「かぐや姫」がうたったフォークソング『神田川』についてふれていた。
正確にいうと、うたの『神田川』を「ぬけ目なく」映画化したものをとりあげていた。
わかい世代はもうこのうたをしらないかもしれない。
3畳の部屋しかない せまいアパートで同棲する、学生カップルをうたっている。
むかしはこのうたをきいていると
貧乏もそんなにわるくないかも、なんてうっかりおもったものだ。
歌詞のなかで、銭湯にいったときのおもいでが かたられている。
「いっしょに出ようねって 言ったのに
いつも 私が 待たされた
洗い髪が芯まで冷えて、
小さな石鹸 カタカタ鳴った」
うたとしてきいていると、わるくない青春のいちページ、みたいだけど、
またされる女性にしたら たまったものではないだろう。
このコラムがいいたかったのは、
一緒に出ようと約束しておきながら、洗い髪が芯まで冷えてしまうまで、銭湯の前で彼女を待たせるほど長風呂の男なんて信用なりません。深入りするのはやめておきましょう。だ。
コラム氏はただしい。
いつも女をまたせるような気のきかない男に
のぼせることはない。
そんなことするからつけあがるのだ(とまではかいてないけど)。
いま たまたま『舟を編む』(三浦しをん)をよんでいて、
それには
女が重視するのは、「自分を一番に大事にしてくれるか否か」だと、西岡は数々の経験からあたりをつけていた。
結局、まじめみたいなやつが、本当にモテる男なんだよな。一見冴えなさそうで、真面目さだけが取り柄で、でもなんかちょっと愛敬もなきにしもあらずで、仕事や趣味に熱心に打ち込んでるやつ。とかいてある。ほんとうだろうか。
すんなりよめるけど、ここはしっかりうたがってかかったほうがいい。
もしそうであるなら、晩婚化・非婚化はおきないはずだ。
『舟を編む』にでてくるような女性は少数派にすぎず、
おおくが「結婚の条件」をかんがえながら
もうすこしましな相手があらわれるのをまちつづけるから、
いまみたいな状況になったのではないか。
『神田川』をきいてそだった世代は
負け犬の母親たちであり、
男の長湯をまちつづけたわたしはバカだったと、
わかいころにえた教訓を わが娘にさとした結果が
ひと世代あとの晩婚化・非婚化である。
酒井順子さんがユーミンのうたに「負け犬ソング」としての一面をみたように、
『神田川』は、いわば負け犬を育成するうたとしての役割をはたした。
このうたにでてくる「貴方」が
もうすこし甲斐性のある男で、
パートナーに貧乏なくらしをさせないか、
すくなくとも 風呂屋の外でまたせたりしなければ、
女性たちは結婚にこりなかった。
いまのわかいひとたちは、このうたをきいたとき、
とおいむかしに 母親からいいふくめられたかすかな記憶を
おもいだしたりするのだろうか。