2015年11月30日

『かぐや姫の物語』みたことのないこまやかなうごき

『かぐや姫の物語』(高畑勲:監督・2013年・日本)

はじめからおわりまで、おもしろくみれた。
それがこの作品の、なによりもすぐれている点ではないか。
だれもがしっている古典を題材に、
まったくあたらしい世界をしめすのが
たやすいわけはない。
この作品は、ひじょうにたかい演出力と、
これまでにない作画によって、
みたことのない世界をつくりあげている。

・場面によって別人のようにかわる かぐや姫の表情
・いままでみたことのないなめらかなうごき
・都でのくらしぶり
・「高貴な方たち」のたちふるまい
・ゆたかないのちにあふれている野山

これらを表現するのに、実写ではむつかしい。
赤ちゃんのはいはいなど、ほんものより ほんものらしかった。
のびやかなうごきに生理的な快感をおぼえる。
アニメでなければできないけれど、
これまでのアニメのうごきではじゅうぶんではなく、
この作品にはあたらしい作画がもとめられた。
そうでなければ『日本昔ばなし』になってしまう。

なんだか気になるのが おつきの女性「女童」(めのわらわ)だ。
あのキャラクターデザインは、
『かぐや姫の物語』の世界観をあらわしている。
都には、こころのあたたかな、ちゃんとした人間もいるのだ。
ほとんどセリフがないのに 存在感があり、
彼女がいるおかげで かぐや姫と媼(おうな)は
「高貴な方たち」とのくらしをうけいれられた。

月からおむかえがくる場面がたのしかった。
ラテン的なあかるい音楽をかきならし、
わっしょい わっしょいと月からの一行がおしよせる。
かぐや姫をつれさられるとしり、
しんみりと、かなしがるのは人間たちのかってだ。
地球でのことなど、どうせすぐにわすれてしまうのだからと、
彼らはものすごくドライに仕事をはたそうとする。
月のひとたちにとって 地球にむかうのは
ときどきおとずれる 一大イベントなのかもしれない。

これだけたかい表現力の作品をみられるのはしあわせだ。
そのいっぽうで、8年もかけてつくったという舞台裏をしると、
さぞたいへんだったろうと いうしかない。
高畑氏にまかせたら、
スケジュールどおりにすすむわけがないのだけど、
それにしても8年はすごい。
こんなやり方で作品がつくれたのは、
いろいろなありえない条件が
たまたまかさなった奇跡なのだろう。
よく関係者の協力に感謝することばがきかれるけど、
この作品こそ「関係者の尽力」をたたえるのにふさわしい。
よく8年もまちつづけ、まかせつづけたものだと
関係者のみなさまに感謝したい。

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2015年11月29日

『荒野へ』IT断食と読書

『荒野へ』(ジョン=クラカワー・集英社文庫)

臨時の仕事として利用者の方とおとまりする。
グループホームではなく、
おとまりの体験や、緊急時にとまるための家があり、
そこをつかっての1泊だ。
グループホームなら、5人以上が生活するので、
なにかと仕事がおおいだろうが、
きのうの場合は1対1でのつきそいなので
あまりすることがない。
夕食をおえ、お風呂にはいれば
あとはねる時間をまつだけだ。
夜9時にはすっかりしずかになり、
わたしのまえには膨大な時間が 手つかずでのこされた。

ふだん家にいるときは、9時になっても
なんだかんだすることがあり、
ズルズルと夜ふかししてしまうのに、
この日の夜は 完全にからっぽの時間だ。
ネットもなく、テレビもつけないし、お酒をのまなければ
夜はこんなにもながい。
なかでもネットがいちばん時間をうばう。
わたしはフェイスブックとツイッターをしていないのに
こんな感想をもつのだから、
スマホ依存症のひとが おもいがけず IT断食を体験したら
きっとあまりの空白におどろくだろう。

時間をもてあましたときのために、
数冊の本をもってきていた。
よみかけの『荒野へ』(ジョン=クラカワー)をとりだして
ふとんにねそべってよむ。
アレックスはなぜ 両親・お金・地位・名声を否定して
アラスカの荒野へはいったのか。
この本は、あっちこっちにはなしがとぶので集中しずらい。
著者は、アレックスがとったような無謀とおもえる行為を、
おおくの若者にみられる共通の熱狂として位置づけようと
このような構成にしたのだろう。
それにしても もうすこし彼のうごきに
焦点をしぼってくれたほうが
アレックス的な心理にせまれたのではないか。

アラスカは、アレックスにとっておおきな夢ではあったけど、
最終的な目的地というわけではなかった。
生きてアラスカからもどったとしたら、
彼はどんな生きかたをのこしただろう。
アレックスは、旅さきでであった80歳をこえた老人に、
保守的な価値観にとらわれない
つつましいくらしのすばらしさをとき、
ライフスタイルをかえるよう すすめている。
そして老人は実行にうつそうと旅にでた。
アレックスの言動は、
それだけひとをひきつけるちからがあったのだろう。
わたしの人生のおわりも、中古車に荷物をつんで、
移動しながらの生活になるような気がしてきた。
そとからみたら、それはホームレスのひとかもしれない。

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2015年11月28日

「クールジャパン」での疑問。キスは日本になじむのか

先日のクールジャパンは、
日本の夫婦への疑問をとりあげていた。
なぜキスをしないのか、と
なぜ夫がおこづかい制でやりくりしているか、の2点。

町でのインタビューによると、
わかい世代ほどキスに抵抗がない。
ちゃんと毎日してます、という夫婦もいた。
いっぽう、年配の夫婦になると、何十年もご無沙汰です、
というカップルがあたりまえだ。
ざっとインタビューをまとめると、
キスがごく自然な行為とはなっていないし、
そうなったほうがいいともおもわれていない。
キスだけでなく、スキンシップそのものが
日本人はなかなかオープンにできない。

意外だったのは、
ゲストとしてスタジオにきている外国人のおおくが
キスをしないと愛しているかどうかを
たしかめられない、といっていたことだ。
ことばでの「愛してる」だけではだめで、
ちゃんと行動(キス)がともなわないと
愛を表現したことにならないらしい。

わたしはもちろんキスをしている。ピピに。
わたしがピピにむける愛情表現をみれば、
外国人もかならず合格点をつけるだろう。
あつくハグをかわすし(ピピもしてくれる)、
ことばでもほめちぎっている。

日本にはキスの文化がさほどなじんでいないし、
愛=キスとは とらえていないので、
いっしょにすごす期間がながくなると
しょっちゅうキスなんかやってられるか、となる。
家ではまだしも、そとで、ひとまえでのキスとなると
ハードルはさらにたかく、
日本人であり、そこが日本であるかぎり
キスがあたりまえの愛情表現とはならないだろう。
親がやってないのだから、
その子どもたちがキスを当然の行為とするわけがなく、
日本でのキスがあたりまえになるには
いまからでも数世代かかる。
そもそもアジアの国々では 日本みたいに
ひとまえでキスをしないのがあたりまえだ。
どれだけ年月をかけても、おそらくキスは日本に根づかない。

おこづかい制については、
それぞれの家庭でいろんなかんがえ方があるだろうから、
いいとかわるいとかを いちがいにいえない。
500円でやりくりするのは
かなり自虐的な快感があるのかもしれない。
居酒屋でのインタビューでは、
もっとおこづかいをあげてくれ、なんて
こわくてとても奥さんにいえない、
という夫がなんにんもいた。
そういうフリをしているだけかもしれないけど、
奥さんをたてたほうが なにかとスムーズにまわるみたいだ。

わたしの家では それぞれがおなじ金額をだしあうやり方だ。
夫が失業しても、ルールはかわらない。
このままいくと、わたしのほうだけ
みじめな老後がまっている。

posted by カルピス at 17:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月27日

『稲作の起源』(池橋宏)水田稲作は、イモ類の株わけからはじまった

『稲作の起源』(池橋宏・講談社選書メチエ)

田うえをしないで、田んぼにそのまま種をまく米づくりをしてみると、
わざわざ苗をそだて、移植するめんどくさい方法が
なぜ一般的になったのか 不思議におもえてくる。
さらにいえば、土をたがやすにしても、
いつから必要な作業となったのだろう。
それらの、あたりまえとおもっている仕事でさえ、
そもそものスタートはあんがいはっきりしていない。
どんななりゆきから
いまのような形に ひろまったのかをかんがえるとたのしい。

1966年に、中尾佐助氏が照葉樹林文化論を提唱した。
ヒマラヤから日本にかけてひろがる
照葉樹林帯には共通の文化があり、
それが日本文化の源流ともなっているという。
宮ア駿さんの影響もあって、
わたしはこの説につよくひきつけられた。
稲作のルーツも、この照葉樹林文化がカギをにぎっているようだ。

本書はしかし、照葉樹林文化による稲作に
疑問をなげかけたものだ。
照葉樹林文化論にいかれているわたしにとって、
あまりたのしい読書ではなかったけれど、
稲作の起源について、耳をかたむけるに値する
説得力のある筋道がしめされている。

照葉樹林文化による稲作は、雑穀農耕の影響をうけ、
焼畑での陸稲からはじまったといわれていた。
とうぜん移植ではなく、タネを直接まく直播栽培で、
それがだんだんと棚田へとうつったというものだ。
しかし池橋氏によると、
焼畑での直播栽培から水田での移植栽培に移行したとは
かんがえにくいという。
水田による稲作はきわめて特殊な農法であり、
焼畑で陸稲をつくっていたのに、
あるときからとつぜん水田にうつるのは、
関連性がないので たしかに不自然だ。
この本でしめされているのは、
根栽農耕として、湿地で里芋などをつくるうちに、
その株わけの技術が稲作にもいかされた、という展開だ。
これだとたしかに
「水田や苗代の起源も無理なく説明できる」。
イネの苗をそだて、それを移植する 栽培法の起源が、
イモの栽培にあったというのはおもしろいかんがえ方だ。

池橋氏は、雑草や発芽のコントロールがむつかしい点も、
直播栽培が稲作のルーツではない根拠としてあげている。
イネの直播栽培は(中略)現在の農業者にとってもむずかしい。原始時代の農耕の担い手は、育児も分担する婦人であったと想像されている。とすると草取りに多くの手間をかけることができただろうかという疑問が残る。(p43)

稲作の現実を見ない人たちは、直播きは、苗代や田植えを必要としないだけより原始的と考える傾向があるのか、古代で直播きが行われていたかのように述べている。しかし現代人でもむずかしい直播きが、古代の人に簡単に出来るわけはない。(p222)

「簡単に出来るわけはない」と
きめつけられると反発したくなる。
直播栽培をこころみたわたしの感想では、
水をためて雑草をおさえれば、
草とりは それほどたいへんとはいえない。
池橋氏の論理は、ときとしてこのように
自分の体験を主張しすぎるところがあり、
よんでいてすべてがすっきりしたわけではない。
あくまでもひとつの仮説としてうけとめ、
照葉樹林文化論側からの反論をしりたい。

ちょうど縄文時代の農耕について
はっきりしたイメージをもちたいとおもったところなので、
本書はあたらしい指摘による 刺激的な読書となった。
池橋氏は、稲作と日本の関係では、
水田稲作という はじめから完成された形で
日本にもちこまれたとかんがえている。
渡来民によって稲作が日本に紹介され、
画期的な生産量が 弥生時代への変革をもたらしたという。
縄文時代には農耕がひろまらなかったというよりも、
農耕がひろまるまでが 縄文時代というとらえ方だ。
水田稲作は、それだけいっきに生産力をたかめた。
すこしずつではなく、いっきに、というところが
水田稲作として完成された姿で日本にはいった説明にもなる。
池橋氏の提唱をきっかけに、
「稲作の起源」論がふかまるよう ねがっている。

posted by カルピス at 20:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月26日

せっかくとれたお米は残念な味だった

コイン精米機でモミを白米に精米し、
田んぼをかしてくれた方と、
米づくりでなにかとお世話になった方へお礼にいく。
できれば5キロくらいもっていきたかったけど、
とれた量がすくなかったので、
1升(1.4キロ)という「気もちだけ」になってしまった。
でもまあ、これでようやく米づくりのすべてがおわり
ひと安心だ。
来年は、10倍くらいたくさんの収穫になるだろう。

その日の夕方、わたしもその米をたべてみる。
自分が苦労してそだてた作物は、
気もちがこもっているだけに 格別おいしい、
なんてよくいうけど、
それはあるていどの基準をみたしているときだ。
空腹は最良の料理人、ともいうのもおなじで、
気もちや空腹で味はごまかせない。
それはそれ、これはこれのシビアな世界だ。
おいしいものはおいしいし、
おいしくないものは、
すこしぐらいおなかがへっていても おいしくない。

残念ながら、わたしのお米もそうだった。
炊飯器のふたをあけたときは、
湯気とともに いいかおりがたちのぼり、
これはきっとおいしいにちがいないと 期待がたかまった。
でも、たべてみたら ぜんぜん特別な味ではない。
むしろうまみがないといったほうが正確で、
おかずといっしょでなければ、ハシがあまりすすまない。
こんなお米を5キロもあげたら、りっぱないじわるだろう。
わたしがもしも縄文人で、大陸からきたひとたちが
稲作のプレゼンをやったとしても、
http://portal.nifty.com/kiji/140501164001_1.htm
このていどの味だったら
むりして米をつくるより、
どんぐりのままでいいや、とおもうにちがいない。

ミレーの「落穂ひろい」という有名な絵は、
その名のとおり、畑におちている穂をひろっている。
麦のかりとりがおわったあとでも、
きっとたくさんの穂が 畑にとりこぼされていたのだろう。
わたしが収穫したイネも、
かなりの量が「落穂ひろい」であつめたものだ。
田んぼにおちている穂だけでなく、
かりとった株のなかには、いくらかの穂がのこされている。
そのままにしておくのはもったいないけど、
しょせんはとりこぼされた穂であって、
しっかりモミがついているわけではない。
なかにはスカスカの穂もまじっている。

そんな穂をあつめたお米が
おいしくないのはとうぜんであり、
お腹のたしになるだけありがたいというのが
落穂のただしい位置づけだ。
「落穂ひろい米」は、名画とは関係がなく、
それなりの味でしかなかった。
来年は、落穂をぜんぶスズメにプレゼントできるくらい、
ガツガツしないお米づくりにしたい。
落穂ひろいはめんどくさいし。

posted by カルピス at 14:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月25日

『メゾン・ド・ヒミコ』わたしのすきなおとぎばなし

『メゾン・ド・ヒミコ』(犬童一心:監督・2005年・日本)

かつてゲイバーのママだった卑弥呼が、
ゲイのための老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」をひらく。
海辺にたつモーテルを改造してあり、
上質の家具と 海をみわたすめぐまれた風景のせいか、
避暑地のちいさなホテルみたいだ。
非日常だった空間が、夢のホームとしてうまれかわった。

こういう浮世ばなれした おとぎばなしが わたしはすきだ。
まずありえないであろう設定に、
たくみに肉づけしてリアリティをもたせる。
しっかりした管理者がいて
運営に関する雑多な仕事をこなしてくれる。
コックさんは手のこんだ季節の料理を工夫する。
世間からは、ちゃんとうしろ指をさされる場所でもある。
そんな道具だてから、
いかにもいごこちがよさそうな
不思議な世界ができあがった。
そしてわたしは夢みる夢子さんだ。
沙織に「メゾン・ド・ヒミコ」へのさそいがきたように、
わたしにも「ある日突然」がこないかと、いつまでもまっている。

でてくるひとたちは、みんなおもったことをくちにする。
沙織(柴咲コウ)も、彼女がつとめる会社の専務も、
「メゾン・ド・ヒミコ」のゲイたちも、
自分をつくろう うすらわらいなんかしない。
わたしの普段のふるまいが、
偽善的でうすっぺらにおもえてきた。

沙織のしかめっつらにわらわせられる。
いつもマユをひそめ、
うたぐりぶかそうに世間をみている。
あのつよい目ぢからはなんなんだ。
そんな目つきでふくれっつらをしていると、
あの柴咲コウが、さえないブスの事務員になってしまう。
芸能オンチのわたしは、
彼女が柴咲コウだとわからなかった。

でも、はじけたときの笑顔はとても魅力的になる。
コスプレでのバスガイドは とくにきまっていた。
わたしはオカマではないけれど、
タイトスカートをはいてみたくなった。
「すべての女性はうつくしい」と
写真家の荒木経惟さんがいっていたのはほんとうだ。
沙織みたいな女の子をブスにみせてしまうのは、
気もちを開放できない環境が原因であり、
警戒をといて笑顔をみせると別人になる。
すべての女性はうつくしいのに、
配偶者をしかめっつらにさせているのは
わたしだ。

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2015年11月24日

「本塚」をめぐる記事に 大里をなつかしむ

「デイリーポータルZ」に
中国の大里(だいり)をとりあげた記事がのっていた。
http://portal.nifty.com/kiji/151120195111_1.htm
大里は雲南省にあるちいさな町だ。
いぜんは日本人旅行者がたくさんおとずれたのに、
いまはほとんど日本人がいかない町になっているそうだ。
ライスマウンテン氏によるこの記事は、
旅行者がのこしていった本のあつまりを「本塚」と名づけ、
いぜんのにぎわいと、いまの大里とのギャップを報告している。
古代人がのこした貝の山を「貝塚」というように、
残骸となった日本語の本は、
かつてそこに日本人があつまった遺跡だから「本塚」なのだ。

本塚にはどんな本がのこされているだろう。
旅行者が 荷物になるのにあえて本をもっていくわけだから、
えりすぐりの大切な本があつまっているかというと、
ぜんぜんそうではない。
いくら日本語にうえていても、
手にとる気さえおこらないタイトルがおおい。
もっとも、だからこその本塚ともいえる。
栄枯盛衰のことわりが、本塚からよみとれる。
本塚は、いわば死んだ本のあつまりだ。
本棚はやはり活発な本のではいりがないと
ふるくさいだけのゴミ箱になってしまう。

それにしても、大里はなぜ
日本人旅行者のいない町になってしまったのだろう。
記事によると、中国人観光客がふえたかわりに
日本人だけでなく外国人旅行者がいなくなったという。
旅行地には、はやりすたりがあるとはいえ、
ここまで徹底的に旅行者からそっぽをむかれるのは
ただごとではない。
なにか事情があったのかもしれないし、
理由がないのに ガラッとかわったとしたら
どうしようもないぶん それもまたおそろしい。

わたしは1987年に大里をたずねたことがある。
記事にもあるように、こぢんまりとして
すごしやすい町だった。
大里は洱海という湖にめんしており、
そこを一周するサイクリングにでかけると、
土地のひとがあつまるちいさな市場を見学できた。
いかにもいなかにきている気分にしてくれるので、
当時の旅行者には人気のある町だった。
大里についたとき、外国人むけの宿(招待所)で
ドミトリーを希望したら、
日本人の女の子4人がはいっている部屋をあてがわれた。
男はわたしひとりだけだ。
「ラッキー!」とよろこぶほどわたしはスレておらず、
きがえのときなどは ねたふりをしてしのいだのをおぼえている。
4人のうちのひとりと、それをきっかけになかよくなり・・・
という展開はなく、
日本にかえってからいちど 手紙がとどいただけだ。
大里というと、女の子にかこまれてすごした ドミトリーをおもいだす。

posted by カルピス at 16:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月23日

NHKスペシャル「認知症革命」をみて

2回シリーズのNHKスペシャル「認知症革命」をみた。
1回目は「ついにわかった!予防への道」として、
最近の研究が紹介されている。
2回目は「最後まで、その人らしく」。
認知症と診断されてもけして「おわり」ではなく、
「その人らしく」生きられる環境が ととのいつつあるという。

予防については、軽度認知症の段階でとりくめば、
進行をくいとめたり、改善できるそうだ。
認知機能をたかめるには、はやあるきが効果的といい、
かるい筋力トレーニングとあわせ、
週になんどかの運動をすすめている。
有酸素運動と筋力トレーニングは、
いつもわたしがやっている生活習慣なので、
それが認知症予防に効果があるのは
すごくありがたい。

2回目の「最後まで、その人らしく」では、
出雲市のデイケア「小山のおうち」が紹介された。
認知症の方におもっていることをかいてもらうと、
ふだんはことばにされることのない
かなしさ・さみしさが文字にされ、
ゆたかな感情がたもたれているのがわかる。
わたしよりもずっときれいな文字で、
漢字もたくさんつかった文章だ。
まわりから認知症だとさげすまれたり
あたまごなしにしかられると、
「こころ」がきずつけられている。
そのつらさや不満が 暴力や徘徊となってあらわれる。

認知症の方が、みかけよりもずっと
ものごとをかんじているのにはおどろかない。
なにもわからないと きめつけるほうが
どうかしているのではないか。
しかし、わかっていても
おなじことをなんどもくりかえしたり、
理解にくるしむうごきをとられたら
つきそう側は だんだんまいってくるだろう。
いわれるほうにしても、
「はやくねなさい」「何回いったらわかるの!」なんて
自分のおもいとちがうことをきめつけられたら
だれだってストレスがたまってくる。
そんなときに、すこしずつでいいから
相手をうけいれる対応をこころがけていくと、
おたがいの関係がずいぶん楽になるそうだ。
わすれてもいいんだ、とおもえたら
安心してくらしていける。

当事者として社会にかかわろうとする人たちも
それぞれのやり方で活躍されている。
ひとつの例では、認知症であっても自分をみとめてほしいと、
市役所に相談をもちかけたのがきっかけとなった。
いまでは富士宮市ぜんたいのとりくみとして
認知症の方を支援するしくみがひろがっている。
わかくして認知症を発症したかたに、
デイサービスなどの老人にむけたサービスを紹介しても、
その方がもとめる支援にはならない。
行政の適切な判断が、
認知症の方のすみやすい町づくりへつながった。
認知症のかたがすみやすければ、
だれにとってもすみやすい町だろう。
障害者介護とおなじで、
めざすのは町づくりといえる。

認知症というと、記憶をうしなうおそろしさから
もうおわりとばかり きめつけていたけれど、
ずいぶん失礼なおもいこみだった。
ひとりで有酸素運動ばかりせずに、
支援する側にもまわりたい。
それやって町づくりに協力するのが
ゆくゆくは自分のためにもなる。

posted by カルピス at 12:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月22日

『ブルーバレンタイン』

『ブルーバレンタイン』
(デレク=シアンフランス:監督・2010年・アメリカ)

ふた組のカップルが交互にえがかれる。
いっぽうは倦怠期なのか、おたがいの気もちがかみあわない。
おさないむすめが かすがいとなり、
なんとかいっしょにくらしている。
もういっぽうは、もうすこしわかいカップルで、
であいから結婚までの ういういしい時期をとりあげてある。
肩書よりも愛情が大切にされ、
しっかりした信頼関係でむすばれていく。

わかいカップルにくらべると、倦怠期の男性のほうは
相手のことをかんがえないサイテーなヤツにみえる。
まるでDVのようにパートナーを拘束し、
自分の気もちだけをまくしたてる。
すぐあやまるくせに まったくこりておらず、
自分のいいぶんを大声でくりかえすだけ。
すずしい顔でいいつのるところがにくたらしい。

おまえ、すこしはもういっぽうの男をみならえよ。
あっちはパートナーに誠実で、
自分にも自信をもってるぞ。

ところが、おどろいたことに、
このふた組はおなじカップルだった。
現在のふたりと、7年まえにであったころの姿だ。
ふつうにみていたら、すぐにわかりそうなのに、
なかなか気づかないわたしがどうかしている。
でも、それほどこのふた組は みるかげもなく、
いぜんとは かけはなれた状態だ。
おなじふたりが、ここまで形をかえてしまうとは。

男性のほうは なんとかまえとおなじ関係にもどりたそうだけど、
女性のほうは もはや生理的に相手をうけいれられない。
どうしてこんな関係にまで なってしまったのか。
とらえ方により、男がわるいようにも、
女性のほうに問題があるようにもみえる。
かわらない男性がわるのかもしれないし、
ないものねだりをする女性がムチャにもおもえる。
だんだんとわたしは身につまされていく。
パートナーから拒絶され、さみしそうにさる男性が
ひとごとにおもえなくなる。

パートナーに絶望する女性のふるまいがすさまじい。
もうあなたとはやっていけないと、
からだじゅうからマイナスのサインがでている。
7年まえは、あんなにすてきな笑顔で
あいてをうけいれていたのに。
これが演技とは とてもおもえない。
あまりにもひどいふたりのようでいて、
どこにでもありがちな関係ともいえる。
むねのふかいところがざわついてくる
おそろしい作品だ。

サイトでは、いくつもの記事が
「夫婦でみるな」とアドバイスしている。
おおくのひとがこの作品に
なんらかの危険なにおいをかんじるのだろう。
わたしの配偶者は、
きっとひとりでさきにみてしまったんだ。

posted by カルピス at 10:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月21日

2015年のボジョレー・ヌーボー

いただきもののボジョレー・ヌーボーをあける。

よくいわれるように、
まいとしのボジョレー・ヌーボーには
たいてい「ほんとかいな」といいたくなる
おおげさな評価がつけられる。
あたりさわりのない、という域をこえ、
さすがにそれはいいすぎだろう、くらい
もちあげる年がおおい。
(たとえば「10年に1度の逸品」など)。

新酒をいわうおまつりだから、正確な評価よりも
おめでたさをかんじる いきおいのあることばが
もとめられるのかもしれない。
そんなボジョレー・ヌーボーの歴史にも、
できのよくない年があった。
2012年は、そのままズバリ
「ボジョレー史上最悪の不作」
という評価だったというから、
無節操にほめているばかりではないようだ。

そんな2012年に わたしがボジョレー・ヌーボーをのんで
どんな感想をもったかというと、
「とてもおいしかった」のだそうだ。
史上最悪のできでも「とてもおいしかった」とおもえるのだから、
ワインについて わかったようなことは とてもいえない。

ことしは夏から秋にかけてよい天気にめぐまれ
いいワインができそうだという。
きっとボジョレー・ヌーボーも
「100年にいちど」クラスのおいしい年と
評価されることだろう。
しかし、いただいておきながら
こんなことをいうのはもうしわけないけれど、
わたしがのんでみての感想は
「おいしくなかった」。
わたしには、おいしいか、おいしくないかくらいしか かたれないので、
そのさきにつづく繊細な分析はなしだ。
ただ「おいしくなかった」だけ。
おおげさなキャッチコピーよりも、あんがいわたしの
マルかバツか、みたいな評価のほうが
いいところをついているのではないか。
ボジョレーだからかるくていいのに、
ずっしりとおもたいワインだった
(なにもいわない、といいながら・・・)。

2015年のボジョレー・ヌーボーは
一般的にはどんな年として記憶されるだろう。
新酒をいわうおめでたい気分も、
無差別テロによるショックでかきけされてしまった。
平和でなければおまつりにならない。

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2015年11月20日

足踏脱穀機での脱穀

ほしてあったイネを ようやく脱穀する。
11月の旬になるまで稲穂をほっておいたのは、
脱穀機の値段がさがるのをまっていたからだ。
夏には2万6000円くらいで ネットにでていた足踏脱穀機が、
9月にはいると5万円に値あがりしていた。
脱穀機をつかうのは秋だけなので、
必要とするひとの足元をみているような気がする。
だったらまた値段がさがるのをまとうと、
そのまましばらくようすをみていた。
でも、11月になってもたいして値段がかわらない。
冬になってしまうといやなので、
3万6666円で手をうつことにした。

ブルーシートをひろげ、足踏脱穀機をおく。
ドラムにV字型の金具がとりつけられており、
ふみこみ式のペダルをふむと
そのドラムがまわるしくみになっている。
そこに稲穂をつっこんでワラからモミをきりはなす。
原理は簡単だけど、かなりたいへんな仕事だ。
ある程度のスピードでドラムをまわさないと
うまくモミがはなれない。
ペダルをふみながら稲穂をドラムにあてるのだから、
きゅうくつな姿勢でもあり、
ももの裏側や腰がすぐにいたくなった。
足踏脱穀機.jpg
もうひとつべつの脱穀に「千歯こぎ」がある。
ギザギザの歯をとりつけた道具に穂をあてて、
ひきぬきながらモミをとりのぞく方法だ。
しくみとしては簡単だけど、ものすごく効率がわるいそうで、
罪人の拷問につかわれるくらい たいへんな仕事らしい。
それにくらべたら、足踏脱穀機は はるかにマシだろう。

けっきょく3時間ほどですべての脱穀をおえる。
とりわけたモミは20キロ程度で、
これをさらにモミすり機にかけたら
もっとすくなくなる。
田んぼにまいたのは2.7キロの種モミで、
その10倍にもならなかったのだから、
ずいぶん残念な米づくりだ。

脱穀はおわったものの、
まだたくさんのワラが モミのなかにまぎれこんでいる。
ふつうならここでトーミという機械にかけて、
モミとワラをわけるのだけど、
わたしの場合は量がすくないから 手作業でまにあう。
天気がいい日に、さいごの仕事としてとりくもう。

このまえみた映画『イントゥ・ザ・ワイルド』では、
アメリカの大平原で麦を収穫する場面があった。
10メートルくらいの刃をつけた
ものすごくおおきな収穫用の車を
何台もならべてはしらせる。
かりとられた穂はすぐに脱穀され、
収穫用の車と平行してはしっているトラックに
どんどんながしこまれていく。
あまりにも規模がちがいすぎ、あたまがクラクラしてきた。
日本のコンバインなんか、
むこうではおもちゃみたいなものだろう。

何キロもつづく畑で作物をそだてると、
どうしてもああした大型の機械が必要になる。
おなじ農業といっても、なにもかもがまったく異質であり、
日本の収穫とは まったくべつの仕事にしかみえない。
しかし、よくもわるくも
こうした超大型の機械で収穫するのを前提に、
世界の食料事情はなりたっている。
足踏脱穀機で、ガソリンをつかわずに農業ができるのは
きっとすごくしあわせなくらしだ。

posted by カルピス at 15:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月19日

Wカップ2次予選 カンボジアのさわやかさが印象にのこる

先日おこなわれたWカップアジア2次予選、
対カンボジア戦は めずらしい試合だった。
2-0でかったとはいえ
内容にはおおいに不満がのこる試合。
それでいて、全体としてはさわやかな印象がのこる。

プノンペンにあるオリンピックスタジアムは、
5万5000人のお客さんでにぎわった。
中東なんかだと、日本のプレーにはげしいブーイングをあびせたり、
ファインプレーも無視したりと、
アウェイ感いっぱいの試合になるところだけど、
カンボジアはまったくちがった。
スタンドからの声援が、すべてのプレーにむけられる。
自分の国の選手たちを応援しつつ、
日本の選手たちのプレーにも歓声をあげる。
サッカーをたのしんでいるのが、
テレビをみていてもつたわってくる。

試合がおわったとき、
2-0でかったにもかかわらず、
ハリルホジッチ監督はベンチにすわり
うなだれていた。
インタビューにこたえる岡崎も、
めずらしくいらだったようすをみせる。
それほどこの試合はおもったようにいかなかった。
チャンスをつくれないばかりか、
あわやというあぶないカウンターをなんどもあびる。
FIFAランキング183位のはるか格下が相手なのに(日本は50位)、
日本のふがいなさだけが目だつ。

なれない人工芝と、はじめてのボール(おもそうだった)に
日本の選手はやりにくそうだ。
でも、そんなことはアウェイで試合するからには
あたりまえの状況にすぎない。
カンボジア選手たちは、かちにこだわるというよりも、
いまの自分たちにできる精一杯のプレーをしようとしていた。
戦術がどうこうではなく、
サッカーをたのしんでいるのは
あきらかにカンボジアのほうだった。

はるか格下だと、相手をみくだしていた日本と、
日本をリスペクトしつつ、
自分たちのもち味をだしきったカンボジア。
Wカップをめざしながら
おもうように強化がすすまずに 欲求不満ぎみの日本は、
ひとり相撲をとっているみたいだ。
ゴチャゴチャと余計な情報にふりまわされ、
ひとりでりきみ、ひとりでずっこけている。
自分たちのたっている場所をみうしない、
不満ばかりをくちにする日本の選手たち。
カンボジアのサッカーを応援したくなった。

posted by カルピス at 12:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月18日

『ギャラクシー街道』傑作だから とちゅうで席をたたないように

『ギャラクシー街道』
(三谷幸喜:監督・2015年・日本)

映画がはじまっても、なかなかその世界にはいりこめない。
だんだんみるのがつらくなってくる。
ギャグがすべり、グロに目をそむけ、下ネタは下品だ。
とつぜんでてくるアニメの犬や小鳥にぜんぜんなじめない。
オープニングはことばだけの状況説明がながらくつづく。
それ自体がこの作品のむちゃぶりを証明しているのでは。

でも、わきだしてくるたくさんのモヤモヤは、
すべてがたくみにしかけられた伏線であり、
ラストですっきり解消される。
とちゅうで席をたちたくなっても、
映画の神さまをしんじて
さいごまでみるようおすすめする。

そもそも未来の世界をリアルに表現するなんてあたりまえで、
これまでたくさんの作品が さんざんチャレンジしてきた。
こまかくやろうとすればするほど
想像力の限界がじゃまをして、
賞味期限のかぎられた作品になってしまう。
『ギャラクシー街道』は、そのハードルを
あえてへたに手をくわえないやり方でのりきった。
ハンバーガーショップ「サンドサンド」は、
なんと現代の地球とおなじ世界だ。
おなじように商品を注文し、
おなじようにつくって、
おなじようにたべている。
常識だっていまとおなじで、
そんな世界を、未来の宇宙と
いいきってしまったところがすごい。

宇宙にあるお店なので、
お客は多少かわったひとがやってくるけど、
それもまた宇宙人だからかわっているのか、
地球人のちょっとかわったひとなのか、
仮装しているからかわってみえるのか、
ほんとうにへんなのかが、だんだんわからなくなってくる。

「デイリーポータルZ」の企画として
林さんが「地味な仮装のハロウィンパーティー」をひらいた。
http://portal.nifty.com/kiji/151107195004_1.htm
たとえば、酒屋さんや はりこみちゅうの刑事に「仮装」されても
それが「仮装」なのかいつもの服装なのか
みてるひとにはわからない。
わたしの普段着だって、
10年まえのさえないオヤジに仮装したといえば、
地味な仮装として立派に通用する。
服装やひとの顔・形によるちがいは、
いったいなにをあらわしているのかと、
わたしたちは 本質的な疑問にぶちあたることとなる。

『ギャラクシー街道』もそんなかんじだ。
たしかに地球人とちがう顔のひともでてくるけど、
そのひとが何星人であり、男か女かなんて
どうでもいいような気がしてくる。
はなし方や態度が地球人とちがっているようにみえても、
そんな特徴の宇宙人かもしれないし、
すこしかわった地球人かもしれない。
どこがどうちがうと宇宙人なのかなんて、
だれにもわからない。

という舞台設定がのみこめると、
『ギャラクシー街道』の世界がスッとなじんでくる。
ここは未来の宇宙だけど、
いまの地球とおなじでどこがわるい。
ブレイカーがおちると、配電盤をあけ、
さがっているスイッチをもとにもどす。
SFだからといってスマートにととのっているのではなく、
まったくいまとおなじでなんの問題もない。
ワープロ専用機がでてくるくらいだから、
むしろ過去にもどっているところが かえって未来っぽい。

この作品でためされているのは
みる側の想像力だ。
地味なみかけにだまされないで、
仮装の本質にどれだけせまれるか。

みかけだけでまったくさえない正義の味方に
「なにやってんだ」
「役たたず!」
「おちこんでんじゃないわよ!」
なんてわたしもヤジをとばしてみたい。
「ギャラクシー街道」は、姿・形ではなく
なにをやったかが評価される正当な社会だ。

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2015年11月17日

『ニライカナイからの手紙』

『ニライカナイからの手紙』
(熊澤尚人:監督・2005年・日本)

この作品も『桐島、部活やめるってよ』のなかで
名前があがっていた。
『ジョゼと虎と魚たち』
『チルソクの夏』
『きょうのできごと』
そしてこの『ニライカナイからの手紙』と、
『桐島、〜』にはずいぶんお世話になった。
どれもそれぞれわたしの胸にひびく
すばらしい作品だった。

オープニングでは、お母さんと女の子が
浜辺でふざけあっている。
みるからになかのよさそうな親子だ。
あんなにたのしそうにわが子とあそんでいたお母さんが、
4歳のむすめをおいて島をでていくという。
理由をよくしらされないまま、
お母さんはなかなか島にかえってこない。
ときどきとどく手紙には、
「お母さんはもうすこし東京にのこることになりました」
とかかれている。
どんな理由があろうとも、
なんであんなちいさな子をおいて
東京になんかいくんだと、
わたしは母親をせめる。

風希(ふうき)が20歳になったときにすべてをはなすと
お母さんからの手紙にはあった。
風希は毎年うけとる手紙にはげまされ、
島のひとたちからもかわいがられて
素直な子にそだっていく。
高校を卒業すると、風希は島をでて東京にむかい、
写真の仕事につく。
20歳になった日に、まちあわせの場所に風希がむかうと、
そこには島にいるはずのおじいさんがまっていた。
(以下ネタバレ)

毎年かならず誕生日にとどく母親からの手紙は、
彼女が死ぬまえに かきためておいたものだった。
彼女がまだ自分のむすめぐらいおさなかったころ、
母親が死んでしまい、とてもさみしいおもいをした。
成長していくむすめに、自分もまた
なにもしてやれないけれど、
自分が母親にいってほしかったことを
わが子には ぜんぶつたえたたいとおもった。
「わたしはどうしても風希のなかだけでは
生きていたかった」と彼女は自分のおもいを手紙にのこす。
わが子がおとなになるまで、
生きて応援するのが たったひとつの夢だったから。

沖縄地方には、海のはるかむこうに「ニライカナイ」とよばれ、
神さまのすむ理想の世界があるという世界観が
うけつがれているという。
風希への手紙は、そのニライカナイからとどけられた。

ふつうなら、死ぬ直前まで
できるだけたくさんの時間をわが子とすごし、
ふたりですごしたおもいでをつくろうとするだろう。
でも、風希のお母さんのおもいはちがっていた。
こんなやり方をしてでも、
なんとかむすめをはげましつづけようとした彼女のおもいを
風希はうけとめる。
これまでにうけとってきた お母さんからの手紙をよみかえし、
風希はおおつぶのなみだをボロボロこぼす。

posted by カルピス at 12:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月16日

『ハートブレイク・カフェ』(ビリー=レッツ)

『ハートブレイク・カフェ』(ビリー=レッツ・文春文庫)

なんとかカフェというタイトルをみると、
つい映画『バクダット・カフェ』を連想する。
あたらずといえども とおからず。
でも やっぱりちょっとちがう。
どこがちがうのかをかんがえると、
それがこの作品の特徴になりそうだ。

『バクダット・カフェ』では、
旅行者であるドイツ人女性(ジャスミン)が
カフェではたらきはじめると、
店の雰囲気がガラッとかわってくる。
映画のスタートがはっきりしていて、
いちども過去へもどったりしない。
『ハートブレイク・カフェ』も田舎町にある
さえないカフェが舞台だけど、
『バクダット・カフェ』におけるジャスミンのような
特定のキーパーソンはいない。
店をまかなうメンバーと常連客が、
おたがいをみとめあいながら、
カフェを味のある場所にしている。
善人としてばかりえがいてあるのではない。
ちゃんとよわさや いやな面もかいてありながら、
よみおえたあとのさわやかさが 格別にここちよい。

オーナーのケイニーはベトナム戦争の帰還兵だ。
戦場でうたれて下半身マヒとなり、車イスにすわっている。
カフェをひらいてから12年ものあいだ、
まだいちども店のそとにでたことがない。
店を手つだいながら、
なにかとケイニーの世話をやきたがるモリー・Oは
娘との関係がうまくいかない。
そんなカフェに、ネイティブアメリカンの女性ヴィーナと、
ベトナム人難民のブーイが店にやってきたことから
ものがたりがうごきはじめる。
彼らの過去が すこしずつあきらかにされていくなかで、
それぞれのかかえている課題がからまりあい、
これからどう生きていくのかが姿をみせる。

『ハートブレイク・カフェ』は日本語版のタイトル名であり、
原作名は「ホンク&ホラー近日開店」となっている。
なんのことかというと、
カフェの名前は「ホンク&ホラー」だけど、
オープンするまでの準備期間も宣伝になればと
「近日開店」というフレーズをパネルにいれるよう
ケイニーが注文したのだ。
そのフレーズだけは とりはずしのきく看板のはずだったのに、
ばっちりネオンパネルにまでいれられてしまった。
ネオンになっていまうと、
もうとりけせないし、つくりかえられない。
オープンするまでは つじつまがあっていた「近日開店」も、
いったん店がひらかれると、
それからさき永久に「近日開店」であり
ジョークのネタにしかならない。
お店のトホホなもち味が、
このときすでに約束されてしまった。

すくなくない登場人物の概況をつかむまで、すこし時間がかかる。
主要メンバーの配置があたまにおさまれば、
あとはどっぷりと「ホンク&ホラー近日開店」の世界だ。
いつまでもカフェの仲間たちとすごしていたくなる。
こんな店なら めちゃくちゃいそがしくてもいいから
はたらいてみたい、なんて
なまけもののわたしでさえおもった。
お仕事小説であり、
地域再生ものがたりとしてもよめ、
ベトナム帰還兵ものともいえるし、
家族小説や、恋愛小説でもある。
やたらとふところのひろい本だ。

でてくる犬と馬が、当然のこととして大切にされるのが
よんでいてここちよかった。
人間だけでなく、動物たちも
めでたしめでたしとなるおはなしだ。

posted by カルピス at 11:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月15日

2016年版 鷹の爪卓上カレンダー

2016年版の鷹の爪卓上カレンダーをかう(864円)。
「島根スーパーデラックス自虐カレンダー」
というのが 正式名称のようだ。
壁かけ用もならべておいてあったけど、
こちらは1512円とすこしたかいので、
値さがりをまつことにする。

かんたんにこのカレンダーについて説明すると、
日本一めだたないといわれる島根県の特徴を逆手にとり、
自虐ギャグが月ごとにそえられている。
カレンダーとして致命的なのは、祝日がわからない。
つまり、数字がぜんぶおなじ色ですられているので、
曜日を確認するためだけにしかつかえないという、
実用にあまりむかないつくりだ。
好意的にとらえると、世界征服をめざす鷹の爪なのだから、
世界の各地域でつかうことをかんがえ、
日本の祝日をいちいちカレンダーに
しるすわけにはいかないのかもしれない。
2016年版は、これまでにないこころみとして、
ひとけたの日には「01・02・03」というふうに、
ゼロをつけてしるされている。
カレンダーとしては、はじめてみる表記だけど、
なれないせいか すこしうるさい気がする。
だからどうなんだ、というかんじ。
2011年に800部からスタートした『島根自虐カレンダー』は、3000部売れたらヒットと言われているカレンダー業界の中で、2014年に450%増の3万6000部を完売。昨年も2万6000部の大ヒットとなった

というからすごい人気商品だ。
とはいえ、きょねんはすりすぎてしまったようで、
年をこしてから値さげしてうられていた。
冒頭で、壁かけカレンダーの値さがりをまつ、とかいたのは
ことしもあんがいおなじことがおこるかも、という
ファンとしてどうなんだ的な期待があるからだ。

2016年のカレンダーは、「島根都構想」をテーマにしているという。
http://鷹の爪.jp/jigyaku2016/
自虐だけではなく、
「全国にほこりたい、主張したいことがもりこまれて」いると
吉田くんがアピールしていた。
まじめに島根を自虐したそうだから、
そろそろ自虐という行為そのものを
とらえなおす時期にきていると、
「鷹の爪」サイドが判断しているのかもしれない。
自虐のつぎにくる島根県ネタは、どんな形になるのだろうか。

posted by カルピス at 11:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鷹の爪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月14日

『ダンスがすんだ』(フジモトマサル)絵と回文がつくる絶妙な世界

『ダンスがすんだ』(フジモトマサル・新潮社)

奇書といっていいだろう。
回文による一冊。回文だけの文章。
ただ回文をあつめて本にしたのではなく、
回文によってストーリーがかたられている。

でありながら、フジモトさんの絵がなければ
ストーリーがまったく機能しないところも
奇書たるゆえんだ。
絵と回文をあわせた、
みごとなバランスによって本書はなりたっている。

この本を手にしたとき、
わたしは『ハートブレイク・カフェ』をよみおえたばかりだった。
どっぷり「近日オープンカフェ」につかっていたので、
すぐにまったくちがう小説にはむかえそうになく、
でもなにか本をよむたのしさの余韻にひたりたかった。

そんなときにこの『ダンスがすんだ』はぴったりだ。
でてくるひとたち(ネコたちも)は、
みんななにやらカゲがありそうなハードボイルドの世界。
だれもが自分なりのスタイルでとてもやさしい。
フジモトさんの絵は、
『村上さんのところ』ではじめて目にした。
この本では、なんといっても全身で人情味をかんじさせる
ネコたちがすばらしいけれど、
もうひとりお医者さんの奥さんに
助演女優賞的な魅力がある。
わたしは彼女の繊細な表情にまいってしまった。
お医者さんは彼女のもとにかえってくるだろうか。

たくさんの回文を目にすると、
かんたんに回文ができるような気がしてくるけど、
ためしにつくろうとしても まったく歯がたたない。
回文って、日本語だからできるあそびだろうか。
ネットをみると、英語でも回文があるようで、
日本語よりもつくるのがむつかしそうだ。
この本をよんだあとには、
目にはいる文章のおおくが回文におもえ
いちいちたしかめるようになる。

オビも回文だし、「おわりに」も回文まじりだ。
一冊まるごと回文をたのしみながら、
あくまでもフジモトさんの絵でなければ
この本はなりたたないところがすごい。

ネコたちがあつまって、
仲間の死をいたむ絵には、
お墓に「2018〜2034」とほられている。
死ぬ直前まで肉体労働にたずさわっていたとすると
享年16歳は、ネコとしてたいした大往生だといえる。
ということはまあいいとして、
いまが2034年というからには、
このものがたりは未来をかたっているわけで、
そのわりにはいまの世界と
たいしてかわらないようすがえがかれている。
世界は物質的に もう煮つまっており、
このさきは それぞれが内面にかかえる闇で
勝負する時代となるのだ。
回文のひとつもつくれないようでは、
2034年の世界で生きのこれない。

posted by カルピス at 11:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月13日

縄文時代と稲作の関係をすっきりさせたい

NHKスペシャルで縄文時代についての番組をみた。
http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/46/2586502/index.html
本格的な農耕をとりいれず、1万年もにわたり
狩猟採集をつづけた縄文時代のような社会は、
世界にも例がないという。

といわれても、あまりピンとこない。
縄文時代についてのわたしの知識が
あまりにもふたしかだからだ。

農耕をうけいれなかったのは、
その必要がなかったからで、
狩猟採集によってじゅうぶんな食料を手にいれていたのだろう。
人間、というよりもすべての生物は保守的だから、
よほどの必要がなければそれまでのパターンをくずさずに
生きていこうとするはずだ。

林雄司さんの名作に、「稲作をプレゼンする」がある。
http://portal.nifty.com/kiji/140501164001_1.htm
紀元前10世紀に、渡来人が縄文人にたいして
稲作へ移行したときのメリットをプレゼンテーションしたら、
という設定だ。
パワーポイントまではつかわなかったとしても、
似たような説明会が 縄文時代にはおこなわれていたのではないか。
イケてる渡来人たちに
「稲作はすてきですよ」といわれてもなお、
縄文人がなびかなかったのは、
それだけ安定したくらしが実現できていたのだろう。

縄文時代に関心があるつもりなのに、
縄文時代についてのいくつかの情報が、
ゴタゴタとあたまにほうりこまれているだけで、
けっきょくどのように稲作がひろまったのかが
すっきりと整理できていない。
縄文時代ときいてわたしがおもいうかべるのは照葉樹林文化で、
照葉樹林文化では、焼畑をしていたのだから、
縄文時代にも農耕があったとわたしはおもっていた。
それに、1万年にわたる狩猟採集がめずらしといったって、
そもそもアフリカをでたホモサピエンスは、
何万年ものあいだ狩猟採集でたべていたのではないか。
すべてが混沌と闇のなかだ。

縄文時代と稲作のひろがりについて、
林さんのプレゼンくらい
あざやかな説明ができるようになりたい。

posted by カルピス at 13:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月12日

なにが「in」だ

「〜 in ◯◯」というイベント名が なんとかならないものか。
たとえば「つなひき日本選手権大会 in 島根」。
日本語のなかに英語をまぜる神経がわからない。
「The 漫才」の The はジョークだけど、
「in 島根」には あそびごころがない。本気だ。
こんなばかげたいい方は、
すぐにすたれるだろうとおもっていたのに、
もうずいぶんながいことつかわれている。
すっかりイベント名として定着したのかもしれない。

「デイリーポータルZ」にのった江ノ島さんの記事、
「指についたポテトチップスでどれがうまいのか選手権in実家」は、
http://portal.nifty.com/kiji/151110195016_1.htm
うまいタイトルなので感心した。
これくらい害のないつかい方だと「in」もわるくないとおもう。
江ノ島さんは、「in」のはずかしさを理解しているのだろう。
「in」にふさわしいのは、ごくちいさなあつまりだ。

ラジオをきいていると、曲を紹介するときに
このごろよく「楽曲」ということばを耳にする。
なんだ「楽曲」って。
なんか気どってないか?
「曲」ではなんでいけないんだろう。

「〜すぎる」も気になる。
「うつくしすぎる◯◯」とか。
自分はつかうまいといましめる。

posted by カルピス at 14:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年11月11日

文句をいわずにそうじする

「web本の雑誌」に連載されている
荻原魚雷さんの「日常学事始」が
ひきこもりぎみのわたしにいいかんじだ。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/
お金がなくても楽しく暮らす。そのために必要なちょっとした工夫とは?

がコンセプトで、自炊をはじめるにあたり、
いちばん最初に挑戦する「料理」や、
賞味期限はいつまで?など、
ひとりでくらすときの(ひとりでなくてもいいけど)
ささやかなテクニックが紹介されている。

わたしにありがたかった記事は「換気と金魚」で、
「とりあえず、窓をあけて換気をする」効用がかかれている。
なんでもないようでいて、これがとても気もちよかった。
朝おきると、とりあえず部屋の窓をあける。
さむい日でもとにかくあける。
目がさめても、おなじ空気のままでは
ズルズルとだるさをひきずりやすいけど、
ほんの5分でも窓をあけるだけで
てきめんに気分がかわる。

こうした具体的なテクニックがありがたい。
ちょっとしたコツをしることで、
スイッチがはいりやすくなる。
無意識に仕事をすすめられたらいいけど、
そんなちからはわたしにないので、
こうやってささやかなコツをつみかさね、
なんとかその日をのりこえるしかない。
わたしの「日常学事始」としては、
「文句をいわずにそうじする」をおすすめしたい。

中学校の同級生に、一生懸命そうじをするやつがいて、
そいつがかっこよかった。
ハデさはないけど、なんとなくみんなが
いちもく おきたくなる存在で、
わたしもなかよくつきあいながら
いろんなところをマネしていた。
そうじはまじめにやる、もそのひとつだ。
中学生にもなると、そうじ時間は
ブーブー文句をいうだけでほとんど手をうごかさず
ちんたらすごすのがふつうだ。
でも彼は、なにもいわずにテキパキとうごき、
雑巾がけでさえ一生懸命やっていた。
わたしが「そうじなんてだるくて」みたいなことをいっても、
その友だちは とくに否定しないけれど、
せっせと手をうごかしていた。
そのうちわたしは えらそうにグチをいうよりも、
ちゃんととりくんだほうがずっとスマートなことに気づき、
いっしょに雑巾がけをするようになる。

彼がそうじをまじめにするのは、
自分がよごしたからではないし、
もちろん先生にいわれたからでもない。
そうじ時間をしらせるチャイムがなると、
あたりまえのこととして そうじにとりくむ。
いっしょにやってみるとわかるけど、
そうじ時間をだらだらすごすよりも、
からだをしっかりうごかしたほうが気もちがいい。
彼は、そうじに道徳的な意味をおいていたのではないはずだ。
彼のおかげでグチをいうかっこわるさをしり、
そんな時間があったら、手をうごかしたほうがいいと
おもうようになった。

そうじには不思議なちからがあって、
なんでかわからないけど、
いろんなことがいい方向にむかう。
就職してからも、仕事はともかく
そうじだけはまじめにやったので、
わたしはなんどかほめられた。
いい習慣をおしえてくれたその友だちのことを、
ときどきおもいだす。
窓をあけ、まじめにそうじさえしたら、
たいていのことはうまくいくのではないか。

posted by カルピス at 14:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする