2015年12月03日

『ペイ・フォワード』社会がかわるところをみたかった

『ペイ・フォワード』(ミミ=レダー:監督・2000年・アメリカ)

中学1年生になったトレバー少年たちのクラスは、
きびしそうな男性の先生が社会科の担任となる。
その先生は、社会はどうにもならないようにおもえるけれど、
かんたんにあきらめないで、
社会をよくするこころみを
一年かけてかんがえてみないかと、課題をだしてきた。
トレバーは、ひとりがだれか3人にたいして善意をほどこし、
その善意をうけたひとが、まただれか3人たいして・・・と
善意をつないでいけば 社会がかわる、と提案する。

ひとから親切にされたとき、
相手にそれをおかえしするのではなく、
べつのひとにわたしていくのがだいじなところで、
親切にしたほうも、みかえりをもとめてはいけない。
相手の状況をよくかんがえ、
自分にできる範囲でたすけていく。

トレバーのおもいつきはすばらしいけれど、
夢のようなはなしでもあり、なかなかうまくさきにつながらない。
トレバーも、自分が善意をほどこした3人すべてが
失敗したようにみえてがっかりする。

「ペイ・フォワード」運動はすばらしいアイデアなのに、
この作品は それだけにとどまったようにみえる。
主演の3人、トレバー・トレバーの母親・シモネット先生とも、
じょうずにえんじながら、ストーリーの不自然さがどうにもならなず、
みる側は不完全燃焼だ。
とくにラストはひどい。
トレバーを死なせるなんて、まったく必然性がない。
こうした夢ものがたりは、わたしだったら
ティム・バートン監督にまかせたいとおもう。
あのひとなら設定をじょうずにいかして、
壮大な夢をみさせてくれるだろう。

ペイ・フォワード運動が、むつかしいのはわかっている。
どうなったら完成かというゴールはない。
バトンをつなぐのは善意だけで 強制力をもたないし、
親切にされたからといって、
人生がおおきくかわるものではない。
ひとのこころはよわく、うつろいやすい。
かんたんに社会がかわるわけがないのだ。
それだけに、実現可能な夢ものがたりとして
もうすこしさきにすすめてほしかった。
わたしもぜひペイ・フォワードに参加したい、と
おもいたかった。
アイデアがすばらしいだけに、
みおわったあとのものたりなさが残念だ。

posted by カルピス at 15:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする