2015年08月31日

映画版『マディソン郡の橋』

『マディソン郡の橋』
(クリント・イーストウッド:監督・1995年・アメリカ合州国)

BS朝日で『マディソン郡の橋』を放映していた。
ロバート=キンケイドの52歳という年齢設定にひかれ
(わたしがその年齢になったので)、
きょねん20年ぶりに本をよみかえしている。
映画のほうもみておく気になり、
録画したものを2日にわけてみた。

原作は、とかく賛否がわかれる。
ひとによってはひどい不倫小説となり、
べつのひとにはすばらしい恋愛小説としてよめる。
書評家の目黒考二さんは、
ダンナにはなんの責任もないのに、
るす中にあんなことをされたら 男としてたまらない、
みたいなことをかいていた。
典型的な 不倫小説としてのとらえかただろう。
ひとことでいってしまえば身もフタもないストーリーを、
いかにそうではないようにえがくかが、
小説家のテクニックだ。
うつくしい恋愛小説と とらえたひとがおおかったのは、
それだけじょうずにかかれていたからだろう。
映画版はどんなできだっただろうか。

わたしはだいたいにおいてきれいにだまされる
あつかいやすい観客であり、
この作品もすぐれた恋愛ものとしてみれた。
すくなくとも、フランチェスカのダンナを
気のどくにはおもわなかった。
ただ、どうしてもひっかかるのは
ロバート=キンケイドを演じた当時、
65歳だったうイーストウッドの年齢だ。
本をよみ、52歳のロバート=キンケイドになじんだものには、
あまりにもおじいちゃんすぎた。
初老といっていいあの男性に、
45歳のフランチェスカが恋におちるだろうか。 
それに、イーストウッドはごくふつうのアメリカ人にみえる。
小説でのロバート=キンケイドは
どこか神秘的な雰囲気で、
肉をたべないし、アイスティーへの砂糖もことわっていた
(映画では「もちろん」といって砂糖をいれてもらう)。

ということは、まあこまかなことで、
ひとつの作品としてみれば
ふたりの演技はとても自然だったし、
じょうずにつくられていた。
メリル=ストリープはすこしずつきれいになってゆき、
52歳の男がつよくひかれるほど魅力的だ
(65歳ではどうだろうか)。
彼女が家族をおもって 町にのこる決心をしたのもわかるし、
ロバート=キンケイドに
ついていきそうになった気もちにも共感できる。
不倫だからいい・わるいときめつけられるほど、
うすっぺらな作品ではなく、
じゅうぶんにリアリティがあった。
小説と映画とはべつものであり、
それぞれによさがある。

なにか参考になる口説きのテクニックは、とみていたけど、
運命によってであったふたりなので、
とくに技巧をこらしてはいなかった。
どちらかといえば、フランチェスカの積極性がめだち、
ロバート=キンケイドのほうは、
ながれにのったようにみえる。

posted by カルピス at 18:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月30日

『デイリーポータルZ』の「ハトマスクの故郷に行った」がすばらしい

『デイリーポータルZ』にのった、林雄司さんの記事
「ハトマスクの故郷に行った」がすばらしい。
http://portal.nifty.com/kiji/150825194382_1.htm
「ハトマスク」とは、林さんがなにかというとかぶっている
ハトの顔のマスクだ(そのままだけど)。
このマスクは、シアトルのアーチーマクフィーという
雑貨屋さんがつくっているもので、
「ハトマスクの故郷」であるそのお店を、林さんがたずねた。

林さんがこのお店にはいると、
林さんの似顔絵がかかれたウェルカムボードが
いきなりおいてあった。
林さんがかいた「ハトになりました」
「ハトナイト」(たくさんのひとがハトマスクをかぶるイベント)
の記事をよんだアーチーマクフィーのデイビッドさんが
大歓迎してくれたのだ。

アーチーマクフィーは、雑貨屋さんというしかないけど、
ハトマスクだけでなく、
なんのためにつくったのかわからないような
へんなおもちゃばかりをあつかっている。
たとえば
・ヨーデルピクルス(ピクルスの形をしたおもちゃのボタンをおすと、
 ヨーデルがながれる)
・ハンドパンツ(どうみてもパンツにしかみえない手袋)
・フィンガーモンスター(指人形にモンスターがついている)
など、
実用性はまったくないけど、
おかしくてへんな雑貨ばかりだ。
そのすべてがオリジナルというのがすごい。

デイビッドさんがお店を案内してくれる。
林さんとデイビッドさんは、
みるからに意気投合というかんじで
とてもたのしそうだ。
海をへだて、形はちがえども、
まったくおなじ精神で活動しているふたりが
「故郷」にかえるように ようやくであったのだ。

ハトマスク以外の活動もしってもらおうと、
iPadで林さんの作品をみせると、
デイビッドさんからは ”very similar” という感想をもらった。
「そう!僕もそう思っていたんだ。それが通じて本当に嬉しいよ。僕はアーチーマクフィーを尊敬しているし、遠くはなれた場所で同じ思いをもった人に出会えて嬉しい」
と言いたかったがどう言っていいのかよく分からなかったので、 I think so too. と力強く言っておいた。

わたしはふかく感動した。
林さんとデイビッドさんの表情をみると、
民族のちがいやことばの壁など すこしもかんじさせず、
同士にであえたよろこびに みたされている。
それぞれがかってに すきなことをすきなようにつづけてきたら、
おたがいが非常によくにた地点にたどりついていた。
ローカルなものがグローバルにつながる、
なんてこととはすこしちがう
世界性というか 国境のなさが、ものすごくうれしい。
インターネットでおかしなことをしていたら、おかしなものを売っているシアトルの店に出会って、実際に行ってみたら愉快な人たちに歓迎された。
変なものを作って笑っていたいという思いだけで世界が広がったのだ。
帰国して1週間以上経つが、まだ嬉しさがこみ上げてくる。

清志郎が「わかってもらえるさ」でうたっている。
気の合う友だちって たくさんいるのさ 今は気付かないだけ
街ですれ違っただけでわかるようになるよ

世界には、わたしの仲間がきっといる。
林さんとデイビッドさんがシアトルでであえたように。

posted by カルピス at 13:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月29日

イノシシよけの電気柵をはる

田んぼのまわりにイノシシよけの電気柵をはる。
せっかく穂がでてくれたのに、
柵をはる手間をおしんで
イノシシのおやつになるのはいやだから。
たいした数の穂でないといえ、
もしイノシシがみのがしてくれなかったら、
収穫がゼロになるかもしれず、
「あれれ〜」でおわるのは残念すぎる。

電気柵はこのへんではホームセンターでもうっている。
わたしひとりでは、きっとくみたてられないだろうから、
しりあいの電気屋さんにおねがいした。
田んぼ1周が100メートルちょっとあり、
線を2段にはると3万4000円になった。
米がとれる量からすると、ずいぶんたかくつく かいものだ。

電気柵は単一電池8個をつかい、
8000ボルトの電流がながれるそうだ。
もしさわれば、ビリっというよりも、
ズドン!ときます、といわれる。
わたしは静電気でも苦手なので、
8000ボルトというとなんだかおっかない。
もちろん、ショック死するような電流ではなく、
イノシシに不愉快な体験をしてもらい、
それで田んぼにちかづくのを こりてもらおうという装置だ。
夜だけ電気がながれるようにも設定できる。
その場合、120日も電池がもつというから、
いちど柵をつければ、あとはそうお金がかからない。
トタンや金網で田んぼをかこう方法もあるけど、
電気柵のほうがかんたんなので、こっちをえらんだ。
電気柵.jpg
手つだってくれた電気屋さんが、
自然農法による米づくりをめずらしがって
いろいろたずねてくる。
イネのそだちかたが田んぼの場所によってちがうのはなぜか
(アゼにちかいところはよくそだち、
 田んぼのまんなかは極端にわるいのをみて)、
穂が白くなってるのは病気ではないか。
わたしには、なにもこたえられない。

夕方に、電気屋さんから電話がかかってきた。
ネットでしらべると、水温がひくい場所では生育がわるくなるそうで、
わたしの田んぼに 生育のムラがでているのは、
そのせいではないかという。
そういえば、田んぼに水をはるために、
ずっと水をかけっぱなしにしており、
その水は長靴をはいていても
はっきりちがいがわかるほどつめたかった。
そんなつめたい水を、
ずっとかけられていたのだから、
水のとりいれ口にちかい場所のそだちがわるくなるのは
ありえそうだ。
5年計画の1年目とはいえ、
原因がわからないいと、つみあげができず、
来年もまたおなじ失敗をくりかえしたかもしれない。
いつもネットをみてるのに、
そだちのわるさをネットでしらべるという発想が
わたしにはなかった。
わざわざしらべ、おしえてくれた電気屋さんの好意がうれしかった。

田んぼの状態を高校のときの先生に報告したとき、
いくつかの穂が白くなっているとつたえた。
先生によると、ニカメイチュウという虫のせいらしい。
自然農法をこころざしているので、
虫がでたからといって農薬にたよるつもりはない。
ニカメイチュウもいるだろうけど、
それをおさえる虫もまたでてくるので、
全体としてはバランスがとれる、
というのが自然農法のかんがえ方だ。
1年目なので、田んぼの虫たちもまだおちつかないのだろう。

電気柵をはり、みかけはりっぱな田んぼになったけど、
しらないひとには、イノシシがすでにはいって
宴をひらいたあとにみえるだろう。
それぐらいスカスカで、ありえない状態の田んぼだ。
最終的な収穫量は どれくらいになるだろうか。

posted by カルピス at 20:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月28日

神前結婚の起源と出雲大社の戦略

「ブラタモリ」で出雲大社をとりあげていた。
島根県の知名度はひくくても、
出雲大社の名はよくしられているときく。
とはいえ、地元民といえども、出雲大社について
それほど正確な知識があるわけではない。

番組では、出雲大社が有名な観光地となった理由に焦点をあて、
本殿のほかに、ふるいまちなみや大社駅をとりあげていた。
出雲大社といえば縁むすびの神さまだ。
神在月にあつまった日本中の神さまたちが、
だれとだれをむすびつけようかと、相談するというのだから
おおくのひとが気をひかれるだろう。
昭和40年代は、大社駅を年間100万人以上のひとが利用していたそうだ。
座席におさまらない旅客たちが、
車輌につかまった状態ではしるので
(インドみたい、と番組でもいっていた)、
やってくる列車が 駅からはまるくみえたというからすごい。
出雲大社へも、年間300万人がおとずれている。
そのころをピークに 参拝客がだんだんへって、
平成2年(1990年)に大社駅は廃止となる。
わたしがしっている出雲大社は
閑古鳥のなく、このシャッター街時代がイメージされている。
参道をあるいてもおもしろくないし、
おもしろくないから わざわざいかない。
危機感をもった町が
平成の大遷宮にあわせて再開発をめざし、
また800万人までもりかえしたたという。

梅棹忠夫さんの『日本探検』に、
出雲大社がおさめられている。
「ブラタモリ」をきっかけによみかえしてみた。

すこしまえに、皇室の典子氏と千家国磨さんが
出雲大社で結婚式をあげて話題になった。
このように、神前結婚をするひとがいるいっぽうで、
ふるめかしさをきらったわかものたちは、
人前結婚として、神さまがたちあわない形式をえらんだりする。
そっちのほうがあたらしいような気がするけど、
梅棹さんのしらべによると、
神前結婚のまえはどんな形式だったかというと、
それがなんと人前結婚なのだそうだ。
神前結婚というのはけっして伝統的な結婚式の形式ではないのである。むしろ、これこそはあたらしい結婚式のやりかたとして、とくに戦後にさかんになった形式であるとさえいえる。

あたらしいつもりでとりいれたら、
じつは逆もどりしていただけ、
というはあんがいよくあるはなしだ。
その、ふるいようであんがいあたらしい神前結婚を
だれがひろめたかというと、
それが出雲大社(の千家)だったというから
非常によくねられた戦略といえる。
さきほどかいたように、
出雲大社といえば だれもが縁むすびをおもいうかべる。
縁をむすばれたふたりが結婚するときに
神前結婚として出雲大社をつかってもらえば
出雲大社の将来はあかるい。

神前結婚というと、
わけがわからない動作をうやうやしくすすめるので、
なんだかうさんくさいものをかんじていたけど、
歴史としてはそうふるくない。
いろんなひとが、いろんな事情で
もっともらしい形式をつくりあげたのであり、
需要があれば供給の仕方は、これからもかわっていきそうだ。
神さまのありかたをかえるのは、人間の都合というのがおもしろい。

posted by カルピス at 16:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月27日

「文章をかくのは 女のひとを口説くのと一緒」という村上流テクニックに感心する

本屋さんで『村上さんのところ』を ほんのすこしたちよみした。
ネットに公開されたとき、気になる相談・回答は、
エバーノートにクリップしてある。
紙の本のできぐあいをみてみるか、という
余裕のたちよみだ。
でも、というか、さすがというか、
よみだすと どれもおもしろい。
ごくはじめのほうのページに
「文章を書くのが苦手です」という相談があり、
それにたいして村上さんは
文章をかくのは、女のひとを口説くのと一緒で、ある程度は練習でうまくなれるけど、基本的にはもって生まれたものできまります。
と身もフタもないこたえをしている。

家にもどってエバーノートを確認したら、
この相談はとりこんでなかった。
ネットでみたときには、
さほどたいした内容ではないと
無垢なわたしはスルーしたようだ。
文章は練習であるていどうまくなるだろう。
そして、そのさきがセンスの問題になるのは、
いわれなくてもわかる。
しかし、よくかんがえてみたら、
たいていのことが
「ある程度は練習でうまくなれるけど、
 基本的にはもって生まれたものできま」るのではないか。
そこにあえて口説くテクニックをたとえにもってきたのが
村上さんのうまさだ。

べつのひとが、
「(自分は女なので)女の人を口説いたことがありません」とかいてくると、
男になって、自分が女性を口説いているところを想像してみてください。あなたは女性だから、男の人にどんな風に口説かれたら「落ちちゃう」か、だいたいわかりますよね。そういうところを想像するんです。英語で言うseduceです。誘惑して、こっちに引っ張り込んで、ものにする。たらしこむ。基本的にはそういう具合に文章をかけばいいんです。
というのだから、説得力がある。
とはいえ、
「誘惑して、こっちに引っ張り込んで、ものにする。たらしこむ。
 基本的にはそういう具合に文章をかけばいいんです」
といわれても、口説きにおいて低レベルのわたしには
なんのことかピンとこない。
「こっちに引っ張り込」むのが大切なのは わかるような気がする。
しかし「たらしこむ」となると
わたしのとぼしい経験ではどうにもならない。

文章と口説くのがおなじなのだから、
女のひとを口説くのも
「ある程度は練習でうまくなるけど、
基本的にはもって生まれたものできまる」
ことになる。
「ある程度」のテクニックにひっかかってくれるひとは、
どの程度の女性なのか。
わたしはちゃんと女性を口説いたことがあるのか。
それは、練習によってだんだんうまくなったテクニックなのか。
もって生まれた限界をかんじたことがあったか。

どのといかけも、いまのわたしにはカスミがかっていて
うまくこたえられない。
なんとなく総括してみると、
どうも文章ほどに口説くテクニックを
わたしは意識したことがなく、
そのため村上さんのたとえをよく理解できない。
わたしには、さきをよみすぎて めんどくさくなるところがある。
その結果「ま、いいか」と、口説くまえに
あきらめてばかりの人生だったのではないか。

口説きと文章を「一緒」だというのだから、
村上さんはさぞかしたかいレベルの「たらしこみ」を
会得されてるのだろう。
著書をよむと、
たとえば『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では、
図書館のカウンターで
もちだし禁止の本をかりさせて、なんて
むちゃなおねがいをする。
ためらう女性に「私」はつよくたたみかけて、
けっきょく自分ののぞみをとおし、
お礼にサーティーワンアイスクリームをプレゼントする。
すこしあとで、さらには一角獣についてしらべてほしいと電話でもとめ、
その本を家までもってきてくれと無理をいう。
それがぜんぶとおってしまうのだから、
口説きの上級者はさすがにちがう。
「ま、いいか」なんてあきらめていないで
なんでもやってみるものだ。
もっとも、わたしが図書館につとめる女性に、
もちだし禁止の本を
「たった一日だけだよ。そんなのわかりゃしないさ」
なんていったところで、つめたくあしらわれるにきまっている。
わたしは、いつまでたっても
うまくたらしこめるような気がしない。
もって生まれたなにかに 問題があるみたいだ。

posted by カルピス at 15:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月26日

『命を弄ぶ男ふたり』劇団ハタチ族には台風でもお客があつまる

劇団ハタチ族の公演『命を弄ぶ男ふたり』をみにいく。
月にいちどでかけることで、応援になればという気もちと、
きのうは台風が直撃するおそれがあり、
お客さんがゼロになるのを心配したためだ。
夜なのに、台風のため 異様にあかるい空をながめながら
チェリバホールへいそぐ。

わたしとおなじように、
365日連続公演がとだえるのを心配する
ファン心理がはたらいたようで、
いつもとおなじくらいの11名という客数だった。
まえの列にすわっている男性ふたりは
「劇団ハタチ族は雲南市にもっと応援されたいんです。」
というTシャツをきている。
熱心なファンなのだろう、さかんに写真をとっておられた。
「もっと応援されたいんです。」というのだから、
いまの状態に満足していないわけで、
でもこうやって台風の日にかけつけてくれるファンがいるのだから、
そこそこ雲南市に根づいているともおもわれる。

劇の内容は、鉄道自殺をこころみようとする男性ふたりのやりとりだ。
ときどき汽笛とともに夜汽車がとおりすぎていく。
そのあいまに、
なぜ死をのぞむのか、とか、
あなたはわたしの気もちがぜんぜんわかってない、
といったやりとりがまじる。
はじめは、自分をさきに死なせてくれ、
と死にたがっていたのに、
だんだん会話がもつれていって、
あなたがさきにとびこめばいい、
わたしはそれをみとどけるから、みたいに
ゆずりあい、相手をけしかけたりと、
すこしずつ状況がずれていく。
ポツリポツリ汽車がやってくる間あいと、
汽笛の音が効果的だった。
ロシアの小説を、漱石の時代の日本人が演じたら
こんな劇になるのでは、なんておもった。

劇のあと、出演した西藤さんと井上さんが
おわりの挨拶として ふたたび舞台にあらわれる。
いつもなら劇についてはなすところを、
きのうは台風を心配して
「きょうはもうすぐかえりましょう」と
西藤さんがいう。
アンケートなんかいいので、
写真撮影だけ協力してもらい、
あとはすぐかえりましょうとせきたてる。
ほんとに台風のためなのか、
劇についてはなしたくないのかはわからない。
わらえる内容の劇ではないけれど、
みているうちに、それなりにひきこまれていく。
こうやってあたらしい劇にいどみながら、
団員が総合的なちからをつけていくのだなー、
とおもいながらみた。
気合のはいった井上さんの表情と、
台風にもかかわらずひとがあつまるハタチ族として、
印象にのこる夜だった。

posted by カルピス at 11:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月25日

おくれて映画館にはいるのは、どこまでみとめられるか

県民会館での映画上映会にでかける。
映画がはじまってからも、
とちゅうから入場してくるひとがいる。
それをわざわざ職員が誘導し、あいた席に案内する。
席をさがしてうろうろされるよりも、
そうやって案内するほうが、
まわりに迷惑にならないという判断だろう。
まったく余計なお世話だ。
あとからはいるひとがどれだけこまろうと、
上映時間におくれたほうがわるいのだから しかたがない。
そもそも、おくれてはいるなんて、みとめなければいいのだ。

きょうは3組がおくれてはいってきた。
この上映会はいつもそうだ。
おくれたひとがいつまでもダラダラはいってきて、
さきにみていたほうが我慢しなくてはならない。
映画をみているときに、
とちゅうからはいってくるひとがいたら 気がそがれる。
おくれて席についたひとは、しばらくゴソゴソするので
それもまた興ざめだ。
40分たってもまだ案内すので腹がたってきた。
映画がたいしておもしろくなかったこともあり、
45分で会場をでて、出口のところにいた職員に
とちゅうからの入場について苦情をいう。

館の方針で、映画がはじまって何分たとうが、
その客がはいりたければ案内するのだそうだ。
できるだけしずかに誘導しますので、ご協力ください、という。
さきに席についている客の気がそがれるといっても、
ご理解くださいの一点ばり。
せめて時間をきめ、たとえば
10分すぎての入場はみとめないようにしたら、といってもだめだ。
なんであとからきた客のために、
時間どおりにきていたものが我慢しなくてはならないのか。

おくれてきた客にたいし、どんな対応がただしいか、
いちがいにはいえない。
民族性・地域性もあるだろうし、時代によってもちがいそうだ。
けっきょくは主催者が、その映画会をどんな会にしたいかによる。
その映画館が、どんなお客さんを対象とかんがえるか。
映画を厳密にとらえ、すこしでもおくれたらだめなところもあるだろうし、
ゆるゆるの規則にして、お客さんの敷居をひくくするかんがえ方もある。
わたしがすきな「劇団ハタチ族」は、
「なんでもありですよ」というやり方だ。
お客さんはなにをしてもいいそうで、
携帯電話をつかってもいい、といっていた。
そうやって「なんでもあり」とすべてをみとめ、
自分たちの演じる劇は、お客たちが真剣にむかいあうに値するかどうか、といかけているのだ。

島根県民会館の方針は、客がおくれてはいったとしても、
映画をみる権利を保障しようというものだ。
それはそれですばらしいけれど、
どうしてもさきにすわっていたひとには迷惑がかかる。
映画がはじまるまえに、おしゃべりはやめてとか、
携帯電話の電源をきれとかのマナーをもとめるのだから、
おくれてきた客にも それ相応の協力をもとめたらいいのにと わたしはおもうけど、
島根県民会館は、そうかんがえない。
わたしのまえにある選択肢は、
こまかいことはいわないで我慢するか、
自分にあわない会だとわりきって 会員をやめるかだ。

こうした苦情はどう処理したらいいのだろう。
出入口にいた職員に わたしのかんがえをつたえるだけでなく、
事務局にも抗議したほうがいいのかもしれない。
おくれてきた客への対応が すぐにはかわらなくても、
そうした「親切」に不満をもつものがいることをつたえられる。
こんな理由で会をやめるひとがいることを
事務局がしるのにも 意味がありそうだ。
わたしとしては、おかしな「サービス」への不満がたかまって、
会員がどんどんへればうれしいけど、
ちかい将来には ありそうにない。
おくれて映画館にはいらないという「常識」は、
どれだけ共通の認識なのだろう。

映画館とちがい、県民会館での上映会は、
まったく情報をもたない作品や、
めずらしい作品をみせてくれるので、
月にいちどの上映をわたしはたのしみにしていた。
でも、いやなおもいをしてまでいくことはないので、
会員をやめることにする。
できるだけ機嫌よくすごすためには、
自分にあわないものとは かかわらないほうがいいだろう。
会の方針が、わたしのかんがえとはちがっていたと、わりきるしかない。

posted by カルピス at 18:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月24日

『独りだけのウィルダーネス』(リチャード=プローンネク)アラスカの原野にひとりでくらす

『独りだけのウィルダーネス』
リチャード=プローンネク著 サム=キース編
吉川竣二訳・東京創元社

アラスカの原野で1年3ヶ月くらした男性の記録。
丸太小屋をつくり、野菜をそだて、木の実をひろう。
原野の自然を尊重しながらの
おちついたくらしぶりが魅力的だ。
最小限のものでやりくり姿勢が気もちいい。
もってきた道具だけでなんでもつくってしまい、
その充実感を大切にしている。
道具といっても、エンジンのついたものはつかわない。
チェーンソーもなく、丸太小屋をつくるのは、
のこぎりで木をきりだすことからはじめる。
板が必要なときは、ふとい丸太をのこぎりでひく。

完成した丸太小屋を写真でみると、
こまかなところまで ていねいにしあげられている。
とりあえずの仮ずまいではなく、大工さんの仕事だ。
ひとりでなんでもできないと、原野ではくらしていけない。
丸太小屋が完成すると、つぎは食料貯蔵庫だ。
やらなければならない仕事がいくらでもでてくる。
自分で計画し、行動にうつし、完成させる一連のながれに
著者はふかい充実感をあじわう。

9月には、もう氷点下の日がやってくる。
真冬にはマイナス48℃までさがった。
そういえば、酒をのむ記述がない。
もともとのまないひとなのか、
きびしい環境のもとに酒をもちこんだりしたら
なにがおこるかわからないからだろか。
お皿あらいはどうしてたのか、
お風呂は、洗濯は?
こまかいことが気にかかる。
お風呂はときどきからだをふけばいいし、
洗濯するほど服がよごれないのかもしれない。
トイレはもちろんある。
トイレットペーパーがリスにいたずらするので、
ロールにカバーをかける場面がでてくる。

アラスカでのくらしをはじめるにあたり、
著者はなにがおきても 運命をうけいれようときめている。
もし、ここで暮らしている間に重病に罹ったらどうしようかと、私はよく考えた。(中略)きりなく湧いてくるそういう類の不安は、すぐに心から追いたてることにした。なぜ、まだ現実に起こってもいないことについて思いわずらわなければならないのか?(中略)山に棲む大型の動物たちがそういう目にあった時するように私もすればいいのだ。即ち運命を甘受すること。山の中で朽ち果てること。

また、著者は自分のほうがこの土地ではじゃまものなのだという態度をくずさない。
いたずらずきのレッド・ラント(大型のハト)に
貯蔵庫をあらされて、寝袋をズタズタにされても、
彼のいたずらの後始末にどれだけ手間をとらされたことか。(中略)私はそれに耐えて彼にもう一方の頬を差し出してやろうと思う。なんといっても、彼のほうがこの土地の先住者なのだ。この土地の生態系を構成する有力な一員として尊重してやらなければならないと思う。

この謙虚さがあるから、著者はみちたりた気もちでくらせるのだろう。
自分がすべてをきりひらけるとうぬぼれず、
自然とともにあり、自然にいかされているとおもえるから、
動物たちを尊重し、あとからくるものにやさしくできる。
かといって、あまいヒューマニズムはもちこんでいない。

熊におそわれたカリブーが、
自分の子をたすけようとオトリに.なり、
熊をひきだして どこかへいってしまった。
とりのこされた子どものカリブーを
著者はそだてようとする。
メイと、名前もつけたのに、
しかしカリブーはつぎの日に死んでしまった。
著者は、カリブーの子の皮をはぎ、
あらって塩をすりこむ。
名前までつけたカリブーでも、
感傷的にならずに皮をいかそうとする。

自分が生きるのに必要なときは
ほかのいのちをいただく。
そうでなければ不必要な殺生はしない。
肉は、カリブーや羊が森にたくさんいるけれど、
1年のあいだに著者が猟をしたのは1どだけだ。
あとはほかのハンターがおいていった獲物や、
オオカミがのこした肉でまかなっている。

こんな本がよんでみたい、という
まさにそんな本だった。
だれにでもできるくらしではない。
技術的なハードルにくわえ、
謙虚な自然観がなければ
こころゆたかにはすごせないだろう。
著者でなければ実現できなかった すばらしい記録だ。

posted by カルピス at 14:49 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月23日

波平さんの54歳におどろく

ラジオをきいていたら、
「波平は54歳で、フネは48歳」といっていた。
「サザエさん」一家のことだ。
そんなにわかかったのか、と一瞬おもった。
アニメでの波平さんは 威厳のある初老の男性で、
一家の主とか、家長とかいうことばをきくと
波平さんがあたまにうかぶ。
まだ54歳でしかなかったのだ。
でも、よくかんがえてみたら
小学生の子どもが2人いるのだから、
「初老」ではこまるだろう。
28歳で結婚し、長女のサザエさんが生まれたのが33歳のころで(推定)、
10年あいだをおいてカツオ・ワカメが生まれたとかんがえると、
波平さんの54歳は妥当なところだ。
『マディソン郡の橋』のロバート=キンケイドもおなじ年齢で、
54歳といってもずいぶん「男」としてのイメージがちがう。
(あとになって、ロバート=キンケイドは52歳だったことに気づきました。
 訂正いたします。)

関係ないところでは、
鷹の爪団の総統が55歳で、
波平さんより1歳としうえは納得できる。
吉田くんは小学生みたいにみえるけど、21歳。
これだけみかけと実年齢がちがってくると、
年齢とはいったいなにか、なんてかんがえたくなる。
かんがえても こたえなんかでないけど。
はじめて「秘密結社鷹の爪」をみたとき、
このヘタウマな絵が、うまくなったらおわりかも、とおもった。
テキトーにかいてあるようにみえて、なんとなくまとまっている、
そのビミョーな完成度がこの作品の生命線ではないか。
たしかめるため、ユーチューブにアップされた
第1話「参上!鷹の爪団」(2006年)をみると、
いま放映中のシリーズとほぼおなじ絵がでてきた。
むかしがすぐれていたのではなく、
いまのひくさをたたえたい。
10年も作品の質を「ひくく」たもつのは、
だれにでもできることではない。
もちろん吉田くんも21歳のままだ。
世界征服をたくらみながら
デラックスファイターにはばまれるという
基本的なながれを いまもたもったまま
おなじメンバーがおなじ失敗をくりかえし、
それでも作品がつくりつづけられるという、
まるで「サザエさん」みたいな存在になりつつある。

年齢がわかりにくいのがルパン三世で、
わかそうでもあるし、けっこうおじさんにみえるときもある。
だれにきいても自分より年上とこたえると、
『カリオストロの城』を監督した宮ア駿さんがはなしていた。
「まだかけだしのチンピラだった」と
はじめてカリオストロにしのびこんだときの失敗を
ルパンがおもいおこす。
そのときおさなかったクラリスが、
伯爵と結婚するために 修道院からもどってきた。
10年ばかりの空白をおいて、
ふたたびルパンはカリオストロにやってきたことになり、
おそらく30歳くらいなのではないか。

うまいとおもわせるのが銭形警部の年齢設定で、
ルパンが「さすが昭和ひとけた」と
警部の勤勉ぶりをからかっていることからすると、
この作品がつくられたときの銭形は50歳前後となる。
ベテラン警部としての経験をつみ、
それにともない頑固さが身につき、
まだなんとかからだがうごくさいごの年代。
そのあせりと充実がごちゃまぜになってるのが
カリオストロでの銭形警部ではないか。
30歳のルパンが、安心してからかえるのは
この年代くらいのおやじがふさわしい。
きちんとした世界観をもつ作品にしあがるには、
メンバーの適切な年齢設定が意外と重要だ。

posted by カルピス at 11:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月22日

独創的かどうか 梅棹忠夫・中尾佐助にみる実証主義

梅棹忠夫さんの最後の著作となった
『山をたのしむ』(山と渓谷社)をときどきめくる。
山をめぐる仲間たちとの交流のなかで、
中尾佐助氏の実証主義ぶりが紹介されている。
かれはおどろくべき実証主義者で、自分の目でみたことしか信用しないのである。この気風は今西錦司先生の門下生には共通のものであるが、中尾に本でよんだ知識などをふりまわすと、たちまちやっつけられるのである。「君はそれを自分でみたのか」とやられて、「だれそれの本に書いてあった」というと、そこで「へへん」とやられるのである。(中略)
中尾は他人の言説に対して辛辣な批評家だった。たとえば、和辻哲郎氏の『風土』は、一般にはしばしば名著といわれているが、中尾にいわせると、まったく一顧の価値もないものだった。「どうしてあんなまちがいをやってしまったんだろう」というのである。わたし自身もこの本についてはきわめて批判的なのだが、中尾の批評はいっそう辛辣をきわめていた。

『風土』という有名な名前をきくだけで、
わたしは はじめから名著だときめこんでしまいがちだ。
わたしはこの本をよんでも、なんのことかよくわからなかった。
それなのに、わからないのは、自分の理解に問題があるとおもった。
中尾さんは、自分の目でみたこと、
それにもとづき 自分でかんがえたことに
絶対の自信と価値をおいていたのだろう。
『風土』はまちがいだと、
これだけきっぱりいえるのがすごい。

中尾さんの実証主義におどろいてみせる梅棹さんも、
わかいころはそうとうきびしい批評家だった。
『梅棹忠夫語る』のなかで、丸山真男さんが公演しているとき、
梅棹さんが途中で席をたち、でていったはなしを
小山さんがききだしている。
ああ。「こんなあほらしいもん、ただのマルクスの亜流やないか」って。そのときも桑原(武夫)さん、「ああいうことやっちゃいかん。あれは、東京で 偉いんやぞ」って(笑)。実はあとでわたしは丸山真男と親しくなった。ものすごく陽気でいい人物だった。おもしろい人やったね。でも、話はつまらん(笑)。 あんなものは、理論的にただマルクスを日本に適用しただけのことで、何の独創性もない。

丸山真男氏は、これまたわたしがよんでも理解できないひとで、
それなのに名前だけで「えらいひと」ときめつけ、
その権威にまけ、えらい学者だとまつりあげていた。
梅棹さんが丸山氏にとった態度には、
独創性のないものに、なんの価値もみとめないきびしさがあらわれている。
梅棹さんたち新京都学派の学者たちは
自分でみたもの・自分でかんがえたことしかみとめない。
彼らにとって、フロンティアでなければおもしろくないし、
オリジナルでなければ意味がない。

本をよんですんなり頭にはいらないときは、
かき方がわるいのだとおもうようになったし、
名がとおったひとの本でも
はじめから降参しなくなったのは、
たぶん梅棹さんの影響だ。

自分の頭でかんがえる大切さを強調するとき、
ひとのはなしを引用するのは ずいぶん説得力のないはなしだ。
しかも、それがきわめつけの実証主義者たちからなので、
われながら気がきかない。
ただ、わたしは自分に独創性がないことをよくわきまえており、
そこらへんはあんがい謙虚に生きている。
自分でかんがえ、自分でやったことにだけ価値をおき、
ひとのかんがえと、自分のかんがえをはっきりわけ、
独創的かどうかに意味をみとめたい。

posted by カルピス at 21:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月21日

やっと穂がでる

このごろ田んぼへいくと
あちこちからヒエが穂をだしていて、
うんざりするとともに、
いつになったらイネの穂をみられるのか
心配になっていた。
ほかの田んぼでは、品種にもよるとはいえ、
お盆まえから穂がでて、いまではたわわにみのっている。
わたしの田んぼは、けっきょくヒエとアワだけでした、
なんてことになったらどうしよう。

きのう田んぼをみてまわったら、
うれしいことに、やっとイネの穂がでていた。
穂さえでれば、あたりまえだけど、
イネであり、ヒエではないということだ。
これからイネの穂がでそろってくると、
田んぼでそだつ みどりいろの植物のうち、
どれがイネで、どれがイネでないかがはっきりする。
穂.jpg
イネの種をまいたのだから、
イネがそだち穂がでるのはあたりまえで、
いったいなにをよろこんでいるのだ、といわれそうだけど、
なにしろ自然農法によるはじめての米づくりだ。
どんなふうにイネがそだっていくのか
よくわからないまま ためしている。
土をたがやさず、田うえでもなくじかまきで、
肥料や農薬もつかっていない。
そんななかで無事に穂がでてくれたのだから、
しみじみとうれしかった。
農薬をつかってないので、
あいかわらず いきものがたくさんいる。
トンボがたくさんとび、イナゴがイネにはりつき、
アブがとびまわって しつこくかもうとする。
シマヘビもいた。わたしの気配におどろいたみたいで、
あわてて土手のほうへにげていった。
病気や虫による被害は いまのところでていない。

穂がでたといっても、全体の量はごくささやかなもので、
最終的に何キロの米がとれるのか見当もつかない。
田んぼがある地区はイノシシがよくでるので、
柵をめぐらしてイノシシがはいれないようにするのが一般的だ。
しかし、わたしの田んぼはどうだろうか。
柵をつくる労力と、わずかな穂の数をかんがえると、
なんとかイノシシがみのがしてくれることを期待したい。
イノシシがうっかりとおりすぎる田んぼ、というのも
なんだか残念だけど。
イノシシにしても、イネをたべるより、
ヒエをさがしたほうが効率がいいのではないか。

ほかの田んぼでは、もうイネかりがおわったところもある。
コンバインでかりとると、
イネをたばねたり、ハデにほしたり、
脱穀機にかけたりという仕事がなく、
収穫に関するすべての行程がいっぺんにおわってしまう。
そうした米づくりは、はたからみると
ほんの4ヶ月でぜんぶおわる ちょろい仕事におもえる。
あまりにも詩心がない。

もっとも、わたしがめざす自然農法は、
うまくいけばそんな機械や農薬にたよったやり方より、
もっと楽に米づくりができるはずだ。
なししろ、たがやさず、田うえもしないのだから。
いまはまだ、うまくいかない。
種をまいてもあまり芽がでなかったし、
ヒエなどの草をおさえられなかった。
最終的に、いちねん目をどうまとめることになるだろう。
2年目にうまくつなげていきたい。

posted by カルピス at 15:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月20日

電子レンジなしの生活を おことわりされる

10年くらいつかってきた家の電子レンジがうごかなくなった。
「H98」とエラー表示がでるので、製造元にといあわせると、
部品の交換に2万円から2万5000円くらいかかるといわれる。

2万円も修理にかかるのなら、
あたらしいレンジをかったほうがいいし、
あたらしいのをかうくらいなら、
レンジなしの生活のほうがおもしろそうだ。
結婚し、アパートでのくらしをはじめたとき、
電子レンジも湯わかし器もなかった。
ついでにいえば、エアコンもなかったし、
テレビもアンテナにつないでおらず、
ビデオしかみれなかった。
それでなんともおもわなかったから、
わかく、ほかのことで頭がいっぱいだったのだろう。

『5アンペア生活をやってみた』(斉藤健一郎)や、
朝日新聞の稲垣えみ子記者のとりくみをよむと、
自分でもできるだけ電気をつかわない生活をおくりたくなる。
斉藤さんは5アンペア契約なので、
エアコン・電子レンジ・トースター・炊飯器・ドライヤーがつかえず、
1ヶ月の電気代に190円しかかけていない。
稲垣さんはエアコンなどは処分し、
冷蔵庫すらつかわない生活に突入している。
レンジがこわれたのをきっかけに
レンジなしの生活にきりかえるくらいなら
わたしにもできるかもしれない。
むかしはそれでなんともなかったのだし。

「べつにレンジがなくてもいいんじゃない?」と
配偶者にうかがいをたてると、
あっさり却下されてしまった。
アパートのときとは状況がちがうという。
こういうときにただしいのはつねに配偶者の判断で、
わたしの発言力など ないようなものだ。
あっさりあたらしいレンジをかうことになる。
しりあいの電気屋さんに連絡し、カタログをもってきてもらった。

おかずをあたためるくらいしか わたしはレンジをつかわないので、
こわれたのをきっかけに レンジがなくなっても とくにこまらない。
でも、配偶者はオーブン機能で料理をするし、
同居している母にすれば、
ほんの2〜3万円なら なんであたらしいものをかわないのか
不思議におもうだろう。
母は 冷蔵庫にいれた のこりもののおかずを せっせとたべてくれており、
電子レンジにずいぶんたすけられている。
民族によってゆずれない点はさまざまで、
まえによんだお弁当の記事によると、中華系のひとたちは
ぜったいにあたためたお弁当でないと たべないそうだ。
母は中華系ではないけれど、
せっかくながいきしたのだから、
のこりものはまだしも、あたためたおかずがたべたいだろう。
それがしあわせの 手ごたえというものだ。

わたしの家はオール電化で、
来月の電気代として2万2000円が請求されてきた
(今月分は1万8000円)。
190円の斉藤さんとくれべたら、100倍もおおい。
ケチで貧乏なわたしとしては、
ひとより100倍もはらうのは なんとかしたいところだ。
このまえから気をつけていることとして、
パソコンの電源をこまめにきるようになった。

わたしの部屋にあるi-Macをさわってみると、
そうとうな熱をだしているのに気づいた。
スリープ状態にしても あついのにかわりないので、
こまめにシフトダウンする。
なにかにつけわたしはアバウトな人間で
(だからこれまで電源をいれたままにしてきた)、
これらのこころがけが、
どれだけ省エネになっているのかわわからない。
そもそも節電をこころがけるのなら、
オール電化なんかにしなければよかった。
レンジをつかわず むし器でおかずをあたためたとしても、
けっきょくは電気にたよるのだから、
省エネする気がそがれる。
あたらしい電子レンジがくれば、
どうせわたしはよろこんで便利につかうだろう。
なにもなかったアパートでのくらしがなつかしい。

posted by カルピス at 16:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月19日

目的のない健康はよくないのか?

本多勝一氏の『逝き去りし人々への想い』(講談社)を図書館でかりた。
両親やしたしかった知人、
わかいころ刺激をうけた先生など、
本多氏が 身ぢかにせっしてきた方々へのおもいをつづったものだ。
山スキーの大先輩である三浦敬三氏について、
今の健康法は、『健康のための健康』を追い求めているものばかりのような気がします。とにかく病気になりたくない。とにかく年を取っても元気でいたい。(中略)だが、それだけでいいのでしょうか。」「父の食事法とトレーニング法は(中略)何のために健康でありたいかという目的が実に明確なのです。(中略)『いつまでも夢を追い続けるための健康法』なのです。」「医者や薬に自分の健康をゆだねるのではなく、体そのものを活性化させ、怪我や病気を克服しようとする発想です。野山や海のエネルギーを体の中に取り入れて健康を保ち、人間に備わった自然治癒力を信じて、怪我や病気に立ち向かっていく。(「中略」は本文のまま)

という、ご子息である三浦雄一郎氏のことばを紹介している。

本多氏はそのあとこうつづけている。
俺が世話になっている東洋医学の先生も全く同じことをいう。ー「何のための健康か。私はその『目的』のための手助けをしているに過ぎないのだ」と。

本多氏は、ひとのコメントを紹介しただけで、
自分のかんがえとして
目的をもたない健康が、いいともわるいともかいてない。
しかし、引用したうえの文をよむと、
いまの健康法について疑問をなげかけ、
医者や薬にたよってばかりの発想を
批判したものとうけとめられる。

「医者や薬に自分の健康をゆだねるのではなく、
 体そのものを活性化させ、怪我や病気を克服しようとする発想」
はわかる。
しかし、「何のための健康か」と
目的をとわれるとひっかかってしまう。
はっきりした目的があり、
そのために健康でありたいというひとはいいだろう。
しかし、だからといって
目的がなければ 健康をもとめてはいけないわけではない。
死にたくない、健康でいたい、病気になりたくない などは、
おおくのひとがもつ あたりまえなねがいだ。
目的がなくても生きる価値はあるし、
生きること、それ自体が目的のひとがいても おかしくない。
目的のないひとへ、とかく きびしい目がむけられがちだけど、
目的がなくても生きていけるし、
目的をもつことだけが えらいわけではないんだと、よくおもう。

健康のためなら死んでもいい、というひとが
わらいばなしによくでてくる。
ばかげたふるまいかもしれないけど、
それはそれで、いい人生かもしれない。
自分のじゃまをされたわけではないのだから、
だれもひとの人生をとやかくいえない。

posted by カルピス at 14:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月18日

夏のイベントとして、新訳の『カラマーゾフの兄弟』にとりくむ(案)

2015年の夏をふりかえったときに、
あの年の夏は、◯◯をやったなー、と
なにか印象にのこる読書をしておきたくなった。
各出版社が、夏やすみにふさわしい文庫本をすすめてくれるけど、
これまでとくに意識して そのなかからえらんだことはない。
夏にひっかけた商業的なフェスティバルにたよるよりも、
かってに自分のイベントとして とりくむことにする。

『カラマーゾフの兄弟』はどうだろうか。
この作品は、文学全集におさめられた米川正夫氏の訳で
10年以上まえによんだことがある。
ただし、このときは「よんだ」といえるのが目的で、
ただそれだけにこだわった。
世界的な大作「カラマーゾフ」ならではの特殊な読書だ。
その結果、たしかに「よんだ」とはいえるけれど、
ものがたりを理解した手ごたえがほとんどない。
もうすこし しっかりよんでおかないと まずいのでは、
という気が ずっとしていた。

光文社から亀山郁夫氏の新訳がでたときに、
リゾートホテルのプールサイドで
のんびり読書にひたる自分を夢みて 全5冊をすぐにかっている。
しかし、いつまでたってもそんな機会はきそうにない。
2015年の夏を印象づける読書として、
いまのうちにチャレンジしておくのは
わるくないアイデアにおもえる。

ネットをみると、亀山郁夫氏による新訳は、
ずいぶん賛否がわかれている。
ひどくけなすひとがいれば、よみやすくておすすめ、
という評判ものっている。
光文社と 亀山氏は同訳書の20刷(1月30日)から大幅な改訳改定を始め
ており、そのすべては誤訳批判者の指摘を受け入れたものだという。ただし改訳の事実は伏せて。
http://book.geocities.jp/ifujii3/
という情報もあり、かなり問題点が指摘されている訳のようだ。
こうした評判をしると、イベントむけにもりあがった気もちが
あっというまにしぼんでしまう。
亀山郁夫氏訳の「カラマーゾフ」をよみおえるまで、
こうしたマイナスの評判をしらなければよかった。
『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の新訳を村上さんがこころみたのは、
賞味期限の意味あいからだ。
しかし、『カラマーゾフの兄弟』の新訳は、
賞味期限が問題なのではなく、
おおくのひとが 歴史的な大作にふれやすいように、
というねがいからにおもえる。
しかし、とにかく よんでみないとわからない。

わたしにはロシア語の知識がないので、
まずはすんなりよめればマル、
なんとなくうさんくさかったり、違和感があればバツとする。
よみやすければいいというものではないだろうけど、
わたしにはほかに判断する基準がない。
ちまたで問題がささやかれていることをしると、
まずい訳を理由に とちゅうでなげだしてしまうかもしれない。
いちどめとおなじように、とにかくさいごまでよみおえたうえで、
なんらかの感想をのべたい。

夏やすみの読書とはいえ、高校生じゃないのだから、
じっさいに長期のやすみがあるわけではない。
いまからとりかかっても、
とても8月ちゅうにはよみおえられない。
ハードルをうんとひくくして、夏やすみ期間にこだわらず、
あつさがのこるうちに よみおえればいいことにする。
2015年の夏は、『カラマーゾフの兄弟』の夏として
よくもわるくも、わたしの記憶にのこるだろう。
イベントにふさわしい、適切な訳であることをねがう。

posted by カルピス at 13:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月17日

刹那主義にみるサッカーの本質

『「日本」を超える日本サッカーへ』(西部謙司・コスミック)

『サッカー 3バック戦術アナライズ』(西部謙司)がおもしろかったので、
いきおいで『「日本」を超える日本サッカーへ』をよみかえす。
オシムさんが監督をしていた2007年のアジア杯について、
日本がたたかった全6試合を分析したものだ。
8年まえの本なのに、
いまの日本代表がかかえている問題と
おなじようなものがいくつもでてくる。
カウンターケアの問題、
サッカー協会のマネージメント、
めざすべき「日本サッカー」というまぼろし。
すこしまえをふりかえるのはおもしろいし、
すこしは意味がありそうだ。

サウジアラビアは、長期的な展望をもたずに
みじかい期間(平均すると1年以下)で
代表監督をかえるというはなしがでてくる。
日本はその逆で、よほどの事情がなければ
契約期間をおえるまで監督をかえない。
中期・長期の計画をたて、ちからをつけようとするのが日本流だ。
サウジアラビアにかぎらず、
3連敗でもしたら、すぐに首をきられる国はいくらでもある。
日本では、以前ジーコ監督の1戦必勝主義が批判された。
しかし西部さんは、その刹那主義にこそ、サッカーの本質があるという。
現在の、本日ただいまの結果を出すこと、その集積こそが未来へつながる。ブラジルの1戦必勝主義、悪く言えば刹那主義だが、これは意外とサッカーの本質に通じるところもあり、プロとして非常にわかりやすいメカニズムでもある。

これは、わたしがサッカーにかんじているはかなさ・きびしさを
うまくいいあらわしている。
そして、このきびしさは、サッカーだけでなく、
おおくのことがらにも適応できるだろう。
サッカー選手へのインタビューで、よく
「1試合1試合をつみあさねていくしかない」という発言をきく。
ことばにすると優等生的で、
あたりさわりのないこたえにかんじるけど、
サッカー選手にとってできることは、
ほんとうに「1試合1試合をつみあさねていく」しかない。

サッカーは、いましか、目のまえの試合しかない。
へたなプレーをしたら、つぎの試合にでれないかもしれない。
手をぬけば、仲間からの信頼をうしない、ボールがまわってこなくなる。
そんな日がつづけば調子をおとし、
そのシーズンを不本意におえるだろう。
いまのチームでつかってもらえるためには、そして
将来的にうえのリーグにあがりたいのであれば、
ひとつひとつの試合にベストをつくし、
そのさきへとつなげるしかない。
結果がともなわなければ、つかわれなかったり、首をきられるだけだ。
そんな環境のなかで、個人的に中期・長期の計画を
それぞれの選手・監督がたてるのだけど、
じっさいにできるのは
「現在の、本日ただいまの結果を出す」ということしかない。

サウジアラビアなど、極端に監督の任期がみじかいやり方は、
その国なりの価値観が反映されているのだろう。
サッカーは市場が国際的なので、
いい監督は世界じゅうからさがしてくればいい。
それだけ競争は はげしく、実力がとわれる。

よみおえてから、本書にもとりあげられている
日本対オーストラリアの試合をDVDでみた。
日本代表でいうと、選手全員がまだ現役で活躍している。
ただ、いまもまだ代表にえらばれているのはひとりもいない。
8年という年月は、サッカーにおいてそれほど ひとむかしだ。
それぞれの選手が、この8年間を
「本日ただいまの結果を出すこと、その集積こそが未来へつながる」
として すごしたことだろう。
その結果、いまもまだ現役で試合にでつづけており、
しかし、すでにピークはすぎたとみられている現実。
どんなにかがやかしい実績があっても、
ほんのすこしたてば つかわれなくなるはかなさ。
そんなきびしい環境のなかで、世界じゅうの選手・監督が
目のまえの試合に全力をかたむけながら
サッカーの歴史はつくられ、未来へとつながっていく。
そのきびしさと はかなさのなかに サッカーの魅力がある。

posted by カルピス at 12:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月16日

『サッカー 3バック戦術アナライズ』(西部謙司)”非常識”な監督たちが作り上げた”普通じゃない”戦術

『サッカー 3バック戦術アナライズ』(西部謙司・KANZEN)

かぞえてみたら、わたしは西部さんの本を20冊以上もっていた。
西部さんといえば戦術の解説でしられている。
しかしわたしは、こんなにたくさん西部さんの本をよんできたのに
いまだにサッカーの戦術がちっとも理解できていない。
西部さんにとって、わるい読者なのだろうけど
戦術がわからなくても、よみものとしてじゅうぶんおもしろいので、
こりもせず、つい西部さんの本をかってしまう。
サッカーをふかく理解したいというよりも、
よみものとしてたのしい本にであいたいひとには
西部さんのサッカー本をおすすめする。

本書は3バックという戦術に焦点をしぼり、
歴史的なながれと、3バックをとりいれたチームの特徴を分析している。
オビにあるのは
「”非常識”な監督たちが作り上げた”普通じゃない”戦術が示すサッカーの未来」
3バックを採用する監督は、
どこか「ロコっぽい」(バカげたところのある)ひとがおおいのだそうだ。
戦術マニアというか、変人としてしられるビエルサ監督を代表に、
トータルフットボールのアヤックス(オランダ)、
パスサッカーでしられるバルセロナに、
バルセロナをでたグアルディオラ監督がひきいるバイエルンと、
「ふつうではない」サッカーが魅力的だ。
オシムさんのサッカーも、ビエルサ監督のものと
非常によくにているそうで、
そんなことをきくと ますます3バックへの興味がわいてくる。

3バックなら、なんでもすごいかというと もちろんそんなことはない。
3-4-3と3-5-2では、まるでちがうサッカーになる。
ただそれをいいだすと、こまかい戦術のはなしになり、
わたしの関心からはなれ、どうでもよくなってしまう。
どこかかわった監督たちによる、
すこしかわったサッカーという位置づけで わたしにはじゅうぶんだ。
3バックは、けしてほろびかけている過去の戦術ではなくて、
現在でも形をかえながら いきながらえている。
さきほどあげたバルセロナやバイエルン、
それにビエルサ監督が「せっせと種を蒔いている」ので、
種の存続は心配ないそうだ。

J1では広島と浦和、それに、今季J2から昇格してきた
湘南ベルマーレ・松本山雅・モンテディオ山形が
ともに3バックを採用している。
昇格してきた3チームとも、すこしかわった監督による、
どこかふつうでないサッカーだ。
自分たちのスタイルをもっているのがつよみだし、
みていてたのしい。

この本をよむすこしまえに、
日本代表は東アジア杯でこれまでの最低である4位(最下位)におわった。
アジアレベルでは、頭ひとつとびぬけていると自他ともに
みとめていたはずなのに、いったいこれはどうしたことか。

Wカップをかちすすむときに、
アジアでのWカップ予選の戦術と、
Wカップ本大会での戦術をかえなければ通用しないことが
日本の課題だといわれている。
格下あいてのサッカーと、格上あいてのサッカーの両方ができないと、
Wカップ本大会でかちすすむことができない。
しかし、そんなことをいってる場合じゃないほど、
東アジア杯での日本はつよくなかった。
武漢という完全アウェーで、
日本にたいするブーイングがそれほどでもなかったのは、
つよくない日本にあえてブーイングする気もおきないからでは、と
ある記事に 冗談めかしてかいてあった。
いまの日本は、「さほどつよくない」と
アジアの国々におもわれているのかもしれない。

本書では、日本代表にむいた戦術として
3バックがすすめてあるわけではない。
しかし、まだ「日本らしいサッカー」が形としてみえていない現在において、
ポゼッションだけにたよるサッカーや、
きょくたんにひいてまもるスタイルではなく、
攻撃的な3バックをとりいれるのも おもしろそうだ。
日本代表が、「さほどつよくない」ところから再出発し、
だんだんと「日本らしいサッカー」にちかづいていくことを期待している。

posted by カルピス at 11:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月15日

『百歳までの読書術』(津野海太郎) 老化は突然やってくるらしい

津野海太郎さんの『百歳までの読書術』に、
まさにわたしがおもいえがいている老後の読書生活と、
その実現のむつかしさがかいてあった。
読書にそくしていうなら、五十代の終わりから六十代にかけて、読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性にあった本だけ読んでのんびり暮らそうと、心のどこかで漠然とそう考えている。現に、かつての私がそうだった。
しかし六十五歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち七十歳。そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、本物の、それこそ ハンパじゃない老年が向こうからバンバン押しよせてくる。あきれるほどの迫力である。のんびりだって? じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、いまはまだ考えてもいないだろうと、六十歳の私をせせら笑いたくなるくらい。

すこしまえのブログに、
自分の老化は想像しにくいとかいた。
だからこそ、ひとの老化は参考になる。
老化とは、そんなにも突然、
どとうのいきおいで やってくるものなのか。
どこか、いまのまま老後をむかえるつもりでいるわたしは、
老化がそんな なまやさしいものでないという指摘に
背中のほうが うすらさむくなる。

すでに実感している老化として、老眼がある。
老眼になると、こまかい字をおっかけるのが ずいぶんめんどうだし、
本をよむのにいちいちメガネをさがすのは
これまでにないひとてまで、あきらかにハンディとなる。
メガネによって視力をおぎなったとしても、
老眼がこれからもっとすすんだときに、
もう本なんかどうでもいい、
みたいな心境になるのは理解できる。

おなじように、体力がなくなれば本どころではないだろうし、
記憶力がおとろえると、いつまでもおなじところばかりよみ、
ぜんぜんまえにすすめないかもしれない。
そうじや食器あらいをしていると、
いまでさえおなじところ、おなじ食器を
くりかえしあいてにしてしまい、
ん?これさっきあらったのでは、とがっかりすることがある。
まわりからみてるぶんには おもしろいかもしれないけど、
本人としては 残念でかなしい老化、
というかボケのおとずれをかんじるときだ。
そんなふうに記憶力があやふやになっているときに、
おちついて本とむきあえるわけがない。

そうなると、老後におもいえがいてる読書生活なんて、
まったく机上の空論にすぎない。
本だけは しこたまあつまってるのに、
それをたのしむエネルギーがもはやないなんて
予定がくるってしまう。
それにしても、なにもやる気がおきなくなったときに、
老化をさきどりした 本ずきなひとたちは、
いったいなにをして日々をおくっているのか。
もしかしたら、毎日をあたりまえにすごすのに、
とくに本なんて必要ないのかもしれない。
そうおもってしまうのが、老化というものなのではないか。

わたしはいま、50代の男たちが
どんなふうに毎日をすごし、
老後をどう予定しているのかをしりたい。
わたしがきいてみる範囲では、
リアルに老後をイメージしているひとはすくない。
定年まではたらいて、あとはそれからかんがえる、
みたいなひとがほとんどだ。
いくらひとのはなしをきいても、
自分がやりたいことをすればいい。
しかし、データーとして、参考にはなるだろう。
自分やまわりがどんなふうに老い、
どんな老後をおくるのかがたのしみだ。

posted by カルピス at 16:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月14日

「職業としての小説家」 時間をかけてかきなおしをかさねる村上さん

柴田元幸さん編集による雑誌『MONKEY』をはじめてかったら、
村上春樹さんの「職業としての小説家」が連載されていた。
今回が最終回で、長編小説をかくときのながれが
くわしくかかれている。

村上さんが長編小説にとりくむときは、
あらかじめ用意したプロットにそってかくのではなく、
ふかい井戸におり(イメージ)、異界といききするように、
何ヶ月もかけて ながいはなしをかきおえる。
「職業としての小説家」にとりあげられているのは、
そのあとどういうふうに原稿をかきなおしていくかだ。

・第1稿をかきおえると、すこしあいだをおいて、第1回目のかきなおし
・またすこしあいだをおいてから、第2回目のかきなおし
・半月から1ヶ月くらい「養生」の期間をおく
・「養生」でじっくりねかせたあとで、細かい部分の徹底的なかきなおし
・第3者の意見をきく。まず奥さん、それから編集者など
・ゲラになってからも、なんどもゲラが真っ黒になるほどかきなおす

原稿になんども手をいれるのが
村上さんはまったく苦にならないそうで、
そうやって、その時点での全力をつくし
作品をしあげたという手ごたえを大切にしている。
そうした実感があれば、
たとえあとでどんな批評をうけようと、
自分としてのベストをつくしたのだから
「まあ、それも仕方ないや」と
わりきることができるという。

「どんな文章にだって必ず改良の余地はある」
「大事なのは、書き直すという行為そのものなのです。(中略)
 文章に手を入れる、そういう姿勢そのものが何より重要な意味を持ちます」

村上さんは、こんなふうに時間とエネルギーをかけ、
「やるべきことをきちんとやった」
と納得できるまでかきなおしをかさねる。
どうやってそれだけの時間とエネルギーを確保するか、
そして そのあいだの生活費といった、現実的な問題をどうするかなど、
全力をだしきれるシステムを大切にされている。

ひとの意見をきく過程でも、
村上さんはとても謙虚にあいてのかんがえに耳をすます。
原稿をかきなおしていくことについて、
どのような意見であれ、それが正気なものであれば、そこには何かしらの意味が含まれているはずです。(中略)彼らの意見とはすなわち世間であり、あなたの本を読むのは結局のところ世間なのですから。あなたが世間を無視しようとすれば、おそらく世間も同じようにあなたを無視するでしょう。

文章の推敲という技術的な問題だけでなく、
どのように世間とむきあうかもふくめ、
村上さんのかんがえ方は参考になる。
村上さんほどの小説家が、いまもなお
これだけの時間をかけてかきなおしているのだ。
すぐれた作品がうみだされるうらには、
それだけの理由とシステムがある。
完成した文章にむけて、
なんどもかきなおしをかさねる村上さんの方法論が興味ぶかい。

posted by カルピス at 20:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月13日

わたしのすきな「書き出し」

『本の雑誌 9月号』の特集は「書き出し一行の誘惑!」だ。
そのさきの文章を よんでもらえるかどうかが、
はじめの数行できまるのだから、
かきだしの大切さは 強調しすぎることがない。
でありながら、意外とおもしろくないかきだしが
めずらしくないのはなぜだろう。
おもわず ちからがはいってしまうのか、
読者には多少の忍耐が必要だとかんがえているのか。

わたしがすきな本のかきだしをぬきだしてみると、
ナイフの使い手だった私の祖父は十八歳になるまえにドイツ人をふたり殺している。(デイヴィッド=ベニオフ『卵をめぐる祖父の戦争』)
父さんが熊を買ったその夏、ぼくたちはまだ誰も生まれていなかった。(ジョン=アービング『ホテル・ニューハンプシャー』)
1969年、この年、東京大学は入試を中止した。(村上龍『69』)
日本の近現代文学には、「病気小説」や「貧乏小説」とならんで「妊娠小説」という伝統的なジャンルがあります。(斎藤美奈子『妊娠小説』)
朝、何かの音がする。強い雨だれのような、急ピッチの連続音である。わたしはまだ目がさめない。わたしは、ぼんやりした意識で考える。
「タイプライタだな」(梅棹忠夫『東南アジア紀行』
きょう、ママンが死んだ。もしかすると、昨日かも知れないが、私にはわからない。養老院から電報をもらった。(カミュ『異邦人』)

ざっとかんがえてみると、
文章は4つのタイプにわけられる。
1.かきだしがよくて、本文もすごい
2.かきだしだけがよくて、本文はいまひとつ
3.かきだしはいまひとつでも、本文はすごい
4.かきだしはいまひとつで、本文もいまひとつ

「1」は、問題なくすばらしいわけで、
反対に「4」はまったくいただけないから対象外だ。
「3」は、残念な文章におもえるけど、
冷静にかんがえると、全体がよければ、かきだしだって
意味があるようにおもえるのではないか。
こうしてみると、読者としてこまるのは、
かきだしだけよくて、あとがぜんぜんさえない
「2」のような作品だ。
こっちのほうは、いくらか例がありそうな気がする。
かきだしがいいだけに、読者は、そして作者は残念だろう。
そこらへんの分析を、『本の雑誌』にはしてほしかった。

かきだしについての座談会で、
「年齢が入ってる書き出しって結構多いですよね」
という指摘がある。
かきだしでいきなり読者に年齢をつたえるのは、
ひとつのテクニックかもしれない。

「ぼくは20歳だった」(『アデン・アラビア』)
「十八歳で夏でバカだった」(『ロッキン・ホース・バレリーナ』
など、いくつか例があげてあるのに、
『ノルウェイの森』については ふれられていない。
僕は37歳で、そのときボーイング747のシートに座っていた。その巨大な飛行機は分厚い雨雲をくぐり抜けて降下し、ハンブルク空港に着陸しようとしているところだった。

37歳というビミョーな年齢がつたえられるとともに、
コンパクトなかたりかけで、
ものがたりが、しずかに、しっかりとすべりだす。
村上春樹の本のなかで、このかきだしが
わたしはいちばん印象にのこっている。

かきだしの本質をさぐるころろみとして、
「デイリーポータルZ」の
「書き出し小説大賞」に ふれないわけにいかない。
http://portal.nifty.com/kiji/150719194108_1.htm
「書き出し小説」とは
「書き出しだけで成立したきわめてミニマムな小説スタイル」
なので、
一般的にいうところの「書き出し」とは すこしちがってくるけれど、
もっともらしくかきだすのは、
あんがいだれにでもできそうだ。
大切なのは、かきだしだけでなく、その先のほうなのだろう。

posted by カルピス at 11:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月12日

「かわす英会話」(デイリーポータルZ)によってすくわれるかもしれない 日本人の英会話

「デイリーポータルZ」に、
林さんの「かわす英会話」がアップされた。
http://portal.nifty.com/kiji/150811194286_1.htm
英会話をやりとりするのではない。
英会話から、どうやって身を「かわす」かに 知恵をしぼる記事だ。
いいことばだなー、「かわす英会話」。
林さんのほんとうのレベルはわからないけど、
わたしには「かわす英会話」しかないような気がする。
基本的に、ずっとかわすことでやりすごしてきたのが
わたしの英会話だ。

まえに家族旅行でバリ島へいったとき、
せっかくだからと、障害者施設をたずねたことがある。
あらかじめたずねる時間をしらせておいたので、
わたしたち(わたしと配偶者とむすこの3人)が
タクシーでのりつけたときには、むこう側のスタッフ5名が
わたしたちの訪問をまちうけていた。
しきりに「英語があまりはなせないので」
とむこうのスタッフが恐縮される。
自分たちがうまくないので、
わたしのはなす英語がききとれないのかと、
かんちがいされているようだ。

はじめに施設内をすこし見学させてもらい、
そのあと質問というか、日本の障害者施設の情報をやりとりする。
もっとも、そんなことがわたしにできるわけがないので、
わかったふりがほとんどだ。
そんななか、ある質問をされたとき、
ほかのひとたちもきゅうに身をのりだしてきて、
「そうだ、そうだ、そこらへんが日本はどうなってるんだ?」と
全員の注目がわたしにあつまったときがある。
しかしわたしはなんのことかわからない。
状況をみわたして、あたりさわりのないこたえをさぐる。
さいわいそれがポイントをかすめていたようで、
わたしのはなったひとことで、
その場の雰囲気がいっきょにほぐれた。
いまでもあのときの 息づまる会議室をおもいだすと
ドキドキしてくる。
あれはいったいなんの質問だったのだろう。

林さんは、先生役の富岡さんといっしょに
「かわすだけの英会話」をあみだしていく。
質問されたら
・とりあえず「いい質問だ」と時間をかせぐ
・かんがえるふりをする
・人にふる
・人の答えにのる
などの「かわし技」が
「かわすだけの英会話」をささえている。

「あなたはバナナがすきですか?」の質問にも、
「んー、それはいい質問だけど、ちょっとむつかしい」
とやるからすごくおかしい。
でも、英語でいわれれば それほど違和感がない。

動画として「かわすだけの英会話」01と02がのせられており、
01はさきほどかいたように、
「あなたはバナナがすきですか?」についての質問だけど、
02のレベルになると、わたしはまったく歯がたたなかった。
ききとれるのはバナナだけ。
これではかわすしかないし、かわす以前のレベルかもしれない。

こんな英会話力で、よく施設見学などにでかけたものだ。
でも、もう大丈夫。
これからは「かわす英会話」で、それらしくふるまえばいい。
よくかんがえてみたら、日本語の会話でも
意味不明なあいずちをうつことがわたしはおおい。
へんに沈黙をつくるより、
なんとかその場をやりすごそうというサービス精神からだ。
それもまた、ひとつのりっぱな方針だとおもう。
これまで あらゆる英会話の本が
うまくはなそうとして失敗してきた。
「かわす英会話」によって、日本人の英会話コンプレックスが
たとえ部分的にでも、すくわれることをのぞみたい。

posted by カルピス at 14:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする