週2回のペースで体育館のジムにかよっていたけど、
このごろは家のまわりをはしる日がおおい。
かえってから体幹トレーニングを30分ほど。
体幹トレーニングは、サッカーの長友選手でいっきょに有名になった。
ブームというよりも、いまではひとつの基本的なトレーニングとして
位置づけられているのではないか。
長友選手のコメントがのっていたので、
『体幹力を上げる』(木場克己・成美堂出版)を3年まえにかい、
これまで初級・中級編にとりくんできた。
ジムのかわりに体幹トレーニングをするようになってから、
ようやく上級編まで範囲をひろげたところだ。
上級になると、わたしにはできないプログラムがでてくる。
腹筋にはわりと自信があったのに、
とちゅうで休憩をはさまないと きめられた回数をこなせない。
体幹トレーニングばかりでは なんとなくたりない気がして、
うでたてふせやスクワットなんかもつけくわえる。
トレーニングがすきというよりも、貧乏性なのだとおもう。
よさそうなプログラムがあるとついメニューにつけたして、
ごちゃごちゃになってくる。
さいしょはごくシンプルだった。
うでたてふせ50回とスクワット300回。それだけ。
だんだんとそれに準備体操のストレッチ、
ストレッチポールをつけくわえ、
やがてヨガのポーズをいくつか、
そしてさいごに体幹トレーニングだ。
ほんとうは、もっといろいろくっついているけど、
はずかしくて ぜんぶはとてもここにかけない。
いったい自分がなにに焦点をあてているのか
わけがわからなくなってきた。
ジムでのトレーニングは、わりきって整理できていたのに。
わたしによくありがちなながれとして、
よさそうなものをいろいろとりいれたあげく、
トレーニングというよりなにかの儀式みたいになる。
五郎丸選手のルーティンが有名になったけど、
もしあれに ややこしいうごきがもっとくっついたら、
集中の儀式ではなく、病的な雰囲気になるのではないか。
わたしのはまさにそれで、
目的をみうしない、つかれたら満足ですという、
頭のわるそうなメニューができあがりつつある。
自然農法でいうと、こういうのは いちばんダメなかんがえ方だ。
チッソだカリだ、リン酸だと、
あれもこれもとつけたすのではなく、
反対にだんだんとひいていくのがただしい。
肥料をやらなくてもいいのではないか、
農薬もいらないのではないか、
土をたがやさなくても いいのかも。
とはいえ、収穫できないと生きていけないのだから、
どうしても安全なやり方にはしりやすい。
自然農法といいながら、科学的な知識をひきずられ、
いろいろと工夫しがちな実践がおおくみられる。
トレーニングといっても、
なにを目的にするかでとりくみがちがってくる。
大会をめざし、自分の限界に挑戦するのか、
健康づくりなのか、
プロポーションを維持したいのか。
健康やプロポーションが目的になるほど、
決定的なプログラムはなく、
いろんな情報に目をうばわれやすい。
はやり・すたりもある。
すこしまえまでは万能だったストレッチも、
このごろはたいして意味がみとめられなかったり、
害があるとまでいわれている。
なにがただしいかわからないからこそ、わたしみたいに
ややこしい儀式的なトレーニングになっているひとが
あんがいおおいのではないか。