2015年10月15日

『わたしの生きがい論』(梅棹忠夫)

なやみを相談できるひとが身ぢかにいるかどうか、
という会話のなかで、
しりあいに 梅棹忠夫さんの『わたしの生きがい論』をすすめた。
それをきっかけに、わたしもまたよみかえしてみる。

『わたしの生きがい論』について、
このブログで なんどもとりあげてきた。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/394704571.html
生きがいだけでなく、人口問題や環境破壊など、
地球規模の問題にたいする わたしのよりどころとなっている。
進歩だけでやっていけるとおもうのはあまいですよ、
目的なんか設定しないほうがいいかもしれないと、
よくある人生論と まったく発想のちがうこの本は、
ふかいところでわたしのこころをとらえたまま はなさない。
地球の将来をかんがえることが、
いっけん関係なさそうな「どう生きるのか」ともつながってくる。

『わたしの生きがい論』は、
梅棹忠夫著作集の第12巻におさめられている。
この巻のまえがきで、梅棹さんは
『わたしの生きがい論』には、人生に対する否定的な姿勢を感じとるひともすくなくないようである。それで、この書物は毒薬をふくんでいるから、わかいものにはすすめられない、といったひとがある。

というはなしを紹介している。
わたしがこの本をよんだのは20代の前半で、
まさしくこの「毒薬」にあたってしまった。
ただ、人生を否定的にとらえたわけではなく、
人生の有限性をしり、
現実的なかんがえ方ができるようになったとおもっている。

『わたしの生きがい論』の圧巻は、
なんといっても第2章の「未来社会と生きがい」だ。
梅棹さんは「生きがい」をあきらかにするために
まず「死にがい」についてかんがえ、
つぎにサルに生きがいはあるだろうか、とといかける。
そこからみちびきだされる生きがいの本質は、
生きがいの問題だというのは、じつは人生というものを目的化しているかどうか、ということにもつながってくる。

「生きがい」をもとめるということは、やっぱりおかしいのではないかと、わたしはかんがえている。問題は、どうもそういうこととはちがうのではないか。われわれがいまかんがえなければならないことは、ある種の期待があって、それにむかって努力することによる充実感、あるいは満足というような構造のものではないあろう、というわけです。むしろ、そういうものこそぐあいがわるいのではないか。

「ぐあいがわるい」とは、たとえば、
ひとりの社員が仕事をがんばった成果として、
世界じゅうに公害がまきちらされたりする状況をいう。
そのひと個人としては、
自分の生きがいを追求しただけかもしれないけど、
その結果として地球の資源・環境をくいつぶし、
人類の危機へとつながっていく。

梅棹さんはこの「生きがい論」を
人類の将来を心配し、かくあるべしと うちだしたのではない。
人間社会が工業中心から、情報産業社会へとすすんだときに、
こうした目的からの離脱というかんがえ方が
必然的にでてくると予想したのだ。
わたしをおどろかせたこの本は、
しかしわたしのまわりからは
あまり評価されなかった。
あまりにも一般論とはかけはなれたかんがえ方なので、
うけいれがたいのかもしれない。
うけいれたら、目的体系からはなれなければならない。
いまでもこの本は「毒薬」だろうか。
わかいひとの意見がききたい。

posted by カルピス at 21:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする