きのう おとついと、記事のしめくくりに
さきのことはわからないよ、みたいなことをかいた。
いまはうまくすすんでいても、それがこのままつづくわけではない。
それだけに、将来をみこしたうごきが大事だ、なんて。
なんだか妙にもっともらしいのにあとで気づいた。
ゴールこそがスタートだなんて、
われながらこそばゆい。
くるしまぎれのすてゼリフみたいなものなのに、
将来をにおわせただけで、いろんな角度から、
複雑にものごとをとらえているようにみえる。
いったものがちの ずるいやり方だ。
内容ではなく、雰囲気でごまかそうとしているんじゃないか。
反対に、過去をほじくりかえしていると、
せこそうな記述にみえる。
ちまちまとむかしの情報をもちだして「いま」とくらべ、
ぜんぜんちがうじゃないかと指摘したり。
あんまりあかるい性格にはおもえない。
将来にふれるともっともらしいのに、
過去をふりかえるのはくらい。
よみかえしてみると、わたしは記事をしめくくるときに、
ちかい将来についてふれる日がおおい。
無意識のうちに いいかっこうをしたいのだろう。
お手軽にまとめられるし。
将来や過去を話題にするよりも、
「いま」をだいじにしたいとわたしはおもっている。
おもっているはずなのに、じっさいはしょっちゅう
「ちょっとさき」に目をむけており、
ただ観念的にいまが大切といっているのがすけてみえる。
とはいえ、家族や同僚が、いまだけに目をむけたら
あんがいやっかいなのではないか。
できるやつ、とみなすよりも、
視野のせまさにわたしはいらつくような気がする。
このままではよくない。
徹底的に「いま」ばかりのひとがいたら
わたしはたかく評価しよう、
というのも「いま」じゃないな。
2015年09月30日
2015年09月29日
「劇団ハタチ族」365日連続公演のさきにあるもの
きのうは劇団ハタチ族の公演にでかける。
365日連続公演を応援するために、
月にいちどのペースで木次のチェリバホールへむかっている。
東京でいえば武道館みたいなホール、というのは嘘で、
定員500名のホールの、そのまたロビーが会場だ。
月曜日は恒例の「マンデーワンマンショー」。
西藤さんひとりが舞台をうけもつ日だ。
もしお客さんがわたしひとりだったらたいへんなので、
まえにつとめていた職場の同僚をさそい、つきあってもらう。
さいわい、お客さんはわれわれをふくめ6人(も)いた。
幕があがると(イメージです)
月曜日のワンマンショーついて西藤さんが説明する。
365日公演をつづけるのはたいへんなので、
団員をやすませるためにも
月曜日は西藤さんひとりでつとめるときめたそうだ。
もちろんいまではそのコンセプトもぐちゃぐちゃになり、
いきあたりばったりで日々の公演をなんとかやりくりしている。
あえて整理すると、この日のワンマンショーは3部構成だった。
・10月の公演予定
・あきふみさんへのインタビュー
・フラワーカンパニーズへのおもい
ひとつづつみていく。
10月の「劇刊ハタチ族」を手にした西藤さんが、
10月1日におこなう平日のひるま公演があぶないという。
この日の夜は、どうしても西藤さんがうごけず、
ほかの団員もスケジュール調整がつかなかったので、
平日の午後3時から、チェリバホールのロビーでひらくそうだ。
ひるま公演は、夜だときにくいひとのためにも
まえからやってみたかった。
とはいえ、ひるにひらいたからといって、
夜こらないひとがきてくれるとはかぎらない。
でも、お客さんがゼロになり、
365日公演がとぎれてもいいと
西藤さんはこのごろおもうようになったという。
つづけたからといって、それが成功とはかぎらないから。
365日公演がつづければ それでいいんだろうかという、
連続公演をはじめたときには
おもいもしなかった疑問だ。
たしかに365日つづけたからといって
ひとつの達成ではあるものの、
なにかがあきらかにかわるわけではない。
でも、それをいったらおしまいなわけで、
いまさらそんなことをいいだされてもこまる。
大晦日というゴールがみえてきたいま、
なにをもって成功とするかについて
西藤はこの時期ならではのなやみをかかえている。
あきふみさんへのインタビューは・・・、
ま、いいか。
あきふみさんが舞台からおりると、
西藤さんに お客さんのひとりからプレゼントがわたされた。
西藤が影響をうけまくっている フラワーカンパニーズのTシャツだ。
フラカンは 今年12月に
結成26年目ではじめての武道館ライブをひらくという。
西藤さんがあつくかたりはじめる。
ふかずとばずの時代がながかったのに、
26年間いちども休止せず、メンバーもおなじ4人のまま、
デビューのときとおなじスタイルをたもつフラカンが
どれだけすごいひとたちか。
そのTシャツには、
フラワーカンパニーズのグレートマエカワさんにより
西藤さんへのメッセージがかかれている。
西藤さんにはなによりのプレゼントだろう。
きょうのお客さんは、なげ銭なんかどうでもいいので、
かえってからぜひ「フラカン」を検索して、
彼らの音楽をきいてほしいと西藤さんがいう。
ワンマンショーのしめくくりにはいったとき、
いつかまた もういちど365日公演をやる、と西藤さんがいいだす。
おなじことをくりかえしてもしかたないので、
形をかえ、グレードアップしてとりくみたいという。
そうかもしれない。
365日公演は、365日でおわらせていいものではないだろう。
まいにち演劇がみられる町として 演劇が根づかないと
なんのための365日だったか。
このいちねんがおわったときこそ つぎのスタートだ。
365日連続公演まであと94日。
それがゴールではないにせよ、
とりあえずのくぎりまで94日。
そのさきの劇団ハタチ族がたのしみだ。
365日連続公演を応援するために、
月にいちどのペースで木次のチェリバホールへむかっている。
東京でいえば武道館みたいなホール、というのは嘘で、
定員500名のホールの、そのまたロビーが会場だ。
月曜日は恒例の「マンデーワンマンショー」。
西藤さんひとりが舞台をうけもつ日だ。
もしお客さんがわたしひとりだったらたいへんなので、
まえにつとめていた職場の同僚をさそい、つきあってもらう。
さいわい、お客さんはわれわれをふくめ6人(も)いた。
幕があがると(イメージです)
月曜日のワンマンショーついて西藤さんが説明する。
365日公演をつづけるのはたいへんなので、
団員をやすませるためにも
月曜日は西藤さんひとりでつとめるときめたそうだ。
もちろんいまではそのコンセプトもぐちゃぐちゃになり、
いきあたりばったりで日々の公演をなんとかやりくりしている。
あえて整理すると、この日のワンマンショーは3部構成だった。
・10月の公演予定
・あきふみさんへのインタビュー
・フラワーカンパニーズへのおもい
ひとつづつみていく。
10月の「劇刊ハタチ族」を手にした西藤さんが、
10月1日におこなう平日のひるま公演があぶないという。
この日の夜は、どうしても西藤さんがうごけず、
ほかの団員もスケジュール調整がつかなかったので、
平日の午後3時から、チェリバホールのロビーでひらくそうだ。
ひるま公演は、夜だときにくいひとのためにも
まえからやってみたかった。
とはいえ、ひるにひらいたからといって、
夜こらないひとがきてくれるとはかぎらない。
でも、お客さんがゼロになり、
365日公演がとぎれてもいいと
西藤さんはこのごろおもうようになったという。
つづけたからといって、それが成功とはかぎらないから。
365日公演がつづければ それでいいんだろうかという、
連続公演をはじめたときには
おもいもしなかった疑問だ。
たしかに365日つづけたからといって
ひとつの達成ではあるものの、
なにかがあきらかにかわるわけではない。
でも、それをいったらおしまいなわけで、
いまさらそんなことをいいだされてもこまる。
大晦日というゴールがみえてきたいま、
なにをもって成功とするかについて
西藤はこの時期ならではのなやみをかかえている。
あきふみさんへのインタビューは・・・、
ま、いいか。
あきふみさんが舞台からおりると、
西藤さんに お客さんのひとりからプレゼントがわたされた。
西藤が影響をうけまくっている フラワーカンパニーズのTシャツだ。
フラカンは 今年12月に
結成26年目ではじめての武道館ライブをひらくという。
西藤さんがあつくかたりはじめる。
ふかずとばずの時代がながかったのに、
26年間いちども休止せず、メンバーもおなじ4人のまま、
デビューのときとおなじスタイルをたもつフラカンが
どれだけすごいひとたちか。
そのTシャツには、
フラワーカンパニーズのグレートマエカワさんにより
西藤さんへのメッセージがかかれている。
西藤さんにはなによりのプレゼントだろう。
きょうのお客さんは、なげ銭なんかどうでもいいので、
かえってからぜひ「フラカン」を検索して、
彼らの音楽をきいてほしいと西藤さんがいう。
ワンマンショーのしめくくりにはいったとき、
いつかまた もういちど365日公演をやる、と西藤さんがいいだす。
おなじことをくりかえしてもしかたないので、
形をかえ、グレードアップしてとりくみたいという。
そうかもしれない。
365日公演は、365日でおわらせていいものではないだろう。
まいにち演劇がみられる町として 演劇が根づかないと
なんのための365日だったか。
このいちねんがおわったときこそ つぎのスタートだ。
365日連続公演まであと94日。
それがゴールではないにせよ、
とりあえずのくぎりまで94日。
そのさきの劇団ハタチ族がたのしみだ。
2015年09月28日
ライザップでダイエットに成功したあと
テレビをみていたら、
ライザップのトレーニングをとりあげていた。
インパクトのある広告を大量にながせるのは、
お金のかけ方に特徴があるからだという。
完全予約制によるマンツーマンのシステムであり、
ジムをビルの1階にかまえる必要がなく、家賃がやすい。
食事療法とウェイトトレーニングだけで減量できるので、
プールやランニングマシンをそなえなくてもよく、
そのぶん経費がかからない。
個室にりっぱなウェイトトレーニングの設備があると、
ずいぶんゴージャスな環境におもえるけど、
ベンチプレスやスクワットの器具は
いちどかってしまえば あとはそんなにお金がかからない。
メリハリのつけ方がうまい。
そうやって うかせたお金をひとにまわす。
マンツーマンでのトレーニングなので、
トレーナーの質は そのままサービスに直結する。
たかいコミュニケーション能力をもとめ、
研修にちからをいれているようすが紹介されていた。
つらいトレーニングや食事制限にたちむかう利用者を
専門的な知識をもったトレーナーが
はげまし、ほめあげ、ながくつづくようにサポートする。
ジムをはなれても、メールで相談にのってくれるから
いつもトレーナーがみまもっている気になれる。
食事療法とは、糖質制限によるものなので、
いわれたとおりにとりくめば、
短期間でたしかに体重はへるだろう
(長期的にはどうかわからない)。
そのうえにウェイトトレーニングで刺激をあたえるのだから、
筋肉がついて プロポーションにも効果的だ。
ダイエットのむつかしさは、
ひとりで食事療法とトレーニングにとりくんでも
なかなかつづけられないところにある。
そこをライザップでは、
トレーナーがマンツーマンではげましてくれるので、
さみしくないし、モチベーションを維持できる。
よくできたしくみだとおもう。
たかいお金もはらっているし、
もともとダイエットしたい気もちはつよいのだから、
お客さんとしてもがんばりやすい条件がととのっている。
メソッドにしたがって集中的にとりくめば、
半年間でかっこいいからだになれそうだ。
問題は、シェイプアップしたからだを
そのあとどう維持していくかになるだろう。
いったんシェイプアップに成功したのだから、
ライザップはいちおう責任をはたしたといえる。
そのあとリバンドしたときに、どう対応するか。
お客さんの意志のよわさといってしまえば、
ほかのダイエット法とかわりがないことになる。
シェイプアップに成功したあと、
どんなサポートがうけられるかに
ライザップのちからがためされている。
短期間でやせようとするときに、
水泳やランニングはなかなか効果がたしかめにくい。
すこしぐらいはしっても、目にみえて体重がへるわけではない。
ウェイトトレーニングと食事療法に限定するライザップの戦略は、
たしかにひとつのかんがえ方だ。
しかし、長期的にそのやり方がつづくかどうか。
つづいたひとがえらい、みたいにならないといいけど。
ライザップのトレーニングをとりあげていた。
インパクトのある広告を大量にながせるのは、
お金のかけ方に特徴があるからだという。
完全予約制によるマンツーマンのシステムであり、
ジムをビルの1階にかまえる必要がなく、家賃がやすい。
食事療法とウェイトトレーニングだけで減量できるので、
プールやランニングマシンをそなえなくてもよく、
そのぶん経費がかからない。
個室にりっぱなウェイトトレーニングの設備があると、
ずいぶんゴージャスな環境におもえるけど、
ベンチプレスやスクワットの器具は
いちどかってしまえば あとはそんなにお金がかからない。
メリハリのつけ方がうまい。
そうやって うかせたお金をひとにまわす。
マンツーマンでのトレーニングなので、
トレーナーの質は そのままサービスに直結する。
たかいコミュニケーション能力をもとめ、
研修にちからをいれているようすが紹介されていた。
つらいトレーニングや食事制限にたちむかう利用者を
専門的な知識をもったトレーナーが
はげまし、ほめあげ、ながくつづくようにサポートする。
ジムをはなれても、メールで相談にのってくれるから
いつもトレーナーがみまもっている気になれる。
食事療法とは、糖質制限によるものなので、
いわれたとおりにとりくめば、
短期間でたしかに体重はへるだろう
(長期的にはどうかわからない)。
そのうえにウェイトトレーニングで刺激をあたえるのだから、
筋肉がついて プロポーションにも効果的だ。
ダイエットのむつかしさは、
ひとりで食事療法とトレーニングにとりくんでも
なかなかつづけられないところにある。
そこをライザップでは、
トレーナーがマンツーマンではげましてくれるので、
さみしくないし、モチベーションを維持できる。
よくできたしくみだとおもう。
たかいお金もはらっているし、
もともとダイエットしたい気もちはつよいのだから、
お客さんとしてもがんばりやすい条件がととのっている。
メソッドにしたがって集中的にとりくめば、
半年間でかっこいいからだになれそうだ。
問題は、シェイプアップしたからだを
そのあとどう維持していくかになるだろう。
いったんシェイプアップに成功したのだから、
ライザップはいちおう責任をはたしたといえる。
そのあとリバンドしたときに、どう対応するか。
お客さんの意志のよわさといってしまえば、
ほかのダイエット法とかわりがないことになる。
シェイプアップに成功したあと、
どんなサポートがうけられるかに
ライザップのちからがためされている。
短期間でやせようとするときに、
水泳やランニングはなかなか効果がたしかめにくい。
すこしぐらいはしっても、目にみえて体重がへるわけではない。
ウェイトトレーニングと食事療法に限定するライザップの戦略は、
たしかにひとつのかんがえ方だ。
しかし、長期的にそのやり方がつづくかどうか。
つづいたひとがえらい、みたいにならないといいけど。
2015年09月27日
なんとなくできたハデづくり
イネかりにそなえてハデづくりをする。
ハデとは、かりとったイネをかわかすための
おおきな洗濯ほし場みたいなもので、
地域によっていろいろなよび名・形がある。
ふつうハデづくりは何人かがチームでとりかかる。
わたしひとりでは、どんなハデができるだろう。
不器用なわたしにとって、
ハデづくりはひとつのハードルかとおもっていたのに、
あっけないほどかんたんにできた。
作業時間は90分くらい。
わたしの田んぼはパラパラとイネがはえている程度だから、
ちいさなハデで用がたりるからだ。
8メートルのながさで、2段のつくりにした。
もしたりなかったら、3段目をうえにたせばいい。
それくらいのたかさだと、そんなに頑丈につくらなくても
たおれたりしないだろう。
ハデのなかには5段以上にくんだものがあり、
たかくなるほど しっかりささえなければ
風をうけたときにたおれたりする。
せっかくイネをたてかけたハデが グシャリとこわれたら、
もういちどたてなおすのに、めちゃくちゃ手間がかかる。
柱になる木を田んぼにつきさして、
竹ざおをその柱にわたしていく。
それだけでは風によわいから、
ささえる木を柱にとりつける。
ラグビーのスクラムみたいに
どこからおされてもたおれないような
説得力のある形をイメージしてとりくんだ。
もちろんわたしにそんな仕事ができるわけがなく、
できあがったのは必要最低限のなんちゃってハデだ。
ハデづくりなんて、経験豊富なひとにしかできないとおもっていたけど、
そこそこのものなら だれにでもつくれる。
イネをかわかすという 用がたりればいいのだ。
いまのコメづくりでは、
コンバインでのイネかりがおおく、
ハデをあまりみかけなくなった。
コンバインだと、イネかりと脱穀をいちどにしてくれるので、
イネをほす作業が必要ないからだ。
そもそも米づくりじたい、
自分の家でやるというよりも、
会社へうけおいにだすことがほとんどだという。
田んぼは自分のものだけど、
田うえからイネかりまでぜんぶその会社がやってくれる。
うけおう会社としては できるだけ省力化したいので、
ハデなんかつくらずに
コンバインでいっぺんに仕事をすませる。
わたしがやりたい自然農法は、
おおきな機械となじまない。
イネかりも、とうぜんカマだけの仕事となる。
ただ、ひとりでやることにこだわっているわけではなく、
もうすこしかかわってくれるひとをふやして
にぎやかにやれたらとおもっている。
ハデとは、かりとったイネをかわかすための
おおきな洗濯ほし場みたいなもので、
地域によっていろいろなよび名・形がある。
ふつうハデづくりは何人かがチームでとりかかる。
わたしひとりでは、どんなハデができるだろう。
不器用なわたしにとって、
ハデづくりはひとつのハードルかとおもっていたのに、
あっけないほどかんたんにできた。
作業時間は90分くらい。
わたしの田んぼはパラパラとイネがはえている程度だから、
ちいさなハデで用がたりるからだ。
8メートルのながさで、2段のつくりにした。
もしたりなかったら、3段目をうえにたせばいい。
それくらいのたかさだと、そんなに頑丈につくらなくても
たおれたりしないだろう。
ハデのなかには5段以上にくんだものがあり、
たかくなるほど しっかりささえなければ
風をうけたときにたおれたりする。
せっかくイネをたてかけたハデが グシャリとこわれたら、
もういちどたてなおすのに、めちゃくちゃ手間がかかる。
柱になる木を田んぼにつきさして、
竹ざおをその柱にわたしていく。
それだけでは風によわいから、
ささえる木を柱にとりつける。
ラグビーのスクラムみたいに
どこからおされてもたおれないような
説得力のある形をイメージしてとりくんだ。
もちろんわたしにそんな仕事ができるわけがなく、
できあがったのは必要最低限のなんちゃってハデだ。
ハデづくりなんて、経験豊富なひとにしかできないとおもっていたけど、
そこそこのものなら だれにでもつくれる。
イネをかわかすという 用がたりればいいのだ。
いまのコメづくりでは、
コンバインでのイネかりがおおく、
ハデをあまりみかけなくなった。
コンバインだと、イネかりと脱穀をいちどにしてくれるので、
イネをほす作業が必要ないからだ。
そもそも米づくりじたい、
自分の家でやるというよりも、
会社へうけおいにだすことがほとんどだという。
田んぼは自分のものだけど、
田うえからイネかりまでぜんぶその会社がやってくれる。
うけおう会社としては できるだけ省力化したいので、
ハデなんかつくらずに
コンバインでいっぺんに仕事をすませる。
わたしがやりたい自然農法は、
おおきな機械となじまない。
イネかりも、とうぜんカマだけの仕事となる。
ただ、ひとりでやることにこだわっているわけではなく、
もうすこしかかわってくれるひとをふやして
にぎやかにやれたらとおもっている。
2015年09月26日
『1ポンドの福音』(高橋留美子) 異質なものをくみあわせるうまさ
『1ポンドの福音』(高橋留美子・小学館)
あたらしいアイデアは、
すでにあるもの同士の くみあわせなのだそうで、
まったく接点のなさそうなふたつをくみあわせると
意外性のせいか、たいていおもしろい。
『セーラ服と機関銃』みたいに。
『1ポンドの福音』も、ボクサーとシスターだから、
ふつうは関係なさそうなふたりだ。
このアイデアをおもいついた時点で、
半分くらい成功が約束されている。
もうひとつひねってあるのが
ボクサーなのに減量がへたという設定だ。
畑中耕作はまじめな顔をしながら
ランニングちゅうに ついラーメンをたべたりする。
ボクシングものは、ストイックな男たちのはなしがおおいなかで、
耕作は「迷える子羊」として
ノーテンキな性格と おうせな食欲から、まわりをうらぎりつづける。
試合ちゅう、うがい用の水をのみほしたり、
ボディにパンチをもらってはきだしたり
(胃袋にものがはいったまま試合するなんて、ありえないらしい)。
ボクシングマンガなので、とうぜん体重のはなしになる。
耕作はライト級でデビューし、
減量の失敗をくりかえしながら
ジュニアバンタム→バンタム→ジュニアフェザーときて、
いまでは57.15キロのフェザー級だ。
自分の体重がどのクラスにあてはまるのか気になって、
階級ごとの体重をたしかめる。
180センチ・63キロのわたしは、減量しなくても
ジュニアウェルター級でぴったりだ。
でもまあ、体重がおさまってればいいというものではなく、
やせぽっちのわたしがリングにあがったら、
かなり場ちがいな存在だろう。
それに、ウェルター級は選手層があついらしく、
すこしぐらいうでがながくたって、どうしようもない。
へんな気をおこさなくてよかった。
しぼりこんだボクサーのからだにあこがれるいっぽうで、
筋肉のよろいをまとったようなラグビー選手のからだもすごい。
たとえば五郎丸選手は185センチ99キロで、
ちかくでみたら きっと筋肉のかたまりだろう。
ほかの選手にしても、筋肉がもりあがり 血管がうきでていて、
自分のからだをうごかすというよりも、
ロボットをあやつっているようにみえる。
からだをうごかすたびに、
「ジャキーン!、ジャキーン!」と音がきこえてきそうだ。
ラグビーに特化すると、究極的にはああした体格になる。
筋肉はプロテクターみたいなものだ。
今回のラグビーWカップで、
ラグビー選手のかっこよさが ひろくしられるのではないか。
自分のからだを武器として発達させ、
スピードとスタミナと闘争心を、極限までにたかめた選手たち。
それぞれの競技に特化したからだはうつくしい。
わたしがいちばんすきなのは、
競泳の女子選手のからだつきだ。
肩幅があり、筋肉はやわらかそうで、
もちろんムダな肉はすこしもついてない。
ローティーンのときから
いちにちに1万メートルという練習を、何年もつづけた成果だ。
おとなになってから、ダイエットやトレーニングにとりくんでも
ああしたからだには絶対になれない。
ボクシングとまったく関係ないはなしになってしまった。
ボクシングとラグビーと競泳をかけあわせて
なにか接点をみつけられたら、
それこそがいいアイデアだ。
あたらしいアイデアは、
すでにあるもの同士の くみあわせなのだそうで、
まったく接点のなさそうなふたつをくみあわせると
意外性のせいか、たいていおもしろい。
『セーラ服と機関銃』みたいに。
『1ポンドの福音』も、ボクサーとシスターだから、
ふつうは関係なさそうなふたりだ。
このアイデアをおもいついた時点で、
半分くらい成功が約束されている。
もうひとつひねってあるのが
ボクサーなのに減量がへたという設定だ。
畑中耕作はまじめな顔をしながら
ランニングちゅうに ついラーメンをたべたりする。
ボクシングものは、ストイックな男たちのはなしがおおいなかで、
耕作は「迷える子羊」として
ノーテンキな性格と おうせな食欲から、まわりをうらぎりつづける。
試合ちゅう、うがい用の水をのみほしたり、
ボディにパンチをもらってはきだしたり
(胃袋にものがはいったまま試合するなんて、ありえないらしい)。
ボクシングマンガなので、とうぜん体重のはなしになる。
耕作はライト級でデビューし、
減量の失敗をくりかえしながら
ジュニアバンタム→バンタム→ジュニアフェザーときて、
いまでは57.15キロのフェザー級だ。
自分の体重がどのクラスにあてはまるのか気になって、
階級ごとの体重をたしかめる。
180センチ・63キロのわたしは、減量しなくても
ジュニアウェルター級でぴったりだ。
でもまあ、体重がおさまってればいいというものではなく、
やせぽっちのわたしがリングにあがったら、
かなり場ちがいな存在だろう。
それに、ウェルター級は選手層があついらしく、
すこしぐらいうでがながくたって、どうしようもない。
へんな気をおこさなくてよかった。
しぼりこんだボクサーのからだにあこがれるいっぽうで、
筋肉のよろいをまとったようなラグビー選手のからだもすごい。
たとえば五郎丸選手は185センチ99キロで、
ちかくでみたら きっと筋肉のかたまりだろう。
ほかの選手にしても、筋肉がもりあがり 血管がうきでていて、
自分のからだをうごかすというよりも、
ロボットをあやつっているようにみえる。
からだをうごかすたびに、
「ジャキーン!、ジャキーン!」と音がきこえてきそうだ。
ラグビーに特化すると、究極的にはああした体格になる。
筋肉はプロテクターみたいなものだ。
今回のラグビーWカップで、
ラグビー選手のかっこよさが ひろくしられるのではないか。
自分のからだを武器として発達させ、
スピードとスタミナと闘争心を、極限までにたかめた選手たち。
それぞれの競技に特化したからだはうつくしい。
わたしがいちばんすきなのは、
競泳の女子選手のからだつきだ。
肩幅があり、筋肉はやわらかそうで、
もちろんムダな肉はすこしもついてない。
ローティーンのときから
いちにちに1万メートルという練習を、何年もつづけた成果だ。
おとなになってから、ダイエットやトレーニングにとりくんでも
ああしたからだには絶対になれない。
ボクシングとまったく関係ないはなしになってしまった。
ボクシングとラグビーと競泳をかけあわせて
なにか接点をみつけられたら、
それこそがいいアイデアだ。
2015年09月25日
『カツ丼わしづかみ食いの法則』(椎名誠)カツ丼だけがもつ魔法のちから
『カツ丼わしづかみ食いの法則』(椎名誠・毎日新聞社)
サンデー毎日に連載されているエッセイ「ナマコのからえばり」シリーズの9冊目。
わたしは椎名さんのファンだけど、
1冊の本としてみると、そうおもしろいできではない。
そのなかで、ひとつだけよませるのが、
タイトルにもとりいれられている
「カツ丼がしがし親父の説得力」だ。
カツ丼が、いちばん実力のある日本食だとわたしはおもう。
目にうったえるちからも、お腹にはいったときの満足感も、
ほかの料理を圧倒している。
そして、カツ丼の実力をひきだすには、
ちまちました三角たべなんかふさわしくない。
親父さんのようにハシをおかず、連続技で
いっきにかきこむぐらいの熱意でむかわなければ、
カツ丼をくったとはいえないのではないか。
わかいころならまだしも、
いまのわたしには この親父さんみたいな
ただしいカツ丼のたべ方はできない。
つよい胃袋と、健全な食欲をかねそなえていなければ、
カツ丼の魅力をひきだせない。
もちろんカツ丼それじたいが、
それだけ夢中でかきこめるほどの
完璧なできでなければならない。
椎名さんが目にした「カツ丼わしづかみ食い」の現場は、
そのすべての条件をみたした
しあわせなであいだったのだろう。
椎名さんは親父さんのたべ方に感動したあとで、
おわんをしっかりにぎってたべるのは、
日本と中国だけといってよく、
ほかの国はどこも、お皿やおわんは
テーブルにおいたままたべるのが基本的な作法となっている。
お皿にのったカツ丼に、ナイフとフォークでむかったら、
これはもう カツ丼といえないだろう。
カツ丼は、おわんをかかえ ワシワシかきこむ日本で
生まれるべくして生まれたといえる。
それにしても、この親父さんは
みそ汁をすうときさえカツ丼をはなさなかった。
完全にマナー違反だけど、
迫力のあるたべ方のまえには
すべてがゆるされる特殊なケースだ。
『キッチン』(吉本ばなな)であきらかなように、
よくできたカツ丼には、状況をかえる魔力がある。
たとえば「カツ丼をおごるよ」といわれたら
だれでもたいていのことをひきうけるはずだ。
ラーメンやカレーといえども、この魔力はない。
すぐれたカツ丼だけがもつこのちからは、
たしかに「法則」といっていいのかもしれない。
サンデー毎日に連載されているエッセイ「ナマコのからえばり」シリーズの9冊目。
わたしは椎名さんのファンだけど、
1冊の本としてみると、そうおもしろいできではない。
そのなかで、ひとつだけよませるのが、
タイトルにもとりいれられている
「カツ丼がしがし親父の説得力」だ。
そのときのおっさんの食い方が素晴らしかった。カツ丼を左手でがっちり掴み、割り箸を右手に力強く「がしがし」と食った。絶妙の力配分で、がっちり掴んだカツ丼と箸の動きが躍動している。おっさんはいっときもカツ丼をテーブルの上にはおかず、ずっとがっしり左手で掴んだまま「がしがし」と食っている。ほりぼれするような箸と丼との連続技だ。ときどきオシンコをつまみ、味噌汁は箸を置いて右手で椀を掴んで飲む。カツ丼を持つ左手はあくまでもドンブリを掴んだままだ。
カツ丼が、いちばん実力のある日本食だとわたしはおもう。
目にうったえるちからも、お腹にはいったときの満足感も、
ほかの料理を圧倒している。
そして、カツ丼の実力をひきだすには、
ちまちました三角たべなんかふさわしくない。
親父さんのようにハシをおかず、連続技で
いっきにかきこむぐらいの熱意でむかわなければ、
カツ丼をくったとはいえないのではないか。
わかいころならまだしも、
いまのわたしには この親父さんみたいな
ただしいカツ丼のたべ方はできない。
つよい胃袋と、健全な食欲をかねそなえていなければ、
カツ丼の魅力をひきだせない。
もちろんカツ丼それじたいが、
それだけ夢中でかきこめるほどの
完璧なできでなければならない。
椎名さんが目にした「カツ丼わしづかみ食い」の現場は、
そのすべての条件をみたした
しあわせなであいだったのだろう。
椎名さんは親父さんのたべ方に感動したあとで、
世界の食い物のなかであのように食うべきものを片手でがっしり最後まで握ってそのまんま食っていく、という食い方はどれほどあるだろうか。とつづけている。
おわんをしっかりにぎってたべるのは、
日本と中国だけといってよく、
ほかの国はどこも、お皿やおわんは
テーブルにおいたままたべるのが基本的な作法となっている。
お皿にのったカツ丼に、ナイフとフォークでむかったら、
これはもう カツ丼といえないだろう。
カツ丼は、おわんをかかえ ワシワシかきこむ日本で
生まれるべくして生まれたといえる。
それにしても、この親父さんは
みそ汁をすうときさえカツ丼をはなさなかった。
完全にマナー違反だけど、
迫力のあるたべ方のまえには
すべてがゆるされる特殊なケースだ。
『キッチン』(吉本ばなな)であきらかなように、
よくできたカツ丼には、状況をかえる魔力がある。
たとえば「カツ丼をおごるよ」といわれたら
だれでもたいていのことをひきうけるはずだ。
ラーメンやカレーといえども、この魔力はない。
すぐれたカツ丼だけがもつこのちからは、
たしかに「法則」といっていいのかもしれない。
2015年09月24日
ラグビーWカップ 日本対スコットランド 残念ながら10-45の完敗
前半こそ7対12と5点差でおりかえしたものの、
後半につぎつぎと トライをゆるし、10-45の完敗となる。
実況放送の解説者によると、
スコットランドは前半につよく、
後半は失点がおおくなるチームといい、
日本の豊富な運動量をもってすれば
つけいるスキがありそうだ。
前半を予定どおり接戦にもちこめたので、
後半に期待しながら応援する。
しかし、後半になってもスコットランドはつかれをみせず、
反対に 日本はミスがなんどもでて
たてつづけに5トライをきめられる。
日本は、あと1メートルにせまりながらも
なかなかインゴールにもちこめない。
にわかファンの目からみると、
日本は得意の運動量をいかせずに、
相手のいいところばかりをださせてしまった。
南アフリカ戦から中3日の日程は、
選手にとってそうとう負担だったようで、
うごきにキレがなく、
さいごまでスコットランドペースの試合となった。
スコットランド戦とは関係ないけど、
南アフリカとの試合をもういちどみていたら、
日本チームの奇跡的な健闘に、
かんきわまった日本人男性がうつっていた。
おおきな布(たぶん旗)にくるまるようにして、
なみだぐみながら、ただピッチをみつめている。
目のまえでくりひろげられる 日本選手の感動的なプレーに、
うれしさから放心状態だ。
そのひとが、はっとおどろくほど安部首相によくにていた。
もし安部首相があの試合会場にいて、
日本のがんばりに涙ぐんでいたら、
おおくのひとの共感をよび、
ものすごく支持率があがったはずだ。
きっと阿部さんは おしいことをしたと くやんでいるだろう。
反対側からみると、あのひとが安部首相でなくて
たすかったのではないか。
野党の党首ではだめだ。
いま、いろいろたたかれている安部首相だからこそ 効果的な場面だった。
だれもかつとはおもわなかった南アフリカ戦に安部首相があらわれて、
無防備になみだする素顔をさらしたら、だれだって好意をよせる。
イメージをあげる またとない機会をのがしたのは、
阿部さんにとって痛恨の分岐点になるというのが
にわかラグビーファンであるわたしの予測だ。
10月3日におこなわれるつぎのサモア戦に、
もしかしたら安部首相があらわれて、涙ぐまれるかもしれない。
政治は政治、ラグビーはラグビーである。
「ほんとはいいひとなんだ」なんて、
うっかり感激しないよう、
日本人サポーターおよびテレビの視聴者に
あらかじめ予防線をはっておきたい。
後半につぎつぎと トライをゆるし、10-45の完敗となる。
実況放送の解説者によると、
スコットランドは前半につよく、
後半は失点がおおくなるチームといい、
日本の豊富な運動量をもってすれば
つけいるスキがありそうだ。
前半を予定どおり接戦にもちこめたので、
後半に期待しながら応援する。
しかし、後半になってもスコットランドはつかれをみせず、
反対に 日本はミスがなんどもでて
たてつづけに5トライをきめられる。
日本は、あと1メートルにせまりながらも
なかなかインゴールにもちこめない。
にわかファンの目からみると、
日本は得意の運動量をいかせずに、
相手のいいところばかりをださせてしまった。
南アフリカ戦から中3日の日程は、
選手にとってそうとう負担だったようで、
うごきにキレがなく、
さいごまでスコットランドペースの試合となった。
スコットランド戦とは関係ないけど、
南アフリカとの試合をもういちどみていたら、
日本チームの奇跡的な健闘に、
かんきわまった日本人男性がうつっていた。
おおきな布(たぶん旗)にくるまるようにして、
なみだぐみながら、ただピッチをみつめている。
目のまえでくりひろげられる 日本選手の感動的なプレーに、
うれしさから放心状態だ。
そのひとが、はっとおどろくほど安部首相によくにていた。
もし安部首相があの試合会場にいて、
日本のがんばりに涙ぐんでいたら、
おおくのひとの共感をよび、
ものすごく支持率があがったはずだ。
きっと阿部さんは おしいことをしたと くやんでいるだろう。
反対側からみると、あのひとが安部首相でなくて
たすかったのではないか。
野党の党首ではだめだ。
いま、いろいろたたかれている安部首相だからこそ 効果的な場面だった。
だれもかつとはおもわなかった南アフリカ戦に安部首相があらわれて、
無防備になみだする素顔をさらしたら、だれだって好意をよせる。
イメージをあげる またとない機会をのがしたのは、
阿部さんにとって痛恨の分岐点になるというのが
にわかラグビーファンであるわたしの予測だ。
10月3日におこなわれるつぎのサモア戦に、
もしかしたら安部首相があらわれて、涙ぐまれるかもしれない。
政治は政治、ラグビーはラグビーである。
「ほんとはいいひとなんだ」なんて、
うっかり感激しないよう、
日本人サポーターおよびテレビの視聴者に
あらかじめ予防線をはっておきたい。
2015年09月23日
サッポロ一番みそラーメンをめぐる DV的ふかいかなしみ
わたしの敬愛するいしいひさいち氏が、
なにかの機会に
「ラーメンは、やっぱりサッポロ一番みそラーメンでしょう」
ときっぱり(たしか)発言していたのをおもいだし、
スーパーのやすうりで 5袋いり298円をかった。
いざというときのストックとして
ダンボールにいれておく。
きのうのひるごはんは、めぼしいのこりものがなかったため、
そのみそラーメンをとりだして おなかをみたした。
わたしの大切なみそラーメンだけど、
家族のために のこり4袋は食器棚にいれておいた。
ところが夜その棚をみると、みそラーメンがない。
配偶者によって、電話のちかくという
ラーメンとしたらありえな場所にうつされていた。
ここはわたしのスペースなのだから、
あんたがかってにみそラーメンなんかおくんじゃないという、
配偶者からのつめたいメッセージだ。
わたしのみそラーメンを、なんだとおもっているのか。
まったく友好的でない態度にわたしはショックをうけ、
4袋のみそラーメンを、災害用ストックのダンボールにもどした。
なんという屈辱感。
彼女は自分がきめた場所に、ラ王や正麺など、
いまふうのおいしいインスタントラーメンをおきたいのだ。
サッポロ一番みそラーメンは、貧乏な学生や、
いしいひ氏のこのみからはただしいラーメンでも、
おいしさだけをもとめる余裕のない選択では はじかれやすい。
わたしはしかし、ほんもののラーメンに似せた
おいしいラーメンに、なんとなく反発をかんじてしまう。
わたしがたべたいのはインスタントラーメンであって、
ラーメンにちかづこうとするインスタントラーメンではない。
みそラーメンにこだわるのはただのノスタルジーで、
わたしがそれだけふるい人間なのだろう。
小学生のころ、学校からかえると毎日のようにおやつとして
日清出前一丁をつくってたべていたのが
わたしとインスタントラーメンとの関係を決定づけた。
生ラーメンもおいしいけれど、
これは別の種類のラーメンであり、
インスタントラーメンといえばチープな袋めんにとどめをさす。
みそラーメンがはたしてきた歴史的なやくわりをおもえば、
インスタントラーメンおき場から みそラーメンをはじくなんて
あまりにもひどい。
けさの朝日新聞で、ドメスティックバイオレンスをとりあげていた。
DV防止法が成立してから15年たつという。
被害の1割は男性なのだそうで、
記事ではめずらしく男性のケースに焦点をあてている。
ということと、みそラーメンのあつかいには
もちろんなんの関係もないけれど、
なんとなく ふかい共感をおぼえながら記事をよんだ。
なにかの機会に
「ラーメンは、やっぱりサッポロ一番みそラーメンでしょう」
ときっぱり(たしか)発言していたのをおもいだし、
スーパーのやすうりで 5袋いり298円をかった。
いざというときのストックとして
ダンボールにいれておく。
きのうのひるごはんは、めぼしいのこりものがなかったため、
そのみそラーメンをとりだして おなかをみたした。
わたしの大切なみそラーメンだけど、
家族のために のこり4袋は食器棚にいれておいた。
ところが夜その棚をみると、みそラーメンがない。
配偶者によって、電話のちかくという
ラーメンとしたらありえな場所にうつされていた。
ここはわたしのスペースなのだから、
あんたがかってにみそラーメンなんかおくんじゃないという、
配偶者からのつめたいメッセージだ。
わたしのみそラーメンを、なんだとおもっているのか。
まったく友好的でない態度にわたしはショックをうけ、
4袋のみそラーメンを、災害用ストックのダンボールにもどした。
なんという屈辱感。
彼女は自分がきめた場所に、ラ王や正麺など、
いまふうのおいしいインスタントラーメンをおきたいのだ。
サッポロ一番みそラーメンは、貧乏な学生や、
いしいひ氏のこのみからはただしいラーメンでも、
おいしさだけをもとめる余裕のない選択では はじかれやすい。
わたしはしかし、ほんもののラーメンに似せた
おいしいラーメンに、なんとなく反発をかんじてしまう。
わたしがたべたいのはインスタントラーメンであって、
ラーメンにちかづこうとするインスタントラーメンではない。
みそラーメンにこだわるのはただのノスタルジーで、
わたしがそれだけふるい人間なのだろう。
小学生のころ、学校からかえると毎日のようにおやつとして
日清出前一丁をつくってたべていたのが
わたしとインスタントラーメンとの関係を決定づけた。
生ラーメンもおいしいけれど、
これは別の種類のラーメンであり、
インスタントラーメンといえばチープな袋めんにとどめをさす。
みそラーメンがはたしてきた歴史的なやくわりをおもえば、
インスタントラーメンおき場から みそラーメンをはじくなんて
あまりにもひどい。
けさの朝日新聞で、ドメスティックバイオレンスをとりあげていた。
DV防止法が成立してから15年たつという。
被害の1割は男性なのだそうで、
記事ではめずらしく男性のケースに焦点をあてている。
ということと、みそラーメンのあつかいには
もちろんなんの関係もないけれど、
なんとなく ふかい共感をおぼえながら記事をよんだ。
2015年09月22日
吉田くんのTシャツ「島根か鳥取か分からないけど そこら辺に行きました」の威力
連休で東京から帰省していた姉が、
おみやげ屋さんで吉田くんのTシャツをかってきた。
おなじみの自虐的ギャグは
おなじセリフが おかしの箱にもつかわれているそうだ。
いつものように自虐してるとおもわせて、
じつはこまかな配慮がいきとどいている。
ほかの県のひとにとって、
島根だろうが鳥取だろうが、
どうせどこにあるのかわからないのだから、
このさいいっしょくたにして「そこら辺」としてくくるのは
ひとつのただしい解決策だ。
島根と鳥取の対立を、いくらかやわらげてもくれるだろう。
そうはいっても 島根だけがおおきくかかれ 色もピンクだし、
なによりも地図には島根のとこらへんだけ
色がつけてある。
客観的には島根よりのTシャツなのはあきらかだ。
鳥取からみると、対等にあつかわれた気はしないかもしれない。
ネットにはこのTシャツについて
「鳥取県はとても面白い宣伝をするねwww」
「見終わってもやっぱり鳥取って覚えてしまっていたw」
など、残念な感想があがっている。
島根の知名度があいかわらずひくいこと、
島根と鳥取はほかの県のひとにとってセットであること、
けっきょく島根がどこにあるかは印象にのこらないこと、
がよくわかる。
どれだけ根のふかい問題なのだろう。
ひとは、おぼえてくれといわれると
反発から かえって頭にはいらないもので、
そこで反対に「島根のことなんかだれもしりません」と
負け犬になっておなかをさらしたのが
鷹の爪の自虐ギャグだ。
しかし、ギャグばかりに意識がむかいすぎ、
けっきょく島根については あいかわらず印象にのこらない
「そこら辺」の県でしかない。
姉はおみやげとしてこのTシャツをかったのではなく、
職場でもきているそうだ。
「そこら辺に行きました」のほかに
すでに2枚の自虐Tシャツをもっているので、
これでローテーションがくめるという。
姉は特別支援学級をうけもっており、
このTシャツだと なにかと話題にしやすいらしい。
ただ、子どもたちにも島根がどこにあるかは
あいかわらずむつかしい問題で、
その意味でもこの「そこら辺に行きました」は
子どもたちを勇気づけるTシャツとなる。
けっきょく 島根だろうが 鳥取だろうが、どっちだっていいのだ。
東京にも もちろん島根県出身のひとがくらしている。
姉はときどきおもわぬ場所で「もと島根県のひと」にであい、
「島根県民あるある」にもりあがるのだそうだ。
そんなときにもこの吉田くんTシャツは
おおきなちからを発揮してくれる、
かどうかはわからない。
おみやげ屋さんで吉田くんのTシャツをかってきた。
おなじみの自虐的ギャグは
島根か鳥取か分からないけど
そこら辺に行きました。
おなじセリフが おかしの箱にもつかわれているそうだ。
いつものように自虐してるとおもわせて、
じつはこまかな配慮がいきとどいている。
ほかの県のひとにとって、
島根だろうが鳥取だろうが、
どうせどこにあるのかわからないのだから、
このさいいっしょくたにして「そこら辺」としてくくるのは
ひとつのただしい解決策だ。
島根と鳥取の対立を、いくらかやわらげてもくれるだろう。
そうはいっても 島根だけがおおきくかかれ 色もピンクだし、
なによりも地図には島根のとこらへんだけ
色がつけてある。
客観的には島根よりのTシャツなのはあきらかだ。
鳥取からみると、対等にあつかわれた気はしないかもしれない。
ネットにはこのTシャツについて
「鳥取県はとても面白い宣伝をするねwww」
「見終わってもやっぱり鳥取って覚えてしまっていたw」
など、残念な感想があがっている。
島根の知名度があいかわらずひくいこと、
島根と鳥取はほかの県のひとにとってセットであること、
けっきょく島根がどこにあるかは印象にのこらないこと、
がよくわかる。
どれだけ根のふかい問題なのだろう。
ひとは、おぼえてくれといわれると
反発から かえって頭にはいらないもので、
そこで反対に「島根のことなんかだれもしりません」と
負け犬になっておなかをさらしたのが
鷹の爪の自虐ギャグだ。
しかし、ギャグばかりに意識がむかいすぎ、
けっきょく島根については あいかわらず印象にのこらない
「そこら辺」の県でしかない。
姉はおみやげとしてこのTシャツをかったのではなく、
職場でもきているそうだ。
「そこら辺に行きました」のほかに
すでに2枚の自虐Tシャツをもっているので、
これでローテーションがくめるという。
姉は特別支援学級をうけもっており、
このTシャツだと なにかと話題にしやすいらしい。
ただ、子どもたちにも島根がどこにあるかは
あいかわらずむつかしい問題で、
その意味でもこの「そこら辺に行きました」は
子どもたちを勇気づけるTシャツとなる。
けっきょく 島根だろうが 鳥取だろうが、どっちだっていいのだ。
東京にも もちろん島根県出身のひとがくらしている。
姉はときどきおもわぬ場所で「もと島根県のひと」にであい、
「島根県民あるある」にもりあがるのだそうだ。
そんなときにもこの吉田くんTシャツは
おおきなちからを発揮してくれる、
かどうかはわからない。
2015年09月21日
ラグビーWカップ 南アフリカ戦の勝利に にわかファンのスイッチがはいる
ラグビーWカップがはじまるまえに、
特集番組がいくつかくまれた。
サッカーのWカップばかりが日本では注目をあつめるけれど、
世界的にみると ラグビーWカップもまた おおきな大会なのだそうだ。
テレビ局が特番をくんだ背景には、
今回の日本代表が歴代でいちばん実力があり、
もしかしたら意外な活躍をするのではという予感、
もしくはムードがあった。
というのが南アフリカ戦のまえの情報で、
しかし試合が午前零時におこなわれるため、
ま、いいかと実況放送をあっさりみおくった。
おきてみると、日本が奇跡的な勝利をおさめたと
ネットにたくさんの記事がのり、
後半終了間際のありえない逆転勝利をつたえている。
あわてておひるからの再放送をみた。
じつはラグビーのルールをよくしらない。
ボールをまえにはこぼうとめざしながら、
まえにボールをパスしてはいけないオフサイドルールが
サッカーよりもあきらかに厳密だ。
手でボールをあつかうだけに、サッカーほど偶然に左右されず、
実力の差がそのままでてしまう。
サッカーでは、まもりをかためることで、
はるかに格下のチームが上位チームにたいし
0-1なんて試合にもちこめるけど、
ラグビーではありえないようだ。
かつての日本のように、何十点の差をつけられ、
実力の壁をおもいしらされる。
極限まできたえあげられた選手どうしが
すごいスピードでぶつかりあっている。
ひとりの天才による個人プレーで
なんとかできる範囲はすくない。
チーム全体でちからをあつめなければ
相手のいきおいをうけとめられないし、
こちらからの攻撃もつながらない。
サッカーしかしらない目には、
集団でつぶしあいをしているようにみえる。
筋肉のかたまりである相手選手に、
日本選手がなんどもぶちあたっていく。
わたしのなかの とぼしい愛国心がさわぐ。
165センチと、こがらな選手もいっしょにプレーしている。
こわくないのだろうか。
ケガをしないのだろうか。
相手への闘争心をもやしながら
サッカーほど露骨に個人的な報復にでないし、
おおげさにいたがったり ファールをもらおうとしない。
すべてのプレーが、ボールをまえにはこぶためだけむけられる。
献身的なプレーでチームにつくす選手たちが
わたしの琴線にふれる。
それにしても、わたしはいつもながらのにわかファンだ。
サッカー女子Wカップのときも、
ソチオリンピックのときもこうだった。
世間が注目するようになったのと
おなじタイミングでやっとおもい腰をあげる。
これまでラグビーの試合をみたことがなかったのに、
奇跡的な日本の勝利にいっしょになって感動する。
ほんもののすごさをかぎとる本能的な反応と
自分では位置づけている。
メディアにあやつられているだけかもしれないけれど、
こころのたかまりに いつわりはない。
だからこそただしい にわかファンだ。
2011年に女子の日本代表がアメリカをやぶったときと
おなじ興奮によいながら、
選手たちの健闘に感謝した。
(※試合についての正確で感動的な情報として、
フモフモさんのブログをぜひおよみください)
特集番組がいくつかくまれた。
サッカーのWカップばかりが日本では注目をあつめるけれど、
世界的にみると ラグビーWカップもまた おおきな大会なのだそうだ。
テレビ局が特番をくんだ背景には、
今回の日本代表が歴代でいちばん実力があり、
もしかしたら意外な活躍をするのではという予感、
もしくはムードがあった。
というのが南アフリカ戦のまえの情報で、
しかし試合が午前零時におこなわれるため、
ま、いいかと実況放送をあっさりみおくった。
おきてみると、日本が奇跡的な勝利をおさめたと
ネットにたくさんの記事がのり、
後半終了間際のありえない逆転勝利をつたえている。
あわてておひるからの再放送をみた。
じつはラグビーのルールをよくしらない。
ボールをまえにはこぼうとめざしながら、
まえにボールをパスしてはいけないオフサイドルールが
サッカーよりもあきらかに厳密だ。
手でボールをあつかうだけに、サッカーほど偶然に左右されず、
実力の差がそのままでてしまう。
サッカーでは、まもりをかためることで、
はるかに格下のチームが上位チームにたいし
0-1なんて試合にもちこめるけど、
ラグビーではありえないようだ。
かつての日本のように、何十点の差をつけられ、
実力の壁をおもいしらされる。
極限まできたえあげられた選手どうしが
すごいスピードでぶつかりあっている。
ひとりの天才による個人プレーで
なんとかできる範囲はすくない。
チーム全体でちからをあつめなければ
相手のいきおいをうけとめられないし、
こちらからの攻撃もつながらない。
サッカーしかしらない目には、
集団でつぶしあいをしているようにみえる。
筋肉のかたまりである相手選手に、
日本選手がなんどもぶちあたっていく。
わたしのなかの とぼしい愛国心がさわぐ。
165センチと、こがらな選手もいっしょにプレーしている。
こわくないのだろうか。
ケガをしないのだろうか。
相手への闘争心をもやしながら
サッカーほど露骨に個人的な報復にでないし、
おおげさにいたがったり ファールをもらおうとしない。
すべてのプレーが、ボールをまえにはこぶためだけむけられる。
献身的なプレーでチームにつくす選手たちが
わたしの琴線にふれる。
それにしても、わたしはいつもながらのにわかファンだ。
サッカー女子Wカップのときも、
ソチオリンピックのときもこうだった。
世間が注目するようになったのと
おなじタイミングでやっとおもい腰をあげる。
これまでラグビーの試合をみたことがなかったのに、
奇跡的な日本の勝利にいっしょになって感動する。
ほんもののすごさをかぎとる本能的な反応と
自分では位置づけている。
メディアにあやつられているだけかもしれないけれど、
こころのたかまりに いつわりはない。
だからこそただしい にわかファンだ。
2011年に女子の日本代表がアメリカをやぶったときと
おなじ興奮によいながら、
選手たちの健闘に感謝した。
(※試合についての正確で感動的な情報として、
フモフモさんのブログをぜひおよみください)
2015年09月20日
西村まさゆきさんの「用はないけど行ってみる」(「デイリーポータルZ」)をたかく評価する
「デイリーポータルZ」に西村まさゆきさんの
「用はないけど行ってみる」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/150907194499_1.htm
たのまれもしないのに、かってにやってしまうのは
デイリーポータルZの基本的な精神だ。
しかし、「用はないけど行ってみる」を
どうやって目にみえるようにするかは 意外とむつかしい。
企画会議で「用はないけど行ってみる」といわれたとき、
きいているひとは あまりにもふつうでないかんがえ方に
のけぞったのではないか。
この記事は、形のないものを具体化した画期的な企画として、
記念的な作品になるだろう。
デイリーポータルZは、あたらしいステージに到達したのだ。
記事のなかで西村さんは
用もないのに目黒区役所へまずでかけ、
和室を見学し、食堂でひるごはんもたべ、
区議会を傍聴しする。
そのあとも、住宅展示場・動物病院
・同僚の実家をたずねている。
もちろん用はない。
基本的に、たいていのところは
用もないのにいっても大丈夫のようだ。
あやしげな人相だったり服装だと警戒されるだろうが、
ふつうにみえるひとがふらっとたずねるかぎり、
相手側はあたまからはねつけたりしない。
もちろん相手側も、ただ訪問をうけるだけでなく、
自分たちのセールスであったり都合もつたえてくる。
住宅展示場ではローンをくんで家の購入をすすめられるし、
動物病院では くるまえに電話をしたほうがいいかも、と
かるくジャブをうける。
さいごにたずねた同僚の実家へは、
ちゃんとくだものの もりあわせをおみやげにする。
同僚といっても、これまでに4回しかあったことはない。
ほんとうに用はないので恐縮しながらの訪問だ。
突然の訪問をうけたお母さんは、きっとおどろかれたことだろう。
と、ここまでかいていて、
じつは「用もないのにこられた」側は、
そんなにとまどわないのでは、とおもった。
ちからが必要なのは むしろたずねる側だ。
うけるほうにとって、目的がはっきりしない例はめずらしくない。
たとえば住宅展示場にくるひとのなかで、
家をかう意欲満々のひとが どれだけいるだろうか。
市役所にしても、同僚の家にしても、
なんとなくの訪問はむしろ自然であり、
たずねるほうがかってに遠慮しているだけかもしれない。
会社人間によくある例として、
自宅と職場の往復だけになってしまうひとがおおい。
よくてもそこに1ヶ所の趣味的なおでかけさきをくわえた3点が
せいぜいではないか。
世界はこんなにひろいのに、
自分から行動範囲をせまくかぎってしまい、
グルグル三角形をまわる日常からぬけだせない。
「用はないけど行ってみる」は、
ただの散歩ではないし、もちろん徘徊ともちがう。
用はないけど、ちゃんと目的の場所にいっているところが
「用はないけど行ってみる」の大切なところだ。
目的とする場所へいくのに、目的がとくに必要ないなんて、
これまでだれがおもいついただろうか。
用があってもなくても、関心があってもなくても
わたしたちはどこへでもいける。
人生の幅をひろげる異次元の発想として、
西村さんの記事をたかく評価する。
「用はないけど行ってみる」がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/150907194499_1.htm
用があるところに行く、というのは普通だが、用がないところにわざわざ行くことはそうない。
しかし、用がないところに用がないまま行くといったいどうなるのか?
別に用はないけれど、用のない場所に行ってみたい。
たのまれもしないのに、かってにやってしまうのは
デイリーポータルZの基本的な精神だ。
しかし、「用はないけど行ってみる」を
どうやって目にみえるようにするかは 意外とむつかしい。
企画会議で「用はないけど行ってみる」といわれたとき、
きいているひとは あまりにもふつうでないかんがえ方に
のけぞったのではないか。
この記事は、形のないものを具体化した画期的な企画として、
記念的な作品になるだろう。
デイリーポータルZは、あたらしいステージに到達したのだ。
記事のなかで西村さんは
用もないのに目黒区役所へまずでかけ、
和室を見学し、食堂でひるごはんもたべ、
区議会を傍聴しする。
そのあとも、住宅展示場・動物病院
・同僚の実家をたずねている。
もちろん用はない。
基本的に、たいていのところは
用もないのにいっても大丈夫のようだ。
あやしげな人相だったり服装だと警戒されるだろうが、
ふつうにみえるひとがふらっとたずねるかぎり、
相手側はあたまからはねつけたりしない。
もちろん相手側も、ただ訪問をうけるだけでなく、
自分たちのセールスであったり都合もつたえてくる。
住宅展示場ではローンをくんで家の購入をすすめられるし、
動物病院では くるまえに電話をしたほうがいいかも、と
かるくジャブをうける。
さいごにたずねた同僚の実家へは、
ちゃんとくだものの もりあわせをおみやげにする。
同僚といっても、これまでに4回しかあったことはない。
ほんとうに用はないので恐縮しながらの訪問だ。
突然の訪問をうけたお母さんは、きっとおどろかれたことだろう。
と、ここまでかいていて、
じつは「用もないのにこられた」側は、
そんなにとまどわないのでは、とおもった。
ちからが必要なのは むしろたずねる側だ。
うけるほうにとって、目的がはっきりしない例はめずらしくない。
たとえば住宅展示場にくるひとのなかで、
家をかう意欲満々のひとが どれだけいるだろうか。
市役所にしても、同僚の家にしても、
なんとなくの訪問はむしろ自然であり、
たずねるほうがかってに遠慮しているだけかもしれない。
会社人間によくある例として、
自宅と職場の往復だけになってしまうひとがおおい。
よくてもそこに1ヶ所の趣味的なおでかけさきをくわえた3点が
せいぜいではないか。
世界はこんなにひろいのに、
自分から行動範囲をせまくかぎってしまい、
グルグル三角形をまわる日常からぬけだせない。
「用はないけど行ってみる」は、
ただの散歩ではないし、もちろん徘徊ともちがう。
用はないけど、ちゃんと目的の場所にいっているところが
「用はないけど行ってみる」の大切なところだ。
目的とする場所へいくのに、目的がとくに必要ないなんて、
これまでだれがおもいついただろうか。
用があってもなくても、関心があってもなくても
わたしたちはどこへでもいける。
人生の幅をひろげる異次元の発想として、
西村さんの記事をたかく評価する。
2015年09月19日
『きらクラ!』でのそらみみ特集
『きらクラ!』でそらみみ特集をやっていた。
何年かまえに『恋のマイアヒ』が
ずいぶん日本語にきこえるので 話題になったことがある。
あれほどではないにしろ、オペラにも「そらみみ」があり、
ひとつのジャンルとしてたのしまれているのをしる。
「とんでいった財布うばい
プレミアムバラ プレミアムバラ プレミアムバラ 5皿
(「リゴレット」)」
焼肉屋さんで 上等のバラ肉がとびかう場面としかおもえない。
いったん意識すると、そのことばばかりがくっきり宙にうかんで耳にとどく。
なんとなくつじつまがあっているのがおかしい。
ほかにも
「あんたがやった」(「ウエストサイド物語」)
「家でおれはすごいおっさん」(出典をわすれました)
が紹介される。どちらも はっきりそうきこえる。
そうとしかきこえない。
ほんとうならここで、
わたしにきこえた「そらみみソング」を紹介できたらいいのだけど、
音楽にあかるくないわたしには、とくにストックがない。
ひとつだけ「そらみみ」としてかすっていそうなのに
オールブラックスのハカをあげられる。
わたしには、ハカのでだしが どうしても
「がんばって、がんばってゴール!」にきこえる。
これは、「そらみみ」というよりも
じっさいに「がんばって、がんばって」
といってるんだという説もある(ウソです)。
重要な試合まえのハカはものすごい迫力だ。
わたしが相手の選手だったら、
あのまえにたっているだけで なきだしてしまうかもしれない。
それにしても、ハカをただうけるだけだと
対戦相手はかなりつらい。
相手にのみこまれまいとしても、
あんなすごい体格と顔つきの男たちをみたら、
ただ整列してみていると 圧倒的に不利だ。
日本ならではの「おかえし」をおみまいしたいところだけど、
なにかいいアイデアはないものか。
迫力ではかないっこないので、
スピードや技を印象づけるおどりをみせて、
オールブラックスのメンバーをこまらせてやりたい。
サイトをみると、イナモト氏による
「ハカにラグビー日本代表が対抗するには」
という記事がひっかかった。
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20100331
イナモト氏は、脱力させるという方向で
ハカへの抵抗をこころみる案をだしている。
たしかにひとつの方法かもしれない。
記事の最後に ハカ対シピタウ(トンガ)の動画がのっている。
大声と身ぶりで相手をおどかしあうのをみると、
これからはじまるのは、スポーツというよりも
相手をたたきのめす たたかいであることがわかる。
彼らは武器のない戦争をしようとしているのだ。
ラグビーのWカップがはじまった。
にわかファンになって、
ほんとうはオールブラックスがなんといっているのか
耳をすませてみたい。
何年かまえに『恋のマイアヒ』が
ずいぶん日本語にきこえるので 話題になったことがある。
あれほどではないにしろ、オペラにも「そらみみ」があり、
ひとつのジャンルとしてたのしまれているのをしる。
「とんでいった財布うばい
プレミアムバラ プレミアムバラ プレミアムバラ 5皿
(「リゴレット」)」
焼肉屋さんで 上等のバラ肉がとびかう場面としかおもえない。
いったん意識すると、そのことばばかりがくっきり宙にうかんで耳にとどく。
なんとなくつじつまがあっているのがおかしい。
ほかにも
「あんたがやった」(「ウエストサイド物語」)
「家でおれはすごいおっさん」(出典をわすれました)
が紹介される。どちらも はっきりそうきこえる。
そうとしかきこえない。
ほんとうならここで、
わたしにきこえた「そらみみソング」を紹介できたらいいのだけど、
音楽にあかるくないわたしには、とくにストックがない。
ひとつだけ「そらみみ」としてかすっていそうなのに
オールブラックスのハカをあげられる。
わたしには、ハカのでだしが どうしても
「がんばって、がんばってゴール!」にきこえる。
これは、「そらみみ」というよりも
じっさいに「がんばって、がんばって」
といってるんだという説もある(ウソです)。
重要な試合まえのハカはものすごい迫力だ。
わたしが相手の選手だったら、
あのまえにたっているだけで なきだしてしまうかもしれない。
それにしても、ハカをただうけるだけだと
対戦相手はかなりつらい。
相手にのみこまれまいとしても、
あんなすごい体格と顔つきの男たちをみたら、
ただ整列してみていると 圧倒的に不利だ。
日本ならではの「おかえし」をおみまいしたいところだけど、
なにかいいアイデアはないものか。
迫力ではかないっこないので、
スピードや技を印象づけるおどりをみせて、
オールブラックスのメンバーをこまらせてやりたい。
サイトをみると、イナモト氏による
「ハカにラグビー日本代表が対抗するには」
という記事がひっかかった。
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20100331
イナモト氏は、脱力させるという方向で
ハカへの抵抗をこころみる案をだしている。
たしかにひとつの方法かもしれない。
記事の最後に ハカ対シピタウ(トンガ)の動画がのっている。
大声と身ぶりで相手をおどかしあうのをみると、
これからはじまるのは、スポーツというよりも
相手をたたきのめす たたかいであることがわかる。
彼らは武器のない戦争をしようとしているのだ。
ラグビーのWカップがはじまった。
にわかファンになって、
ほんとうはオールブラックスがなんといっているのか
耳をすませてみたい。
2015年09月18日
夏やすみの読書としての『カラマーゾフの兄弟』途中報告
夏やすみの読書としてとりくんでいる
『カラマーゾフの兄弟』の、2巻目をよみおえる。
まえのブログにもかいたように、
夏やすみちゅうによみおえるのはまず不可能だったので、
あつさの気配がのこっているうちにおえればいいと、
ゆるい制限の「夏やすみ」だ。
全5巻の2冊目をおえたぐらいで、
とくにとりあげる必要はないけど、
こだしにしたくなるほどたっぷり量がある。
中間報告として、とりかかりからいままでのようすを
かいておきたくなった。
第1巻を8月20日によみはじめる。
半分義務的にお風呂読書の日課とし、
いちにちもやすまず、毎日すこしずつよみすすめた。
第2巻になると、義務よりも興味・関心によって
自発的によむ時間がふえた。
とはいえ、1巻目に17日、
2巻目に12日もかかっているので、
とちゅうでなげださなかったことのほうが 不思議かもしれない。
あまり関係ないはなしだけど、
きょう公園でジョギングをしていると、
50メートルほどまえに 足をひきずるようにして
よろよろとはしっているおじさんがいた。
いまにもたちどまりそうだ。
大丈夫だろうか、たおれはしないかと、
すこし心配しながらいっしょにはしっていると、
どうしたわけか なかなかおじさんにおいつけない。
おどろいたことに、わたしはそのひとと
たいしてかわらないスピードではしっていたのだ。
たおれるようなフォームにしては そのおじさんがはやいのか、
それともわたしのはしり方に なにか問題があるのか。
たいていのランナーは、老若男女をとわずわたしよりはやい。
しかし、あわてることはない。
地球的な大局観にたてば、とまらないかぎり、
ジョギングのスピードは だいたいいっしょというのが
わたしがこれまでの経験でえた法則だ。
というわけで、『カラマーゾフ』の読書も、
やめないかぎり いつかはおわる。
第2巻には50ページにおよぶ「大審問官」と、
ゾシマ長老による これまたながいはなしがおさめられている。
この2つの難所をクリアーしたので、
『カラマーゾフの兄弟』という おおきな山をのぼるみとおしがついた。
それに、第2巻のおわりには、読書ガイドとして
第1巻のあらすじが4ページ半にまとめられている。
第2巻がおわるころには、第1巻をわすれかけているので、
バーナード嬢でなくてもうれしくなる 親切なガイドだ。
以前よんだときのおぼろげな記憶では、
なんにちにもおよぶ物語のような気がしていたけど、
第2巻までにかかれた内容は、たった2日間でしかない。
ながいはなしを延々とつづけるロシア人の体力に
おどろかざるをえない。
これこそがロシアの小説をよむだいごみでもある。
というわけで、きょうから第3巻目にはいる。
予定どおり、あつさの気配がのこるうちに
なんとか全5冊がおわりそうだ。
ふかまりつつある秋の気配にすこしあわてながら。
『カラマーゾフの兄弟』の、2巻目をよみおえる。
まえのブログにもかいたように、
夏やすみちゅうによみおえるのはまず不可能だったので、
あつさの気配がのこっているうちにおえればいいと、
ゆるい制限の「夏やすみ」だ。
全5巻の2冊目をおえたぐらいで、
とくにとりあげる必要はないけど、
こだしにしたくなるほどたっぷり量がある。
中間報告として、とりかかりからいままでのようすを
かいておきたくなった。
第1巻を8月20日によみはじめる。
半分義務的にお風呂読書の日課とし、
いちにちもやすまず、毎日すこしずつよみすすめた。
第2巻になると、義務よりも興味・関心によって
自発的によむ時間がふえた。
とはいえ、1巻目に17日、
2巻目に12日もかかっているので、
とちゅうでなげださなかったことのほうが 不思議かもしれない。
あまり関係ないはなしだけど、
きょう公園でジョギングをしていると、
50メートルほどまえに 足をひきずるようにして
よろよろとはしっているおじさんがいた。
いまにもたちどまりそうだ。
大丈夫だろうか、たおれはしないかと、
すこし心配しながらいっしょにはしっていると、
どうしたわけか なかなかおじさんにおいつけない。
おどろいたことに、わたしはそのひとと
たいしてかわらないスピードではしっていたのだ。
たおれるようなフォームにしては そのおじさんがはやいのか、
それともわたしのはしり方に なにか問題があるのか。
たいていのランナーは、老若男女をとわずわたしよりはやい。
しかし、あわてることはない。
地球的な大局観にたてば、とまらないかぎり、
ジョギングのスピードは だいたいいっしょというのが
わたしがこれまでの経験でえた法則だ。
というわけで、『カラマーゾフ』の読書も、
やめないかぎり いつかはおわる。
第2巻には50ページにおよぶ「大審問官」と、
ゾシマ長老による これまたながいはなしがおさめられている。
この2つの難所をクリアーしたので、
『カラマーゾフの兄弟』という おおきな山をのぼるみとおしがついた。
それに、第2巻のおわりには、読書ガイドとして
第1巻のあらすじが4ページ半にまとめられている。
第2巻がおわるころには、第1巻をわすれかけているので、
バーナード嬢でなくてもうれしくなる 親切なガイドだ。
以前よんだときのおぼろげな記憶では、
なんにちにもおよぶ物語のような気がしていたけど、
第2巻までにかかれた内容は、たった2日間でしかない。
ながいはなしを延々とつづけるロシア人の体力に
おどろかざるをえない。
これこそがロシアの小説をよむだいごみでもある。
というわけで、きょうから第3巻目にはいる。
予定どおり、あつさの気配がのこるうちに
なんとか全5冊がおわりそうだ。
ふかまりつつある秋の気配にすこしあわてながら。
2015年09月17日
グーグル社の室温20℃は、ほんとうにただしいのだろうか
ブックオフで1時間すごしたら体調をくずした。
すずしい日だったのに冷房がきいていて
わたしにはさむすぎた。
外の温度をかんがえてエアコンをあつかえばいいのに。
店にいるときから からだがひえる いやなかんじがしていた。
朝おきるとノドがいたい。カゼの症状だ。
ブックオフは店にながれる音楽がうるさいので、
わたしはいつも耳せんをしてはいる。
耳せんのうえに、ながそでもかかせないとは、
めんどくさい店だ。
グーグルの事務所は、
いちねんをつうじて室温が20℃にたもたれている、
となにかにかいてあった。
人間の頭とからだは、20℃くらいが
いちばんよくはたらくから、なのだそうだ。
日本だと、節電のため室温をさげすぎないで
28℃くらいが一般的にすすめられている。
エコなんかみむきもせず、
それよりはるかにひくい温度をとりいれる合理的な精神は、
さすがにグーグルだと はじめ感心した。
でも、よくかんがえてみると、
生産性をあげるために温度を一定にたもたれた たてものは、
なんだか養鶏場みたいだ。
さかんに知的生産にはげむ
ニワトリみたいな超エリートたち。
パソコンがずらっとならぶ
無人のサーバー施設ならわかるけど、
人間がはたらく職場も
おなじようにあつかう発想に違和感がある。
隔離された環境を用意するので、仕事にどっぷりつかってね、
といわれたら、わたしならいやだ。
あつい・さむいがあり、
季節の変化をかんじながらはたらくほうが、
人間としてただしい生き方で、
ながい目でみると いい仕事につながるような気がする。
そんなのはプログラミングと関係ない、
ふるいかんがえなのだろうか。
理想をいうなら、
夏や冬をかんじさせる程度に温度差があり、
そこらじゅうでネコや犬があそんでいる。
職場というより生活の場みたいな たてものだと
わたしにはいごこちがいい。
蚊やハエもいて、夜になるとゲッコーがなく。
ときどきエアコンがこわれ、
ブックオフみたいにさむすぎるときもあり、
そんなときはブーブー文句をいってストレスを発散させる。
ずっと一定の環境よりも、デコボコがあったほうがいいと
グーグルの天才たちにわからないのが不思議だ。
アップル社の設定温度がどうなっているのかしりたい。
すずしい日だったのに冷房がきいていて
わたしにはさむすぎた。
外の温度をかんがえてエアコンをあつかえばいいのに。
店にいるときから からだがひえる いやなかんじがしていた。
朝おきるとノドがいたい。カゼの症状だ。
ブックオフは店にながれる音楽がうるさいので、
わたしはいつも耳せんをしてはいる。
耳せんのうえに、ながそでもかかせないとは、
めんどくさい店だ。
グーグルの事務所は、
いちねんをつうじて室温が20℃にたもたれている、
となにかにかいてあった。
人間の頭とからだは、20℃くらいが
いちばんよくはたらくから、なのだそうだ。
日本だと、節電のため室温をさげすぎないで
28℃くらいが一般的にすすめられている。
エコなんかみむきもせず、
それよりはるかにひくい温度をとりいれる合理的な精神は、
さすがにグーグルだと はじめ感心した。
でも、よくかんがえてみると、
生産性をあげるために温度を一定にたもたれた たてものは、
なんだか養鶏場みたいだ。
さかんに知的生産にはげむ
ニワトリみたいな超エリートたち。
パソコンがずらっとならぶ
無人のサーバー施設ならわかるけど、
人間がはたらく職場も
おなじようにあつかう発想に違和感がある。
隔離された環境を用意するので、仕事にどっぷりつかってね、
といわれたら、わたしならいやだ。
あつい・さむいがあり、
季節の変化をかんじながらはたらくほうが、
人間としてただしい生き方で、
ながい目でみると いい仕事につながるような気がする。
そんなのはプログラミングと関係ない、
ふるいかんがえなのだろうか。
理想をいうなら、
夏や冬をかんじさせる程度に温度差があり、
そこらじゅうでネコや犬があそんでいる。
職場というより生活の場みたいな たてものだと
わたしにはいごこちがいい。
蚊やハエもいて、夜になるとゲッコーがなく。
ときどきエアコンがこわれ、
ブックオフみたいにさむすぎるときもあり、
そんなときはブーブー文句をいってストレスを発散させる。
ずっと一定の環境よりも、デコボコがあったほうがいいと
グーグルの天才たちにわからないのが不思議だ。
アップル社の設定温度がどうなっているのかしりたい。
2015年09月16日
津村記久子さんの「ただ起こることに抗して」
津村記久子さんが朝日新聞のコラムに
「ただ起こることに抗して」と、
したしいひとにふりかかった かなしみをかいている。
「何もかも納得がいかない。なぜとしか思えない」と、
津村さんは運命の理不尽さにいかり、たちすくむ。
いったんことがおきてしまえば、それはもう もとにもどらない。
おこったことは、おこったこととして
その条件でやっていくしかない。
そんなことはわかっているつもりなのに、
いざおきてしまうと わたしたちは
どうしようもないかなしさから たちなおれない。
生涯が50年でおわっていた時代は、
あっという間に人生がつきてしまった。
そのころは理不尽さが いまよりもっと切実だったかというと、
あんがいそうでもなかったのではないかとおもう。
自分の人生は自分できめられるものではないと、
理不尽があたりまえのこととして うけいれられていた。
いまは寿命がのび、いつまでもおなじ状況がつづくような気でいるから、
とつぜんなにかが「ただ起こる」と、
本人もまわりも、とてつもなくおもいできごととなる。
なんのこころがまえもできていないので
自分だけにおきた理不尽としかおもえない。
人工物にかこまれ、自然からはなれてくらしていたり、
科学や医学にたよるほど、
「ただ起こる」状況をうけいれにくいのではないか。
津村さんは、そうして「ただ起こる」ことに抵抗する態度として、
「精一杯優しくして生き」るしかないのでは、とかんがえる。
会社につとめ、定年まで仕事をつづけ、
退職金と年金をやりくりして老後をすごす。
しかし、定年まで健康ではたらけるという保障はないし、
自分や家族が介護を必要となれば、
まったく計算がくるってくる。
このごろのように老後の貧困でおどかされると
なが生きが かならずしもしあわせではないような気がしてくる。
すべてを想定した人生計画なんて できっこない。
いつ、なにが「ただ起こる」かわからないのだから、
いまを大切に生きるしかないといいつつ、
では具体的にはどうしたらいいのか。
歳をとるにつれ、いろんなことがますます「ただ起こる」。
わたしには津村さんみたいに
「精一杯優しくして生きる」態度はつづけられない。
「ただ起こる」ことに抵抗しようとする
津村さんのいかりに共感しながらも、
しばらく生きるかなしみにひたったうえで、
うけいれていくしかないのではとおもっている。
「ただ起こることに抗して」と、
したしいひとにふりかかった かなしみをかいている。
稲葉先生のことで、病気や享年は、人生における身の処し方とはまったく関係がないということを学んだ。因果報応は存在しない。善いことしたから長生きするわけでもないし、大して何もしなくてもずっと健康ではいられるかもしれない。運というか、病気や事故は「ただ起こる」。
「何もかも納得がいかない。なぜとしか思えない」と、
津村さんは運命の理不尽さにいかり、たちすくむ。
いったんことがおきてしまえば、それはもう もとにもどらない。
おこったことは、おこったこととして
その条件でやっていくしかない。
そんなことはわかっているつもりなのに、
いざおきてしまうと わたしたちは
どうしようもないかなしさから たちなおれない。
生涯が50年でおわっていた時代は、
あっという間に人生がつきてしまった。
そのころは理不尽さが いまよりもっと切実だったかというと、
あんがいそうでもなかったのではないかとおもう。
自分の人生は自分できめられるものではないと、
理不尽があたりまえのこととして うけいれられていた。
いまは寿命がのび、いつまでもおなじ状況がつづくような気でいるから、
とつぜんなにかが「ただ起こる」と、
本人もまわりも、とてつもなくおもいできごととなる。
なんのこころがまえもできていないので
自分だけにおきた理不尽としかおもえない。
人工物にかこまれ、自然からはなれてくらしていたり、
科学や医学にたよるほど、
「ただ起こる」状況をうけいれにくいのではないか。
津村さんは、そうして「ただ起こる」ことに抵抗する態度として、
「精一杯優しくして生き」るしかないのでは、とかんがえる。
会社につとめ、定年まで仕事をつづけ、
退職金と年金をやりくりして老後をすごす。
しかし、定年まで健康ではたらけるという保障はないし、
自分や家族が介護を必要となれば、
まったく計算がくるってくる。
このごろのように老後の貧困でおどかされると
なが生きが かならずしもしあわせではないような気がしてくる。
すべてを想定した人生計画なんて できっこない。
いつ、なにが「ただ起こる」かわからないのだから、
いまを大切に生きるしかないといいつつ、
では具体的にはどうしたらいいのか。
歳をとるにつれ、いろんなことがますます「ただ起こる」。
わたしには津村さんみたいに
「精一杯優しくして生きる」態度はつづけられない。
「ただ起こる」ことに抵抗しようとする
津村さんのいかりに共感しながらも、
しばらく生きるかなしみにひたったうえで、
うけいれていくしかないのではとおもっている。
2015年09月15日
『本の雑誌 10月号』の特集は、角川商法にかみついた38年まえのいきさつがしりたかった
『本の雑誌 10月号』の特集は「角川春樹伝説!」で、
「死ね!死ね!!角川商法と本誌が咬みついてから38年・・・」
というかきだしからはじまる。なんだかおもしろそうだ。
角川春樹氏は、もちろん角川書店の社長であり、
かつては『犬神家の一族』『野生の証明』など、
話題になった映画をいくつも手がけている。
その角川春樹氏へのインタビューを坪内祐三氏が担当し、
おじさん3人組は角川春樹事務所をたずね、
春樹氏について職員からききだす。
ほかにも、 森村誠一氏や角川春樹氏のむすめ
角川慶子氏によるおもいでばなし、
中川右介氏の「薬師丸ひろ子を手放した男」など、
角川春樹氏がどんなにすごい仕事をしてきたかが
いろんな方面から紹介されている。
しかし、本の雑誌社が角川商法にかみついた
経緯と内容についてはふれられていない。
いまさら過去のゴタゴタをひっぱりだすのは よくないのだろうか。
それにしても「死ね!死ね!!角川商法」とは
すごい表現だ。
たぶん椎名誠さんによる記事なのだろうけど、
本の雑誌社として角川商法を批判しているのだから、
腹がすわっている。
あとのことをかんがえると腰がひけて、
正面きった批判はなかなかできないものだ。
つまらない雑誌にはちゃんとつまらないといい、
角川商法が出版界のためにならないとおもえば
その理由をあきらかにしたうえで批判する。
こうした批判にさらされる緊張感は、
きっといい本づくり・雑誌づくりにむすびつくだろうし、
読者も自分のかんがえをきたえられる。
本の雑誌社を創刊して間がないころ、
椎名誠さんはやたらと「死ね!」「うんこ」「ゴキブリ」と過激なことばで
出版社や雑誌に 容赦なくたたかいをいどんでいる。
1981年にだされた『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』には
だれにも遠慮しないで おもったことを
そのままにかいた記事がならんでおり、
初期の本の雑誌の熱気がつたわってくる。
目次からひろってみると、
「ほるぷ出版の本はかなしい」
「ブタ的編集人たちが作る金色のブタ的婦人雑誌」
「ゴキブリ雑誌を踏みつぶせ!」
「『フジ三太郎』は新聞マンガ界の恥だ!!」
「サンリオ出版『恐怖の報酬』のウンコ的本づくりに文句をつける!」
など、本や雑誌がすきでたまらない 椎名さんのイライラが、
そのまま挑発的なタイトルになったかんじだ。
文句をつけるのだから、
相手からの批判も当然うけてたつわけで、
その気がまえからくる本気さが
記事にちからをあたえている。
自分たちがつくっている雑誌で、
堂々とほかのメディアを批判するのは
よほどつよい信念がなければできない。
たとえば朝日新聞に連載され、
いちおうマンガ界のおおものみたいにあつかわれていた
サトウサンペイ氏のマンガ『フジ三太郎』を、
はっきり「つまらない」といいきる遠慮のなさが小気味いい。
わたしは、出版社ごとにどんな特徴があるかについて、
まったく知識がないけれど、
自分の本棚に角川の本がすくないことに
あるとき気づいた。
わたしのこのみと角川の本づくりがあわないのか、
あるいは 本の雑誌がかみついた角川商法と わたしのこのみとに、
なにか関係があるのだろうか。
創刊から40年たち、本の雑誌のたち位置も
いぜんとはかわってきているだろうから、
いまもおなじような記事をもとめるつもりはない。
しかし、特集をくむくらいなのだから、
角川商法とのいきさつについて
かんたんにでもふれてほしかった。
そうでなければ なんで
「死ね!死ね!!角川商法と本誌が咬みついてから38年」
なんて むかしのはなしからかきだしたのだろう。
「死ね!死ね!!角川商法と本誌が咬みついてから38年・・・」
というかきだしからはじまる。なんだかおもしろそうだ。
角川春樹氏は、もちろん角川書店の社長であり、
かつては『犬神家の一族』『野生の証明』など、
話題になった映画をいくつも手がけている。
その角川春樹氏へのインタビューを坪内祐三氏が担当し、
おじさん3人組は角川春樹事務所をたずね、
春樹氏について職員からききだす。
ほかにも、 森村誠一氏や角川春樹氏のむすめ
角川慶子氏によるおもいでばなし、
中川右介氏の「薬師丸ひろ子を手放した男」など、
角川春樹氏がどんなにすごい仕事をしてきたかが
いろんな方面から紹介されている。
しかし、本の雑誌社が角川商法にかみついた
経緯と内容についてはふれられていない。
いまさら過去のゴタゴタをひっぱりだすのは よくないのだろうか。
それにしても「死ね!死ね!!角川商法」とは
すごい表現だ。
たぶん椎名誠さんによる記事なのだろうけど、
本の雑誌社として角川商法を批判しているのだから、
腹がすわっている。
あとのことをかんがえると腰がひけて、
正面きった批判はなかなかできないものだ。
つまらない雑誌にはちゃんとつまらないといい、
角川商法が出版界のためにならないとおもえば
その理由をあきらかにしたうえで批判する。
こうした批判にさらされる緊張感は、
きっといい本づくり・雑誌づくりにむすびつくだろうし、
読者も自分のかんがえをきたえられる。
本の雑誌社を創刊して間がないころ、
椎名誠さんはやたらと「死ね!」「うんこ」「ゴキブリ」と過激なことばで
出版社や雑誌に 容赦なくたたかいをいどんでいる。
1981年にだされた『もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味噌蔵』には
だれにも遠慮しないで おもったことを
そのままにかいた記事がならんでおり、
初期の本の雑誌の熱気がつたわってくる。
目次からひろってみると、
「ほるぷ出版の本はかなしい」
「ブタ的編集人たちが作る金色のブタ的婦人雑誌」
「ゴキブリ雑誌を踏みつぶせ!」
「『フジ三太郎』は新聞マンガ界の恥だ!!」
「サンリオ出版『恐怖の報酬』のウンコ的本づくりに文句をつける!」
など、本や雑誌がすきでたまらない 椎名さんのイライラが、
そのまま挑発的なタイトルになったかんじだ。
文句をつけるのだから、
相手からの批判も当然うけてたつわけで、
その気がまえからくる本気さが
記事にちからをあたえている。
なあ、おまーらよ、どうせ雑誌をつくんなら、ちょっとこれは骨っぽくてエネルギーのある、作りがいがあって読んでゾクゾクする、そういうものをこしらえてほしいじゃないか。せめてそういいうものを作ってやろう!という迫力というものがほしいじゃないか。(「ゴキブリ雑誌を踏みつぶせ!」より)
自分たちがつくっている雑誌で、
堂々とほかのメディアを批判するのは
よほどつよい信念がなければできない。
たとえば朝日新聞に連載され、
いちおうマンガ界のおおものみたいにあつかわれていた
サトウサンペイ氏のマンガ『フジ三太郎』を、
はっきり「つまらない」といいきる遠慮のなさが小気味いい。
わたしは、出版社ごとにどんな特徴があるかについて、
まったく知識がないけれど、
自分の本棚に角川の本がすくないことに
あるとき気づいた。
わたしのこのみと角川の本づくりがあわないのか、
あるいは 本の雑誌がかみついた角川商法と わたしのこのみとに、
なにか関係があるのだろうか。
創刊から40年たち、本の雑誌のたち位置も
いぜんとはかわってきているだろうから、
いまもおなじような記事をもとめるつもりはない。
しかし、特集をくむくらいなのだから、
角川商法とのいきさつについて
かんたんにでもふれてほしかった。
そうでなければ なんで
「死ね!死ね!!角川商法と本誌が咬みついてから38年」
なんて むかしのはなしからかきだしたのだろう。
2015年09月14日
『バーナード嬢曰く。2』(施川ユウキ)
『バーナード嬢曰く。2』(施川ユウキ・一迅社)
ついこのまえ1巻目をブログにかいたばかりなのに、
すぐに2巻目をとりあげるのはいかがなものか。
でも、こだしにする このせこさこそ、
バーナード嬢的メンドくさい精神である。
『バーナード嬢曰く。』第2巻の主役は神林さんだ。
あいかわらずバーナード嬢こと町田さわ子さんにきびしくつっこみ、
とくいのグリグリをきめるけど、
はなしがすすむにつれ、
神林さんのかたい表情がしだいにゆるみ、
他人をうけいれられなかったこころもほぐされていく。
この変化をひきおこしたのは、
もちろんバーナード嬢だ。
『さまぁ〜ずの悲しいダジャレ』が最高なんだと
あつくかたるバーナード嬢に、
「見栄とか関係なく
好きなモノを純粋に好きって言えるのは
素晴らしいな・・・」
とつぶやくあたりから、神林さんに変化がみられる。
「ダサッ!」
「マニア メンドくさっ!」
など、オタクにみられるのを警戒し、
つきはなした態度をとる神林さんは、
だけどいちばんおたくっぽい。
その神林さんが、
「笑顔のみかん。
『怒りの葡萄』の対義語だよ!」
というバーナード嬢からのメッセージにおもわずふきだした。
窓ガラスにうつる、開放されたやわらかな自分の表情に
神林さんはおどろいている。
圧巻は、水嶋ヒロの『KAGEROU』への共感だ。
「・・・本当に大したことなかったよ」
といったんはきりすてながら、
神林さんはこの本を5回よみかえしたという。
ろくでもないタレント本だろうと、
よみもしないのにわたしはきめつけていた。
こうしたみくだしが、かたくまずしい読書をまねいてしまう。
本がすきなのであれば、神林さんのような公平な姿勢こそを
大切にしたい。
なんだかひじょうにまじめな本を紹介したようになったけど、
もちろんこの本は「読書に憧れるけど読書がメンドくさい」
わたしをふくむおおくの なんちゃって本ずきを みすてたりしない。
どうしたらかっこよく本をよんでいるようにみえるかに、
バーナード嬢はずっとアンテナをはり、
効果的なテクニックをおしえてくれる。
そうしたやわらかな一面とともに、本書のコンセプトは
オビにかかれた「もっと読書に自由を!」にしめされている。
どんな本を、どのようによんでもいい。
よめなかったら、本のまわりにいるだけでもいい。
ダサくても、メンドくさい人間とおもわれてもかまわないから
自由な精神で本とむきあっていく。
読書はそれだけすばらしい体験なのだと この本はさそってくれる。
本書では、
木村元彦『オシムの言葉』・カズオ=イシグロ『わたしを離さないで』
カミュ『異邦人』・コーマック=マッカーシー『ザ・ロード』
など、わたしのすきな本が つぎつぎにとりあげられている。
『バーナード嬢曰く。』とわたしは、
であうべくして であったようだ。
こんなマンガがわたしはよみたかった。
わかい世代ならではのひたむきな姿勢で
本とかかわる4人の体験を、
これからもたのしみにしている。
ついこのまえ1巻目をブログにかいたばかりなのに、
すぐに2巻目をとりあげるのはいかがなものか。
でも、こだしにする このせこさこそ、
バーナード嬢的メンドくさい精神である。
『バーナード嬢曰く。』第2巻の主役は神林さんだ。
あいかわらずバーナード嬢こと町田さわ子さんにきびしくつっこみ、
とくいのグリグリをきめるけど、
はなしがすすむにつれ、
神林さんのかたい表情がしだいにゆるみ、
他人をうけいれられなかったこころもほぐされていく。
この変化をひきおこしたのは、
もちろんバーナード嬢だ。
『さまぁ〜ずの悲しいダジャレ』が最高なんだと
あつくかたるバーナード嬢に、
「見栄とか関係なく
好きなモノを純粋に好きって言えるのは
素晴らしいな・・・」
とつぶやくあたりから、神林さんに変化がみられる。
「ダサッ!」
「マニア メンドくさっ!」
など、オタクにみられるのを警戒し、
つきはなした態度をとる神林さんは、
だけどいちばんおたくっぽい。
その神林さんが、
「笑顔のみかん。
『怒りの葡萄』の対義語だよ!」
というバーナード嬢からのメッセージにおもわずふきだした。
窓ガラスにうつる、開放されたやわらかな自分の表情に
神林さんはおどろいている。
圧巻は、水嶋ヒロの『KAGEROU』への共感だ。
「・・・本当に大したことなかったよ」
といったんはきりすてながら、
神林さんはこの本を5回よみかえしたという。
私にはわかる!
著者は・・・水嶋ヒロは!
書き上げたときの万能感と
読み返したときの無力感の間で大きく揺れながら
不安で不安でたまらなかったはずだって!!
だって「KAGEROU」は・・・
必死に背伸びする高校生のように
どこまでも不器用でひたむきな小説なのだから!!!
・・・胸をかきむしりたくなるような共感を覚えた小説は
久しぶりだったよ
ろくでもないタレント本だろうと、
よみもしないのにわたしはきめつけていた。
こうしたみくだしが、かたくまずしい読書をまねいてしまう。
本がすきなのであれば、神林さんのような公平な姿勢こそを
大切にしたい。
なんだかひじょうにまじめな本を紹介したようになったけど、
もちろんこの本は「読書に憧れるけど読書がメンドくさい」
わたしをふくむおおくの なんちゃって本ずきを みすてたりしない。
どうしたらかっこよく本をよんでいるようにみえるかに、
バーナード嬢はずっとアンテナをはり、
効果的なテクニックをおしえてくれる。
そうしたやわらかな一面とともに、本書のコンセプトは
オビにかかれた「もっと読書に自由を!」にしめされている。
どんな本を、どのようによんでもいい。
よめなかったら、本のまわりにいるだけでもいい。
ダサくても、メンドくさい人間とおもわれてもかまわないから
自由な精神で本とむきあっていく。
読書はそれだけすばらしい体験なのだと この本はさそってくれる。
本書では、
木村元彦『オシムの言葉』・カズオ=イシグロ『わたしを離さないで』
カミュ『異邦人』・コーマック=マッカーシー『ザ・ロード』
など、わたしのすきな本が つぎつぎにとりあげられている。
『バーナード嬢曰く。』とわたしは、
であうべくして であったようだ。
こんなマンガがわたしはよみたかった。
わかい世代ならではのひたむきな姿勢で
本とかかわる4人の体験を、
これからもたのしみにしている。
2015年09月13日
魚柄仁之助さんのいう「浅ましい食べ方」にエリをただす
魚柄仁之助さんの『台所に敗戦はなかった』(青弓社)が
朝日新聞の「著者に会いたい」にとりあげられていた。
という魚柄さんのことばが紹介されている。
「浅ましい食べ方」とは、どんなたべ方をいうのだろう。
テレビをみながらうわのそらでたべたり、
せっかくひととテーブルをかこんでいるのに
おしゃべりもせず、かたい雰囲気のなか
たべることではないかとおもった。
気もちが料理にむかっていないのは
食材にも、つくってくれたひとにも失礼だから。
10年以上まえに、つくった料理を鍋のまま新聞紙にくるむ
保温調理術で魚柄さんをしる。
食材をむだにせず、お金や手間をかけないで
おいしい料理をつくるのが魚柄さんの料理法だ。
トリの手羽をむしてから酒と醤油でからめたり、
トマトを湯むきにせず、おろし金ですりおろしたり、
魚柄流の調理法をためしてみることで、
わたしの料理はひと皮むけたようにおもう。
魚柄さん原作のマンガ『おかわり飯蔵』に、
つめたくなったコンビニ弁当を
おいしくする方法がのっている。
おかずをこまかくきざみ、
酢をふってから電子レンジにかければ
たべやすい ちらし寿司になる。
おいしくないと文句をいいながらたべるのが「浅ましい食べ方」で、
すこし手をかけておいしくし、
つくってくれたひとへの感謝をわすれないのが魚柄流だ。
そうやって、せっかくおいしい料理をつくっても、
「浅ましい食べ方」をしては そのよさがだいなしになる。
だから魚柄さんは「絶対にしたくない」といましめているのではないか。
ひとりでたべるときでも 料理と正面からむきあい、
ひとがいればおしゃべりをたのしみながら、
魚柄さんは食事を大切にあつかう。
気をぬいたわたしのだらしない食生活に、
「浅ましい食べ方」は耳のいたいことばだ。
佐野元春さんの『ガラスのジェネレーション』にある
「つまらない大人には なりたくない」も気になっている。
具体的な説明はないのだから、
ひとそれぞれに「つまらない大人」はちがってくる。
こころのかたすみに、このことばをだいて生きているかどうか。
浅ましい食べ方をする つまらない大人だとしたら、
ぜんぜんダメじゃん。
朝日新聞の「著者に会いたい」にとりあげられていた。
絶対にしたくないのは、浅ましい食べ方。だから、どんな粗末な食材でもきちんとおいしく料理して食べるんです
という魚柄さんのことばが紹介されている。
「浅ましい食べ方」とは、どんなたべ方をいうのだろう。
テレビをみながらうわのそらでたべたり、
せっかくひととテーブルをかこんでいるのに
おしゃべりもせず、かたい雰囲気のなか
たべることではないかとおもった。
気もちが料理にむかっていないのは
食材にも、つくってくれたひとにも失礼だから。
10年以上まえに、つくった料理を鍋のまま新聞紙にくるむ
保温調理術で魚柄さんをしる。
食材をむだにせず、お金や手間をかけないで
おいしい料理をつくるのが魚柄さんの料理法だ。
トリの手羽をむしてから酒と醤油でからめたり、
トマトを湯むきにせず、おろし金ですりおろしたり、
魚柄流の調理法をためしてみることで、
わたしの料理はひと皮むけたようにおもう。
魚柄さん原作のマンガ『おかわり飯蔵』に、
つめたくなったコンビニ弁当を
おいしくする方法がのっている。
おかずをこまかくきざみ、
酢をふってから電子レンジにかければ
たべやすい ちらし寿司になる。
おいしくないと文句をいいながらたべるのが「浅ましい食べ方」で、
すこし手をかけておいしくし、
つくってくれたひとへの感謝をわすれないのが魚柄流だ。
そうやって、せっかくおいしい料理をつくっても、
「浅ましい食べ方」をしては そのよさがだいなしになる。
だから魚柄さんは「絶対にしたくない」といましめているのではないか。
ひとりでたべるときでも 料理と正面からむきあい、
ひとがいればおしゃべりをたのしみながら、
魚柄さんは食事を大切にあつかう。
気をぬいたわたしのだらしない食生活に、
「浅ましい食べ方」は耳のいたいことばだ。
佐野元春さんの『ガラスのジェネレーション』にある
「つまらない大人には なりたくない」も気になっている。
具体的な説明はないのだから、
ひとそれぞれに「つまらない大人」はちがってくる。
こころのかたすみに、このことばをだいて生きているかどうか。
浅ましい食べ方をする つまらない大人だとしたら、
ぜんぜんダメじゃん。
2015年09月12日
『平成よっぱらい研究所』(二ノ宮知子)
『平成よっぱらい研究所』(二ノ宮知子・祥伝社)
『おすすめ文庫王国 2013年』の
「偏愛ベストテン・酒飲み本10冊」にえらばれている。
タイトルどおり、よっぱらいについての研究をまとめたもの、
といっていいかどうかすこしためらう。
これは研究だろうか。実態の報告だろうか。
ま、いいか、とあまりふかくかんがえずにさきをつづける。
じつは、この「まぁ いいか」も
報告1としてとりあげられている「よっぱらの悪いクセ」だ。
本書はこうした24の報告と、
4つの特別報告から構成されており、
「未だ研究終わらず」という
まとめのような「あとがき」によっておわる。
二ノ宮さんのお父さんは、
むすめと おみあい相手3人で料亭へくりだし
いきなり「おちょうし50本!」と注文するようなひとだ。
そんな酒量をあたりまえとするひとたちが
すくなからずいるのに わたしは衝撃をうける。
酒のみとは わたしとぜんぜんべつの人種だ。
価値観も生態も、
なによりもからだのつよさがまるでちがう。
ところで、研究所なのだから
二ノ宮さんは本のなかで所長とよばれている。
この「◯◯研究所」とか「所長」「研究員」
というよびかたにわたしはひかれた。
本業はべつにあるけど、
興味・関心のおもむくまま、
まったくべつの「研究」にとりくむところがかっこいい。
このごろはやりの会社内部活動も、
「◯◯研究所」のながれをくむ
もうひとつのうごくではないだろうか。
会社のなかに映画部や読書部があったら、
わたしは本業から適度にちからをぬいて、
もっとながく会社をつづけられたような気がする。
そうしたときの「研究」は、
なかなか成果をあげられなくても すごくたのしそうだ。
本書による「報告」は、
あまりわたしに参考となるものではなかったが、
将来的にこうした研究所をかまえるヒントをえた。
この作品をかいたときの二ノ宮さんは、
『のだめカンタービレ』でうりだすより
ずっとまえの26歳。
つきはなしたいいかたをすれば、
わかさによる無知と体力により
こうしたばかさわぎをしばらくはつづけられる。
20年後のいま、もしおなじ調子で研究にとりくんでいたらたいしたものだ。
その後の報告をたのしみにしている。
『おすすめ文庫王国 2013年』の
「偏愛ベストテン・酒飲み本10冊」にえらばれている。
タイトルどおり、よっぱらいについての研究をまとめたもの、
といっていいかどうかすこしためらう。
これは研究だろうか。実態の報告だろうか。
ま、いいか、とあまりふかくかんがえずにさきをつづける。
じつは、この「まぁ いいか」も
報告1としてとりあげられている「よっぱらの悪いクセ」だ。
つぎの日
きのうのことを思い出して頭をかかえたのは
わたしだけだったのだろうか!?
でも・・・ まぁ いいか
だってよっぱらいだもん
きのうのわたしは よっぱらいであって
わたしじゃないのよ
本書はこうした24の報告と、
4つの特別報告から構成されており、
「未だ研究終わらず」という
まとめのような「あとがき」によっておわる。
「さ〜て飲みにいくかー」
「所長 朝からずーっとビール飲んでんじゃないですかぁ 13本」
「これはウーロン茶よ
ビールという名のウーロン茶なのよ」
「でも所長 わたしたちもだいぶムチャしてますよ(中略)
強い人ほど肝臓をこわすっていうし・・・
血尿はでるし アルコール依存症になっちゃったり」
「わたしには神がいるから大丈夫!!
酒の神バッカスが
いつだってわたしを見守ってくれてるのよ」
二ノ宮さんのお父さんは、
むすめと おみあい相手3人で料亭へくりだし
いきなり「おちょうし50本!」と注文するようなひとだ。
そんな酒量をあたりまえとするひとたちが
すくなからずいるのに わたしは衝撃をうける。
酒のみとは わたしとぜんぜんべつの人種だ。
価値観も生態も、
なによりもからだのつよさがまるでちがう。
ところで、研究所なのだから
二ノ宮さんは本のなかで所長とよばれている。
この「◯◯研究所」とか「所長」「研究員」
というよびかたにわたしはひかれた。
本業はべつにあるけど、
興味・関心のおもむくまま、
まったくべつの「研究」にとりくむところがかっこいい。
このごろはやりの会社内部活動も、
「◯◯研究所」のながれをくむ
もうひとつのうごくではないだろうか。
会社のなかに映画部や読書部があったら、
わたしは本業から適度にちからをぬいて、
もっとながく会社をつづけられたような気がする。
そうしたときの「研究」は、
なかなか成果をあげられなくても すごくたのしそうだ。
本書による「報告」は、
あまりわたしに参考となるものではなかったが、
将来的にこうした研究所をかまえるヒントをえた。
この作品をかいたときの二ノ宮さんは、
『のだめカンタービレ』でうりだすより
ずっとまえの26歳。
つきはなしたいいかたをすれば、
わかさによる無知と体力により
こうしたばかさわぎをしばらくはつづけられる。
20年後のいま、もしおなじ調子で研究にとりくんでいたらたいしたものだ。
その後の報告をたのしみにしている。
2015年09月11日
20年まえの新聞記事をよみかえす
エバーノートをつかうまでは、
新聞のきりぬきをA4の紙にはり、
ジャンルごとにフォルダーで分類していた。
いったんフォルダーにおさめてしまうと、
あらためてよみかえすことがなく、
お蔵いりになりかねない。
そうしてほっておかれた20年まえの記事を
ひさしぶりにひっぱりだしてみた。
古新聞をついよみふけるくらいだから、
むかしのきりぬきがおもしろくないはずがない、
とおもっていたけど、意外にピンとこない。
20年のあいだにわたしの関心がうつり、
かつての重大ごとがどうでもよくなったのかもしれない。
国際的な事件について、わたしはよく記事をきりぬいているけど、
こうした情報は、データーとして あんがい いかしにくい。
そうした重大なできごとよりも、ちょっとした記事のほうが、
あとでよむとおもしろい。
1993年7月8日の朝日新聞に、
「停電を笑い飛ばす」という記事がのっている。
フィリピンのマニラでは停電が日常茶飯事で、
くらしへの影響がおおきいけれど、
「人々はそれを笑い飛ばすユーモアを忘れていない」という内容だ。
フィリピンについてのべつの小話では、
いずれも「特派員メモ」というコラムで、
大野拓司記者による記事だ。
冗談におわらないような気がして ちょっとこわいけど
こうしたわらいがわたしはすきだ。
もうひとつフィリピンねたとして、
あの国ではクーデターがよくおこるけど(20年まえのはなし)、
くわだてた軍人たちは あまりきつくとがめられない、
となにかにかいてあった。
せいぜい うでたてふせや遠泳ですんでしまうらしい。
こちらもなかなか含蓄のあるかんがえ方だ。
そういわれると、ちいさなあらそいごとなんて
たいしたことないようにおもえてくる。
日本でもしクーデターなんかをおこしたら、
かんたんにはすみそうにない。
中国や北朝鮮なんかだと、ますますややこしそうだ。
そんな余裕のない対応しかできない国よりも、
うでたてふせや遠泳で「すんだこと」にするフィリピンのほうが
歴史からえた経験を、ふかい知恵としていかしているのではないか。
「クーデターをおこした場合は、うでたてふせ◯◯回を命ず」、
みたいなフィリピンの憲法をみてみたい。
日本の憲法9条と、どちらの精神が戦争をとおざけるだろうか。
新聞のきりぬきをA4の紙にはり、
ジャンルごとにフォルダーで分類していた。
いったんフォルダーにおさめてしまうと、
あらためてよみかえすことがなく、
お蔵いりになりかねない。
そうしてほっておかれた20年まえの記事を
ひさしぶりにひっぱりだしてみた。
古新聞をついよみふけるくらいだから、
むかしのきりぬきがおもしろくないはずがない、
とおもっていたけど、意外にピンとこない。
20年のあいだにわたしの関心がうつり、
かつての重大ごとがどうでもよくなったのかもしれない。
国際的な事件について、わたしはよく記事をきりぬいているけど、
こうした情報は、データーとして あんがい いかしにくい。
そうした重大なできごとよりも、ちょっとした記事のほうが、
あとでよむとおもしろい。
1993年7月8日の朝日新聞に、
「停電を笑い飛ばす」という記事がのっている。
フィリピンのマニラでは停電が日常茶飯事で、
くらしへの影響がおおきいけれど、
「人々はそれを笑い飛ばすユーモアを忘れていない」という内容だ。
「パパ、フィリピンではロウソクを使う前は、
何を使ってたの?」
一瞬、ギョッとした表情を見せた父親は、
遠くを眺める目つきで重々しく答える。
「息子よ、それは電気だ」
フィリピンについてのべつの小話では、
リー・クアンユー・シンガポール前首相が、
経済成長の波に乗り遅れたフィリピンの状況を見てつぶやく。
「私にまかせれば、15年でフィリピンをシンガポールのようにしてみせる」
それを聞いたフィリピンの政治家が、鼻で笑う。
「私にまかせれば、1年でシンガポールをフィリピンのようにしてみせる」
いずれも「特派員メモ」というコラムで、
大野拓司記者による記事だ。
冗談におわらないような気がして ちょっとこわいけど
こうしたわらいがわたしはすきだ。
もうひとつフィリピンねたとして、
あの国ではクーデターがよくおこるけど(20年まえのはなし)、
くわだてた軍人たちは あまりきつくとがめられない、
となにかにかいてあった。
せいぜい うでたてふせや遠泳ですんでしまうらしい。
こちらもなかなか含蓄のあるかんがえ方だ。
そういわれると、ちいさなあらそいごとなんて
たいしたことないようにおもえてくる。
日本でもしクーデターなんかをおこしたら、
かんたんにはすみそうにない。
中国や北朝鮮なんかだと、ますますややこしそうだ。
そんな余裕のない対応しかできない国よりも、
うでたてふせや遠泳で「すんだこと」にするフィリピンのほうが
歴史からえた経験を、ふかい知恵としていかしているのではないか。
「クーデターをおこした場合は、うでたてふせ◯◯回を命ず」、
みたいなフィリピンの憲法をみてみたい。
日本の憲法9条と、どちらの精神が戦争をとおざけるだろうか。