2015年09月10日

『てくてくカメラ紀行』(石川文洋)あるいて日本縦断した記録

『てくてくカメラ紀行』(石川文洋・笊カ庫)

写真家の石川文洋さんが、
北海道から沖縄まで あるいて縦断した記録。
各県ごとにみじかい「メモ」がそえられているものの、
この本は写真のほうがメインになっている。
「この本」とことわったのは、
石川さんはおなじ縦断旅行を
『日本縦断徒歩の旅』として岩波新書からだしているからだ。
おなじ旅行で2冊かくなんてずるい、
とおもわせないのが石川さんのおひとがらで、
それぞれべつの本としておもしろくよめる。
『てくてく』は写真+文章で、どちらかというと写真集にちかい。
いっぽう『日本縦断徒歩の旅』は文章だけの本だ。
かいてある内容がほとんどちがうので、
だまされたなんて ぜんぜんおもわない(しつこい)。
『日本縦断徒歩の旅』はあるきながらかんがえたこと、
そのあいだにおこった 社会的な事件への感想など、
3000キロ・150日にわたる徒歩旅行が
かなりこまかく記録されている。

石川さんは、ずいぶんまえから
あるいて日本列島を縦断するのが夢だったそうだ。
『日本縦断徒歩の旅』には、
費用をうかすために テントや野宿もおもしろいとおもいつつ、
65歳という年齢をかんがえて無理するのはやめたとある。
予算の根拠となる年金の額や、なにをもっていったかなど、
具体的にかいてあるのがわたしごのみだ。
旅ものの本をよんだとき、
なにをどれくらい準備したのかがわたしは気になる。
こころの記録も大切だけど、
物理的なデーターもわすれずにもりこんでほしい。
石川さんの文章は、ありのままを率直にかいてあり、
その誠実さがわたしはすきだ。
出発まえとあとでの健康診断の数値ものっていて、
あるくのがどれだけ健康にいいかがわかる。
あるく旅行についてのアドバイスもあり、
定年になったらあるいてみたい、
とおもっているひとに いい情報となるだろう。

あるく旅は、冒険でも探検でもないけれど、
日常の延長として、お手軽な非日常性が魅力となる。
自分の足であるくのだから、特別な道具はとくになく、
必要なのはある程度の体力と、こころの準備だけだ。
とはいえ、あるく充実感をかんがえたときに、
日本の道路をあるいてたのしいかというと、
あまり気がそそられない。
あるくひとの安全や快適さがかんがえられておらず、
不愉快な目にたくさんあいそうだ。
よほどコースをえらばないと
苦行の旅になるのではいか。
そうなると、お遍路や縦断旅行みたいに達成感をもとめるか、
熊野古道のような えりぬきの道にするか、
というのが現実的な選択肢なのかもしれない。

そうしたいっぽうで、たのしさ・快適さばかりをもとめがちなのが
わたしのよくないところだともおもう。
やらない理由はいくらでもあげられるけど、
石川さんはむかしからの夢を こうやってじっさいにかなえた。
その記録として『てくてくカメラ紀行』と
『日本縦断徒歩の旅』は説得力がある。
65歳になった石川さんが、夢と自分のちからとをすりあわせ、
現実的な手段をえらびながら ゴールの沖縄まであるきとおしたのは、
難易度のたかい挑戦であり達成だ。
その実行力に、わたしは敬意をあらわしたい。
80歳でエベレストにのぼった三浦さんもすごいけど、
石川さんのこの日本縦断は、
たくさんのひとに ちからをあたえるのではないか。

posted by カルピス at 15:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月09日

ういている(ようにみえる)林雄司さんのホバーボードにおどろく

しょっちゅう「デイリーポータルZ」の記事をとりあげ、
そしてそのたいていが林雄司さんの記事についてなので、
このごろは気がひけるようになった。
でも、こころをうごかされたできごとをかく、という意味において、
きょうはやはりこの記事をとりあげないわけにいかない。

記事は、林さんがホバーボードづくりに成功したとつたえている。
http://portal.nifty.com/kiji/150908194501_1.htm
ホバーボードとは、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』で
マーティくんがのっていた空とぶスケボーのことをいう。
ローラーでころがるスケボーではなく、
まるでサーフィンしているみたいに
空中にうかび、すすんでいく。
『バック・トゥ・ザ・フューチャー PART2』の
未来の地球は2015年という設定なので、
25年かけて現実が映画においついたことになる。
林さんはたった1時間、しかも1300円という
しんじられない費用で「浮遊感を実現」した。

浮遊のメカニズムについて、くわしい説明もある。
うかんでみたい方は、ぜひ記事を参考にチャレンジしてほしい。
ほかのライターのこころみに刺激をうけ、
しかしまったく発想をかえながら
「浮遊感」に成功した林さんをたたえたい。
たくみにホバーボードをあやつり、
いろんなポーズをきめる林さんがかっこいい。

それにしても、ホバーボードによる「浮遊感」の
撮影現場がみたかった。
「ういているようにみえる」だけなのだから、
じっさいの光景としては
ものすごく「?」だったのではないか。
とおりがかりのひとから
「なにをしてるんですか?」とたずねられたときの
「こんなに簡単だけど難しい質問はない」
がすごくおかしい。
ホバーボードづくりのたいへんさを
このコメントがすべてあらわしている。
林さんの頭のなかは、どこまでも自由だ。

posted by カルピス at 11:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月08日

『バーナード嬢曰く。』(施川ユウキ)

『バーナード嬢曰く。』(施川ユウキ・一迅社)

わたしは人気のあるマンガについて知識がなく、
だれかに案内してもらわないと
おもしろい作品にであえない。
この本は朝日新聞の書評でとりあげられていたし、
倉下忠憲さんもブログに紹介されていた。
http://rashita.net/blog/?p=16549
倉下さんはこのマンガをよむと、
「すさまじく本が読みたくなる」
のだそうだ。
どれどれ。

「読書」をネタにあそんでいるマンガで、
ありそうでなかったスタイルだ。
ある程度の読書歴がないとわらえない、
と本ずきの自尊心をくすぐるけど、
じつは本なんてぜんぜんしらなくてもおかしい。
ゆるくてテキトーで、わたしがすきな世界だ。
本をよまないひとは、
本ずきとは こんなにへんなひとたちなのかと あきれるだろうか。
それとも、ややこしそうだけど、
なんかおもしろそう、と興味をもってくれるだろうか。
『シャーロック・ホームズ』のDVD
かなり繰り返し見たから
そろそろ原作も読んだことにしちゃって
いいんじゃないかな・・・?

なんていいだすバーナード嬢にわたしは共感する。
バーナード嬢はわたしだ。
『舟を編む』への感想もいっしょなのでうれしくなった。

登場人物は(1巻では)たった4人しかいない。
主人公のバーナード嬢こと町田さわ子さんと、
なんとなく彼女が気になる遠藤くん、
図書係でシャーロキアンの長谷川さんに、
ガチガチのSFファンの神林さん。
本に関心があるのはリアル世界でもクラスに1、2人だろうから、
バーナード嬢たち4人のように
少人数のとざされた関係は 読書をめぐる状況そのものだ。
複雑な人間関係や、ややこしいキャラ設定もなく、
安心してゆるい世界にひたれる。
ずっとこのマンガをよんでいたくなった。

よんだらいっぱしの顔ができる本をとりあげてあり、
名前をおぼえれば 一般教養としてやくにたつかもしれない。
「みんな実は
 結構よくわからないまま読んでいる・・・」
「実は グレッグ・イーガン自身、
 結構よくわからないまま書いている・・・」

そうだから、内容がわかる・わからないは
ぜんぜん気にしなくてもいいみたいだ。

各回のおわりに 文章だけのエッセイがのっている。
1話目は【名言】として
「実際覚えている名言といえば(中略)マンガやアニメばかりだ」
とある。
そういえばわたしも、名言を引用できる本はあまりおもいつかない。
ムルソー(『異邦人』)がいった「ぼくのせいじゃない」は
トホホ感があってすきだけど、
日本でこれをいうと、なさけない いいわけにかんちがいされ、
状況をややこしくしそうだ。

著者の施川さんとおなじように、
わたしも アニメの名言ならおぼえている。
『ナウシカ』でクシャナがいった
「諫言(かんげん)耳がいたい」に
まだわかかったわたしはしびれた。
これは、ユパから忠告をうけたとき、
クシャナがひくい声でつぶやいたことばだ。
「耳がいたい」といいながら、
ぜんぜん反省しないクシャナがすごくかっこいい。
どこかでつかおうとおもい 胸のなかであたためてきたけど、
残念ながらそんな機会にめぐりあわなかった。
かんがえてみれば、「諫言耳がいたい」なんて、
よほどうえの地位にたたなければ つかえない。
もうひとつ、やはりクシャナのセリフに
「まちがえるな、わたしは相談しているのではない」がある。
これもまた、ものすごくうえから目線なので
すきだけど、わたしには縁のないことばだ。

3話目でバーナード嬢がいった
「・・・今は コレがせいいっぱい!!」は
『カリオストロ』でルパンがクラリスにいったことばだ。
お姫さまがしんじてくれたなら、
ドロボーは空をとぶことも、
湖の水を のみほすことだって できるのに

でもこのときは、ちいさなバラをひねりだすのが せいいっぱいだった。
名言として 本書に引用されている「◯◯曰く」は
どれもきいたことがなかったけど、
「今は コレがせいいっぱい」だけはわかった。
やはりわたしはバーナード嬢だ。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月07日

ただしいまちがえ方

NHK-HMで『気軽にクラシック』をきいていたら、
演奏をまちがえたときのはなしがでた。
まちがっちゃいけない、とちぢこまるよりは、
まちがえるのはしょうがないのだから、
そのあとをどうカバーするかが大切なのだという。
もうひとつ、まちがえない演奏がいいかというと、
かならずしもそうではない、ともいわれる。
わたしがすきなかんがえ方だ。
まちがってもいい、というのではないけれど、
それくらいおおきくかまえたほうが いい演奏につながるらしい。

「ほぼ日」でわたしがたのしみにしているコーナーに
「今日の言いまつがい」がある。
ちからがはいったり油断してると
ひとはかんたんに言いまつがう。
でも、このコーナーに投書される記事のおおくは
ただたんに言いまつがっただけだ
(「停まってるクルマ」を「くまってるとるま」といったとかいう)。
「今日の言いまつがい」コーナーなのだから、
けしてまちがってはいないのだけど、
「肩をふるわせて笑いをこらえた」なんていわれても、
なぜそんなにおかしいのかピンとこない。
ただいいまちがえただけじゃないか。
その場にいあわせたひとの琴線にふれるのが
わたしには不思議におもえる。

わたしがすきな「言いまつがい」は、
まちがいはまちがいでも、
単純な「言いまつがい」ではなくて、
くちにした本人が 本気でおもいこんでいる確信的なまちがいだ。
久々に恋をした思いを、
手帳に、こうつづりました‥‥。
「変って、やっぱいいな」
間違えるほど久々すぎる恋でした。
(もち)
とか、
先日、娘が気持ちよさそうに『鉄腕アトム』の歌を口ずさんでいました。
「♪丘を越えて〜ラララ星の彼方〜♪」
おいっ!丘を越えても星の彼方には行けないぞっ!
(も)

目にはいったなにかにひっぱられて、
という「まつがい」もおかしい。
私が帰宅すると、夫がテレビでサッカーを観ていました。
「どこ対どこ?」と聞くと、「日本対コロッケ」
見ると夫はコロッケ弁当を食べていました。
本当は「日本対トルコ」。
(サトエミ)

クラシックの演奏についてはなしをもどすと、
ソロのときはまだしも、
なんにんかの演奏でまちがったとき、
精神的なショックをひっぱっていると、
まわりにも迷惑だという。
そのときの対処法は、残念ながらききのがした。
なかったことにする、しかないような気がする。
そのあとじょうずにごまかして、
まわりのほうがまちがっているようにみえるようになると、
ほんとうの一流演奏家なのかもしれない。
とはいえ、それはそれでまわりに迷惑なテクニックだ。

演奏で、単純なまちがえをつくろうよりも、
おもいこみによる確信的なまちがえを
なんとか工夫してのりきるのとは 難易度に差がありそうだ。
創造的な演奏は、もちろん確信的なまちがえから生まれる。
まちがえることを前提に、
たとえまちがったとしても
チームでそれを創造的にいかすのが
ただしいまちがいなのだろう。
ビートルズの演奏だって、
コピーするときは 演奏のまちがえまでも 再現するのだから、
それだけ味のあるまちがえになっている。
ただしいまちがえ方が、たしかにある。
わたしは
「まちがえない演奏がいいかというと、
 かならずしもそうではない」
という発想に創造の芽をかんじとる。
ただしいまちがえへの 勇気ある一歩をみとめた
「きらクラ」のおふたりに、おおきな拍手をおくりたい。

posted by カルピス at 14:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月06日

天皇杯2回戦での松江シティ対川崎フロンターレ

サッカー天皇杯2回戦として、
川崎フロンターレと松江シティの試合をNHK-BSでやっていた。
解説は福西崇史さん。
フロンターレは中村憲剛に大久保嘉人・小林悠と、
ベストメンバーをならべてきた。
いつもJリーグをみるのとおなじ時間・チャンネル、メンバーだ。
対戦相手だけが J3ですらない
アマチュアチームの松江シティフットボールクラブと
いつもとちがうのが不思議なかんじ。
松江にすむものとして、みないわけにいかない。

天皇杯は、日本一をきめる大会として、
アマチュアチームにも出場するチャンスがひらかれている。
毎年のように、J2をやぶるアマチュアチームがあらわれて話題になる。
ふつうにかんがえて、
アマチュアチームがJのチームにかてるわけがないのだから、
作戦としては「敗者のサッカー」にてっし、
かたくまもって一発のカウンターにのぞみをかける展開になる。
松江シティは、中国リーグを無敗でかちすすんできた。
どんなサッカーをみせてくれるだろう。
まったく異質なサッカーで、マジに天皇杯をめざし
J1チームをあわてさせたらおもしろいけど。

松江シティについて、わたしはなんの知識もない。
「松江からJの舞台へ」というポスターをときどきみかけるので、
なんのことかとおもったら、
松江にこんな実力のあるチームがそだっていたのだ。
ピッチにたつ選手たちをみると、
島根のチームというより、サッカー選手の顔つきであり、
ヘアスタイルであり、体格で、
ユニフォームもさまになっている。
黄色のユニフォームなので、
フロンターレと互角にたたかっていると、
まるで柏レイソル戦にみえる。

実況のアナウンサーによると、
7〜8名がJリーグの経験者なのだそうで、
松江のチームだからといって、
松江市出身の選手をならべているわけではない。
甲子園に出場する地元チームが、
地元の選手ばかりとはかぎらない、みたいなものか。
J3ですらないないのに、ほかのチームから補強し、
うえのリーグをめざしているのだから、
サッカーにおけるヒエラルキーは
地方にまでしっかり根をおろしている。

試合がはじまると、そんなにボコボコにはやられない。
シュートまではいけないにしても、
ちゃんとボールがもてるし、
極端にひいてまもるわけでもない。
先日おこなわれた日本代表とカンボジアの試合よりも
はるかにいい内容で、サッカーになっている。
問題は、これが90分つづくかどうか。

前半24分に、フロンターレの大島が
強烈なミドルシュートをきめる。
時間がたつにつれ、松江シティはつかれがでてきて
ボールをまえにはこべなくなる。
前半のうちに2点を先行された松江シティは、
後半からリスクをおかして攻撃にひとをかけてくる。
そうやってまえにでると、こんどはフロンターレに
うしろのスペースをつかわれるのだけど、
まけているのだから、まもってばかりはいられない。
松江シティがシュートまでもっていけるようになるとともに、
あぶない場面もふえる。

けっきょく試合は0-3でフロンターレにやぶれた。
3点差というと、このまえのカンボジア戦とおなじであり、
いい勝負をしたとはいえ、ちからの差は歴然だ。
とはいえ、10回やれば1回ぐらいは
いい勝負になるような気がする。
とくに前半の20分までは、フロンターレをあわてさせていた。
こうやって、ベストメンバーのフロンターレとたたかえるのは、
松江シティにとって またとない貴重な体験になるだろう。
これからのチームづくりにいかしてもらいたい。

posted by カルピス at 10:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月05日

つい『カリオストロの城』をさいごまでみてしまった

きのうは無料動画「GYAO!」で『カリオストロの城』をやっていた。
へー、タダでカリオストロをみれるんだと感心し、
ほんの最初だけのつもりでクリックする。
まさかとおもったけど、ついさいごまでみてしまった。
もうなんどもみており、
セリフもおぼえてるぐらいなのに、
またみてしまうなんて バカみたいだ。
もちろん「ちょっと」でやめるつもりでいた。
でも、ずっとすばらしい場面がつづくので
くぎりをつけられない。
オープニングをみてしまうと、
けっきょくさいごまでつきあうことになる。
自分でみておきながら、しんじられない魔力だ。

この作品に、わたしはずいぶん影響をうけた。
ルパンはどろぼうであり、会社にいって給料をもらうひとではない。
「つぎの仕事がきまったぜ」というセリフにあるように、
そのときどきで、おもしろそうな事件に首をつっこむ。
おおきな仕事になりそうなときはチームをくむ(五右衛門をよぶ)。
究極の旅行はカリオストロスタイルだ。
ちいさな車にカップメンや毛布をつんで移動する。
かといって、仕事には熱心にうちこまなくてはならない。
銭形警部と部下たちの勤勉さには、
日本人ならではの はたらきバチの血が かきたてられる。
そして、ひとはやさしくなければならない。
次元と五右衛門の身をあんじ、
ひとこえかけてから時計台へむかうクラリス。
クラリスのようなひとにであったとき、
相手にふさわしい りっぱな人間でありたいと
わたしはおもっている。

セリフもすばらしい。今回のお気にいりは、
不二子がクラリスの部屋をたずね、おわかれをいう場面。
もうちょっといるつもりだったけど、
ルパンがきたでしょ、
めちゃくちゃになっちゃうから、もうかえるの。

かるいセリフにおもえるけど、このなかに、
ルパンと不二子との関係、
不二子が仕事にもとめるまともさなど、
複雑な気もちがこめられている。
ルパンがからんでくると、ろくなことにならないので、
「もうかえるの」がいちばんただしい判断なのだろう。

みおわったあとのすがすがしさがここちいい。
「ドロボーはまだできないけど、きっとおぼえます。
 いっしょにつれてって!」
とルパンにせがむクラリス。
やっと一件落着したところなのに、
さっそくルパンたちをおいかけだす銭形と部下たち。
「いいこだったなー」という次元のことばに
クラリスへの全員の気もちがあらわされている。
クラリスとわかれ、神妙な顔をしているルパンに
バイクにのった不二子が声をかける。
「ルパンみてわたしの獲物」(といって偽札の原版をしめす)。
うしろからサイレンをならした銭形たちの車がちかづいてくる。
「ルパン!こんどこそにがさんぞ」
また気のしれた仲間たちと、
おなじみのおいかけごっこがはじまる。
むこうに地中海のあかるい空と海がみえ、「完」の字がかぶさる。
絵にかいたような大団円だ。

まるで旧シリーズのルパン三世をみているような、
というとほめことばになってないけど、
ほんとうにあのシリーズのルパンは
10歳の少年に カリオストロみたいな
すがすがしい気分をあじあわせてくれた。
カリオストロによる影響は、
旧シリーズのとき すでに芽がでていた。

ルパン的であるのは、
カリオストロをなんどもくりかえしてみることではない。
とはいえ、この作品のできがよすぎるのだ。
みはじめると、今回のように ついさいごまでつきあってしまう。
そのたびに いつもいい気分にひたれるのだから、
バカみたいとおもいつつ、なんどもおなじ道をたどる。
やはりこれは とんでもなくすぐれた作品といわざるをえない。

posted by カルピス at 16:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 宮ア駿 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月04日

朝日新聞連載の『それから』(夏目漱石)が いよいよおおづめに

朝日新聞に連載中の『それから』(夏目漱石)がおわりにちかづいている。
高等遊民の代助が、友人の妻である三千代に
自分の気もちをつたえた。
以前から結婚をせついていた実家の父親にも、
すすめられている縁談をことわる。
父親は、あきれてかってにしろとなげだし、
もうおまえの面倒はみないといわれる。
三千代の夫、代助が中学のころからしたしくしている平岡にも
三千代へのおもいをはなす。

代助は理屈のひとだ。
自分がまちがっているとわかっていても、
論理的に整合性がとれていれば
父親や平岡をまえにしてもたじろかないで
自分のかんがえをつたえられる。
論理的であるとともに、自分の感情に素直でもある。
つかれていたり、めんどくさかったりすると、
論理よりも感情を優先させたりする。

高等遊民として、仕事をせずに文化的な生活をおくっていた代助も、
家からの援助をあてにできなくなる。
これから彼はどうやってくらすのだろう。
そこそこの知識人なので、
はたらく気になればいくらでも仕事はありそうだけど、
問題は代助みたいに理屈をこねる人間が、
ほかのひとといっしょに はたらけるかどうかだ。
ピッタリの仕事にめぐりあわなければ、
テキトーにわりきってはたらけないだろう。
自分のことのように、代助のこれからが気にかかる。

朝日新聞に これまで再連載された漱石の3作、
『こころ』『三四郎』そして『これから』には、
どれも代助のような高等遊民がでてくる。
そのなかでわたしは『それから』をいちばんおもしろくよんだ。
代助は高等遊民として、家からの援助でくらしている状況を、
強力に論理武装しながら、かんぜんにひらきなおっている。
しかし、三千代へのおもいみたいに、
自分の方針をつらぬこうとしたとき、
実家からもう面倒をみない、といわれると、
非常によわい立場であることも自覚している。
しかたがないとあきらめた代助が、
ふつうの社会人になれるだろうか。
それにしても、明治時代というはるかむかし、
すでにこのような人物がうまれていたのがおもしろい。
「すでに」とおもうのがそもそもまちがいかもしれない。
いまのほうがむかしよりすすんでいると、
無意識のうちにきめてかかっている。
あんがいむかしのほうが、高等遊民のような生き方は
あたりまえにうけいれられていたかもしれない。

連載108回目のきのうは、
106年まえの『それから』(108回目)とおなじ日の広告がのっていた。
サッポロビール・エビスビール・サッポロ黒ビールのもので、
たとえばエビスビールには「品質外国品に優る」とかいてある。
106年もむかしに、これらのビールがすでにのまれていたのだ。
代助みたいな人種の存在や サッポロビールの商品名など、
106年たっても あんがい身のまわりにあるものは かわらないのかも。

106年のあいだに、発泡酒や第3のビールなど、
ビール類がややこしい状況になり、
それがまたひとつの税額に統一されることになる。
ものごとはかわるようでかわらない、
けど、そのなかでいろんな変化があるという、
典型的な例なのかもしれない。

posted by カルピス at 19:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月03日

日本の大学進学率は意外にひくい

高校3年生のむすこに
進路についてたずねると、
大学へいきたいという。
まえは大学なんかにいかないではたらく、
といっていたのに どうしたことだ。
大学生になったいとこが
たのしそうにあそんでいるのをみて
影響をうけたのではないか。

大学へいったからといって
勉強するわけはないのだから、わたしとしては
むすこがいきたかったら いってもいいし、
いきたくないのなら、高校をでて
すぐにはたらいてもいいとおもっていた。
本音では、就職ときいて安心していた。
いきたいというのなら、
しょうがないか、というかんじだ。
とにかく、最低でもあと4年間は
学費がかかることになる。

というのが4月のはなし。
進学をこころざしたからといって、
むすこがとくによく勉強するようになったわけではないし、
わたしのほうも学費をまえに
腹のきまらない状況がつづいている。

8月30日の朝日新聞に
「大学 少子化の荒波」という記事がのった。
大学進学率を国べつにみた表もあげられている。
日本は33カ国ちゅう23位で、
下からかぞえたほうがはやい。
アジアでは、韓国が日本の上をゆく9位だ。
日本の大学進学率は、ぜんぜんたかくないことになる。
わたしが学生のころにきいたのは、
ヨーロッパの国々は、階級が日本より固定されているし、
そもそも勉強したくない学生が
大学進学を希望したりしない、というはなしだった。
それなのに、階級の国 イギリスは進学率が67%(10位)だし、
マイスターの国、ドイツにしても
日本よりたかい53%(20位)だ。
国によって大学のなりたちや授業料などはちがうだろうし、
専門学校などをどう評価するかにもよるので、
かんたんには数字にあらわれないのかもしれない。
でも、とにかく単純に比較すると、
ほかの国にくらべ 日本の進学率はたかくない。

日本だって、大学がふえなかったわけではなく、
それどころか 質をともなわずに やたらとふえたので、
「駅弁大学」などと批判的にさげすまれていた。
記事によると、全国にある大学は5月時点で779校あり(短大をのぞく)、
1949年とくらべ約600校もおおい。
それなのに、先進国のなかで
日本の大学進学率はたかくないということは、
ほかの国なみにしようとおもえば、
もっとたくさんの大学が必要なことになる。

経営的にみると、いまでもくるしい大学がおおいらしい。
どう考えても大学数と18歳人口の推移が合わない。今の約780校では多すぎる。150校ほどがなくなっても仕方ないと思います。(諸星裕氏)

というみかたも記事のなかで紹介されていた。
いっぽう、人材を確保するには、
大学をへらすべきではない、というかんがえ方もある。
日本の進学率をどうみるかは、
大学になにをもとめるかによってちがうのだろう。

わたしは大学の授業に期待しないけれど、
なにかにうちこんだり、うちこまないまでも、
自由な4年間を体験するのは わるくないとおもっている。
その時間をどうすごすかは 本人しだいだ。
しかし、それではものわかりがよすぎるような気もする。
勉強しながら学生のときに事業をおこし、
たくさんお金をかせげるようになれ、
それで父ちゃんにおこづかいをくれと
本音をぶちまけたほうがいいだろうか。
塾にいっているわけでも、
家庭教師についているわけでも、
ひとりで勉強しているわけでもなく、
しっかりあそんでいるだけなので、
大学にすんなりはいれるわけがないようにおもう。

サッカーでは、自分たちの試合はこびができないときのために、
プランBをもってないと、
このまえのシンガポール戦みたいなことになる。
おまえのプランBは就職だと、
はやめにプレッシャーをかけたほうが
へんなことにならないかもしれない。
サッカーの場合、結果がでなければ監督の首がとぶ。
家族では、最大のスポンサーである配偶者のさじかげんで、
どうにでもなりそうだ。
わたしは 気もちだけはあっても ちからのない、
サポーターみたいな存在にすぎない。

posted by カルピス at 13:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月02日

『猪変』イノシシに なにがおきているか

『猪変』(中国新聞取材班・本の雑誌社)

イノシシをめぐる状況が、
むかしとはおおきくかわってきた。
いままではでてこなかった場所にも
イノシシがあらわれはじめる。
この本は、半年にわたり 新聞に連載された記事を編集したものだ。
瀬戸内海の海をおよぎ、島にわたろうとするイノシシの写真が
当時は話題になったという。
ほかの本をさがしているとき、図書館で偶然みつけた。
イノシシよけの電気柵をつけたところなので、
わたしとしては、すごくタイムリーなであいだ。
中国新聞とは、中国地方(島根・鳥取・岡山・広島・山口)を
発行エリアとする地方紙で、
この地域はイノシシによる被害がおおく、
なかでも島根県はその対策において
先進的なとりくみをしている県だとしる。
「人獣接近」の最前線として、
イノシシ研究の拠点にならざるをえなかった。

「先進的」といっても、
あくまで ほかの県とくらべてのはなしであり、
どうしたら田畑をまもれるか、
手さぐり状態ですすめている状況だ。
なにか画期的な方法があみだされたわけではない。
そもそも、イノシシは その生態が
ほとんどわかっていない動物なのだという。

1980年代以降、イノシシの被害がふえはじめた。
しかし、なぜイノシシが人里にちかづきだしたのか、
原因は はっきりしない。
森がへったわけではない。
ひとが山にはいらなくなったり、
ほったらかしにされた農作地を
イノシシがかくれがにしたりと、
いくつかの要因がからまっているという。
神戸の町なかにイノシシがでると ほほえましいニュースになる。
しかし、じっさいに田畑をあらされる農家としては
イノシシはかわいらしい存在ではなく、
「駆除」すべきいまわしい対象だ。

駆除とは、被害をふせぐために
ワナでつかまえたり、猟でかったりすることで、
食材として利用するのが前提になっていないので、
つかまえたイノシシの処理にこまっている町がおおい。
ジビエとして、うまく流通にのせた例もでてきている。
ただ、駆除したからといって
かならずしも農産物の被害がへっているわけではない。

イノシシからの被害をふせぐもうひとつの方法は、
田畑に柵をめぐらすやり方で、
おおくの市町村が助成金をだして農家をたすけている。
松江市だと 電気柵をとりつけた場合、かかった材料費のうち
50%に補助がでるしくみだ。
本書の写真では、トタンだけでなく、
そこらへんにある板や箱までをつかい
なりふりかまわず「柵」をつくっている畑が紹介されている。
そんなふうに、すべての田畑に柵をめぐらすのは、
農家にとっておおきな負担だろう。
しかし 田畑をまもろうとおもえば、
腹をきめて柵をめぐらすしかないようにおもう。

興味ぶかい本ではあったけど、
なにぶん記事になったのが2002年と
10年以上もまえのはなしだ。
終章に「『猪変』その後」をもうけ、
最近の情報をおぎなっているとはいえ、
データーがおおきな意味をもつたぐいの本として、
いささかふるすぎる。
いまはどうなんだ、とよんでいて なんどもおもった。
終章によると、イノシシの生態はいまだに謎だらけだといい、
被害金額もよこばいのままだ。
けっきょくいまだにきめ手のないまま
おなじような状況がつづいているらしい。

ひとはむかし 山の神としてイノシシをうやまい
ともにくらしていた。
こころのなかで、イノシシもふくめ
動物たちと ともに生きているという自然観があった。
なにかの原因で生態系のバランスがくずれ、
いまでは人間にとって ただいまわしいだけの動物としてあつかわれている。
イノシシにとっても、人間にとっても不幸な状況だ。
本書は現状の報告であり、
あかるいきざしはほとんどのべられていない。
どうしたら以前のように
保護と管理の調和がたもてるだろうか。

posted by カルピス at 15:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年09月01日

湊かなえさんのいう「一日村」が気になる

湊かなえさんが『無理だと思っても』という題で
朝日新聞に記事をよせている。
原稿のしめきりが3つくらいかさなり、
こんどばかりはどうやっても間にあわない、
というくるしい状況のとき、
湊さんはにげだすことなく(小心者だから、とある)原稿用紙にむかう。
1文字、1行、1頁、とにかく書いていくのみです。ブドウ糖の錠剤を舐め、栄養ドリンクを飲み、ガムを噛み、睡魔と闘いながら迎えた何日目かの朝、ようやく最後の原稿に「了」と書き込むと、決まって、頭の中に浮かんでくる一文があります。
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」(中略)
無理だと思っていたことが達成された瞬間を表すのに、これほど適した一文はありません。

斎藤隆介さんの童話「半日村」にでてくることばなのだそうだ。
よんでいないから、内容はわからないながら、
あるときを境にして、劇的になにかがかわることを、
こう表現したのだろう。
いいはなしだなーと感心してたけど、
よくよんでみると、はじめにおもってたのとずいぶんちがう。

「半日村は、一日村とよばれるようになった」ということばは、
達成された瞬間を表すにのに適しているのであり、
達成するためのちからをあたえてくれるとはかいてない。
「かならず一日村になるから」
湊さんは自分にそういいきかせながら 原稿にむかうのかとおもったら、
そうではなかった。
「『了』と書き込むと、きまって、頭の中に浮かんでくる」のだから、
かいているときはわすれていて、
かきおわったときに
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」
が、ふと頭にうかぶのだ。
それを目的にがんばるわけでもなく、
すべてがおわったあとで このことばをつぶやくと
たまらない達成感があるという、
すこしひねった構造になっている。

なんのためにがんばるか、というときに、
無理におもえても、かならずおわるからと
自分にいいきかせて原稿にむかうよりは、
おわったら◯◯がある、のほうが具体的な目標となる。
でも湊さんは、そうした目標をかかげてがんばるのではなく、
「とにかく書いていくのみ」で仕事にむかっている。
そうした無の境地のあとで、
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」
とつぶやくと、絶大な達成感があるという。
このことばはきっと、むこう側の世界にいった瞬間をとらえているのだ。

なにかのためにがんばるというよりも、
おわったときにふと口にでてくるのが
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」で、
自分でもなにかわからないちからがはたらいて「了」となり、
みわたせば世界がガラッとかわっている。
狐つきの状態になったわけでも、
親切な小人が手つだってくれたのでもない。
自分が世界をかえられた実感が、
どれだけ手ごたえのある体験かをあらわしている。

もうひとつ気になるのは、
しめきりがかさなったような 短期間のがんばりではなく、
中・長期的にトホホがつづいているときなどの「半日村」だ。
おさきまっくらな状態のあと、半日村は一日村になるだろうか。
わたしとしては、短期間よりも、
むしろこうした長期的な困難のあと
いつのまにか「一日村」になっていてほしい。

「一日村」は、全力をつくした努力とセットです、
なんていう ありがちな教訓は童話となじまない。
努力でなんとかなるなら 人生は計算がなりたちそうだけど、
そうでないから 不思議な童話のひとことがきいてくる。
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」
そのことばがまさしくふさわしいという場面で
わたしもそうつぶやいてみたい。トホホ。

posted by カルピス at 21:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする