2015年06月10日

『やぎの目絵日記』(林雄司)林さんのわからない世界が なんとなくわかってくる4コマまんが

『やぎの目絵日記』(林雄司・アスペクト)

わたしにとっての林雄司さんは、「デイリーポータルZ」の中心人物であり、
いろんな記事に顔をだして、
どうでもいいようなことに全力で、たのしそうにとりくむひとだ。
たとえばからいカレーをたべる企画では、
担当のライターとならんでお店のカウンターにすわり、
はな水をたらしながら一生懸命カレーにいどんでいた。
とくに林さんがいなくてもよさそうなのに、
好奇心をおさえられず、林さんはつい参加してしまうみたいだ。
なんでこのひとは、どうでもよさそうなことがこんなにすきなのだろう。

この『やぎの目絵日記』は、「携帯4コマ.com」というサイトに連載されたマンガだという。
はじめはよくわからなさにとまどい、
「なんだかなー」と気のりうすでよんでいたけど、
だんだんこのマンガのふわふわした世界になじんできた。
日ごろの自分の行動と思考回路が、
あまりにも目的意識にとらわれすぎていたことを反省する。
意味のないことにこそ、じっくり目をこらしたほうがいい。
そしてそれをサッと絵にしたのが『やぎの目絵日記』だ。

おもいがけない発想を、ボーっとしたかんじの絵でかいてあり、
意味のよくわからないところがおかしい。
それぞれ、なんということのないはなしではある。
しかし、ふつうひとは、あまりこういう発想をしない。
かんたんにかけそうで、でもなかなかかけないマンガ。
きわめて林雄司的な世界観があらわれている作品なのだ。

絵はそこそこかわいいし、アイデアもいっけんよくありそうで、
ものすごく奇抜なわけではない。
でも、ひとつのまとまりとして1話ずつをみると、すごくへんだ。
よく、アイデアは既存のもののくみあわせ、という。
それにしても、たとえば
・うちのこたつは犬だ。
・しかも会話に加わる
・ときどきこたつをはずしていることもある
・さらに ごくまれに 犬でないこともある
 (犬のきぐるみのマスクをはずして一服する父)
なんてはなしを、林さんのほかにだれがおもいつくだろう。

1話ごとに「はみだしやぎとぴあ」という
作者のコメントがついていて、これがまたおかしい。
絵の補足をしたり、余韻をふかめたり。
マンガなのだから、絵だけですべてをよみとれたらいいのだけど、
林さん的な世界に不案内な読者は、
コメントがないと、なんのことだかわからずに とまどってしまう。
たとえば「カメラがとらえた決定的瞬間!!」というはなしでは
お父さんがおかずにしょうゆとソースをまちがえてかけた瞬間がかかれている。
そのコメントには
「お父さんはこういうとき『胃に入ればいっしょだ』的なことを必ず言う」とある。
たしかにわたしの父親もそんなことをいったような気がするし、
わたしもまたいってしまいそうだ。
しかしそれを「必ず言う」といいきるほど、
林さんの「どうでもいい」ことへの観察眼はするどい。

「逆境に追い込まれたとき、『いま、おもしれ〜、おれ』と思うと少し気が楽に。」
なんてのもある。
「なまずの課長代理は 子供のころは素でなまずだった」
というはなしがもとで、
逆境もなにも、ありえない状況をかってに想像しただけなのに、
それを「逆境に追い込まれたとき」なんて
平気でコメントできるのがおかしい。
こうやって、コメントが作品と現実の世界との 橋わたしをしてくれるので、
読者はわからないなりに おもしろがれる。

わたしがすきなのは、フラワーロックという作品だ。

・(車にひかれて)うっかり死んでしまった
・生まれかわったのは フラワーロックだった
・(とおりかかったむかしの恋人に気づいて)「あっ! 京子さん」
・京子さんにむかってカシャカシャカシャとはげしくうごくフラワーロック
 (よく動くフラワーロックは昔の恋人かもしれません)

コメントは、
「フラワーロックのようにどうして流行ったのかわからないものにこそ真実がある」
となっている。
よくわかるようでいて、やっぱりわからない。けど おかしい。
よくうごくフラワーロックにこれからは注意しようとおもう。
でも、そもそもフラワーロックとはなにかが わたしはわからなかった。
林さんは、なんでこんなに いろんなどうでもいいことを よくしっているのか。
あまりにも雑多な情報が頭にたまってしまうため、
そのオリをこじらせないように(意味不明)
こうした「わからない」作品で発散したくなるのかもしれない。

posted by カルピス at 13:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月09日

負け犬らしくお腹をさらしている島根と、負けてない意識のぬけない鳥取とのちがい

このまえ鳥取県にスターバックスがオープンして話題になった。
鳥取は、スタバのない ただひとつの都道府県であり、
そこにとうとう1号店がオープンしたからだ。

鳥取といえば、平井知事による
「スタバはないけど スナバはある」という発言が有名になった。
平井氏は、唯一スタバのない県の知事として、
田舎であることを逆手にとったピーアールをさかんにされている。
5月27日には「『大いなる田舎』を売り込み、鳥取をアピールできた」として
普通の知事にもどる宣言まであった。

すこしまえから、わたしは平井知事のジョークが気になっていた。
鷹の爪団による島根県の自虐ギャグを、意識しすぎた発言におもえるからだ。
島根と鳥取は、どちらも知名度がひくい県として有名で、
下位をあらそうものどうしが いがみあってもしかたないのに、
ひくいからこそ両県は 協力関係よりも競争意識が歴史的につよい。
日本と韓国のように、ちかいがゆえのむつかしさをかかえており、
どちらの県民も、あいての県にひかりがあたると おもしろからぬ心理になる。

鷹の爪は「島根は鳥取の左側です」「いいえ、砂丘はありません」
「島根って、鳥取のどのへん?てきかれた。」など
鳥取をネタにした自虐ギャグを得意としている。
それらについて、はじめはいわれっぱなしだった鳥取県が、
しだいに対抗意識をみせるようになり、
最近では鳥取県が「鳥取は島根の右側です」のTシャツをつくるなど、
なにやら不毛なあらそいの様相をみせていた。
そこにきて平井知事の「スタバはないけど スナバはある」発言だ。
島根県側からすると、オリジナルはこっちだぞ、みたいなとらえ方になる。
妙に島根県をあおる、あるいは刺激する発言がおおい。
鷹の爪の砂丘ギャグに過剰に反応し、
さらにそこへのっかろうとしている、ようにみえる。

鷹の爪の吉田くんは、番組のなかでときどき島根にかえり、
でも、島根のつもりがうっかり鳥取にいってしまい、
さりげなく鳥取はいいところみたいなリップ・サービスをいれるなど、
気をつかったところをみせている。
外交は、そんなふうに相手をたてる姿勢からはじめたいものだ。
スマートな近所づきあいこそが、
あらゆる場面で人間関係の基本となる。

知事がだじゃれをいったら いけないわけではないし、
砂丘が有名なのもたしかだ。
平井知事の発言が、島根県民の郷土愛を刺激するとしても、
島根以外のひとにしたら、やわらかくておもしろそうな知事だ、と
共感をおぼえるにちがいない。
わたしは鳥取の何にたいして 不満なのか。

わたしは、鳥取砂丘をスナバというのはムリがあるとおもう。
スタバに関連してスナバをおもいつき、
すごくさえた発見をしたみたいにはしゃいぐのは かっこわるい。
よくこなれてないジョークで対抗意識をチラつかせるよりも、
「負け犬の遠吠え」みたいに、
キャンキャンないてお腹をみせたほうがよかったのではないか。
鷹の爪がはなつ島根の自虐ギャグは、自分のお腹をさらしてしまっている。
平井知事のスナバ発言は、負け犬じゃないと、対抗しようとしている。
両県の主張は本質的にことなっており、
その差をかぎとったから わたしはスナバにすっきりできなかった。
平井氏が普通の知事にもどったからといって、
負けてないという意識はかわらないだろう。

posted by カルピス at 22:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月08日

『猫侍』でも、ぜひネコにそっぽをむかれて さみしくなってほしい

よその家にいると、することがないので
なんとなくテレビをみるという うけみの時間がながくなる。
みたい番組があるわけではなく、ついているテレビをただながめている。
きのうの夜もそうやって たいくつしのぎに画面をみていたら、
正座をしたお侍さんのまえに、まっ白なネコがうずくまっていた。
『猫侍』という番組だった。
時代劇に動物という、意外なくみあわせがうけているドラマらしい。
かわいいネコだけど、からだをかたくしていることがおおく、
あまりリラックスしているようすではない。
玉之丞という名のそのネコを、
役者さんたちがあんまりじょうずにあつかっていないようにみえた。

わたしもまえに、カルピスという名の まっ白なネコをかっていた。
毛の色が白だし、ヨーグルトやチーズといった乳製品がすきなので「カルピス」。
まったくピッタリの名前で、いまでもわたしがつけるパスワードは、
「カルピス」をからめることがおおい。
白い毛にピンクの首輪がよくはえて、かわいいうえに気品があった。
おさなかったむすこは、のみもののカルピスと、
ネコのカルピスとが、こんがらがっていた。
あるとき「ネコのもう、ネコ!」といいだすので、なんのことかとおもったら、
カルピスをのみたい、という意味だった。
わざとまちがえてウケをねらったのではなく、
彼の頭のなかは「 カルピス=ネコ=のみもの」という
3つをごちゃまぜにした図式ができていたようだ。

今回の東京ゆきで、2日のあいだ家をはなれるにあたり、
いちばん心配したのはピピのお世話だ。
むすこに一応ひきつぎはしたけど、
ピピがどういううごきをとるのかは 予測できないところがある。
毎晩2回、トイレやごはんにわたしがつきあっていたのを
ピピはだれにおねがいするだろうか。
わたしは、夜中におきなくていいと、よろこんでいたけど、
いざピピのいない夜をすごすと、頭にうかぶのはピピのことばかりだ。
『猫侍』に目がいってしまったのも、
ピピのいないさみしさから かもしれない。

家にかえると、ピピはむすこの部屋のおしいれで まるくなっていた。
わたしがよびかけても、とくによろこびの表現はない。
ネコは、状況にすぐなれてしまうため(いやならどこかへいってしまうし)、
人間がおもうようには ひさしぶりの再会をよろこんでくれない。
そこが犬とちがうところだし、ネコとつきあうときの ものたりなさだ。
わたしはこうしたピピの反応を予想していたので、それほど残念にはおもわなかった。

『猫侍』でも、主人公のお侍がしばらく家をるすにしたら、
かえったときに玉之丞はすっかりわすれていました、と
リアルにネコの生態にせまって 人間たちをがっかりさせてほしい。
そこからがネコとのほんとうのつきあいがはじまる、
なんていうともっともらしいけど、
それもまた大げさすぎるし、かっこつけすぎた。
けっきょくネコとうまくつきあうには、
うんとかわいがりながらも 対等な関係で、
どこかクールな部分をのこしておいたほうが うまくいくような気がする。
番組がリアルかどうかは、
ネコとお侍との関係が目やすになる。

posted by カルピス at 21:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月07日

高田馬場で古本屋めぐり、のつもりがずっこけて 映画の2本だて

東京にすむ姉夫婦が家をたてかえたので、
母のつきそいとして いっしょを新居をたずねる。
無事に母を姉の家にとどけ、フリーとなったわたしは
高田馬場へ古本屋まわりにでかけた。
早稲田どおりの両側に たくさんの古本屋さんがならんでおり、
まえになんどかいって、どっさりかいこんだことがある。
東京ゆきがきまったときから、
高田馬場での古本屋めぐりをたのしみにしていた。

でも、残念ながら日曜日はやすみの店がおおく、
ほとんどの店がしまっている。
「軒なみ」という表現が すごくぴったりくる景色だ。
1時間かけ高田馬場まできたのに、ただの散歩になってしまった。
1軒あいている店があったので、お店のおじさんに
「古本屋さんは日曜日がやすみなんですね」とたずねる。
このあたりの店は、日曜をやすみにしているのだそうだ。
「神田はどうですか?」ときくと、
最近はいくつかひらいている店があるけど、
基本的には日曜日がやすみだという。

あいていたそのお店は、2冊で100円のワゴンがあったし、
どの棚もよく整理されていて、古本屋めぐりのたのしさを
すこしだけでも味あわせてくれた。
駅のちかくに「ふるほん横丁」というのがあって、
そこは日曜日もやっていると、おじさんが親切におしえてくれる。
たずねてみると、そこは 本屋さんがビルにはいっており、
そのなかの一角が古本コーナーだ。
かわっているとはいえ、わたしのこのみの本はあまりおいてなかった。

せっかく高田馬場まできたのだから、
古本屋めぐりが からふりにおわったからといって
そのままではかえりたくない。
たまたまみかけた映画館「早稲田松竹」にはいることにする。
『誰よりも狙われた男』と『ゴーン・ガール』の2本だてだ。
2本だてというのがなつかしいし、
映画館の雰囲気がシネコンとはちがいむかしふうで、
お客さんはわかいひとから年配の方まで 幅ひろい年代にわたる。
映画ずきなひとに愛されている映画館、というかんじがした。

ざっくりとした作品の感想をいうと、
『誰よりも狙われた男』のギュンターさんは
タバコのすいすぎ、ウィスキーののみすぎ、
ふとりすぎ、ストレスをかかえすぎだ。
でも、どうも仕事は一生懸命やったほうが 充実感があるのかも、
という気にさせられる。
『ゴーン・ガール』は カジュアルな たのしい雰囲気でスタートしながら、
だんだんとこわいはなしになっていく。
結婚している男性なら、おおかれすくなかれ
ニックとおなじような うしろめたさをかかえているのではないか。
サイコパスでもホラーでもないけど、
背筋がさむくなるようなおそろしさ。
エイミーは、とてもチャーミングな女性で、
はじめは彼女にかたいれしてみていると・・・。
女性のおそろしさは、男の理解をはるかにこえる。
なぜだか松田聖子さんがあたまにうかんでならなかった。
わたしもう どんな女性のニッコリ笑顔も、
そのまま素直にはうけいれられない。

posted by カルピス at 21:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月06日

フランスパンがあれば何でもできる

「web本の雑誌」にのった荻原魚雷さんの記事
「フライパンがあれば何でもできる」がおもしろかった。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/2015/0512_120045.html
荻原さんによれば、ふたつきのフライパンがあると
なんでもつくれてしまうのだという。
お米がたけるしメンもゆでられる。
カレーだってすぐできるし、
あまったらごはんをいれてカレーチャーハンにする、
なんていわれると こころがうごく。
鍋よりもまずフランスパン、という指摘に説得力があり、新鮮だ。
「人生観が変わるとおもう」とまでかかれている。

この記事を、はじめわたしは「フランスパンがあれば何でもできる」と
まちがえてよんでいた。
それはそれで、意味がつうじる。
フライパンは最強のパンであり、究極的にはフライパンさえあれば
ほかのパンがなくてもこまらない。

パンを機能の面からみると

・パンそれ自体をたべる
・ほかのおかずをのせてたべる
・パンでお皿をふく

という3つにしぼられ、
そのどれもにフライパンは役にたつ。
パンだけをたべるときに、食パンではくるしいけど、
フランスパンはあんがい平気だ。
かたさがあるので、おかずをのせても大丈夫だし、
お腹をひらいてなにかをはさめば それだけでサンドイッチになる。
チャパティやトルティーヤがなくても
フランスパンがかわりの役をはたせるけど、
ほかのパンにそれだけの柔軟性はない。

とくに、サンドイッチの材料として フランスパンはすぐれている。
なんでもはさめるし、こぼれにくく、たべやすい。
食パンのサンドイッチは、バターをぬったり耳をきったりと
あんがいめんどくさいのにくらべ、
フランスパンをつかえば ただはさむだけですむ。
かたさがあるので、お弁当にするのにも なにか紙でつつむだけでいい。
食パンでつくるサンドイッチに こんなまねはできない。

意外なところでは、ワインのつまみとしてのフランスパンがみのがせない。
パンがつまみ、というのはなんだかへんなかんじだけど、たしかにピッタリなのだ。
このことは、椎名誠さんがつくる雑誌『飲んだビールが5万本』におさめられている座談会でしった。
チーズとかハム、それにこじゃれた料理よりも
フランスパンこそが ワインにあういちばんのつまみ、という指摘はするどい。

鴻上尚史さんの『クール・ジャパン!?』(講談社現代新書)に、
フランス人女性がいった
「日本は美味しいフランスパンがあるフランス以外の唯一の国だと思うわ」
という発言が紹介されている。
日本のパンは、外国人にあんがい評価がたかいのだそうだ。
東京にはレベルのたかいパン屋さんがおおいのかもしれないけど、
わたしの町でしっかりしたフランスパンをみつけるのは かんたんではない。
へんにやわらかかったり、単純においしくなかったりで、
パンづくりとしての方向が まちがっているかんじだ。
ほかの国についていうと、むかしフランスの植民地だったことから、
ベトナム・ラオス・カンボジアのフランスパンがおいしいと、
ガイドブックにかならずといっていいほど とりあげられている。
これはもう完全にイメージがさきにたった ステレオタイプな意見であり、
わたしはこれら3つの国でフランスパンをたべてみたけど、
いずれもそんなにおいしくなかった。
3つの国とも、基本的にサンドイッチとしてたべるので、
パン自体のおいしさを あまりもとめていないようにおもった。

おいしいフランスパンは完璧なパンとして 何でもできるけど、
おいしくないフランスパンは かなりこまったパンになってしまう。

posted by カルピス at 08:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月05日

『舟を編む』(三浦しをん) 「もったいない大賞」をおくりたい

『舟を編む』(三浦しをん・光文社)

いまさらだけど、『舟を編む』をはじめてよんだ。
ある出版社の辞書編集部が、あたらしい辞書づくりにとりくむ。
2012年の本屋大賞を受賞し、映画化もされている。
ほんとに、いまさらながらというしかない。

三浦しをんさんらしい おもしろさがつまっているけど、
そのいっぽうで、もったいないなーとなんどもおもった。
題材の壮大さのわりに、ひとつひとつのできごとがふかくえがかれていない。
いいところまでいって、ものたりない描写でおわる。
とくにさいごのほうは要約をよんでいるのではないかとおもうくらい
はなしがどんどんすすんでいってしまう。
よみながら、なんど「もったいない」とかんじたことだろう。
『舟を編む』は、もったいない小説なのだ。

このまえよんだ『星間商事株式会社社史編集室』と
すこしにた設定になっている。
どちらも なにかを編集する部であり、
どちらもその会社の主流とはいえない部署で、
どちらも料亭の存在がおおきい。
『舟を編む』は、もう1冊の『星間商事株式会社社史編集室』である
(主人公がすんでいるのはまるで「小暮荘」だ)。

すこし共通する点があったからといって、
むりやり2つの小説を関係づけたのではない。
『舟を編む』は、あたらしい辞書づくりに15年もとりくんで
やっとできあがっているのに、
それをたった260ページほどにおさめている。
辞書づくりという特殊な設定をえらんだことから、
この仕事にはどんな行程が必要かを、どうしても説明しなければならない。
辞書づくりは題材にすぎず、それをめぐっての ひとのおもいをかきたいのに、
辞書づくりの説明におわれ、人間関係にふかくきりこむ余裕がなくなってしまった。
しをんさんは、『舟を編む』のフラストレーションを解消するために、
もっとお気楽な設定で ひとのつながりをこころゆくまでかける
『星間商事株式会社社史編集室』がどうしても必要だった。

とおもったら、出版されたのは『星間商事株式会社社史編集室』のほうがはやかった。
『舟を編む』が有名すぎて、なんとなくこっちがさきにだされた本だと きめこんでいた。
でもまあむりやりはなしをすすめると、そんなことをいいたくなるぐらい、
『舟を編む』は やりのこしの回収が必要におもえてくるはなしだ。
魅力的な題材をえらびながら、内容に それをじゅうぶんいかせなかった。
15年間の辞書づくりを、たった260ページにおさめるのは さすがにくるしい。
辞書づくりにくわしくふれながらも、
仕事にまつわるたいへんさ・きびしさ、そしてたのしさをもりこんだ
第1級のお仕事小説にしあげてほしかった。

辞書づくりは、題材としてとても魅力がある。
ふだんお世話になっていながら、
どうやって辞書がつくられているかはまるでしらないし、
どんなむつかしさがあるのかも 説明されてはじめてわかる。
登場人物もわるくなかった。
いろんなことがめんどくさくなり、どうでもよくなりがちなわたしには、
馬締さんのように ことばへの関心をもちつづけ、
情熱をこめて仕事にとりくむひとが まぶしくみえる。
せっかくはまった設定なのだから、
もっとページ数をさいて クライマックスへむかえばよかったのに。

辞書づくりは魅力的な題材とはいえ、
かく側が まちがったことばをつかうわけにいかないので、
しをんさんは そうとうなプレッシャーだったのではないか。
「辞書編集部がそのていどの語彙なわけ?」
みたいなことをいわれないために、
いろいろ気をつかわれたことだろう。
であるから、なおさらもったいない小説だとおもう。

余談ながら、本文のなかに、しりとりのはなしがでていた。
もし 辞書をつくる関係者があつまって しりとりをやりだしたら、
勝敗がつくのだろうか。
「あ」行をふくまない、とか、6文字以上でなければならない、とかいう
いろんな「しばり」をつけたり、
博識な審判がいないと成立しないないだろう。
将棋の高段者がまわり将棋をしないように(しないとおもう)、
ことばつかいの達人たちは、しりとりなんかやらないのだろうか。

そんなことまでかんがえてしまうほど、
しをんさんは すばらしい題材を発見したのに、
260ページは かえすがえすも もったいなかった。
本屋大賞というより、もったいない大賞として
わたしの記憶にのこりそうだ。

posted by カルピス at 15:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月04日

パクチーには塩味のインスタントラーメンがピッタリだったこと

しりあいのハーブショップから、
コリアンダーを小袋に3ついただいた。
コリアンダーは、いわゆるパクチーだ。
日本では夏にそだちにくいことから
わたしはベトナムコリアンダーというべつのハーブを
パクチーのかわりとしている。
そのことをしっているハーブショップの方が
わざわざ電話でしらせてくれて、
たくさんのパクチーをわけてくれたのだ。

パクチーはこのみのわかれる独特の風味が特徴で、
すきなひとはたまらなくすきだけど、
そうでないひとには うけいれがたい味となる。
よくきくのが「カメムシみたいな味」というたとえで、
パクチーのかわりにカメムシをいれた(そしてたべた)記事をよんだことがある
(「カメムシはパクチーの代わりになるか」)。
http://portal.nifty.com/2010/07/06/b/
わたしは旅行したときにタイでたべてから、パクチーがだいすきになった。

これだけたくさんあると、
なにかの料理にふりかけるぐらいではたべきれない。
冷蔵庫の野菜室にいれたら 1週間はもつそうだから、
そのあいだにつかいきろう。
なにかパクチーにあった いい料理はないかと、クックパッドでしらべてみた。
以前だと知名度がひくかったパクチーも、
いまではずらっと検索にひっかかる。

いくつかリストにあげたなかで、つくってみる気になったのは
ドライカレーとパクチーラーメンだ。
ドライカレーはふつうにドライカレーをつくって、
そこにパクチーをちらすというもの。
わるくはないけど、とくに「あたり」とはおもえない。
ふつうにおいしいだけだ。

おどろいたのはパクチーラーメンで、
これはインスタントラーメンにトマトとパクチーをいれるだけだ。
サッポロ一番塩とんこつ味でためしてみたら、
これまでパクチーなしに どうやってたべてたのかとおもうほど よくあう。
パクチーをちらすというよりも、
もやしみたいにどっさりいれると すてきにおいしい。
塩味というのがおさえどころで、
パクチーはしょうゆベースの味つけよりも
塩との相性がばつぐんだ。

ほかにも「アジアンそうめん」というのもよさそうだったけど、
これをつくると ソーメンずきなむすこが
サラダではなく主食としてごっそりたべそうなのでやめた。
あとよかったのがトマトサラダで、
これは ドレッシングをかけた、なんということのないサラダに
パクチーをいれただけだけど、
べつものといっていいほど魅力的な一品となった。

結論めいたことをいえば、
パクチーとの相性は、塩味のスープにとどめをさす。
パクチーをそえたドライカレーやチャーハンが あまり印象にのこらないのは、
スープでないので 味がひろがらないからだろう。
タイのクティヤオ(うどん)やベトナムのフォーとパクチーがピッタリのように、
日本ではインスタントラーメンで手がるにパクチーをたのしめる
(塩味のものがおすすめ)。
タイ料理の食材でつくったトムヤムクンよりも、
インスタントラーメンでじゅうぶん満足できるところが、
わたしの舌のまずしいところか。

すきになると、いくらでもパクチーをいれたくなってくる。
すこしのせるより、どっさりつかったほうがおいしい。
ベトナムやラオスで料理を注文すると
やまもりの毒けし野菜がついてくるけど、
いまならその心理がわかる。
エスニック料理の店にいくことがあれば、
とくに別皿のパクチーをたのみ、
塩味をベースにしたメンのスープに、
大量のパクチーをちらしてみるよう おすすめする。

posted by カルピス at 10:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月03日

意味がわからない『éclat』をなぜつかうのか

新聞に女性雑誌『éclat』の広告がのっていた。
「é」はアクサン=テギュで
いかにもフランス語っぽいかんじだ。
しかし、『éclat』をどうよめばいいのか、
『éclat』とかいてあるだけではわからない。

わからないから、タイトルのわきに[エクラ]と日本語でよみがかいてある。
それなら最初から『éclat』なんて気どらずに『エクラ』でいいのに。
でも、『エクラ』したところで、けっきょく意味はわからない。
漱石にでてくる高等遊民ならわかるかもしれないが、
現代人のおおくはわからない(とおもう)。
辞書でしらべると、「輝き;(色の)鮮やかさ」の意味なのだそうだ。
わからないのに『éclat』と雑誌名につけたくなる心理はなにか。

『éclat』の意味はわからないけど、
では『STORY』なら大丈夫かというと、やっぱりわからない。
『Domani』だってよめても意味はわからない。
イメージが大切なのであり、
ことばの意味にたいしておもきをおいていないからだろう。
それにしても『éclat』はそうとうなものだ。
そこまで日本人はフランスにいかれているのか。

ところがそうではなかった。
女性誌のタイトルをかきだしてみると、
小学館が『Domani』『Oggi』『Precious』など、
集英社はさきにあげた『éclat』に『Marisol』・・・。ものすごいかずだ。
リストをながめるだけで、
わたしは自分のしていることのおろかしさをさとる。
世間では膨大な数の女性誌が出版されており、
そのほとんどが外国語のタイトルで、
たいていは意味がわからない。
いまさら『éclat』におどろいているわたしが世間しらずだったのだ。
アクサン=テギュまでもちだして
外国語、とくにフランス語であることをひけらかしているのは
『éclat』ぐらいかもしれないが、
基本的に女性誌のタイトルは魑魅魍魎の世界だ。

では男性誌のタイトルはというと、
しらべるとこれもまたほとんどが外国語で、
よめないし、意味もわからない。
わたしが『éclat』のアクサン=テギュにおどろいてみせたのは、
たんなるやつあたりにすぎないようで、
世間にあるタイトルは、男女をとわず 意味不明の記号にあふれていた。
タイトルに意味をもとめるなんて きわめつけのヤボみたいだ。
わたしは はっきりと自分の敗北をさとる。
日本人は外国語コンプレックスなどものともせず、
自由に外国語のタイトルをつかいこんでいる。
つかいたいことばを雑誌名にえらんで どこがわるいのか。

こうなってくると、
こんどはわたしが『éclat』をやっていないか心配になってきた。
意味をわかっていないくせに、イメージだけでものをいってないか。
ひとがつかうことばだけきびしくチェックしておいて、
自分はテキトーにながしていたら すごくかっこわるい。

NHK-BSのニュース番組をみていたら、
司会者のまえに板(しゃれた名前があるのだろうけど、でも板)がおいてあり、
「Global Debate Wisdam
グローバル ディベート ウィズダム」
とかかれていた。
英語でタイトルをつけ、そのしたにふりがなをうつ。
ぜんぜんグローバルな態度ではない。
よめないのならつかわなければいいのに、とこりずに批判する。
これは正統なやつあたりだとおもうけど、どうなのだろう。
女性誌のタイトルとおなじ現象のような、そうでないような。

posted by カルピス at 11:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月02日

『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』(倉下忠憲)

『ブログを10年続けて、僕が考えたこと』(倉下忠憲)

おもいがけず大作だったので、なかなか感想がかけなかった。
ブログのこれまでをふりかえり、現状を把握し、
これからの方向性がかんがられている。

ブログが自分の人生におおきな影響をあたえた体験から、
倉下さんには ブログをいいかげんにあつかいたくないという つよいおもいがある。
ブログを大切にかんがえ、こうあってほしいとねがう。
プログを情報発信としてよりも、収益をあげる手段とするひともおり、
だからといって、それがかならずしもまちがっているとはいいきれないなか、
倉下さんのブログ観はわたしにネット界の良識をしめしてくれる。
ただ10年つづけたからというよりも、
この真摯な姿勢があるからこそ、おおくの読者の信頼をえるのだろう。

本書をよみながら、わたしは自分のブログ、そして自分のたち位置をなんどもふりかえる。
倉下さんはブログによる「積極的な社会参加」に意味をみいだしている。
ひとや社会とつながりやすいのがブログの特徴だ。
ウェブに情報を出すならば、そのコンテンツが誰かの役に立つか、誰かの価値になっているのかは、一度考えてみたいところです。

情報に価値があるかどうかについて、わたしは倉下さんほど
意味をもとめていなことに気づく。
たしかに、かきっぱなしではなく、
なにがしかの反応が期待できるブログは
ひとや社会とのつながりに魅力がある。
しかし、役にたつかどうかは、わたしにとってそれほど重要ではない。

こんなかんがえになったのは、おかしなことだけど、
「積極的な社会参加」をといたのとおなじひと、梅棹さんの本がきっかけだ。
梅棹さんは「積極的な社会参加」だけでなく、
生きがいを否定した無為な生き方もみとめている(たとえば『わたしの生きがい論』)。
わたしは知的生産についてのよい読者ではなかったようだ。
ただあるだけでいいという人生論のほうにつよくひかれ、
役にたたないこと、意味のないことに魅力をかんじるようになった。

もちろんこの本は倉下さんがかんがえる「ブロク」であり、
わたしとはいくぶんちがうとおもったまでのことだ。
もしかしたら倉下さんのいう「役に立つ」は、
わたしのとらえているよりも、もっとひろい意味なのかもしれない。
それにしても、10年つづけてなお、倉下さんがこれだけブログを大切にし、
あついおもいをかたってくれるのを、
おかしないいかただけど ありがたくおもう。
おおくのひとがこの本にちからづけられ、
自分へのはげましとうけとめていることだろう。
倉下さんはほんとうにブログのもつちからをしんじている。

本のおわりのほうで、倉下さんはこうかいている。
「ブログで人生は変わる」。
目に入る風景が変わります。触発される考え方が変わります。
体験を求めたくなり、本を読みたくなり、誰かに説明したくなります。
自分で書いてきたことを読み返して、新しい発見をしたり、自分についてより深く知ったりもできます。
うまくいくときばかりではないけど、ブログをかくのはたのしい。
それをおしえてくれたのは倉下さんの「R-style」だ。

「あなたのブログが、良き読者と共にあらんことを」。
本のはじまりとおわりにかいてある 倉下さんのねがいだ。
たしかに、よき読者がいなければブログはつづけにくい。
わたしもまたよい読者でありたいとおもう。
本書は ひとつのブログ論とはいえ、10年の実績はたしかな説得力をもつ。
ブログをめぐる状況を整理し 理解するのに、適切な内容となっている
(「ブログお悩み相談室」まである)。
「はじめに」でふれてある留意点とはうらはらに、
きっとPVなんてどうでもよくなるだろうけど。

posted by カルピス at 23:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年06月01日

負け犬育成ソングとしての『神田川』

朝日新聞(土曜日版)のコラムで
「かぐや姫」がうたったフォークソング『神田川』についてふれていた。
正確にいうと、うたの『神田川』を「ぬけ目なく」映画化したものをとりあげていた。
わかい世代はもうこのうたをしらないかもしれない。
3畳の部屋しかない せまいアパートで同棲する、学生カップルをうたっている。
むかしはこのうたをきいていると
貧乏もそんなにわるくないかも、なんてうっかりおもったものだ。
歌詞のなかで、銭湯にいったときのおもいでが かたられている。

「いっしょに出ようねって 言ったのに
 いつも 私が 待たされた
 洗い髪が芯まで冷えて、
 小さな石鹸 カタカタ鳴った」

うたとしてきいていると、わるくない青春のいちページ、みたいだけど、
またされる女性にしたら たまったものではないだろう。
このコラムがいいたかったのは、
一緒に出ようと約束しておきながら、洗い髪が芯まで冷えてしまうまで、銭湯の前で彼女を待たせるほど長風呂の男なんて信用なりません。深入りするのはやめておきましょう。
だ。
コラム氏はただしい。
いつも女をまたせるような気のきかない男に
のぼせることはない。
そんなことするからつけあがるのだ(とまではかいてないけど)。

いま たまたま『舟を編む』(三浦しをん)をよんでいて、
それには
女が重視するのは、「自分を一番に大事にしてくれるか否か」だと、西岡は数々の経験からあたりをつけていた。
結局、まじめみたいなやつが、本当にモテる男なんだよな。一見冴えなさそうで、真面目さだけが取り柄で、でもなんかちょっと愛敬もなきにしもあらずで、仕事や趣味に熱心に打ち込んでるやつ。
とかいてある。ほんとうだろうか。
すんなりよめるけど、ここはしっかりうたがってかかったほうがいい。
もしそうであるなら、晩婚化・非婚化はおきないはずだ。
『舟を編む』にでてくるような女性は少数派にすぎず、
おおくが「結婚の条件」をかんがえながら
もうすこしましな相手があらわれるのをまちつづけるから、
いまみたいな状況になったのではないか。

『神田川』をきいてそだった世代は
負け犬の母親たちであり、
男の長湯をまちつづけたわたしはバカだったと、
わかいころにえた教訓を わが娘にさとした結果が
ひと世代あとの晩婚化・非婚化である。
酒井順子さんがユーミンのうたに「負け犬ソング」としての一面をみたように、
『神田川』は、いわば負け犬を育成するうたとしての役割をはたした。

このうたにでてくる「貴方」が
もうすこし甲斐性のある男で、
パートナーに貧乏なくらしをさせないか、
すくなくとも 風呂屋の外でまたせたりしなければ、
女性たちは結婚にこりなかった。
いまのわかいひとたちは、このうたをきいたとき、
とおいむかしに 母親からいいふくめられたかすかな記憶を
おもいだしたりするのだろうか。

posted by カルピス at 14:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする