2015年10月11日

『ミッドナイト・ラン』ロバート・デ・ニーロの小市民ぶりがうまい

『ミッドナイト・ラン』
(マーティン=ブレスト監督1988年 アメリカ)

ロバート・デ・ニーロというと、
圧倒的な存在感から、ピリピリした役がおおいけれど、
この作品のデ・ニーロはふつうのおじさんだ。
元シカゴの警官で、いまは保釈金のサラ金みたいなところの
ハンパな仕事にありつきながら、なんとかくいつないでいる。
そんなデ・ニーロに、10万ドルのおおきな仕事がもちかけられた。
この仕事をかたづけ、手にした金をもとに 喫茶店をひらいて
この業界から足をあらうのが 彼のささやかなねがいだ。
おめあての会計士デュークをニューヨークでみつけ、
ロサンゼルスにもどるまでのロードムービーがはじまった。
スピードのある展開と、おしゃれな会話、
それにちからのぬけた演技でたのしませる。
B級映画の傑作だ。

なんといってもこの作品のキモは、
かるさとトホホ感にある。
おっかけるほうも、おわれる側も
警察もマフィアも、
だれもがみんなすこしずつぬけている。
それぞれが おなじ失敗のパターンをくりかえす。
セリフもくりかえしがおおい。
そのどれもが伏線になっていて、
ラストではさいごのピースがピタリとはまる。

たてつづけにタバコをふかし、
ジャンクフードをうまそうにたべるデ・ニーロにたいし、
デュークはまゆをひそめて(そんな顔なのだ)
栄養や健康をアドバイスする。
おもいつきでテキトーなとばをならべるデ・ニーロに、
「ことばに責任をもて」なんていったり。
どうみても犯罪者側のほうがまともなのでおかしい。
喫茶店をひらくデ・ニーロの夢も
リスクがたかすぎるからやめろと、
会計士として忠告している。

デュークは正直ものの会計士かとおもわせて、
偽札調査官にばけたりもできる。
手もちの金がなくなると、おれにまかせろと
デ・ニーロからFBIの手帳をあずかる。
おもむろにバーにはいり、
ことばすくなに事件の重大さをにおわせて、
店のなかをゆっくりあるく。
きゅうにデュークがたちどまると、
うしろについていたデ・ニーロがぶつかった。
おもわず「失礼」とデ・ニーロがあやまる。いいひとなのだ。
即興で捜査官と部下の役にわかれ、
ふたりは息をあわせて偽札調査をすすめる。
バーのレジをひらかせて、
もっともらしくお札の肖像画をけしゴムでこする。
そうして「発見」した偽の20ドル札2枚を、資料としてあつかる。
まだ捜査が気のぬけない段階の雰囲気をただよわせ、
「偽札」がみつかっても あわてずさわがない。
「ご協力に感謝する」としずかに店をあとにする。

FBIのモーズリー警部は、
いかつい顔とトレンチコートで なんだか銭形警部みたいだ。
すごみをきかせようとするけど、
いつもデ・ニーロに一歩さきをこされる。
そもそもモーズリーがデ・ニーロに身分証をすられるという、
ありえないミスがずっと尾をひいて、
FBIはいつもいつも「モーズリー警部」をおっかけることになる。
いくさきざきで「モーズリー警部」がなにかしでかしており、
ほんもののモーズリーはメンツがまるつぶれだ。
もともとあまりおりこうな警部ではなく、
物量にたより ちからずくで解決しようとするのがモーズリー流だ。
何十台ものでっかいアメ車のパトカーが
ピーポーピーポーさわがしくおいかけて、
まるでルパンが得意とするドタバタの世界だ。
数にたよるだけなので、いつもきめてにかける。

旅がふかまるにつれ、
なぜデ・ニーロがシカゴをおわれたのかが
だんだんとあきらかになる。
軽口をたたき、気らくに生きているようにふるまいながら、
自分がどうしてもゆずれないコアな部分をもつ。
そして、デュークもまたそんなひとりだ。
ハードボイルドの世界を、
小市民的な日常感覚でえがく。

ラストがよくできていて、みおわった爽快感がここちいい。
スピードにのっけ、二転三転と状況がかわり、
まさかの結末がまっていた。
プライドをまもると いいことがあるのだ。
デ・ニーロとデュークのふたりに拍手をおくる。

(追記)
作品のなかで、デ・ニーロはやたらとタバコに火をつける。
空港でも列車のレストランでもバスのなかでも。
1980年代は、そんな時代だったのだ。
男がタバコをすうのはあたりまえすぎる当然の行為で、
空港のチェックインするとき、
「喫煙席になさいますか?」とたずねられたときの
「自分でかんがえろ」がただしいセリフにきこえる。

posted by カルピス at 11:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月10日

『野宿野郎』のサイトに「会社案内のようなもの」のページができた

わたしがすきな『野宿野郎』のサイトに
「会社案内のようなもの」のページができた。
http://weblog.nojukuyaro.net/2015/10/post_542.html
3年まえに紙でつくったものを、このたびウェブ版にしたという。
わたしは「名刺のようなもの」がほしかったので、
そのとき「社員のようなもの」に応募した経歴をもつ。

軟弱なわたしは 野宿といえどもお風呂にはいろうと、
「銭湯主任」の肩がきを希望した。
しまねの吉田くんが鷹の爪団の「戦闘主任」なので、
それにかけたつもりだ。
「履歴書のようなもの」をおくり、
しばらくまったけど返事がこなかった。
そのうちどうでもいいような気になって
そのままほっておく。
今回だされた「入社案内」をよくよむと、
野宿面接に来れない方は、自主野宿をして小論文や作品(内容・形式は自由)にまとめていただき、履歴書とともに会社のようなものに送付してください。

とあった。意外ときびしい面もあるようだ。
履歴書をおくるだけでは
「社員のようなもの」に ならせてもらえないとわかった。

今回の会社案内には、
「会社のようなもの野宿野郎」の名刺をつくる
「名刺ジェネレーター」がついている。
空欄の項目をうめていき、
ファイルをダウンロードすればいい
(まず書類審査にとおってのパスワードが必要)。
厚めの紙に印刷して切ればそのまま名刺として使えますが、
コピー機などコピー用紙にしか印刷できない場合は、
糊(スプレー糊が最適)で画用紙などに貼ってから切ればよいでしょう。

のりで画用紙にはるなんて、貧乏くささのセンスがひかる。

会社案内の目次は以下のようになっている。
・PHILOSOPHYのようなもの
・VISIONのようなもの
・沿革(ほぼ、会社のようなもの以前)
・野宿野郎の社史のようなもの
・入社案内のようなもの

「のようなもの」はとてもべんりなことばで、
なんにでもこれをくっつけると
どうでもよさが8割がたアップする。

「PHILOSOPHYのようなもの」にある社是は、
「極力、働かない。」だ。
言葉のとおり、すすんでだらだらとし、だらだらとするとすることを愛し、だらだらとするじぶんを、他人を、よしとする。
とりあえずもう、極力、働かない(楽しいこと以外では)。

「なにもしない己を愛する」ともある。
「野宿野郎」はミニコミ誌『野宿野郎』の発行が
おもな業務内容にもかかわらず、
ここなんねんもあたらしい号をつくらないのは、
まさしく社是にある「極力、働かない。」が
大切にされているからだ。
ついあせったり反省したりしやすいけれど、
社長のかとうちあきさんにまよいはみられず、
しっかり社是をまもっている。

「VISIONのようなもの」をみると、
とりあえず、なんにもしない。
したいひとはする。
どちらでもよい。

とある。
これもまたすごい。
どうしてもひとのなまけぶりを目にすると イラつきやすいのに、
「どちらでもよい」と達観できるのは
「だらだらとするじぶんを、他人を、よしとする」からだ。

基本方針のすばらしさはみとめるものの、
では「社員のようなもの」になったら
なにがどうなるのだ、とふと疑問がわいてくる。
メリットなど、つまらぬことばはつかうまい。
しかし、銭湯主任としてみとめられたとして、
なにかわたしの日常がかわるだろうか。
「会社案内のようなもの」をまえに、
野宿野郎とわたしのこれからを、しばらくかんがえる。

posted by カルピス at 16:23 | Comment(0) | TrackBack(0) | かとうちあき | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月09日

むつかしい女性の会話文

コラム・イナモトをみていたら、
女口調についてのはなしがのっていた。
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20060213
女口調で書くとどんどん書けるという話があって、実際にやってみるととてもよくわかるの。

かきやすいかどうか わたしはわからないけど、
本をよんでいると、女性の会話文はむつかしいとよくおもう。
たとえば、「〜だわ」「〜なの」
なんてはなす女性はあまりいないのに、
本のなかではいまだによくでてくる。
日常会話でわたしたちは、
それほど男らしさや女らしさを つかいわけていない。
それをそのまま会話文にすると
だれの発言かわからなくなるので、
本むけの女性ことばがつかわれるのだろうか。

女性作家でも「〜だわ」とやるひとがいるし、
男でも違和感のない会話をかけるひとがいる。
翻訳物のミステリーでは、
女性にどうしゃべらせるかが とりわけむつかしい。
翻訳であること、女性の会話であること、と
ふたつのハードルが 自然な会話のじゃまをする。
頭がよくて、行動派の女性が
「〜だわ」なんていえば、いっぺんに興ざめだ。
ある翻訳家の「〜わ」にどうしてもなじめなくて、
そのひとの本をよまなくなったことがある。
ふだんつかわれていないはなし方を本のなかにもちこんで、
いかに自然な会話としてよませるかが、
作者の力量となる。

とかきながら、わたしの配偶者は、
いまでも「〜だわ」「〜よ」を ふつうにつかっている。
なんのつもりだろうか。絶滅危惧種かもしれない。
そんなしゃべりかたは本のなかだけにして、
とおもいながら、ほろびられてはこまるので なにもいわない。

イナモトさんはことばあそびの天才なので、
女口調のはなしをエスカレートさせる。
「会社の議事録を女口調で書くのはダメ」が
イナモトさんのアドバイスだ。
<営業会議議事録(2006年2月13日)
作成:田中太郎
1.山田部長より
・最近、売り上げが目に見えて減ってるの
・A社の新製品「バラダイン・スーパーX」が価格・性能面で脅威ということもあるの
・でも、こういうときこそ、営業部の力をアピールするときよ☆

こうした女口調をおもいついたのは だれなのだろう。
ふだん女性でもつかわないはなし方を、
文字にするときだけとりいれたのは
画期的なつかい方だったのではないか。
とりあつかいに注意がいるとはいえ、
おもしろい発明だとおもう。
イナモトさんみたいに、わたしも女口調をためしてみたら、
配偶者とのあいだによこたわるふかい谷が
すこしは形をかえるかもしれない。

posted by カルピス at 15:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月08日

漢方での健康チェック

3ヶ月にいちどの漢方内科へ。
食後にものすごく汗がでてこまった時期があり、
そのときから漢方薬をつかっている。
たべたあと胃に熱がこもる体質になっていたそうで、
たべているときからもわ〜っとしたかんじがして、
シャツが汗でびっしょりになった。
漢方の薬をのむようになってからは
ほとんど汗になやまされない。

漢方内科でお世話になってから、
総合病院での健康診断はことわって、
1年にいちどの血液検査だけにした。
胃カメラと胸のレントゲンはうけない。
ガン検診もやめた。
血液検査でかなりのことがわかるので、
健康診断のかわりとする。

もしガンになったら・・・。
とりみだすかもしれないけど、
かならず死ぬときまったわけでもないし、
おちついてそのときの状況をうけいれられたらとおもう。
ガンには早期発見が大切だと、新聞にもよく広告がのっている。
検診でたすかったひとはそういうけど、
かえってくるしんだひともおおいにちがいない。
検診をうけないとぜったいに損だ、みたいにいわれると
ほんとかなーとおもう。
10年たてば、べつの対応が「常識」になっているのではないか。

もしなにかわるいところがでてきても、
うごけなくなるまでに すこしは時間があるだろうから、
お金をかきあつめて さいごのぜいたくをする。
どこかの国へでかけ、やっぱり日本がよかったと、
さみしくなってすぐにかえるかもしれない。
それはそれで いいおもいでになるだろう。
検診でひっかかった場合は、
すぐに治療へとながれていくのがいやなのだ。
そのさきずっと病室ですごすなんてかなしいし、
手術や治療で 生活スタイルをがらっとかえるのもたのしくない。
どうせ死ぬんだ、という達観と、
できればながいきしたい、の煩悩を
どうみきわめるかが さいごの仕事だとおもっている。

心配していた死に方が、
そのまま現実になったたひとっているのだろうか。
たいていのことは予想どうりにいかなかった
これまでの経験から、
人生のおわりも おもってもいなかった形で
おとずれるような気がする。
たとえばわたしはガンや脳梗塞が頭をかすめたから、
じっさいは それとはちがう形のさいごを
むかえるのではないか。
心配してもしょうがないことを
心配してもしょうがない。
どんなおわりかわからないから
のん気にくらしていられるし。

漢方は、ちゃんと患者のからだにさわって
体調をたしかめながら治療をすすめてくれる。
総合病院にいくと、はなしだけの「診察」でおわってしまい、
いかにもあぶなっかしい。
きょうも先生はわたしのお腹をさすって
わるくない状態だとおしえてくれた。
すこし世間ばなしもして、20分ほどで診察室をでる。
死ぬときは、外科や内科よりも
漢方でひっそりのほうがいい。

posted by カルピス at 15:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月07日

『恋するソマリア』(高野秀行)

『恋するソマリア』(高野秀行・集英社)

『謎の秘密国家ソマリランド』につづく高野さんのソマリ本。
1冊目では、無法地帯とばかりおもっていたソマリアに、
平和で民主的な国があるとしりおどろいた。
2冊目であるこの本は、もはやソマリアを
世間のひとにしってほしくてかかれたものではない。
ソマリずきがこうじた高野さんのねがいは
なんとかソマリのひとに自分をみとめてもらいたいと
反対方向へかわってきた。

しかし、そのおもいは一方的であり、
かたおもいがむくわれるのは かんたんではない。
ソマリはふつうでないから高野さんのこころをとらえた。
非情にアグレッシブで、自分に関係ないことにたいしては
まったく関心をしめさず、ひとなつっこいところもない。
そのソマリ人の特徴が、こんどはブレーキとなって
高野さんのねがいをじゃましてしまう。
かくして『恋するソマリア』は、
高野さんのかたおもいをつづるレポートとなった。

かたおもいはたいへんだ。
ソマリのひとに自分の存在をわすれてほしくないから
高野さんはソマリ関係の仕事をさがし、ソマリをたずねる。
3回目と4回目のソマリ訪問である本書は、
これまでにかなえられなかったソマリランドの日常生活と、
モガディショ以外の南部ソマリアの取材を目的にしていた。
イスラム社会のおおくは、
男性が訪問さきの家で女性としたしくはなしたり、
家の男ぬきでは その家にあがれない。
ソマリランドはそれに輪をかけて
「ふつうの生活」をみるのがむつかしいのだという。
世界の秘境であるソマリの、そのまたいちばんの秘境は
ふつうのくらしだった。
はじめはお茶や食事にさえ まねいてもらえなかったところを、
高野さんはだんだんと料理をおしえてもらえるようになる。
やっと体験できたソマリの家庭料理は、ものすごくテキトーだ。
てきとうな量の油や具材をざざっと入れ、てきとうに鍋に火をかける。なかなか煮えず、汁気が足りなくなると水をつぎ足すだけ。途中で電話がかかってくると、野菜を切る手を止めてしゃべっているし、何かを忘れて家の中に取りに行き、5分ほど帰ってこなかったりもする。(中略)
いつ完成したのかもよくわからない。

南部ソマリアの取材では、念願だった「ふつうのくらし」を
訪問さきの村で体験する。
そこは電気もなく、井戸でもバケツから水をくみあげている。
絵にかいたように素朴な村のくらし。
そんな風景を目にした高野さんは、
アル・シャバーブなど、イスラムの厳格な過激派勢力は
「マオイズム」(農村主義)ではないかと分析する。
誰かに命令されることを何よりも嫌うソマリ人がなぜアル・シャバーブのいうことを聞いているのか。支持する人が多いのか。
それは田舎では別に「過激」でもなんでもないからだ。電気がないのだから、音楽や映画などあるわけがない。酒やタバコなどといった贅沢な商品など買える人はそうそういないだろう。(中略)
ーーこちらの生活のほうが正しいのではないか・・・。(中略)先進国の巨大資本が牛耳り、彼らの価値観がどこまでも押しつけられる世界。そんなゆがんだ世界よりも、伝統にのっとり自然環境に合わせたここの人たちの暮らしのほうがよほどまっとうではないのか、と。

だからといって高野さんが
アル・シャバーブを支持するわけではないけれど、
彼らがうけいれられる環境があり、
かんたんに異質な集団ときめつけられない状況を わたしはしる。

モガディショの治安がよくなったとはいえ、
すこし町をはなれると、
そこにはアル・シャバーブの勢力がおよんでいる。
高野さんたちは、コンボイをくんでの移動中に
アル・シャバーブの攻撃をうけた。
そうした襲撃からまもってくれるウガンダ軍の兵士にたいし、
あろうことか ソマリ人のジャーナリストたちは平気で暴言をはく。
悪気はない。ただおもったことを口にしただけだ。
ソマリ人に入れ込んでも、報われることはないのだろうなとしみじみ思った。
ソマリ人は誰にも助けを求めない。一方的な同情や愛情を必要としてもいない。言ってみれば、彼らは野性のライオンみたいなものだ。野性のライオンを愛するのは勝手だが、ライオンからも愛情を返してもらおうというのは間違っている。彼らの土地で、彼らの素の姿を眺め、一緒に生活をする。
それだけで幸せと思わなければとても一緒にやっていくことはできないのだ。

日本にもどった高野さんは、
ソマリ人の海賊にからんだ事件で
通訳として裁判所にむかう。
ほんのひとこと高野さんとソマリ語をかわしただけで、
そのソマリ人はかたかった表情をくずし、笑顔をみせた。
高野さんは、彼と交流したいとおもいはじめる。
「まだまだソマリへの恋は終わりそうにないのである」
と本書はむすばれている。

posted by カルピス at 15:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 高野秀行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月06日

ハチにさされたらどうするか

ハチにさされる。
きのうはしりあいのお茶畑で、番茶つみを手つだっていた。
オレンジ色のハチだった。スズメバチではない。
外で仕事をしていたら、ハチにさされるなんて だれにでもおこりえる。
日常茶飯事だろうから、
対処法がひろくしられているとおもってたら
あんがいそうでもなかった。

まわりのひとがいうには、
口で毒をすうだとか、
さされてもひとによってはたいしたことないとか、
2回目だろうが1回目だろうが、
さされた回数に関係ないとか、
あんがい正確な知識はいきわたっていない。
民間療法では、歯クソをつけるといいらしい。
ハチにさされたというだけで本人はあわてているので、
気分がわるくなったような気がするし、
息もなんだかくるしい。
なんだかもうすぐすごいショックがやってきて
いまにも死ぬような気がしてきた。

畑に薬をもってきてないので、
しりあいがとりあえずキズぐちをしぼって毒をだしてくれる。
そのあと休憩をはやめにとってもらい、
畑(といってもほとんど山)からおりて事務所にもどる。
ハチにさされたときの薬があったのでぬってもらう。
しりあいがネットで応急処置をしらべてくれた。
アイスノンを手ぬぐいでくるみ、さされたところをひやした。
さいわいショック症状はなく、そのまま仕事をつづける。

夜になったらはれる、
あしたはひとまえにでれないんじゃないか、
今夜はお酒をのめないよ、とおどされる。
心配しているのか いじくっているのか、ビミョーなところだ。
家にかえってから、わたしもネットで
ハチにさされたときの対応をしらべてみた。
https://www.city.sado.niigata.jp/fire119/emer/care/bee/index.shtml
1.針をぬく
2.毒をあらいながす
3.虫さされの薬をぬる
4.ひやす
となっている。
こわいのがはげしいアレルギー反応としての
アナフィラキシーショック症状で、
口のなかがしびれたり、息ぐるしくなったりするらしい。
「20〜30分ほど様子を見て、
 異常がないようならひとまずは安心」らしい。

さいわいわたしの場合はきゅうなアレルギー症状はなく、
ズキズキしたいたみがしばらくつづいたくらいだ。
つぎの日になると いたみはほとんどなく、はれもひいていた。
すぐに毒をしぼりだしたのが よかったのだろう。

これまでなんどもハチにさされたときの応急処置をきいているのに、
いざとなるとなにも頭にうかんでこない。
おしっこをかけてもしょうがないのはしっている。
あと、なにをすればいいんだっけ?
なにごとも、自分がいたい目にあわないと
ひとは学習しないらしい。
たとえば、山で熊にであったときにどうすればいいか、
さんざん話題になった気がするのに、
あんがい正確な情報は しられていないのではないか。
まさか死んだふりをするひとはいないとおもうけど、
ほんとうは どうすればやりすごせるのか。

ハチはともかく、熊とであってから学習しても
手おくれになってしまう。ネットをみる余裕はないだろうし。
なにごとも、自分のこととして はなしをきいておいたほうがいい。
ネットをみると、いろいろな対応が紹介されているけど、
じっさいに山でおおきな熊にばったりであったら
冷静ではいられないだろう。
であったときの対応よりもまず、
であわないための用心が大切みたいだ。

posted by カルピス at 11:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月05日

亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』全5冊をよみおえる

8月のブログに、夏のイベントとして
『カラマーゾフの兄弟』をよむ、とかいた。
合計46日をかけ、ようやく全5冊をよみおえる。

10年以上まえに米川正夫訳の「カラマーゾフ」をよんだ。
このときは、超有名な作品を
とにかく「よんだ」というのが目的だった。
たしかに目的をはたしたとはいえ、
たのしんだというよりも、
退屈をなんとか我慢した記憶しかない。

『カラマーゾフの兄弟』のおもしろさを
リアルにかんじたかったので、
光文社の古典新訳文庫として、
亀山郁夫氏の新訳がでたときに、全5冊をかった。
いつかリゾートホテルのプールサイドで、
なんておもっていたけど、
なかなかそんな機会はおとずれない。
その「いつか」をことしの夏とする。
「カラマーゾフ」なら、ひと夏のイベントにふさわしい
難易度とボリュームではないか。

亀山氏による新訳は、
ネットをみると賛否がわかれており、
なかにはひどくけなしているひともいる。
わたしはロシア語がわからないので、
よみやすかったかどうかだけにしぼって感想をかきたい。

よんだペースを紹介すると、1、2巻がずいぶんおそく、
それ以降はスピードがあがっている。

・第1巻 443ページ 17日(1日あたり26ページ)
・第2巻 501ページ 12日(1日あたり42ページ)
・第3巻 541ページ 4日(1日あたり135ページ)
・第4巻 700ページ 6日(1日あたり117ページ)
・第5巻 365ページ 7日(1日あたり52ページ)

新訳といえども、はじめはとっつきにくかった。
とにかくすこしでも毎日よみすすめようと、
お風呂での読書にとりいれる我慢の時期だ。
第3巻にはいるとものがたりがおおきくうごき おもしろくなる。
いちにちによむページ数がずいぶんはかどった。
第5巻は60ページほどのエピローグと、
あとは亀山氏による解説なので、
エピローグをよみおえたあと 気がぬけてしまい
ペースがおちた。

わたしには、亀山氏の訳がただしいかどうかはわからない。
ただ、とてもよみやすかったし、
「カラマーゾフ」の世界をたのしめたといえる。
米川正夫氏の訳をよみおえたときには、
こんなので「よんだ」といっていいのか
とまどうくらいふたしかな「よんだ」だった。
今回はちがう。
ものがたりをたのしんだ手ごたえがある。
作品の世界をリアルにかんじ、
個性的な登場人物のうごきにもついていけた。
いちど目だけでカラマーゾフを「よんだ」ことにせず、
新訳版にとりくんでよかったと本心からいえる。
いちど目だけでおわっていたら、あまりにも もったいなかった。

「訳者あとがき」のなかで亀山氏は
わたしがめざしたのは、何よりも読みやすさである。(中略)少なくとも登場人物の名前に関しては、なんとしても工夫をこらし、自分が許されると考える最大限の簡略化を試みることにしたのだった。

何よりもわたしは、グローバル化と呼ばれる時代に、最後まで一気に読みきることのできる『カラマーゾフの兄弟』の翻訳をめざしたかった。勢いが、はずみがつけば、どんなに長くても読み通すことができる、そんな確信があった。

と、よみやすさへの配慮をかいている。
わたしが『カラマーゾフの兄弟』をたのしめたのは、
まさしく こうした亀山氏の配慮のおかげだ。

これから「カラマーゾフ」をよんでみたいひとへ。
わたしからのアドバイスとして、
なんとか2巻のおわりまでたどりついてほしい。
すこしたいくつだとおもえても なんとか我慢する。
2巻がいちばんの難所であり、そこをクリアーしたら
あとは一気に5巻までいける。

各巻のおわりにおさめられている
「読書ガイド」にもすくわれた。
まえの巻のあらすじがまとめられており、ざっと復習できる。
「カラマーゾフ」にかかれている事件は、
みじかい期間におきたできごにすぎない。
しかし、ものすごい密度とボリュームに圧倒され、
いったい自分がいまどこにたっているのか ときどきわからなくなる。
そうしたときに「読書ガイド」による整理がありがたかった。
最終巻の「解題」もまた、わたしのカラマーゾフ体験をたすけてくれた。
わたしのよみ方など、ごくあさい理解でしかないけれど、
「読書ガイド」と「解題」がなければ
もっとまずしい感想しかもてなかったにちがいない。

2015年の夏は『カラマーゾフの兄弟』をよんだ年として
つよく記憶にのこるだろう。
亀山氏による新訳『カラマーゾフの兄弟』をわたしはおすすめする。

posted by カルピス at 21:26 | Comment(2) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月04日

ラグビーWカップ 日本-サモア戦

ラグビーWカップ日本対サモア。
試合開始8分に五郎丸がペナルティキックをきめる。
そのあともこまかく点をかさね、2トライをふくむ26-5と
さいごまで試合を優位にすすめた。

レフリーは、南アフリカのクレイグ・ジュベール氏がつとめる。
こんなところで「しかえし」をされたら
やだなーとおもってみていたけど、
日本に有利、というか公正にふえをふいてくる。
スクラムでも日本は相手を圧倒していた。
サモアはラフプレーできりぬけるしかなく、
そこをまたレフリーにとがめられる。
サモアの選手はだんだんいらついてきて、
さらに反則をくりかえす。
時計はいつのまにか80分にたっし、
あぶなげなく日本がかちをおさめた。

にわかファンのわたしは、以前の日本代表をしらない。
サモアを相手に、さいごまで
自分たちのゲームをつづける日本について、
解説をつとめる元日本代表の方たちは、
なんども「しんじられない」「感慨ぶかい」をくりかえす。
そういわれるのが「しんじられない」くらい、
この日の日本はサモアを圧倒していた。
会場のお客さんも日本を応援してくれている。
南アフリカとの試合が ラグビーファンに
とてもいい印象をのこしたようだ。
この日の試合でも、日本は奇をてらった作戦でかったのではない。
どの局面でも、まっこうから相手をうけとめて
堂々と試合をはこぶ。
サモアの選手たちは、人間ばなれしたような筋肉のかたまりだ。
首なんかなくて、ぶあつい胸板のうえに
ちいさな頭がのっかっている。
そんなサモアを相手に、チームとしてのまとまりと、
勇気あるプレーをみせてくれる日本の選手たちがたのもしい。

それにしてもラグビーはみていてちからがはいる。
タッチラインめがけ、ちからまかせに相手にぶつかって
すこしでもまえにすすもうともがく。
相手も人数をかけ、全力でふせいでくる。
わたしはからだをかたくして、みまもるしかなない。
緊張する場面がおわると おもわず息がもれる。
サッカーとはまたちがうからだのつかい方で応援しているようだ。
スコットランド戦のときのように、
この日もさいごの1メートルがとおかった。

これで日本は2勝1敗。
のこるアメリカ戦にかてば グループリーグを突破・・・とおもったら、
南アフリカとスコットランドが上位をしめるため、
日本はあいかわらずくるしい位置にいる。
サモアにこれだけ圧倒していたのだから、
4トライをあげたときの ボーナスポイントがほしかった。
なんていいだすのも「にわかファン」にありがちな特徴である。

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2015年10月03日

ブログのバックアップ

ブログのバックアップにおもい腰をあげる。
かきっぱなしで、これまでなんの手だてもしてこなかった。
なんとかしないと、とおもいつつ、
量がふえてくると ますますめんどくさくてうごけない。
このままほっておいて、
お世話になっているシーサーブログになにかあっては残念だ。
データーベースソフトのファイルメーカーをつかい、
ひとつずつ記事をうつしていく。
エバーノートでもいいけど、レイアウトをいじれないので
つかいなれているファイルメーカーをえらんだ。
ジャンルわけをもうすこしこまかくし、
記事のできに 1から3までの自己評価をつける。
いっぺんにすべての記事をインポートできれば楽だけど、
これを機会によみかえしたら、
なにか得るものがあるかもしれない。
時間をかけてすこしずつすすめようとおもう。

ブログをはじめてまがないころは、
おもったことを あっさりそのままかいているだけだ。
素朴であり、余計な色気がない。
いいかんじに ちからがぬけているともいえる。
日記としてひらきなおり、へんにいじくらない。
しらないひとがよんで興味をもつ内容ではなく、
いったいなんでブログなんかはじめようとしたのか不思議だ。
たとえば2日目の記事は、サッカーの代表戦をとりあげている。
遠藤選手がフリーキックをはずして残念そうだったと、
ただそれだけを25行でかんたんにかいている。
11日目など、もうネタがなくなったのか、
テレビで映画をみるときにはイヤホンをつけたほうがいい、
なんてある。
これはこれで わるくないとおもう。
いまの記事が自意識過剰なのかもしれない。
こんなかたちでブログをスタートしたのだと
なつかしくよみかえす。

はじめは まいにちかこうなんて かんがえてなかった。
ブログをかきはじめたおなじ月に
カンボジアへの旅行をきめていたこともある。
おそらくネット環境はあてにならないだろうから、
すぐに連続更新はとぎれるだろう。
とおもっていたら、東南アジアの国々のほうが
日本よりもワイファイがととのっていて、
どの宿でもかんたんにつながった。
なんとなくつづけるうちに とぎらすのがおしくなり、
いまにいたっている。

旅行にいったときの記事は、ほんとうに日記でしかない。
朝おきて、朝ごはんにどんなものをたべて・・・。
それでいいのだから、旅行ちゅうの更新はとてもらくだ。
自分にとってまぎれもない記録だし、
旅行を計画しているひとにもホテル代や移動手段は
具体的なデーターとなる。
しらないひとのこころのうごきをよませられるより、
ずっと実用性がたかいのではないか。

わたしがたのしみにしているブログに、
完全な日記タイプのものがある。
サラリーマンである著者の、
とくにかわりのない毎日がつづられている。
何時におきて なにをたべ、どんな仕事をしたかとか、
通勤にかかった時間や車の燃費など。
それでも興味ぶかくよめる。
記録としてのブログはひとつの完成したスタイルだ。

どうにもまとまらない文章になってしまった。
それでもいっこうにこまらない。
というわけで、と、
かんたんにうちきってしまえるのも
日記ならではの自由さだ。

posted by カルピス at 20:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月02日

ついごちゃごちゃとややこしいトレーニングになってしまう

週2回のペースで体育館のジムにかよっていたけど、
このごろは家のまわりをはしる日がおおい。
かえってから体幹トレーニングを30分ほど。

体幹トレーニングは、サッカーの長友選手でいっきょに有名になった。
ブームというよりも、いまではひとつの基本的なトレーニングとして
位置づけられているのではないか。
長友選手のコメントがのっていたので、
『体幹力を上げる』(木場克己・成美堂出版)を3年まえにかい、
これまで初級・中級編にとりくんできた。
ジムのかわりに体幹トレーニングをするようになってから、
ようやく上級編まで範囲をひろげたところだ。
上級になると、わたしにはできないプログラムがでてくる。
腹筋にはわりと自信があったのに、
とちゅうで休憩をはさまないと きめられた回数をこなせない。
体幹トレーニングばかりでは なんとなくたりない気がして、
うでたてふせやスクワットなんかもつけくわえる。
トレーニングがすきというよりも、貧乏性なのだとおもう。
よさそうなプログラムがあるとついメニューにつけたして、
ごちゃごちゃになってくる。

さいしょはごくシンプルだった。
うでたてふせ50回とスクワット300回。それだけ。
だんだんとそれに準備体操のストレッチ、
ストレッチポールをつけくわえ、
やがてヨガのポーズをいくつか、
そしてさいごに体幹トレーニングだ。
ほんとうは、もっといろいろくっついているけど、
はずかしくて ぜんぶはとてもここにかけない。
いったい自分がなにに焦点をあてているのか
わけがわからなくなってきた。
ジムでのトレーニングは、わりきって整理できていたのに。

わたしによくありがちなながれとして、
よさそうなものをいろいろとりいれたあげく、
トレーニングというよりなにかの儀式みたいになる。
五郎丸選手のルーティンが有名になったけど、
もしあれに ややこしいうごきがもっとくっついたら、
集中の儀式ではなく、病的な雰囲気になるのではないか。
わたしのはまさにそれで、
目的をみうしない、つかれたら満足ですという、
頭のわるそうなメニューができあがりつつある。

自然農法でいうと、こういうのは いちばんダメなかんがえ方だ。
チッソだカリだ、リン酸だと、
あれもこれもとつけたすのではなく、
反対にだんだんとひいていくのがただしい。
肥料をやらなくてもいいのではないか、
農薬もいらないのではないか、
土をたがやさなくても いいのかも。
とはいえ、収穫できないと生きていけないのだから、
どうしても安全なやり方にはしりやすい。
自然農法といいながら、科学的な知識をひきずられ、
いろいろと工夫しがちな実践がおおくみられる。

トレーニングといっても、
なにを目的にするかでとりくみがちがってくる。
大会をめざし、自分の限界に挑戦するのか、
健康づくりなのか、
プロポーションを維持したいのか。
健康やプロポーションが目的になるほど、
決定的なプログラムはなく、
いろんな情報に目をうばわれやすい。
はやり・すたりもある。
すこしまえまでは万能だったストレッチも、
このごろはたいして意味がみとめられなかったり、
害があるとまでいわれている。
なにがただしいかわからないからこそ、わたしみたいに
ややこしい儀式的なトレーニングになっているひとが
あんがいおおいのではないか。

posted by カルピス at 20:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年10月01日

「音楽遊覧飛行」にでてきた『パルプ・フィクション』のハンバーガー

運転中にラジオで「音楽遊覧飛行」をきく。
今週は、吉村喜彦さんの「食と音楽で巡る地球の旅」で、
テーマは「魂の食べもの」。
アメリカのソウルフードといえばなんといってもハンバーガー。
ハンバーガーが印象的な作品にクエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』があります。
殺し屋が、これから仕事をする相手のまえで ハンバーガーのうんちくをかたる。
ものすごく緊張する場面なのに、妙にハンバーガーがおいしそうでした・・・。

というから当然『パルプ・フィクション』からの曲かとおもったら、
「ぼくも9月の空のしたでハンバーガーをたべたくなってきました」
と吉村さんはつづけ、かけた曲は
アース・ウィンド&ファイアーの「セプテンバー」だった。
この番組は、いろいろな国をとりあげながら、
じっさいにかける曲はあんまり関係ないことがおおい。
その国の出身者による演奏だったらまだいいほうで、
「セプテンバー」みたいにめちゃくちゃなこじつけもある。
きいているほうは、土地にまつわる
吉村さんのおしゃべりがたのしいのだから、
なんだっていいようなものだけど、
今回ばかりはガクッとひざをおられた。

『パルプ・フィクション』に わたしはしびれた。
ふつう映画のなかで暴力をあつかうと、
おっかない顔の人物が、深刻ぶって相手にむかうけど、
『パルプ・フィクション』では
日常のなかに カジュアルな形で暴力がある。
吉村さんがはなしている場面は たしかに印象的だ。
目のまえにせまった仕事とは、
まったく関係ないはなしをしながら
かんぜんにリラックスしてチンピラの部屋をたずねる。
くだらないはなしをして緊張をごまかしてるのではない。
彼らのなかでは どうでもいいおしゃべりと これからの仕事が
まったくおなじおもみであつかわれている。
チンピラの部屋にはいってもムダ口がつづく。
どこまで本気で、どこからが冗談なのかわからない。

わたしがすきなのは、マフィアといえども
ちゃんと常識をわきまえているところだ。
人質にピストルをちらつかせてるとき、
うっかりひきがねをひいて
車のなかが脳みそでぐちゃぐちゃになる。
こまったふたりがしりあいの家にとりあえずかけこむ。
やばい仕事をさんざんやってきたふたりにたいし、
一般市民役のタランティーノが
「だれが死体をもちこんでくれってたのんだ?」と
つよ気で対応し、ふたりは「わるかった」とうなだれている。
殺し屋にたいし、やさ男のタランティーノが
社会的な常識でせまるのがおしゃれだ。
うっかりひきがねをひかれたほうは たまらないけど。

『パルプ・フィクション』にはハンバーガーがよくでてくる。
トラボルタはパリのマクドナルドについて熱心にはなしていた。
「ル・ビッグマック」って ほんとうだろうか。
吉村さんがいわれた冒頭のシーンでは、
サミュエル=L=ジャクソンすごくまずそうにたべて
スプライトでながしこむ。
あの場面をみてハンバーガーがほしくなったりしないので、
吉村さんはあえてべつの曲をえらんだのかもしれない。
トラボルタとユマ=サーマンが レストランでダンスしたときも
ハンバーガーを注文していた。
「セプテンバー」をかけるよりは
あのときのダンスミュージックにしてくれたらよかったのに。

posted by カルピス at 14:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする