「デイリーポータルZ」に「きたなうまい自炊写真」がのっている。
http://portal.nifty.com/kiji/150619193861_1.htm
副題は、「うまさはきたなさの中にある」だ。
うまいけど、きたなそうにみえる料理の数々。
どれもみごとにまずそうで、食欲をそそる写真ではない。
これはなにかとたずねられたら、「きたない写真」とこたえるよりない。
わたしもこの分野には、おすすめの一品がある。
つくり方はかんたんだ。
・卵かけごはんに納豆をまぜる
・ごはんののこりがすくなくなったとき、おからをのせる
すこし説明すると、
納豆ごはんをたべているとき、
具とごはんのバランスがわるくなってきたので、
のこりもののおからをポテっといれたら、これが失敗だった。
失敗だけど、「きたなうまい自炊写真」的には
まちがいなくたかい評価をうけるだろう。
記事には、
「きたなく見えがちな鉄板の食材『生卵』」
とあるので、わたしの作品は
「きたなうまい」セオリーをちゃんといかしていたのだ。
あつあつのごはんだからこそ、
納豆いりの卵かけごはんはみばえがするのであり、
ひえてくるとかなりショボい。
そこにおからがはいると、ますますベチャベチャな残飯風となり、
ものすごくまずそうだ。
もし刑務所でだしたら、いかに囚人への食事とはいえ、
人権侵害だと問題になりそうなくらいまずそう。
たべてみると、みかけほどひどくはないけど、
みかけで食欲をうばわれるのか、期待していたおいしさはない。
そう。料理において、みかけはすごく大切なのだ。
まえにまっくらな映画館のなかでお弁当をたべたことがある
(島根なので、お客さんは数人だった)。
くらくて、いま自分がなにをつまんだのかもわからない。
このときに、料理はつくづくと視覚的な要素がつよいことをしる。
みえないと、なにをたべてもおいしいとおもわない。
うつわもふくめての日本料理だ、みたいなことをよくいうけど、
食事において、目がひろってくる情報が どれだけ影響をあたえるか はかりしれない。
おいしくみえること、まずそうにみえないことが、
じっさいにどんな味かのまえに、まずもとめられる。
友だちといっしょにフランスを旅行しているとき、
夕ごはんをたべにカフェはいった。
カフェは、のみものだけでなく、かんたんな食事もとれる。
友だちがなにを注文したのかはわすれたが、
もってこられた料理は、どうみてもネコの缶づめを
ポコっとお皿にうつしただけの姿だ。
わたしも味見させてもらった。
(たべたことはないけど)まさしくネコの缶づめ味で、
フランス的なおしゃれなイメージをもってしても、
この料理はすくえなかった。
いまおもえば、きっとなにかのパテだったのだろう。
しかし、パテだろうがなんだろうが、
いちど目が「ネコごはん」とおもった瞬間に、
この料理の評価はきまってしまったのだ。
もうずいぶんまえのはなしなのに、
いまだにこの「ネコごはん」風フランス料理がわすれられない。
フランスへの幻想をいっきょにふきとばす、つよい体験となる。
しかし、この教訓を消化しきれてないのもたしかだ。
わたしは、目からの情報をどう位置づけたらいいのか。
『星の王子さま』には、大切なことは目からはいらない、
みたいなことがかいてあるそうで、
たしかに「ネコごはん」をみたから食欲がなくなったのだから、
こころの声に耳をかたむけるのも ひとつのかんがえ方だ。
しかし、そうはいっても「ネコごはん」をうっとりたべなくてもいいとおもう。
「きたなうまい」料理の問題は、あんがいふかくて複雑だ。