2015年11月26日

せっかくとれたお米は残念な味だった

コイン精米機でモミを白米に精米し、
田んぼをかしてくれた方と、
米づくりでなにかとお世話になった方へお礼にいく。
できれば5キロくらいもっていきたかったけど、
とれた量がすくなかったので、
1升(1.4キロ)という「気もちだけ」になってしまった。
でもまあ、これでようやく米づくりのすべてがおわり
ひと安心だ。
来年は、10倍くらいたくさんの収穫になるだろう。

その日の夕方、わたしもその米をたべてみる。
自分が苦労してそだてた作物は、
気もちがこもっているだけに 格別おいしい、
なんてよくいうけど、
それはあるていどの基準をみたしているときだ。
空腹は最良の料理人、ともいうのもおなじで、
気もちや空腹で味はごまかせない。
それはそれ、これはこれのシビアな世界だ。
おいしいものはおいしいし、
おいしくないものは、
すこしぐらいおなかがへっていても おいしくない。

残念ながら、わたしのお米もそうだった。
炊飯器のふたをあけたときは、
湯気とともに いいかおりがたちのぼり、
これはきっとおいしいにちがいないと 期待がたかまった。
でも、たべてみたら ぜんぜん特別な味ではない。
むしろうまみがないといったほうが正確で、
おかずといっしょでなければ、ハシがあまりすすまない。
こんなお米を5キロもあげたら、りっぱないじわるだろう。
わたしがもしも縄文人で、大陸からきたひとたちが
稲作のプレゼンをやったとしても、
http://portal.nifty.com/kiji/140501164001_1.htm
このていどの味だったら
むりして米をつくるより、
どんぐりのままでいいや、とおもうにちがいない。

ミレーの「落穂ひろい」という有名な絵は、
その名のとおり、畑におちている穂をひろっている。
麦のかりとりがおわったあとでも、
きっとたくさんの穂が 畑にとりこぼされていたのだろう。
わたしが収穫したイネも、
かなりの量が「落穂ひろい」であつめたものだ。
田んぼにおちている穂だけでなく、
かりとった株のなかには、いくらかの穂がのこされている。
そのままにしておくのはもったいないけど、
しょせんはとりこぼされた穂であって、
しっかりモミがついているわけではない。
なかにはスカスカの穂もまじっている。

そんな穂をあつめたお米が
おいしくないのはとうぜんであり、
お腹のたしになるだけありがたいというのが
落穂のただしい位置づけだ。
「落穂ひろい米」は、名画とは関係がなく、
それなりの味でしかなかった。
来年は、落穂をぜんぶスズメにプレゼントできるくらい、
ガツガツしないお米づくりにしたい。
落穂ひろいはめんどくさいし。

posted by カルピス at 14:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする