2015年09月01日

湊かなえさんのいう「一日村」が気になる

湊かなえさんが『無理だと思っても』という題で
朝日新聞に記事をよせている。
原稿のしめきりが3つくらいかさなり、
こんどばかりはどうやっても間にあわない、
というくるしい状況のとき、
湊さんはにげだすことなく(小心者だから、とある)原稿用紙にむかう。
1文字、1行、1頁、とにかく書いていくのみです。ブドウ糖の錠剤を舐め、栄養ドリンクを飲み、ガムを噛み、睡魔と闘いながら迎えた何日目かの朝、ようやく最後の原稿に「了」と書き込むと、決まって、頭の中に浮かんでくる一文があります。
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」(中略)
無理だと思っていたことが達成された瞬間を表すのに、これほど適した一文はありません。

斎藤隆介さんの童話「半日村」にでてくることばなのだそうだ。
よんでいないから、内容はわからないながら、
あるときを境にして、劇的になにかがかわることを、
こう表現したのだろう。
いいはなしだなーと感心してたけど、
よくよんでみると、はじめにおもってたのとずいぶんちがう。

「半日村は、一日村とよばれるようになった」ということばは、
達成された瞬間を表すにのに適しているのであり、
達成するためのちからをあたえてくれるとはかいてない。
「かならず一日村になるから」
湊さんは自分にそういいきかせながら 原稿にむかうのかとおもったら、
そうではなかった。
「『了』と書き込むと、きまって、頭の中に浮かんでくる」のだから、
かいているときはわすれていて、
かきおわったときに
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」
が、ふと頭にうかぶのだ。
それを目的にがんばるわけでもなく、
すべてがおわったあとで このことばをつぶやくと
たまらない達成感があるという、
すこしひねった構造になっている。

なんのためにがんばるか、というときに、
無理におもえても、かならずおわるからと
自分にいいきかせて原稿にむかうよりは、
おわったら◯◯がある、のほうが具体的な目標となる。
でも湊さんは、そうした目標をかかげてがんばるのではなく、
「とにかく書いていくのみ」で仕事にむかっている。
そうした無の境地のあとで、
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」
とつぶやくと、絶大な達成感があるという。
このことばはきっと、むこう側の世界にいった瞬間をとらえているのだ。

なにかのためにがんばるというよりも、
おわったときにふと口にでてくるのが
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」で、
自分でもなにかわからないちからがはたらいて「了」となり、
みわたせば世界がガラッとかわっている。
狐つきの状態になったわけでも、
親切な小人が手つだってくれたのでもない。
自分が世界をかえられた実感が、
どれだけ手ごたえのある体験かをあらわしている。

もうひとつ気になるのは、
しめきりがかさなったような 短期間のがんばりではなく、
中・長期的にトホホがつづいているときなどの「半日村」だ。
おさきまっくらな状態のあと、半日村は一日村になるだろうか。
わたしとしては、短期間よりも、
むしろこうした長期的な困難のあと
いつのまにか「一日村」になっていてほしい。

「一日村」は、全力をつくした努力とセットです、
なんていう ありがちな教訓は童話となじまない。
努力でなんとかなるなら 人生は計算がなりたちそうだけど、
そうでないから 不思議な童話のひとことがきいてくる。
「それから、半日村は、一日村とよばれるようになった」
そのことばがまさしくふさわしいという場面で
わたしもそうつぶやいてみたい。トホホ。

posted by カルピス at 21:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする