『イントゥ・ザ・ワイルド』
(ショーン=ペン監督・2007年・アメリカ)
ジョン=クラカワーの『荒野へ』を映画化した作品だ。
何年かまえに原作をよみはじめたけど、
とちゅうでやめてしまった。
なにごとも極端におもえる 主人公の青年についていけなかった。
なぜじゅうぶんな装備をもたず、
冬のアラスカにとどまろうとしたのかがわからない。
ダットサンの燃費がすごくよかったことだけをおぼえている。
映画をみてみると、
これは青春記に独特の狂気をあつかっただけではなく、
家族のものがたりでもあったことに気づく。
両親の夫婦関係、両親との親子関係に
アレックスはおさないころから
批判的にならざるをえなかった。
アレックスにとって、両親を否定することが
ものやお金に価値をおかない生きかたにつながっていく。
アレックスは大学を卒業するとすぐに放浪の旅にでる。
口座にのこっていたお金を寄付し、
旅さきでも必要でないお金をもやしたりして
ものにたよらない精神世界をもとめる。
彼とであったおとなたちのおおくは、
ピュアすぎる彼にとまどいながらもふかい共感をしめす。
わかいころのおろかなふるまいとだけでは
かたずけられないなにかを
彼とことばをかわしたひとは かんじずにおれない。
彼がくちにすることばは
そんなにめあたらしいわけではない。
「あたらしい経験は人生をゆたかにする」
「人生のたのしみは人間関係だけじゃない」
「しあわせが現実になるのは、
だれかとわかちあうとき」
そんなことはわかりきったことで、
いまさらいわれなくてもわかっている。
でも、放浪の旅をつづける彼からこのことばをきくと、
ひとつひとつが胸にひびいてくる。
彼のことばは、どれも身銭をはらった経験に
うらうちされたものばかりだ。
アレックスはささいなアクシデントにより、
アラスカの荒野で死んでしまった。
無事に山からおりたとしたら、
アレックスはその後をどう生きただろう。
2015年11月10日
2015年11月09日
ピピのよだれに胸をあつくする
ピピをひざにのせたまましばらくパソコンにむかう。
お昼ごはんの時間になったので、
ピピをそっともちあげて、イスのうえにおろす。
わたしのズボンにしみができている。
爆睡していたピピが、よだれをこぼしていた。
ちなみによだれのことを出雲弁で「ごぼず」という。
ディープな地域では、これがさらに「ごぼぢ」となる。
ピピのはよだれというよりも、
この「ごぼぢ」がしっくりくるけれど、
なんのことかわからなくなるので、
ここでは「よだれ」としてはなしをすすめる。
ズボンがぬれたので、そこだけひんやりとつめたい。
ピピは口内炎をわずらっているため口臭がきつく、
したがってよだれもかなりつよいにおいがする。
でも、わたしはわるい気がしなかった。
こんなシミをつけてくれるピピをいとおしくおもい、
さらにいえばしあわせをかんじた。
家でかわれるネコのかずが、
もうすぐ犬をぬいて多数派になりそうだと、
すこしまえの新聞にかいてあった。
かいぬしの高齢化から、散歩やしつけの手間がかからない
ネコをえらぶひとがふえているらしい。
けれど、たくさんのネコずきがいるなかで、
どれだけのひとがネコによだれをつけてもらえるだろう
(ピピが病気なだけだけど)。
ピピはそれほど安心しきってわたしのひざのうえでまるくなり、
おおきなシミができるほど ふかいねむりをむさぼった。
昼ごはんをたべてるあいだじゅう
ズボンからたちのぼってくる よだれのにおいをかいでいると、
胸があたたかくなってきた。
どんなときにしあわせをかんじたかは、
あんがいこたえにくい。
高価なものが必要なわけではなく、
全体の雰囲気がカギになりそうだ。
ちいさなころ、お母さんが夕ごはんの声をかけてくれたとき、
なんていうひともいた。
さんまさんの「ポン酢醤油」のように、
ふだんは気づかない ささやかなものがおおいかもしれない。
ピピのよだれは おもいがけずわたしに
しあわせなひとときをもたらしてくれた。
お昼ごはんの時間になったので、
ピピをそっともちあげて、イスのうえにおろす。
わたしのズボンにしみができている。
爆睡していたピピが、よだれをこぼしていた。
ちなみによだれのことを出雲弁で「ごぼず」という。
ディープな地域では、これがさらに「ごぼぢ」となる。
ピピのはよだれというよりも、
この「ごぼぢ」がしっくりくるけれど、
なんのことかわからなくなるので、
ここでは「よだれ」としてはなしをすすめる。
ズボンがぬれたので、そこだけひんやりとつめたい。
ピピは口内炎をわずらっているため口臭がきつく、
したがってよだれもかなりつよいにおいがする。
でも、わたしはわるい気がしなかった。
こんなシミをつけてくれるピピをいとおしくおもい、
さらにいえばしあわせをかんじた。
家でかわれるネコのかずが、
もうすぐ犬をぬいて多数派になりそうだと、
すこしまえの新聞にかいてあった。
かいぬしの高齢化から、散歩やしつけの手間がかからない
ネコをえらぶひとがふえているらしい。
けれど、たくさんのネコずきがいるなかで、
どれだけのひとがネコによだれをつけてもらえるだろう
(ピピが病気なだけだけど)。
ピピはそれほど安心しきってわたしのひざのうえでまるくなり、
おおきなシミができるほど ふかいねむりをむさぼった。
昼ごはんをたべてるあいだじゅう
ズボンからたちのぼってくる よだれのにおいをかいでいると、
胸があたたかくなってきた。
どんなときにしあわせをかんじたかは、
あんがいこたえにくい。
高価なものが必要なわけではなく、
全体の雰囲気がカギになりそうだ。
ちいさなころ、お母さんが夕ごはんの声をかけてくれたとき、
なんていうひともいた。
さんまさんの「ポン酢醤油」のように、
ふだんは気づかない ささやかなものがおおいかもしれない。
ピピのよだれは おもいがけずわたしに
しあわせなひとときをもたらしてくれた。
2015年11月08日
『極大射程』数年に1冊のやばい本
『極大射程』(スティーブン=ハンター・佐藤和彦:訳)
数年に1冊のやばい本だ。
よみはじめるとすぐにひきこまれ、
スケジュールがめちゃくちゃになる。
よんでいるときはしあわせで、
よみおえたあとはちからがぬけ、
しばらくほかの本があたまにはいらない。
伝説的なすごうでのスナイパーという設定は、
本や映画でめずらしくはない。
彼らのおおくはたかい集中力をたもち、
むつかしい条件のなか 冷静沈着にひきがねをひく一流のプロだ。
しかし、本書の主人公であるボブ=リー=スワガーの特質は、
素質・経験・知識といった一般的な能力だけではない。
彼は、自分とライフルを最高のコンディションにたもちつつ、
ねらった相手ともフェアな関係であろうとする。
彼がライフルとのあいだにきずいてきた世界は、
コミュニケーションがとれるほど親密であり、
ゆるぎない価値体系をつくりあげている。
たかい倍率のスコープをつけた高性能ライフルなら、
だれにでも目標にあたるというものではない。
距離・弾丸の特性・気温・湿度・風むきとつよさ・
目標物との高度差の把握。
なによりも、どんな状況であろうと
リラックスして射撃する瞬間をまつ、豊富な経験が必要だ。
ベトナム戦争で超人的なはたらきをしめしたボブは、
いまはひとりで山にこもり、しずかな生活をおくっている。
そんなボブを罠にはめ、大統領の演説にあわせて
暗殺計画をすすめる組織があった。
ボブはどこかおもわぬ状況に誘導されるのをかんじながら、
難易度のきわめてたかい仕事にひかれ
彼らからの接触をゆるしてしまう。
山場となる狙撃シーンがいくつもあり、
ボブのテクニックがぞんぶんに発揮される。
ふつうのミステリーなら2冊はかけるところだ。
男ばっかりの小説だとおもわせて、
魅力的な女性もちゃんとでてくるし、
さいごには法廷までからんでくるという
いたりつくせりの構成になっている。
悪役となる組織はじゅうぶん強力で、彼らもまたプロであり
ボブがうちころしてもかわいそうにおもわなくてすむ
(そうおもってしまう自分がこわい)。
いちばんいやらしい「敵」だったのがFBIの特別補佐官で、
要所要所にでてきては、
ボブの仲間となるFBI捜査官をネチネチとこきおろす。
クラリスをいたぶった上官とおなじひとみたいだから(気のせい)
レクター博士におねがいして、
脳みそ料理を注文したくなった。
でも大丈夫。ボブがきっちりやりかえしてくれる。
ボブ・リー・スワガーものとしてシリーズになっており、
本書はその1冊目だ。
ボブの仕事ぶりを まだ何冊もよめるのがうれしい。
数年に1冊のやばい本だ。
よみはじめるとすぐにひきこまれ、
スケジュールがめちゃくちゃになる。
よんでいるときはしあわせで、
よみおえたあとはちからがぬけ、
しばらくほかの本があたまにはいらない。
伝説的なすごうでのスナイパーという設定は、
本や映画でめずらしくはない。
彼らのおおくはたかい集中力をたもち、
むつかしい条件のなか 冷静沈着にひきがねをひく一流のプロだ。
しかし、本書の主人公であるボブ=リー=スワガーの特質は、
素質・経験・知識といった一般的な能力だけではない。
彼は、自分とライフルを最高のコンディションにたもちつつ、
ねらった相手ともフェアな関係であろうとする。
彼がライフルとのあいだにきずいてきた世界は、
コミュニケーションがとれるほど親密であり、
ゆるぎない価値体系をつくりあげている。
たかい倍率のスコープをつけた高性能ライフルなら、
だれにでも目標にあたるというものではない。
距離・弾丸の特性・気温・湿度・風むきとつよさ・
目標物との高度差の把握。
なによりも、どんな状況であろうと
リラックスして射撃する瞬間をまつ、豊富な経験が必要だ。
弾道特性表を記憶していたから、150グレーンの弾丸は320ヤードの距離では約10インチ下降することになり、おなじ距離で速度は秒速約2160フィートまで落ちることはすぐに割り出せた。もっとも、アキュティックのこの弾丸は標準よりいくらかすぐれていることもわかっていたから、下降の幅を8インチと推定した。とはいえ、この射撃は下向きだから、水平に撃つときとはいくらか話が違う。角度をつけて撃ち下ろした弾丸は下降が大きくなるので、もう少し多めに見積もらないければならない。
ベトナム戦争で超人的なはたらきをしめしたボブは、
いまはひとりで山にこもり、しずかな生活をおくっている。
そんなボブを罠にはめ、大統領の演説にあわせて
暗殺計画をすすめる組織があった。
ボブはどこかおもわぬ状況に誘導されるのをかんじながら、
難易度のきわめてたかい仕事にひかれ
彼らからの接触をゆるしてしまう。
山場となる狙撃シーンがいくつもあり、
ボブのテクニックがぞんぶんに発揮される。
ふつうのミステリーなら2冊はかけるところだ。
男ばっかりの小説だとおもわせて、
魅力的な女性もちゃんとでてくるし、
さいごには法廷までからんでくるという
いたりつくせりの構成になっている。
悪役となる組織はじゅうぶん強力で、彼らもまたプロであり
ボブがうちころしてもかわいそうにおもわなくてすむ
(そうおもってしまう自分がこわい)。
いちばんいやらしい「敵」だったのがFBIの特別補佐官で、
要所要所にでてきては、
ボブの仲間となるFBI捜査官をネチネチとこきおろす。
クラリスをいたぶった上官とおなじひとみたいだから(気のせい)
レクター博士におねがいして、
脳みそ料理を注文したくなった。
でも大丈夫。ボブがきっちりやりかえしてくれる。
ボブ・リー・スワガーものとしてシリーズになっており、
本書はその1冊目だ。
ボブの仕事ぶりを まだ何冊もよめるのがうれしい。
2015年11月07日
『チルソクの夏』高校時代だけがもつキラキラ
『チルソクの夏』(佐々部清監督・2004年・日本)
『桐島、部活やめるってよ』で
中学生のときの前田くんとかすみが
話題にしていた作品だ。
下関と釜山との親善陸上大会に出場したのがきっかけとなり、
両国の高校生が交際をはじめる。
七夕みたいに、1年にいちど再会する関係だ。
ハングル語で七夕を「チルソク」ということから、
この作品のタイトルがつけられている。
現代の親善大会から画面はスタートし、
26年まえの1977年に場面がうつり、
さいごはまた現代の大会にもどる。
現代→過去→現代と、よくありがちとはいえ
高校時代をふりかえる作品として
効果的な設定だった。
わたしは高校の部活ものによわい。
『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』、
『がんばっていきまっしょい』など、わかい彼らが
高校のときにしかできないかがやきをみせると
それだけでグッときてしまう。
『チルソクの夏』のキモは、
4人組の女子校生のはじけかただ。
なにかにつけキャーキャーおおさわぎし、
顔じゅうでわらい、やたらととびはねる。
エネルギーにみちあふれているのだ。
彼女たちがからだじゅうから発散するキラキラは
高校生のときにしかだせない。
グランドをはしる彼女たちの姿をみているだけで、
わたしは胸があつくなってくる。
26年がすぎ、ふたたび親善大会にあつまったかつての4人組は、
そこらへんにいそうなフツーのおばさんたちだ。
そんな彼女たちにも、高校生のころには
あんなにキラキラしていたときがあった。
かつて高校生だったいまのおじさん・おばさんには
たまらない作品なのではないか。
2004年の女子高生は、
あんなふうに無邪気ではないかもしれない。
いっしょに「なごり雪」をうたったりしないかもしれない。
でも、この作品はこれでいいんだ。
すばらしい青春映画だ。
『桐島、部活やめるってよ』で
中学生のときの前田くんとかすみが
話題にしていた作品だ。
下関と釜山との親善陸上大会に出場したのがきっかけとなり、
両国の高校生が交際をはじめる。
七夕みたいに、1年にいちど再会する関係だ。
ハングル語で七夕を「チルソク」ということから、
この作品のタイトルがつけられている。
現代の親善大会から画面はスタートし、
26年まえの1977年に場面がうつり、
さいごはまた現代の大会にもどる。
現代→過去→現代と、よくありがちとはいえ
高校時代をふりかえる作品として
効果的な設定だった。
わたしは高校の部活ものによわい。
『ウォーターボーイズ』や『スウィングガールズ』、
『がんばっていきまっしょい』など、わかい彼らが
高校のときにしかできないかがやきをみせると
それだけでグッときてしまう。
『チルソクの夏』のキモは、
4人組の女子校生のはじけかただ。
なにかにつけキャーキャーおおさわぎし、
顔じゅうでわらい、やたらととびはねる。
エネルギーにみちあふれているのだ。
彼女たちがからだじゅうから発散するキラキラは
高校生のときにしかだせない。
グランドをはしる彼女たちの姿をみているだけで、
わたしは胸があつくなってくる。
26年がすぎ、ふたたび親善大会にあつまったかつての4人組は、
そこらへんにいそうなフツーのおばさんたちだ。
そんな彼女たちにも、高校生のころには
あんなにキラキラしていたときがあった。
かつて高校生だったいまのおじさん・おばさんには
たまらない作品なのではないか。
2004年の女子高生は、
あんなふうに無邪気ではないかもしれない。
いっしょに「なごり雪」をうたったりしないかもしれない。
でも、この作品はこれでいいんだ。
すばらしい青春映画だ。
2015年11月06日
「50代からのアイドル入門」わたしがしらなかったアイドルをめぐる世界
「web本の雑誌」に大森望さんの
「50代からのアイドル入門」が連載されている。
http://www.webdoku.jp/column/ohmori/
アイドルについてまったく関心のないわたしは、
大森さんのアイドル愛に感心する。
たくさんの本をよみながら、
まだこれだけアイドルに熱中する余力があるのだ。
「余力」というのはまちがいかもしれない。
あまったエネルギーでアイドルをおっかけるのではなく、
アイドルあっての人生であり、優先順位などつけられない。
連載の18回目は握手会について。
サブタイトルは
握手会というたいへんな世界ができあがっていた。
これはなるほどたしかに「長い道」だ。
わたしにはまったくアウェイな世界だし、
内容がものすごく豊富なために、
ざっとよんだくらいでは かいてあることがなかなか理解できない。
ひさしぶりにworkflowyをつかって全体を整理してみる。
こういうときにworkflowyはとても役にたつ。
握手会などを「接触」ビジネスというらしい。
一大産業として市場ができあがっており、
たとえば握手会がCDマーケットをささえている。
大森さんの試算では、AKB48の場合 100万枚のうりあげが可能となる。
グループアイドルの人数がおおくなりがちな理由のひとつは、
この「接触」ビジネスに有利だからだ。
アイドルにとっても、人気の序列が
列のながさにはっきりあらわれるので手をぬけない。
握手会での対応が人気に直結するこわいイベントだ。
「握手会」に参加するためには
たいていの場合まずCDをかわなくてはならない。
そこに「握手券」というのがはいっているわけだけど、
だれと握手できるかまではきめられないから
たくさんのCDをかって確率をたかめることになる。
なぜ「握手会」というものがあるかというと、
もちろんおめあてのアイドルと
握手し、すこしおしゃべりもできるからだ。
おしゃべりのために時間がとってあるのではなく、
握手するついでに、ほんのすこしことばをかわすだけだけど、
それでも「推しメン」とはなせるのはすごいことらしい。
自分からもとめて握手会にでかけたのに、
いざ「推しメン」をまえにすると
プレッシャーからなにもいえなくなってしまうひともいる。
そんなひとのために
『AKB48握手会完全攻略ガチマニュアル』
『乃木坂46 握手会へ行こう! メッチャ攻略ブック』
などの対策本もだされているという。
まさに「ビジネス」としてすべてが市場となる。
この連載をよむと、
たしかにアイドルをめぐる状況がわかるけど、
でも、だからといってわたしが
アイドルへむかうかというと、まったくそんな気にはならない。
アイドルがすきなひとは、年齢や方法がうんぬんではなく、
ほっておいてもかってに「推しメン」命になるのではないか。
反対に、わたしみたいにその気がない人間は、
たのしむコツをおしえられてもまずうごかない。
アイドルをめぐるオタクたちのエネルギーに感心するばかりだ。
いちどだけ、つきそいとして
「モーニング娘。」のコンサートにでかけたことがある。
おっかけているらしい、地元民ではないオタクたちが、
ごく自然にうたっておどっている。
わたしには理解できないはげしい情熱をかんじた。
そんななかに、いまでは大森さんのような
中年のおっさんもまじっているのだろう。
まえは「かわったひとたち」として
そんなファンをみていたけれど、
いまではなんだか わたしのほうがずれている気になってくる。
「50代からのアイドル入門」が連載されている。
http://www.webdoku.jp/column/ohmori/
アイドルは若者だけのものではない!中高年のためのアイドルの楽しみ方、教えます。がコンセプトだ。
アイドルについてまったく関心のないわたしは、
大森さんのアイドル愛に感心する。
たくさんの本をよみながら、
まだこれだけアイドルに熱中する余力があるのだ。
「余力」というのはまちがいかもしれない。
あまったエネルギーでアイドルをおっかけるのではなく、
アイドルあっての人生であり、優先順位などつけられない。
連載の18回目は握手会について。
サブタイトルは
「握手会にはいろんな人が来ます」と指原莉乃(HKT48)は言った。 ----ファースト・コンタクトへの長い道(後編)」わたしがしらないだけで、
握手会というたいへんな世界ができあがっていた。
これはなるほどたしかに「長い道」だ。
わたしにはまったくアウェイな世界だし、
内容がものすごく豊富なために、
ざっとよんだくらいでは かいてあることがなかなか理解できない。
ひさしぶりにworkflowyをつかって全体を整理してみる。
こういうときにworkflowyはとても役にたつ。
握手会などを「接触」ビジネスというらしい。
一大産業として市場ができあがっており、
たとえば握手会がCDマーケットをささえている。
大森さんの試算では、AKB48の場合 100万枚のうりあげが可能となる。
グループアイドルの人数がおおくなりがちな理由のひとつは、
この「接触」ビジネスに有利だからだ。
アイドルにとっても、人気の序列が
列のながさにはっきりあらわれるので手をぬけない。
握手会での対応が人気に直結するこわいイベントだ。
「握手会」に参加するためには
たいていの場合まずCDをかわなくてはならない。
そこに「握手券」というのがはいっているわけだけど、
だれと握手できるかまではきめられないから
たくさんのCDをかって確率をたかめることになる。
なぜ「握手会」というものがあるかというと、
もちろんおめあてのアイドルと
握手し、すこしおしゃべりもできるからだ。
おしゃべりのために時間がとってあるのではなく、
握手するついでに、ほんのすこしことばをかわすだけだけど、
それでも「推しメン」とはなせるのはすごいことらしい。
自分からもとめて握手会にでかけたのに、
いざ「推しメン」をまえにすると
プレッシャーからなにもいえなくなってしまうひともいる。
そんなひとのために
『AKB48握手会完全攻略ガチマニュアル』
『乃木坂46 握手会へ行こう! メッチャ攻略ブック』
などの対策本もだされているという。
まさに「ビジネス」としてすべてが市場となる。
この連載をよむと、
たしかにアイドルをめぐる状況がわかるけど、
でも、だからといってわたしが
アイドルへむかうかというと、まったくそんな気にはならない。
アイドルがすきなひとは、年齢や方法がうんぬんではなく、
ほっておいてもかってに「推しメン」命になるのではないか。
反対に、わたしみたいにその気がない人間は、
たのしむコツをおしえられてもまずうごかない。
アイドルをめぐるオタクたちのエネルギーに感心するばかりだ。
いちどだけ、つきそいとして
「モーニング娘。」のコンサートにでかけたことがある。
おっかけているらしい、地元民ではないオタクたちが、
ごく自然にうたっておどっている。
わたしには理解できないはげしい情熱をかんじた。
そんななかに、いまでは大森さんのような
中年のおっさんもまじっているのだろう。
まえは「かわったひとたち」として
そんなファンをみていたけれど、
いまではなんだか わたしのほうがずれている気になってくる。
2015年11月05日
『ザ・ロード』マッカーシーの原作を どう映像化したか
『ザ・ロード』(ジョン=ヒルコート監督・2009年・アメリカ)
コーマック=マッカーシーの原作が、
どう映像化されただろうか。
原作では、なんの説明もないまま、
親子がいきものの死にたえた世界をあるきまわる。
つめたい雨や雪のなかを こごえそうになりながら
ただひたすら南へむかう旅をつづける。
つかれはて、たべものも もうすぐなくなりそうだ。
よみながら あまりのつらさに、
もうかんべんしてくれといいたくなる。
もうすこしシェルターをみつけるのがおそくなり、
ひといきつけなかったら、
ふたりとも死んでいたにちがいない。
ギリギリで、希望のない旅だ。
映画は、原作をほぼ忠実になぞっている。
それほどさむさが強調されていないせいか、
あるいは ふたりともあまりやせほそっていないからか、
あまりお腹をすかせているようにはみえない。
シェルターにめぐりあえたのは、
ほし草の山からハリをみつけたような
ありえないほどの幸運だったはずなのに、
映画をみていると よくあるできごとにみえる。
よく健闘したといえるけど、
原作ほどの絶望的な世界を 映画は表現できなかった。
男は、まだ妻といっしょにくらしていた
かつての生活を ときどきおもいだす。
彼女はかわりはてた世界に絶望し、
生きる道をえらばなかった。
彼にしても、むすこがいなければ
とてもまえにむかえなかっただろう。
さいわいむすこはやさしい少年にそだった。
「善き人」の存在をむすこはしんじ、
善き人を希望としてふたりは南へむかう。
そんな絶望的な状況のなか、
よわっていた父親がとうとう死んでしまう。
ひとりになるのがどれだけつらくても、
少年は生きつづけなければならない。
生きつづけろと、父親はむすこにいいきかせてきた。
少年が父親にたいしてできるのは、生きることだけだ。
父親の死といれかわるようにわかい男があらわれて、
少年についてこいという。
「あなたは善き人?」と少年がたずねると、
「そうだ」と、その男がこたえたからだ。
サッカー選手のロナウジーニョに似ていて、
あまり誠実そうにはみえなかったけど、
少年はついていこうときめる。
少年は、男の家族と合流する。
子どもがふたりに犬もいた。
自分がうけいれられた少年は直感する。
善き人とめぐりあえて ほんとうによかった。
これほどおもい内容なのに、
みおわったあとで希望をかんじるのだから、
映画化は成功したといえるかもしれない。
コーマック=マッカーシーの原作が、
どう映像化されただろうか。
原作では、なんの説明もないまま、
親子がいきものの死にたえた世界をあるきまわる。
つめたい雨や雪のなかを こごえそうになりながら
ただひたすら南へむかう旅をつづける。
つかれはて、たべものも もうすぐなくなりそうだ。
よみながら あまりのつらさに、
もうかんべんしてくれといいたくなる。
もうすこしシェルターをみつけるのがおそくなり、
ひといきつけなかったら、
ふたりとも死んでいたにちがいない。
ギリギリで、希望のない旅だ。
映画は、原作をほぼ忠実になぞっている。
それほどさむさが強調されていないせいか、
あるいは ふたりともあまりやせほそっていないからか、
あまりお腹をすかせているようにはみえない。
シェルターにめぐりあえたのは、
ほし草の山からハリをみつけたような
ありえないほどの幸運だったはずなのに、
映画をみていると よくあるできごとにみえる。
よく健闘したといえるけど、
原作ほどの絶望的な世界を 映画は表現できなかった。
男は、まだ妻といっしょにくらしていた
かつての生活を ときどきおもいだす。
彼女はかわりはてた世界に絶望し、
生きる道をえらばなかった。
彼にしても、むすこがいなければ
とてもまえにむかえなかっただろう。
さいわいむすこはやさしい少年にそだった。
「善き人」の存在をむすこはしんじ、
善き人を希望としてふたりは南へむかう。
そんな絶望的な状況のなか、
よわっていた父親がとうとう死んでしまう。
ひとりになるのがどれだけつらくても、
少年は生きつづけなければならない。
生きつづけろと、父親はむすこにいいきかせてきた。
少年が父親にたいしてできるのは、生きることだけだ。
父親の死といれかわるようにわかい男があらわれて、
少年についてこいという。
「あなたは善き人?」と少年がたずねると、
「そうだ」と、その男がこたえたからだ。
サッカー選手のロナウジーニョに似ていて、
あまり誠実そうにはみえなかったけど、
少年はついていこうときめる。
少年は、男の家族と合流する。
子どもがふたりに犬もいた。
自分がうけいれられた少年は直感する。
善き人とめぐりあえて ほんとうによかった。
これほどおもい内容なのに、
みおわったあとで希望をかんじるのだから、
映画化は成功したといえるかもしれない。
2015年11月04日
白鳥にお茶がらをあつめたころ
近所のドブ川に、2羽の白鳥がうかんでいた。
きれいな白鳥と、まったくきれいでない川との差が目をひく。
わざわざこんなよごれた川に
こなくてもよさそうなのに。
そういえば、小学生のとき、
白鳥のエサとしてお茶がらをあつめて学校へもっていった。
シベリアからとんできて、お腹をすかせた白鳥を、
みんなで歓迎しましょう、みたいな趣旨だったとおもう。
子どもたちがお茶がらをあつめると、
いかにもうつくしいはなしにきこえる。
ネットをみると、新潟県の瓢湖が
お茶がらあつめのおこりだという。
ここではほかにもくず米やパンくずがあたえられているそうだ。
「茶壺 (茶皮) を 白鳥に給与 した結果 と知見」という、
http://www.tml.co.jp/jswan/pdf2/5-11.pdf#search=%27%E7%99%BD%E9%B3%A5+%E8%8C%B6%E3%81%8C%E3%82%89%27
論文みたいな記事もあがっている。
ここではお茶がらをたべることが、
白鳥にあたえる生理的な影響についてかかれていて、
お茶がらといえども学問の雰囲気がただよう。
しかし、そもそも白鳥に食事を提供する行為は、
はたしてただしいのだろうか。
野性の動物をえづけする根拠はなにか。
お茶がらやパンくずにつられて、
たとえばカモがやってきた場合には、
どんなあつかいをうけるのだろう。
神社のハトや池のコイにエサをあたえるのとおなじと
わりきっていいのだろうか。
白鳥が、もしうつくしい姿を理由に優遇されているとしたら
へんなはなしだ。
きっと白鳥のえづけにも推進派と反対派がいて、
それぞれがしんじる理由から
エサをあげたりあげなかったりしているのだろう。
エサよりも、白鳥にてきした環境をまもるほうが
大切ではないかと わたしはおもう。
米子の水鳥公園へいったとき、
巣からおちてまいごになっている野鳥のヒナを、
たすけてはいけないと、ポスターにかいてあった。
人間がヒナをさわってしまうと、
親鳥が世話をしなくなるらしい。
そんなふうに根拠をしめされると納得できる。
野性の動物とのつきあいは、
ヒューマニズムではやっていけないだろう。
いまでも小学校はお茶がらをあつめているのだろうか。
白鳥へのえづけは、すっきり説明されているのろうか。
きれいな白鳥と、まったくきれいでない川との差が目をひく。
わざわざこんなよごれた川に
こなくてもよさそうなのに。
そういえば、小学生のとき、
白鳥のエサとしてお茶がらをあつめて学校へもっていった。
シベリアからとんできて、お腹をすかせた白鳥を、
みんなで歓迎しましょう、みたいな趣旨だったとおもう。
子どもたちがお茶がらをあつめると、
いかにもうつくしいはなしにきこえる。
ネットをみると、新潟県の瓢湖が
お茶がらあつめのおこりだという。
ここではほかにもくず米やパンくずがあたえられているそうだ。
「茶壺 (茶皮) を 白鳥に給与 した結果 と知見」という、
http://www.tml.co.jp/jswan/pdf2/5-11.pdf#search=%27%E7%99%BD%E9%B3%A5+%E8%8C%B6%E3%81%8C%E3%82%89%27
論文みたいな記事もあがっている。
ここではお茶がらをたべることが、
白鳥にあたえる生理的な影響についてかかれていて、
お茶がらといえども学問の雰囲気がただよう。
しかし、そもそも白鳥に食事を提供する行為は、
はたしてただしいのだろうか。
野性の動物をえづけする根拠はなにか。
お茶がらやパンくずにつられて、
たとえばカモがやってきた場合には、
どんなあつかいをうけるのだろう。
神社のハトや池のコイにエサをあたえるのとおなじと
わりきっていいのだろうか。
白鳥が、もしうつくしい姿を理由に優遇されているとしたら
へんなはなしだ。
きっと白鳥のえづけにも推進派と反対派がいて、
それぞれがしんじる理由から
エサをあげたりあげなかったりしているのだろう。
エサよりも、白鳥にてきした環境をまもるほうが
大切ではないかと わたしはおもう。
米子の水鳥公園へいったとき、
巣からおちてまいごになっている野鳥のヒナを、
たすけてはいけないと、ポスターにかいてあった。
人間がヒナをさわってしまうと、
親鳥が世話をしなくなるらしい。
そんなふうに根拠をしめされると納得できる。
野性の動物とのつきあいは、
ヒューマニズムではやっていけないだろう。
いまでも小学校はお茶がらをあつめているのだろうか。
白鳥へのえづけは、すっきり説明されているのろうか。
2015年11月03日
発達のふしめ
きのうの朝日新聞で、川上未映子さんが
子そだての「イヤイヤ期」に
こころがおれた体験をかたっている。
いうことはきいてくれないし、
かんしゃくをおこすしで、
「素晴らしい贈り物のような3年間だったけど、
こんなしんどい3年間はもうない!って感じです」。
3歳をすぎると子そだてはスッと楽になる。
それまでの3年間は、それほどたいへんな時期だ。
わたしはむすこの子そだてちゅうに、
たまたま発達についての勉強会に参加し、
子どもが成長する過程の知識をえた。
これからどうそだっていくのかのみとおしがもて、
とてもありがたい情報だった。
子そだてがたいへんなのは客観的な事実だけれど、
こころがまえがあるかないかで ずいぶんちがってくる。
子どもたちの成長は、右肩あがりの一直線ではなく、
なだらかな階段をのぼるときのように
いち段ごとにしばらくの停滞期間がある。
そのたいらな時期に子どもたちはちからをつけて、
つぎの段階にすすんでゆく。
そのいくつかの段差は「発達のふしめ」とよばれていて、
あたらしいちからを獲得していく過程で
どうしてもくぐりぬけなければならない
ポイントとなっている。
ひとりでやらないと気がすまない時期があるし、
なんにでも「イヤ」と、
とにかくいうことをきかないときもある。
そんなとき、親が手つだおうとしたり、
理屈でわからせようとしても子どもにはつうじないので、
おとなからは「わがままな子」「あつかいにくい子」にうつる。
いずれもつぎの段階にすすむにあたり必要なちからであり、
それがなければあたらしいステージにたてない。
というようなことを、情報としてしっていたので、
あまり子そだてにイライラせずにすんだようにおもう。
それぐらいのことは、いまでは常識なのだろうか。
わたしの場合、説明してくれたひとのうまさに
すくわれたのかもしれない。
川上未映子さんは、「イヤイヤ期」として
ふしめをとらえながらも、
なおこころがおれるぐらいだから、
おさない子とむきあうのは ほんとうにたいへんだ。
子どもによって こだわりのつよさに差があるとはいえ、
夜中になんどもおこされ、おおなきされれば、
だれだってへとへとになる。
そんなときに、かならずとおらなければならない
発達のふしめとうけとめられたら
気もちがずいぶん楽になるのではないか。
おとながすることすべてにかかわろうとしてきたり、
とりあえず「イヤ」という時期がくると、
これがあのふしめなのかと、
あんがい余裕をもってうけいれられる。
こまかくて正確な知識でなくても、
「発達のふしめ」というものがあると、
おおざっぱにしっているだけでいい。
ささやかな知識だけど
わたしにはとてもありがたい勉強会だった。
子そだての「イヤイヤ期」に
こころがおれた体験をかたっている。
いうことはきいてくれないし、
かんしゃくをおこすしで、
「素晴らしい贈り物のような3年間だったけど、
こんなしんどい3年間はもうない!って感じです」。
3歳をすぎると子そだてはスッと楽になる。
それまでの3年間は、それほどたいへんな時期だ。
わたしはむすこの子そだてちゅうに、
たまたま発達についての勉強会に参加し、
子どもが成長する過程の知識をえた。
これからどうそだっていくのかのみとおしがもて、
とてもありがたい情報だった。
子そだてがたいへんなのは客観的な事実だけれど、
こころがまえがあるかないかで ずいぶんちがってくる。
子どもたちの成長は、右肩あがりの一直線ではなく、
なだらかな階段をのぼるときのように
いち段ごとにしばらくの停滞期間がある。
そのたいらな時期に子どもたちはちからをつけて、
つぎの段階にすすんでゆく。
そのいくつかの段差は「発達のふしめ」とよばれていて、
あたらしいちからを獲得していく過程で
どうしてもくぐりぬけなければならない
ポイントとなっている。
ひとりでやらないと気がすまない時期があるし、
なんにでも「イヤ」と、
とにかくいうことをきかないときもある。
そんなとき、親が手つだおうとしたり、
理屈でわからせようとしても子どもにはつうじないので、
おとなからは「わがままな子」「あつかいにくい子」にうつる。
いずれもつぎの段階にすすむにあたり必要なちからであり、
それがなければあたらしいステージにたてない。
というようなことを、情報としてしっていたので、
あまり子そだてにイライラせずにすんだようにおもう。
それぐらいのことは、いまでは常識なのだろうか。
わたしの場合、説明してくれたひとのうまさに
すくわれたのかもしれない。
川上未映子さんは、「イヤイヤ期」として
ふしめをとらえながらも、
なおこころがおれるぐらいだから、
おさない子とむきあうのは ほんとうにたいへんだ。
子どもによって こだわりのつよさに差があるとはいえ、
夜中になんどもおこされ、おおなきされれば、
だれだってへとへとになる。
そんなときに、かならずとおらなければならない
発達のふしめとうけとめられたら
気もちがずいぶん楽になるのではないか。
おとながすることすべてにかかわろうとしてきたり、
とりあえず「イヤ」という時期がくると、
これがあのふしめなのかと、
あんがい余裕をもってうけいれられる。
こまかくて正確な知識でなくても、
「発達のふしめ」というものがあると、
おおざっぱにしっているだけでいい。
ささやかな知識だけど
わたしにはとてもありがたい勉強会だった。
2015年11月02日
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』
『マイ・ブルーベリー・ナイツ』(ウォン・カーウァイ監督・2008年)
『ホテルローヤル』(桜木紫乃)にでてきた映画だ。
ホテルローヤルをたたみ、これからひとりでくらそうとする雅代に、
業者の宮川がたずねる。
ネットをみていたら、利根川健一さんが
とてもうまくこの作品をあらわしている。
http://ren-ai.jp/5583
なぜ「ブルーベリーパイ」なのかもよくわかる。
そう。でもね、からがこの作品のもち味で、
ああだこうだいうのはヤボになる。
ノラ=ジョーンズのきまじめそうな表情がよかった。
どこかの町で、淡々と日課をこなし
しずかに生きるのもわるくないな、なんて
たしかにおもえてくる。
みおわったあとで、
オーティス=レディングのレコードをききながら
ウィスキーをのむ。
ジェレミーがエリザベス(ノラ=ジョーンズ)をさがして
メンフィスじゅうのカフェに電話をすると、
どの店もフライドチキンの注文とまちがえるのがおかしかった。
ブルーベリーパイは、あしたさがしてみよう。
いつもながら影響をうけやすい。
『ホテルローヤル』(桜木紫乃)にでてきた映画だ。
ホテルローヤルをたたみ、これからひとりでくらそうとする雅代に、
業者の宮川がたずねる。
「これからどうするんですか。すむ場所や仕事はもうお決まりですか」
「どっちもない」(中略)
「さっき、屋根の上を鶴が飛んでた。あんなふうにしばらくのあいだ、車であちこち行きながら、住みたい場所を探そうかなって思ってるの。冬まではまだ間があるし。なんだか夢みたいな話でしょう」(中略)
「女の人ひとりで、そんなあてのない暮らしができるもんでしょうかね」
「宮川さんは『マイ・ブルーベリー・ナイツ』って映画観たことない?ノラ・ジョーンズが出てるやつ。ああいうのをイメージしてるんだけど」
ネットをみていたら、利根川健一さんが
とてもうまくこの作品をあらわしている。
http://ren-ai.jp/5583
なぜ「ブルーベリーパイ」なのかもよくわかる。
1シーン1シーンがとてもお洒落で、お洒落なフリをしたい人にもお勧め(笑)。「失恋して、旅に出て、変わって、戻ってきたが今までと違うぞ!」みたいなよくある話なんですよ。でもね、
そう。でもね、からがこの作品のもち味で、
ああだこうだいうのはヤボになる。
ノラ=ジョーンズのきまじめそうな表情がよかった。
どこかの町で、淡々と日課をこなし
しずかに生きるのもわるくないな、なんて
たしかにおもえてくる。
みおわったあとで、
オーティス=レディングのレコードをききながら
ウィスキーをのむ。
ジェレミーがエリザベス(ノラ=ジョーンズ)をさがして
メンフィスじゅうのカフェに電話をすると、
どの店もフライドチキンの注文とまちがえるのがおかしかった。
ブルーベリーパイは、あしたさがしてみよう。
いつもながら影響をうけやすい。
2015年11月01日
あなたがそうおもってるだけ
「ま、いいか」「きっとうまくいく」など、
気らくにしてくれることばがいろいろあるなかで、
「あなたがそうおもってるだけ」というのも
かなり上位にくるのではないか。
なにしろそれはあなたの意見にすぎなくて、
わたしとは関係ないと はっきりつきはなしているから、
そこでもうふたりの会話はおわっている。
そのさき建設的なはなしあいになる可能性は
かなりうすい。
たとえばきのうの新聞に、
出口治明氏の『本物の教養』という本の
広告がでていた。
・「自分の頭で考えられる」ことが教養
・謙虚でなければ教養は身につかない
・速読は百害あって一利なし
など、章ごとの項目が紹介してある。
いつものわたしだと、
それらのひとつひとつに感心してしまい、
ひるがえって自分がいかにつまらない人間かと
下をむきがちだけど、
「あなたがそうおもってるだけ」といいかえせば
まったくなんの問題もない。
たいていの発言は、
「あなたがそうおもっているだけ」であり、
ひとつのかんがえ方にすぎない。
(『本物の教養』が、つまらない本といっているのではない。
あくまでも「たとえば」のはなし)。
新書のタイトルで
「◯◯しなさい」「◯◯するな」など
上から目線のものがあると反発したくなる。
断定的で、ひとの意見をとりいれる余地などなさそうだ。
「あなたがそうおもってるだけ」と、
わたしはいつもあいの手をいれる。
村上春樹さんは
「そういうものだ」と「それがどうした」を
「人生における2大キーワード」にあげている
(『村上朝日堂はいほー!』)。
このふたつは、おもに自分にいいきかせるタイプのフレーズで、
いっぽう「あなたが〜」は
相手にいいかえすとき 役だつだろう。
あんまり連発せずに、
お腹のなかでつぶやくだけのほうが
人間関係のためにはいいかもしれない。
とはいえ、もしだれかに「あなたが〜」といわれたとしても、
それほどショックはうけないのではないか。
相手をやりこめるというよりも、かわすときにちからを発揮する。
攻撃よりもうけ身が得意だ。
みかけほど危険な表現ではない。
村上さんは、
と注意がきもそえている。
「あなたが〜」も、たしかにその「ほどほど」がむつかしい。
気らくにしてくれることばがいろいろあるなかで、
「あなたがそうおもってるだけ」というのも
かなり上位にくるのではないか。
なにしろそれはあなたの意見にすぎなくて、
わたしとは関係ないと はっきりつきはなしているから、
そこでもうふたりの会話はおわっている。
そのさき建設的なはなしあいになる可能性は
かなりうすい。
たとえばきのうの新聞に、
出口治明氏の『本物の教養』という本の
広告がでていた。
・「自分の頭で考えられる」ことが教養
・謙虚でなければ教養は身につかない
・速読は百害あって一利なし
など、章ごとの項目が紹介してある。
いつものわたしだと、
それらのひとつひとつに感心してしまい、
ひるがえって自分がいかにつまらない人間かと
下をむきがちだけど、
「あなたがそうおもってるだけ」といいかえせば
まったくなんの問題もない。
たいていの発言は、
「あなたがそうおもっているだけ」であり、
ひとつのかんがえ方にすぎない。
(『本物の教養』が、つまらない本といっているのではない。
あくまでも「たとえば」のはなし)。
新書のタイトルで
「◯◯しなさい」「◯◯するな」など
上から目線のものがあると反発したくなる。
断定的で、ひとの意見をとりいれる余地などなさそうだ。
「あなたがそうおもってるだけ」と、
わたしはいつもあいの手をいれる。
村上春樹さんは
「そういうものだ」と「それがどうした」を
「人生における2大キーワード」にあげている
(『村上朝日堂はいほー!』)。
このふたつは、おもに自分にいいきかせるタイプのフレーズで、
いっぽう「あなたが〜」は
相手にいいかえすとき 役だつだろう。
あんまり連発せずに、
お腹のなかでつぶやくだけのほうが
人間関係のためにはいいかもしれない。
とはいえ、もしだれかに「あなたが〜」といわれたとしても、
それほどショックはうけないのではないか。
相手をやりこめるというよりも、かわすときにちからを発揮する。
攻撃よりもうけ身が得意だ。
みかけほど危険な表現ではない。
村上さんは、
こういう考え方に基いて生きていると、気楽に生きていくことはできるけれど、人間的にまず向上しない。(中略)物事にはほどほどというのが必要である。
と注意がきもそえている。
「あなたが〜」も、たしかにその「ほどほど」がむつかしい。