2015年10月31日

『ジョゼと虎と魚たち』ジョゼの独特なはなし方が印象的

『ジョゼと虎と魚たち』(犬童一心監督・2003年・日本)

ジョゼ(森脇千鶴)の不思議なはなし方が印象にのこる。
ひとことひとことおさえるように、
ぶっきらぼうだけど ちからがこめられた大阪弁。
相手のいいかげんなかかわりを ゆるさない迫力がある。

ジョゼのつくった朝ごはんを
恒夫(妻夫木聡)がおいしそうにたべる。
ごはんにだしまきとみそ汁。それにぬかづけ。
おかずを口にはこぶたび、恒夫の顔がほころんでいく。
恒夫がだしまきをほめても
「あたりまえや、うちがやいたんや。まずいわけないがな」。
はじめてジョゼが口をきく場面だ。

恒夫は実家での法事に、ジョゼをつれてかえろうとする。
障害者とつきあっていることを、
親戚たちにしられてもいいと、いったんは本気でおもっている。
ジョゼはしかし、そんな恒夫に幻想をもたない。
実家までもうすこしというところで恒夫がビビリ、
いきさきをかえてもジョゼはまったくおちこまない。
「海へいけ。うちは海をみとなった」
とすぐに気もちをきりかえる。
じっさいに海を目にすると、
「海か!すごいな」と、
ジョゼはこころの底から感激する。

人間としての魅力にあふれるジョゼだから、
障害をもっていても そんなのとは関係なしに
恒夫とつきあえそうだけど、
そうすんなりはいかなかった。
でもそれは、ジョゼの足に障害があったからだろうか。
健常者と障害者との恋愛などと、
障害のジャンルにこの作品をおさめようとしても
きっとうまくいかない。
ジョゼの存在感は、障害をまったく問題にしていない。

『桐島、部活やめるってよ』(朝井リョウ)のなかで
この作品が話題にのぼる。
映画部の前田くんと武文くんがはなす場面だ。
この作品がすきな武文は、
コメンタリーをみるよう前田くんにすすめている。

コメンタリーってなんだ?
DVDをもういちどかけてみると、
本編再生のほかに「コメンタリー」もえらべるようになっていた。
本編をながしながら、
監督の犬童さん、それに主演の妻夫木くんと池脇さんが
自由におしゃべりしてる。
こういうのをコメンタリーというらしい。

かなりその作品にいれこまないと、
なかなかコメンタリーまでみないだろう。
武文は
「いや涼也、あれはコメンタリーも観るべきやって!
 そこ観て改めて気づく発見とか、めっちゃあるんやって!」
というけれど、
舞台裏をしったからといって、
作品への理解がふかまるとはかぎらない。
わたしは ほんのさいしょだけで
コメンタリーをみるのをやめた。
きっといろいろわかるのだろうけど、
わたしには本編だけでじゅうぶんだ。

前田くんは、中学生のときに
同級生の東原かすみと
『ジョゼ』についてはなしたことをおもいだす。
かすみにとっても『ジョゼ』は
一番すきな作品だ(PG12指定なんだけど)。
中学のときからこの作品をすきになれるって、
すてきな子どもたちだ。
子どもだからこそ、ジョゼにつよくひかれるのかもしれない。

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2015年10月30日

北上さんの自薦ベスト3にひかれて『魔術はささやく』(宮部みゆき)をよむ

『魔術はささやく』(宮部みゆき・新潮文庫)

北上次郎さんが『勝手に!文庫解説』のなかで
自薦ベスト3に この本をあげている。
作品の評価ではなく、解説としてのベスト3だ。
はじめてほめられた解説なのだという。
解説めあてに本書をよみはじめた。

『魔術はささやく』は、出版されたのが1989年で、
93年に文庫になり、わたしがよんだものは
96年の28刷だから すごい人気だ。
でも、わたしにはふるめかしさが気になって、
なかなかはいりこめない。
おもしろくなったのは、まんなかくらいからだ。
なんだか怪人二十面相シリーズをよんでいるような、
ひとむかしまえの小説におもえる。
賞味期限があたまをかすめる。
ようやくよみおえて 北上さんの解説をみると、
これがまた、とびきりの絶賛だ。
何を語るのかということに腐心するあまり、どう語るのかということが忘れられているのが昨今の日本エンターテインメントの現状であることを考えれば、この資質と努力と誠意は賞賛に値する。(中略)どんな賛辞を並べてもまだ足りないだろう。小説を読むことの至福とはこういう作品を読むことを言うのである。

北上さんの解説をよんでもまだ、
わたしにはこの小説のふかみが理解できない。
残念ながら、わたしにわかる本の魅力はかなり限定的だ。

村上春樹さんの『女のいない男たち』でも
おなじことをかんじた。
この本におさめられている短編のなかで、
『木野』だけは 無理やりなストーリーにおもえ、
いまひとつはいりこめない。
しかし、『村上さんのところ』では、
何人もの読者がこの作品をとりあげている。
ほかの短編とはちがう世界観にひかれるという。
わたしには、文学のふかみを味わうちからがかけている。
すべてをエンタメの視点からしかみれない。

北上さんによる自薦ベスト3のもう1冊は、
椎名誠さんの『わしらは怪しい探検隊』だ。
この解説は、探検隊がうまれそだった背景や、
東ケト会の「隊員のうた」、
椎名さんのわかいころのむちゃぶりなど、
北上さん(この本の解説は目黒考二として)
でなければかけない内容であり、
オチもきまっている。
これは文句なしにおもしろかった。

(追記)
解説つながりでいうと、宮部みゆきさんは、
高野秀行さんの『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)に
解説をよせている。
今の世の中には、絶対に、こういう本が必要なんです。みんながみんな、探検部のメンバーみたいに生きることはできないからこそ。

幻の怪獣さがしに無条件であついエールをおくる、
この解説もまたすばらしい。

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2015年10月29日

旅行者はラオスに辺境をもとめがち

朝日新聞のコラムに
ラオスやカンボジアの発展がとりあげられていた。
均質化がすすみ、「普通の国」化がいちぢるしい、という内容だ。
柴田直治特派員によるこの記事に、
梅棹忠夫さん・村上春樹さんと、
わたしのすきなおふたりの名前があがっている。

梅棹さんは、50年以上まえのインドシナ半島で、
自動車による調査旅行をおこなっている。
当時のラオスはまだ非常にまずしく、
首都のビエンチャンにさえ
上下水道・新聞・鉄道がないと
梅棹さんはおどろいている。
しかし、いまはメコン川の開発などで、
ラオスはすさまじくさまがわりした。
メコン川沿いに軒を並べた屋台はかなりの数がしゃれたレストランに衣替えし、大型モールもできている。東南アジアの最貧国という呼称はもうしっくりこない。

この変化は、梅棹さんをもってしても
予期せぬことだったかもしれないと、
柴田氏はかんじている。

村上さんは来月に紀行文集をだす予定で、
そのタイトルが、
『ラオスにいったい何があるというんですか?』
というらしい。
このタイトルが、なにを意味するのかはわからない。
しかし、ことばどおりにうけとめると、
ラオスの現状をしるひとにとって、
ピンとこないタイトルかもしれない。

