わたしが小学校6年生の夏、梅雨になっても雨があまりふらず、
水不足のまま夏やすみをすごした。
給水制限なんていうのも、その夏に体験している。
はじめは夜中だけの制限だったけど、
だんだんきびしくなり、じきに日中の数時間しか
蛇口から水がでなくなった。
学校のプールはまっさきにつかえなくなり、
水泳部だったわたしは、
まったく空白のスケジュールで
夏やすみの40日をすごすことになる。
両親は仕事だし、姉は合唱部の活動ででかけている。
わたしだけなにもすることがなく、
朝ごはんをたべると もう時間をもてあました。
ただひとつのいき場所が県立図書館で、
毎日のように自転車にのってでかけ、
子ども室でおおくの時間をすごすことになる。
「ドリトル先生」シリーズをよんだのもこの夏だ。
本がすきだったというよりも、ほかにすることがなかった。
角田光代さんが、子どものころをふりかえったエッセイで、
おばあさんとふたりですごした、たいくつな夏やすみをかいている。
せっかくの夏やすみなのに、なにもすることがなく、
おばあさんの家で時間をもてあましたそうだ。
そのときには自分はなんて不幸なんだ、とおもっていたのに、
あとからふりかえると、おばあさんとすごした退屈な毎日が、
子どものころの記憶で いちばん印象にのこっているという。
わたしのからっぽの夏やすみも それとよくにている。
わたしにとって、夏やすみといえば
時間をもてあました あの水不足の夏だ。
いつまでもつづくあつい夏の日と、
自転車でいききした、図書館への道のり。
ギラギラしたつよいひざしと図書館がセットになり、
なにもすることがなかった毎日を、なつかしくおもいだす。
いまおもえば、部活動がなくなったからといって、
それだけを理由に 夏やすみがからっぽになるわけがない。
お盆で親戚の家にいったり、夏まつりにでかけたりと、
それなりにイベントがあったはずなのに、
たのしかったはずのそれらのおもいでは、
わたしの記憶からすっぽりぬけている。
わたしの頭にのこっているのは、からっぽの時間だけだ。
退屈にこりたわたしは、その夏をさいごに
うまく時間をつぶせるようになった。
たとえプールでおよげなくても、
やすみがながらくつづいても、
いまのわたしは いくらでもやることがある。
いつ隠居生活にはいっても、もう大丈夫だ。
真の教養を身につけたのか、ただなまけものになったのか。
ことしもまたギラギラしたあつい夏がきた。
わたしは、6年生のときの、からっぽだった夏やすみをおもいだす。
2015年07月31日
2015年07月30日
『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子)こんなにかがやかしい時代だったあのころ
『一瞬の風になれ』(佐藤多佳子・講談社文庫)
よみおえたあとのさわやかさがきわだっている。
陸上競技に全力をかたむける高校生のものがたり。
ともに陸上を題材にした小説として、
『一瞬の風になれ』と『風が強く吹いている』(三浦しをん)は
2007年の本屋大賞にノミネートされている。
大賞を受賞したのは『一瞬の風になれ』のほうだ。
設定がうまい。
陸上部としては2級レベルの春野台高校が、
ふたりの異色のスプリンターの入部によって、
だんだんとちからをつけ、うえの大会をめざしていく。
ひとりは天才スプリンターの一ノ瀬連で、
もうひとりが中学までサッカーをやっていた神谷新二。
ふたりは おさななじみだ。
連は中学のとき、全国大会の決勝にのこるほどの実力がありながら、
部活をとちゅうでやめてしまった。
天才型だけに、とりあつかいがむつかしい。
神谷新二はサッカーにうちこみながら、
いつまでも結果をのこせない自分にいきづまりをかんじ、
高校から陸上にうつる。
おさななじみなので、新二は連をへんにチヤホヤしない。
連も、新二のスプリンターとしての潜在能力をみぬいている。
おなじ高校の部員でありながら、
ふたりはおたがいをライバルとしてみとめあう。
まったくの初心者として陸上の世界にはいり、
だんだんとちからをつけていく新二のとまどいと成長が
3年間にわたりえがかれていく。
はじめは新二によるタメくちの一人称に違和感があったが、
そのうちなれた。
レースのスピード感をだすには、
一人称が効果的だったのかもしれない。
春野台高校陸上部は、「がんばれベアーズ」ほど
まったくおはなしにならないよわさではないけれど、
県大会の決勝にいけるかどうか、というレベルの部員がおおい。
それでも自分なりの目標をかかげ、
懸命に練習にとりくみ、大会をめざすようすが
はるかむかしの自分をおもいださせ、
わたしはたまらない気もちになる。
わたしはずっと競泳をつづけてきたので、
おなじタイムをきそう競技として、
0.1秒にこだわる彼らの気もちがよくわかる。
そして、なぜあんなに一生懸命うちこむのかも、自分のこととしてよめる。
それがわかさであり、青春小説、
なかでもスポーツを題材にした青春小説の特徴だ。
いまとなっては、彼らのピュアな気もちが、すごくまぶしい。
でてくる陸上部員は、みんないいやつばかりだ。
自分の種目だけでなく、ほかのメンバーも大切にする伝統が、
春野台高校陸上部にはつちかわれている。
エリート校にはないよさといえるだろう。
新二の同級生である谷口若菜がよかった。
はじめは短距離、そのあとは中長距離にうつってからも
彼女はコツコツと練習にとりくむ。
「私、どんなちょっとずつでもいいから速くなるね。
ウサギにはなれないけど、足の速いカメになる」
なんていうのだ。
そして、大会では ヘロヘロになりながらラストスパートをかけ、
県大会に出場できるギリギリの6位にくいこんだ。
うれしさと安心感とでいっぱいになった若菜は、
おもわず新二にとびついて「県、行ける!」となきながら報告する。
青春だ。
わたしもこんな高校生活がおくりたかった、というはなしではなく、
もしかしたら人間は、この年代をピークに
だんだんとうすよごれていくのではないか。
もちろん、そうおもわせるこの小説がうまいのであり、
おなじ高校生だったころのわたしは、
いまとおなじくらいすでにおかしなことになっていた。
新二は陸上の初心者ながら、短距離がはやかったので、
1年生のときからリレーのメンバーにえらばれる。
連はもちろんはじめからエースだ。
個人種目で成長していくようすもわくわくするけど、
それにもまして リレーで他の高校ときそいあう場面がいい。
うえの大会にすすむリレーメンバーを、
ほかの部員たちが自分のことのように応援する。
陸上は個人競技であるとともに、
団体競技でもあるのがよくえがかれている。
個人の成長をおいかけながら、
仲間をえていくものがたりでもある。
いくら青春陸上小説とはいえ、
これくらい部活にだけ焦点をしぼるのは めずらしいのではないか。
授業の風景や、クラスメートとのつきあいなどは ほとんどかかれていない。
それでも全3冊の分量になっているのは、
ひとつひとつの大会や記録会を ていねいにおさえているからだ。
陸上競技にうとい読者も、よんでいるうちに
大会のおもさや競技のみどころがわかってくる。
そして3年間にわたり、新二と連の成長を、
読者は自分の仲間のできごととして みまもることになる。
よみおえたときの新二はトップクラスの陸上選手でも、
スタートしたときは、サッカーで芽のでない
さえない少年にすぎなかった。
リレーの第一走者としてデビューし、
レースまえに緊張しまくっていた新二が
ずいぶんむかしにおもえる。
春野台高校陸上部は、何十年にもわたり、
そのような3年間をくりかえし、バトンをひきついできた。
かがやかしい新二と連の活躍も、そのながれのひとこまであり、
自分がひきつぎ うけわたすバトンを、新二も自覚しはじめる。
部員たちの成長が、どこまでもすがすがしいものがたりだ。
よみおえたあとのさわやかさがきわだっている。
陸上競技に全力をかたむける高校生のものがたり。
ともに陸上を題材にした小説として、
『一瞬の風になれ』と『風が強く吹いている』(三浦しをん)は
2007年の本屋大賞にノミネートされている。
大賞を受賞したのは『一瞬の風になれ』のほうだ。
設定がうまい。
陸上部としては2級レベルの春野台高校が、
ふたりの異色のスプリンターの入部によって、
だんだんとちからをつけ、うえの大会をめざしていく。
ひとりは天才スプリンターの一ノ瀬連で、
もうひとりが中学までサッカーをやっていた神谷新二。
ふたりは おさななじみだ。
連は中学のとき、全国大会の決勝にのこるほどの実力がありながら、
部活をとちゅうでやめてしまった。
天才型だけに、とりあつかいがむつかしい。
神谷新二はサッカーにうちこみながら、
いつまでも結果をのこせない自分にいきづまりをかんじ、
高校から陸上にうつる。
おさななじみなので、新二は連をへんにチヤホヤしない。
連も、新二のスプリンターとしての潜在能力をみぬいている。
おなじ高校の部員でありながら、
ふたりはおたがいをライバルとしてみとめあう。
まったくの初心者として陸上の世界にはいり、
だんだんとちからをつけていく新二のとまどいと成長が
3年間にわたりえがかれていく。
はじめは新二によるタメくちの一人称に違和感があったが、
そのうちなれた。
レースのスピード感をだすには、
一人称が効果的だったのかもしれない。
春野台高校陸上部は、「がんばれベアーズ」ほど
まったくおはなしにならないよわさではないけれど、
県大会の決勝にいけるかどうか、というレベルの部員がおおい。
それでも自分なりの目標をかかげ、
懸命に練習にとりくみ、大会をめざすようすが
はるかむかしの自分をおもいださせ、
わたしはたまらない気もちになる。
わたしはずっと競泳をつづけてきたので、
おなじタイムをきそう競技として、
0.1秒にこだわる彼らの気もちがよくわかる。
そして、なぜあんなに一生懸命うちこむのかも、自分のこととしてよめる。
それがわかさであり、青春小説、
なかでもスポーツを題材にした青春小説の特徴だ。
いまとなっては、彼らのピュアな気もちが、すごくまぶしい。
でてくる陸上部員は、みんないいやつばかりだ。
自分の種目だけでなく、ほかのメンバーも大切にする伝統が、
春野台高校陸上部にはつちかわれている。
エリート校にはないよさといえるだろう。
新二の同級生である谷口若菜がよかった。
はじめは短距離、そのあとは中長距離にうつってからも
彼女はコツコツと練習にとりくむ。
「私、どんなちょっとずつでもいいから速くなるね。
ウサギにはなれないけど、足の速いカメになる」
なんていうのだ。
そして、大会では ヘロヘロになりながらラストスパートをかけ、
県大会に出場できるギリギリの6位にくいこんだ。
うれしさと安心感とでいっぱいになった若菜は、
おもわず新二にとびついて「県、行ける!」となきながら報告する。
青春だ。
わたしもこんな高校生活がおくりたかった、というはなしではなく、
もしかしたら人間は、この年代をピークに
だんだんとうすよごれていくのではないか。
もちろん、そうおもわせるこの小説がうまいのであり、
おなじ高校生だったころのわたしは、
いまとおなじくらいすでにおかしなことになっていた。
新二は陸上の初心者ながら、短距離がはやかったので、
1年生のときからリレーのメンバーにえらばれる。
連はもちろんはじめからエースだ。
個人種目で成長していくようすもわくわくするけど、
それにもまして リレーで他の高校ときそいあう場面がいい。
うえの大会にすすむリレーメンバーを、
ほかの部員たちが自分のことのように応援する。
陸上は個人競技であるとともに、
団体競技でもあるのがよくえがかれている。
個人の成長をおいかけながら、
仲間をえていくものがたりでもある。
いくら青春陸上小説とはいえ、
これくらい部活にだけ焦点をしぼるのは めずらしいのではないか。
授業の風景や、クラスメートとのつきあいなどは ほとんどかかれていない。
それでも全3冊の分量になっているのは、
ひとつひとつの大会や記録会を ていねいにおさえているからだ。
陸上競技にうとい読者も、よんでいるうちに
大会のおもさや競技のみどころがわかってくる。
そして3年間にわたり、新二と連の成長を、
読者は自分の仲間のできごととして みまもることになる。
よみおえたときの新二はトップクラスの陸上選手でも、
スタートしたときは、サッカーで芽のでない
さえない少年にすぎなかった。
リレーの第一走者としてデビューし、
レースまえに緊張しまくっていた新二が
ずいぶんむかしにおもえる。
春野台高校陸上部は、何十年にもわたり、
そのような3年間をくりかえし、バトンをひきついできた。
かがやかしい新二と連の活躍も、そのながれのひとこまであり、
自分がひきつぎ うけわたすバトンを、新二も自覚しはじめる。
部員たちの成長が、どこまでもすがすがしいものがたりだ。
2015年07月29日
元気のない野菜に米ぬかをまく
福岡正信さん流の自然農法によるお米づくりをめざしている。
野菜づくりも、基本的にはお米とおなじかんがえ方でいきたい。
とはいえ、雑草がはえた畑に ただ種をまいただけでは
なかなか野菜がそだたない。
極端な例として、ずっとまえに、
何種類かの種(大根やカブ、春菊など)をまぜて、
畑にばらまきしたことがある。
ふつう畑というと、おなじ種類の野菜がずらっとならんでるけれど、
かんがえてみたら自然界ではありえない状態だ。
だから虫がつきやすかったり、病気になったりする。
いろんな種類の野菜がばらばらにはえているほうが
より自然な状態にちかいだろうと、ためしてみたのだ。
種をまいたのだから、芽はでたけど、
おおきな野菜にはそだってくれず、
やがてまわりの雑草にうもれてしまった。
福岡さんの畑を写真でみると、
畑らしさをかんじるウネはなく、
はらっぱのあちこちに、いろんな種類の野菜がそだっている。
そんな畑づくりが理想とはいえ、
いきなりではうまくいきそうにないので、
図書館にあった『はじめての自然農で野菜づくり』(川口由一・学研)
を参考にする。
この本でも、福岡さんの自然農法とおなじように、
・耕さない
・持ち込まない(化成肥料や有機肥料、農薬などをもちこまない)
・草や虫を敵にしない
といった原則にそって野菜をそだてていく。
「野菜も草です。草の育っている場所では、必ず育ちます」
とあるのがたのもしい。
やせた畑で野菜をつくるときは、
養分をおぎなうために米ぬかや油かすをまくといいそうだ。
わたしがそだてているナスやトマト、
それにモロヘイヤやつるむらさきに、
これまでなにも肥料をやってこなかったけど、
あまり元気がないので、米ぬかをまいてみることにする。
島根には、道路のところどころに
コイン精米機という機械がおいてあり、玄米をもっていくと、
量にもよるけど 100円か200円で精米してくれる。
精米とは、玄米から米ぬかをとりのぞくことで、
精米したてのお米のほうがおいしいことから、
こまめに精米するひとむけに、こうしたコイン精米機がある。
島根では あたりまえの風景なので、
全国どこでもコイン精米機がおいてあるのかとおもってたけど、
さすがに都会にはないようだ。
大阪がからきた友だちに「あれ、なんのこと?」とたずねられたとき、
コイン精米機の用途を説明したらすごく感心していた。
たしかに、需要のないところでは ありえない機械だろう。
コイン精米機のありがたいのは、
玄米を精米するときにとりのぞくヌカを、
ただでもってかえれることで、
「米ぬかあります」とフダがはってあったりする。
ただ、場所によっては競争がはげしく、
かならず米ぬかが手にはいるとはかぎらない。
米ぬかは、畑にすきこむのではなく、
野菜にあたらないように土のうえにおく。
米ぬかをたくさんまけばいいというものではなく、
「原則は、その田畑で養われる家族が消費する分だけ。
土づくりはできるだけ人間が手を出さず、養分過多にならないようにする」
というめやすであつかう。
わたしの畑は草がたくさんはえるので、
養分はあるのだろう。
しかし、自然をみる目がわたしにはないので、
いまの畑がどんな状態なのかつかめずにいる。
米ぬかにとびついたのは、
あまりにも元気のない野菜をなんとかしたかったからだ。
土の状態をみきわめられるようになり、
だんだんとゆたかな土をそだてたい。
野菜づくりも、基本的にはお米とおなじかんがえ方でいきたい。
とはいえ、雑草がはえた畑に ただ種をまいただけでは
なかなか野菜がそだたない。
極端な例として、ずっとまえに、
何種類かの種(大根やカブ、春菊など)をまぜて、
畑にばらまきしたことがある。
ふつう畑というと、おなじ種類の野菜がずらっとならんでるけれど、
かんがえてみたら自然界ではありえない状態だ。
だから虫がつきやすかったり、病気になったりする。
いろんな種類の野菜がばらばらにはえているほうが
より自然な状態にちかいだろうと、ためしてみたのだ。
種をまいたのだから、芽はでたけど、
おおきな野菜にはそだってくれず、
やがてまわりの雑草にうもれてしまった。
福岡さんの畑を写真でみると、
畑らしさをかんじるウネはなく、
はらっぱのあちこちに、いろんな種類の野菜がそだっている。
そんな畑づくりが理想とはいえ、
いきなりではうまくいきそうにないので、
図書館にあった『はじめての自然農で野菜づくり』(川口由一・学研)
を参考にする。
この本でも、福岡さんの自然農法とおなじように、
・耕さない
・持ち込まない(化成肥料や有機肥料、農薬などをもちこまない)
・草や虫を敵にしない
といった原則にそって野菜をそだてていく。
「野菜も草です。草の育っている場所では、必ず育ちます」
とあるのがたのもしい。
やせた畑で野菜をつくるときは、
養分をおぎなうために米ぬかや油かすをまくといいそうだ。
わたしがそだてているナスやトマト、
それにモロヘイヤやつるむらさきに、
これまでなにも肥料をやってこなかったけど、
あまり元気がないので、米ぬかをまいてみることにする。
島根には、道路のところどころに
コイン精米機という機械がおいてあり、玄米をもっていくと、
量にもよるけど 100円か200円で精米してくれる。
精米とは、玄米から米ぬかをとりのぞくことで、
精米したてのお米のほうがおいしいことから、
こまめに精米するひとむけに、こうしたコイン精米機がある。
島根では あたりまえの風景なので、
全国どこでもコイン精米機がおいてあるのかとおもってたけど、
さすがに都会にはないようだ。
大阪がからきた友だちに「あれ、なんのこと?」とたずねられたとき、
コイン精米機の用途を説明したらすごく感心していた。
たしかに、需要のないところでは ありえない機械だろう。
コイン精米機のありがたいのは、
玄米を精米するときにとりのぞくヌカを、
ただでもってかえれることで、
「米ぬかあります」とフダがはってあったりする。
ただ、場所によっては競争がはげしく、
かならず米ぬかが手にはいるとはかぎらない。
米ぬかは、畑にすきこむのではなく、
野菜にあたらないように土のうえにおく。
米ぬかをたくさんまけばいいというものではなく、
「原則は、その田畑で養われる家族が消費する分だけ。
土づくりはできるだけ人間が手を出さず、養分過多にならないようにする」
というめやすであつかう。
わたしの畑は草がたくさんはえるので、
養分はあるのだろう。
しかし、自然をみる目がわたしにはないので、
いまの畑がどんな状態なのかつかめずにいる。
米ぬかにとびついたのは、
あまりにも元気のない野菜をなんとかしたかったからだ。
土の状態をみきわめられるようになり、
だんだんとゆたかな土をそだてたい。
2015年07月28日
『地球バス紀行』におそわる旅行の極意
『地球バス紀行』(BS-TBS)を録画しておき、
ご飯をたべながらよくみる。
この番組にかぎらず、わたしは旅ものがすきで、
なかなか旅行にいけない現実をすこしわすれたり、
反対に、こんな町にいってみたいと、
旅行熱をかきたてたりする。
『地球バス紀行』は、とくにいきさきをきめないで、
町についたときに、「どこかいい場所はありませんか?」と
まわりのひとにたずねながら旅行をつづけるシリーズだ。
バスだったらなんでもいいようで、
路線バスや長距離バス、
このまえはバリ島のベモ(のりあいバス)まで でてきた。
運転手さんやバスのお客さん、
町をあるくときは、お店のひとや とおりすがりのひとに、
わからないことをどんどんきいていく。
うまく編集されていて、通訳があいだにはいっていないようにみえる。
どの町をたずねても、コミュニケーションにこまらないので
ストレスをかんじずに、外国旅行をたのしめる。
偶然とおりがかったひとにはなしかけたら、
家についてこいといわれたりして、
うまくできすぎた旅行ではあるものの、
旅番組なのだから、あんまりこまかいことはいわない。
いきあたりばったりなので、ホテルの予約もしてないから、
町のひとにきいたホテルにはいり、
「今夜とまれますか?」とたずねる。
お城みたいなホテルだったり、ドミトリーのユースホステルだったりで、
値段はいろいろだけど、
お金を気にせずに旅行できるのなら、
こうやってブラっとたずねるやり方はおもしろそうだ。
パソコンやスマホにたよらない、むかしながらの旅行。
時間については、どうとでもなるだろう。
2泊3日や3泊4日のみじかい日程や、
だれかといっしょの旅行では無理だけど、
ひとりでまわるときなら、だれにでもできるスタイルといえる。
そういえば、ひとりで旅行していると、
かならず「奥さんはいっしょじゃないのか」と、土地のひとにきかれる。
わかいころならまだしも、いい年こいて
ひとりで旅行してるのは、よほどのわけありとおもわれてしまう。
先進国以外では、ひとりでの旅行なんて、
一人前の人間として かんがえられないみたいだ。
妻とやすみがあわなくて、と説明しても
あまり納得してもらえない。
そういった日本的な事情は 外国のひとにつうじにくい。
もしかしたら、ほんとうにひとの道にはずれることをしてるんじゃないか、
という気がしてくる。
「だれにでもできるスタイル」とさきほどかいたけど、
けしてだれもがそうやって旅行するわけではない。
わたしがこのまえラオスにでかけたときに、
バスのり場にいかないで、
外国人旅行者むけの旅行会社を あてにしてばかりいる自分が すごくいやだった。
いったいなにを目的に旅行してるのかという、根源的な問題でもある。
旅行会社にたよれば、もちろん楽にまわれるけど、
それによってうしなわれるものもある。
にもかかわらず、スムーズにいくことを わたしはもとめがちだ。
なんらかのしばりがないと、どこまでもお気楽な旅行になり、
そんな旅行からは 手ごたえをえにくいだろう。
『地球バス紀行』は、まったく自然に
そこらへんのモヤモヤをクリアーしている。
旅行者のあつまる旅行会社なんかで、チケットをかったりしない。
バスターミナルや、町のひとにきいたバスのり場でバスをまつ。
気らくに旅行しているようでいて、内容は本質的な「旅」となっている。
かんたんそうでいて、なかなかできない町めぐりを
さらっとやってるのが『地球バス紀行』であり、
だからわたしはそうした旅行に ついついひかれてしまう。
ご飯をたべながらよくみる。
この番組にかぎらず、わたしは旅ものがすきで、
なかなか旅行にいけない現実をすこしわすれたり、
反対に、こんな町にいってみたいと、
旅行熱をかきたてたりする。
『地球バス紀行』は、とくにいきさきをきめないで、
町についたときに、「どこかいい場所はありませんか?」と
まわりのひとにたずねながら旅行をつづけるシリーズだ。
バスだったらなんでもいいようで、
路線バスや長距離バス、
このまえはバリ島のベモ(のりあいバス)まで でてきた。
運転手さんやバスのお客さん、
町をあるくときは、お店のひとや とおりすがりのひとに、
わからないことをどんどんきいていく。
うまく編集されていて、通訳があいだにはいっていないようにみえる。
どの町をたずねても、コミュニケーションにこまらないので
ストレスをかんじずに、外国旅行をたのしめる。
偶然とおりがかったひとにはなしかけたら、
家についてこいといわれたりして、
うまくできすぎた旅行ではあるものの、
旅番組なのだから、あんまりこまかいことはいわない。
いきあたりばったりなので、ホテルの予約もしてないから、
町のひとにきいたホテルにはいり、
「今夜とまれますか?」とたずねる。
お城みたいなホテルだったり、ドミトリーのユースホステルだったりで、
値段はいろいろだけど、
お金を気にせずに旅行できるのなら、
こうやってブラっとたずねるやり方はおもしろそうだ。
パソコンやスマホにたよらない、むかしながらの旅行。
時間については、どうとでもなるだろう。
2泊3日や3泊4日のみじかい日程や、
だれかといっしょの旅行では無理だけど、
ひとりでまわるときなら、だれにでもできるスタイルといえる。
そういえば、ひとりで旅行していると、
かならず「奥さんはいっしょじゃないのか」と、土地のひとにきかれる。
わかいころならまだしも、いい年こいて
ひとりで旅行してるのは、よほどのわけありとおもわれてしまう。
先進国以外では、ひとりでの旅行なんて、
一人前の人間として かんがえられないみたいだ。
妻とやすみがあわなくて、と説明しても
あまり納得してもらえない。
そういった日本的な事情は 外国のひとにつうじにくい。
もしかしたら、ほんとうにひとの道にはずれることをしてるんじゃないか、
という気がしてくる。
「だれにでもできるスタイル」とさきほどかいたけど、
けしてだれもがそうやって旅行するわけではない。
わたしがこのまえラオスにでかけたときに、
バスのり場にいかないで、
外国人旅行者むけの旅行会社を あてにしてばかりいる自分が すごくいやだった。
いったいなにを目的に旅行してるのかという、根源的な問題でもある。
旅行会社にたよれば、もちろん楽にまわれるけど、
それによってうしなわれるものもある。
にもかかわらず、スムーズにいくことを わたしはもとめがちだ。
なんらかのしばりがないと、どこまでもお気楽な旅行になり、
そんな旅行からは 手ごたえをえにくいだろう。
『地球バス紀行』は、まったく自然に
そこらへんのモヤモヤをクリアーしている。
旅行者のあつまる旅行会社なんかで、チケットをかったりしない。
バスターミナルや、町のひとにきいたバスのり場でバスをまつ。
気らくに旅行しているようでいて、内容は本質的な「旅」となっている。
かんたんそうでいて、なかなかできない町めぐりを
さらっとやってるのが『地球バス紀行』であり、
だからわたしはそうした旅行に ついついひかれてしまう。
2015年07月27日
『村上さんのところ』がいよいよ発売に
本屋さんをあるいたら、
『村上さんのところ』が山づみになっていた。
(きのうのブログの補足として、
又吉さんの『火花』はうりきれで、
来週の入荷までおまちください、とことわりがしてあった)。
『村上さんのところ』をネットでみれなくなってから、
もう3ヶ月ちかくたつ。
『村上さんのところ』をいちにちに3ど
チェックするのが習慣となっていたので、
なくなればさぞかしさみしいかと覚悟してたけど、
あんがい平気にすごせた。
『村上さんのところ』の世界にどっぷりつかれたので、
こころもからだも満足していたのだとおもう。
それに、いつまでもあのサイトがつづくようもとめ、
村上さんの時間をうばうわけにいかないこともわかっていた。
『村上さんのところ』は、紙の本も
電子書籍も、おそらくかわずにすますだろう。
サイトがひらかれていたとき、
いいとおもった記事をぜんぶエバーノートにとりこんだからで、
このときのためにエバーノートはあるのかとおもうぐらい
便利につかわせてもらった。
ちょっとでも「いいね」とおもった質問・回答は、
「村上さんのところ」と名前をつけたノートブックにいれる。
サイトが公開されているあいだに、
そこへクリップした記事が2017にもなった。
3716の回答のうち2017をひろったのだから、
かなりたかい確率で「いいね」とおもったことになる。
2017もあると、どれがよかったのかとてもおぼえきれず、
さがしだすのに苦労する。
嘉門達夫の「小市民」そのままで、
「アンダーラインをひきすぎると、
どこが重要なのかわからない問題」だ。
その解決策として、「いいね」のなかでもとびきりの質問・回答は、
べつの「スペシャルノートブック」を用意する。
ところがそれもふえすぎてわけがわからなくなり・・・と、
どうしようもない状態なので、
やっぱり紙の本と電子書籍の両方をかうことになるかも。
もっとも、ひさしぶりに「スペシャルノートブック」に分類した
とびきりの質問・回答をよみかえしてみると、
いったいどこに感心したのか わからなかったりするから、
ひとの感情や記憶はけっこうあてにならない。
『村上さんのところ』はネタの宝庫ともいえる。
おかしかったり、不思議だったり、
感心したり、ためになったり、
ついブログにとりあげたくなってくる。
本がでた記念ということで、
こりずに おわりのほうの『村上さんのところ』から、
気になった質問をふたつ とりあげてみたい。
ひとつ目は、
という質問。
ほんとうだ。あのままモモがながれていったら、
桃太郎はどうなっていたのだろう。
村上さんも、この質問は気にいったようだ。
そうやって、弱肉強食の環境を生きぬてきたからこそ、
桃太郎はあんなにすくすくとそだったのだ。
でなければ、鬼にもかってしまう桃太郎のつよさは 説明がつかない。
もうひとつは、
「物語を紡ぐということにたいする自信のようなものは、いつ持たれましたか?」
という質問にたいし、
きわめて具体的に村上さんがこたえている。
海にそのままながれていったかもしれない桃太郎と、
「自分が何かしらの源泉に結びついているという確信」が、
おなじようにあつかわれているから
『村上さんのところ』は油断がならない。
『村上さんのところ』が山づみになっていた。
(きのうのブログの補足として、
又吉さんの『火花』はうりきれで、
来週の入荷までおまちください、とことわりがしてあった)。
『村上さんのところ』をネットでみれなくなってから、
もう3ヶ月ちかくたつ。
『村上さんのところ』をいちにちに3ど
チェックするのが習慣となっていたので、
なくなればさぞかしさみしいかと覚悟してたけど、
あんがい平気にすごせた。
『村上さんのところ』の世界にどっぷりつかれたので、
こころもからだも満足していたのだとおもう。
それに、いつまでもあのサイトがつづくようもとめ、
村上さんの時間をうばうわけにいかないこともわかっていた。
『村上さんのところ』は、紙の本も
電子書籍も、おそらくかわずにすますだろう。
サイトがひらかれていたとき、
いいとおもった記事をぜんぶエバーノートにとりこんだからで、
このときのためにエバーノートはあるのかとおもうぐらい
便利につかわせてもらった。
ちょっとでも「いいね」とおもった質問・回答は、
「村上さんのところ」と名前をつけたノートブックにいれる。
サイトが公開されているあいだに、
そこへクリップした記事が2017にもなった。
3716の回答のうち2017をひろったのだから、
かなりたかい確率で「いいね」とおもったことになる。
2017もあると、どれがよかったのかとてもおぼえきれず、
さがしだすのに苦労する。
嘉門達夫の「小市民」そのままで、
「アンダーラインをひきすぎると、
どこが重要なのかわからない問題」だ。
その解決策として、「いいね」のなかでもとびきりの質問・回答は、
べつの「スペシャルノートブック」を用意する。
ところがそれもふえすぎてわけがわからなくなり・・・と、
どうしようもない状態なので、
やっぱり紙の本と電子書籍の両方をかうことになるかも。
もっとも、ひさしぶりに「スペシャルノートブック」に分類した
とびきりの質問・回答をよみかえしてみると、
いったいどこに感心したのか わからなかったりするから、
ひとの感情や記憶はけっこうあてにならない。
『村上さんのところ』はネタの宝庫ともいえる。
おかしかったり、不思議だったり、
感心したり、ためになったり、
ついブログにとりあげたくなってくる。
本がでた記念ということで、
こりずに おわりのほうの『村上さんのところ』から、
気になった質問をふたつ とりあげてみたい。
ひとつ目は、
桃太郎の桃って、あのとき、おじいさんとおばあさんが大きさにびっくりしたまま見送るか、おじいさんが流れに足を取られて拾えなかったら、どうなっていたんでしょうね?
どんぶらこ、どんぶらこって、波が上下していて、川の流れも意外に速そうです。
という質問。
ほんとうだ。あのままモモがながれていったら、
桃太郎はどうなっていたのだろう。
村上さんも、この質問は気にいったようだ。
たぶんあの桃太郎が拾い上げられる前に、539人くらいの桃太郎(候補)が空しくどんぶらこどんぶらこと、海までながされていったのではないかと推測されます。あるいは途中でカラスにつつかれて命を落としたりしたかもしれません。適者生存というか、自然界はずいぶん厳しいです。しかしあなたもけっこう無益なことを考えますね。
そうやって、弱肉強食の環境を生きぬてきたからこそ、
桃太郎はあんなにすくすくとそだったのだ。
でなければ、鬼にもかってしまう桃太郎のつよさは 説明がつかない。
もうひとつは、
「物語を紡ぐということにたいする自信のようなものは、いつ持たれましたか?」
という質問にたいし、
きわめて具体的に村上さんがこたえている。
僕の感覚からいうと、それは「自信」というのとは少し違うものです。むしろ確信に近いものかもしれません。自分が何かしらの源泉に結びついているという確信。それは新人賞をとったときからうすうす感じていました。それがかなりきちんとした確信になったのは、『1973年のピンボール』で僕が双子と一緒に配電盤を貯水池に捨てに行ったあたりからです。そして『羊をめぐる冒険』を書いているときにその感覚の基礎はしっかり固められ、『ノルウェイの森』でテクニカルに拡張されました。根拠なんて必要ない。大切なのは確信があるかどうか。
まず最初に「根拠のない確信」みたいなものが必要とされます。根拠はあとから見つけていけばいいんです。でも最初に確信がないと、ちょっときついかもしれない。
海にそのままながれていったかもしれない桃太郎と、
「自分が何かしらの源泉に結びついているという確信」が、
おなじようにあつかわれているから
『村上さんのところ』は油断がならない。
2015年07月26日
又吉さん現象が、本の世界をにぎやかにしてくれたらうれしい
又吉さんの『火花』がすごくうれているらしい。
杉江さんが『炎の営業日誌』に
「空前の読書アイドルの誕生」として とりあげている。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
いまや又吉さんがからむと、なんでもうれるそうだ。
『本の雑誌 8月号』の
「出版業界上半期 あんなことこんなこと対談!」にも、
又吉さん現象についてふれてあった。
というはなしがかわされている。
わたしは又吉さんがべつにきらいではないけれど、
芥川賞をとったからといって、『火花』をかおうとはおもわない。
「そういうお客が来るようになると、売れてるってことですよね」は、
ベストセラーがうまれる条件をよくあらわしている。
ひごろあまり本をかわないひとたちが手をだすからこそ、
超ベストセラーになる。
くどいいいかただけど、超ベストセラーは、
そういう うれかたをする本でないとうまれない。
本がうれるのはけっこうなことだけど、
又吉さんについてかかれた まえの日の「営業日誌」には、
「本が売れない以前にお店に人が来ない」
本屋さんのようすがかかれている。
「いろいろとやるしかないけれど、
今、本が売れるイメージがもてない。」
ともある。
『火花』に爆発的な人気があつまるいっぽうで、
ひとけのない本屋さんという状況も確実にすすんでいる。
ベストセラーつくりにはひとやくかった
「まさよしの花火って本を」のおじいさんはともかくとして、
「若者の支持が圧倒的」という又吉さんの本がうれるのは、
出版界だけでなく、本がすきなものにとって いいはなしなのだろう。
『おすすめ文庫王国 2013』におそわって、
わたしは又吉さんの『第2図書係補佐』をよんだことがある。
書評集でありながら、
とりあげた本についてはほんのちょっとしかかいてなく、
だからただのエッセイかというと、
さいごにちょこっとふれてあるひとことに
なにか意味があるようにおもえる不思議な本だ。
そもそも それぞれのはなしのさいごに
【あらすじ】として 数行の「あらすじ」がかいてあるので、
はじめから「あらすじ」の紹介としての役は放棄している。
本とは関係ないはなしを展開しておきながら、
さいごにさらりと内容をからめる技がひかる。
かなり本をよみこんでないと、こんなふうにはかけない。
こんな技をみせられたら、どれどれと、
その本をのぞいてみたくなるのではないか。
又吉さんにみちびかれて 本をよみはじめた若者が、
これからの 本の世界をにぎやかにしてくれたらうれしい。
杉江さんが『炎の営業日誌』に
「空前の読書アイドルの誕生」として とりあげている。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
いまや又吉さんがからむと、なんでもうれるそうだ。
『本の雑誌 8月号』の
「出版業界上半期 あんなことこんなこと対談!」にも、
又吉さん現象についてふれてあった。
△又吉直樹には、今、帯の依頼が殺到しているらしい。
◯新潮社は「ピース又吉が愛してやまない20冊フェア!」を
企画しましたね。
△その又吉の『火花』を載せた文學界は、
史上初の増刷で1万部から4万部に。
単行本は55万部超えそう。若者の支持が圧倒的。
◯でもおじいちゃんとかも買いに来るんですよ。
文學界が出た後に「あの、まさよしの花火っていう本を」って(笑)。
△そういうお客が来るようになると、売れてるってことですよね。
というはなしがかわされている。
わたしは又吉さんがべつにきらいではないけれど、
芥川賞をとったからといって、『火花』をかおうとはおもわない。
「そういうお客が来るようになると、売れてるってことですよね」は、
ベストセラーがうまれる条件をよくあらわしている。
ひごろあまり本をかわないひとたちが手をだすからこそ、
超ベストセラーになる。
くどいいいかただけど、超ベストセラーは、
そういう うれかたをする本でないとうまれない。
本がうれるのはけっこうなことだけど、
又吉さんについてかかれた まえの日の「営業日誌」には、
「本が売れない以前にお店に人が来ない」
本屋さんのようすがかかれている。
「いろいろとやるしかないけれど、
今、本が売れるイメージがもてない。」
ともある。
『火花』に爆発的な人気があつまるいっぽうで、
ひとけのない本屋さんという状況も確実にすすんでいる。
ベストセラーつくりにはひとやくかった
「まさよしの花火って本を」のおじいさんはともかくとして、
「若者の支持が圧倒的」という又吉さんの本がうれるのは、
出版界だけでなく、本がすきなものにとって いいはなしなのだろう。
『おすすめ文庫王国 2013』におそわって、
わたしは又吉さんの『第2図書係補佐』をよんだことがある。
書評集でありながら、
とりあげた本についてはほんのちょっとしかかいてなく、
だからただのエッセイかというと、
さいごにちょこっとふれてあるひとことに
なにか意味があるようにおもえる不思議な本だ。
そもそも それぞれのはなしのさいごに
【あらすじ】として 数行の「あらすじ」がかいてあるので、
はじめから「あらすじ」の紹介としての役は放棄している。
本とは関係ないはなしを展開しておきながら、
さいごにさらりと内容をからめる技がひかる。
かなり本をよみこんでないと、こんなふうにはかけない。
こんな技をみせられたら、どれどれと、
その本をのぞいてみたくなるのではないか。
又吉さんにみちびかれて 本をよみはじめた若者が、
これからの 本の世界をにぎやかにしてくれたらうれしい。
2015年07月25日
「森の学校」でのピザづくりに 島根の吉田くんとしてかかわる
「森の学校」というとりくみに、
ボランティアとして参加する。
こまかいことはわからないけど、
子どもたちが自然のなかで おもいっきりあそべる場所を提供しよう、
というこころみではないかとおもう。
郊外の山に子どもたちをあつめてたくさんあそぶ。
朝のうちあわせでは、自己紹介からスタートする。
この日の参加者は、子ども18人(全員小学生)、おとな6人だった。
わたしは「しまねのよしだ」と名ふだをつけて自己紹介した。
「た〜か〜の〜つ〜め〜」のポーズはいまひとつの反応だ。
子どもたちのなかに、吉田くんのTシャツをきている女の子がいてうれしかった。
島根ではよくあることだけど。
午前の活動はピザつくりだった。
生地をこねるグループ、トッピングを用意するグループ、
火をおこすグループにわかれて準備にとりかかる。
わたしのうけもちは、ピザがまに火をおこすグループだ。
子どもたちと林におちている木や葉っぱをあつめ、
かまがあつくなるまで火をおこし、たくさんのおきびをつくる。
わたしは、お風呂のたきつけできたえられ、
火をつけるのがあんがい得意だ。
たきびというと、子どもたちはいろんな木、
しめっていたり、めちゃくちゃほそかったり、をもってくる。
それらをぜんぶうけいれて、
火をおこすのはあんがいむつかしい(エラソー)。
きょうも、はじめのうちはケムリばかりでて
どうなることかとおもったけど、
そのうちしっかりした火になる。
いったんこの状態になれば、
あとはふといマキをどんどんくわえても大丈夫だ。
かまがじゅうぶんにあつくなっていれば、
3分でピザがやけますよ、ときいていた。
トッピングした生地をかまにいれると、
ほんとうに3分でこんがり色がつく。
みてるあいだに生地がピザになっていくのでおもしろい。
30枚も生地があったのに、1時間ほどでぜんぶやきあがった。
複雑なソースをぬったわけではなく、
トッピングだって、きらいな野菜はのっけない、など、
かなりテキトーなピザなのに、
どれもすてきにおいしい。
強力粉だけでつくった生地がよかったこともあるけど、
なによりもピザがまがいい仕事をしてくれたのだ。
生地だけをたべてもおいしい。
ピザ屋さんのものよりもおいしい。
ピザがまの威力をおもいしらされた。
わたしの家では、生地をこねるのがめんどくさいので、
食パンのうえにトマトソースをぬり、
ベーコンやしめじといっしょにチーズをのせて
「なんちゃってピザ」としてつくっているけど、
そんなのとはくらべものにならないおいしさだ。
ピザをたべたあと、子どもたちはちかくの川であそびはじめた。
石をあつめて水をせきとめたり、ザリガニをさがしたり。
きょうが2回目ということもあり、
子どもたちは「森の学校」のおとなたちを 信用することにきめたようだ。
たいていのことは、なにをしてもOKなので、
いちいちおとなの判断をあおがなくても
子どもたちでかってにあそんでいる。
スタッフが、そのあそびをさらにおもしろいほうにうながすので、
子どもたちはますますもりあがっていく。
学校や学年がちがっても、それなりにあそびがふくらんでいく。
しらないおじさんであるわたしにも、
子どもたちは フツーにはなしかけてくれる。
いい空間ができあがっていた。
34℃まで気温があがった あつい日だったけど、
林のなかはちょうどいいひかげがあって、
すずしい風もふいている。
デッキがあったのでねころんでいたら、
いつのまにかわたしはひるねをしていた。
おいしいピザをたべ、工夫をこらしてあそぶ子どもたちの声をきき、
すずしいデッキでひるねする。
わるくない夏のいちにちだ。
1時間ほどで目がさめると、子どもたちはまだ川であそんでいた。
ピザをやくだけやいて、あとはひるねをするような
わけがわからないおじさんの存在もまた、
子どもたちには必要なのだ、といいわけしつつ
ボーっとしながら 子どもたちのあそびをそのままながめていた。
ボランティアとして参加する。
こまかいことはわからないけど、
子どもたちが自然のなかで おもいっきりあそべる場所を提供しよう、
というこころみではないかとおもう。
郊外の山に子どもたちをあつめてたくさんあそぶ。
朝のうちあわせでは、自己紹介からスタートする。
この日の参加者は、子ども18人(全員小学生)、おとな6人だった。
わたしは「しまねのよしだ」と名ふだをつけて自己紹介した。
「た〜か〜の〜つ〜め〜」のポーズはいまひとつの反応だ。
子どもたちのなかに、吉田くんのTシャツをきている女の子がいてうれしかった。
島根ではよくあることだけど。
午前の活動はピザつくりだった。
生地をこねるグループ、トッピングを用意するグループ、
火をおこすグループにわかれて準備にとりかかる。
わたしのうけもちは、ピザがまに火をおこすグループだ。
子どもたちと林におちている木や葉っぱをあつめ、
かまがあつくなるまで火をおこし、たくさんのおきびをつくる。
わたしは、お風呂のたきつけできたえられ、
火をつけるのがあんがい得意だ。
たきびというと、子どもたちはいろんな木、
しめっていたり、めちゃくちゃほそかったり、をもってくる。
それらをぜんぶうけいれて、
火をおこすのはあんがいむつかしい(エラソー)。
きょうも、はじめのうちはケムリばかりでて
どうなることかとおもったけど、
そのうちしっかりした火になる。
いったんこの状態になれば、
あとはふといマキをどんどんくわえても大丈夫だ。
かまがじゅうぶんにあつくなっていれば、
3分でピザがやけますよ、ときいていた。
トッピングした生地をかまにいれると、
ほんとうに3分でこんがり色がつく。
みてるあいだに生地がピザになっていくのでおもしろい。
30枚も生地があったのに、1時間ほどでぜんぶやきあがった。
複雑なソースをぬったわけではなく、
トッピングだって、きらいな野菜はのっけない、など、
かなりテキトーなピザなのに、
どれもすてきにおいしい。
強力粉だけでつくった生地がよかったこともあるけど、
なによりもピザがまがいい仕事をしてくれたのだ。
生地だけをたべてもおいしい。
ピザ屋さんのものよりもおいしい。
ピザがまの威力をおもいしらされた。
わたしの家では、生地をこねるのがめんどくさいので、
食パンのうえにトマトソースをぬり、
ベーコンやしめじといっしょにチーズをのせて
「なんちゃってピザ」としてつくっているけど、
そんなのとはくらべものにならないおいしさだ。
ピザをたべたあと、子どもたちはちかくの川であそびはじめた。
石をあつめて水をせきとめたり、ザリガニをさがしたり。
きょうが2回目ということもあり、
子どもたちは「森の学校」のおとなたちを 信用することにきめたようだ。
たいていのことは、なにをしてもOKなので、
いちいちおとなの判断をあおがなくても
子どもたちでかってにあそんでいる。
スタッフが、そのあそびをさらにおもしろいほうにうながすので、
子どもたちはますますもりあがっていく。
学校や学年がちがっても、それなりにあそびがふくらんでいく。
しらないおじさんであるわたしにも、
子どもたちは フツーにはなしかけてくれる。
いい空間ができあがっていた。
34℃まで気温があがった あつい日だったけど、
林のなかはちょうどいいひかげがあって、
すずしい風もふいている。
デッキがあったのでねころんでいたら、
いつのまにかわたしはひるねをしていた。
おいしいピザをたべ、工夫をこらしてあそぶ子どもたちの声をきき、
すずしいデッキでひるねする。
わるくない夏のいちにちだ。
1時間ほどで目がさめると、子どもたちはまだ川であそんでいた。
ピザをやくだけやいて、あとはひるねをするような
わけがわからないおじさんの存在もまた、
子どもたちには必要なのだ、といいわけしつつ
ボーっとしながら 子どもたちのあそびをそのままながめていた。
2015年07月24日
天声人語にべつやくれいさんの『ばかごはん』がのってうれしくなる
きのうの天声人語(朝日新聞)で、
べつやくれいさんの『ばかごはん』がとりあげられていた。
お子様ランチの旗を、居酒屋の料理につけてもにあわない、
という「実験」を まくらとして引用し、
物価指数の対象から お子様ランチがはずれたとつたえている。
あの天声人語に、敬愛するべつやくさんがのったのが
わたしはすごくうれしかったのだけど、
かんがえてみたら、天声人語にのったからといって
そんなにありがたがる必要はまるでない。
まえに鷹の爪の自虐カレンダーが天声人語にとりあげられたときも、
ファン心理がはたらいて、わたしはついのぼせてしまった。
権威的なものをきらっているつもりなのに、
こんなときにポロッと体質がのぞいてしまう。
きのうの「デイリーポータルZ」に、
なにか天声人語のことがのるかとおもったら、
まったくふれていない。
「デイリーポータルZ」は、天声人語なんかに
ぜんぜんいかれてないのだ。
もっとも、天声人語はあくまでもべつやくさんの著作である
『ばかごはん』から引用したのであり、
「デイリーポータルZ」についてはふれていない。
とはいえ、『ばかごはん』の記事のおおくは
「デイリーポータルZ」にのったものなので、
まったく関係がないというわけでもない。
もし、「デイリーポータルZ」が天声人語にのった『ばかごはん』を
ニュースとしてあつかったら、
「デイリーポータルZ」が朝日新聞の権威にくっしたかたちだ。
あるメディアが、べつのメディアの記事をありがたがるなんて、
意気地がなさすぎる。
「デイリーポータルZ」は、そうではなかった。
かっこいいぞ、「デイリーポータルZ」。
よくよんでみると、天声人語にのったお子様ランチの話題は、
べつに『ばかごはん』をひっぱりださなくてもすむはなしだった。
というよりも、『ばかごはん』をだしたがために、
かえってわけのわからない記事になったともいえる。
『ばかごはん』をよんだことのないひとは、
いったいなんのことだか とまどったのではないか。
このような不自然な引用をしてまで べつやくさんを登場させたのは、
天声人語氏が、そうとうなべつやくさんファン、
そして「デイリーポータルZ」ファンだからにちがいない。
天声人語氏とべつやくれいさんとは、
どのような接点があったのだろう。
毎日午前11時になると、ネタにこまった天声人語氏が
「デイリーポータルZ」のサイトをたずねているとしたら
すごくしたしみがもてる。
今回の『ばかごはん』からの引用は、
さすがに無理があったといわざるをえない。
天声人語には、『ばかごはん』をとりあげるよりも、
ひたすらどうでもいいことにこだわる
「デイリーポータルZ」の精神こそを紹介してほしかった。
べつやくれいさんの『ばかごはん』がとりあげられていた。
お子様ランチの旗を、居酒屋の料理につけてもにあわない、
という「実験」を まくらとして引用し、
物価指数の対象から お子様ランチがはずれたとつたえている。
あの天声人語に、敬愛するべつやくさんがのったのが
わたしはすごくうれしかったのだけど、
かんがえてみたら、天声人語にのったからといって
そんなにありがたがる必要はまるでない。
まえに鷹の爪の自虐カレンダーが天声人語にとりあげられたときも、
ファン心理がはたらいて、わたしはついのぼせてしまった。
権威的なものをきらっているつもりなのに、
こんなときにポロッと体質がのぞいてしまう。
きのうの「デイリーポータルZ」に、
なにか天声人語のことがのるかとおもったら、
まったくふれていない。
「デイリーポータルZ」は、天声人語なんかに
ぜんぜんいかれてないのだ。
もっとも、天声人語はあくまでもべつやくさんの著作である
『ばかごはん』から引用したのであり、
「デイリーポータルZ」についてはふれていない。
とはいえ、『ばかごはん』の記事のおおくは
「デイリーポータルZ」にのったものなので、
まったく関係がないというわけでもない。
もし、「デイリーポータルZ」が天声人語にのった『ばかごはん』を
ニュースとしてあつかったら、
「デイリーポータルZ」が朝日新聞の権威にくっしたかたちだ。
あるメディアが、べつのメディアの記事をありがたがるなんて、
意気地がなさすぎる。
「デイリーポータルZ」は、そうではなかった。
かっこいいぞ、「デイリーポータルZ」。
よくよんでみると、天声人語にのったお子様ランチの話題は、
べつに『ばかごはん』をひっぱりださなくてもすむはなしだった。
というよりも、『ばかごはん』をだしたがために、
かえってわけのわからない記事になったともいえる。
『ばかごはん』をよんだことのないひとは、
いったいなんのことだか とまどったのではないか。
このような不自然な引用をしてまで べつやくさんを登場させたのは、
天声人語氏が、そうとうなべつやくさんファン、
そして「デイリーポータルZ」ファンだからにちがいない。
天声人語氏とべつやくれいさんとは、
どのような接点があったのだろう。
毎日午前11時になると、ネタにこまった天声人語氏が
「デイリーポータルZ」のサイトをたずねているとしたら
すごくしたしみがもてる。
今回の『ばかごはん』からの引用は、
さすがに無理があったといわざるをえない。
天声人語には、『ばかごはん』をとりあげるよりも、
ひたすらどうでもいいことにこだわる
「デイリーポータルZ」の精神こそを紹介してほしかった。
2015年07月23日
レースまえの調整期にはいる
8月2日におこなわれるスイムランをめざしてトレーニングをつづけている。
メニューはとてもシンプルだ。
きょうは1時間のジョギング。
きのうはつづけて1時間およいだ。
スピードをあげての練習はほとんどしない。
とくに、外ではしるときは、時速9〜10キロの
ゆっくりしたペースだ。
ペースをおとしてるのではなく、
これくらいゆっくりでないとはしれない。
きのういったプールは、
夏やすみにはいったというのにお客さんがすごくすくない。
50メートルプールをたった4人でつかった。
たまたま選手たちの練習時間をはずせたのだろうけど、
50メートルプールに4人というと、
リゾート地のビーチよりも人口密度がひくいのではないか。
島根は過疎の先進県として有名で、
ひとがすくないのは、こういうところでアドバンテージとなる。
4人どころか、ひとりで50メートルプールを占用したことさえある。
島根の自虐ネタとして、鷹の爪カレンダーにつかえないだろうか。
レースがちかづくと、テーパー(調整期)といって、
練習の量をおとしていく。
大会の日が最良のコンディションとなるように、
つかれをとり、いいかんじでレースにのぞむわけだ。
この4ヶ月ほど、わたしとしてはかなりまじめにはしりこんだ。
そのごほうびとして、これからテーパーにはいる。
ほんとうは、わたしくらいの練習量や質なら、
テーパーなんていらないのだろうけど、
おまじないみたいな意味と、気分をきりかえる目的で、
テーパーだけはしっかりとりいれる。
テーパーでの失敗は、量をへらしすぎることよりも、
量をへらすのをおそれ、つかれがとれないことがおおいそうだ。
やすむとこれまでの練習の成果がこぼれてしまうような気がして、
ついそれまでとおなじハードなメニューをつづけてしまう。
わたしとしては、なんとしても ぬかりなく楽な時期をたのしみたい。
このところ、体幹トレーニングとストレッチポールをとりいれている。
体幹トレーニングは、中級編までならそんなにむつかしくない。
初級・中級とも、15分ほどなので、
はしるまえの準備体操みたいなつもりだ。
いかにもウェートトレーニングとはちがうところを刺激している気がする。
ストレッチポールでは、1メートルほどのまるい筒にのって
からだをほぐしていく。
ジムの無料教室で、やり方をおそわったのをおもいだしながら、
みようみまでで、気もちがいい方向にからだをずらす。
どちらの効果かわからないけど、
すこしだけ、まっすぐはしれるようになった。
レースまでの10日間、気をゆるめないで
しっかりお気楽なテーパーをすごしたい。
メニューはとてもシンプルだ。
きょうは1時間のジョギング。
きのうはつづけて1時間およいだ。
スピードをあげての練習はほとんどしない。
とくに、外ではしるときは、時速9〜10キロの
ゆっくりしたペースだ。
ペースをおとしてるのではなく、
これくらいゆっくりでないとはしれない。
きのういったプールは、
夏やすみにはいったというのにお客さんがすごくすくない。
50メートルプールをたった4人でつかった。
たまたま選手たちの練習時間をはずせたのだろうけど、
50メートルプールに4人というと、
リゾート地のビーチよりも人口密度がひくいのではないか。
島根は過疎の先進県として有名で、
ひとがすくないのは、こういうところでアドバンテージとなる。
4人どころか、ひとりで50メートルプールを占用したことさえある。
島根の自虐ネタとして、鷹の爪カレンダーにつかえないだろうか。
レースがちかづくと、テーパー(調整期)といって、
練習の量をおとしていく。
大会の日が最良のコンディションとなるように、
つかれをとり、いいかんじでレースにのぞむわけだ。
この4ヶ月ほど、わたしとしてはかなりまじめにはしりこんだ。
そのごほうびとして、これからテーパーにはいる。
ほんとうは、わたしくらいの練習量や質なら、
テーパーなんていらないのだろうけど、
おまじないみたいな意味と、気分をきりかえる目的で、
テーパーだけはしっかりとりいれる。
テーパーでの失敗は、量をへらしすぎることよりも、
量をへらすのをおそれ、つかれがとれないことがおおいそうだ。
やすむとこれまでの練習の成果がこぼれてしまうような気がして、
ついそれまでとおなじハードなメニューをつづけてしまう。
わたしとしては、なんとしても ぬかりなく楽な時期をたのしみたい。
このところ、体幹トレーニングとストレッチポールをとりいれている。
体幹トレーニングは、中級編までならそんなにむつかしくない。
初級・中級とも、15分ほどなので、
はしるまえの準備体操みたいなつもりだ。
いかにもウェートトレーニングとはちがうところを刺激している気がする。
ストレッチポールでは、1メートルほどのまるい筒にのって
からだをほぐしていく。
ジムの無料教室で、やり方をおそわったのをおもいだしながら、
みようみまでで、気もちがいい方向にからだをずらす。
どちらの効果かわからないけど、
すこしだけ、まっすぐはしれるようになった。
レースまでの10日間、気をゆるめないで
しっかりお気楽なテーパーをすごしたい。
2015年07月22日
『たまたまザイール、またコンゴ』(田中真知) 世界は偶然と突然でできている
『たまたまザイール、またコンゴ』(田中真知・偕成社)
ザイールとコンゴという、2つの国名がつかってあるのは、
時代によってよび方がかわるからだ。
おなじ国が1971年から1997年までザイール共和国、
それ以降はコンゴ民主共和国とよばれている。
ザイール共和国のまえはなんだったかというと、コンゴだったわけだし、
コンゴ民主共和国のとなりには、
ブラザビルを首都とするコンゴ共和国があるしで、
名前だけとってもずいぶんややこしい。
この本は、1991年と2012年の2回、
おなじ川をボードでくだる旅の記録だ。
1991年当時はザイールだったので、川の名もザイール川。
2013年はコンゴ民主共和国なので、川もコンゴ川とよばれている。
1991年当時、ザイール川を船でいききするのは、
旅行者のあいだであこがれの旅だったそうだ。
著者の田中真知氏は、好奇心から
奥さんとふたりでこの川をボードでくだった。
そして21年後の2013年にも、たまたまのおもいつきと偶然がかさなり、
ふたたびこの川をくだる旅にでる。
かわったタイトルだとおもっていたけど、
ほんとうに、たまたまのザイールであり、
またコンゴなのだ。
ザイールだろうが コンゴだろうが、
この土地での旅は、けしてかんたんではない。
役人はすぐにワイロをもとめるし、
病気やケガはつきものだ(じっさい田中夫妻はふたりともマラリアにかかっている)。
電気もかよわない村がおおく、それなのに物価はたかい。
まあ、困難だからこそ、旅行記に希少価値がでるというもので、
観光地の川くだりだったら、わざわざ本をかってまでよまない。
2ど目の川くだりでは、とちゅうの村で船をまつあいだ、
2週間のあしどめをくう。
意外なことに、村ですごした うごきのない期間が、
よんでいて いちばんおもしろかった。
コンゴを旅していると、あまりにも、なにもかもあてにならない。
つれのふたりが川で水あびしてるのをみるうちに、
田中真知氏はさとりをひらく。
わたしが田中さんの旅ものをこのむのは、
こういう文章にであえるからだ。
やわらかさのなかに、センスがひかる。
もうひとつのさとりのほうが決定的だ。
「世界は偶然と突然でできている」。
それ以上、なにかいうことがあるだろうか。
ザイールとコンゴという、2つの国名がつかってあるのは、
時代によってよび方がかわるからだ。
おなじ国が1971年から1997年までザイール共和国、
それ以降はコンゴ民主共和国とよばれている。
ザイール共和国のまえはなんだったかというと、コンゴだったわけだし、
コンゴ民主共和国のとなりには、
ブラザビルを首都とするコンゴ共和国があるしで、
名前だけとってもずいぶんややこしい。
この本は、1991年と2012年の2回、
おなじ川をボードでくだる旅の記録だ。
1991年当時はザイールだったので、川の名もザイール川。
2013年はコンゴ民主共和国なので、川もコンゴ川とよばれている。
1991年当時、ザイール川を船でいききするのは、
旅行者のあいだであこがれの旅だったそうだ。
著者の田中真知氏は、好奇心から
奥さんとふたりでこの川をボードでくだった。
そして21年後の2013年にも、たまたまのおもいつきと偶然がかさなり、
ふたたびこの川をくだる旅にでる。
かわったタイトルだとおもっていたけど、
ほんとうに、たまたまのザイールであり、
またコンゴなのだ。
ザイールだろうが コンゴだろうが、
この土地での旅は、けしてかんたんではない。
役人はすぐにワイロをもとめるし、
病気やケガはつきものだ(じっさい田中夫妻はふたりともマラリアにかかっている)。
電気もかよわない村がおおく、それなのに物価はたかい。
まあ、困難だからこそ、旅行記に希少価値がでるというもので、
観光地の川くだりだったら、わざわざ本をかってまでよまない。
2ど目の川くだりでは、とちゅうの村で船をまつあいだ、
2週間のあしどめをくう。
意外なことに、村ですごした うごきのない期間が、
よんでいて いちばんおもしろかった。
コンゴを旅していると、あまりにも、なにもかもあてにならない。
つれのふたりが川で水あびしてるのをみるうちに、
田中真知氏はさとりをひらく。
そんな風景を眺めていると、まあ、いいや、ゆるす、もうみんなゆるす、という気持ちになる。何をゆるすんだか、わからないが、それでもゆるす、おまえなんかゆるしてやる。
今日も船には乗れなかった。でも完璧な一日だった。そういうことだ。
わたしが田中さんの旅ものをこのむのは、
こういう文章にであえるからだ。
やわらかさのなかに、センスがひかる。
もうひとつのさとりのほうが決定的だ。
こうすればああなるだろうという単純な因果律さえ成り立たないことがあまりにも多い。予定や計画をつらぬこうとする意志の力よりも、思いもよらない偶然や突然の出来事が起きても、それとなんとか折り合いをつけ、わたりあい、楽しんでしまう力こそが、ここで生きるうえでは不可欠なのだ。
いや、ここだけではない。じつは世界中どこだってそうなのだと思う。世界は偶然と突然でできている。(中略)人は偶然この世に生まれ、突然、死んでいく。生きるためにいちばん必要なのは、それらのどうしようもない偶然を否定したり、ねじ伏せたりする力ではなく、どのような偶然とも折り合いをつけていく力だ。
「世界は偶然と突然でできている」。
それ以上、なにかいうことがあるだろうか。
2015年07月21日
老人になった自分を なぜ想像できないのだろう
新聞をみていたら、「老人ホームを選ぶ」
という記事がのっていた。
老人ホームにはいろんな種類があり、
そのちがいについて説明してある。
こういうのは、なんどよんでも頭にはいらない。
まだひとごとだとおもっているからで、
自分が老人ホームにはいったり、
自宅で介護サービスをうけているところなんて
まったく想像できない。
50代のわたしにとって、たしかにまだ切実な問題ではないけれど、
きわめてちかい将来、自分や配偶者、
それにしたしくしているひとが、まちがいなく介護の対象となる。
それがわかっていながら、
このひとごと感覚はなんなのだろう。
わたしはかなりの心配性で、
旅行にいったときなど、
さきのことを心配ばかりして 自分でもいやになる。
たとえば、むかえの車がくるかどうかなど、
自分ではどうしようもないことが気になっておちつけない。
それなのに、なぜ老後についてだけ
みてみぬふりというか、目をそむけるというか、
自分とは関係ないこととしてあつかってしまうのか。
中年になると、いくらからだをよくうごかしていても、
心臓がきゅうにとまるかもしれないとか、
脳の血管がつまったりやぶれたりしないだろうかとか、
わかいころにはおもいもしなかった心配が頭をかすめる。
でありながら、車いすをつかったり、
自分の部屋においたポータブルトイレで用をたしたり、
おしめしている自分をまったく想像できない。
自分だけでなく、配偶者や友だちの年おいたすがたも
頭にうかばない。
逆もまたむつかしい。
老人をみて、そのひとのわかいころをおもいえがけるだろうか。
よくいわれるように、だれにとっても老化ははじめての体験なので
想像しにくいところがある。
10代のころは30代の自分なんてしんじられなかったし、
20代のときも、50代はとおすぎる将来だった。
人間の想像力がはたらくのは、
あんがい ごくかぎられた範囲なのかもしれない。
「老人ホームを選ぶ」という記事は、
いろんなタイプの老人ホームがあり、
それぞれ必要なお金がちがうので、
しっかり準備しましょう、という内容だった。
わたしにはピンとないけれど、
団塊世代の方などは、手もとにあるお金がはっきりしているのだから、
有益な情報なのかもしれない。
また、お金にからめると、想像力にたよらなくても、
問題が具体的にみえてくる。
でも、お金がこれだけだったら、
はいれる老人ホームはこれとこのタイプです、なんて、
なんだか偏差値による学校の受験みたいでたのしくない。
老人ホームにお世話にならなくても生きていけるように、
健康をたもつのがいちばんだ、みたいな
精神論におちついてしまう。
あんまりさきのことばかりをかんがえず、
まず中年をしっかりたのしんでおこう。
という記事がのっていた。
老人ホームにはいろんな種類があり、
そのちがいについて説明してある。
こういうのは、なんどよんでも頭にはいらない。
まだひとごとだとおもっているからで、
自分が老人ホームにはいったり、
自宅で介護サービスをうけているところなんて
まったく想像できない。
50代のわたしにとって、たしかにまだ切実な問題ではないけれど、
きわめてちかい将来、自分や配偶者、
それにしたしくしているひとが、まちがいなく介護の対象となる。
それがわかっていながら、
このひとごと感覚はなんなのだろう。
わたしはかなりの心配性で、
旅行にいったときなど、
さきのことを心配ばかりして 自分でもいやになる。
たとえば、むかえの車がくるかどうかなど、
自分ではどうしようもないことが気になっておちつけない。
それなのに、なぜ老後についてだけ
みてみぬふりというか、目をそむけるというか、
自分とは関係ないこととしてあつかってしまうのか。
中年になると、いくらからだをよくうごかしていても、
心臓がきゅうにとまるかもしれないとか、
脳の血管がつまったりやぶれたりしないだろうかとか、
わかいころにはおもいもしなかった心配が頭をかすめる。
でありながら、車いすをつかったり、
自分の部屋においたポータブルトイレで用をたしたり、
おしめしている自分をまったく想像できない。
自分だけでなく、配偶者や友だちの年おいたすがたも
頭にうかばない。
逆もまたむつかしい。
老人をみて、そのひとのわかいころをおもいえがけるだろうか。
よくいわれるように、だれにとっても老化ははじめての体験なので
想像しにくいところがある。
10代のころは30代の自分なんてしんじられなかったし、
20代のときも、50代はとおすぎる将来だった。
人間の想像力がはたらくのは、
あんがい ごくかぎられた範囲なのかもしれない。
「老人ホームを選ぶ」という記事は、
いろんなタイプの老人ホームがあり、
それぞれ必要なお金がちがうので、
しっかり準備しましょう、という内容だった。
わたしにはピンとないけれど、
団塊世代の方などは、手もとにあるお金がはっきりしているのだから、
有益な情報なのかもしれない。
また、お金にからめると、想像力にたよらなくても、
問題が具体的にみえてくる。
でも、お金がこれだけだったら、
はいれる老人ホームはこれとこのタイプです、なんて、
なんだか偏差値による学校の受験みたいでたのしくない。
老人ホームにお世話にならなくても生きていけるように、
健康をたもつのがいちばんだ、みたいな
精神論におちついてしまう。
あんまりさきのことばかりをかんがえず、
まず中年をしっかりたのしんでおこう。
2015年07月20日
『負け犬の遠吠え』にみる 単にダメなひと
姉夫婦があたらしく家をたてたので、
先月、母につきそって東京へでかけた。
そういえば、わたしのいとこも
みんなそだった家をでて、あたらしい家をかまえている。
ふつうに生きていたら、自分の家族をもち、
家をたてたり かったりする歳になっているのだ。
酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』をよんでいて、
オスの負け犬にたいする酒井さんの分類が、
じつに容赦なかったのでおどろいたことがある。
はじめから結婚の対象として目にはいっていない。
そもそも「オスの負け犬」はコラムあつかいで、
はっきりした章だてをあたえられていない。
そういえばそんな犬もいた、という程度の
ほとんど対象外の存在だ。
酒井さんによると、オスの負け犬は、以下の5タイプにわけられる。
・あまり生身の女性には興味の無い人
・女性に興味はあるけれど、責任を負うのは嫌な人
・女性に興味はあるけれど、負け犬には興味の無い人
・女性に興味はあるけれど、全くモテない人
・女性に興味はあるけれど、単にダメなひと
オスの負け犬にあうと、酒井さんは
そのひとがどのタイプなのかと観察する。
30代後半になって負け犬である男性は、
5つのタイプのいずれかであるにきまっているから。
どのタイプもそれぞれにひどい。
のこっている男がこのようにダメであれば、
女性が結婚をいそがないのも しかたのないことにおもえる。
わたしはさいわい(たぶん)結婚したけれど、
上の分類はずいぶん心臓にわるい。
「女性に興味はあるけれど、単にダメなひと」なんていわれると、
まるでそのまま自分のことのようだ。
家をたてなかったからといって、
「ダメ」ときめつけられはしないけど、
なんども仕事をやめ、はたらいていてもまえむきな発想はせず、
いつも老後の隠居生活をかんがえているわたしは、
どちらかときかれたら「単にダメなひと」であり、
抗議する気にはならない。
客観的にみればどうしても「単にダメ」なひとにわけられるのだなーと、
納得せざるをえない。
なにかの機会にこうして『負け犬の遠吠え』を手にとると、
あまりにも適切な表現で負け犬と、負け犬をとりまく社会があらわしてあり、
どこをよんでも いまさらながらにおもしろい。
ついあちこちのページをめくることになり、
いたるところにちりばめられた珠玉のことばによいしれる。
今回のあたらしい発見は、「負け犬と孤独」について。
このおそろしいまでの達観を、これまでわたしはみおとしていた。
この本は、21世紀の名著として、のちの世までかたりつづけられるだろう。
12年もまえに、負け犬といういきものを発見し、
その将来を予測したするどい指摘にたいし、
評価がひくすぎるとわたしはおもう。
出版されてからの時間がすぎてゆくとともに、
ますます酒井さんの先見性におどろかされている。
先月、母につきそって東京へでかけた。
そういえば、わたしのいとこも
みんなそだった家をでて、あたらしい家をかまえている。
ふつうに生きていたら、自分の家族をもち、
家をたてたり かったりする歳になっているのだ。
酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』をよんでいて、
オスの負け犬にたいする酒井さんの分類が、
じつに容赦なかったのでおどろいたことがある。
はじめから結婚の対象として目にはいっていない。
そもそも「オスの負け犬」はコラムあつかいで、
はっきりした章だてをあたえられていない。
そういえばそんな犬もいた、という程度の
ほとんど対象外の存在だ。
酒井さんによると、オスの負け犬は、以下の5タイプにわけられる。
・あまり生身の女性には興味の無い人
・女性に興味はあるけれど、責任を負うのは嫌な人
・女性に興味はあるけれど、負け犬には興味の無い人
・女性に興味はあるけれど、全くモテない人
・女性に興味はあるけれど、単にダメなひと
オスの負け犬にあうと、酒井さんは
そのひとがどのタイプなのかと観察する。
30代後半になって負け犬である男性は、
5つのタイプのいずれかであるにきまっているから。
どのタイプもそれぞれにひどい。
のこっている男がこのようにダメであれば、
女性が結婚をいそがないのも しかたのないことにおもえる。
わたしはさいわい(たぶん)結婚したけれど、
上の分類はずいぶん心臓にわるい。
「女性に興味はあるけれど、単にダメなひと」なんていわれると、
まるでそのまま自分のことのようだ。
家をたてなかったからといって、
「ダメ」ときめつけられはしないけど、
なんども仕事をやめ、はたらいていてもまえむきな発想はせず、
いつも老後の隠居生活をかんがえているわたしは、
どちらかときかれたら「単にダメなひと」であり、
抗議する気にはならない。
客観的にみればどうしても「単にダメ」なひとにわけられるのだなーと、
納得せざるをえない。
なにかの機会にこうして『負け犬の遠吠え』を手にとると、
あまりにも適切な表現で負け犬と、負け犬をとりまく社会があらわしてあり、
どこをよんでも いまさらながらにおもしろい。
ついあちこちのページをめくることになり、
いたるところにちりばめられた珠玉のことばによいしれる。
今回のあたらしい発見は、「負け犬と孤独」について。
私達は既にわかっているのです。(中島みゆきとユーミンとでは)どちらが本当に孤独であるかはわからない、ということを。そして孤独感と幸福感は、必ずしも相関関係を持ってはいない、ということを。も一つ言うのであれば、幸福であることが良いことかどうかすらも、今となってはよくわからない、ということを。
このおそろしいまでの達観を、これまでわたしはみおとしていた。
この本は、21世紀の名著として、のちの世までかたりつづけられるだろう。
12年もまえに、負け犬といういきものを発見し、
その将来を予測したするどい指摘にたいし、
評価がひくすぎるとわたしはおもう。
出版されてからの時間がすぎてゆくとともに、
ますます酒井さんの先見性におどろかされている。
2015年07月19日
『ホット・ゾーン』(リチャード=プレストン)エボラ出血熱をめぐるノンフィクション
『ホット・ゾーン』(リチャード=プレストン・高見浩:訳・飛鳥新社)
高見浩さんの訳にひかれ、すこしまえに古本屋さんでかっていた。
ミステリーとおもってよみだしたらノンフィクションだった。
エボラ出血熱についてのもので、
映画『アウトブレイク』とはあまり関係ないみたい。
出版されたのは1994年で、20年まえとはいえ、
きょねん西アフリカでエボラの感染がひろがり、
なお完全におさまったとはいえない いま、
じゅうぶん現在ともかかわってくる話題といえる。
エボラ出血熱には4つのタイプがあり、
どれもおそろしいものの、
なかでもエボラ・ザイールは死亡率が90%ときわめてたかい。
いま西アフリカではやっているのは、このエボラ・ザイールだ。
ものがたりは、1980年のケニアからはじまる。
マールブルグ・タイプのエボラにおかされた患者が
エボラの特徴である からだじゅうからの出血で死亡する。
1976年にはエボラ・スーダンが、その数カ月後にエボラ・ザイールが流行し、
数百人の犠牲者をだしてきた経緯がかたられる。
エボラがどれおどおそろしいウィルスかについて、
これでもかと、あちこちに悲惨な描写がある。
エボラのおそろしさを読者にじゅうぶんアピールしておいて、
1989年にアメリカ合州国の検疫所で異変がおきるのが
この本のほんとうのスタートだ。
ワシントンにちかいレストンの町で、
フィリピンから輸入された実験用のカニクイザルが、
原因がわからないままつぎつぎに死んでいった。
しらべるうちに、エボラのなかでも
もっとも感染力のつよいエボラ・ザイールである可能性がたかまってきた。
アメリカ陸軍伝染病医学研究所は、
微生物危険レベル4のバイオハザード対策をすすめる。
微生物危険レベル4というと、
微生物用宇宙服を身につけての作戦であり、
日本人であるわたしには、そのものものしさから
原発事故による放射能汚染をおもいおこさせる。
比喩というよりも、じっさいに放射能のようにやっかいだ。
目にみえないままどこからでもはいってくるし、
発病したサルからいくらでもウィルスは増殖する。
ウィルスに汚染されないよう、何重にも服をきて、テープをはり、
どこにも穴がないかを注意する。
しかし、注射器やハサミなどをあつかっていると、
あやまって自分の皮膚をきずつけかねないし、
サルにかみつかれたり、ひっかかれたりすればまちがいなく感染する。
レストンのカニクイザルは、はなれたオリでかわれていたものが、
おなじようにエボラの症状をおこして死んでいった。
それは、これまでに報告されているエボラとはちがい、
呼吸でも感染する能力があることをしめす。
本の前半で、エボラのつよい感染力と、
発病したときのすさまじさが うえつけられているので、
本編にはいったときのおそろしさがきわだってくる。
本書はノンフィクションであり、
アメリカにエボラの大流行がなかったのはしりつつも、
本をよむあいだじゅう、エボラの恐怖をはだでかんじた。
すこし頭がいたくなっただけで、
なんだかいつもとはちがう病気にかかった気がする。
エボラのふうじこめにかかわった関係者たちが、
どれだけの恐怖とむきあっていたのかをおもいえがく。
さいわいレストンで発見されたエボラは、
サルに壊滅的な被害をあたえるものの、
人間は感染するだけで 発病するにいたらなかった。
しかし、ウィルスはいつべつの方向に突然変異をひきおこすかわからない。
エボラ・ザイールのようにたかい死亡率をひきおこすウィルスが、
さらに空気感染の能力をみにつけたら、世界はどうなるだろう。
飛行機により、世界中をおおくの人間が移動する現在において、
いちど感染がひろまれば、せまい範囲にふうじこめるのまず不可能だ。
未完のベストセラーといわれ、
出版されることのなかった梅棹忠夫氏の『人類の未来』には、
「大流行病時代」という項目がある。
ふつうによめば、地球規模で人類が移動するようになった時代に、
いちど疫病がひろまればどうなるかの予測におもえる。
西アフリカでのエボラ・ザイールは、
いまのところ爆発的な流行にはいたっていないが、
あくまでも「いまのところ」であり 安心が保障されたわけではない。
ウィルスの変異によってはなにがおこるかわからないし、
アフリカのジャングルから、あたらしい病気がみつかるかもしれない。
わたしたちが生きているのは、そんな可能性をひめた世界だ。
エボラ・ザイールは、そのあまりにはげしすぎる症状により
みじかい時間で宿主をころしてしまことから、
爆発的にひろがれず ジャングルにもどっていった「だけ」にみえる。
空気感染の能力をもったエボラ・ザイールがあらわれたとき、
世界はどう対応するだろうか。
さいごに、エボラで死んでいった、
また、感染をふせぐためにころされたサルたちの悲劇をおもいおこしたい。
レストン・モンキー・ハウスでは、450匹もの生きたサルがころされた。
サルの段階で感染がとどまったから よかったといえるのか。
また、レストンだけでなく、
こうした実験用の動物が世界じゅうで苦痛をしいられていることを、
わたしたちはどううけとめたらいいのだろう。
どうしようもない やりきれないおもいが よんだあとにのこった。
高見浩さんの訳にひかれ、すこしまえに古本屋さんでかっていた。
ミステリーとおもってよみだしたらノンフィクションだった。
エボラ出血熱についてのもので、
映画『アウトブレイク』とはあまり関係ないみたい。
出版されたのは1994年で、20年まえとはいえ、
きょねん西アフリカでエボラの感染がひろがり、
なお完全におさまったとはいえない いま、
じゅうぶん現在ともかかわってくる話題といえる。
エボラ出血熱には4つのタイプがあり、
どれもおそろしいものの、
なかでもエボラ・ザイールは死亡率が90%ときわめてたかい。
いま西アフリカではやっているのは、このエボラ・ザイールだ。
ものがたりは、1980年のケニアからはじまる。
マールブルグ・タイプのエボラにおかされた患者が
エボラの特徴である からだじゅうからの出血で死亡する。
1976年にはエボラ・スーダンが、その数カ月後にエボラ・ザイールが流行し、
数百人の犠牲者をだしてきた経緯がかたられる。
エボラがどれおどおそろしいウィルスかについて、
これでもかと、あちこちに悲惨な描写がある。
エボラは、まだ宿主が生きているうちからその肉体組織を大量に破壊してしまう。最初は局部的な壊死としてはじまったものが、やがて内蔵の全域に広がる。肝臓は膨れあがって黄色に変色し、融解しはじめた後に破裂する。破裂は肝臓の表面、並びに内部の奥深くまでに及ぶ結果、機能が完全に停止して、肝臓そのものが腐敗する。腎臓も血栓や死んだ細胞でつまってしまい、やはり機能を停止する。それと共に、血は尿による中毒症状を呈しはじめる。脾臓は脾臓で、野球のボール大の、一個の固い、大きな血栓と化す。小腸にもやはり血が充満する。腸管の内層が壊死し、大腸に流れ込んでから、大量の血と共に便として排出される。
エボラのおそろしさを読者にじゅうぶんアピールしておいて、
1989年にアメリカ合州国の検疫所で異変がおきるのが
この本のほんとうのスタートだ。
ワシントンにちかいレストンの町で、
フィリピンから輸入された実験用のカニクイザルが、
原因がわからないままつぎつぎに死んでいった。
しらべるうちに、エボラのなかでも
もっとも感染力のつよいエボラ・ザイールである可能性がたかまってきた。
アメリカ陸軍伝染病医学研究所は、
微生物危険レベル4のバイオハザード対策をすすめる。
微生物危険レベル4というと、
微生物用宇宙服を身につけての作戦であり、
日本人であるわたしには、そのものものしさから
原発事故による放射能汚染をおもいおこさせる。
比喩というよりも、じっさいに放射能のようにやっかいだ。
目にみえないままどこからでもはいってくるし、
発病したサルからいくらでもウィルスは増殖する。
ウィルスに汚染されないよう、何重にも服をきて、テープをはり、
どこにも穴がないかを注意する。
しかし、注射器やハサミなどをあつかっていると、
あやまって自分の皮膚をきずつけかねないし、
サルにかみつかれたり、ひっかかれたりすればまちがいなく感染する。
レストンのカニクイザルは、はなれたオリでかわれていたものが、
おなじようにエボラの症状をおこして死んでいった。
それは、これまでに報告されているエボラとはちがい、
呼吸でも感染する能力があることをしめす。
本の前半で、エボラのつよい感染力と、
発病したときのすさまじさが うえつけられているので、
本編にはいったときのおそろしさがきわだってくる。
本書はノンフィクションであり、
アメリカにエボラの大流行がなかったのはしりつつも、
本をよむあいだじゅう、エボラの恐怖をはだでかんじた。
すこし頭がいたくなっただけで、
なんだかいつもとはちがう病気にかかった気がする。
エボラのふうじこめにかかわった関係者たちが、
どれだけの恐怖とむきあっていたのかをおもいえがく。
さいわいレストンで発見されたエボラは、
サルに壊滅的な被害をあたえるものの、
人間は感染するだけで 発病するにいたらなかった。
しかし、ウィルスはいつべつの方向に突然変異をひきおこすかわからない。
エボラ・ザイールのようにたかい死亡率をひきおこすウィルスが、
さらに空気感染の能力をみにつけたら、世界はどうなるだろう。
飛行機により、世界中をおおくの人間が移動する現在において、
いちど感染がひろまれば、せまい範囲にふうじこめるのまず不可能だ。
未完のベストセラーといわれ、
出版されることのなかった梅棹忠夫氏の『人類の未来』には、
「大流行病時代」という項目がある。
ふつうによめば、地球規模で人類が移動するようになった時代に、
いちど疫病がひろまればどうなるかの予測におもえる。
西アフリカでのエボラ・ザイールは、
いまのところ爆発的な流行にはいたっていないが、
あくまでも「いまのところ」であり 安心が保障されたわけではない。
ウィルスの変異によってはなにがおこるかわからないし、
アフリカのジャングルから、あたらしい病気がみつかるかもしれない。
わたしたちが生きているのは、そんな可能性をひめた世界だ。
エボラ・ザイールは、そのあまりにはげしすぎる症状により
みじかい時間で宿主をころしてしまことから、
爆発的にひろがれず ジャングルにもどっていった「だけ」にみえる。
空気感染の能力をもったエボラ・ザイールがあらわれたとき、
世界はどう対応するだろうか。
さいごに、エボラで死んでいった、
また、感染をふせぐためにころされたサルたちの悲劇をおもいおこしたい。
レストン・モンキー・ハウスでは、450匹もの生きたサルがころされた。
サルの段階で感染がとどまったから よかったといえるのか。
また、レストンだけでなく、
こうした実験用の動物が世界じゅうで苦痛をしいられていることを、
わたしたちはどううけとめたらいいのだろう。
どうしようもない やりきれないおもいが よんだあとにのこった。
2015年07月18日
『バカをつらぬくのだ!〜バカボンのパパと読む老子・実践編〜』(ドリアン助川)
『バカをつらぬくのだ!〜バカボンのパパと読む老子・実践編〜』
(ドリアン助川・角川SSC新書)
ときどき電話で近況を報告しあう友だちが、
「ドリアン助川をしってますか?」とたずねてきた。
わたしとよくあいそう、といい、
映画の『あん』や、本の『食べる』をすすめてくれる。
図書館にいったら、本書と『バカボンのパパと読む老子』があったのでかりてきた。
この本は老子の全81章のなかから、
これはかかせないという14章をえらび、
わかりやすい解説をくわえたものだ。
全81章については、『バカボンのパパと読む老子』に すべてとりあげられている。
本書はその実践編だ。
ドリアン助川さんの体験談がたくさんもりこまれており、
それが老子のおしえとかさなっている。
・すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる
・無駄と思えることを積極的に生活に取り入れる
・すべての煩悩は所有欲から発している
など、よみやすく、わかりやすい。
わたしはこれまでに老子や、老子についての本を
直接にはよんだことがないけれど、
重要なであいが3どほどあった。
1ど目は、梅棹忠夫さんの『わたしの生きがい論』だ。
人類はこれまで技術の進歩によって
問題を解決しようとしてきたけれど、
そうした科学の進歩そのものが
人類を破滅においこんでいるのではないかという
根源的な疑問を梅棹さんはなげかける。
「モーレツ人間で未来がどこまでもひらけるとおもうのは、
あまいですよ」と梅棹さんはいう。
「いかにしてがんばって仕事をやるかという問題ではなくて、
いかして仕事をやらないですませるか」。
けっきょくはなにもせんほうがいい、
というかんがえ方に 梅棹さんはかたむいていく。
まだ20代前半だったわたしは、
これまできいたことのなかった価値観に、びっくりしてしまった。
こうした梅棹さんの発想は、老子のおしえが参考になっているという。
そしてもうひとつが福岡正信さんがとなえる自然農法とのであい。
人間が世話をやくから農作物がそだつようにいわれているけど、
そんなのはおもいあがりにすぎず、
自然がすべてやってくれる、と福岡さんはいう。
その実践として、福岡さんは たがやさず・肥料をやらず・
草をとらず・農薬をつかわないで お米や野菜をつくっている。
これもまた老子の無為自然とつながっているそうだ。
そしてもうひとつが、本書でもとりあげてある「バカボンのパパ」だ。
わからないなりに、わたしは以前からバカボンのパパをたかく評価していた。
こまかなことにこだわらず、すきなことをやり、
とんでもない結果になっても「これでいいのだ」と、
すべてをうけいれてしまう。
ものすごくえらいひとなのではと、子どものころからうすうす気づいていた。
いまからおもえば、バカボンのパパは老子の実践者だったのだ。
ドリアン助川さんは、第1章で この本の対象となるひとをあげている。
(ドリアン助川・角川SSC新書)
ときどき電話で近況を報告しあう友だちが、
「ドリアン助川をしってますか?」とたずねてきた。
わたしとよくあいそう、といい、
映画の『あん』や、本の『食べる』をすすめてくれる。
図書館にいったら、本書と『バカボンのパパと読む老子』があったのでかりてきた。
この本は老子の全81章のなかから、
これはかかせないという14章をえらび、
わかりやすい解説をくわえたものだ。
全81章については、『バカボンのパパと読む老子』に すべてとりあげられている。
本書はその実践編だ。
ドリアン助川さんの体験談がたくさんもりこまれており、
それが老子のおしえとかさなっている。
・すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなる
・無駄と思えることを積極的に生活に取り入れる
・すべての煩悩は所有欲から発している
など、よみやすく、わかりやすい。
わたしはこれまでに老子や、老子についての本を
直接にはよんだことがないけれど、
重要なであいが3どほどあった。
1ど目は、梅棹忠夫さんの『わたしの生きがい論』だ。
人類はこれまで技術の進歩によって
問題を解決しようとしてきたけれど、
そうした科学の進歩そのものが
人類を破滅においこんでいるのではないかという
根源的な疑問を梅棹さんはなげかける。
「モーレツ人間で未来がどこまでもひらけるとおもうのは、
あまいですよ」と梅棹さんはいう。
「いかにしてがんばって仕事をやるかという問題ではなくて、
いかして仕事をやらないですませるか」。
どうも進歩ではいかんのではないか。(中略)生産しないことがじつはよいことなのかもしれない。一所懸命はたらいて、なにかものをつくるということは、わるいことかもしれない。アクセルをふんで破滅へむかって突進するみたいなものではないか。
けっきょくはなにもせんほうがいい、
というかんがえ方に 梅棹さんはかたむいていく。
まだ20代前半だったわたしは、
これまできいたことのなかった価値観に、びっくりしてしまった。
こうした梅棹さんの発想は、老子のおしえが参考になっているという。
そしてもうひとつが福岡正信さんがとなえる自然農法とのであい。
人間が世話をやくから農作物がそだつようにいわれているけど、
そんなのはおもいあがりにすぎず、
自然がすべてやってくれる、と福岡さんはいう。
その実践として、福岡さんは たがやさず・肥料をやらず・
草をとらず・農薬をつかわないで お米や野菜をつくっている。
これもまた老子の無為自然とつながっているそうだ。
そしてもうひとつが、本書でもとりあげてある「バカボンのパパ」だ。
わからないなりに、わたしは以前からバカボンのパパをたかく評価していた。
こまかなことにこだわらず、すきなことをやり、
とんでもない結果になっても「これでいいのだ」と、
すべてをうけいれてしまう。
ものすごくえらいひとなのではと、子どものころからうすうす気づいていた。
いまからおもえば、バカボンのパパは老子の実践者だったのだ。
ドリアン助川さんは、第1章で この本の対象となるひとをあげている。
社会からはずれるもなにも、すでに場外をさまよってらっしゃるという方。お金には縁がないと思っていたけれど、本当にこれっぽっちも縁がなかったという方。自分なりに正しく生きてきたつもりなのに、夜は寝返りばかり打たれているという方。カラスと会話できる特技があるのに世間ではバカ呼ばわりされているという方。私はそうしたみなさんに、この本を読んでいただきたいのです。わたしはまさにストレートでターゲットととなるお客さんだった。
2015年07月17日
『サッカー日本代表が「世界一」になるための5つの条件』(西部謙司)
『サッカー日本代表が「世界一」になるための5つの条件』
(西部謙司・河出書房新社)
2010年の南アフリカ大会のとき、
岡田監督はベスト4を目標にかかげた。
2014年のブラジル大会では、優勝をくちにする選手もいた。
もちろんまけるつもりで大会にのぞむ選手・監督はいないだろうけど、
あまりにも現実ばなれした「目標」は、ただの夢としかおもえない。
この本は、「ねがい」やジャイアントキリングに運をまかせるのではなく、
どんな条件をみたせば日本がWカップで優勝できるのかをさぐっていく。
Wカップはある意味で特殊な大会といえる。
かならずしもそのときの実力を正確に反映するとはかぎらない。
とおいさきのはなしかもしれないけど、
Wカップでの優勝は、条件さえととのえば日本にもけして不可能ではない。
その条件とはなにか。
・第1章では、Wカップという大会の特徴を整理する。
・第2章では、最近の5大会で優勝した国について、
5つの要素からチームの特徴を分析する。
5つとは、「監督・攻撃力・守備力・組織力・経験」であり、
かれらはどこがひいでていたのかをあきらかにする。
・第3章では、それらの5大会における日本代表の特徴を、
5つの要素からみていく。
・最後の第4章で、どんな条件をみたせば
日本代表がWカップで優勝できるのかについて整理する。
理想論ではなく、「過去の大会を振り返るとそうなる」が
この本のスタンスだ。
逆の発想はよくみかける。
たとえば日本人の特徴にあったサッカーがポゼッションタイプだとすると、
そのスタイルをいかすにはどうしたらいいかを追求する。
強豪国を相手にしたときも、
自分たちのスタイルをつらぬいて、
はでな点のとりあいのすえ かとうとする。
たとえまけても、自分たちのサッカーでまけたのだから
くいはのこらない、というかんがえ方だ。
しかし、この本の目的は
Wカップで優勝するための条件をさぐることにある。
どんなサッカーが日本の理想か、ではなく、
優勝するためにはどんなことが必要か、という発想だ。
いますぐには無理でも、どうやって条件をそろえれば 可能性がでてくるのか。
西部氏が 5つの要素にそって状況をひとつひとつチェックしていくと、
日本がかちのこる可能性がわずかながらみえてくる。
ただまっていても、それらの条件がととのうことはないのだから、
その条件にちかづくためのアイデアも 具体的にしめされている。
たとえば、ゴールキーパーとセンターバックの人材をどう確保していくか。
ポゼッションでだめなときのプランBをどう実現するか。
アジアとWカップとのギャップをうめるために、
どうやって有意義な試合をくんでいくか。
「過去の大会を振り返るとそうなる」と、
データーにかたらせているところが この本のおもしろさだ。
「過去の大会を振り返ると」むかう方向はあきらかであり、
あとはどうやってその条件にちかづけていくかになる。
もちろん優勝への道は、けしてかんたんではない。
しかし、この本のように条件を整理していくと、
「まえがき」にある
がほんとうのことにおもえてくる。
夢ものがたりや理想論ではなく、具体的に条件を整理して
Wカップ優勝への道をしめした本は、ありそうでない。
こんな本がわたしはよみたかった。
「こんな本がわたしはよみたかった」とおもった西部さんの本は、
これがはじめてではない。
わかりやすくて論理的で、わらいがあり、希望がもてる。
現実的で柔軟な発想が日本にあった処方をしめす。
「導き出されるのは、攻めるだけでも守るだけでもダメという平凡な結論である」
「ゼロに抑えてしまえばチャンスはある。
あるいはそうでないとチャンスはない」
さんざんデーターをいじくりまわして、
でてきた結論がこれだからうれしくなる。
サッカー界に西部さんがいてくれて、ほんとうによかった。
Wカップで優勝しても、それで日本のサッカーが完成するわけではない。
そうやって日本のサッカーがあきらかになっていく。
Wカップで優勝するよりも、そのことがもっと大切なのだ。
(西部謙司・河出書房新社)
2010年の南アフリカ大会のとき、
岡田監督はベスト4を目標にかかげた。
2014年のブラジル大会では、優勝をくちにする選手もいた。
もちろんまけるつもりで大会にのぞむ選手・監督はいないだろうけど、
あまりにも現実ばなれした「目標」は、ただの夢としかおもえない。
この本は、「ねがい」やジャイアントキリングに運をまかせるのではなく、
どんな条件をみたせば日本がWカップで優勝できるのかをさぐっていく。
Wカップはある意味で特殊な大会といえる。
かならずしもそのときの実力を正確に反映するとはかぎらない。
とおいさきのはなしかもしれないけど、
Wカップでの優勝は、条件さえととのえば日本にもけして不可能ではない。
その条件とはなにか。
・第1章では、Wカップという大会の特徴を整理する。
・第2章では、最近の5大会で優勝した国について、
5つの要素からチームの特徴を分析する。
5つとは、「監督・攻撃力・守備力・組織力・経験」であり、
かれらはどこがひいでていたのかをあきらかにする。
・第3章では、それらの5大会における日本代表の特徴を、
5つの要素からみていく。
・最後の第4章で、どんな条件をみたせば
日本代表がWカップで優勝できるのかについて整理する。
理想論ではなく、「過去の大会を振り返るとそうなる」が
この本のスタンスだ。
逆の発想はよくみかける。
たとえば日本人の特徴にあったサッカーがポゼッションタイプだとすると、
そのスタイルをいかすにはどうしたらいいかを追求する。
強豪国を相手にしたときも、
自分たちのスタイルをつらぬいて、
はでな点のとりあいのすえ かとうとする。
たとえまけても、自分たちのサッカーでまけたのだから
くいはのこらない、というかんがえ方だ。
しかし、この本の目的は
Wカップで優勝するための条件をさぐることにある。
どんなサッカーが日本の理想か、ではなく、
優勝するためにはどんなことが必要か、という発想だ。
いますぐには無理でも、どうやって条件をそろえれば 可能性がでてくるのか。
西部氏が 5つの要素にそって状況をひとつひとつチェックしていくと、
日本がかちのこる可能性がわずかながらみえてくる。
ただまっていても、それらの条件がととのうことはないのだから、
その条件にちかづくためのアイデアも 具体的にしめされている。
たとえば、ゴールキーパーとセンターバックの人材をどう確保していくか。
ポゼッションでだめなときのプランBをどう実現するか。
アジアとWカップとのギャップをうめるために、
どうやって有意義な試合をくんでいくか。
「過去の大会を振り返るとそうなる」と、
データーにかたらせているところが この本のおもしろさだ。
「過去の大会を振り返ると」むかう方向はあきらかであり、
あとはどうやってその条件にちかづけていくかになる。
もちろん優勝への道は、けしてかんたんではない。
しかし、この本のように条件を整理していくと、
「まえがき」にある
いますぐ可能とは思わない。
ただ、絶対に無理というほどの理由も見当たらない。
がほんとうのことにおもえてくる。
夢ものがたりや理想論ではなく、具体的に条件を整理して
Wカップ優勝への道をしめした本は、ありそうでない。
こんな本がわたしはよみたかった。
「こんな本がわたしはよみたかった」とおもった西部さんの本は、
これがはじめてではない。
わかりやすくて論理的で、わらいがあり、希望がもてる。
現実的で柔軟な発想が日本にあった処方をしめす。
「導き出されるのは、攻めるだけでも守るだけでもダメという平凡な結論である」
「ゼロに抑えてしまえばチャンスはある。
あるいはそうでないとチャンスはない」
さんざんデーターをいじくりまわして、
でてきた結論がこれだからうれしくなる。
サッカー界に西部さんがいてくれて、ほんとうによかった。
Wカップで優勝しても、それで日本のサッカーが完成するわけではない。
1回優勝してもまた必ず負ける。再び優勝できるのは、負け続けても守りたいものがあるチームだ。
そうやって日本のサッカーがあきらかになっていく。
Wカップで優勝するよりも、そのことがもっと大切なのだ。
2015年07月16日
『本の雑誌 8月号』書店のカバーをめぐる宮田珠己さんの遍歴
上半期ベスト10をはなしあう座談会は、
いきなり家庭生活が話題になる。
「上半期ベスト10」といっても、
3人でおすすめ本をだしあって順位をつけるだけだから、
たいしておもみはない。
家にかえるときにネタを用意するこの話題は、
『私と、妻と、妻の犬』(杉山隆男)を紹介するときにでてきた。
こんなところで家庭生活の真髄がポロッとこぼれる。
ひっかかるのは『ウィメンズマラソン』(坂井希久子)の装丁を
杉江さんがよくないといっているところ。
「あの装丁じゃ、買う気にならないですよ」とある。
わたしはこの本をよんでないけれど、
書店でみかけた表紙の絵は気にいっている。
こんなかろやかなフォームではしってみたいとおもうすてきな絵だ。
杉江さんが「買う気にならない」という装丁で、
この本がどれだけうごいているのか しりたくなった。
今月号の「本棚が見たい!」では、
宮田珠己さんの書斎が紹介されている。
本棚を撮影しにきた浜本さん(本の雑誌社)に、
宮田さんの本棚には、
書店のカバーをつけた本がおおいと指摘されたのだという。
宮田さんによると、カバーはまだよんでない本の目印であり、
よみおえてどんどんカバーをはずすのが快感だったという。
以前はまだよんでない本がのこっているのに、
つぎつぎに本をかったりしなかったので、
カバーをつけていても さしさわりなかったのだ。
しかし、本がふえるにつれ、状況がかわってくる。
・よんでいない本がふえると、
だんだん自分が何の本をもっているのかわからなくなる。
・重複してかう事故がふえたため、
ある時点から書店のカバーはしない方針に転換する。
・すると今度は、その本が未読か既読かわからなくなった。
・読んだような気もするし、まだ読んでないような気もする。
・絶対によみたい本はカバーをつけたままにする。
・アマゾンでかった本などははじめからカバーがないので、
いつしかカバーがあったりなかったりの無節操な本棚ができあがった。
・ためしにカバーをはずしてみると、記憶にない本が本棚から発掘される。
・カバーをはずすと、自分の本棚がなんだか新鮮だ。
・カバーがついている本がたくさんあるという浜本さんの指摘は、
これじゃ本棚を撮影しても意味ないよ、という苦情だったのでは、と
やっと気づく。
自分では理屈がとおっているつもりでも、
ひとはときとして ずいぶんわけのわからないことをしているものだ。
いきなり家庭生活が話題になる。
A たとえばね、杉江くんは浮気したことないと思うけど、
家に帰る時に必ずネタを用意しているだろう。
C ネタ?
B そう。今日何をはなそうかみたいなさ。
C 僕、話す気なんかないですよ。
B いや、話さないんで済むんだったら、それが一番だけど、
話さなきゃいけない時があるじゃない。
家に帰った時点で妻しか起きてないとか、目が合っちゃったとか。
いろんな状況でさ。家庭円満のために。
C ないですそんなの。営業じゃないんだから(笑)。
喋んないから円満になるんですって。
A それはちょっと特殊な家庭だと思う。
日本の一般的な家庭はそうじゃないよ。
C そんなこと、あなたたち二人に言われても。
家に帰ってなかった人たちに(笑)。
「上半期ベスト10」といっても、
3人でおすすめ本をだしあって順位をつけるだけだから、
たいしておもみはない。
家にかえるときにネタを用意するこの話題は、
『私と、妻と、妻の犬』(杉山隆男)を紹介するときにでてきた。
こんなところで家庭生活の真髄がポロッとこぼれる。
ひっかかるのは『ウィメンズマラソン』(坂井希久子)の装丁を
杉江さんがよくないといっているところ。
「あの装丁じゃ、買う気にならないですよ」とある。
わたしはこの本をよんでないけれど、
書店でみかけた表紙の絵は気にいっている。
こんなかろやかなフォームではしってみたいとおもうすてきな絵だ。
杉江さんが「買う気にならない」という装丁で、
この本がどれだけうごいているのか しりたくなった。
今月号の「本棚が見たい!」では、
宮田珠己さんの書斎が紹介されている。
本棚を撮影しにきた浜本さん(本の雑誌社)に、
宮田さんの本棚には、
書店のカバーをつけた本がおおいと指摘されたのだという。
宮田さんによると、カバーはまだよんでない本の目印であり、
よみおえてどんどんカバーをはずすのが快感だったという。
以前はまだよんでない本がのこっているのに、
つぎつぎに本をかったりしなかったので、
カバーをつけていても さしさわりなかったのだ。
しかし、本がふえるにつれ、状況がかわってくる。
・よんでいない本がふえると、
だんだん自分が何の本をもっているのかわからなくなる。
・重複してかう事故がふえたため、
ある時点から書店のカバーはしない方針に転換する。
・すると今度は、その本が未読か既読かわからなくなった。
・読んだような気もするし、まだ読んでないような気もする。
・絶対によみたい本はカバーをつけたままにする。
・アマゾンでかった本などははじめからカバーがないので、
いつしかカバーがあったりなかったりの無節操な本棚ができあがった。
・ためしにカバーをはずしてみると、記憶にない本が本棚から発掘される。
・カバーをはずすと、自分の本棚がなんだか新鮮だ。
・カバーがついている本がたくさんあるという浜本さんの指摘は、
これじゃ本棚を撮影しても意味ないよ、という苦情だったのでは、と
やっと気づく。
自分では理屈がとおっているつもりでも、
ひとはときとして ずいぶんわけのわからないことをしているものだ。
2015年07月15日
本屋さんでおもしろそうな4冊をもとめる
きのうは本屋さんにでかけ 4冊の本をかう。
目的としていたもののほかに、おもしろそうな本にであえた。
・『本の雑誌 8月号』(本の雑誌社)
・『サッカー日本代表が「世界一」になるための5つの条件』
(西部謙司・河出書房新社)
・『書店風雲録』(田口久美子・ちくま文庫)
・『たまたまザイール、またコンゴ』(田中真知・偕成社)
『本の雑誌』は毎月かっているもので、
8月号は上半期のベスト10をきめるという特大号になっている。
特集の「人はなぜ本を返さないのか!?」もおもしろそうだ。
『本の雑誌』は、だいたい月の13日前後にお店にならぶけど、
ときには15日をすぎることもある。
あたらしい月のものだとおもって まえの号(つまり2冊目)をかい、
なんどか残念なおもいをしている。
きのうは8月号であることをよくたしかめた。
『サッカー日本代表が〜』は、著者が西部さんだからかった。
「世界一」とは、Wカップで優勝することをいう。
ほかのひとがにたようなタイトルのものをかいても、
いかにもあやしげなので まずかわない。
帯には「無理だという理由は、ない」とある。
西部さんがその方向でかくからには、
きっと正確な理論をつみあげて、
実現への道をしめしてくれるだろう。
気にいったライターがかいたサッカーの本を
わたしはこれまでに100冊くらいよんできたにもかかわらず、
いまだに戦術のことがよく理解できない。
わかろうとするのはもうあきらめ、
サッカーの本からとおざかっていたので、
ひさしぶりかったサッカー本だ。
西部さんによる処方箋がとてもたのしみ。
『書店風雲録』は「本の雑誌社」の杉江さんが
「炎の営業日誌」のなかで
なんてかいているので、かわないわけにいかない。
もっとも、だいたいにおいて、杉江さんはこのように過剰な愛を
うけもった本と作者にささげるひとだ。
それが営業用にわざとおおげさな表現をしているのではなく、
そのつど どこまでも本気なのだからありがたい。
出版する側の人間として、本をつくるたびに、
この本はうれる気がする、とか
すばらしい本ができた、とおおまじめにかける杉江さんの熱意を
わたしは信頼している。
『たまたまザイール、またコンゴ』は
2300円+税なのですこしまよったけど、
田中真知さんのおもしろさをしっているので手にとった。
田中真知さんは、以前『旅行人』のライターとして、
エジプトやブラックアフリカの記事をよせていた。
専門的な知識をたのしい文章にくるむうまさにおどろいたものだ。
いわゆるプロのうでまえで、
旅行者がかいたエッセイとはまるでレベルがちがう。
このひとの本なら、まず期待をうらぎられたりしないだろう。
4冊のどれもがおもしろそうで、うれしくなる。
これらとはまったく関係ないながれで、
『アフリカの日々』(アイザック=ディネーセン)をネットで注文する。
もっているとおもっていたのに本棚になく、
古本屋さんでもなかなかであえない。
手もとにおいて、ひさしぶりによみかえしたくなった
目的としていたもののほかに、おもしろそうな本にであえた。
・『本の雑誌 8月号』(本の雑誌社)
・『サッカー日本代表が「世界一」になるための5つの条件』
(西部謙司・河出書房新社)
・『書店風雲録』(田口久美子・ちくま文庫)
・『たまたまザイール、またコンゴ』(田中真知・偕成社)
『本の雑誌』は毎月かっているもので、
8月号は上半期のベスト10をきめるという特大号になっている。
特集の「人はなぜ本を返さないのか!?」もおもしろそうだ。
『本の雑誌』は、だいたい月の13日前後にお店にならぶけど、
ときには15日をすぎることもある。
あたらしい月のものだとおもって まえの号(つまり2冊目)をかい、
なんどか残念なおもいをしている。
きのうは8月号であることをよくたしかめた。
『サッカー日本代表が〜』は、著者が西部さんだからかった。
「世界一」とは、Wカップで優勝することをいう。
ほかのひとがにたようなタイトルのものをかいても、
いかにもあやしげなので まずかわない。
帯には「無理だという理由は、ない」とある。
西部さんがその方向でかくからには、
きっと正確な理論をつみあげて、
実現への道をしめしてくれるだろう。
気にいったライターがかいたサッカーの本を
わたしはこれまでに100冊くらいよんできたにもかかわらず、
いまだに戦術のことがよく理解できない。
わかろうとするのはもうあきらめ、
サッカーの本からとおざかっていたので、
ひさしぶりかったサッカー本だ。
西部さんによる処方箋がとてもたのしみ。
『書店風雲録』は「本の雑誌社」の杉江さんが
「炎の営業日誌」のなかで
もし私に出版業界に入った意味があるとすれば、それは『書店風雲録』を世に出したことだろう。いや私が生まれた意味と言い直してもいい。家族には私が死んだら棺桶に入れてくれと言ってある。
なんてかいているので、かわないわけにいかない。
もっとも、だいたいにおいて、杉江さんはこのように過剰な愛を
うけもった本と作者にささげるひとだ。
それが営業用にわざとおおげさな表現をしているのではなく、
そのつど どこまでも本気なのだからありがたい。
出版する側の人間として、本をつくるたびに、
この本はうれる気がする、とか
すばらしい本ができた、とおおまじめにかける杉江さんの熱意を
わたしは信頼している。
『たまたまザイール、またコンゴ』は
2300円+税なのですこしまよったけど、
田中真知さんのおもしろさをしっているので手にとった。
田中真知さんは、以前『旅行人』のライターとして、
エジプトやブラックアフリカの記事をよせていた。
専門的な知識をたのしい文章にくるむうまさにおどろいたものだ。
いわゆるプロのうでまえで、
旅行者がかいたエッセイとはまるでレベルがちがう。
このひとの本なら、まず期待をうらぎられたりしないだろう。
4冊のどれもがおもしろそうで、うれしくなる。
これらとはまったく関係ないながれで、
『アフリカの日々』(アイザック=ディネーセン)をネットで注文する。
もっているとおもっていたのに本棚になく、
古本屋さんでもなかなかであえない。
手もとにおいて、ひさしぶりによみかえしたくなった
2015年07月14日
ペンフレンドから「日ペンの美子ちゃん」につらなる一連のおもいで
しりあいとはなしているとき、
わかいころニュージーランドにペンフレンドがいて
手紙をやりとりしていた、というはなしがでた。
そうだ。
むかしは雑誌のうしろのほうなどに
文通相手をもとめるコーナーがよくあった。
わたしはやったことがないけど、
わたしの姉にもペンフレンドがいたし、
しりあいみたいに外国のひとを相手にした文通も
めずらしくなかった。
もうひとつおもいだされるのが、
「日ペンの美子ちゃん」だ。
これは、きれいな字がかけるようになる通信講座のことで、
きれいな字をかけば、こんなにいいことがありますよと、
たいしておもしろくないベタな内容のマンガを
いろんな雑誌のうらでみかけた。
おもしろくないのに記憶にのこっているのは、
それだけしつこくみかけたのと、
わたしが自分のへたな字にたいして
コンプレックスをもっていたからだろう。
ペンフレンドの話題から「日ペンの美子ちゃん」まで、
わたしはひとつづきにおもいだした。
通信講座をうける気にはならなかったものの、
字がへたくそだと、いいことがないのはたしかだ。
いしいひさいち氏みたいに、味のあるヘタウマ文字ではなく、
わたしのはただよみにくく、きたないだけだ。
内容はそんなにわるくないとおもう文章でも、
子どもみたいな字を紙にうめるのは
われながらたのしくなかったし、
よむひとがみくだしたくなる気も わからないでもない。
とくに、わたしはできるだけ漢字をつかわないので、
ひらがなのおおい文章は、ゆたかな知性よりも
漢字のかけない無能さをかんじさせた。
ワープロをみかけるようになったのは、わたしが20代の前半だった。
ワープロといってもソフトのことではなく、
ハードとしてのワープロ専門機だ。
だんだん値段がこなれてきて
わたしも自分の機械がもてるようになると、
わたしのために発明されたとおもうくらいありがたかった。
ワープロでかけば、漢字のすくない文章も、
それなりの主張があってのものにみえる。
ワープロがうちだすひらがなのおおい文章を
わたしは ほんとうにうつくしいとおもった。
ひらがながつづくと、明朝体ではきつくみえる、という知識はあったので、
まるっこいフォントをえらんで手紙をかいた。
職場には、まだワープロが一般的ではなく、
仕事よりも私的な手紙にワープロをつかっていた。
日ペンの美子ちゃんにお世話にならなくても、
わたしはワープロによって へたくそな字のコンプレックスからすくわれた。
履歴書などは、ワープロでの提出をみとめないところがいまだにある。
字がへたくそだと、21世紀になっても差別からのがれられない。
完全に需要がなくなってはいないのだから、
「日ペンの美子ちゃん」も、
あんがいどこかで生きのびているかもしれない。
わたしとしては、きれいな字ばかりにかたよった評価をあたえるよりも、
わかりやすい文章に価値をおく社会であってほしい。
「日ペンの美子ちゃん」は、
わたしには関係ない場所で、ひっそりと活躍してほしい。
わかいころニュージーランドにペンフレンドがいて
手紙をやりとりしていた、というはなしがでた。
そうだ。
むかしは雑誌のうしろのほうなどに
文通相手をもとめるコーナーがよくあった。
わたしはやったことがないけど、
わたしの姉にもペンフレンドがいたし、
しりあいみたいに外国のひとを相手にした文通も
めずらしくなかった。
もうひとつおもいだされるのが、
「日ペンの美子ちゃん」だ。
これは、きれいな字がかけるようになる通信講座のことで、
きれいな字をかけば、こんなにいいことがありますよと、
たいしておもしろくないベタな内容のマンガを
いろんな雑誌のうらでみかけた。
おもしろくないのに記憶にのこっているのは、
それだけしつこくみかけたのと、
わたしが自分のへたな字にたいして
コンプレックスをもっていたからだろう。
ペンフレンドの話題から「日ペンの美子ちゃん」まで、
わたしはひとつづきにおもいだした。
通信講座をうける気にはならなかったものの、
字がへたくそだと、いいことがないのはたしかだ。
いしいひさいち氏みたいに、味のあるヘタウマ文字ではなく、
わたしのはただよみにくく、きたないだけだ。
内容はそんなにわるくないとおもう文章でも、
子どもみたいな字を紙にうめるのは
われながらたのしくなかったし、
よむひとがみくだしたくなる気も わからないでもない。
とくに、わたしはできるだけ漢字をつかわないので、
ひらがなのおおい文章は、ゆたかな知性よりも
漢字のかけない無能さをかんじさせた。
ワープロをみかけるようになったのは、わたしが20代の前半だった。
ワープロといってもソフトのことではなく、
ハードとしてのワープロ専門機だ。
だんだん値段がこなれてきて
わたしも自分の機械がもてるようになると、
わたしのために発明されたとおもうくらいありがたかった。
ワープロでかけば、漢字のすくない文章も、
それなりの主張があってのものにみえる。
ワープロがうちだすひらがなのおおい文章を
わたしは ほんとうにうつくしいとおもった。
ひらがながつづくと、明朝体ではきつくみえる、という知識はあったので、
まるっこいフォントをえらんで手紙をかいた。
職場には、まだワープロが一般的ではなく、
仕事よりも私的な手紙にワープロをつかっていた。
日ペンの美子ちゃんにお世話にならなくても、
わたしはワープロによって へたくそな字のコンプレックスからすくわれた。
履歴書などは、ワープロでの提出をみとめないところがいまだにある。
字がへたくそだと、21世紀になっても差別からのがれられない。
完全に需要がなくなってはいないのだから、
「日ペンの美子ちゃん」も、
あんがいどこかで生きのびているかもしれない。
わたしとしては、きれいな字ばかりにかたよった評価をあたえるよりも、
わかりやすい文章に価値をおく社会であってほしい。
「日ペンの美子ちゃん」は、
わたしには関係ない場所で、ひっそりと活躍してほしい。
2015年07月13日
どんな夏でもアイスがおいしいわけではない
このごろきゅうにあつくなったので、
わすれているひとがいるかもしれないけど、
ことしの5月はいつになくあつい日がつづいた。
もちろん夏のあつさとはレベルがちがうとはいえ、
5月としてはなかなかのものだった。
またあつさがぶりかえしてきたいま、
5月の「デイリーポータルZ」にかかれた記事
「今年の夏は暑い夏?」(古賀及子)をひっぱりだして、
これから本番をむかえるあつさにそなえようとおもう。
http://portal.nifty.com/kiji/150529193670_1.htm
そのまえに、このところ毎年あつい夏がつづくので、
夏はいつもとんでもなくあついもの、と
きめつけてしまいがちだけど、
年によってちゃんとちがいがあることを、
古賀さんの記事から確認しておきたい。
というのは、脳は事実をそのまま記憶するとはかぎらず、
なにかのおもいでとあつさを かってにくっつけたりするからだ。
たとえば、記事によると、きょねんは8月にはいるまでがあつくて、
それ以降はそれほどでもなくなった。
しかしわたしの記憶には、きょねんもまた
とびきりの夏だったとしかのこっていない。
客観的にデーターをみれば、
あつい夏と、それほどでもない夏にばらけているのに、
脳は自分の体験とすりかえて夏を記憶しがちだ。
もっとも、なにをもってあつい夏とするのかは あんがいむつかしい。
いちにちだけの最高気温をとらえるのか、
何ヶ月かの平均をみるのかでもちがってくる。
あんまりこまかいことはいわず、
ことしの夏についての予想を引用すると、
いまのあつさをのりこえたら、
そのあとはそれほどくるしまないふつうの夏であると
記事の予報をしんじたい。
この記事がかかれたのは
「アイスの食べどき予報」が目的だ。
夏のあつさにうんざりするのではなく、
アイスがおいしいすてきな夏ととらえられたら
あつすぎる夏も すこしは余裕をもってむかえられるかもしれない。
がまとめになっている。
たかい意識もながしてしまうくらい
夏のあつさがすべてをきめる。
アイスをおいしくたべるくらいしか、
あつさをやりすごす手はない。
わすれているひとがいるかもしれないけど、
ことしの5月はいつになくあつい日がつづいた。
もちろん夏のあつさとはレベルがちがうとはいえ、
5月としてはなかなかのものだった。
またあつさがぶりかえしてきたいま、
5月の「デイリーポータルZ」にかかれた記事
「今年の夏は暑い夏?」(古賀及子)をひっぱりだして、
これから本番をむかえるあつさにそなえようとおもう。
http://portal.nifty.com/kiji/150529193670_1.htm
そのまえに、このところ毎年あつい夏がつづくので、
夏はいつもとんでもなくあついもの、と
きめつけてしまいがちだけど、
年によってちゃんとちがいがあることを、
古賀さんの記事から確認しておきたい。
というのは、脳は事実をそのまま記憶するとはかぎらず、
なにかのおもいでとあつさを かってにくっつけたりするからだ。
たとえば、記事によると、きょねんは8月にはいるまでがあつくて、
それ以降はそれほどでもなくなった。
しかしわたしの記憶には、きょねんもまた
とびきりの夏だったとしかのこっていない。
客観的にデーターをみれば、
あつい夏と、それほどでもない夏にばらけているのに、
脳は自分の体験とすりかえて夏を記憶しがちだ。
もっとも、なにをもってあつい夏とするのかは あんがいむつかしい。
いちにちだけの最高気温をとらえるのか、
何ヶ月かの平均をみるのかでもちがってくる。
あんまりこまかいことはいわず、
ことしの夏についての予想を引用すると、
増田「今年の夏はおそらく暑くない期間がけっこうあるんじゃないかなあと」
林「え、そうなんですか。Twitterの有名人が今年は暑くなるって書いてましたよ」
増田「暑くならないという根拠はですね、5月に暑かった年トップ5を調べてみたらいずれも夏はそんなに暑くなかったんです。暑い日も涼しい日もちゃんとあるような年でした。今年も5月が暑かったですから、夏に入るとそうでもないんじゃないかなあと」
古賀「気象庁の長期予報的にもそれほど暑くはないだろうというような内容でしたね」
いまのあつさをのりこえたら、
そのあとはそれほどくるしまないふつうの夏であると
記事の予報をしんじたい。
この記事がかかれたのは
「アイスの食べどき予報」が目的だ。
夏のあつさにうんざりするのではなく、
アイスがおいしいすてきな夏ととらえられたら
あつすぎる夏も すこしは余裕をもってむかえられるかもしれない。
林「みんなちょっと天気に流されすぎですよね。意志があるようで受動的に生きてますよね。おもしろいですね」
古賀「みんなしっかり生きているようでそんなことないんですね。高い意識も流されてますね」
がまとめになっている。
たかい意識もながしてしまうくらい
夏のあつさがすべてをきめる。
アイスをおいしくたべるくらいしか、
あつさをやりすごす手はない。
2015年07月12日
減塩だけでも、という現実的な提案を評価する
グノシーにリストアップされるトレーニングや健康についての記事をよむと、
ほんとうにもう、あたりまえなことばかりかいてある。
タイトルはやたらにうまいので、ついひらいてしまう。
たとえば
「アラフォーでも間に合う!年齢を感じさせない美ボディをつくるポイント3つ」。
なにかとおもえば、
・体重だけにこだわってはいけない
・バランスのとれた食事を
・最適な運動はあるくこと
ただそれだけ。
まちがえではないのだろうけど、
おおげさなタイトルのわりにはしょぼい内容だ。
健康についての記事では、
・早期発見のため健康診断を
・適度な運動を生活にとりいれる
・ストレスをためない
・お酒ののみすぎに気をつけ、できれば休肝日を
・タバコをすわない
という指摘をよく目にする。
こうした記事は、あたりさわりのないはなしを
すこしだけいい方をかえ、くりかえしているだけで、
おどろくような内容にであうことはほとんどない。
それらが健康にいいとわかっていても、
かんたんにはまもれない。
そんななかで、このまえよんだ記事は、
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/161235
というところからスタートしていた。
この記事のように、
「いいとわかっていても、なかなかつづけられない」
を基本にすえてあると よむ気になる。
からだにいいかもしれないけれど、
実行が現実的でない対策をならべられるよりも、
これひとつだけでも、という提案のほうがよほどありがたい。
この記事ですすめてあったのは減塩だ。
減塩に気をつけるだけで、いろんな効果を期待できるという。
あれもこれも、ではなく、
なにかひとつやるとしたら減塩を、というすすめに説得力があった。
わかりきった情報を ひとごととしてただ羅列するのではなく、
こんなふうに目標をしめされると、一歩ふみだしやすくなる。
とはいうものの、この記事により わたしが健康に気をつけるようになるか、
というと そういうわけではなく、なにもかわらない。
健康については、できるだけからだをうごかすようにしているくらいだ。
これはもう、健康法というより習慣の問題で、
かりに健康にわるいといわれても、いまの生活はかわらないだろう。
健康診断は、なにかわかるといけないので うけないことにした。
わたしをふくめ、まわりのひとたちも、みんなそれぞれ歳をとった。
いつまでもわかいつもりではいられないことを、
だれもが自分のこととして、うけとめつつある。
そのうちいよいよ老後をむかえるはずだ。
わたしは、げんきだけどお金がない老人になるのか、
そのまえになにかがおきるのか。
どんなおわりをむかえるか、たのしみにしている。
ほんとうにもう、あたりまえなことばかりかいてある。
タイトルはやたらにうまいので、ついひらいてしまう。
たとえば
「アラフォーでも間に合う!年齢を感じさせない美ボディをつくるポイント3つ」。
なにかとおもえば、
・体重だけにこだわってはいけない
・バランスのとれた食事を
・最適な運動はあるくこと
ただそれだけ。
まちがえではないのだろうけど、
おおげさなタイトルのわりにはしょぼい内容だ。
健康についての記事では、
・早期発見のため健康診断を
・適度な運動を生活にとりいれる
・ストレスをためない
・お酒ののみすぎに気をつけ、できれば休肝日を
・タバコをすわない
という指摘をよく目にする。
こうした記事は、あたりさわりのないはなしを
すこしだけいい方をかえ、くりかえしているだけで、
おどろくような内容にであうことはほとんどない。
それらが健康にいいとわかっていても、
かんたんにはまもれない。
そんななかで、このまえよんだ記事は、
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/161235
基本は、バランスのとれた規則正しい食生活と適度な運動。しかし、これをすぐに実行し、かつ継続できる人はそもそも動脈硬化の進行を放置してはいないだろう。
というところからスタートしていた。
この記事のように、
「いいとわかっていても、なかなかつづけられない」
を基本にすえてあると よむ気になる。
からだにいいかもしれないけれど、
実行が現実的でない対策をならべられるよりも、
これひとつだけでも、という提案のほうがよほどありがたい。
この記事ですすめてあったのは減塩だ。
減塩に気をつけるだけで、いろんな効果を期待できるという。
あれもこれも、ではなく、
なにかひとつやるとしたら減塩を、というすすめに説得力があった。
わかりきった情報を ひとごととしてただ羅列するのではなく、
こんなふうに目標をしめされると、一歩ふみだしやすくなる。
とはいうものの、この記事により わたしが健康に気をつけるようになるか、
というと そういうわけではなく、なにもかわらない。
健康については、できるだけからだをうごかすようにしているくらいだ。
これはもう、健康法というより習慣の問題で、
かりに健康にわるいといわれても、いまの生活はかわらないだろう。
健康診断は、なにかわかるといけないので うけないことにした。
わたしをふくめ、まわりのひとたちも、みんなそれぞれ歳をとった。
いつまでもわかいつもりではいられないことを、
だれもが自分のこととして、うけとめつつある。
そのうちいよいよ老後をむかえるはずだ。
わたしは、げんきだけどお金がない老人になるのか、
そのまえになにかがおきるのか。
どんなおわりをむかえるか、たのしみにしている。