コイン精米機でモミを白米に精米し、
田んぼをかしてくれた方と、
米づくりでなにかとお世話になった方へお礼にいく。
できれば5キロくらいもっていきたかったけど、
とれた量がすくなかったので、
1升(1.4キロ)という「気もちだけ」になってしまった。
でもまあ、これでようやく米づくりのすべてがおわり
ひと安心だ。
来年は、10倍くらいたくさんの収穫になるだろう。
その日の夕方、わたしもその米をたべてみる。
自分が苦労してそだてた作物は、
気もちがこもっているだけに 格別おいしい、
なんてよくいうけど、
それはあるていどの基準をみたしているときだ。
空腹は最良の料理人、ともいうのもおなじで、
気もちや空腹で味はごまかせない。
それはそれ、これはこれのシビアな世界だ。
おいしいものはおいしいし、
おいしくないものは、
すこしぐらいおなかがへっていても おいしくない。
残念ながら、わたしのお米もそうだった。
炊飯器のふたをあけたときは、
湯気とともに いいかおりがたちのぼり、
これはきっとおいしいにちがいないと 期待がたかまった。
でも、たべてみたら ぜんぜん特別な味ではない。
むしろうまみがないといったほうが正確で、
おかずといっしょでなければ、ハシがあまりすすまない。
こんなお米を5キロもあげたら、りっぱないじわるだろう。
わたしがもしも縄文人で、大陸からきたひとたちが
稲作のプレゼンをやったとしても、
http://portal.nifty.com/kiji/140501164001_1.htm
このていどの味だったら
むりして米をつくるより、
どんぐりのままでいいや、とおもうにちがいない。
ミレーの「落穂ひろい」という有名な絵は、
その名のとおり、畑におちている穂をひろっている。
麦のかりとりがおわったあとでも、
きっとたくさんの穂が 畑にとりこぼされていたのだろう。
わたしが収穫したイネも、
かなりの量が「落穂ひろい」であつめたものだ。
田んぼにおちている穂だけでなく、
かりとった株のなかには、いくらかの穂がのこされている。
そのままにしておくのはもったいないけど、
しょせんはとりこぼされた穂であって、
しっかりモミがついているわけではない。
なかにはスカスカの穂もまじっている。
そんな穂をあつめたお米が
おいしくないのはとうぜんであり、
お腹のたしになるだけありがたいというのが
落穂のただしい位置づけだ。
「落穂ひろい米」は、名画とは関係がなく、
それなりの味でしかなかった。
来年は、落穂をぜんぶスズメにプレゼントできるくらい、
ガツガツしないお米づくりにしたい。
落穂ひろいはめんどくさいし。