旅行者は、ラオス=辺境のイメージにそって(あるいはひきずられ)、
なにもないラオスをありがたがる。
ラオスの旅行記は、メコン川の開発にふれるにしても、
「普通の国」としてのラオスはわずかで、
メインは素朴でむかしのままのくらしとなる。
きょねんわたしがラオスをたずねたときもそうだった。
気にいったのはカンボジアとの国境にちかいシーパンドンで、
自然がうりものの地域だし、
ビエンチャンにはたった1日しかおらず、
デパートなんかにはもちろんいかない。
発展したラオスよりも、
発展してないラオスをもとめていた。
村上さんは、ラオスのどこをおとずれ、
なにをかんじたのだろうか。

梅棹さんがラオスをたずねたとき(1957年)は、
ビエンチャンからルアンプラバンまで飛行機をつかっている。
ジープならいけないことはないが、
すごく時間がかかるので、
現実的なのは飛行機による移動だった。
それがいまや国じゅうをバスがはしり、
ルアンプラバンはしずかな古都というよりも、
いちばんの観光地になっている。
わたしはラオスを旅行するあいだ、
梅棹さんの『東南アジア紀行』をときどきひっぱりだした。
50年以上もむかしの旅行記なので、
かわってあたりまえとはいえ、
なにもないころのラオスをみたかった。

「普通の国」化が東南アジアの各地ですすんでいる。
そして日本もまた アジアにおいて圧倒的な存在ではなく、
「普通の国」となった、というのが柴田氏の指摘だ。
辺境をもとめてラオスをたずねるにしても、
「普通の国」としてのラオスもまた
よくみておいたほうがいい。

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2015年10月28日

「おもしろい」よりも「すき」といわれたほうがよみたくなる

読書週間なのだそうで、きのうの朝日新聞に
東山彰良さんと池上冬樹さんの対談がのっていた。
おたがいに「おすすめ」の5冊をだしあって、
おもに池上さんが本についてのコメントをいれながら、
はなしをすすめている。
すきな本、といわれると どれもよみたくなる。
「おもしろい」よりも「すき」のほうが
わたしをつよくひきつける。
コーマック=マッカーシーの作品と、
カズオ=イシグロの『わたしを離さないで』が
わたしのすきな本とかなさっていてうれしかった。

東山さんは「web本の雑誌」の「作家の読書道」にも登場している。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi164_higashiyama/
エルモア=レナードがすきだといい
チャールズ=ブコウスキーの名前もあがっている。
いずれの作品も わたしはまだよんだことがなく、
さっそく「カーリル」でしらべてみる。
東山さんの作品もおもしろそうだ。
本だけでなく、話題にでてきたテキーラまでのみたくなってきた。
よみたい本、おもしろそうな本は
まだまだたくさんある。
というより、わたしがしってる本の世界は
まだすごくせまい。

本もだけど、映画だってもっとみたい。
だれかがすすめている作品をみると、
たいていおもしろい。
最近みた『桐島、部活やめるってよ』と『バクマン』は、
それぞれ杉江さんと糸井さんがおしえてくれなかったら
絶対にみなかった作品だ。
このひとがいうならと、
その気にさせてくれるガイドがいるのはとてもありがたい。

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2015年10月27日

日本人は何語をはなすときでも「姓ー名」の順でいい

すこしまえの朝日新聞に、
「姓と名 名乗る順番は?」という記事がのっていた。
英語での自己紹介は、
Yamada Taro かTaro Yamadaか。

まだそんなことをいっているのかとおどろいた。
日本人なのだから、Yamada Taroにきまっている。
もうとっくのむかしに 決着がついているのかとおもっていた
(別の問題として、Taroだと タロウではなくタロだ。
 タロウさんはいやじゃないのかな)。

本多勝一さんがなにかの本で、
毛沢東が自己紹介をするときに
「沢東 毛」というわけがない、とかいていた。
日本人だけが姓と名をひっくりかえしたがるのかを
不思議がっていたように記憶している。
わたしも本多さんのかんがえ方に賛成だ。
日本人の場合は、相手がもとめるからというよりも、
はなす側が自分のほうでかってに「名ー姓」とかえてしまう。
自虐的というか、サービス精神にあふれているというか、
理解しにくい心理だ。
外国人が日本語をはなすときでも、
「姓ー名」とかえないのとおなじで、
日本人が英語をはなすときも
日本式のままでいいと わたしはおもう。

記事には
英会話学校Gabaで9年間講師を務める英国人のバーナビー・アルガーさんによると、現在でもほとんどの生徒が「名ー姓」で自己紹介をするそうです。「Taro Yamadaと言った方がナチュラルな印象です。親しい雰囲気をつくりたいのであれば、相手の文化にあわせた方がいいのではないでしょうか」

と、愛国心をくすぐられる意見が紹介されている。
なにが「ナチュラル」だ。
それならイギリス人の名前を日本語にのせるときは、
ぜんぶ「姓ー名」にひっくりかえすのが「ナチュラル」となる。
バーナビー・アルガー氏も、
日本ではもちろんアルガー・バーナビー氏だ。

ちがう文化をしるために外国語をまなぶのはいいけど、
相手の文化にあわせる必要なんてない。

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2015年10月26日

『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』老後へのソフトランディングをめざす

『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』
(上野千鶴子・古市憲寿・光文社新書)

団塊の世代の上野さんが、
団塊ジュニアである古市さんの質問にこたえるかたちで
将来の介護についてはなしあう。
老後にはこれだけのお金が必要だ、なんて
不安をあおる記事をよくみかけるけど、
この本はやわなおどしではない。
親にも、自分にも、
これからどんな介護がまっているのか。
親を介護するとはどういうことか。

新聞をよんでいたら、
「65歳以上のお年寄りのうち〜」とかいてあり、
えーっ!とあわててしまった。
わたしもあと10年もたてば「お年寄り」という
あたりまえなことに気づき、うすらさむくなる。
自分ではまったくそんなつもりがなくても、
客観的にみれば65歳は「お年寄り」であり、
いやでもそのカテゴリーに仲間いりする。
介護される側にまわるのだ。
そのときに親がどんな状態か、
親のストックをあてにできるのかなどを、
上野さんがみてきた事例から
これからおこりえる状況がかたられる。

「遺産もらえるかな、なんて思ってもムダです」
「介護の果てに待つ、なんの保障もない老後」

介護保険をつかっても、
すべての介護をひきうけてくれるわけではないし、
お金だってそれなりに必要となる。
親にパラサイトして介護しても、
親が死んでしまえば自分にどんな境遇がまっているか。
介護にくわしいひとなどすくないし、
自分におとずれるはじめての状況なのだから、
老後を不安におもうのはあたりまえだ。
とはいえ、不安だけど なにが不安なのか、
その中身がいまひとつはっきりしない。
不安なのに、問題がさしせまらないとうごかない。
上野さんが提案するのは「老化のソフトランディング」で、
これは国全体のシステムとしてもそうだけど、
それぞれの親子関係についてもいえる。
どうやったら、おだやかに介護をスタートさせ、
無理のないようにつづけられるかを、
いまのうちに家族ではなしあっておいたほうがいいと
上野さんはすすめている。

わたしの家についていえば、同居する母(83歳)と、
1時間ほどはなれた町にいる義理の父(84歳)は
年金と介護サービスでなんとかなりそうだ。
いちばんあやういのは
わずかな年金しかうけとれないわたしのようで、
年金のうえに なにかで収入をうわのせしないと
悲惨な老後がかなりの確率でまっている。
健康なままいられたら、状況はだいぶちがうので、
せっせとからだをうごかし、
ボケないようプログをかく。
お米や野菜をそだてるのも、いくらかは役にたつはずだ。
不安はとくにない。
こわいものみたさで、
10年、20年さきをたのしみにしている。

posted by カルピス at 13:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月25日

『標的の村』と安次嶺雪音さん

『標的の村』(三上智恵監督・2013年)

沖縄の高江にある米軍の訓練場に、
オスプレイのヘリパッド(離着陸帯)がつくられるという。
戦争の訓練には標的が必要であり、
高江村は、まさにその標的として米軍に位置づけられ、
ヘリパッドが村をかこむように計画されていた。
安心してすめなくなる高江村のひとたちは
自分たちのくらしをまもろうと、反対運動にたちあがる。

中心となって運動にとりくむ安次嶺(あしみね)夫妻は
高江村で6人の子どもたちをそだてている。
妻の雪音さんは松江市出身の方で、
朝日新聞の島根版に高江村でのくらしを連載されており、
その記事から今回の上映会をしった。

村のひとたちが防衛局に説明をもとめても
はぐらかされるだけだ。
なにをやってもきいてもらえないから、
しかたなく実力行使としてすわりこみにうったえる。
建設業者が資材をはこびいれ、
防衛局は村のひとを強制的に「排除」しようとする。
おなじ沖縄にすむひとどおしがにくしみあう、かなしい状況。
高江村だけでなく、沖縄にあるすべての米軍基地で
おなじ構図がつくられており、この状況をかえようと、
沖縄県民全体による運動がたかまっている。
おおくのひとたちが普天間基地の封鎖など、
実力行使に参加し、理解をしめすようになった。
オスプレイは、沖縄をあざむきつづけた
政府の象徴だと映画は指摘する。

ひとごとにしかかんじなかった基地問題を、
これだけリアルにしらせてくれた映像ははじめてだ。
防衛局の職員へのいかりがわいてきて、
わたしにはとても高江村のひとたちのように
冷静で気ながなとりくみはできそうにない。

上映のあとで安次嶺雪音さんがおはなしをされた。
運動は9年目にはいり、おこってばかりではつかれてしまうし、
いかりがさきにたつと、いいほうにうごかないので、
このごろはたのしみながらとりくんでいるという。
うたやおどりをとりいれ、
防衛局のひとたちへも、敵としてではなく
自分たちの気もちをていねいにつたえようとする。
雪音さんは、「わたしのこころには希望しかない」といわれる。
これだけたくさんのひとが協力してくれるから、
沖縄はきっと大丈夫だし、
沖縄が大丈夫なら日本も大丈夫で、
日本が大丈夫なら、世界も大丈夫だ。
「くらしをまもりたい」とはじめた反対運動が、
いまでは日本、そして世界の希望とかんじるという。

ありえない状況が沖縄の現状となっているのに、
沖縄以外の場所に、その事実がしられていない。
そのギャップに雪音さんはおどろいている。
沖縄も原発も安保も、根っこはみんなおなじであり、
ひとりひとりが自分にできることをすれば
きっと状況はかえられると 協力をうったえられる。
平和な世界、ヤンバルのゆたかな自然をつぎの世代にのこしたい。
日本をよくするのは、いまを生きるわたしたちにしかできないと
雪音さんはむすばれた。

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2015年10月24日

「カラマーゾフ」と鷹の爪

『カラマーゾフの兄弟』をよんでいると、
しょっちゅうウォッカがでてくる。
ウォッカなんかふだんのまないのに、
わたしもなんだかほしくなってきた。
「カラマーゾフ」のひとたちは、
ひるまだって、平気でのんでいる。
ソーダでわった、なんてかいてないから、
そのまま口にほうりこむのだろうか。

透明なので、なんだか二日よいしない気がする。
寝酒の2杯めとしてウォッカ・トニックをつくってみた。
酒によわいわたしは、この2杯めの塩梅がむつかしい。
のむ時間がおそいと、つぎの日までのこってしまうので、
ごくうすくつくる。
泡盛はあきらかに二日よいしにくい。
でも、ウォッカはしっかりのこった。
アルコール度数がちがうのだから
差がでるのはあたりまえだ。
こんなのをしょっちゅうカパカパやって、
ロシア人のからだはどうなっているのか。
とはいえ、「カラマーゾフ」の世界を味わうには、
ウォッカ体験をもっていたほうが いいようにおもう。

仕事でお世話になっているひとから、
いくつかの「鷹の爪グッズ」をもらった。
あるツテからプレゼントされたそうで、
自分の家ではだれもよろこばないから、と
袋ごとわたされる。
島根でも、こんなことはめったにない。
マグネットシートやふでばこにポーチ。
なんだかわけのわからない敷物もはいっている。
ふでばこには全面に「鷹の爪」のメンバーがかかれているので、
いいとしこいて、とてももちあるけない。
実用からはなれているのがいいかんじだ。

そういえば、わたしは「カラマーゾフ」をよんでいるとき、
フョードル(お父さん)がでてくると、
鷹の爪の総統が頭にうかんできた。
総統は、すごくやさしいひとなのに、
外見だけをみると、いかにも悪の秘密結社だ。
総統が敷居をひくくしてくれたおかげで、
わたしは「カラマーゾフ」をすらすらよめたのかもしれない。

年おいて、介護が必要になっているネコのピピが、
このごろふとんのなかでおしっこをする。
まえは夜中におこされてトイレにつきあわされるので
文句をいっていたけど、
ふとんのなかでされるのはずっとたちがわるい。
わたしのパジャマもおしっこでぬれている。

でもほんとうは、ふとんではなく寝袋でねているし
(被害をみこんで)、
トイレシートもしいてあるのでたいした被害はない。
淡々と処理をして、またふとんにくるまる(こんどは本物)。
だんだんと介護生活になれつつある自分を得意におもった。
「カラマーゾフ」と鷹の爪だけでは
なんだかおさまりがわるいような気がして、
むりやりピピのはなしをねじこむ。
意味のなさが鷹の爪的かもしれない。

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2015年10月23日

『勝手に!文庫解説』(北上次郎)

『勝手に!文庫解説』(北上次郎・集英社文庫)

『勝手に!文庫解説』をペラペラっとめくる。
この本は、たのまれたわけでもないのに、
北上さんが「勝手に」かいた文庫本の解説をあつめたものだ。
たいていの文庫本には、いちばんうしろに
「あとがき」や「解説」がついていて、
本文をよみおえたあとの余韻をたのしめる。
内容がおもしろかったら、
その本のことをもっとしりたいし、
つまらなかったなら つまらなかったで、
いったいこの本のどこがいいのかと、
ちゃんとした説明がほしい。
「解説」からよむひともおおいようで、
いい解説をつけると発行部数がのびるそうだ。
なんだかんだいって、わたしは解説をたのしみにしている。
メインディッシュのあとのデザートだろうか。

北上さんは文庫の解説をかくのが だいすきだといい、
この本におさめられた解説のなかには、
文庫本としてすでに発売され、
解説がちゃんとついているものもある。
つまり、出版社から注文をうけてかいた解説だけでなく、
その本についてひとこといわせろと、
北上さんが「勝手に」かいたものをふくむ。
ほかのひとがかいた解説に不満だから、
北上さんが異議もうしたてをしたのではなく、
「おれにも書かせろ、というニュアンスにすぎない」そうだ。
「勝手に」のタイトルは、まさにその意味からつけられている。
たのまれもしないのに「勝手に」かく自由さがいいかんじだ。

『凸凹デイズ』(山本幸久・文春文庫)には、
三浦しをんさんが解説をよせている。
北上さんはこの解説を「素晴らしい」と評価しつつも
『凸凹デイズ』の解説を「勝手に」かいた。

しをんさんは、「なぜ働くのか」について、
「ひとは、だれかとつながっていたい生き物だから」
では、と仮設をたてる。

『凸凹デイズ』の帯には
「恋愛じゃなくて、友情じゃなくて、仕事仲間。」
というコピーがつけられている。
この本がでた当時、会社をやめ、
ひとりで家にいた北上さんは、
このコピーが胸にしみたそうだ。
「もう恋愛はいらないし、友情もいらないが、
 しかししかし仕事仲間は欲しいのである。」

わたしは、仕事をやりだすと
すぐなまけたくなって文句をいうくせに、
『凸凹デイズ』みたいなお仕事小説がだいすきだ。
主人公とそこのスタッフたちが、なにかを目的に
仕事づけで事務所にこもっている、みたいな場面によわい。
自分にないものをもとめる典型にちがいない。
しをんさんの「だれかとつながりたいから」は、
いいところをついているのではないか。
ひとといっしょに仕事をするのは
けっこうたいへんだけど、
信頼できるメンバーという条件つきで
仲間との仕事はたしかにたのしい。

『凸凹デイズ』には、ちいさなデザイン事務所ではたらく
3人の若者がでてくる。
お金にならない しけた仕事でも、
手をぬかないで最善をつくす。
けんかばかりしている3人に
「だれかとつながりたい?」とたずねたら、
きっとまともなこたえはかえってこないだろう。
でも 3人とも、その事務所で、
仲間といっしょにする仕事に、
なにかをかんじている。
つながり、といってもいいかもしれない。

メンバーのひとりのお母さんが、
ファミレスでパートの仕事をはじめる。
ウェイトレスなんて、それまでにやったことのないのに
だんだんと職場になれてきて、いきいきとはたらいている。
ほんとうに、はたらくとは、なんなのだろう。

posted by カルピス at 20:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月22日

『バクマン』(大根仁監督)

「ほぼ日」で糸井さんが『バクマン』を絶賛していた。
そんなことでもなかったら、マンガにうといわたしは
絶対にこの作品をみなかっただろう。
糸井さんにお礼をいいたい。おもしろかった。

主役の佐藤健と神木隆之介がいいかんじで、
青春映画の王道をいく作品となっている。
若者が主人公で、なにかに熱中するこうしたストーリーには
たいていひきこまれる。
二次元のマンガをうまく映像化してあり、
紙にかいた絵が、立体感のある画像にかえられて、
頭のなかにマンガがはいりこんだみたいだ。
自由自在なうごきとスピードが快感だった。
エンドロールでも、じょうずコミックであそんでいる。
日本のマンガファンだけでなく、
マンガやアニメに熱中する世界じゅうのファンに
この作品はうけいれられるのではないか。

わかいマンガ家たちが、
どんなふうにデビューしていくのかも興味ぶかい。
編集者にきたえられ、
マンガ家をこころざすわかもの同士でライバル心をいだく。
あいつだけにはまけられないと、競争意識をかきたてあう。
なんとかデビューをはたし、
編集長からちからがみとめられると いよいよ連載だ。
そしてこんどは読者からのアンケートをもとに順位をきそう。
わたしには、1位をとるのが
なぜそんなにだいじなのかピンとこないけど、
彼らは順位をあげること、1位になることにこだわっている。

週刊なので、しめきりはすぐにやってくる。
サイコーはやがてつかれはて、病院にかつぎこまれた。
入院してもなお 彼は連載をまもろうとし、
仲間のマンガ家が手つだってくれたり
編集者が協力してくれて、
なんとか巻頭カラーの掲載に間にあわせる。
ジャンプの王道である「友情・努力・勝利」だ。
編集長が「君たちのかちだ」といってたけど、
それですべてがおわるわけじゃない。
つぎのしめきりはすぐにやってくる。
連載がおわるまで、ずっとめちゃくちゃなスケジュールがつづく。

小林まことさんの『青春 少年マガジン』(講談社)に、
『バクマン』とおなじような世界がかかれている。
わかいマンガ家たちが何本も連載をかかえ、
やがてからだをこわしていく。
自分たちではすきなマンガをかいているつもりでも、
連載は非人間的な仕事量を要求する。
出版社につかいすてにされているようなものなのに、
マンガをかくのをやめられない。
3日や4日 寝ないのは当たり前
20時間くらい何も食わないのも当たり前
たばこは呼吸のように1日7箱
缶コーヒーは1日10本以上
締め切りのストレスで胃はボロボロ
逃亡したこと数回・・・
大げさと思うかもしれないが
オレはいつも神様にこうお願いしていた
「神様!!オレはいつ死んでもかまいません
ただ!今週号だけは仕上げさせてください

『バクマン』をおもしろくみながら、
マンガへの情熱は情熱としてみとめつつも、
過酷な連載でからだをこわしていく
わかいマンガ家たちが心配になった。

posted by カルピス at 14:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月21日

劇団ハタチ族の「ハングリー・アングリー」に期待する

劇団ハタチ族を応援しようと、月に1回は
となり町のチェリヴァホールへでかけている。
今月は、ハタチ族のサイトでファンがすすめていた
『鈴虫だいすき、興梠さん』の公演をえらぶ。
ハタチ族の代表である西藤さんが、ひとりでうけもつ日だ。
ひとり芝居のせいか、チケット代は500円だった。
きのうの朝日新聞に、ハタチ族を紹介する記事がのったので、
お客さんがおおいかとおもったけど、いつもとかわらない12人。
全員がお得意さんのようで、
西藤さんのうごきにこまかく反応し、よくわらっていた。
カメラをかまえているひとがいる。
このひとは、たしかまえにもいっしょになった。
月にいちどのわたしと顔をあわせるということは、
かなり熱心なファンなのだろう。

西藤さんがえんじるのは、興梠さんという老人だ。
鈴虫がすきな興梠さんは、これまでないたことがない。
それだけこころがつよいというよりも、
いつなけばいいのかわからないからだ。
興梠さんは、そもそもなき方もわからないまま
老人になってしまった。
そう。これは鳴くと泣くをかけたはなしだ。
でもまあ、いってみればただそれだけで、
とくにクライマックスはない。
もしかしたら、行間に意味がこめられているのかもしれないが、
わたしはみていてすこしつらかった。
いまおもえば、はじめてみた「ハタチ族」である『劇団入門』が、
いちばん演劇らしい題目だった。
いまの劇団ハタチ族は、まだひきだしがおおくない。
西藤さんがひとりでうけもつ日をいれないと、
365日連続公演を、つづけるだけの体力がない。
そのいたらなさをうけいれながら、
ハタチ族がちからをつけてほしいと応援している。

イスにすわって舞台をみていると、
うしろのほうからテレビの音がきこえてくる。
鈴虫の音色をきこうか、というくらい
しずかさがほしい場面なのに、
きこえてくるのがおわらい番組のざわつきなので、
かなりトホホな気分になる。
ロビーとおなじ階にある軽食店から
音がもれてくるようだ。
しずかな場面をえんじている西藤さんに失礼だし、
客としてもたのしくはない。
こんながっかりの環境で、ハタチ族はスタートしたのだ。

『100円の恋』で、ボクシングジムにはられていた
「ハングリー・アングリー」のパネルをおもいだす。
劇団ハタチ族にも、ハングリーとアングリーがあるはずだ。
ひとり芝居でのりきろうとした夜、
雑音に演技をじゃまされた残念な体験を
わすれてほしくない。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 演劇 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月20日

これまでの記事をよみかえし、身の程をしる

ブログの記事をバックアップしながら、
ひとつひとつよみかえしている。
うまくかけている記事をあつめ、KDPにしようという魂胆だ。
ジャンルわけも もういちど確認する。
1500本くらい記事がたまったので、
何冊かのKDPにしあがるのではないか。
しかし、どうもおもったようには はこびそうにない。

スタートしたばかりのときは、
あいそのない、もろに日記な記事ばかりで、
それはそれで わるくないか、なんておもっていた。
ごく最初の記事だけにみられる
特殊な事情だろうから。
でも、全体の1割をこえるバックアップがおわっても、
でてくるのは あいかわらずろくでもない内容だ。
自分がかいていながら、おどろくほど質がひくい。
3段階評価でほとんどが「1」。
「2」はすこしあるだけで、
「3」とおもえるのはひとつもない。
いつからまともな記事になるのだろう。
わたしとしては、うもれていたむかしの原稿にひかりをあて、
すこしととのえたのち しかるべき場所にうつすつもりだった。
でも、とてもKDPの原稿になどつかえない。
もうすこし形になっているとおもっていたのに、
ハンパさにがっくりくる。
身の程をしる、いい機会となった。

このごろ「コラム・イナモト」をよくよんでいる。
イナモトさんは、あふれるようにアイデアがわいてくるようだ。
おもいつきを、どんどんエスカレートさせていく。
イナモトさんのブログをよむうちに、
なにか文章をかくコツがみえてくるのでは、と期待したけど、
絶対にむりなのがわかってきた。
イナモトさんはことばあそびの天才で、
まねできるような文章ではない。

たとえば「日本国腰砕け憲法」。
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20060128
「とりあえず」という、よくつかうことばに目をつけ、
もうひとつ「できるだけ」のちからもかりたら、
あのいかめしい憲法がヘロヘロになってしまった。
これを「日本国腰砕け憲法」と名付けて、国会に提案したい。ヨロヨロ、フラフラしているようで、何となくうまくいってしまうという、酔拳のような憲法だ。とりあえず、どうだろう?

わたしのブログは、
「とりあえず」も「なるべく」もつかわないのに
ヘロヘロなのはなぜだ。

posted by カルピス at 15:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月19日

だれでもヤギと羊のなき声がききわけられるようになる

「デイリーポータルZ」の「よりぬきDPZ」に、
「もう迷わない!ヤギと羊の鳴き声」がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/130312159937_1.htm
ライターは、ヤギといえばとうぜん林雄司さんだ。
3月3日は耳の日ということで、この記事は
「ヤギと羊の鳴き声ヒアリング教室」
に参加した感想がまとめられている。

わたしも以前から、ヤギと羊のなき声がききわけられなかった。
ききわけられないからといって、とくにこまらないけれど、
なんとなくすっきりしないのはたしかだ。
そういえば、ほかにも
オットセイとセイウチのちがいがわからない。
こちらはなき声ではなく、
すがたをみてもわからないのだから、
解決をはかるべきは ほんとうはこちらがさきだ。
とはいえ 日常生活において
オットセイとセイウチのみわけがつかなくても
たいして問題はないし、そんなことをいうのなら、
セミクジラとミンククジラのちがいはどうなんだ、
というはなしになってしまう。
さらにいえば、芸能界は区別のつかないひとだらけだ。
こうしてかんがえだすと、なにごとにおいても、
区別をつけることに なにか意味はあるのか、
と根源的が疑問がわいてくる。
ちがいなんて、むしろわからないほうが
世界の平和につながりやすい。

はなしをもとにもどすと、
ヤギと羊のなき声には、よくきいてみると特徴があり、
あんがいかんたんに ききわけられる。
林さんはめでたく
両者のちがいが だいたいわかるようになった。

林さんのまとめは、
「得体のしれないスキルを身につけた」だ。
これからの人生で、ダイナマイトの赤と白の線をどっちを切るか的な意味でヤギか羊かを判断しなければならないことがあっても安心である。
例えば…急に氷河期がやってきて羊の毛が欲しくて、家畜を選ばなきゃいけなくなって、でも姿が見えなくて声だけで判断しなければならないとか…そんな無理がある状況でもOKだ!

つまり 身につけたからといって、ほとんど実用にならない。
履歴書の、特技の欄にかけるかどうかも微妙だろう。

わたしがもしかして遊牧民になり、
まっくらな夜に、
迷子になったヤギと羊をさがしにいくときには、
このスキルがいかせるかもしれない。
でも、よくかんがえてみれば、
ヤギにしても羊にしても、
迷子になった家畜は さがさなければならないのだから、
べつにききわけられなくても やっぱりこまらない。
こうしてみると、なにかをききわけるスキルは、
どんな場合においても まず役にたたないみたいだ。
役にたたない知識こそ教養かもしれないけれど、
かなり手ごたえのないスキルなのがわかった。

posted by カルピス at 15:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月18日

『桐島、部活やめるってよ』

『桐島、部活やめるってよ』(吉田大八監督・2012年)

『帰ってきた炎の営業日誌』(「web本の雑誌」)で杉江さんが絶賛していた。
 土曜日に借りて観た『桐島、部活やめるってよ』があまりに衝撃的に素晴らしく、いっときも頭から離れない。
 ほとんど映画を観ない人間だけれど、この映画が傑作なのはわかる。そして今後どんなにたくさん映画を観たとしてもその評価は変わらないだろう。傑作というのはそういうものだ。

http://www.webdoku.jp/column/sugie/2015/09/07/225849.html
そんなにいうならと、
まず朝井リョウさんの原作をよみ、
そのあとでDVDをかりてきた。

原作は、まえにいちど手をだしたものの、
ついていけずに とちゅうでなげだしている。
あらためてよんでみると、こんどはスルスルっといけた。
「桐島」はでてこないのに、いない彼をめぐるおもわくで
生徒たちがなにをかんがえているかをうかびあがらせる。
いま高校生でいるのって、たいへんそう。
これは傑作だ。

映画は原作をじょうずに映像化している。
とちゅうまでは ほぼ原作のまま、
後半からは、映画としてかなり自由に。
男子も女子も、いけてるようにみえるグループも、
ださくてまわりから相手にされていない生徒たちも、
あたりまえながらだれもが複雑な内面をかかえている。
もし原作をよんでなかったら
わたしはこの映画をまったく理解できなかっただろう。

「女子はたいへんなんだ。わたしも女子だけど」
とかすみがいう。
女の子たちがかわいい存在であるために、
どれだけの無理な圧力が まわりや自分におよんでいるのか。
無理なかわいさは、ゆがみをもたらさないわけがない。
梨紗をみてると、あまりにも完成されたかわいさで 不自然なほどだ。
この状態をたもつのって、そうとうたいへんだろうなー、とおもう。

映画部のどーでもいいかんじがおかしかった。
剣道部の部室の、そのまた奥に、
のれんでわけられたせまいスペースが彼らの部室だ。
前田くんと武文がのれんをくぐると、
10人くらいのウザそうな部員がすわっていた。
その日がべつに特殊なあつまりだったのではなく、
それが彼らのごくふつうの部活風景なのだ。
きみたち、居場所があってよかったね、とおもう。

彼らがゾンビ映画を撮影していると、
「桐島」をさがしに たくさんの生徒たちが屋上にやってきて
現場がめちゃくちゃになる。
逆上した前田くん(監督なのだ)が映画部員たちにむかって
「こいつらみんな食いころせ!」と命令し、
ゾンビの彼らがほかの生徒たちにおそいかかる。
前田くんのかまえるカメラには、
完成されたときのリアルなゾンビ映画がうつっている。
前田くんがとりたかったのは、こういう作品だったんだ。
しょぼい撮影小道具しか準備できない
現実とのギャップが青春だった。

みごとに原作の世界を消化し、
さらにあたらしい魅力をくわえた吉田大八監督と、
リアルな学校生活をみせてくれたスタッフをたたえたい。
映画化は、とてもむつかしい原作だとおもうのに、
複数のカメラをつかい、じょうずにクリアーしている。
映画だけをみて、なんのことかわからなかったひとは、
原作を参考に、もういちどみるようおすすめしたい。

posted by カルピス at 16:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月17日

『100円の恋』(2014年・武正晴監督)

『100円の恋』(2014年・武正晴監督)

32歳の一子は、ダメをこじらた典型のように
自堕落なくらしをおくっている。
仕事にはつかず、なんとなくテレビゲームをするだけ。
ジャンクフードをたべ、タバコをひっきりなしにふかし、
ボーっとした顔つきでテレビ画面にむかう。
脂肪のついた背中を、ボリボリひっかく。
わたしのトホホ的な心情にぴったりだ。

妹とケンカしたのがきっかけで家をでた一子は、
アパートでのひとりぐらしをはじめる。
よくかよっていたコンビニで仕事もえた。
しょぼいながら、あたらしい生活がスタートする。
たまたましりあったボクサー(狩野)にひかれ、
いっしょにくらしたりもする(すぐすてられる)。
カゼでねこんだ一子に、狩野が肉をやいてたべさせてくれた。
といっても、病人がたべられるようなやさしい料理ではなく、
ごつい肉のかたまりだ。
歯がたたない肉にかじりつきながら、
一子はなきだしてしまう。
たべられないなさけなさと、
やさしくされたうれしさと。

狩野の試合をみにいった一子は、
自分でもボクシングをやってみたくなる。
運動と縁どおい、ボテボテのからだが、
トレーニングをつむうちに
だんだんとシェイプアップされていく。
プロテストに合格し、
念願の試合もくんでもらえた。
仕事さきのコンビニや 路上でも、
シャドーボクシングをかかさない。
キレのあるパンチをだせるようになり、
からだのうごきも別人みたいにシャープだ。
迫力のある練習風景がかっこいい。
自分に自信をもてるようになった一子は、
まわりのひとに こころをひらけるようになる。
食堂で父親とテーブルにむかい
「わかくもないんだけどね」と、
にやっとわらう一子がかわいかった。

このままちからをつけ、ボクサーとして
いいところまでかちすすむのでは、とおもわせて、
でも、試合になるとほとんどなにもできない。
相手のパンチを何発ももらい、ボコボコにされた。
じっさいのボクシングは、
こんなふうにあまくないのだろう。
それでも一子は相手にむかっていく。
混乱し、わけがわからなくなっても、
わめきながら ただまえにでる。
顔ははれあがり、目がふさがってきた。

いちどだけ一子の右フックがきまり、
劇的な逆転勝利か、とおもわせるけど、
そうはうまくいかない。
そのあとつづけざまに逆襲をうけ、
あえなくノックアウト。
なんとかおきあがり、よろけながら相手選手にちかづいて
肩をたたき「ありがとう」をつたえる。
そうやっておたがいの健闘をたたえるのが、
ボクシングをはじめたときから 一子のあこがれだった。

試合のあとひとりで体育館をでると、
階段のしたで 狩野がまっていた。
一子はおもわずなきだしてしまう。
「かちたかった。かちたかった」と、なんどもくりかえす。
「いちどでいいから かってみたいんだよ」。

うだつのあがらない人間が、
ボクシングをとおして目ざめていくという
よくありがちなストーリーかもしれない。
でも、女の一子がすべてをさらけだし、
ゼロからここまでこぎつけた姿に
わたしは胸があつくなった。
一子の、安藤サクラの健闘に拍手をおくる。

posted by カルピス at 11:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月16日

ピピをみとりながら、やがてくる親の介護をおもう

『デイリーポータルZ』に
「犬が年を取るということ」という記事がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/151015194814_1.htm
ライターは住正徳さんだ。
住さんの実家の犬が18歳(人間でいうと103歳らしい)になり、
世話がたいへんになってきたという。
ふだんは70歳をこえるお母さんが面倒をみており、
70歳が103歳のお世話をするのだから、
りっぱな老々介護だ。
お母さんが旅行にでかけるあいだ、
住さんがいちにちだけ犬の面倒をみることになった。
犬は痴呆がはじまり、どこにでもおしっこをするし、
フンもねたままだしてしまうので、
よごれがからだにこびりついてしまう。
年老いた犬は、毛づやがなくなり、
たべるとき以外はいちにちじゅうねてすごしている。

犬の世話のために実家にもどった住さんは、
リビングのようすがかわっているの気づく。
ダンボール箱などによる柵がつくられ、
床にはおしっこシートがしきつめられている。
犬はとくに病気をかかえているわけではないけれど、
痴呆がではじめたのと、老化で足がよわり
トイレにいっておしっこやフンができなくなっている。
住さんは老人介護のたいへんさにおどろきながら、
犬がすごした18年間におもいをはせる。

わたしの家のピピ(ネコ)も、老人介護の時期にはいっている。
トイレにいくのが面倒なのか、
ふとんやクッションのうえでおしっこをすまそうとするので、
おひるごろ かならずトイレにつれていかなければならない。
熟睡をじゃまするのはもうしわけないけれど、
ここで気をゆるすと たいていふとんが被害にあう。
ふとんをクリーニングにだすと、3000円以上かかる。
いまではもしもの場合 おしっこをされてもいいように、
おしっこシートを何枚もしいて、
そのうえにバスタオルでクッションをつくっている。

夜中はピピのげんきがもどるときで、
2回くらいわたしをおこし
ごはんやトイレにつきあえともとめる。
ごはんをたべる量がめっきりすくなくなったので、
もうあまりさきがながくないかも、
なんて感傷的になっていたら、
このごろまたたくさんたべだした。
ずいぶんやせて、胸の毛なんてボサボサだけど、
まだとうぶん死ぬつもりはないみたいだ。

ピピのお世話をしながら、
ネコのさいごをみるのでも これだけ手がかかるのだから、
人間はさぞかしたいへんなのだろうと想像する。
意識がしっかりして、からだもうごく母にさえ、
いっしょにすごしていると ついきついいい方をしてしまう。
これで介護をするようになったら、
みるほうも みられるほうも、かなりつらい状況になるだろう。

上野千鶴子さんと古市憲寿さんによる
『上野先生、勝手に死なれちゃ困ります』(光文社新書)に、
親が脳溢血でたおれた場合、
救急車をよばない選択もある、とかいてあった。
へたに医療につなげると、いまは医療水準がたかいので
たいてい生きのこる。
生きのこるのはいいけど、後遺症をともなうことがおおく、
そのあと長年にわたる介護が必要になる。
死ぬまでにはなんども発作がおきて
本人もまわりもたいへんだ。
80をすぎた老人の場合、
救急車をよぶのが かならずしも正解とはかぎらない。

わたしはピピの死を覚悟している。
きゅうなおわかれではなくて、
介護する時間をもてたので、こころの準備ができた。
いよいようごけなくなったら、
病院にかけこまず、このまま家でみとりたい。
ピピのさいごにつきそいながら、親の介護をおもう。
わたしは救急車をよぶだろうか。

posted by カルピス at 15:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月15日

『わたしの生きがい論』(梅棹忠夫)

なやみを相談できるひとが身ぢかにいるかどうか、
という会話のなかで、
しりあいに 梅棹忠夫さんの『わたしの生きがい論』をすすめた。
それをきっかけに、わたしもまたよみかえしてみる。

『わたしの生きがい論』について、
このブログで なんどもとりあげてきた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/394704571.html
生きがいだけでなく、人口問題や環境破壊など、
地球規模の問題にたいする わたしのよりどころとなっている。
進歩だけでやっていけるとおもうのはあまいですよ、
目的なんか設定しないほうがいいかもしれないと、
よくある人生論と まったく発想のちがうこの本は、
ふかいところでわたしのこころをとらえたまま はなさない。
地球の将来をかんがえることが、
いっけん関係なさそうな「どう生きるのか」ともつながってくる。

『わたしの生きがい論』は、
梅棹忠夫著作集の第12巻におさめられている。
この巻のまえがきで、梅棹さんは
『わたしの生きがい論』には、人生に対する否定的な姿勢を感じとるひともすくなくないようである。それで、この書物は毒薬をふくんでいるから、わかいものにはすすめられない、といったひとがある。

というはなしを紹介している。
わたしがこの本をよんだのは20代の前半で、
まさしくこの「毒薬」にあたってしまった。
ただ、人生を否定的にとらえたわけではなく、
人生の有限性をしり、
現実的なかんがえ方ができるようになったとおもっている。

『わたしの生きがい論』の圧巻は、
なんといっても第2章の「未来社会と生きがい」だ。
梅棹さんは「生きがい」をあきらかにするために
まず「死にがい」についてかんがえ、
つぎにサルに生きがいはあるだろうか、とといかける。
そこからみちびきだされる生きがいの本質は、
生きがいの問題だというのは、じつは人生というものを目的化しているかどうか、ということにもつながってくる。

「生きがい」をもとめるということは、やっぱりおかしいのではないかと、わたしはかんがえている。問題は、どうもそういうこととはちがうのではないか。われわれがいまかんがえなければならないことは、ある種の期待があって、それにむかって努力することによる充実感、あるいは満足というような構造のものではないあろう、というわけです。むしろ、そういうものこそぐあいがわるいのではないか。

「ぐあいがわるい」とは、たとえば、
ひとりの社員が仕事をがんばった成果として、
世界じゅうに公害がまきちらされたりする状況をいう。
そのひと個人としては、
自分の生きがいを追求しただけかもしれないけど、
その結果として地球の資源・環境をくいつぶし、
人類の危機へとつながっていく。

梅棹さんはこの「生きがい論」を
人類の将来を心配し、かくあるべしと うちだしたのではない。
人間社会が工業中心から、情報産業社会へとすすんだときに、
こうした目的からの離脱というかんがえ方が
必然的にでてくると予想したのだ。
わたしをおどろかせたこの本は、
しかしわたしのまわりからは
あまり評価されなかった。
あまりにも一般論とはかけはなれたかんがえ方なので、
うけいれがたいのかもしれない。
うけいれたら、目的体系からはなれなければならない。
いまでもこの本は「毒薬」だろうか。
わかいひとの意見がききたい。

posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月14日

ラグビーWカップ 選手たちのすがすがしい表情にみとれる

ラグビーWカップ、グループリーグ最後の試合は
日本がアメリカに逆転で勝利をおさめる。
日本はこれで3勝をあげたものの、
決勝トーナメントにはすすめないことが
試合のまえからわかっていた。
勝点で、スコットランドにわずかにおよばない。
しかし、選手たちの勇敢なたたかいぶりが、
おおくのファンのこころをつかんだ。
こんなすばらしいチームが日本にあったなんて。

試合後のインタビューでは、五郎丸選手が
感極まってことばにならなかった。
どれだけのおもいがこの大会にこめられていたのだろう。
試合がおわり、円陣をくむ選手たちの表情が
やりきった充実感にあふれている。
こんなにすがすがしい顔をみたことがない。
あいつと、あのひとといっしょだったら絶対大丈夫、
そうおもえる仲間といっしょにたたかえた満足感。
選手たちの健闘をたたえながら、
かれらのあつい信頼関係がうらやましくなった。

にわかファンでしかないわたしは、
ラグビーのルールもまともにしらないのに、
日本代表のプレーに胸をあつくした。
肉弾戦のラグビーは、サッカーよりもさらに
ちからとちからのぶつかりあいであり、
気もちでまけていたら
とても相手の攻撃をうけきれない。
体格でまさる対戦相手に、果敢にタックルをくりかえし、
モールでさえ相手をおしこんでいく。
ひとりでも、ほんのちょっと手をぬいたら、
とたんにチームは機能しなくなる。
そのあまりのはげしさが、
ラグビーをしらないわたしをおどろかせる。
全員がチームのためにプレーすることがもとめられ、
それができたからこそ日本のラグビーが世界に通用した。

ラグビーの日本代表が、
こんなに注目をあつめたのは はじめてではないか。
すばらしいプレーで
ラグビーの魅力をおしえてくれた選手たち。
何年もかけてここまでたどりついた
日本ラグビーのおおきな成果に拍手をおくり、
選手・関係者の方々に感謝したい。

posted by カルピス at 12:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月13日

とうとうイネかり。でもあまりぱっとしない

きのうは雨でイネかりがながれた。
自作カツ丼にかわるような いいアイデアはうかばず、
けっきょくやさぐれたまま いちにちをすごしてしまった。
ふて寝も2時間とばっちりだ。
あこがれのカツ丼にありつけなかった無念さは、
カツ丼でしかみたされないことがよくわかった。
あと一歩のところを 天気がくずれて
登頂をのがしたエベレスト登山隊は、
どうやって気もちをたてなおすのだろう。

しきりなおしのきょうは、しりあいとふたりで
10時半からイネかりにとりかかった。
もちろん機械ではなくカマをつかう。
きのうからきゅうにさむくなり、フリースをだしている。
夏にちかい秋だったのが、もうすぐ冬になりそうな秋へとかわった。
もうまわりの田んぼでイネかりをしているところはほとんどない。
はだざむく、いまにも雨がふりそうな空を
気にしながらのイネかりは、
よろこびの収穫というよりも、なんだか罰ゲームみたいだ。

ふつうの田んぼは、イネだけがはえているからこそ
カマをつかいやすいけれど、
わたしの田んぼはイネのしたに草がびっしりそだっており、
イネだけをかりとるのがむつかしい。
草をよけようとすると、かなりめんどうなのがわかった。
場所によっては 1本いっぽんの穂をきりとるやり方になる。
それでも2時間半で半分くらいイネかりがおわった。
かりにくいといいながら、
たった2時間半でそんなに仕事がすすむのは、
それだけイネの数がすくないからだ。
イネかり.jpg
お米をそだてるものにとって、イネかりは
いちばんのイベントなのではないか。
まだ脱穀やもみすりがまっているとはいえ、
イネかりといえば みのりの秋の象徴であり、
春からの仕事がやっとむくわれるときだ。
でも、じっさいにイネかりをしていいると、
もうひとつはれやかな気もちになれない。

たしかにかりとりまでたどりついたけど、
はたしてどれだけの量を収穫として記録できるだろうか。
自然農法でそだてたイネは、
化学肥料や農薬にまもられた軟弱なイネとはちがい、
たくましくそだってほしかったけど、
今年の段階では まだそこまでいけなかった。
イネの枝わかれである分げつがいかにもすくない。
水温がひくいことからくる生育障害のせいだろう。
病気や虫にやられずに、台風にもたおれずここまでこれたのも
たまたま運がよかったとしかいえない。
今年の米ずくりで、なにがよくてなにがわるかったかを
しっかりまとめて来年にいかしたい。

posted by カルピス at 20:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月12日

カツ丼のお店がおやすみだったらどうするか

イネかりをするつもりだったのに雨がふりだす。
きのうまでずっとお天気がつづき、
あしたからもまたはれの予報なのに、
きょうだけが雨なんてずいぶんひどい。
イネかりをするつもりでお弁当をつめ、
きがえを用意して、さあこれからでかけようとするときに、
手つだいをたのんでいたしりあいから
電話がかかってきた。
雨ふりだから、きょうはやめようと相談される。
たしかに無理してきょうやる必然性はない。
天気のことばかりはどうしようもないので
あすまたしきりなおしとする。
そうはいっても、きゅうな中止はがっくりくる。

なにかの本で、たとえばカツ丼をたべようと
ずっとたのしみにしていたのに、
めあてのお店がおやすみだった、なんてことになると、
からだがカツ丼をたべる体勢にはいっているのを
なかなかきりかえられない、とかいてあった。
カツ丼がなければラーメンで、とは
すんなりからだが、というかあたまが納得してくれない。

椎名誠さんの『哀愁の街に霧が降るのだ』には、
まさしくそのたのしみにしていた
カツ丼のお店がやすみだったために、
呆然となるはなしがでてくる。
かわりの店にいくつもりはない。
その店のカツ丼は、とくべつだった。
うまさと量と説得力が、ほかの店とはまったくちがう。
からだが、その店のカツ丼にすっかりなりきっていた。
ほかの料理では もちろんかわりがつとまらない。
どうしようもなくて いらだっているときに、
沢野さんが自分たちでカツ丼をつくれば、と提案する。
まったくかんがえてもみなかった解決策であり、
みんなその案に賛成する。
お風呂にはいり、ふとんをほして体調をととのえ(たしか)、
一糸みだれぬ分業のもとに、
ありえないほど超ごうかなカツ丼ができあがった。
満腹になって めでたしめでたし、というはなしだ。

なにかのからだにいったんなってしまったら、
ごまかしはきかないので、
椎名さんたちみたいに、まったくちがう方向から
解決をはかるしかない。
イネかりにむけて準備されたからだとこころを、
どうやってきげんよくべつのコースに着陸させるか。
わたしの場合は、ふたり分のお弁当をつめ、
作業着にきがえ、これから家をでるというときの中止だった。
ウォーミングアップがおわり、
やる気満々だったところではしごをはずされた形だ。
からだがちゅうにういてしまった。

まったく予定を空白にしてしまうと、
あいた時間をもてあまして あきらめがつかない。
とにかくなにかをしなくては、
このままずっとやさぐれた日になってしまう。
わたしにおけるカツ丼づくりはなんだろうか。
映画なんかがいいかもしれない。
きゅうなさそいにつきあってくれる女性はいないので
(きゅうでなくてもいない)、
ひとりで座席にすわったら さみしくなるだけだろうか。
それでつまらない作品にあたったら ますますすくわれない。
からだをうごかすという意味で、
サイクリングもひとつの案だけど、
イネかりのかわりはつとまらない。
かといって、本にも気もちがむかわないだろう。
雨でイネかりがとりやめになると、
おもっていたよりもずっと修正がむつかしい。
イネかりは、イネかりによってしかすくわれない。

中止がきまったとたん雨がやみ、
空があかるくなってきた。
きょうはどんないちにちになるのだろうか。

posted by カルピス at 09:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする