主人公の長井代助はいわゆる高等遊民で、
親から金をだしてもらい、とくにはたらかずにくらしている。
『こころ』にでてくる「先生」も
仕事についていなかったけど、
はたらかないことが とくに話題にはならなかった。
長井代助は「先生」よりも、確信的に遊民であろうとする。
無論食うに困るようになれば、何時でも降参するさ。しかし今日に不自由のないものが、何を苦しんで劣等な経験を嘗めるものか。印度人が外套を着て、冬の来た時の用心をすると同じ事だもの。
いまでもなかなかこれだけ「すすんだ」かんがえ方は一般的でない。
はたらくことが常識になっているし、
たとえ経済的に可能であったとしても、
仕事をしないでじゅうじつした毎日をすごせるひとはすくないだろう。
代助は、親や兄夫婦から結婚をせまられはするが、
ちゃんとはたらけとはいわれていない。
夏目漱石の本をよんでいると、
代助のような存在があたりまえではないにしろ、
そうめずらしくなかったようにおもえてくる。
明治時代というむかしに、どうしてこんな生き方ができたのか。
当時は、はたらくことにたいして、
いまほど絶対的な価値をおいていなかったのではないか。
それがいつかはわからないけど、
ある年代をさかいに日本人の生活はおおきくかわってしまった。
『それから』がえがかれた時代は、いまの日本社会からみると、
ずいぶんちがった価値観が一般的だった。
たとえば、漱石の小説には、散歩にでかける場面がよくでてくる。
散歩が生活にとけこんでおり、とくに理由がなくても外にでる。
いまなら犬の散歩や、健康のためにあるくひとはいても、
ただ散歩をしているひとにかぎると、そんなにいないのではないか。
なんの荷物ももたず、ただブラブラあるくのは
あんがいかっこがつかないものだ。
わたしは、なにか目的(たとえばスーバーへのかいもの)がないかぎり、
外をぶらついたりしない。
漱石の小説では、いまみたいに「1日1万歩」をめざすわけでもなく、ただあるいている。
そうかとおもうと、いまよりも もっと現代的な精神をかんじるときもある。
代助は、兄の家へよったとき、そこでのまれていたワインをいっしょにたのしむ。
たいへんめずらしいものとして特別あつかいするのではなく、
ふつうにおいしくのみ、おいしいから1本家にもってかえろうか、なんてかんたんにいう。
ワインの存在があたりまえであり、
いまの人間よりも自然にワインとつきあっているようにみえる。
近代の日本は、ふるくてきゅうくつな時代だったわけではなく、
一部の金もちだけにかぎった状況とはいえ、
いまよりも自由に生きていたひとたちがいる。
できることなら代助のようにくらしたいひとはおおいだろう。
しかし、たいていのひとは代助ほどラジカルになれないので、
親の金でくらすことに うしろめたさをおぼえてしまう。
健全な精神をたもちつつ、はたらかない生活をおくるのは、あんがいむつかしいかもしれない。
ひとつには、暇のつぶし方の問題がある。
よくいわれるように、教養がなければ暇はつぶせない。
もうひとつは、論理武装が必要だ。
はたらかないことについて、代助のように確信的でいられるかどうか。
はたらくことでなにかを生みだせば、
それだけ地球環境に負担をかけるというかんがえ方もあるわけだから、
はたらくのが かならずただしいときまっているわけではない。
それについて、どれだけ自分を納得させられるか。
まわりについては、あまりこの論理を口にしないほうがいいだろう。
いらぬ波風をたててややこしくするのではなく、
自分にだけ確信的であればいい。