2015年06月10日

『やぎの目絵日記』(林雄司)林さんのわからない世界が なんとなくわかってくる4コマまんが

『やぎの目絵日記』(林雄司・アスペクト)

わたしにとっての林雄司さんは、「デイリーポータルZ」の中心人物であり、
いろんな記事に顔をだして、
どうでもいいようなことに全力で、たのしそうにとりくむひとだ。
たとえばからいカレーをたべる企画では、
担当のライターとならんでお店のカウンターにすわり、
はな水をたらしながら一生懸命カレーにいどんでいた。
とくに林さんがいなくてもよさそうなのに、
好奇心をおさえられず、林さんはつい参加してしまうみたいだ。
なんでこのひとは、どうでもよさそうなことがこんなにすきなのだろう。

この『やぎの目絵日記』は、「携帯4コマ.com」というサイトに連載されたマンガだという。
はじめはよくわからなさにとまどい、
「なんだかなー」と気のりうすでよんでいたけど、
だんだんこのマンガのふわふわした世界になじんできた。
日ごろの自分の行動と思考回路が、
あまりにも目的意識にとらわれすぎていたことを反省する。
意味のないことにこそ、じっくり目をこらしたほうがいい。
そしてそれをサッと絵にしたのが『やぎの目絵日記』だ。

おもいがけない発想を、ボーっとしたかんじの絵でかいてあり、
意味のよくわからないところがおかしい。
それぞれ、なんということのないはなしではある。
しかし、ふつうひとは、あまりこういう発想をしない。
かんたんにかけそうで、でもなかなかかけないマンガ。
きわめて林雄司的な世界観があらわれている作品なのだ。

絵はそこそこかわいいし、アイデアもいっけんよくありそうで、
ものすごく奇抜なわけではない。
でも、ひとつのまとまりとして1話ずつをみると、すごくへんだ。
よく、アイデアは既存のもののくみあわせ、という。
それにしても、たとえば
・うちのこたつは犬だ。
・しかも会話に加わる
・ときどきこたつをはずしていることもある
・さらに ごくまれに 犬でないこともある
 (犬のきぐるみのマスクをはずして一服する父)
なんてはなしを、林さんのほかにだれがおもいつくだろう。

1話ごとに「はみだしやぎとぴあ」という
作者のコメントがついていて、これがまたおかしい。
絵の補足をしたり、余韻をふかめたり。
マンガなのだから、絵だけですべてをよみとれたらいいのだけど、
林さん的な世界に不案内な読者は、
コメントがないと、なんのことだかわからずに とまどってしまう。
たとえば「カメラがとらえた決定的瞬間!!」というはなしでは
お父さんがおかずにしょうゆとソースをまちがえてかけた瞬間がかかれている。
そのコメントには
「お父さんはこういうとき『胃に入ればいっしょだ』的なことを必ず言う」とある。
たしかにわたしの父親もそんなことをいったような気がするし、
わたしもまたいってしまいそうだ。
しかしそれを「必ず言う」といいきるほど、
林さんの「どうでもいい」ことへの観察眼はするどい。

「逆境に追い込まれたとき、『いま、おもしれ〜、おれ』と思うと少し気が楽に。」
なんてのもある。
「なまずの課長代理は 子供のころは素でなまずだった」
というはなしがもとで、
逆境もなにも、ありえない状況をかってに想像しただけなのに、
それを「逆境に追い込まれたとき」なんて
平気でコメントできるのがおかしい。
こうやって、コメントが作品と現実の世界との 橋わたしをしてくれるので、
読者はわからないなりに おもしろがれる。

わたしがすきなのは、フラワーロックという作品だ。

・(車にひかれて)うっかり死んでしまった
・生まれかわったのは フラワーロックだった
・(とおりかかったむかしの恋人に気づいて)「あっ! 京子さん」
・京子さんにむかってカシャカシャカシャとはげしくうごくフラワーロック
 (よく動くフラワーロックは昔の恋人かもしれません)

コメントは、
「フラワーロックのようにどうして流行ったのかわからないものにこそ真実がある」
となっている。
よくわかるようでいて、やっぱりわからない。けど おかしい。
よくうごくフラワーロックにこれからは注意しようとおもう。
でも、そもそもフラワーロックとはなにかが わたしはわからなかった。
林さんは、なんでこんなに いろんなどうでもいいことを よくしっているのか。
あまりにも雑多な情報が頭にたまってしまうため、
そのオリをこじらせないように(意味不明)
こうした「わからない」作品で発散したくなるのかもしれない。

posted by カルピス at 13:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする