とバランス力をあぶりだす わかりやすいテストだ。
わたしは片足たちと2ステップ測定の練習を地道につづけ、
ちゃっかりこのテストに特化した能力をたかめようとおもう」
なんて かいている。
しかし、つづかなかった。
すぐにバカバカしくなって、特化したトレーニングなんてやめている。
やってみるとわかるけど、
イスからかたあしでたちあがるのも、
おおまたで2歩あるくのも、
ふだんえんのないうごきなので、
からだをうまくコントロールしにくい。
がんばるとケガにつながるようなうごきだし、
失敗したら「ロコモ度がたかい」と診断されるわけで、
テストされるほうはいごこちがわるい。
こんなテストでロコモときめつけられたら
だれでも不本意だろう。
「あなたはロコモです」は
実態をともなわないおどしみたいなもので、
したしまれることなくすたれていく概念だとおもう。
すたれてほしい。
と、批判的にみていたら、
3番目のテスト方法に「ロコモ25」というのがのっていた。
なんのことかとネットをみたら、
25項目の日常動作をチェックして ロコモ度をしるものだ。
からだのどこかにいたみがあるか、とか、
家のなかをあるくのが どれくらい困難か、とかの質問にこたえていくので、
これなら安全に「実力」があぶりだされるだろう。
自己申告のため、できるかできないかが その場ではわからないけど、
体育館なんかで「テスト」されるより、
こうしたチェック方式のほうが心理的にうけいれやすいのではないか。
とはいえ、なんだか介護度をはかられているようで、
あまりたのしい気には なれないかもしれない。
健康診断にしてもメタボにしてもこのロコモにしても、
ある基準をこえているか(あるいはたっしないか)どうか判断するもので、
日本人のテストずき・基準ずきにあっているのだろう。
こういうのもぜひ「クール・ジャパン」でとりあげて
外国の実情を紹介してほしいところだ。
外国でもこんなテストがおこなわれているのか。
ひとびとは、それに素直にしたがうのか。
わたしにはかなり「余計なお世話」におもえ、
こうしたうごきにのっかるのは日本人くらいのような気がする。
中年になればふとる。
歳をとれば老化がすすみ、やがて死んでいく。
それがすんなりとうけいれられているのは
どんな社会だろう。
ロコモとは「ロコモティブ症候群」のことで、
ロコモ度がたかいと
「運動機能が落ちて介護が必要になるリスクが高い」ことから
このごろよく耳にするようになった。
40センチのたかさのイスから かたあしでたちあがれるか、と
2歩でどれだけ距離をかせげるか、のテストが紹介されている。
きょねんの10月にもおなじような記事がとりあげられた。
そのときの感想をわたしはブログに
「たしかに筋力とバランス力をあぶりだす わかりやすいテストだ。
わたしは片足たちと2ステップ測定の練習を地道につづけ、
ちゃっかりこのテストに特化した能力をたかめようとおもう」
なんて かいている。
しかし、つづかなかった。
すぐにバカバカしくなって、特化したトレーニングなんてやめている。
やってみるとわかるけど、
イスからかたあしでたちあがるのも、
おおまたで2歩あるくのも、
ふだんえんのないうごきなので、
からだをうまくコントロールしにくい。
がんばるとケガにつながるようなうごきだし、
失敗したら「ロコモ度がたかい」と診断されるわけで、
テストされるほうはいごこちがわるい。
こんなテストでロコモときめつけられたら
だれでも不本意だろう。
「あなたはロコモです」は
実態をともなわないおどしみたいなもので、
したしまれることなくすたれていく概念だとおもう。
すたれてほしい。
と、批判的にみていたら、
3番目のテスト方法に「ロコモ25」というのがのっていた。
なんのことかとネットをみたら、
25項目の日常動作をチェックして ロコモ度をしるものだ。
からだのどこかにいたみがあるか、とか、
家のなかをあるくのが どれくらい困難か、とかの質問にこたえていくので、
これなら安全に「実力」があぶりだされるだろう。
自己申告のため、できるかできないかが その場ではわからないけど、
体育館なんかで「テスト」されるより、
こうしたチェック方式のほうが心理的にうけいれやすいのではないか。
とはいえ、なんだか介護度をはかられているようで、
あまりたのしい気には なれないかもしれない。
健康診断にしてもメタボにしてもこのロコモにしても、
ある基準をこえているか(あるいはたっしないか)どうか判断するもので、
日本人のテストずき・基準ずきにあっているのだろう。
こういうのもぜひ「クール・ジャパン」でとりあげて
外国の実情を紹介してほしいところだ。
外国でもこんなテストがおこなわれているのか。
ひとびとは、それに素直にしたがうのか。
わたしにはかなり「余計なお世話」におもえ、
こうしたうごきにのっかるのは日本人くらいのような気がする。
中年になればふとる。
歳をとれば老化がすすみ、やがて死んでいく。
それがすんなりとうけいれられているのは
どんな社会だろう。
2015年05月18日
『クール・ジャパン!?』(鴻上尚史) どちらがただしいかではなく、なにを大切にしているか
『クール・ジャパン!?』(鴻上尚史・講談社現代新書)
テレビ番組の『クール・ジャパン』をよくみるものの、
このごろは素直にたのしめなくなっていた。
ふるくからの日本の習慣や最近のはやりをとりあげて、
なにかにつけ「クール!」ともちあげるのが鼻につく。
政府がマンガやアニメをうりこもうとするのもいやだった。
しかしこの本は、番組や海外で体験した鴻上さんのおどろきがよく整理されており、たのしくよめた。
外国と日本のちがいのうらには、
おもってもみなかった理由があったりする。
たとえば「『人間型ロボット』は日本の独壇場」では、
イタリア人男性による
「宗教的に作れない」という発言が紹介されており、
ふかく納得した。
とうぜん外国にもあるだろうとおもっていたものが日本だけだったり、
それが外国人によろこばれているという
本来的な「クール・ジャパン」もおもしろい。
ウォッシュレットはともかく、ママチャリが便利なんてしらなかった。
・アイスコーヒーは、のみ方にこだわりをもたない日本だから生まれたもの
・直箸への抵抗感。でも、そういえば、いまや日本人も
ひとのつくったおにぎりを たべられなくなっている。
・フランスの女性による
「日本はなんて自由な国なんだと思った。
自分の着たいものを着て、街を歩いている。
フランスにはそんな自由はない」という感想。
・日本人は時間に正確なのか?
パーティーの時間はまもる。でも、仕事はおそくまでつづける。
・日本人は写真ずきなのに、家族の写真を職場におかない。
・マスク問題
・ストレスをためるのは日本人だけ?
ストレスをいやすグッズについて
「まったく必要ない」とこたえたスペイン人。
でも、私たちはストレスの原因を解決しようとするの」
・「ちゃんとする」の基準がたかい日本
ちゃんと時刻表はつくるけど、結婚記念日や誕生日はわすれがち。
「日本は世間でできている」はすぐれた文化論だ。
退職後も世間をもとめる。
ぜひじっさいに本書を手にしていただきたい。
ほかにも、外国で赤ちゃんをひとりでねかせるのは、
しつけや自立の問題ではなく、
発想が日本人とまったくちがうことをしる。
わかいころ、わたしは日本人的な行動やしきたりがすきではなく、
自分はコスモポリタンのつもりで生きていた。
でもそのうちに、議論をつくさないところなど、
あらゆる面で典型的な日本人であると 自覚せざるをえなかった。
ゲストの外国人はよく発言する。
個人の意見であり、ほんとかどうかわわからない。
でも、とにかく自分の意見をもっている。
自分の意見をもっているからすごいというより、
自分の意見をつたえなければならない社会でそだち、
そうしつけられてきた結果だ。
番組は「クール・ジャパン」のおしつけや自慢ではない。
日本をよくしろうとする鴻上さんの姿勢に共感する。
ブログを毎日かくなんていうのも 日本人ぐらいだったりして。
はたしてそれはクールなのか。
テレビ番組の『クール・ジャパン』をよくみるものの、
このごろは素直にたのしめなくなっていた。
ふるくからの日本の習慣や最近のはやりをとりあげて、
なにかにつけ「クール!」ともちあげるのが鼻につく。
政府がマンガやアニメをうりこもうとするのもいやだった。
しかしこの本は、番組や海外で体験した鴻上さんのおどろきがよく整理されており、たのしくよめた。
外国と日本のちがいのうらには、
おもってもみなかった理由があったりする。
たとえば「『人間型ロボット』は日本の独壇場」では、
イタリア人男性による
「宗教的に作れない」という発言が紹介されており、
ふかく納得した。
とうぜん外国にもあるだろうとおもっていたものが日本だけだったり、
それが外国人によろこばれているという
本来的な「クール・ジャパン」もおもしろい。
ウォッシュレットはともかく、ママチャリが便利なんてしらなかった。
・アイスコーヒーは、のみ方にこだわりをもたない日本だから生まれたもの
・直箸への抵抗感。でも、そういえば、いまや日本人も
ひとのつくったおにぎりを たべられなくなっている。
・フランスの女性による
「日本はなんて自由な国なんだと思った。
自分の着たいものを着て、街を歩いている。
フランスにはそんな自由はない」という感想。
・日本人は時間に正確なのか?
パーティーの時間はまもる。でも、仕事はおそくまでつづける。
・日本人は写真ずきなのに、家族の写真を職場におかない。
僕は訊きました。「妻の写真を見て、ホッとするの?妻の写真見て、ストレスが増えることはないの?」番組に参加した外国人は「こいつはなにを言ってるんだ」という冷たい目で僕を見ました。
・マスク問題
フランス女性が「風邪をひいたら、会社を休めばいいの」と当然の顔をして答えました。すこし、殺意がわきました。そうできないから、日本人は苦労しているんだと、ノドまで出かかりました。
・ストレスをためるのは日本人だけ?
ストレスをいやすグッズについて
「まったく必要ない」とこたえたスペイン人。
「じゃあ、ストレスがたまったらどうしてるの?」と訊くと「日本人はストレスを忘れようとするのね。
「僕、ストレス、感じたことないから」と言い放ちました。
でも、私たちはストレスの原因を解決しようとするの」
・「ちゃんとする」の基準がたかい日本
スペイン人がJRの八月分の時刻表を見て、しみじみと「スペインでこの雑誌を作ろうと思ったら、八月まる一ヶ月かけてもまだ出来上がらないだろう」と断言しました。八月の時刻表を10月ぐらいに完成すると言うのです。ちゃんとしようと思ったら、それぐらいの時間がかかる。だから作らない、と言うのです。
ちゃんと時刻表はつくるけど、結婚記念日や誕生日はわすれがち。
なにを「ちゃんとして」なにを「ちゃんとしない」かの、おおきなズレがあるのです。
「日本は世間でできている」はすぐれた文化論だ。
日本人は「世間」と「社会」という二つの空間に生きていると僕は思っています。メインは「世間」です。「社会」に生きている時は、日本人はじつは、どんなふうに振る舞えばいいのか、よく分かってないのです。乳母車を抱えて階段を降りている人が、どんなに大変そうに見えても、どう声をかけていいのか分からないのです。会社という世間でずっと生きてきたひとは、
退職後も世間をもとめる。
(定年後にボランティア活動として公園や駅前にある銅像をあらっている男性をみて)オランダ人男性が爆笑しました。(中略)さすがに僕はムッとしました。正直に言うと、怒りさえかんじました。なぜこの男性がわらったのかは、
ぜひじっさいに本書を手にしていただきたい。
ほかにも、外国で赤ちゃんをひとりでねかせるのは、
しつけや自立の問題ではなく、
発想が日本人とまったくちがうことをしる。
わかいころ、わたしは日本人的な行動やしきたりがすきではなく、
自分はコスモポリタンのつもりで生きていた。
でもそのうちに、議論をつくさないところなど、
あらゆる面で典型的な日本人であると 自覚せざるをえなかった。
ゲストの外国人はよく発言する。
個人の意見であり、ほんとかどうかわわからない。
でも、とにかく自分の意見をもっている。
自分の意見をもっているからすごいというより、
自分の意見をつたえなければならない社会でそだち、
そうしつけられてきた結果だ。
番組は「クール・ジャパン」のおしつけや自慢ではない。
日本をよくしろうとする鴻上さんの姿勢に共感する。
どちらが正しいという問題ではなく、なにを大切にしているか、の違いかもしれません。
ブログを毎日かくなんていうのも 日本人ぐらいだったりして。
はたしてそれはクールなのか。
2015年05月17日
総統と吉田くん以外はみんな有能な鷹の爪団
かんがえてみると、
いやほんとうは、かんがえてみるまでもなく、
鷹の爪団の中心人物である総統と吉田くんは、
世界征服にやくだつ仕事をしていない。
そういってしまっては身もフタもないけれど、
それがいまやこの作品の前提となっている事実だ。
「世界征服」とはなにか、という問題はおいとくとして、
このふたりがいなければ世界征服はそうむつかしくはない。
このふたり以外の団員は、
博士にしてもフィリップにしても菩薩峠くんにしても、
みんなそれぞれやり手であり、
ひとりでも世界征服ができるような ひいでた能力をもっている
(レオナルド博士の能力におどろいたデラックスファイターが、
「おまえらなんで世界征服できねえんだ?」と
不思議がっている)。
鷹の爪団の顔みたいなつもりでいる総統と吉田くんが
よってたかって足をひっぱるから
世界征服ができないのだ。
博士たちがいなければ、のこる総統と吉田くんは、
まったく人畜無害なひとたちでしかない。
中心にいる人物が、じつは組織にとって有害だった、というのは
かなしいけど、あんがいよくみかける風景といえる。
たとえばWカップブラジル大会で日本代表はベスト4をめざしており、
でありながらブラジル代表とガチで試合をすればまったく歯がたたず、
「いまのメンバーが主力であるうちは無理」なんて相手にいわれていた。
世界に通用する、世界をおどろかすサッカーを、と
中心になってチームをもりあげていた選手たちは、
自分たちの存在を否定しなければ
日本はつよくならないという矛盾をかかえることになる。
有名なパレートの法則を鷹の爪団に適応すると、
20%の隊員(つまりひとり)が80%の仕事をするのだ。
博士・菩薩峠・フィリップの3人が協力しあうことはまずなく、
うごくとすれば個人ごとの活動になるので
つねに20%としてのかたまりとして計算できる。
鷹の爪団に敵対する組織も もちろんそれに気づいており、
これまでの放送で3人(博士・菩薩峠・フィリップ)は
それぞれべつべつにラチされたはなしがあった。
彼らをいちまいずつはがしていけば、のこる団員は無力だ。
吉田くんがデラックスファイターに弟子いりしたことはあっても、
鷹の爪団の戦力に影響はないため そのままほっておかれた。
では、総統と吉田くんは、いったいどんな存在なのだろう。
世界征服という目的に関係ないのなら、
なぜ主役みたいな顔をして いつも番組にでてくるのか。
これもまた世間の組織でよくみかける問題とおなじだ。
あらゆる目的は、実現させるよりも、
その状況を維持するほうがむつかしいことがしられている。
問題は、世界征服までのみちのりではなく、
世界征服をしたあとにある。
博士にしてもフィリップにしても菩薩峠くんにしても、
世界征服はできてもその後のビジョンをえがけない。
そのため征服そのものにも懐疑的であり、
おのずとただいっしょにいるだけ、という存在になってしまいがちだ。
総統と吉田くんは、世界征服をしたあとにこそちからを発揮する。
しかし、彼らがいると世界征服ができないわけだから、
おもてにでてくるうごきをみているだけでは、
なんのための存在かがはっきりつかめない。
鷹の爪団は、このふたりと、
博士たち3人の有能な隊員という構成で自己完結しており、
はげしくうごきながらも 安定した状態がいつまでもつづくことになる。
いやほんとうは、かんがえてみるまでもなく、
鷹の爪団の中心人物である総統と吉田くんは、
世界征服にやくだつ仕事をしていない。
そういってしまっては身もフタもないけれど、
それがいまやこの作品の前提となっている事実だ。
「世界征服」とはなにか、という問題はおいとくとして、
このふたりがいなければ世界征服はそうむつかしくはない。
このふたり以外の団員は、
博士にしてもフィリップにしても菩薩峠くんにしても、
みんなそれぞれやり手であり、
ひとりでも世界征服ができるような ひいでた能力をもっている
(レオナルド博士の能力におどろいたデラックスファイターが、
「おまえらなんで世界征服できねえんだ?」と
不思議がっている)。
鷹の爪団の顔みたいなつもりでいる総統と吉田くんが
よってたかって足をひっぱるから
世界征服ができないのだ。
博士たちがいなければ、のこる総統と吉田くんは、
まったく人畜無害なひとたちでしかない。
中心にいる人物が、じつは組織にとって有害だった、というのは
かなしいけど、あんがいよくみかける風景といえる。
たとえばWカップブラジル大会で日本代表はベスト4をめざしており、
でありながらブラジル代表とガチで試合をすればまったく歯がたたず、
「いまのメンバーが主力であるうちは無理」なんて相手にいわれていた。
世界に通用する、世界をおどろかすサッカーを、と
中心になってチームをもりあげていた選手たちは、
自分たちの存在を否定しなければ
日本はつよくならないという矛盾をかかえることになる。
有名なパレートの法則を鷹の爪団に適応すると、
20%の隊員(つまりひとり)が80%の仕事をするのだ。
博士・菩薩峠・フィリップの3人が協力しあうことはまずなく、
うごくとすれば個人ごとの活動になるので
つねに20%としてのかたまりとして計算できる。
鷹の爪団に敵対する組織も もちろんそれに気づいており、
これまでの放送で3人(博士・菩薩峠・フィリップ)は
それぞれべつべつにラチされたはなしがあった。
彼らをいちまいずつはがしていけば、のこる団員は無力だ。
吉田くんがデラックスファイターに弟子いりしたことはあっても、
鷹の爪団の戦力に影響はないため そのままほっておかれた。
では、総統と吉田くんは、いったいどんな存在なのだろう。
世界征服という目的に関係ないのなら、
なぜ主役みたいな顔をして いつも番組にでてくるのか。
これもまた世間の組織でよくみかける問題とおなじだ。
あらゆる目的は、実現させるよりも、
その状況を維持するほうがむつかしいことがしられている。
問題は、世界征服までのみちのりではなく、
世界征服をしたあとにある。
博士にしてもフィリップにしても菩薩峠くんにしても、
世界征服はできてもその後のビジョンをえがけない。
そのため征服そのものにも懐疑的であり、
おのずとただいっしょにいるだけ、という存在になってしまいがちだ。
総統と吉田くんは、世界征服をしたあとにこそちからを発揮する。
しかし、彼らがいると世界征服ができないわけだから、
おもてにでてくるうごきをみているだけでは、
なんのための存在かがはっきりつかめない。
鷹の爪団は、このふたりと、
博士たち3人の有能な隊員という構成で自己完結しており、
はげしくうごきながらも 安定した状態がいつまでもつづくことになる。
2015年05月16日
23年ぶりに世界地図帳をかう
世界地図帳をかう。
これまでつかっていたものは1992年に帝国書院からだされた
『ソ連崩壊後のワールドアトラス』(A4版)で、
中学や高校の社会科でつかうような地図帳だ。
前半は世界地図で、後半は日本地図になっている。
本をよんでいて、よくしらない地名がでたときなど お世話になった。
とはいえ、23年もまえの地図なのだから、さすがにふるい。
ソ連の崩壊後をおさえてあるというサブタイトルも、
こうなると かえって「むかし」をかんじさせる。
地図にも賞味期限があるとおもったほうがいいだろう。
あたらしい地図帳としてえらんだのは、
平凡社からだされている『新版プレミアムアトラス』だ。
B4版とおおきいし、たとえばヨーロッパだけでも
フランスやスペイン・ポルトガルなどの国別のほかに、
アルプス・中南部・中部・北東部・南東部と、こまかくわかれている。
南東部には地中海もあらわされており、
『遠い太鼓』で村上春樹さんがすごしたスペッツェス島は
ちいさすぎてさすがにみあたらないものの、
「ハルキ島」としてでてくる「Khalki島」が ちゃんとのっているくらいくわしい
(「カルキ島」とあらわされているけど)。
まえの地図帳とくらべると、国の名前がいくつかかわっている。
旧ユーゴスラビアにあった国々や、ザイールがコンゴ民主共和国に、
スーダンから南スーダンが独立したぐらいかとおもったら、
いちばんさいごのページに「1990年以降の独立国など」があり、
ほかにもたくさんのっていた(2000年代だけでも14ある)。
賞味期限など、とっくのまえにきれていたみたいだ。
いぜんよんだ本に、どの国についてであれ、
人口や面積、おもな産業をしらなければなにもいえない、
みたいなことがかいてあり、
それもそうだとふかく感心した。
むかしばなしの桃太郎もしらずにおいて、
日本文化についてはなすようなものかもしれない。
最低限おさえておかなければならない 基礎的な知識だ。
世界地図帳は、人口や産業をしらべるためのものではないとはいえ、
地図だけでなくいろんな情報がのっているので、よみものとしてもたのしい。
人口についていえば、
以前の地図にのっていた数字(1988年)と、
こんどかった地図のもの(2012年)をくらべると、
中国は2億7千万人、インドは4億4千万人もふえている。
当時の総人口が51億人で、それがいまでは70億人になっているのだから
それだけをとっても、着実に世界はかわりつつあるのだ。
アメリカ合衆国が7千万人、約29%もふえているのはしらなかった。
先進国で これだけふえている国はなく、
これからさきの政策に とうぜん影響をおよぼすだろう。
日本はへってるのかとおもったら、545万人ふえていた。
2008年が人口のピークで、そのあとへりはじめるので、
1988年とだけくらべると、まだげんきがあるようにみえる。
このあと順調すぎるいきおいでへっていくはずだ。
帝国書院のふるい地図帳は122ページが税込で1500円。
こんどかった平凡社の地図帳は 176ページで税べつ1500円。
23年のさいげつをこえ、ほぼおなじ値段でこのちがいはなんなのだろう。
つぎに世界地図をかうときは、自然現象や中国のうめたてによる
地理的な変化がのっているかもしれない。
これまでつかっていたものは1992年に帝国書院からだされた
『ソ連崩壊後のワールドアトラス』(A4版)で、
中学や高校の社会科でつかうような地図帳だ。
前半は世界地図で、後半は日本地図になっている。
本をよんでいて、よくしらない地名がでたときなど お世話になった。
とはいえ、23年もまえの地図なのだから、さすがにふるい。
ソ連の崩壊後をおさえてあるというサブタイトルも、
こうなると かえって「むかし」をかんじさせる。
地図にも賞味期限があるとおもったほうがいいだろう。
あたらしい地図帳としてえらんだのは、
平凡社からだされている『新版プレミアムアトラス』だ。
B4版とおおきいし、たとえばヨーロッパだけでも
フランスやスペイン・ポルトガルなどの国別のほかに、
アルプス・中南部・中部・北東部・南東部と、こまかくわかれている。
南東部には地中海もあらわされており、
『遠い太鼓』で村上春樹さんがすごしたスペッツェス島は
ちいさすぎてさすがにみあたらないものの、
「ハルキ島」としてでてくる「Khalki島」が ちゃんとのっているくらいくわしい
(「カルキ島」とあらわされているけど)。
まえの地図帳とくらべると、国の名前がいくつかかわっている。
旧ユーゴスラビアにあった国々や、ザイールがコンゴ民主共和国に、
スーダンから南スーダンが独立したぐらいかとおもったら、
いちばんさいごのページに「1990年以降の独立国など」があり、
ほかにもたくさんのっていた(2000年代だけでも14ある)。
賞味期限など、とっくのまえにきれていたみたいだ。
いぜんよんだ本に、どの国についてであれ、
人口や面積、おもな産業をしらなければなにもいえない、
みたいなことがかいてあり、
それもそうだとふかく感心した。
むかしばなしの桃太郎もしらずにおいて、
日本文化についてはなすようなものかもしれない。
最低限おさえておかなければならない 基礎的な知識だ。
世界地図帳は、人口や産業をしらべるためのものではないとはいえ、
地図だけでなくいろんな情報がのっているので、よみものとしてもたのしい。
人口についていえば、
以前の地図にのっていた数字(1988年)と、
こんどかった地図のもの(2012年)をくらべると、
中国は2億7千万人、インドは4億4千万人もふえている。
当時の総人口が51億人で、それがいまでは70億人になっているのだから
それだけをとっても、着実に世界はかわりつつあるのだ。
アメリカ合衆国が7千万人、約29%もふえているのはしらなかった。
先進国で これだけふえている国はなく、
これからさきの政策に とうぜん影響をおよぼすだろう。
日本はへってるのかとおもったら、545万人ふえていた。
2008年が人口のピークで、そのあとへりはじめるので、
1988年とだけくらべると、まだげんきがあるようにみえる。
このあと順調すぎるいきおいでへっていくはずだ。
帝国書院のふるい地図帳は122ページが税込で1500円。
こんどかった平凡社の地図帳は 176ページで税べつ1500円。
23年のさいげつをこえ、ほぼおなじ値段でこのちがいはなんなのだろう。
つぎに世界地図をかうときは、自然現象や中国のうめたてによる
地理的な変化がのっているかもしれない。
2015年05月15日
大衆は身ぢかにいた
まえの職場でおたよりをつくっていたとき、
まじめな記事ばかりではおもしろくないので、
ある20代の女性職員には 介護とか仕事からまったくはなれた
私的な生活についてかいてもらっていた。
とくべつするどい考察というのではなく、
かといってセキララすぎる日常でもない。
どちらかというと、きょうもげんきだビールがうまい、みたいなかるめのやつ。
「介護史上類をみないお気楽連載」がサブタイトルであり、コンセプトだ。
担当者としてわたしは家に原稿をもちかえり、
誤字脱字などをチェックする。
なにげなく、というか
こんな連載をのせるなんてクールでしょー、みたいに
配偶者にみせると、
「このひとはよくわかっている」と
ちからづよく断言されてしまった。
どうしてもかたくなりがちなおたよりを、
すこしでもやわらかく、という存在の記事だから、
りっぱなことはなにもかかれていない。
いや、そうじゃなくて
こんなお気楽な記事もいいでしょ?といっても
ものごとがよくわかっている いい記事としての評価を
配偶者はゆずらない。
予想外の感想だ。そんなよみ方もあるのか。
ためしにほかの職員の記事もよんでもらった。
おたよりによくある、活動のようすとか、
研修報告などの わりとまじめな記事。
それらについて配偶者は、「このひとは、わかっていない」という。
配偶者は、あまり本をよむほうではなく、
どちらかといえばベストセラーや話題になった本に反応するタイプだ。
『スティーブ・ジョブズ』や『東京タワー』、最近では『鹿の王』など。
だからといって彼女の意見をかろんじるのではない。
「このひとはよくわかっている」は、
わたしにはおもいもしない指摘であり、新鮮だった。
彼女がお気楽記事をたかく評価したのは、
それをかいた職員の資質を
なにかしらかぎつけたのかもしれない。
わたしたちは、配偶者みたいなひとにむけて
おたよりをつくっているのであり、
想定すべき読者が、こんな身ぢかにいたのだ。
かいた記事がどんなふうにうけとめられるかは、
ほんとうに予想もつかない。
自分のかんがえが、そのままつたわるなんて
かんたんにおもわないほうがいい。
お気楽記事をかいた職員に、
配偶者の感想をつたえると、まんざらでもないようだった。
いっぽう的に「お気楽」だときめつけて、
おたよりのやわらかさを自慢していた
自分のあさはかさをおもった。
まじめな記事ばかりではおもしろくないので、
ある20代の女性職員には 介護とか仕事からまったくはなれた
私的な生活についてかいてもらっていた。
とくべつするどい考察というのではなく、
かといってセキララすぎる日常でもない。
どちらかというと、きょうもげんきだビールがうまい、みたいなかるめのやつ。
「介護史上類をみないお気楽連載」がサブタイトルであり、コンセプトだ。
担当者としてわたしは家に原稿をもちかえり、
誤字脱字などをチェックする。
なにげなく、というか
こんな連載をのせるなんてクールでしょー、みたいに
配偶者にみせると、
「このひとはよくわかっている」と
ちからづよく断言されてしまった。
どうしてもかたくなりがちなおたよりを、
すこしでもやわらかく、という存在の記事だから、
りっぱなことはなにもかかれていない。
いや、そうじゃなくて
こんなお気楽な記事もいいでしょ?といっても
ものごとがよくわかっている いい記事としての評価を
配偶者はゆずらない。
予想外の感想だ。そんなよみ方もあるのか。
ためしにほかの職員の記事もよんでもらった。
おたよりによくある、活動のようすとか、
研修報告などの わりとまじめな記事。
それらについて配偶者は、「このひとは、わかっていない」という。
配偶者は、あまり本をよむほうではなく、
どちらかといえばベストセラーや話題になった本に反応するタイプだ。
『スティーブ・ジョブズ』や『東京タワー』、最近では『鹿の王』など。
だからといって彼女の意見をかろんじるのではない。
「このひとはよくわかっている」は、
わたしにはおもいもしない指摘であり、新鮮だった。
彼女がお気楽記事をたかく評価したのは、
それをかいた職員の資質を
なにかしらかぎつけたのかもしれない。
わたしたちは、配偶者みたいなひとにむけて
おたよりをつくっているのであり、
想定すべき読者が、こんな身ぢかにいたのだ。
かいた記事がどんなふうにうけとめられるかは、
ほんとうに予想もつかない。
自分のかんがえが、そのままつたわるなんて
かんたんにおもわないほうがいい。
お気楽記事をかいた職員に、
配偶者の感想をつたえると、まんざらでもないようだった。
いっぽう的に「お気楽」だときめつけて、
おたよりのやわらかさを自慢していた
自分のあさはかさをおもった。
2015年05月14日
『あしたから出版社』(島田潤一郎)ひとり出版社で本をつくるということ
『あしたから出版社』(島田潤一郎・晶文社)
この本は、「就職しないで生きるには21」シリーズの1冊として出版されている。
島田さんは就職したくなかったのではなく、
したくても、うけいれてくれる会社がなかったから
しかたなくひとりで出版社をはじめる。
島田さんは、だいすきだった いとこのケンがなくなったのをきっかけに、
ひとのかなしみによりそえるような本をつくろうときめる。
会社をたちあげたからといって、すぐに仕事がうまくまわるわけではない。
島田さんは編集という仕事についたこともなかったので、
いろんなひとにたすけられながら
自分がもとめている本をていねいにつくり、
だんだんとまわりからもみとめられるようになる。
よんでいて、なにかとにているとおもったら、
これは「本の雑誌」とおなじ世界のはなしだ。
じっさい島田さんは、「ひとり出版社」として注目されるようになり、
本の雑誌にもとりあげられている。
よみながら、目黒さんの『本の雑誌風雲録』や、
杉江さんのブログ『帰ってきた炎の営業日誌』をおもいだす。
なにかをゼロからはじめるときのはなしは、
そのときならではのさしせまった状況があるせいか
それぞれにおもしろい。
この『あしたから出版社』には、
島田さんのいいところもダメなところもぜんぶかいてある。
バイトさきのAさんにふられ、Bさんにもふられ、
ほんとうはいちばんすきだったというCさんには声をかけれない。
そんなかっこわるいはなしも かくさずにかく。
アフリカを旅した、なんていうと立派そうだけど、
それももともとは失恋をまぎらわそうとしてのことだ。
ぜんぶ自分をさらけだしながら、
こんな自分が どんなおもいで本をつくっているかをおしえてくれる。
なにもできない人間だった、みたいにかいてあるけれど、
島田さんはたくさんの本をよんできたし、
ひとをすきになるとか、旅行にでるとか、戦争についてしろうと沖縄にすむとか、
わかいころにちゃんと種がまいてある。
島田さんはなにがなんでも出版社がやりたかったわけではない。
いわばくるしまぎれにはなったさいごの一手だ。
ほかにすがれるものがなかった。
しかし、よみおえるてみると、島田さんが本をつくる仕事についたのは、
必然だったとしかおもえない。
島田さんの仕事は正攻法だ。
ネットで下しらべをしてから、電話で確認する。
そのあとで、じっさいにたずねてみる。
足をうごかして仕事をするひとだ。そんなところを信用したくなる。
本がうれさえすればいいという姿勢ではなく、
よんだひとが大切に手もとにおきたくなるような本をつくりたいとねがっている。
よい本は、ひとの気もちをささえてくれるし、
ひととひととをつないでもくれる。
本は、かきたいひとがかいたからできあがったのではなく、
つくったひとたちのおもいもこめられている。
この本をよむと、興奮をだれかにつたえたくなってくる。
わたしも、どれだけ本と本屋さんにすくわれてきたことか。
本屋さんにいき、たくさんの本にふれられるのも、
島田さんや本の雑誌社など、いろんなひとたちが、
いい本をつくろうとしてきたおかげなのがよくわかる。
たのしい本をよませてもらった。
この本は、むすこがかよう高校の図書館を見学したときにかりたものだ。
手にしたときの予想どおり、高校生よりも、
あるていど社会にでて はたらいたことのあるひとむけだろう。
しかし、ひとの生き方をしるという意味では、
たしかに高校生にこそよんでほしい。
この本は、「就職しないで生きるには21」シリーズの1冊として出版されている。
島田さんは就職したくなかったのではなく、
したくても、うけいれてくれる会社がなかったから
しかたなくひとりで出版社をはじめる。
ぼくは三十一歳の、職能も、経験もない、ひとりの無職であった。(中略)
こういう仕事をしたいという願望をもっていたわけではなかった。漠然とした目標すらなかった。
ぼくは、職場で知り合うことになった、意識の高い人たちが苦手だった。帰りの電車のなかなどで、彼らのビジョンや目標を聞いていると、まるで外国人と話しているような気分になった。
「普通に生きていてやりたいことなんてあるわけないじゃないか」
ぼくは、なぜか、憤りさえ覚えるのだった。
島田さんは、だいすきだった いとこのケンがなくなったのをきっかけに、
ひとのかなしみによりそえるような本をつくろうときめる。
ぼくは叔父と叔母のためになにかをしよう。亡くなったケンの代わりというのではないが、自分の人生に一度見切りをつけて、ふたりのために、生き直す気持ちで、全力でなにかをやってみよう。
会社をたちあげたからといって、すぐに仕事がうまくまわるわけではない。
島田さんは編集という仕事についたこともなかったので、
いろんなひとにたすけられながら
自分がもとめている本をていねいにつくり、
だんだんとまわりからもみとめられるようになる。
よんでいて、なにかとにているとおもったら、
これは「本の雑誌」とおなじ世界のはなしだ。
じっさい島田さんは、「ひとり出版社」として注目されるようになり、
本の雑誌にもとりあげられている。
よみながら、目黒さんの『本の雑誌風雲録』や、
杉江さんのブログ『帰ってきた炎の営業日誌』をおもいだす。
なにかをゼロからはじめるときのはなしは、
そのときならではのさしせまった状況があるせいか
それぞれにおもしろい。
この『あしたから出版社』には、
島田さんのいいところもダメなところもぜんぶかいてある。
バイトさきのAさんにふられ、Bさんにもふられ、
ほんとうはいちばんすきだったというCさんには声をかけれない。
そんなかっこわるいはなしも かくさずにかく。
アフリカを旅した、なんていうと立派そうだけど、
それももともとは失恋をまぎらわそうとしてのことだ。
ぜんぶ自分をさらけだしながら、
こんな自分が どんなおもいで本をつくっているかをおしえてくれる。
なにもできない人間だった、みたいにかいてあるけれど、
島田さんはたくさんの本をよんできたし、
ひとをすきになるとか、旅行にでるとか、戦争についてしろうと沖縄にすむとか、
わかいころにちゃんと種がまいてある。
島田さんはなにがなんでも出版社がやりたかったわけではない。
いわばくるしまぎれにはなったさいごの一手だ。
ほかにすがれるものがなかった。
しかし、よみおえるてみると、島田さんが本をつくる仕事についたのは、
必然だったとしかおもえない。
島田さんの仕事は正攻法だ。
ネットで下しらべをしてから、電話で確認する。
そのあとで、じっさいにたずねてみる。
足をうごかして仕事をするひとだ。そんなところを信用したくなる。
本がうれさえすればいいという姿勢ではなく、
よんだひとが大切に手もとにおきたくなるような本をつくりたいとねがっている。
よい本は、ひとの気もちをささえてくれるし、
ひととひととをつないでもくれる。
本は、かきたいひとがかいたからできあがったのではなく、
つくったひとたちのおもいもこめられている。
この本をよむと、興奮をだれかにつたえたくなってくる。
わたしも、どれだけ本と本屋さんにすくわれてきたことか。
本屋さんにいき、たくさんの本にふれられるのも、
島田さんや本の雑誌社など、いろんなひとたちが、
いい本をつくろうとしてきたおかげなのがよくわかる。
たのしい本をよませてもらった。
この本は、むすこがかよう高校の図書館を見学したときにかりたものだ。
手にしたときの予想どおり、高校生よりも、
あるていど社会にでて はたらいたことのあるひとむけだろう。
しかし、ひとの生き方をしるという意味では、
たしかに高校生にこそよんでほしい。
2015年05月13日
「どっちでもいい」と「どうでもいい」のあいだ
柴田元幸さんの『ケンブリッジ・サーカス』(スイッチ・パブリッシング)に
「どっちでもいい」というはなしがのっている。
大学のときに授業でほめられた、「ほこらしい」おもいでなのだそうだ。
いかにもわたしがすきそうな話題で、すぐに
「どっちでもいい」のすこしさきに「どうでもいい」があるのでは、とおもった。
しかし、かんがえてみると、
このふたつはにているようだけど、だいぶちがう。
わたしはあきらかに「どうでもいい」ほうへかたむきすぎており、
あんまりこっちへいくと、社会とのおりあいがわるくなってしまう。
いっぽう「どっちでもいい」は、
その表現からうける印象ほどなげやりではない。
「どっちでもいい」は、
ものごとにこだわらず、柔軟に対応できるふところのふかさがあらわわれている。
AにしようがBにきまろうが、それじたいはどうでもいいのであり、
大切なのは目的にむけてうごきはじめることだ。
えらぶときは「どっちでもいい」けど、
いったんきめたら全力でとりくむ。
「どうでもいい」でとりくむよりも、
全力をかたむけたほうが、よりおもしろいから。
柴田さんは、ぜんぶを「どうでもいい」といっているのではなく、
AかBかがきまれば、あとはそれらにしっかりむきあっている気がする。
最近「この10の言葉使いをやめれば」、みたいなブログの記事をよみ、
わたしがつかっていることばがいくつもはいっていたせいか
反発をかんじてしまった。
そうやってちいさなことにこだわっているから、
ぜんたいとしてのちからをうしなうんだ、なんて。
わたしだって「がっつり」や「ほっこり」がきらいだと広言しており、
それらは ただのこのみでしかないのにくらべ、
ブログの記事は、ちゃんとそれなりに根拠があっての提案だ。
ほんとうは、わたしのほうこそちいさなことにこだわっているのであり、
ただのやつあたりみたいなものだと自分でもおもう。
とはいえ、文章がじょうずなひとは、
いろんな原則をもっておられるにしても、
あんがい自由にことばをつかっているようにみえる。
どのことばをえらぶかは、あんがい
「どっちでもいい」ときがおおいのではないか。
達人だからそうしたつかい方ができるのであり、
そうでないレベルにあるものは、
「やめたほうがいい」で提案されているようなとりきめをまもったほうが
無難なのだろうけど。
どのことばをつかっても「どっちでもいい」。
いちがいに「やめたほうがいい」といういい方に、
柔軟性よりも頭のかたさをかんじた。
「どっちでもいい」というはなしがのっている。
大学のときに授業でほめられた、「ほこらしい」おもいでなのだそうだ。
先生「どうでしょう。このカッコのなかに入るべき動詞、直接法でしょうか、接続法でしょうか?」
(みんな考えているが、答えは出ない)
先生「じゃ、シバタ君、どうです?」
シバタ「えーと・・・どっちでもいいんじゃないでしょうか」
先生「え?」
シバタ「いえ、あの・・・すいません、どっちでもいいんじゃないでしょうか」
先生「そうなんです!どっちでもいいんです。長年教師をやっていますが、この問題に『どっちでもいい』と答えたのは君が初めてです」
教師になったいま、会議などで、AにするかBにするかで議論が長引いたときなど、「どっちでもいいんじゃないでしょうか」は僕の心の中の口癖である。
いかにもわたしがすきそうな話題で、すぐに
「どっちでもいい」のすこしさきに「どうでもいい」があるのでは、とおもった。
しかし、かんがえてみると、
このふたつはにているようだけど、だいぶちがう。
わたしはあきらかに「どうでもいい」ほうへかたむきすぎており、
あんまりこっちへいくと、社会とのおりあいがわるくなってしまう。
いっぽう「どっちでもいい」は、
その表現からうける印象ほどなげやりではない。
「どっちでもいい」は、
ものごとにこだわらず、柔軟に対応できるふところのふかさがあらわわれている。
AにしようがBにきまろうが、それじたいはどうでもいいのであり、
大切なのは目的にむけてうごきはじめることだ。
えらぶときは「どっちでもいい」けど、
いったんきめたら全力でとりくむ。
「どうでもいい」でとりくむよりも、
全力をかたむけたほうが、よりおもしろいから。
柴田さんは、ぜんぶを「どうでもいい」といっているのではなく、
AかBかがきまれば、あとはそれらにしっかりむきあっている気がする。
最近「この10の言葉使いをやめれば」、みたいなブログの記事をよみ、
わたしがつかっていることばがいくつもはいっていたせいか
反発をかんじてしまった。
そうやってちいさなことにこだわっているから、
ぜんたいとしてのちからをうしなうんだ、なんて。
わたしだって「がっつり」や「ほっこり」がきらいだと広言しており、
それらは ただのこのみでしかないのにくらべ、
ブログの記事は、ちゃんとそれなりに根拠があっての提案だ。
ほんとうは、わたしのほうこそちいさなことにこだわっているのであり、
ただのやつあたりみたいなものだと自分でもおもう。
とはいえ、文章がじょうずなひとは、
いろんな原則をもっておられるにしても、
あんがい自由にことばをつかっているようにみえる。
どのことばをえらぶかは、あんがい
「どっちでもいい」ときがおおいのではないか。
達人だからそうしたつかい方ができるのであり、
そうでないレベルにあるものは、
「やめたほうがいい」で提案されているようなとりきめをまもったほうが
無難なのだろうけど。
どのことばをつかっても「どっちでもいい」。
いちがいに「やめたほうがいい」といういい方に、
柔軟性よりも頭のかたさをかんじた。
2015年05月12日
草のなかにサツマイモと夏やさいの苗をうえる
畑にサツマイモと夏やさいの苗をうえる。
ふつうだと、畑ぜんたいをたがやし、うねをたて、
肥料をほどこしてから苗をうえるというながれだ。
わたしがめざすのは自然農法なので、
カマで草をかったあと、苗をさしこむところだけクワでおこす。
肥料もいれない。
サツマイモの苗が50本、夏やさいの苗が4種類・8本
(ナス・とうがらし・ピーマン・トマトを2本ずつ)なので、
1時間ちょっとでおわった。
自然農法といえばかっこいいけど、
実感としてはなんちゃって農業だ。
自然農法のかんがえ方は、
クワや機械で土をやわらかくするのではなく、
虫たちや植物の根など、あらゆる生物の相互作用、
つまり、自然が土をつくり作物をそだてるというものだ。
とはいえ、ここにうえられたサツマイモたちは、
根をふとらせるのに、そうとう苦労するだろう。
カチンコチンにかたい土なので、
苗をうえるわたしも、なんだか気のどくになってくる。
草のなかで、どんなふうにサツマイモと夏やさいがそだっていくのか、
あるいは いかないのか、たのしみだ。

【サツマイモの苗】
きっとニューギニアのジャングルでも、
おなじようなやり方でやさいをつくっているのだろう。
みくだしていっているのではない。
ほんとうに、そのほうが自然農法的だとおもう。
1964年に出版された本多勝一氏の『ニューギニア高地人』には
西イリアンの中央高地でくらすモニ族とダニ族の畑しごとが紹介されている。
いまでは通用しない知識だ。
草が土のなかで肥料となるまでに、
かえって養分が不足する状態になるからだ。
土地のひとがやっていることには、それなりの理由があるのだから、
数ヶ月の調査でおとずれたものが、わかったような態度をとらないほうがいい。
肥料を必要としないやさいづくりのほうが、
彼らの生活にはあっているのかもしれない。
草のあいだでそだつサツマイモをどうみるか。
ほったらかしのあれはてた土地とみるか、
自然と調和したうつくしい景色ととらえるか。
わたしの理想は、モニ族のように
「雑草とイモとが混然としたまま」そだつ畑だ。
ふつうだと、畑ぜんたいをたがやし、うねをたて、
肥料をほどこしてから苗をうえるというながれだ。
わたしがめざすのは自然農法なので、
カマで草をかったあと、苗をさしこむところだけクワでおこす。
肥料もいれない。
サツマイモの苗が50本、夏やさいの苗が4種類・8本
(ナス・とうがらし・ピーマン・トマトを2本ずつ)なので、
1時間ちょっとでおわった。
自然農法といえばかっこいいけど、
実感としてはなんちゃって農業だ。
自然農法のかんがえ方は、
クワや機械で土をやわらかくするのではなく、
虫たちや植物の根など、あらゆる生物の相互作用、
つまり、自然が土をつくり作物をそだてるというものだ。
とはいえ、ここにうえられたサツマイモたちは、
根をふとらせるのに、そうとう苦労するだろう。
カチンコチンにかたい土なので、
苗をうえるわたしも、なんだか気のどくになってくる。
草のなかで、どんなふうにサツマイモと夏やさいがそだっていくのか、
あるいは いかないのか、たのしみだ。

【サツマイモの苗】
きっとニューギニアのジャングルでも、
おなじようなやり方でやさいをつくっているのだろう。
みくだしていっているのではない。
ほんとうに、そのほうが自然農法的だとおもう。
1964年に出版された本多勝一氏の『ニューギニア高地人』には
西イリアンの中央高地でくらすモニ族とダニ族の畑しごとが紹介されている。
一般にモニの畑は、雑草とイモとが混然としたまま、遠くから見たのでは空地(休閑地)と区別がつかない。もしかしたら、たかいレベルで自然農法が実践されていたのかもしれない。
私は二通りの方法で種をまいた。一方は、ただまいて土をかぶせるだけ。他方は、雑草を土中に埋めて肥料にし、その上へまく。(中略)かれらは肥料というものを知らない。とれるだけとって畑がやせると、当分休閑地にして新しい畑を開く。肥料などという面倒くさい手間は一切いらない。また知りもしない。「雑草を土中に埋めて肥料にし」は、1964年の常識ではあっても、
いまでは通用しない知識だ。
草が土のなかで肥料となるまでに、
かえって養分が不足する状態になるからだ。
土地のひとがやっていることには、それなりの理由があるのだから、
数ヶ月の調査でおとずれたものが、わかったような態度をとらないほうがいい。
肥料を必要としないやさいづくりのほうが、
彼らの生活にはあっているのかもしれない。
草のあいだでそだつサツマイモをどうみるか。
ほったらかしのあれはてた土地とみるか、
自然と調和したうつくしい景色ととらえるか。
わたしの理想は、モニ族のように
「雑草とイモとが混然としたまま」そだつ畑だ。