2015年12月11日

『ONCEダブリンの街角で』うつくしい主題歌が 耳からはなれない

『ONCEダブリンの街角で』
( ジョン=カーニー:監督・2007年・アイルランド)

ダブリンのまちかどで、
男がいつものようにギターをひきながら
自分でつくった曲をうたっている。
ひとりの女性が曲にひかれ はなしかけてきた。
男ははじめ女性をじゃけんにあつかっていたが、
みじかいやりとりをするうちに
しだいにうちとけていく。
女性はチェコからきた移民で、
ピアノをじょうずにひき、自分でも曲をつくっていた。
音楽をつうじて ふたりの気もちが かよいあってくる。
自分の曲でデビューする夢をかなえようと、
男はプロモーションCDをつくり、ロンドンでうりこもうとする。

ストーリーをかくと、
よくありがちな若者の 夢ものがたりみたいだけど、
うたわれている曲がすばらしく、作品をリアルにしている。
映画のなかでなんどもうたわれるので、
耳についてはなれなくなった。
この曲をうろうとするのは、おろかな願望ではなく、
リスクをかけるだけの値うちがあると おもわせてくれる。

みるからにお金のかかってなさそうな作品で、
ドキュメンタリーかとおもった。
男も、移民の女性も、
いかにもお金に縁がなさそうだ。
「まずしい」と表現されてはいないけど、
わずかなお金を大切にしくらしている。

わたしはこうした貧乏なはなしがすきみたいだ。
中高年の貧乏は絵にならないけど、
若者がすくないお金をやりくりするのはただしい。
この作品で印象にのこるのは、
「貧乏」な場面だ。
男にもらったCDを女性がきいていると、
ポータブルプレーヤーの電池がきれてしまった。
しかし彼女の家にある電気製品には、代用できるものがない。
「あとでかえすから」と
むすめの貯金箱から小銭をだして女性はコンビニへいく。
乾電池をかうとすぐにCDをスタートさせ、
曲をくちずさみながら家にかえる。

レコーディングするのにも、じゅうぶんなお金はない。
3000ユーロといわれたスタジオ代を2000にねぎり、
銀行にかけあって金をかり(担当職員のまえでうたって説得し)、
うでのたちそうなストリート・ミュージシャンをさそい、
自宅でリハーサルをし、
ようやくレコーディングにこぎつける。
じゅうじつしたレコーディングのもと、CDができあがった。
男はCDを手に、ロンドンへでかけようとする。
女性もさそったけど、なんとなくかわされてしまった。
男にとって、これからは曲のうりこみという、
つぎのステージがはじまる。

この作品は、制作費が15万ドルなのだという。
「貧乏」は作品のなかだけでなく、
製作そのものが「貧乏」ななかでおこなわれた。
それでもいい作品にしあがったのは、
音楽の質のたかさが説得力をもたせているからだ。
にたような作品はつくれても、
ふたりがうたう場面だけは どうにもマネできない。
作品全体からうける印象が、
リアルだけど どこか現実でないかんじがするのは、
チェコからきた女性の 不思議な雰囲気のせいだろう。
やさしくて ちからづよい主題歌が、
彼らのよろこびとかなしみといっしょになって、
いつまでも頭にのこる。

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2015年12月10日

Iターンのおふたりによる自然農法での田舎ぐらし

地元のニュースで自然農法により野菜づくりをしている
妹尾さんご夫婦がとりあげられた。
おふたりとも都会からのIターンなのだそうだ。
都会でのくらしに疑問をかんじ、
島根にひっこしてこられた。
結婚されたのは、島根でしりあってからだ。
農村で一軒家をかり、自給自足の生活をめざしておられる。
ほんの5分ほどの紹介だったので、
くわしいことはわからない。

画面では、大豆を収穫するようすがうつされた。
奥さんはかまどでお米をたいておられる。
ガスをつかっておられないのだろうか。
都会からおとずれた方にツアーを用意して、
自然農法による畑を案内し、
とれた野菜でつくった料理を 味わってもらっていた。
試食した女性は、味がこゆくてすごくおいしいと
おどろいておられた。

妹尾さん(夫)に田舎ぐらしの感想をたずねると、
手ごたえをかんじているとともに、
じゅうぶんな収穫がなかったり、
お金がこころぼそくなったときの
不安をかたられている。
さきのことをかんがえると、
首すじというか、背中というか、
うしろのほうがスースーしてくるのかもしれない。
その不安をかかえながら
ジタバタとなんとかやっていくしかない。
いいはなしだなーとおもった。
野菜づくりだけでは
きっと現金収入がたりないだろうから、
なにかほかの仕事もされているのだろう。
お米をどうやってつくっているのかなど、
番組だけでは くわしい情報がすくない。
もうすこしつっこんで取材してほしかった。

妹尾さんたちは、そうやってじっさいに
田舎ぐらしをはじめられたのだから たいしたものだ。
あとはやめないで つづけていけば きっとうまくいく。
わたしがのぞむのも、米や野菜づくりをしながらの、
なるべくお金をつかわないくらしだ。
島根にすむわたしは、Iターンほどの覚悟がなくても
かんたんに田舎ぐらしをはじめられるのに、
いまはまだ、ようやくお米づくりをはじめたにすぎない。
志をおなじくするひとはたくさんいる。
妹尾さんのくらしをみたら、気もちがかるくなってきた。

posted by カルピス at 14:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月09日

『ベンジャミン・バトン』大団円もありえたのでは

『ベンジャミン・バトン』
(デヴィッド=フィンチャー:監督・2008年・アメリカ)

ベンジャミンは80歳の老人として生まれ、
成長するにつれてわかがえっていく。
わかがえるといっても そうみえるだけで、
じっさいは実年齢におうじた精神と肉体である。

そうわかっていながら、
ついみかけの年齢でとらえてしまう。
女あそびにつれていかれたとき、
老人だとおもうから たいへんそうだけど、
ほんとは高校生くらいのわかものなのだから 超絶倫だ。
はじめのころのベンジャミンは、
わかがえっていく自分をたのしんでいる。
しかしだんだんと、
ほかのひととは逆方向の成長にとまどっていく。
永遠にわかがえるのではなく、
自分だけが死にむかってわかがえっていく。

老人と赤ちゃんの相性のよさが
この作品をおちつかせている。
ベンジャミンがそだったのは
ひろってくれた養母がつとめる老人ホームだ。
老人たちは、赤ちゃんなのにしわくちゃのベンジャミンを
奇妙な存在とはせずに、ごくあたりまえの子としてうけいれる。
ほかの場所でなら、みにくい赤ちゃんとして
気もちわるがられるにちがいないベンジャミンは、
この老人ホームのおかげで
まわりから愛されてそだち、自分を否定せずにすんだ。
なんねんか「成長」したのち、
ベンジャミンはかわった赤ちゃんではなく、ふつうの老人となる。
老人にみえるけど、内面は少年のベンジャミンは、
老人たちのなかで、あたりまえの少年時代をすごしていく。
老人ホームという設定でなければ
こうすんなりとは すすまなかった。

人生の中間地点である40歳くらいのとき、
ベンジャミンはまわりのひとたちと
違和感なくつきあっていけた。
しかし、それからさきは
すれちがいがおおきくなるばかりだ。
わかがえり、少年にむかっていくベンジャミンと、
着実に年をとっていく妻とむすめ。
ベンジャミンはふたりのまえからすがたをけした。

わからないのは、それから12年後に、
なぜベンジャミンはふたたびふたりのもとにかえってきたのか。
50代の妻 デイジーにくらべ、ベンジャミンはあまりにも若々しい。
デイジーは再婚し、おちついたくらしをきずいていた。
いまさらベンジャミンとやりなおす気にはなれない。
ベンジャミンは、これから少年へと若がえっていく自分に、
さいごのくぎりをつけたかったのだろうか。

でも、よくかんがえてみると、
わかがえっていく自分を
そんなに悲観しないといけないだろうか。
旅になどでずに、ずっと老人ホームでくらしていれば、
だんだんとわかがえりながら、
さいごは赤ちゃんとしてうけいれてもらえたのではないか。

少年としてデイジーのもとにあらわれたベンジャミンは、
記憶をうしない、ひとからさわられるのをいやがる。
みかけが少年なだけで、
内面は認知症の傾向がでてきた老人だ。
デイジーのほうはおだやかに年をとっていったのに、
ベンジャミンの老化は残酷にえがかれている。
みかけはちがうものの、
ほんとうは ふたりとも似たような実年齢なのに。
ふたりの老化がちがう形をとったため、
かわいそうなはなしにおもえるけれど、
めでたしめでたしというさいごもあったのではないか。
それともあのラストは、あれで
めでたしめでたしだったのだろうか。

posted by カルピス at 15:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月08日

福岡マラソンの実況と解説がおもしろかった

日曜日におこなわれた福岡マラソンをみていたら、
バイクのうしろに松岡修造さんがのって
選手たちのようすをつたえていた。
松岡さんは、マラソンのレースをみるのがはじめてのようで、
スピードとピッチのはやさ・迫力におどろき、
そのおどろきを そのままことばにだしている。

アナウンサーが松岡さんにコメントをもとめると、
まるでスタジオにいるように、
おちつきはらった声がきこえてくる。
たとえば台風の状況をつたえるアナウンサーは、
現場の迫力をあらわそうと、
あわただしいはなし方になるけれど、
松岡さんの場合は、まったく反対のあらわれ方だ。
とてもバイクのうしろからはなす声とはおもえない。
あつい発言でしられる松岡さんが、
しみじみと感心し、そのおどろきをつきつめたら、
こういう表現になるのかと、興味ぶかい実況だった。

松岡さんらしかったのは、
アナウンサーからたずねられているのに、
こたえる相手が瀬古さんだけにかぎられていた。
自分の疑問・感想を、瀬古さんにじっくりたずねる形で、
ふたりだけの世界をつくろうとする。
実況というよりも、
まるでふたりだけでおしゃべりをしてるみたいに、
ほかのひとの存在が意識にない。
画面をみると、バイクのうしろで
さかんに口や手をうごかしている松岡さんがみえる。
そのうごきは情熱的なのに、
おちつきはらった声とのズレがおかしい。

瀬古さんの解説は、いつものように
気もちのつよさをもとめる発言がおおい。
レース展開を分析するときに、
「ここですこしやすんで」
「ふたりでちからをあわせ」
というのがいかにも瀬古さんらしかった。
やすんで、というのは、
すこしベースをおとすだけのことだし、
ふたりで、というのも
いっしょにはしる選手をつかまえたら、
ふたりではしることで
自分の意欲をかきたてよう、という意味であり、
べつにチームメイトにであったわけではない。
今回のレースは、キロ3分という、
めちゃくちゃはやいペースで
スタートからペースメーカーがひっぱっていた。
それを、ほんの数秒おとすのが
瀬古さんのいう「すこしやすんで」なのだから、
マラソンというのはたいへんな競技だ。

「すこしやすんで」
「ふたりでちからをあわせ」
なにがおきても
瀬古さんはそれをはしるちからにかえようとする。
淡々としたはなし方だけど、
めざす方向はものすごくポジティブで、
瀬古だから松岡さんとのコンビがなりたったのだろう。
どの競技にしても、いくところまでいって
たかみへとつきぬけたひとの発言はおもしろい。

注目されていた川内選手は、
残念ながら10キロ地点でリズムをくずしてしまい、
2時間12分台の8位におわった。
しかし、いったん先頭集団からはなれながら、
ぜったいにレースをなげず、しぶとくはしりつづけて
12分台にまとめたのはすばらしい。
調子をくずしてだせるタイムと順位ではないのだ。
結果としてはリオデジャネイオリンピックが
むつかしくなったけれど、
川内さんらしいレース内容であり、
ますます川内さんがすきになった。

posted by カルピス at 12:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月07日

ネコの「よくできてるなー」っていったいなんだ

「デイリーポータルZ」の「これよくできてんなー」に
ネコの写真がはってあった。
「飼い猫と使い捨てカイロってよく出来てるとおもいませんか?」
とある。
http://portal.nifty.com/kiji/151206195219_1.htm
「これよくできてんなー」は、
文字どおり、よくできているとおもうものに
いまさらながら感心する企画だ。
つかいすてカイロは たしかによくできているといえるだろう。
でも、「飼い猫」がよくできてるって、なんのことだろう。

ネコとカイロにいたるまでに、
いろいろな「よくできてるなー」が紹介されている。

・イカ
・エビ
・鶏卵
・家畜

そりゃ、自然界に生きるものはどれも
「よくできている」にきまっているとおもうけど、
それはヤボというものだ。
それぞれの「よくできている」点を
もういちどよくかんがえてみると、
たしかに「よくできている」。

肝心のネコ版「よくできてるなー」は、
飼い主は猫を撫でることを好み、猫は撫でられることを好む

という、もってうまれた性質をいうらしい。
かわいいネコをみれば、
なでずにはおれなくなる心理。
それをうけるネコのほうも、
なでられるのがもともとすきなのだから
投稿した方にすれば
「よくできてるなー」になるのだろう。
子犬は?とか、人間の赤ちゃんは?なんて
つっこんではならない。
ここはやはりネコがいちばんおさまりがいい。

記事のトップにかわいいネコの写真があるので、
なんのことかとおもったら、
こんなささやかなはなしだった。
でも、そんなのあたりまえ、ときりすてるよりも、
そうやって いちいち「よくできてるなー」と感心したほうが、
世界はスムーズにまわりそうだ。
わたしはピピをみると なぜなでたくなるのか、
なぜほっぺたにスリスリしたくなるかが わからなかった。
こたえは「よくできている」から、だったのだ。

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2015年12月06日

サンフレッチェ広島の優勝をよろこぶ

チャンピオンシップ2回戦。
まえの試合でアウェイゴール3点をあげた広島が優位、
といわれていたけれど、
試合がはじまるとそんなことは関係なくなる。
ガンバが圧倒的にせめつづけるうちに、
前半29分、今野のボレーシュートで 先取点をとってしまった。
こうなると、心理的に広島がむつかしくなってくる。
ガンバはうしなうものがないぶん、
まよいなくせめてくる。
あと1点いれたらガンバの逆転優勝という
おぜんだてがととのったようで いやなかんじだ。
広島は、このまま0-1でもかてるとはいえ、
試合にまけて優勝をきめるのはすっきりしない。
ガンバとしたら、ねがっていたとおりの試合展開だろう。

後半にはいっても、ガンバの攻勢がつづく。
両チームとも選手交代のカードをきり、
最後の総力戦をきめにかかる。
広島は第1戦とおなじように 浅野と柏をいれる。
ガンバは倉田とパトリックで、
それぞれ自分たちの得意のパターンにもちこもうとする。
スピードをいかした浅野のせめあがりがここちいい。
柏のクロスにとびこんだ浅野が頭であわせ、同点。
それまではいらなかったのが不思議なほど、
きれいにカウンターがきまった。

けっきょく試合は1-1のひきわけでおわり、
第1回戦の結果とあわせ、広島の優勝がきまった。
チャンピオンシップというとりきめを理解しつつも、
年間1位の広島が、3位のガンバに優勝をゆずっては、
気もちがおさまらないところだった。

森保監督へのインタビューでは、
「みなさん、広島のみなさん、
 優勝おめでとうございます」と、
あのうち気そうなひとが声をはりあげて
よろこびをつたえている。
サポーターに感謝のことばをのべることはあっても、
こうやってサポーターを中心にすえたコメントは
なかなかいえない。
この監督は、ずっとサポーター、とりわけ広島のファンを
大切にしてきたのだ。

後半戦がはじまるまえに、
佐藤寿人選手が笑顔で選手たちと
握手をかわしている場面がうつった。
相手はガンバのひかえの選手たちだ。
試合のとちゅうで ふつうそんな握手はしない。
でも、ガンバの選手たちも 笑顔をみせてくれた。
佐藤選手のフェアプレーはいつみても気もちがいいし、
気くばりをかかさない。
選手たちがエキサイトしたときには
かならずあいだにはいってまるくおさめようとする。

キャプテンの青山選手は、
優勝がきまった瞬間になきだした。
ガッツポーズというよりも、
我慢しきれず涙がこぼれたというなきかただ。
このひともインタビューでは
サポーターへの感謝をくちにしている。
くちさきでは なんとでもいえるけど、
青山選手のコメントは、ほんとうにサポーターと
よろこびをわかちあっていた。

第2ステージ、年間かち点、そしてチャンピオンシップと、
広島の安定したつよさが印象にのこる。
優勝するべきチームが、
実力どおりに優勝したことをよろこびたい。
わたしは広島のサポーターではないし、
ガンバのスタイルや選手たちがすきなのに、
広島というチームをみていると、応援したくなってくる。
広島のみなさん、おめでとうございます。

posted by カルピス at 16:58 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月05日

快楽のためのジョギング

ジョギングをしたあとで
ときどきものすごくいい気分になるときがある。
筋トレでからだをうごかすたのしさとはちがい、
かるい負荷をながくつづけたときにだけ、
なんともいえない爽快感をもたらしてくれる(いつもではない)。
ランナーズ・ハイほどすごいトリップではなく、
もうすこしささやかなしあわせだ。
なにか特殊な物質が脳に分泌されるのだろう。
この快感をあじわうために、
わたしは はしっているようなものだ。
はしると気もちがよくなることに、
人類はいつごろから気づいたのだろう。

たとえば、江戸時代に
ジョギングをたしなむひとがいたとはかんがえにくい。
はやおきしたり、仕事のあとで時間をみつけ、
町や野道をはしったりすれば、
まわりのひとからへんな目でみられたことだろう。
かなりひとめをひきそうだ。
縄文時代だって、獲物をおいかける以外の目的で、
たのしみとしてはしるひとがいたとはおもえない。
短距離を全力ではしるのは だれでもできるけど、
ゆっくり・ながくはしる場面はそうおおくない。

古代ギリシャやローマ時代などになると、
兵士の訓練として はしっていたのは想像できる。
ちからくらべみたいなかたちで、
だれがいちばんはやいかをきそうこともあっただろう。
じっとしていては はやくなれないから、
ライバルにかつために、はしってからだをきたえる。
しかし、快感のためにはしるようになったのは
いつのころからだろう。
健康やダイエットがおもな目的となるまえ、
純粋に快楽としてのジョギングの起源はいつか。

わたしからすれば、健康のほうが副産物だ。
ダイエットと関係なくても、
プロポーションにむすびつかなくても、
競争相手にかてなくても、
きのうの自分よりえらくなれなくても、
余命3ヶ月になっても、
わたしはただ快感のためにはしるだろう。

そうおもえるぐらい気もちよくて、
習慣になるのだから、
これはある種の中毒かもしれない。
酒やタバコにくらべてからだにいいのはたしかだし、
お金もかからないから 魔法みたいなききめだ。
ことしになって、すこしぐらいカゼをひいていても
はしると調子よくなるのもわかった。
薬の役わりをはたすみたいだ。
中学のとき、水泳部の活動で、
熱があっても「およげばなおる!」と
やすませてもらえなかったのをおもいだす。
症状にもよるけど、「およげばなおる」はほんとうだった。

快楽の種類としてはダウン系だ。
気もちよくなっても、
それを自分のなかだけでかみしめる。
しばらくすると はしったつかれがやってきて、
ますますなにもできなくなる。
そとにむけて あかるくはしゃぐような余力はない。
ジョギングした気もちよさから
うっかりミサイル発射のボタンをおしたりのミスは
まずおこらない。
ジョギングは世界平和にも役だちそうだ。

posted by カルピス at 15:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月04日

みごたえのあるチャンピオンシップ

Jリーグはことし、11年ぶりに2ステージ制となった。
前期と後期にわけて それぞれ優勝をあらそい、
その勝者と、年間のかち点1位から3位のチームが
チャンピオンシップに参加して、「ほんとうの」優勝をきめる。
ことしの場合は後期の優勝と、
年間かち点1位がサンフレッチェ広島だったため、
チャンピオンシップはサンフレッチェ・レッズ・ガンバの
3チームでおこなわれている。
Jリーグの人気がパッとしないため、
将来的な興業収益をかんがえると、
はやい段階で手をうつ必要があったのだという。
その苦肉の策が2ステージ制によるチャンピオンシップだ。

Jリーグはチームによるちからの差があまりなく、
プロ野球とちがい どこかが断トツでぬけだす年はほとんどない。
優勝や降格を最終節まではげしくあらそうのが、
秋がふかまるころのたのしみだった。
2ステージ制にしたら ほんとうに
優勝あらそいがもりあがるのだろうか。
1ステージになれきっているので、
いまさら2ステージ制といわれてもピンとこないし、
なんで年間1位のチームが さらに「ほんとうの」優勝を
あらそわなくてはならないのかと、
わたしは2ステージ制を批判的にみていた。

しかし、チャンピオンシップの ここまでの2試合は、
こんなにいい試合をみせてくれるなら、
2ステージ制もわるくないとおもわせる内容だ。
レッズとガンバでおこなわれた準決勝は、
延長後半のロスタイムまでもつれるおもしろい試合だったし、
サンフレッチェとガンバによる
決勝の1回戦もすばらしかった。
わたしがみたなかでは、今シーズンのベストマッチだ。

どちらのチームもつよい気もちを全面にだして
優勝をもぎとろうとする。
同点にされた1分後にふたたびつきはなしたガンバ。
後半アディショナルタイムにおいつき、おいこした広島。
「なんというゲームでしょう」と
アナウンサーがなんどもくりかえす。
両チームがプライドをかけ、
もっているちからのすべてをそそいでいる。

ガンバがゲームをきめにきたときの迫力はすごかった。
人数をかけ、ずっと相手のゴールをおびやかす。
広島は、それにもあわてないで、
いつもどおり パスをつないでせめあがろとする。
自分たちのサッカーを、こんなギリギリの場面でも
おちついて展開できる広島の選手たちがクールだ。
ガンバに退場者がでると、数の優位さをいかして
相手ゴールにおそいかかる。
かちこしのゴールをきめた広島の柏選手は、
テクニックどうこうではなくて、
とにかくネットをゆらすんだと
すごい気迫でつっこんでいく。
まさに死闘というのがふさわしい試合だった。

あす土曜日に2回戦がおこなわれる。
1回戦にかち、アウェイゴールも3点あげた広島が
かなり優位にたつとはいえ、
なにがおこるかはわからない。
心情的には広島を応援しつつ、
すばらしい決勝戦になるようねがっている。

いい試合がつづいているので、
2シーズン制をとりいれたサッカー協会も
一安心しているだろう。
これまでの印象では、2ステージ制は
ステージ優勝のありがたみが
あまりかんじられないルールにおもえる。
11年ぶりのこころみが、どう評価されるか たのしみだ。

posted by カルピス at 15:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月03日

『ペイ・フォワード』社会がかわるところをみたかった

『ペイ・フォワード』(ミミ=レダー:監督・2000年・アメリカ)

中学1年生になったトレバー少年たちのクラスは、
きびしそうな男性の先生が社会科の担任となる。
その先生は、社会はどうにもならないようにおもえるけれど、
かんたんにあきらめないで、
社会をよくするこころみを
一年かけてかんがえてみないかと、課題をだしてきた。
トレバーは、ひとりがだれか3人にたいして善意をほどこし、
その善意をうけたひとが、まただれか3人たいして・・・と
善意をつないでいけば 社会がかわる、と提案する。

ひとから親切にされたとき、
相手にそれをおかえしするのではなく、
べつのひとにわたしていくのがだいじなところで、
親切にしたほうも、みかえりをもとめてはいけない。
相手の状況をよくかんがえ、
自分にできる範囲でたすけていく。

トレバーのおもいつきはすばらしいけれど、
夢のようなはなしでもあり、なかなかうまくさきにつながらない。
トレバーも、自分が善意をほどこした3人すべてが
失敗したようにみえてがっかりする。

「ペイ・フォワード」運動はすばらしいアイデアなのに、
この作品は それだけにとどまったようにみえる。
主演の3人、トレバー・トレバーの母親・シモネット先生とも、
じょうずにえんじながら、ストーリーの不自然さがどうにもならなず、
みる側は不完全燃焼だ。
とくにラストはひどい。
トレバーを死なせるなんて、まったく必然性がない。
こうした夢ものがたりは、わたしだったら
ティム・バートン監督にまかせたいとおもう。
あのひとなら設定をじょうずにいかして、
壮大な夢をみさせてくれるだろう。

ペイ・フォワード運動が、むつかしいのはわかっている。
どうなったら完成かというゴールはない。
バトンをつなぐのは善意だけで 強制力をもたないし、
親切にされたからといって、
人生がおおきくかわるものではない。
ひとのこころはよわく、うつろいやすい。
かんたんに社会がかわるわけがないのだ。
それだけに、実現可能な夢ものがたりとして
もうすこしさきにすすめてほしかった。
わたしもぜひペイ・フォワードに参加したい、と
おもいたかった。
アイデアがすばらしいだけに、
みおわったあとのものたりなさが残念だ。

posted by カルピス at 15:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年12月02日

地域ネコとの共生

家のちかくにある運動公園をジョギングしていると、
公園にすんでいるらしい 何匹ものネコにであう。
ネコにごはんをあげにきているひともみかける。
おひるまえには、そうした愛好家と、
ごはんにあつまってきたネコが、
公園のあちこちで食事会をひらいている。
じゅうぶんな食事にありついているせいか、
ネコたちはよくふとり、毛のつやもいい。
公園での生活は、いかにもストレスがなさそうで、
ネコたちはゆったりとくつろいでいる。

外国の公園などでは よくみかける光景だけど、
日本でこれだけリラックスできる環境は
あまりないのではないか。
わたしはネコがすきなので
ネコがいごこちよくすごせるのはうれしいし、
エサやりにくるひとをありがたくおもう。

とはいえ、なかには「エサなんかやるな!」と
反対するひともいるのではないか。
はしりながら 愛好家と反対派とのトラブルを 心配したりする。
ネットをみると、その運動公園は
「地域猫」のとりくみをしているそうだ。
「人間と動物が、共生できる環境づくりにご理解とご協力を」
とかかれたフダがはられている。
禁止どころか奨励されているのだから、
エサをやるひとたちに
うしろめたさはないのかもしれない。

ただ、日本人はこうした「環境」について
ぼんやりした状態にほっておくのが苦手なので、
なにかとややこしいことになりそうな気がする。
しっかり避妊手術をしろとか、
エサをやるだけなんて無責任だとか、
うるさいはなしがでてこないだろうか。
わたしはひとから干渉されたくないので、
ひとにもああだこうだいわないようにしている。
エサをやりたいひとが、かってにやっているのだから
ほっとけばいいとおもうけど、
しろ・くろをつけたがるひともいる。
そういうひとは、自分にとってのただしさを
まわりにも もとめがちだ。

公衆道徳や、動物とのただしいつきあい方、
なんていいだすと めんどくさい。
ベストの状態をつきつめてめざすのではなく、
もっと無関心に、たかだかネコのことだからと、
あたりまえに「共生」できたらいいけど。
運動公園のネコたちは、これからも「地域猫」として
のんびりすごせるだろうか。
ネコがしあわせにくらす公園を、市民として自慢したい。
でも、ネコ公園としてうりだすのはやりすぎだ。
ごくあたりまえの共生がのぞましい。
それがむつかしいからこそ、自慢できる公園となる。

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2015年12月01日

『TAIZO〜戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の真実〜』

『TAIZO〜戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の真実〜』
(中島多圭子:監督・2003年・日本)

1973年にカンボジアでなくなった
戦場カメラマン・一ノ瀬泰造についてのドキュメンタリー。
泰造さんはクメール=ルージュが占領するアンコールワットへ
危険をしりながら潜入し、26歳のわかさで消息をたった。

わかさにあふれた行動力で戦場をかけめぐり、
納得のいく写真をとろうとした
泰造さんのふとく みじかい人生。
この作品は、泰造さんをしる現地のひとや
関係者、なによりも両親へのインタビューにより、
彼がなにをやりたかったかに せまろうとしている。

泰造さんについては
書簡集『地雷を踏んだらサヨウナラ』が出版されているし、
映画も『泰造』と『地雷を踏んだらサヨウナラ』の2本が
すでにつくられている。
3本目の映画となるこの作品に、
とくに目あたらしい「真実」はない。
泰造さんの行動とともに、
のこされた親の気もちに 焦点をあてたつくりとなった。
80歳をすぎてもなお、むすこがのこしたネガを
やきつづける母親のすがたがいたましい。

わたしがはじめて泰造さんの本にであったとき、
危険をかえりみない情熱的な生き方に圧倒されてしまった。
じっとしておれなくて、
はじめての外国旅行を計画したりする。
当時はまだカンボジアとベトナムに 個人でははいれず、
いちばんちかい タイで満足するしかなかった。

泰造さんは、アンコールワットへの撮影をこころみるまえに、
いちど日本にもどっている。
たまたま姉の結婚式の 3日まえだったにもかかわらず、
式には参加せず、またカンボジアへと旅だった。
なにか気もちにくぎりをつけたかったのだろう。
そのみじかい滞在が、さいごに両親とすごした時間となる。
好きな仕事に命を賭けるシアワセな息子が死んでも悲しむことはないよ、母さん

しかし、母親はまだ泰造とともに生きている。

posted by カルピス at 15:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする