2015年11月18日

『ギャラクシー街道』傑作だから とちゅうで席をたたないように

『ギャラクシー街道』
(三谷幸喜:監督・2015年・日本)

映画がはじまっても、なかなかその世界にはいりこめない。
だんだんみるのがつらくなってくる。
ギャグがすべり、グロに目をそむけ、下ネタは下品だ。
とつぜんでてくるアニメの犬や小鳥にぜんぜんなじめない。
オープニングはことばだけの状況説明がながらくつづく。
それ自体がこの作品のむちゃぶりを証明しているのでは。

でも、わきだしてくるたくさんのモヤモヤは、
すべてがたくみにしかけられた伏線であり、
ラストですっきり解消される。
とちゅうで席をたちたくなっても、
映画の神さまをしんじて
さいごまでみるようおすすめする。

そもそも未来の世界をリアルに表現するなんてあたりまえで、
これまでたくさんの作品が さんざんチャレンジしてきた。
こまかくやろうとすればするほど
想像力の限界がじゃまをして、
賞味期限のかぎられた作品になってしまう。
『ギャラクシー街道』は、そのハードルを
あえてへたに手をくわえないやり方でのりきった。
ハンバーガーショップ「サンドサンド」は、
なんと現代の地球とおなじ世界だ。
おなじように商品を注文し、
おなじようにつくって、
おなじようにたべている。
常識だっていまとおなじで、
そんな世界を、未来の宇宙と
いいきってしまったところがすごい。

宇宙にあるお店なので、
お客は多少かわったひとがやってくるけど、
それもまた宇宙人だからかわっているのか、
地球人のちょっとかわったひとなのか、
仮装しているからかわってみえるのか、
ほんとうにへんなのかが、だんだんわからなくなってくる。

「デイリーポータルZ」の企画として
林さんが「地味な仮装のハロウィンパーティー」をひらいた。
http://portal.nifty.com/kiji/151107195004_1.htm
たとえば、酒屋さんや はりこみちゅうの刑事に「仮装」されても
それが「仮装」なのかいつもの服装なのか
みてるひとにはわからない。
わたしの普段着だって、
10年まえのさえないオヤジに仮装したといえば、
地味な仮装として立派に通用する。
服装やひとの顔・形によるちがいは、
いったいなにをあらわしているのかと、
わたしたちは 本質的な疑問にぶちあたることとなる。

『ギャラクシー街道』もそんなかんじだ。
たしかに地球人とちがう顔のひともでてくるけど、
そのひとが何星人であり、男か女かなんて
どうでもいいような気がしてくる。
はなし方や態度が地球人とちがっているようにみえても、
そんな特徴の宇宙人かもしれないし、
すこしかわった地球人かもしれない。
どこがどうちがうと宇宙人なのかなんて、
だれにもわからない。

という舞台設定がのみこめると、
『ギャラクシー街道』の世界がスッとなじんでくる。
ここは未来の宇宙だけど、
いまの地球とおなじでどこがわるい。
ブレイカーがおちると、配電盤をあけ、
さがっているスイッチをもとにもどす。
SFだからといってスマートにととのっているのではなく、
まったくいまとおなじでなんの問題もない。
ワープロ専用機がでてくるくらいだから、
むしろ過去にもどっているところが かえって未来っぽい。

この作品でためされているのは
みる側の想像力だ。
地味なみかけにだまされないで、
仮装の本質にどれだけせまれるか。

みかけだけでまったくさえない正義の味方に
「なにやってんだ」
「役たたず!」
「おちこんでんじゃないわよ!」
なんてわたしもヤジをとばしてみたい。
「ギャラクシー街道」は、姿・形ではなく
なにをやったかが評価される正当な社会だ。

posted by カルピス at 16:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする