2015年06月30日

田んぼでそだつイネ 縄文時代の稲作はきっとこんなかんじ

草刈機で田んぼのまわりにのびた草をかる。
1ヶ月まえも、こうして草刈機をつかっている。
梅雨にはいり、雨がふるたびに草がのびるので、
毎月の草かりをさぼれない。

田んぼでは、イネがだいぶそだってきている。
ヒエだらけになって、草とりがたいへんかと心配してたけど、
手でじゅうぶんとれる範囲だ。
ヒエ以外の草もたくさんはえているものの、
イネの成長をじゃまするほどの存在ではない。
水面にはえている草は、そのままにしておく。
田車といって、そうした草を泥のなかにおしこむ
人力の草とり器をむかしつかったことがある。
手でおすのだからたいへんだし、どれだけ効果があるのかも わかったものではない。
わたしの田んぼはきれいにみせるのが目的ではなく、
いろんな種類の動植物がうごめく場所であってほしいので、
とるのはヒエだけだ。
草をぜんぶとるなんて、とてもできないし、めんどくさい。
それにしても、ヒエの生命力は あきれるほどつよい。
田んぼからひっこぬいてアゼになげておいたくらいではかれない。
その場でたくましく生きようとするので、
きょうは草刈機でとどめをさした。
DSCN1930.jpg
イネがそだっているといっても、だいぶまばらで、
ほかの田んぼとくらべると、葉のしげり方がぜんぜんちがう。
田うえをした田んぼは、たよりなさそうだった苗がおおきくそだち、
もう水がみえないくらいイネの葉がおいしげっている。
わたしの田んぼでは、イネは主役といえない。
イネもはえている田んぼ、という表現が適切な状態だ。

縄文時代に日本でイネつくりがはじまったころは、
どんなやり方をしていたのだろう。
米つくりといえば 田うえや きちんとならんだ苗を連想するけど、
単純にかんがえれば、はじめから田うえをしていたはずがない。
種を田んぼに直接まくのが、いちばんてっとりばやいにきまっている。
照葉樹林文化として縄文時代に稲作がはいってきたのなら、
やき畑からはじまったのかもしれない。
そのあとで、大陸から移植によるつくり方、
つまり田うえがつたわってきたのではないか。
おおむかしは、わたしがやっているようなやり方が一般的な米つくりだったとおもう。

なぜ日本ではじかまきから田うえにうつっていったのか。
じかまきをやってみてかんじたのは、発芽をそろえるむつかしさだ。
田うえなら確実に苗を確保できる。
田植機がなかったころの田うえは、
たいへんな労働だったにもかかわらず、
安定した米つくりの技術としてひろまったのだろう。
ばらまきは、楽だけど不安定な栽培法だったため、
労力が必要でも田うえによる米つくりがこのまれた。
アメリカでは飛行機で種まきをするくらいだから、
条件さえそろえば、田うえはなにがなんでも必要な作業ではない。

posted by カルピス at 19:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月29日

女子サッカーにイングランド代表があるのはなんでだ?

きのうのブログにかいたように、
女子Wカップの準決勝で、日本はイングランド代表と対戦する。
しかし、なぜイギリス代表ではなく、イングランド代表なのか。
わたしはすこし、すっきりしないものをかんじる。

男子の代表なら、はなしはわかる。
世界サッカー協会ができるまえから
イギリスには4つの協会(イングランド・ウェールズ・スコットランド・北アイルランド)がすでにあったので、
それらをひとつにしろとは、要求できなかった。
歴史的ななりたちから、
グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国(イギリス)は、
Wカップ予選に、4つの協会からそれぞれ1チームずつ参加する。
いわゆるサッカーの母国として、特別なあつかいをされても、
まあそういうこともあるかなと、納得できる。

しかし、女子Wカップがはじまったのは1991年だ。
ほかの国とおなじように、ひとつの国からひとつのチームをだすのが筋というものだろう。
男子とおなじように、女子までも4つの協会をみとめろという主張には、
いちど得た権利は手ばなさない、大国のゴリおしをかんじる。
いっぽうで、ひとつの協会が、男子と女子の両方をとりあつかうわけだから、
統一された協会がなければ、女子も男子とおなじように、
4つの協会がそれぞれ代表をだしてくるのは、しかたのないようにもおもえる。
国がひとつなのに協会は4つというのが、
そもそも無理なはなしなのであり、
それをみとめてしまった歴史的負の産物が
女子イングランド代表なのだろう。
オリンピックでは、イギリス代表としてチームが編成されているけれど、
なかみは完全な統一チームというわけではないようだ。
いちど協会ができあがってしまうと、
そのあとべつの協会といっしょには、なかなかなれない。

すこしまえの番組で、
もと日本代表の監督であるオシム氏が、
ボスニア・ヘルツェゴビナのサッカー協会を
ひとつにまとめるのにつくされたのをしった。
ボスニアでは、ボスニア人・クロアチア人・セルビア人のそれぞれが サッカー協会をもっていたため、
FIFAはこれを問題視し、オシム氏が正常化委員会の座長として
まとめ役をひきうけられた。
わかれていた代表を、ひとつにまとまるのは、
FIFAとしてはただしいかもしれないけれど、
オシム氏はさぞたいへんだっただろう。
はたからみていると、
ボスニアにそうやって代表をまとめるよう要求するのであれば、
イギリスにももとめたらいいようにおもう。
ボスニアに3つの協会があるのが問題なのはわかる。
ほかの国もおなじことをやりだしたら、FIFAはぐちゃぐちゃになる。
ひとつの民族がひとつのサッカー協会をもてば、
世界はものすごい数のサッカー協会であふれるだろう。
Wカップ予選はたいへんなことになる。
おなじように、イギリスの4代表というのも、
むちゃなはなしなのだ。
もしイギリスがただしいのなら、ボスニアの3協会もただしい。
いまの規則では、ボスニアが3つの協会をもちたければ、
それぞれの民族が独立した国をもつしかない。

中国は、あのひろい国と膨大な人口をかかえながら、
Wカップ予選にひとつのチームしかおくりだせない。
中国がつつましい国だからではなく、
それがルールだからだ。
もし中国が、たくさんの代表をおくりたければ、
中国内の各省に独立をみとめればいい。
それぞれの国がサッカー協会を組織できる。
しかし、そうなると、とうぜん中国はいまとちがう国になるわけで、
そうなってまで中国がWカップにたくさんの代表をおくりたいかどうか微妙だ。
ひとつの国がひとつの代表というのは、
なかなかうまいところをついている。
中国としたら、旧中国の国がWカップに出場したからといって、
あまりよろこぶ気にはなれないだろう。
こうしてみると、イギリスの4代表というのが、
いかにおいしいはなしなのかわかる。

posted by カルピス at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月28日

女子Wカップ 準々決勝 日本対オーストラリア 1-0で快心の勝利

この大会、はじめてはやおきして
朝5時からのライブ放送をみる。
いつもとちがったことをすると、
いつもとちがった結果になるような気もして、
すこしまよう。
このへん、ぜんぜん統計学的でない。
縁起をかつぐのもひとつのデーター戦なのだ。
といいながら、けっきょくさいごまで応援した。

試合がはじまると、日本はよくせめたてる。
さいごのところでパスがずれるけど、
ゲームをコントロールしているのは日本だ。
連動してのプレッシャーがきいているので、
セカンドボールも日本にころがってくる。
いいときの日本のサッカーだ。
あつさを警戒してか、相手はおもったほどつよくでてこない。

しかし、なんどか決定的なチャンスがおとずれるのにきめきれない。
こういうときにきめておかないと、
あとでくるしむのがサッカーのお約束だ。
それでも日本はあわてずに試合をすすめていく。
さきに足がとまったのはオーストラリアの選手たちだった。
スピードをほこるデバンナが、きゅうにうごけなくなる。

宇津木のつよさとうまさがめだつ。
オーストラリアの選手にたいして、
ちからでまけてないし、技でかっている。
なんの苦もなく相手のプレッシャーをやりすごし、
ボールをうばわれないで攻撃につなげていく。
大儀見へのマークがきびしくて、彼女が自由にさせてもらえないぶん、
宇津木のうごきになんどもすくわれる。

決勝点は、宮間のコーナーキックからうまれた。
日本の8本に対し、オーストラリアはコーナーキックをえていない。
それだけ日本はうまくまもったのだろう。
宮間は正確なキックをあげつづける。
まちうける選手たちは、「電車ゴッコ」で4人がいったんたてにならび、
宮間のキックとともにバラけていく。
決勝点のときは、岩清水が2回シュートをつづけてもはいらない。
ゴールまえがゴチャゴチャ状態になり、
まただめだったかとおもったときに岩渕がきめてくれた。
このとき時計は後半の42分。
のこりの時間を日本はおちついてやりすごし、1-0で試合をおえる。
おわってみれば、日本はほとんどあぶない場面がなかった。
チームの連携も、運動量も日本がまさっていた。

4年まえのドイツ戦でも、岩渕は大野にかわり とちゅうからはいっている。
このときは、自信のないプレーがめだち、あまりちからにならなかった。
自分でしかけられず、ボールをもってもすぐに見方にわたしてしまう。
アリバイ工作的なプレーがおおく、
あれでは相手もこわくなかっただろう。
この大会での岩渕は、ほんとうの意味でジョーカーとなっている。
オランダ戦でも、スピードとキレのあるプレーを披露し、
相手をいやがらせていた。
まえの大会でにがい経験をつんだことが、
こうして4年後にいきてきた。

オランダ戦でポカをやった海堀が
きょうはあぶなげないプレーをみせた。
ああいうミスをやってしまうと、相手はつけこんでくるし、
自分も自信をうしないやすい。
つづけて海堀を起用した佐々木監督の判断はただしい。
べつの選手をつかったら、海堀はなかなかたちなおれなかっただろう。

チームの状態がよく、
選手たちも手ごたをかんじているようだ。
つぎの試合は7月2日におこなわれるイングランドとの準決勝。
午前8時開始なので、仕事にならないひとがおおいのではないか。
現地に熱烈な応援がとどくよう、
コンディションをととのえて テレビのまえにすわりたい。

posted by カルピス at 17:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月27日

『スポーツを10倍楽しむ統計学』(鳥越規央) なでしこが優勝する確率は?

『スポーツを10倍楽しむ統計学』(鳥越規央・化学同人)

スポーツでは、それぞれの競技において さまざまなデーターがあつまってくる。
そして、その数字をどう解析するかには、統計学の知識が必要となる。
しかし、いくら統計学的にスポーツを解析されても
複雑な式や数字がならんでいては、わたしには理解できない。
そこをわかりやすくあらわしてくれたところに 本書のありがたさがある。
テニス・卓球など8つの章と9つのコラムからなり、
それぞれに「テニスでは、なぜ決勝に進む選手は同じなのか」など
興味ぶかい問題提議にそってデーターを解析し、数字から戦略をねっていく。

サッカーの章では、先制点がいかに大切かをしめす「7・2・1」の法則が紹介されている。
先取点をとったチームの7割がかち、2割がひきわけ、
まけるのは1割にすぎないというのだから、
たしかに先取点がもつ意味はおおきい。
よく、点をとられてもあわてずに 90分でかてばいい、
みたいなことが いわれているけれど、
この法則からは、先取点をとられないような試合はこびこそを
まずこころがけなければならないのがわかる。
サッカーは、得点のほうに目がむきやすいが、
失点しないことが大切ともいえるスポーツなのだ。

得点がうまれやすい時間帯はあるだろうか。
サッカーではよく「たちあがりが大切」といわれている。
本書では、得点が生まれた時間帯をグラフであらわしており、
これによると、試合終了間際である後半の30分以降がおおく、
また、前・後半とも、15〜20分に得点が生まれやすい。
このデーターからは、たちあがりの重要性がみえてこないけど、
先取点にしぼって時間帯をみると、
前半の3〜8分というたちあがりに、おおくの得点が生まれている。
この時間帯に得点できれば、7・2・1の法則より、勝利の確率が高い状態を早い段階で得ることができ、その後の試合運びにもよい影響を与える。逆にいえば、この時間帯の失点は、「自分たちのサッカー」をするチャンスを失わせ、苦しい試合展開を余儀なくされることにつながる

日本の男子代表が、先日のシンガポール戦のようにかちきれないときは、
たいていがきめておかなければならない時間帯に得点できなかったときだ。
いっぽう、いまおこなわれている女子Wカップでの「なでしこ」たちは、
スイス戦(前半28分)をのぞく、グループリーグのカメルーン戦・エクアドル戦、
そして決勝トーナメントのオランダ戦と、
いずれもたちあがりに得点できた。
どの試合も1点差というくるしい展開ながらも 結果をのこせているのは
「7・2・1の法則」をいかす、いい時間帯での先取点がきいている。

さて、女子Wカップの決勝トーナメントがおこなわれているいま、
もっともしりたいのは、統計学的になでしこがどう分析されるかだ。
前回のワールドカップ後に行なわれた参加24カ国間の国際Aマッチの対戦成績を収集し、それらの得失点をすべて集計した。そのデータを統計学で「ブラッドリー・テリーモデル」という統計手法に基いて、各国の強さの推定を行った。(中略)
分析の結果、アメリカ、フランス、ドイツといったFIFAランクトップ3が順当に上位と分析された。
この分析によると、日本はFIFAランクとおなじ4位の実力と判断されているそうだ。
1位のアメリカが優勝する確率は14.1%なのに対し、
4位の日本は6.8%でしかない。
しかし 幸運なことに、決勝トーナメントで日本はめぐまれたくみあわせを手にした。
アメリカ・ドイツ・フランスといった上位の国と、
日本は決勝まで顔をあわせずにすむ。
きのうの試合で、ドイツがPK戦のすえフランスをやぶっており、
いま「統計学的に」日本より上位のチームはアメリカとドイツだけとなった。
そのうちのどちらかしか決勝にはすすめない。

個人的なこのみでいうと、
わたしは数字よりもながれにおもきをおくほうで、
統計学的なデーターの解析はいまひとつ腹におさまらない。
数字上ではありえないことがおこるから スポーツはおもしろいのだ。
そんななかで、本書のよみやすさがひかるのは、
統計学をもちいることで競技の特性をあきらかにしつつ、
そこから将来を予想していく姿勢にある。
たとえばテニスでは、
この章では、テニスという競技のルール上の特性を統計学的に分析し、いかに下克上が大変であるかを紹介し、そのうえで錦織が上位に進出した秘訣を探ってみる。さらに将来、錦織が4大大会で優勝できる確率の算出にも言及する。

こうした興味ぶかい問題の設定が各章でされており、
関心のないスポーツでも、よみものとしてたのしめる。
なでしこが優勝する確率は、あまりたかくないけれど、
それはまたべつのはなしだ。
あすのオーストラリア戦がまちどおしい。

posted by カルピス at 12:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月26日

デイリーポータルZ「パスタ丼という幸せ」に賛同する

デイリーポータルZで
「パスタ丼という幸せな選択のススメ」(地主恵介)という記事をみかけた。
http://portal.nifty.com/kiji/120322154455_1.htm
「よりぬきデイリーポータルZ」のひとつとしてあつかわれているので、
きっと人気があったのだろう。
副題は「カロリーの味がする」。

記事の趣旨は、

・どんぶりものは、なにをたべてもおいしい
・パスタも、もちろんおいしい
・だから、ごはんにパスタをのっけたパスタ丼もとうぜんおいしいはずだ

という、いわゆる三段論法で3つの命題がつみあげられている。
たしかに、ごはんにパスタをのっけたものが、
おいしくないはずがない。
そうしたいっけん雑にみえる料理がわたしはだいすきだ。
記事の主張に、全面的に賛同するものである。

記事によると、実験の結果、
あらゆるパスタがごはんとの相性のよさを証明したという。
ミートソース丼も、カルボナーラ丼も、ペペロンチーノ丼も、和風スープスパ丼も、イカスミパスタ丼も、どれもみごとにおいしい。
ふつうにおいしい、という域ではなく、
「のけ反る美味しさ!そして感じる幸せ」だったそうで、
記事をかいた地主恵介さんの表情は、
どの写真でも とびっきりの笑顔だ。

もともと関西や四国では、あたりまえに炭水化物をおかずにして ごはんをたべる。
炭水化物と炭水化物のくみあわせが強力なのは、
ラーメンライスやうどん定食、おこのみやきごはん、
さらにはソバメシなどであきらかであり、
今回の実験で、そこにパスタもくわわったことになる。

わたしはたべたことがないが、
エジブトには「コジャリ」というどんぶり料理があると、
『バックパッカーパラダイス』(斉藤夫婦)に報告されている。
お赤飯のうえにマカロニかスパゲッティのきれはしをのせ、
そこにトマトソースがかかっているというから、
これはもう、りっぱなパスタ丼といってよい。
コジャリを再現しようと、家でトマトソースがあまったときは、
ごはんのうえにかけてたべるので、
パスタ丼のおいしさを、わたしはよくしっている。
オリーブオイルをたっぷりつかい、
ギトギトのトマトソースにしあげたほうが
ごはんの淡白さとよくあうみたいだ。

いまは糖質制限がはやり、
ごはんやうどんをたべているやつはバカだ、みたいに、
炭水化物につめたい視線がそそがれることがおおい。
まちがっていると、わたしはおもう。
けっきょくおおくのひとが、
炭水化物のもとにかえってくることになるだろう。
この記事がかかれた2012年には、
糖質制限というかんがえ方は、ほとんどしられていなかった。
それだけに、炭水化物+炭水化物という
ふつうのおもしろさにうもれてしまったのは残念だ。
いま まさに、われわれはパスタ丼による高炭水化物、高カロリーを
必要としているのではないだろうか。
日本人のからだには、炭水化物への郷愁がしみついている。
このパスタ丼は、ひとつの強力なバリエーションとして
日本食の幅をゆたかにひろげてくれるはずだ。

posted by カルピス at 16:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月25日

女子Wカップ 日本代表の、いいところが目だったオランダ戦

女子Wカップ、決勝トーナメント1回戦、日本対オランダ。
日本はグループリーグでの試合とちがい、
パスがよくつながるし、シュートまでもっていける。
得点は2-1だったものの、安心してみていられた。

有吉が1点目をきめると、選手たちはほんとうにうれしそうな表情をみせてよろこびあっていた。
それだけ先取点がほしかったのだろうし、
チームワークのよさもみてとれる。
ネット上にあげられたある記事には
「有吉 川澄先輩と日体大の固い絆!おそろいヘアゴムも着用」
というのがあった。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150625-00000085-spnannex-socc
タイトルそのままの内容で、
「ピッチ上でも同じアイテムをまとい、心はつながっていた」
のだそうだ。
すこしまえの記事には、
ケガで日本へかえった安藤選手へのおもいをこめた「シロクマ」が
ベンチにすわっているのが紹介されていた。
でも、そんな次元をこえたチームワークが、
このチームのもちあじだとわたしはおもう。

このチームは、仲間のために汗をかける選手がおおい。
オランダ戦では、大儀見のポストプレーがひかっていた。
自分でもシュートをはなつし、
べつの選手をいかせる場面では効果的なパスをだせる。
2点目につながる宮間へのヒールパスは、
この大会の大儀見を象徴していた。
ボールをキープし、機が熟したら 仲間にわたす。
得点の場面だけでなく、守備への貢献もたかい。
あぶない場面では、いつも大儀見が相手をつぶしにいき、自由にさせていなかった。
こんなプレーのつみかさねが 仲間から信頼をえるのだろう。
みていてたのもしい絶対的なエースだ。

2点目の得点シーンは、大儀見のヒールパスを宮間がマイナスにおりかえし、
岩渕はスルーして、阪口がゴールすみにボールをコントロールしてきめている。
すばらしい。
こんなにうつくしい連携からの得点はあまり記憶にない。
4人の役者がそれぞれ完璧に役を演じた。
さいごにシュートをきめた阪口は、岩渕に「スルー!」と指示をだしている。
自分のほうがいい体勢でけれるとおもったから、と阪口のコメントがのっていた。
自分がきめる自信がある、というよりも、
客観的に自分のほうが有利な場所にいる、という冷静な判断だ。
シュートをはずしたらどうしよう、というためらいはない。
自分がきめたいからではなく、
そのほうが確率がたかいからスルーを指示する。
もしシュートをはずしても、
阪口はわるぶれることなく 淡々とプレーをつづけただろう。
選手全員が、チームのためにプレーしている。

宮間もいつもながらすごい。
今回は、水分補給のときにみせた
さりげない「プレー」にしびれてしまった。
相手のコーナーキックをまつみじかい時間に、
宮間はまず仲間に水のボトルを手わたし、
その選手がのみおわると、もうひとりにわたし、
やっと3番めに自分がのんでいた。
こんなキャプテンがいたら、いうことをきかないわけにいかない。
意識のたかさがプレーに、そしてピッチ上のふるまいにあらわれている。

オランダは18歳のフォワード、ミーデマの評判がたかかったものの、
日本の守備陣は、けっきょくこわいプレーをさせなかった。
この日だけでなく、これまでの4試合がぜんぶ1点差で、
とくに終了間際に相手の猛攻をうけながら
なんとかしのいでいる。
アディショナルタイムにゴールキーパーの海堀が、
胸トラップからの「オウンゴール」をきめてしまったけど、
これはまあ、教訓としてつぎの試合にいかせればいい。

4年前のWカップ、対ドイツ戦をおもいだす。
この試合、日本代表はつぶされても つぶされても相手にまとわりつき、はしりつづける。
攻撃がうまくいかなくても、なんども愚直にくりかえす。
「なでしこ」といわれる献身的なプレースタイルは、
この試合によって だれもがみとめるものになったのではないか。
きれいにパスをまわすだけでなく、泥くさいまもりもふくめての「なでしこ」だ。
そうして、みているものを、おもわずファンにしてしまう。
オランダ戦は、そんな彼女たちのよさが、いたるところでピッチにあらわれた。

posted by カルピス at 13:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月24日

劇団ハタチ族の公演『ナニモナイ』がすばらしかった

劇団ハタチ族の公演をみにいく。
演題は『ナニモナイ』。脚本は西藤さんだ。

フラワーカンパニーズの『この胸の中だけ』がながれるなか、
役者ふたり(西藤さんと大原さん)が舞台にあらわれる。
BGMというより、この曲をふくらませたのが今回の『ナニモナイ』だ。
でもほんとうは、そういいきれるほどシンプルではなくて、
はなしが二転三転していき、みてるほうはあっけにとられる。
おっさん役の西藤さんが、きゅうに少年のつきびとになってへこへこしたり、
いきなりふたりが漫才をはじめたり。
とおもったら、少年はネタをわすれ、おっさんひとりの漫才になってしまう。
こんなシナリオをよくかいて、演じたものだ。
わからないけどひきこまれる。
西藤さんの狂気をかんじる作品だった。
西藤さんがやりたいのは、こういう劇なんだ、きっと。
そしてそれは、とても魅力があった。

ホールの入口が舞台になっており、
外の音がつつぬけではいってくる。
なにかの会がおわったのか、
おじさんたちが雑談しながら、ゾロゾロと建物の外にむかう。
やかましくて、気をそがれるトホホな環境だ。
そんな舞台で、ハタチ族はまいにち芝居をうっている。
そのうちもっとちからをつけて、
そんなときもあったねと、ハタチ族もお客さんたちも、
とおくをみる目で ふりかえるようになるだろう。
『この胸の中だけ』の世界だ。

一年間まいにち公演をする、365日連続公演プロジェクトにわたしはしびれた。
なんて無謀で わかものらしいこころみだろう。
そうはいっても、わたしにできるのは、演劇をみにいくことしかないので、
毎月1回はでかけることにする。
東京だけでなく、地方にも日常的に演劇とふれあう場を、
というポリシーがすばらしい。
『ナニモナイ』をみていて、
わたしが応援しているというよりも、応援されているのだとおもった。
やりたいことを、じっさいにこうして形にしているひとたちがいる。
こんな劇団が地元にあるのは、とてもありがたいことだ。

365日公演だけでもたいへんなのに、
西藤さんはさらにべつの劇団もはじめるのだという。
http://20zoku.jp/?p=1758
ハタチ族を解散するのではなく、
(西藤さんは)島根に劇団100個できたら、いいなって思っていたとか。
もう、待ちきれないから自分でつくっちゃえ!!ってことらしいです。
役者をやってみたい人も、スタッフに興味がある人も、何かを始めたい人も、いろんな、いろーんな人に呼びかけて、イチから作りたいのだそうです。
演劇の楽しさだったり、やりがいだったり、大変さだったり・・・。
そういうの、ぜーんぶひっくるめて演劇の魅力。
その魅力を直接、伝えることができるのは、やっぱり実際に演劇に触れてもらうしかない!
たくさんの人と演劇を楽しみたいーーー!!のだそうです。(石原ちみ)

わたしたちは、西藤将人がまだなにものかをしらない。
このひとは、いったいこれからなにをしでかしてくれるのか。
やはり、わたしたちは応援してるのではなく、応援されているのだ。

posted by カルピス at 13:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月23日

運動によるリセット効果

運動にもとめるのは、競技力の向上のほかに、

・プロポーション
・健康
・爽快感(ストレス解消)

などがよくあげられる。
そしてもうひとつ、運動の効果として、このごろよくおもうのは、
体調をリセットしてくれるはたらきだ。
体調をくずしたり、旅行にいったりして、
日常生活のリズムがくるったときに、
からだをうごかせばもとにもどしやすい。

ここでいう運動は、散歩でもジョギングでも、なんでもいい。
日頃から習慣にしているなにかだ。
ヨガでもいいし、うでたてふせやスクワットのひともいるだろう。
つかれがたまり、とてもうごく気にならないときでも、
いつもの運動にとりくめば、かんたんにリセットできる。
つかれがとれないからといって、
部屋でやすんでいても、グダグダ感をながくひきずるだけだ。
運動の習慣のないひとは、
体調をととのえるのがたいへんではないだろうか。
気分をかえるには、頭をなんとかしようとせずに、
ただからだをうごかせばいい。
それができないと、わたしだったらかなりつらい。

ようは、体調がリセットできたらいいのだ。
そのためには、からだをうごかすのがてっとりばやい。
からだは頭が支配しているので、頭へ刺激をあたえればいい。
そのためにはからだをうごかす。
頭とからだ、どちらがさきか、ややこしそうだけど
頭にいうことをきかせるには、まずからだにはたらきかけてみる。
とてもはしれそうにないほどつかれていても、
すこしだけはしってやめようと、とにかくはじめてみたら、
あんがいいつもどおりのメニューをこなせたりする。

時差ボケにも運動は効果的らしく、
オシム監督は、飛行機が夜おそく対戦相手の国についたときにも、
ホテルで休憩するのではなく、
かなりはげしいトレーニングを選手に処方していた。
時差により、ふかいレベルまで頭がいってしまったら、
きつい運動でないと、頭がもとにもどらないのだろう。

コーヒーをのんだり、音楽をきいて、
スイッチをいれるのとは、またちがう。
スイッチをいれられる状態にもっていくのが
わたしがいっているリセット効果だ。
わたしはそれを、圧倒的に運動にたよっている。

わたしの場合は、からだをうごかすと体調はととのうけど、
それで満足してしまい、仕事にはむすびついていない。
もしこの回路にスイッチをつけたして、
運動によるリセットと、仕事へのとりくみが 直結するようにしたら
まったくべつな人生がはじまるような気がする。

posted by カルピス at 14:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月22日

「デイリーポータルZ」的「きたなうまい」写真をかんがえる

「デイリーポータルZ」に「きたなうまい自炊写真」がのっている。
http://portal.nifty.com/kiji/150619193861_1.htm
副題は、「うまさはきたなさの中にある」だ。
うまいけど、きたなそうにみえる料理の数々。
どれもみごとにまずそうで、食欲をそそる写真ではない。
これはなにかとたずねられたら、「きたない写真」とこたえるよりない。

わたしもこの分野には、おすすめの一品がある。
つくり方はかんたんだ。

・卵かけごはんに納豆をまぜる
・ごはんののこりがすくなくなったとき、おからをのせる

すこし説明すると、
納豆ごはんをたべているとき、
具とごはんのバランスがわるくなってきたので、
のこりもののおからをポテっといれたら、これが失敗だった。
失敗だけど、「きたなうまい自炊写真」的には
まちがいなくたかい評価をうけるだろう。
記事には、
「きたなく見えがちな鉄板の食材『生卵』」
とあるので、わたしの作品は
「きたなうまい」セオリーをちゃんといかしていたのだ。
あつあつのごはんだからこそ、
納豆いりの卵かけごはんはみばえがするのであり、
ひえてくるとかなりショボい。
そこにおからがはいると、ますますベチャベチャな残飯風となり、
ものすごくまずそうだ。
もし刑務所でだしたら、いかに囚人への食事とはいえ、
人権侵害だと問題になりそうなくらいまずそう。
たべてみると、みかけほどひどくはないけど、
みかけで食欲をうばわれるのか、期待していたおいしさはない。
そう。料理において、みかけはすごく大切なのだ。

まえにまっくらな映画館のなかでお弁当をたべたことがある
(島根なので、お客さんは数人だった)。
くらくて、いま自分がなにをつまんだのかもわからない。
このときに、料理はつくづくと視覚的な要素がつよいことをしる。
みえないと、なにをたべてもおいしいとおもわない。
うつわもふくめての日本料理だ、みたいなことをよくいうけど、
食事において、目がひろってくる情報が どれだけ影響をあたえるか はかりしれない。
おいしくみえること、まずそうにみえないことが、
じっさいにどんな味かのまえに、まずもとめられる。

友だちといっしょにフランスを旅行しているとき、
夕ごはんをたべにカフェはいった。
カフェは、のみものだけでなく、かんたんな食事もとれる。
友だちがなにを注文したのかはわすれたが、
もってこられた料理は、どうみてもネコの缶づめを
ポコっとお皿にうつしただけの姿だ。
わたしも味見させてもらった。
(たべたことはないけど)まさしくネコの缶づめ味で、
フランス的なおしゃれなイメージをもってしても、
この料理はすくえなかった。
いまおもえば、きっとなにかのパテだったのだろう。
しかし、パテだろうがなんだろうが、
いちど目が「ネコごはん」とおもった瞬間に、
この料理の評価はきまってしまったのだ。

もうずいぶんまえのはなしなのに、
いまだにこの「ネコごはん」風フランス料理がわすれられない。
フランスへの幻想をいっきょにふきとばす、つよい体験となる。
しかし、この教訓を消化しきれてないのもたしかだ。
わたしは、目からの情報をどう位置づけたらいいのか。
『星の王子さま』には、大切なことは目からはいらない、
みたいなことがかいてあるそうで、
たしかに「ネコごはん」をみたから食欲がなくなったのだから、
こころの声に耳をかたむけるのも ひとつのかんがえ方だ。
しかし、そうはいっても「ネコごはん」をうっとりたべなくてもいいとおもう。
「きたなうまい」料理の問題は、あんがいふかくて複雑だ。

posted by カルピス at 10:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月21日

カーテンをあらう頻度の問題

台所のカーテンをあらう。
いっしょにくらしている母が、
もうふるいからカーテンをあたらしくしようと
しきりに口にする。
かいにいくのはめんどくさいものの、
よくみると、たしかにずいぶんよごれている。
けさ、きゅうに洗濯することをおもいついた。
きれいになれば、かわないですむかもしれない。

カーテンをあらうといえば、『ノルウェイの森』にでてきた「突撃隊」だ。
わたしも「ワタナベくん」とおなじように、
それまでカーテンはあらうものという発想がなかった。
いちどレールにぶらさげたら、あとはずっと「カーテン」でいてくれるのが
わたしにとってのカーテンだった。

カーテンとはなにか。
スカーレット=オハラはこれであたらしい服をつくったし、
シーナマコトは厳冬のロシアの空港待合室で、
カーテンにくるまりさむさをしのいだ。
江分利満氏には、いちばんかんたんなカーテンとして、
シーツを洗濯バサミで窓のところにつるしたら、
「なんでシーツをほしているの?」と
たずねられた残念なはなしがのっている。
この質問は、カーテンの特性をよくあらわしている。
ほんとうは、カーテンじたい、とても洗濯と相性がいい。
もともとほしてある状態なのだから、
梅雨に洗濯したとして、すこしぐらいなまがわきでも
そのままカーテンレールにもどしてしまえばすむ。
でありながら、あまり洗濯されないのは
毎日おなじところにつるされており、
すこしずつよごれていくので、いつ洗濯するのかをきめきれないからだ。
シーツなんかだと、もうこれは洗濯しなければどうにもならないという
みきわめがかんたんにつく。

けっきょく日本人は、ほんとうの意味で 生活にカーテンをとりこんでいないのかもしれない。
日本住宅には障子がつかわれていることがおおく、
障子があれば、ふつうカーテンはつけない。
ふるいタイプの日本人にとって、カーテンはなじみのうすい装飾品だ。
そうした意識の親世代にそだてられた子どもたちにも、
いまだにカーテンはよそよそしい存在にすぎない。
月にいちど、とか、ころもがえのころにあらうとかの、
はっきりした洗濯プランにくみこまれていない。
カーテンをあらう頻度の調査がないものだろうか。

あらいおえたカーテンは、
劇的には生まれかわらなかったけど、
あらってよかったとおもえるほどにはきれいになった。
「突撃隊」は、ひんぱんにカーテンをあらうほど几帳面すぎたため、
精神をやんだようによめる。
数年にいちどの洗濯ぐらいでお茶をにごしておくのが
カーテンとの健全なつきあいかたかもしれない。

posted by カルピス at 16:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月20日

むつかしそうにみえる庭木の剪定も、やってみればあんがい大丈夫

しりあいのハーブショップから声をかけられ、
庭仕事を手つだう。
現場へいってみると、いきなり剪定バサミをわたされ、
「あっちの木をきってください」といわれる。
剪定なんて、ぜんぜんやったことがないのに、
「われわれもにたようなものだから」大丈夫なのだそうだ。
とりかかるまえの説明で、
「今年のびた枝(色がうすいのですぐわかる)の
ちょっと手前をきるとちょうどいいです」といわれる。
やってみると、これがあんがい適切な指示で、
そうなるようにハサミをつかっていたら、
すっきりした木になってきた。

そのあとも、種類のちがう木を4本まかされて
ほんのすこしの説明をうけただけで
わたしひとりがスタッフのつきそいもなく剪定する。
この庭は、スタッフの自宅なので特別とはいえ、
わたしみたいな まったくの初心者に
ずいぶんおもいきったことをさせるものだと、はじめはおもった。
でも、やってみると なんとなくかっこがついてくる。
こんなことをかくと庭師の方におこられそうだけど、
注意するべきポイントをまもり、なおかつ大胆にかりこんでいけば、
けっこうそれらしい姿になる。
剪定の目的のひとつが、しっかり枝をおとして風とおしをよくすることなので、
こんなにハサミをいれても大丈夫か、と心配するくらい
バッサリかったほうがいいみたいだ。

やってみると、はじめての剪定は すごくたのしかった。
快感といってよい。
きっと、道ゆくひとがわたしの仕事ぶりをみても、
まさか剪定が初体験の素人とはおもわないだろう。
脚立にのぼってハサミをうごかし、ときどき枝ぶりをチェックしたりすると
ますますそれっぽい。
なにに似ているかといえば、やっぱり散髪屋さんだ。
やわらかい葉をかりこんでいくときは、とくにそうおもう。
シャキシャキとハサミをうごかして さっぱりさせていくのは、とても気もちがいい。
人間を相手に、まったく散髪したことがないひとが
ハサミをうごかすのはあまりにも無謀だけど、
木は文句をいわないし、ポイントさえおさえておけば、用はたりる。
わたしは、公園や街路樹の手いれをしている職人さんをみて、
特殊技能をもったひとだとおもいこみ、
自分には縁のない技術だときめつけていた。
自分のしらない世界は、すごくむつかしい仕事にみえるけど、
やってることは、あんがいシンプルなうごきかもしれない。
ひくいレベルにかぎれば、そんなに複雑な技は必要ないことがおおいのでは。

造園の会社に就職したら、ながい修行期間をへて、
ようやく剪定をまかせられるのではないだろうか。
やりたくてもなかなかできない剪定を、
きょうはあっけなく体験できた。
わたしは、もう庭の木をみてもたじろかずに
ハサミをうごかせるだろう。
たかいレベルをもとめなければ、
わたしがやっても 最低限の目的は はたせる。

専門家をリスペクトしすぎて おまかせするよりも、
アマチュアレベルでいいから、自分でやってみたほうがおもしろい。
きょうの剪定は、わたしにとってありがたい体験だった。

posted by カルピス at 22:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月19日

『それから』の高等遊民はどのようにうまれたのだろう

朝日新聞で106年ぶりに『それから』が再連載されている。
主人公の長井代助はいわゆる高等遊民で、
親から金をだしてもらい、とくにはたらかずにくらしている。
『こころ』にでてくる「先生」も
仕事についていなかったけど、
はたらかないことが とくに話題にはならなかった。
長井代助は「先生」よりも、確信的に遊民であろうとする。
無論食うに困るようになれば、何時でも降参するさ。しかし今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの。

いまでもなかなかこれだけ「すすんだ」かんがえ方は一般的でない。
はたらくことが常識になっているし、
たとえ経済的に可能であったとしても、
仕事をしないでじゅうじつした毎日をすごせるひとはすくないだろう。
代助は、親や兄夫婦から結婚をせまられはするが、
ちゃんとはたらけとはいわれていない。
夏目漱石の本をよんでいると、
代助のような存在があたりまえではないにしろ、
そうめずらしくなかったようにおもえてくる。
明治時代というむかしに、どうしてこんな生き方ができたのか。
当時は、はたらくことにたいして、
いまほど絶対的な価値をおいていなかったのではないか。
それがいつかはわからないけど、
ある年代をさかいに日本人の生活はおおきくかわってしまった。
『それから』がえがかれた時代は、いまの日本社会からみると、
ずいぶんちがった価値観が一般的だった。

たとえば、漱石の小説には、散歩にでかける場面がよくでてくる。
散歩が生活にとけこんでおり、とくに理由がなくても外にでる。
いまなら犬の散歩や、健康のためにあるくひとはいても、
ただ散歩をしているひとにかぎると、そんなにいないのではないか。
なんの荷物ももたず、ただブラブラあるくのは
あんがいかっこがつかないものだ。
わたしは、なにか目的(たとえばスーバーへのかいもの)がないかぎり、
外をぶらついたりしない。
漱石の小説では、いまみたいに「1日1万歩」をめざすわけでもなく、ただあるいている。

そうかとおもうと、いまよりも もっと現代的な精神をかんじるときもある。
代助は、兄の家へよったとき、そこでのまれていたワインをいっしょにたのしむ。
たいへんめずらしいものとして特別あつかいするのではなく、
ふつうにおいしくのみ、おいしいから1本家にもってかえろうか、なんてかんたんにいう。
ワインの存在があたりまえであり、
いまの人間よりも自然にワインとつきあっているようにみえる。
近代の日本は、ふるくてきゅうくつな時代だったわけではなく、
一部の金もちだけにかぎった状況とはいえ、
いまよりも自由に生きていたひとたちがいる。

できることなら代助のようにくらしたいひとはおおいだろう。
しかし、たいていのひとは代助ほどラジカルになれないので、
親の金でくらすことに うしろめたさをおぼえてしまう。
健全な精神をたもちつつ、はたらかない生活をおくるのは、あんがいむつかしいかもしれない。
ひとつには、暇のつぶし方の問題がある。
よくいわれるように、教養がなければ暇はつぶせない。
もうひとつは、論理武装が必要だ。
はたらかないことについて、代助のように確信的でいられるかどうか。
はたらくことでなにかを生みだせば、
それだけ地球環境に負担をかけるというかんがえ方もあるわけだから、
はたらくのが かならずただしいときまっているわけではない。
それについて、どれだけ自分を納得させられるか。
まわりについては、あまりこの論理を口にしないほうがいいだろう。
いらぬ波風をたててややこしくするのではなく、
自分にだけ確信的であればいい。

posted by カルピス at 23:31 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月18日

「野宿野郎」の空港ターミナルでの野宿と、「ないからつくった」の精神

「野宿野郎」のサイトに
成田空港第3ターミナル野宿の記事がのった。
http://weblog.nojukuyaro.net/2015/06/3_8.html
なんのことかというと、野宿を愛するひとたちが
あたらしくできた成田空港第3ターミナルの施設内で
ひとばんすごしたときの報告だ。
まえには羽田空港での野宿体験をよんだことがある。
このとき、わたしは はじめ
飛行場の滑走路わきの草はらで 野宿をしたのかとかんちがいした。
あんなところで野宿するなんて、さすがに野宿野郎はすごいと
すっかり感心してしまったものだ。
映画『だれもしらない』で、飛行機がすきだった妹を、
羽田空港ちかくのはらっぱにうめた場面が
つよく記憶にのこっていたのだろう。
すこしかんがえれば、滑走路のちかくで野宿をさせてくれるわけがない。
そういうえたいのしれないグループの侵入に、
いちばん神経をとがらしているのが飛行場だろうし、
もしゆるされたとしても、ものすごくうるさいだろうから、
おちついてねむれそうにない。

今回の報告のおかしさは、
徹底的に野宿をするものの視点から、空港の施設が紹介されている点にある。
「野宿野郎」なのだから、あたりまえとはいえ、
ふつう空港についてなにかかくときは、
空港までの交通手段や 施設にはいっているお店の紹介になるとおもうけど、
野宿野郎はどうしたら快適にねむれるか、の一点にこだわっている。
夜遅くなると数少ないソファーは横になりたい人たちに押さえられてしまう。どうしてもソファーで寝たければちょっと早めに来て場所を取っておいたほうがいいだろう。
ソファーが取れなかったら、夜を明かす方法は、椅子に座ってテーブルに突っ伏して寝るか、椅子をいくつかくっつけて並べてそこに寝るか、床に寝るかぐらいになる。テーブルの上で寝るという猛者はこの日はいなかった。

まとめによると、
第3ターミナルは これまでに野宿した国内空港のなかで
「残念ながら一番だめな感じ」ということで、
時間があるなら第2ターミナルでの野宿をすすめている。
一般的な感覚ではピンとこないけど、
野宿のすきなひとにとって、大切な情報なのだろう。

わたしはこれまで空港で3回「野宿」したことがある。
1回目と2回目がタイのドンムアン空港で、
3回目もおなじくタイのスワンナプーム空港だ。
これは、わたしがタイの空港に特別な愛着をもっているわけではなく、
日本からの格安便が、ぜんぶ夜おそくバンコクにつくことによる。
夜しらない町をうごくよりも、空港ですごしたほうが安全だし お金もかからない。
しかし、ドンムアン空港は 深夜になるとひとけがなくなり、
ひとりですごすのはこころぼそかった。
床によこになったところでそうねむれるものではなく、
海外旅行の初心者という不安もあり、
空港内をうろついている時間がながかったようにおもう。
3回目のスワンナプーム空港は、
ほとんど空港用として寝袋とマットをもっていったので、
3回のなかではいちばんいごこちよくすごせた。
深夜になっても利用客がおおすぎず、すくなすぎもせず、
ほどよいひとけをかんじながらねむれる。
空港内には仮眠をとる施設もあるそうだけど、
ものすごくたかいそうだから、
あっさりチェックインカウンターのある階で ねてしまうのがおすすめだ。

野宿野郎による成田空港第3ターミナルでの野宿は、
編集長が つぎの日このターミナルをつかうことから企画されている。
編集長が飛行機にのるからといって、
なにもほかのひとまでついていかなくてもいいのに、
野宿愛好家たちの行動はどこかつかみにくいところがある。

ところでわたしは、ほんとうは 空港野宿についてかきたかったわけではなく、
べつの記事に感心したことを紹介したかった。
そこでは、自転車をこぐことでUSB機器を充電する、
なにやらむつかしそうな装置がつくられていた。
「ないからつくった」とある。
このことばは、編集長(かとうちあき氏)が、
創刊のときにもらした言葉でもあるそうだ。
「ないからあきらめる」のではなく、「ないからつくった」。
すばらしい。
マットがないからといってあきらめていては
さむくてねむれないわけだから、
コンビニなどでダンボールを手にいれなければならない。
「ないからつくった」は、野宿するものにとって、
きわめてあたりまえな発想なのだ。
編集長が第3ターミナルへいくからいっしょに野宿するのと、
「ないからつくった」は、ぜんぜんちがう精神だとおもうけど、
そんなちいさなことにこだわらず、とにかく野宿をしてしまうのもまたすばらしい。

posted by カルピス at 22:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | かとうちあき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月17日

Wカップアジア2次予選、日本対シンガポールはまさかの0-0でひきわけ

Wカップアジア2次予選、日本対シンガポールがおこなわれた。
FIFAランク154位の格下チームをホームにむかえ、
サッカーに絶対はないというものの、
この試合ばかりは心配ないだろうとおもっていたら、
まさかの0-0でひきわけにおわる。

Wカップ予選は、なにがおこるかわからない、とよくいわれる。
アジアレベルのグランドコンディションに、審判の笛。
格上の日本にたいし、おおくの国が守備をかため、
「まけない」試合をしようとする。
日本がホームの場合、その傾向はとくにつよくなり、
どんびきの相手をどうくずすかが、いつもながら日本の課題だった。
しかし、それはもうわかりきったことだ。
日本はたくさんの経験をつんできたし、サッカーのレベルも数段あがっている。
ハリルホジッチ監督のもとに、
3つの親善試合を調子よくこなしてきた日本代表が
どんな試合をみせてくれるかに期待がたかまった。

しかし、日本は23本のシュートをあびせながら、
どうしても点がはいらない。
この試合を整理すると、

・相手ゴールキーパーの日だった
・運がすこしたりなかった

ということにつきる。
シンガポールのゴールキーパーは、たしかにすばらしいセーブもみせたけど、
ボールが彼にすいよせられていたのもたしかだ。
いいシュートがキーパーの正面だったり、
ねっころがっている姿勢のキーパーのところへ
ボールがゆるやかにパスされるシュートになったり。
ポストにあたったシュートもあった。
うちども うてどもはいらない。
ボールは「かってに」キーパーへむかっていく。
のこり時間がすくなくなり、選手たちがあわてはじめると
ますますゴールのにおいがしなくなる。
日本は単純にクロスをあげつづけ、
びっしり最終ラインにならんだ相手の6バックがぜんぶはねかえす。
もっとはやい時間にきめておけば、
まったくちがった試合になっていただろうに。

ハリルホジッチ監督にかわってからの3試合で、
すばらしい内容をみせてくれたから、
どれだけチームがうまれかわったかと錯覚してしまった。
重要な変化は、けっきょくまだなにもひきおこされていなかったのだ。
でもまあ、それはとうぜんかもしれない。
たった3試合ですべてをかえられる指揮官なんているわけないし、
そんな魔法があるはずもない。
いいときがあれば、そうでないときもある。
ハリルホジッチ監督のめざすサッカーが、
けして万能な解決策ではなく、
すべてはこれからつくっていくという あたりまえのことがあきらかになった。

NHK-BSの解説は早野宏史さんだった。
この日の早野さんは、日本の問題点を指摘しながら「解説」もさえていた。
(直前にたたかった)イラクは、アジアカップのときのイラクとはだいぶちがい、イラ6(イラ9ではなく)くらいで・・・
ここらへんが早野さんの真骨頂だ。
内容のちがいをダジャレであらわしてしまう。
「あたらしいものをもつには、
 まえのものにつみあげないといけない」
ともいわれていた。
そのとおりだとおもう。
これまでのサッカーを否定するのではなく、
それらを土台にしてつくりあげていくことを、この試合はおもいだせてくれた。
・たてにはやい攻撃
・タマぎわのつよさ
をハリルホジッチ監督はうちだしているけれど、
「たてにはやい攻撃」だけでは格下のチームをくずせない。
「タマぎわのつよさ」だって、シンガポールのほうがつよかったくらいだ。
すべてはこれからはじまる。
まさかのカウンターをくって、
まけなくてよかったとおもったほうがいい。

posted by カルピス at 10:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月16日

「ある日とつぜん」おとずれる満腹感

「web本の雑誌」の「炎の営業日誌」で
杉江さんが『朝が来る』(辻村深月・文藝春秋)を絶賛している。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
杉江さんと目黒さんが、これほどまでにいうのなら
かわないわけにいかない。
本屋さんにいくと、ちまたでも話題になっているようで、
目だつようにならべられていた。

わたしは2年ほどまえに、辻村さんの作品を集中的によんだときがある。
ほかの作家の本は手にとらず、
とにかく辻村さんの本だけをよんだ。
わたしの読書は、こんなふうに いちねんにひとりくらいの割合で、
だれかの作品ばかりをおいかける。
そのときにはほかの作家が目にはいらないくらい夢中なのに、
ある日とつぜん「もういいか」という気になって、おっかけがおわる。
辻村さんの作品は『ツナグ』『ぼくのメジャースプーン』
『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』『スロウハイツの神様』
『凍りのくじら』『ロードムービー』とすすみ、
『冷たい校舎の時は止まる』の途中でちからつきたというか
おなかがいっぱいになった。
辻村さんの本をよんでいると、べつの作品にでてきた人物が、
さりげなく顔をだしてファンをたのしませてくれる。
ひとつの共通した世界があるかのようだ。
『ぼくのメジャースプーン』はすきだけど、
かわいそうすぎて なかなかもういちどよむ気になれない。
『スロウハイツの神様』は、どれだけ伏線をはるんだと、
構成のうまさにおどろいたものだ。

「ある日とつぜん」は、いつくるかわからない。
それまであんなに熱中してたのに、
ひどいときにはきらいになったりする。
辻村さんにたいしてマイナスの感情はなく、
ただおなじものをたべすぎた満腹感だ。
じょうずな作家であることはよく承知しており、
『朝が来る』への期待がたかまる。

本以外でも、「ある日とつぜん」はもちろんやってくる。
だいすきだったたべものを、「ある日とつぜん」からだがもとめなくなる。
たべものなんかだとまだいいとして、
「ある日とつぜん」仕事がどうでもよくなるとたいへんだ。
いろんな条件をかんがえたすえに、
どうでもよくなるのなら それはそれでいいけど、
こまるのは きゅうに、ふとおとずれてしまったときだ。
仕事なんて、もともと気もちのもちようひとつでとりくんでおり、
いちどキレてしまうと、お金や将来のことなど、
いろんな理由をつけても なかなかもとにもどれない。

かんがえようによっては、
どうでもよくなるほど、こころがみたされたのだから、
仕事から卒業してもいい状況が、ようやくおとずれたともいえる。
無理してそれ以上とりくむ必要はない。
「ある日とつぜん」仕事がどうでもよくなっても、
とくにこまることがなければ、それはよろこぶべき、ひとつの達成なのかもしれない。

posted by カルピス at 13:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月15日

稲の苗がそだっていた(たぶん稲)

あまりしられていない事実として、
床におちたごはんつぶは、おもいがけないほどよくはねる。
おちたであろう場所をさがしても、まずみつからない。
バウンドして、すこしはなれた、
ときにはずいぶんとおくの場所までとんでいる。
ねばりつくごはんつぶは、
床にくっつくのではねないようにおもえるのに、
まるでオカキでもおとしたみたいに よくはねている。
くっつくには、床におちたときの衝撃がつよすぎるのだろう。
「とぶ」とか「はねる」など、
ごはんつぶに ふさわしくない表現をしたくなるほど、
長距離を移動しているのに わたしはいつもおどろいている。

このすぐれた観察が、なにかにいかせたらいいけど、
残念ながら、おちたごはんつぶをさがすときくらいにしか役だたない。
マクラとしてすこしくるしかったけど、お米つながりということで、
本題は田んぼにはえた稲のはなしだ。

田んぼをまわっていたら、
稲の苗らしいものをみつけた。
ヒエかもしれないけど、稲かもしれない。
稲には茎と葉のさかいに葉舌というヒゲがはえていて、
それがヒエと稲とをみわけるしるしとなる。
でも、ヒゲのようにみえるし、
ヒゲでないようにもみえる。
稲であってほしい。
写真のような苗が、田んぼじゅうでそだっていたら みばえがいいけど、
じっさいは、まばらにはえている程度だ。
しっかりモミをまいたわりには すくない本数にとどまっている。
敗北宣言をだすほどひどくはなく、
だからといって、たからかに成功を自慢するほどでももちろんなく、
このさきどうそだっていくのか予断をゆるさない。
すこしの苗からたくさんの穂がみのるかもしれないし、
このままさみしい本数にとどまるかもしれない。
稲.jpg
田んぼは3枚あり、1枚はずっと水につかっていて、
1枚は水のない畑状態で、もう1枚が水をためたりぬいたりしている田んぼだ。
その3枚目で稲がそだっている。
1枚目と2枚目の田んぼは ほとんど芽がでなかった。
じかまきのむつかしさは、発芽をそろえることだ。
ことしの体験をいかして、来年はもっと種モミの量をふやしてみよう。

芽がでなかった田んぼをそのままにしておくのはもったいないので、
大豆の種をまいた。
例によってたがやしたりせず、移植ゴテですこし土をほじくって、
種を4〜5つぶずつうめこんでいく。
ちょっとほるだけで、たくさんの虫やミミズがあわててはいだしてくる。
いつもかくことだけど、なにも手をくわえないせいか、
命にあふれた土地がそだちつつある。

posted by カルピス at 15:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月14日

『チョコレートドーナツ』 マルコをつつむゲイカップルの愛

『チョコレートドーナツ』(トラヴィス=ファイン監督・2012年・アメリカ)

ゲイのカップルが、たまたましりあったダウン症の少年の面倒をみることになる。
麻薬の不法所持で少年(マルコ)の母親が逮捕され、
ルディとポールは親としてマルコをそだてようとしたのだ。
ふたりはマルコをこころから愛し、
マルコもふたりを信頼し、あたたかな「家庭」がきずかれる。
しかし、当時(1970年代)のアメリカ合衆国はゲイに対する偏見がつよく、
ふたりは法のちからによりマルコとはなされてしまう。

自分の家で、親からの愛につつまれてそだつ。
あたりまえそうだけど、
そういう「あたりまえ」な家庭ばかりではない。
マルコは母親からじゃけんにあつかわれ、
でもどうすることもできなくて、ただうつむいてしずかにすごしている。
ルディとポールとくらしはじめ、ふたりからの愛にみたされると、
マルコはしあわせそうな顔をみせるようになる。
自分が世界の主人公になったときに子どもがみせる 得意そうな表情だ。
自分はかけがえのない存在なのだと、マルコは自信をもちはじめる。

マルコの教育環境をしらべた係官が、法廷で
「安全で、いごこちよく、愛をかんじました」
とルディたちの家をおとずれたときの感想をのべている。
あたりまえだとおもっている、これら3つの条件を、
どれだけの家庭が子どもたちに提供できているだろう。
ちがういい方をすれば、
安全で、いごこちがよく、愛があればいいのだ。
子どもたちには、余計な心配などせず、
たっぷりの愛にくるまれてそだつよう、ねがわずにおれない。

ルディはなにものもおそれない。
ゲイであることへのうしろめたさもない。
自分が世間から偏見をうけているだけ、
かかわりあう人間を、まるごとうけとめる。
ルディはマルコが障害児であることに
すこしのためらいもなかった。
マルコのすぐれた人間性をみぬき、
できるだけちからになろうときめる。

ポールもつよい人間だ。
弁護士として、社会的にみとめられた立場でありながら、
ルディとの関係をおおやけにしていく。
ポールにとって、マルコの世話をする義務などすこしもない。
ただすきだから、大切にしたいから、
ポールはマルコによりそおうとする。

マルコが出発の準備できがえをつめるとき、
ちゃんと服をたたんでカバンにいれていた。
母親からそうしたしつけをうけてきたのだろう。
夜のおはなしをたのしみにしていたのは、
母親がかつて そんなふうにおはなしをしてくれたのかもしれない。
マルコのやさしさは、母親ゆずりとみることもできる。
彼女は、せっかく服役により薬物をやめられたのに、
すぐにまたもとの生活にもどってしまった。
マルコの母親は、麻薬中毒でどうしようもない女みたいにえがかれていたけど、
彼女もまたふしあわせな人間なのだ。

ねるまえに、マルコはルディにおはなしをもとめる。
マルコがすきだったのは、ハッピーエンディングなおはなしだ。
いつも「ハッピーエンディングにして」と注文をつける。
マルコはルディのおはなしに、じっと耳をかたむける。
あんなにハッピーエンディングがすきだったのに・・・。

ルディとポールは、かんがえたすえにマルコをうけいれたのではない。
そうすることがふたりには当然だった。
血のかよった親子でなくても、
マルコを大切におもう気もちであふれていた。
子どもには、そうした無償の愛でつつんでくれる存在が必要であり、
ふたりはマルコにとってだれよりもよい保護者だった。
すべての子どもたちがしあわせであってほしい。
自分ひとりでは どうすることもできない子どもたちが、
つらい目にあうのはたまらない。
さいごの場面でルディがうたう
「アイ・シャル・ビー・リリースト」がせつなかった。

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2015年06月13日

探偵事務所的なものへのあこがれ

梅田望夫さんが、シャーロック=ホームズの探偵事務所みたいに
ほとんど客がこない仕事場が理想だ、
みたいなことをかかれていた。
わたしがかんがえているのとおんなじだ。
ちゃんと事務所につめながら、
やらなければならない仕事は極端にすくなく、
相談にくる客もまずいないところ。
優雅に新聞をひろげながらお茶をのみ、花に水をやる。
探偵事務所を名のったりすると、
まちがえてお客さんがはいってくるといけないので、
それらしい名前でありながら、
いかにも人畜無害な名前をつける必要がある。
「冥王星方面観測研究所」という名はどうだろう。
そんなところにひとがきそうもないし、
もしこられたときにも、天体望遠鏡ひとつあれば説明がつく。

梅田さんの本『ウェブ時代をゆく』(ちくま新書)を確認してみたら、
ただのんびりした時間をすごすための探偵事務所ではなく、
ある専門性が人から頼りにされていて、人からの依頼で何かが始まり急に忙しくなるが、依頼がないときは徹底的に暇であること
への指向性だった。
「徹底的に暇」ばかりが記憶にのこったようで、
わたしはビミョーによみちがえている。

わたしがのぞむような事務所は、あんがいおおいのではないか。
税金対策で、もうける必要はなく、
とにかく会社のかたちをとっているのが目的の会社や、
なにかヤバイ仕事のかくれミノになってる会社など。
そうした会社を裏社会が必要としているので
ミステリーをよむとよくでてくる。
ブラック企業など、やたらとはたらかせる会社が問題になるいっぽうで、
仕事をしないことが仕事、みたいな会社もちゃんとあるのだ。
それどころか、ちゃんとした会社でも、
たいして仕事をしてない職員がすくなからずいるのは、
おおくのひとが体験していることだろう。
よくいわれるように、80%の仕事は20%の職員がやっているそうだから。

とはいえ、そうした職場はいっけん理想的にみえながら、
健全なわたしの精神にはたえられそうにない。
「冥王星方面観測研究所」はさすがにひどいので、
もうすこし「すき」を全面にだした事業所にしたほうがいい。
梅田さんはすきでたまらないことを仕事にするために、
「けものみち」をゆくよう提案している。
ネットという高速道路をつっぱしったのにちには 大渋滞がまっているものの、
そうなったら高速道路をおりて「けものみち」をゆけばいいという。
「けものみち」というとこわそうだけど、
「自信とちょっとの勇気と対人能力と『一人で生きるコツ』」
があれば大丈夫なのだそうだ。
心配しなくても、わたしがやればホームズみたいな
徹底的に暇な事務所になりそうだから、
安心して「けものみち」をあるいていけばいいのかもしれない。

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2015年06月12日

太平洋戦争での銀輪部隊が 日本にまた登場する日はくるか

田んぼまでのいき・かえりには、できるだけ自転車をつかう。
片道10キロなので、往復1時間だ。
すこしまえのブログに、パンク修理さえできなくてトホホ・・・、
みたいなことをかいたけど、わたしはメカによわいので、
もし自転車がこわれたらこまるなーとおもいながらのっている。
わたしの自転車は、ギアチェンジができるマウンテンバイクなのに、
変速はあまりあてにならないし、
整備がわるいせいか、ちょくちょくチェーンがはずれてしまう。
ブレーキだって すぐにあまくなる。

すべての機械は、調子いいときはありがたいけど、
いったんうごかなくなると なにもかもうまくいかなくなる。
車やパソコンがそうであるように、
自転車においても、機械ものにはとにかく故障がつきものだ。

太平洋戦争のとき、日本軍には銀輪部隊といって、
自転車でうごきまわる部隊があったそうだけど、
ほんとうに役にたったのだろうか。
目的とする機動力を発揮できたのか。
自転車は単純そうにみえて、たくさんの部品からなりたっており、
いくらでもこわれるところがある。
なにかのはずみで部品がいかれたら、もうどうにもならない。

パンクくらいならまだしも、
本格的に故障したらだれにでもなおせるわけではない。
気合でなんとかしろ、といっても、
こわれた自転車はただの鉄のかたまりだ。
戦争映画をみると、アメリカ軍の小隊にはかならず衛生兵がいたように、
銀輪部隊にも、自転車修理にひいでた兵隊が配置されたのだろうか。
調子のわるくなった自転車が数台でたら、
もうまともに部隊として機能しなくなる。
それに、自転車はたいらな道でないとはしれないし、坂道にもよわい。
故障つづきや道路事情で、まんぞくに機動力をいかせない部隊だったのではと想像する。

ウィキペディアをみると、
自転車を戦争につかったときの長所と短所がかいてあった。
燃料がいらないとか、馬みたいに調教しなくてもいいとか、
いわれてみればたしかにすぐれた長所だ。
短所では、わたしが想像したようなことがあげられていた。
わたしがかんがえるようなことは、だれもがすぐにおもいつくのだ。
銀輪部隊は日本軍ばかりではなく、欧米にもあったという。
トラックの数が 日本軍にはじゅうぶんになく、
くるしまぎれにかんがえた「銀輪部隊」かとおもっていたけど、
自転車を軍がつかった歴史はけっこうふるく、採用した国もおおい。
自転車こそが、いちばん手っとりばやい機動力だったのだ。

自転車というと、わたしのようなふるい人間は
中国の町をうめつくす自転車の波をおもいおこす。
中国の人民軍が、自転車をつかった人海戦術で
わーっとおしよせてきたら、ものすごく迫力がありそうだ。
もっとも、中国の軍隊は近代化がすすみ、
自転車なんかにたよった部隊はもうないのだろう。
日本の自衛隊のほうがいまでは貧乏になり、
「秘密兵器」として高性能な自転車を開発しているかもしれない。
軍隊がつかえば自転車も兵器なわけだけど、
自転車のイメージがあまりにも牧歌的すぎて、こわい気がしない。
とはいえ油断はできない。
いまの技術をもってすると、
ものすごいスーバー自転車兵器がつくられている可能性はある。
それに、戦争になったら、なんて
きなくさいはなしが現実味をおびてきているなか、
スーバー自転車ぐらいのところでとどまっているほうが、
クールなジャパンとして評価されるかもしれない。
歴史はくりかえし、日本にまた銀輪部隊が登場する日がくるだろうか。

posted by カルピス at 15:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月11日

『会社でビリのサラリーマンが1年でエリートになれるかもしれない話』(林雄司)

『会社でビリのサラリーマンが1年でエリートになれるかもしれない話』
(林雄司・扶桑社文庫)

お気楽なタイトルだけど、ほんとはとてもしっかりした内容だ。
「デイリーポータルZ」がどのようにはじまり、
つづけるためにどんなことをこころがけているか。
帯には
「ビジネス書としても少し役に立ちますが
どちらかというと脱力系のお笑い本です」
とあるけど、反対だとおもう。
脱力系にみえて、本質はりっぱなビジネス書だ。
4章にわたる77のメソッドで
林さんのこころがけるポイントがしめしてある。

・努力を禁止する
・アイデアは降りてこないことを自覚する
・興奮を大事にする
・PVは無視してもいい

アイデアあつめやネット上での処世術など、
ブログにも共通する点がおおく、仕事のすすめ方において参考になる。
わたしはこの本をよみおえてすごくすっきりしたし、気がらくになった。
「デイリーポータルZ」と「シゴタノ!」は、
そんなにとおくはなれていないのかもしれない。

ほかにも
・ツイッターに不満を書かない
・書きたいことを書くと外しても恥ずかしくない
・サビはいちばん前に持ってくる
・面白さのキーワードは「近さ」
・知識でおびきよせてエピソードで引きずり込む
・続けるためにやめない

など、ブログをかいているひとは
ピクッとくるのではないか。
林さんは、SEO対策なんてまったくかんがえてない。
ライターがおもしろいとおもってかいた記事を、アップしようとするだけだ。

この本をひらくと[巻頭付録]として
「ビジネスに役立つ!厳選記事集」がのっている。
パワーポイントでつくるプレゼンを、
仕事ではなく、どうでもいいことにつかった例だ。
たとえば
「ある日の昼食にサバを食べたこと」という どうでもいいはなしが、
パワポで「決定までの意思決定プロセス」の図として説明されると
ものすごくもっともらしい。
サバをたべながらも、やっぱり肉にすればよかったなー、と後悔したら、
つぎの昼食ではなにをたべるかが「昼食における循環モデル」の図となる。
失敗しないで注文するためには「昼食時における5つのS」があれば安心だ。
たかだか昼食にサバをたべただけのことなのに、
こんなにそれらしい資料としてしめされると、
もしかしてわたしが仕事でつかう資料も、
ほんとうはこれくらい中身のないものでは、とおもえてくる。
これは仕事なんだと、もっともらしい顔をしているだけで、
仕事も昼食のサバも、実はにたようなものなのだ。
こうした本気であそぶかるさが、
「デイリーポータルZ」の魅力になっている。

さきほどあげたメソッドの
「続けるためにやめない」
では、東日本大震災のあとでも
サイトの更新をやめなかったはなしがでてくる。
「デイリーポータルZ」に状況を変える力はありませんが、いま暗い気持ちでいる人が私たちのサイトを見て、一瞬でも気が楽になることを願っていつも通りに更新することにしました。

自分たちのめざすものをよくわきまえ、
軟派なようでいて、筋がとおっている。
本気でおもしろいとおもえることしかしない。
「デイリーポータルZ」の精神は、
この本でしめされているような きわめて具体的な方針のもとにささえられている。
エリートになれるかもしれないビジネス書として、
また、ブログをかくうえでも、おすすめの1冊だ。

posted by カルピス at 16:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする