2015年09月16日

津村記久子さんの「ただ起こることに抗して」

津村記久子さんが朝日新聞のコラムに
「ただ起こることに抗して」と、
したしいひとにふりかかった かなしみをかいている。
稲葉先生のことで、病気や享年は、人生における身の処し方とはまったく関係がないということを学んだ。因果報応は存在しない。善いことしたから長生きするわけでもないし、大して何もしなくてもずっと健康ではいられるかもしれない。運というか、病気や事故は「ただ起こる」。

「何もかも納得がいかない。なぜとしか思えない」と、
津村さんは運命の理不尽さにいかり、たちすくむ。
いったんことがおきてしまえば、それはもう もとにもどらない。
おこったことは、おこったこととして
その条件でやっていくしかない。
そんなことはわかっているつもりなのに、
いざおきてしまうと わたしたちは
どうしようもないかなしさから たちなおれない。

生涯が50年でおわっていた時代は、
あっという間に人生がつきてしまった。
そのころは理不尽さが いまよりもっと切実だったかというと、
あんがいそうでもなかったのではないかとおもう。
自分の人生は自分できめられるものではないと、
理不尽があたりまえのこととして うけいれられていた。
いまは寿命がのび、いつまでもおなじ状況がつづくような気でいるから、
とつぜんなにかが「ただ起こる」と、
本人もまわりも、とてつもなくおもいできごととなる。
なんのこころがまえもできていないので
自分だけにおきた理不尽としかおもえない。
人工物にかこまれ、自然からはなれてくらしていたり、
科学や医学にたよるほど、
「ただ起こる」状況をうけいれにくいのではないか。
津村さんは、そうして「ただ起こる」ことに抵抗する態度として、
「精一杯優しくして生き」るしかないのでは、とかんがえる。

会社につとめ、定年まで仕事をつづけ、
退職金と年金をやりくりして老後をすごす。
しかし、定年まで健康ではたらけるという保障はないし、
自分や家族が介護を必要となれば、
まったく計算がくるってくる。
このごろのように老後の貧困でおどかされると
なが生きが かならずしもしあわせではないような気がしてくる。
すべてを想定した人生計画なんて できっこない。
いつ、なにが「ただ起こる」かわからないのだから、
いまを大切に生きるしかないといいつつ、
では具体的にはどうしたらいいのか。

歳をとるにつれ、いろんなことがますます「ただ起こる」。
わたしには津村さんみたいに
「精一杯優しくして生きる」態度はつづけられない。
「ただ起こる」ことに抵抗しようとする
津村さんのいかりに共感しながらも、
しばらく生きるかなしみにひたったうえで、
うけいれていくしかないのではとおもっている。

posted by カルピス at 14:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする