『ベンジャミン・バトン』
(デヴィッド=フィンチャー:監督・2008年・アメリカ)
ベンジャミンは80歳の老人として生まれ、
成長するにつれてわかがえっていく。
わかがえるといっても そうみえるだけで、
じっさいは実年齢におうじた精神と肉体である。
そうわかっていながら、
ついみかけの年齢でとらえてしまう。
女あそびにつれていかれたとき、
老人だとおもうから たいへんそうだけど、
ほんとは高校生くらいのわかものなのだから 超絶倫だ。
はじめのころのベンジャミンは、
わかがえっていく自分をたのしんでいる。
しかしだんだんと、
ほかのひととは逆方向の成長にとまどっていく。
永遠にわかがえるのではなく、
自分だけが死にむかってわかがえっていく。
老人と赤ちゃんの相性のよさが
この作品をおちつかせている。
ベンジャミンがそだったのは
ひろってくれた養母がつとめる老人ホームだ。
老人たちは、赤ちゃんなのにしわくちゃのベンジャミンを
奇妙な存在とはせずに、ごくあたりまえの子としてうけいれる。
ほかの場所でなら、みにくい赤ちゃんとして
気もちわるがられるにちがいないベンジャミンは、
この老人ホームのおかげで
まわりから愛されてそだち、自分を否定せずにすんだ。
なんねんか「成長」したのち、
ベンジャミンはかわった赤ちゃんではなく、ふつうの老人となる。
老人にみえるけど、内面は少年のベンジャミンは、
老人たちのなかで、あたりまえの少年時代をすごしていく。
老人ホームという設定でなければ
こうすんなりとは すすまなかった。
人生の中間地点である40歳くらいのとき、
ベンジャミンはまわりのひとたちと
違和感なくつきあっていけた。
しかし、それからさきは
すれちがいがおおきくなるばかりだ。
わかがえり、少年にむかっていくベンジャミンと、
着実に年をとっていく妻とむすめ。
ベンジャミンはふたりのまえからすがたをけした。
わからないのは、それから12年後に、
なぜベンジャミンはふたたびふたりのもとにかえってきたのか。
50代の妻 デイジーにくらべ、ベンジャミンはあまりにも若々しい。
デイジーは再婚し、おちついたくらしをきずいていた。
いまさらベンジャミンとやりなおす気にはなれない。
ベンジャミンは、これから少年へと若がえっていく自分に、
さいごのくぎりをつけたかったのだろうか。
でも、よくかんがえてみると、
わかがえっていく自分を
そんなに悲観しないといけないだろうか。
旅になどでずに、ずっと老人ホームでくらしていれば、
だんだんとわかがえりながら、
さいごは赤ちゃんとしてうけいれてもらえたのではないか。
少年としてデイジーのもとにあらわれたベンジャミンは、
記憶をうしない、ひとからさわられるのをいやがる。
みかけが少年なだけで、
内面は認知症の傾向がでてきた老人だ。
デイジーのほうはおだやかに年をとっていったのに、
ベンジャミンの老化は残酷にえがかれている。
みかけはちがうものの、
ほんとうは ふたりとも似たような実年齢なのに。
ふたりの老化がちがう形をとったため、
かわいそうなはなしにおもえるけれど、
めでたしめでたしというさいごもあったのではないか。
それともあのラストは、あれで
めでたしめでたしだったのだろうか。