2016年01月31日

ローテーションのやりくりに手あみのセーター

1月からこれまでとちがう部屋ではたらくことになり、
からだと頭がおちつくのにしばらくかかりそうだ。
こんどの部署には女性職員がおおく、
かっこをつけたいわけではないけど、
これまでのようにおなじ服をずっときたまま、
というわけにはいかないような気がする。
これまでは、ジーンズだったら冬は2ヶ月、
フリースでも1ヶ月は平気でおなじものを身につけていた。
もちろん下着は毎日かえるけれど、それ以外の服は、
汗をかいたり ひどくよごれたりしないかぎり、
ぜんぜん気にせずに着つづけてきた。
ダサイのはしょうがないとしても、
不潔とかバカ、あるいは
もっとひどいことをおもわれたら かなしいので、
くるしいローテーションを楽にするために、
手もちの服をかきあつめる。

スーツにネクタイで職場にかようサラリーマンは、
毎日ワイシャツをかえるのはともかく、
スーツは最低限の枚数でまわしているはずだ。
それですむのだから、
こんなことならエリートサラリーマンになればよかった。
わたしがつとめる介護事業所は、普段着が仕事服であり、
普段着のもちあわせがきわめて貧弱なわたしはこまってしまう。
ジャージはあまりにも介護事業所っぽく、利用者に失礼ということで、
社会人としておおきくはずれないカジュアルさが
暗黙のうちにもとめられている。
ジャージにフリースでいいのだから、
これをたいへんだというほうが ほんとうはどうかしているのだけど。

『フランス人は10着しか服を持たない』は、まだよんでない。
島根のいなかものからみると、
京都のひとはなにをやっても格好がつくのとおなじように、
フランス人、とくにパリジェンヌは
どんな安ものや ダサイ服でも、それなりに着こなしそうだから、
あんまり参考にならない気がする。
それに、いまはむしろ日本の女性たちのファッションを、
フランス人がまねしたがっているのではなかったか。

とにかく、いまさらユニクロにはしるのもなんなので、
もうすこしローテーションのあたまかずをそろえようと
タンスにしまいこんである ふるいセーターをひっぱりだした。
配偶者がまだわたしと結婚するまえに
プレゼントしてくれた手あみのセーターだ。
手あみを自慢したいわけではなく、
ほかにきるものがなかったのだからしかたない。

小倉千加子さんの『女の人生すごろく』には、
おつきあいパッケージといういい方で、
だれもがマニュアルにそって、
おなじような恋愛をしていると指摘してある。
最初から彼女たちには、おつきあいパッケージというのがちゃんとあって、そのパッケージの中にポソッと入っただけなんです。

もっとも、これは1990年と ずいぶんまえに出版された本で、
いまではちがうパッケージがでまわっているのだろう。
わたしや配偶者がわかかったころは、
おつきあいパッケージにそって
セーターをおくるというのが、わりと一般的だった。
配偶者(そのころはまだ結婚していない)に
おつきあいパッケージのはなしをしたら、
ほんとに セーターをプレゼントされた。
彼女の気もちに水をさしたようで なんだかもうしわけなかった。

パッケージにそってつくられたセーターを職場にきていくと、
すぐに「手あみ」をみぬかれる。
いいわけしなくてもいいのに、なんだかすごくはずかしい。
パッケージのはなしをしても、
いまのわかいひとにはつうじそうにないので、
バツのわるさにたえるしかない。
手もちの服がすくないと いろいろたいへんなのだ。
もっとも、手あみのセーターは
いまではあまりにも別世界のプレゼントで、
わかいひとたちには「ぜんぜんわからない」みたいだ。
かえって家のなかでむかしのセーターをきるほうが
よけいな気をつかってしまう。
やっぱりエリートサラリーマンになればよかった。

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2016年01月30日

高速道路で酒類をうっていけないのなら、一般の道路でも禁止したほうがいいのでは

酒のやすうり店のまえを車ではしっていると、
「本日特売日」とかかれた看板が目についた。
二日よいぎみのわたしは、
なんで酒なんかうるんだと、悪態をつく。
二日よいのときはいつもだけど、
酒なんかのむ人間の気がしれない。
世のなかに酒なんてなければいいのに。

以前しりあいとはなしていて、
高速道路のサービスエリアでは
アルコール類をうっていないときき 感心したものだ。
高速道路で酒なんかのんではあぶないので、
それくらいきびしく酒をとおざけるのが当然だとおもった。
さすがは高速道路だ。

しかし、よくかんがえてみると、
飲酒運転が危険なのは高速道路だけではない。
高速道路でのアルコール類を禁止するのなら、
おなじ論理が なぜほかの道路には適用されないのだろう。
道路に面しているすべてのお店は、
基本的にお酒をあつかってはいけないのではないか。
それがおおげさだというのなら、
高速道路での禁止は理屈にあわない。
道路に面したお店では、酒をうってはいけないとなれば、
これに該当しないお店は ほんのわずかしかないはずだ
(道路に面していない店って、あるのか?)。
ほとんどすべてのお店は道路に面しているわけで、
高速道路だけ酒をうるのをやめるのは 理にかなってない。
きわめつけのザル法であり、
この中途半端さは、もしかしたら
ものすごく日本的な精神をあらわしているのではないか。
なんでまえは すっかり感心してしまったのだろう。

村上春樹さんの旅行記に、
北アメリカ大陸を横断したときの体験として、
酒類の販売がみとめられていない
ユタ州をとおるくるしさがかかれていた。
旅行記は、だいたいにおいて
自分にふりかかってきたアクシデントを
おおげさに表現しがちだけど、
州全体が酒をきんじているとなれば、
旅行者はどうしようもない。

わたしは、これまでイスラム教の国を いくつか旅行しながらも、
村上さんのようなたいへんさは 味わったことがない。
マレーシアとインドネシアは、
イスラム教のあつい信仰でしられているけれど、
これらの国には漢民族やインド系のひともすんでおり、
国全体の禁止ではない。
モロッコとアルジェリアは、フランスの影響がつよくのこり、
旅行者がワインをのむぶんにはなんの問題もなかった。
高野秀行さんの『イスラム飲酒紀行』には、
イスラム圏の国で、地元の酒ずきをまきこみながら、
どんなふうに酒をのんできたかが紹介されている。
たとえイスラム圏の国であっても、
こっそり酒をのんでいるひとがかならずいるのは、
こころのよわいわたしをよろこばせる。

こうしてみると、世界じゅうで酒をかえないエリアは
タリバーンやISが支配する地域をべつにすると、
日本の高速道路とアメリカのユタ州だけかもしれない。
日本の高速道路は、宗教による理由ではなく、
根拠のないとりきめが ながらくまもられている めずらしい例であり、
わたしはこうした わけのわからなさが わりとすきだ。
酒とつきあうときに、理屈だけではどうにもならない。
せっかく高速道路で効果をうんでいるのだから
(だからいまでもつづいているのだろう)、
あらゆる道路に面したお店にも、
高速道路とおなじ規則を適用すればいいとおもう。
酒の販売店だけでなく、
酒をだす居酒屋やレストランも対象となるので、
結果としてイスラム圏の国よりも
アルコール類にきびしい国にうまれかわる。
二日よいのときだけ、そんな国にすみたい。

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2016年01月29日

荻原魚雷さんの「日常学事始」第23回は「銀シャリとTKG」

荻原魚雷さんの「日常学事始」第23回に
「銀シャリとTKG」がのった。
http://www.webdoku.jp/column/gyorai/2016/0129_144028.html
TKGとは、たまごかけごはんの略なのだそうだ。

「日常学事始」は、ひとりぐらしをはじめるときの
ささやかなポイントがおさえられている。
第1回目は「まずはお茶から」はじまった。
ひとりぐらしをするひとに、
いきなり自炊をすすめるのではなく、
荻原さんは お茶をいれる習慣からはいるよう提案している。
これくらいひくいところからなら、
だれにでもはじめられるだろう。
冬にはあついお茶をいれ、夏にはひやした麦茶が冷蔵庫にあれば
お金の節約にもなるし、お茶をいれる習慣が身についてくる。
お茶が生活にリズムをうみだし、
みだれがちな生活におちつきをあたえる。

そんなふうに、お茶からゆっくりはじまった連載が、
23回目で とうとうお米のたき方まですすんだのは感慨ぶかく、
まことにめでたい。
ごはんがたけるようになれば、もうりっぱなひとりぐらしといえる。
今回の記事は、この連載の、集大成となるのではないか。

といっても、記事の内容は
ごはんのたき方と、ごはんがたいてあれば、
どれだけ便利かというはなしにとどめてある。
たき方にしても、
お米をザルでとぎ、30分くらい水にひたしておくくらいしか
おさえるポイントはない。
要は、お米がたけたらいいわけで、
自炊をはじめようとするひとが気らくにとりくめるよう
余計なプレッシャーはさけてある。
こむずかしいコツをいいだすと、どんどんめんどくさくなり、
ひとりぐらしの敷居がたかくなるだけだ。

そうやって、お米がたけさえすれば、
あとは、たいたごはんがあると
どれだけたすかるか、というはなしになる。
まったく、たきたてのごはんくらい おいしいものはない。
たまごかけごはんや納豆ごはんはいうまでもなく、
バターごはんにも つよい魔力がある。

わたしのおすすめは、
どんぶりにつくった たまごかけごはんからスタートし、
たまごの部分がへってくると ふりかけをたし、
ふりかけがすくなくなると、うめぼしをのせる。
たまご・ふりかけ・うめぼしを、
いちどに全部いれるのではなく、
すこしずつたしていくのがポイントだ。
それらのおかずがあまったら、ごはんをおかわりすればよく、
どんぶりのなかで、ごはんとおかずのバランスが
いつまでも良好な状態でたもたれ、
ついたべすぎてしまう。

ごはんがひえてしまっても、
いまは電子レンジがあるから ぜんぜん問題ない。
いつでもあつあつのごはんがたべられる、
もしかしたら現代は、人類がはじめて手にいれた
夢のようなごはんの時代かもしれない。
ごはんをたくのがめんどくさいときのためには、
冷凍ごはんがあるとチャーハンを作ったり、うどんや鍋の残りをつかって雑炊を作ったりするときにも重宝する。

とにかく、ごはんがあればなんとかなる。
ごはんがあれば心配ない。
ごはんさえあれば なにがおきても大丈夫だ。
せっかくのごはんの時代なのに、
炭水化物をじゃまものあつかいするなんて、
なにかかんちがいしている。
ごはんへの敬意がたりないのではないか。

わたしの家では、朝と夜にごはんをたく。
めんどくさがりやのわたしでも、
お米をたくのは 炊飯器がやってくれるので なんでもない。
朝、たきたてのごはんがあれば、
ひとつめのしあわせが約束されたようなものだ。
ごはんをたべてから、バターつきトーストへとすすむ。
ごはんからすべてがはじまる。

posted by カルピス at 22:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月28日

iPad と FileMaker をいかした記録づくり

「iPad と FileMaker を利用した業務システム作成体験セミナー」
に参加する。
しりあいがこのセミナーをおしえてくれたとき、
わたし程度のレベルで 内容についていけるかどうか心配した。
プログラミングの知識がないし、
ひごろファイルメーカーをつかっているといっても、
ちょっとこみいったスクリプトになると おてあげだ。

講師の方が、はじまりの挨拶で
「専用の言語をつかわなくても
 プログラミングできるのがファイルメーカーの特徴で、
 それでいてユーザーのもとめる環境を自由につくれるソフトです」、
と説明される。
わたしのレベルでも大丈夫のようだ。

ファイルメーカーのセミナーが、
島根県で開催されるのは はじめてということで、参加者は19名。
半数は ファイルメーカーをさわったことがないひとだった。
スーツをきたおじさんがおおい。
このセミナーでは、表題どおりiPadとファイルメーカーをつかって
自分たちの仕事にいかせるシステムつくりを体験する。
4時間ほどのセミナーなので、きょうのところは入門編だ。
ファイルメーカーの自由さと便利さをしり、
どんなことができるかの体験を目的としている。
わたしのとなりの席にすわったひとは、病院の放射線科で
ファイルメーカーによるシステムをつかっているという。
iPadを病院のそとにもってでて、
現場で入力できるようにしたい、といっておられた。

セミナーがはじまるまえに、野菜市場と道路管理の会社の例が
5分ほどの映像で紹介される。
パソコンをさわったことがなくても
iPadなら簡単にあつかえるし、
管理するひとも、現場からのデーターを
一括してあつかえるようになり、
時間が大幅に省力化されたという。
パソコンのファイルメーカーでシステムをくみあげ、
iPadやiPhoneといったデバイスは、
無料のアプリでかんたんにデーターを入力できる。

わたしは、介護事業所でつける記録に
こうしたシステムがとりいれられたらとおもい
このセミナーに参加した。
いちにちの活動のようすを保護者にしらせるときに、
いまは紙にかいた記録でわたしている。
事業所には、カーボン紙で複写したものを保存する。
記録をかくのは 手間をとられるわりに
それをデーターとしていかしにくく、
なにかいいシステムがほしいところだ。
パソコンやiPadで入力するには時間がかかるし、
だれもがすばやく・かんたんに、というわけにいかない。
シリーによる音声入力は ひとつの可能性だけど、
声をふきこむときの環境と、文字変換の確実性をかんがえると
どこまで実用になるかはわからない。
老人介護の事業所をいれると、
日本にはものすごい数の介護事業所があるわけで、
どんなシステムが有効かは こたえがでていそうななのに、
いまだにそれぞれの事業所が個別に工夫している。
保護者への記録は、連絡用とわりきっているのだろうか。
データーとして いかせる記録をつけるのは
意外とむつかしい。

事業所で 記録のつけ方を検討するグループをたちあげて、
自分たちの要求をみたす記録を かんがえたらどうだろうか。
日々の介護は、支援目標にそっておこなわれるので、
記録はおのずと目標にちかづけるために必要な項目となる。
テキスト情報がデーターにしにくければ、
保護者むけとわりきってもいいかもしれない。
最初は不十分でも、とにかくあたらしい記録方法をスタートさせて、
あとから定期的にみなおしをかさねていく。
自分たちにあった記録のシステムをつくりあげる体験は、
職員の研修としてもおもしろそうだ。
紙にかいてわたすだけでは、あまりにももったいない。

posted by カルピス at 15:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月27日

くだり坂がにがて

きゅうな坂道をマウンテンバイクでくだっていると、
なんてことないフツーの自転車にのったおじさんに
あっさりぬかれた。
わたしはとくにいそいでいなかったけど、
そのおじさんにしても あたりまえに自転車をこいでるだけだ。
スポーツ車が業務用っぽい自転車にぬかれるのは
なんだかかっこわるい。
ゆっくりはしるランナーとして、
ぬかれるのになれているわたしでも、すこしがっかりする。

そういえば、自動車を運転していても、
わたしはくだり坂がにがてだ。
ふつうに運転しているぶんには、わたしはわりとうまい。
駐車場にいれるときは たいてい一発できまるし、
坂道をのぼるときも キビキビとカーブをまがる。
それなのに、きゅうなくだりになると、
とたんにうしろの車がせまってきて、
わたしの のろさにいらついているようすをみせる。
のぼりはそんなことない。くだりだけだ。
テクニックはあっても、勇気がないのだろう。
自分ではふつうのつもりでも、
おもわぬかたちで馬脚があらわれる。
馬脚があらわれたら なんだかはやそうだけど、
もちろんこの場合は、ことわざとしての馬脚だ。

ジョギングのときは、ゆっくりはしっているのだから、
うしろからきたランナーにどんどんぬかれていく。
自分のおそさにひらきなおりつつ、
それでいて、オヤジが健康づくりにはげんでいるのではなく、
アスリートがトレーニングをしていると
かんちがいしてほしいのだから、
もと運動選手の心理はややこしい。

・ていねいなウォーミングアップ
・リハビリちゅうの長距離ランナー
・長距離ランのさいごの1キロ

にみられないかと、期待しながらゆっくりはしる。

ジョギングをしていてこまるのは、宅配のおにいさんや、
なにかいそぐ用事があるのか、こばしりに道をいく女性、
家族で散歩ちゅうに かけだした子どもなどが、
わたしよりもはやく かろやかにはしっていくときだ。
トレーニングの服装をしているわたしが、
ふだん着の彼らにぬかれるのは あまりたのしくない。
余裕のないわたしのはしりにひきかえ、
「ちょっとさきをいそぐひと」のはしりにはバネがあり、
はしることが 生まれついてそなわっている能力だとかんじさせる。
そなわってないのは わたしぐらいだ。

posted by カルピス at 11:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月26日

縄文人と渡来人が、ともに弥生時代をきずいたというイメージにすくわれる

縄文時代があり、つぎに弥生時代がくるくらいは しっているけれど、
では、このふたつの時代のちがいとはなんなのか。
稲作についての本をよんでいると、
弥生時代とは、ようするに
米づくりが日本じゅうにひろまった結果
ひきおこされた時代と、
とらえてもいいようにおもえてきた。
米づくりがひろまることで
社会のしくみがかわるほどの大変化がおき、
あたらしい時代、つまり弥生時代がはじまった。
年代でいうと、わたしの大雑把な理解では、
縄文時代はだいたい紀元前であり、
紀元後にはいると弥生時代がスタートする。

そんなとらえ方で、わかったつもりになっていたら、
24日の朝日新聞「文化の扉」で、弥生時代についての
最近の研究が紹介された。
それによると、 弥生時代のはじまりは
紀元前10〜9世紀と、これまでの説を大幅にさかのぼっている。
また、稲作をつたえた渡来人が、
狩猟採集をしていた縄文人を駆逐したと
以前はいわれていたけれど、
新説は
縄文系が農耕を受け入れ、(渡来人とともに)弥生時代をはぐくんだ

ととらえている。
ふたつの時代は特徴にちがいがあるけれど、
それをになったひとびとに断絶はなく、
縄文人が稲作をうけいれ、渡来人とともに
弥生文化をそだてていったというとらえ方は、
征服や駆逐ではなく、共存をイメージできる。
平和的な社会変革が日本でおこなわれていたことを
うれしくおもう。

渡来人がつたえたのは
おそらくほぼ完成された水田稲作の技術であり、
それが急速にひろまったのだから、
狩猟採集をしていた縄文人にとって、
よほど魅力的な技術とおもえたのにちがいない。

わたしにとって縄文時代とは、照葉樹林文化であり、
水田稲作をみたからといって、
すぐにとびついてほしくない気もちがあるけれど、
どうやらかんたんに勝負はついてしまったようだ。
この記事により、
渡来人が水田稲作、つまり田うえの技術をもちこみ、
それがすごいスピードで日本じゅうにひろまっていったようすが
リアルにイメージできるようになった。
渡来人に水田稲作をおそわる縄文人たちの姿が
ありありと目にうかぶ。
彼らは水田稲作をとりいれたけれど、
照葉樹林文化を完全にすてたわけではない。
たとえば納豆ごはんは、
照葉樹林文化と水田稲作とのすぐれた融合である。
渡来人に駆逐されたのではなく
ともに弥生時代をになったという新説にすくわれた。

posted by カルピス at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月25日

マイナス4℃の真冬日に あっけなくまけた

きのうはとてもさむ日となった。
最高気温でさえ氷点下となる 真冬日だったそうだ。
ひるまでもマイナス4℃を
道路わきにある温度計がしめしていた。
マイナス4℃という表示をはじめてみる。
つよい寒波が上空にいすわることから、
予想されていたとはいえ、さすがにさむい。
利用者のおでかけにつきそう仕事があったので、
発想をかえてたのしむしかないと、
用意できる最大限の防寒着をきこみ、
ホッカイロを5つ あちこちにつけて さむさをむかえた。

でも、マイナス4℃は これまでのさむさと質がちがい、
ガツンとぶつかって、問答無用でからだにはいりこむ。
いちどさむさにあたっただけで、いっぺんに気もちがへしゃげ
たのしむような余裕はなくなった。
さむい地域のひとからすれば、
たかがマイナス4℃でおおげさな、とおもうだろうけど、
わたしの実感としては、寒波おそるべし、だった。

さむくなると、女性たちのファッションがちがってくる。
色気よりも とにかく防寒、という意識になるようで、
あたたかさを全面にもとめたファッションで身をかためている。
おじさんがはくような長靴のひともいる。
とにかくさむいので、おしゃれどころじゃないのだ。
なりふりかまわず さむさとたたかうようすが
かえってかわいくみえるから、色気にもいろいろある。
それに、何十年ぶりのさむさという状況は、
非常事態として ひとびとの連帯感をうみだしやすい。
町をあるいていて、いつもよりもなごやかな空気をかんじるし、
職場も妙な高揚感につつまれる。
たまにくる寒波は、そうわるいことばかりではない。

さむさがきびしくなると、
『大草原の小さな家』シリーズにおさめられている
『長い冬』をおもいだすようにしている。

ある年の冬、インガルス一家がすむ町は、
マイナス20℃のきびしいさむさが7ヶ月もつづく
異常な「長い冬」におそわれる。
食糧や燃料がとぼしくなり、
家のなかでも氷点下のさむさにこごえ、
町のひとびとは ギリギリの状態においこまれる。
先のみえない生活は希望をもちにくく、
きびしく単調な日課のはてしないくりかえしに、
ローラはしだいに放心状態となっていく。
胸がしめつけられるようなつらい冬を
インガルス一家とともに体験するような すぐれた一冊だ。

ローラたちが体験した そんな「長い冬」にくらべると、
マイナス4℃のさむさなんて、ピクニックみたいにおもえる。
さむさが峠をこえたので、またつよ気の意識がもどってきた。
わたしは、わりにこりないタイプみたいだ。

posted by カルピス at 22:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月24日

福岡伸一さんの「トカゲを振り向かせる方法」

朝日新聞に連載されている福岡伸一さんのコラムに
「トカゲを振り向かせる方法」がのっていた
(「福岡伸一の動的平衡」1月21日)。
動物園の爬虫類コーナーなどで、じっとしているトカゲを
どうやってこちらにふりむかせるか。
ガラスをたたいても、まずうまくいかない。
福岡さんによると、
トカゲの目の前に手をかざしておいて、急にぱっと引っ込める。すると彼はキッと首をたてる。なぜなら生物にとっての「情報」とは消えることだから。

秋になってキノコがはえてくるのも、
「暖かい気温が消えたことを感知して」らしい。

人間は、きえてゆく変化に
あんがい気がつきにくいのではないか。
きゅうにきえたらわかるけど、ゆっくりの変化、
たとえばいままでたくさんみかけたものが
だんだんすくなくなって、
やがてなくなっていくときはみすごしやすい。

外国を旅行していると、かわったものが目にはいったときは
すぐに気がつくけど、
べつの地方にいって、それがみえなくなったときには
変化をみすごしやすいと、
フィールドワークの本にかいてあった。
だから記録には、目にはいるものと、みえなくなったものの
両方をかきこんでおかないとつかえない。

かつてはなばなしく活躍し、
最近はみかけなくなった芸能人たちの
「いま」をおっかけた記事がときどき雑誌にのるのは、
やじうま根性だけでなく、
生物としてただしい関心のもち方なのかもしれない。
はなばなしくあらわれた いまをときめくスターよりも、
表舞台からきえていった元人気者たちにより、
わたしたちはおおくの教訓をえる。

ついでにいうと、ブログやエッセイをよむときに、
だれかが好調に仕事をすすめているはなしよりも、
なんらかの事情によって つまづいているときのほうが
わたしは興味ぶかくよめる。
「傷口をなめあう」や、
「ひとの不幸は蜜の味」というのともちがう。
不幸ではなく調子のわるさのはなしだ。
ひとの不調は自分にもおぼえのあることがおおいので、
参考になるからだろうか。
調子よくいかないはなしにひかれるのは
生物として、なにかわけがあるような気がしてきた。

不調は変化であり、これからなにか
あたらしいうごきが おこりつつあるのかもしれない。
いっぽう、不幸はすでにおきてしまった状況なので、
いまさら関心をもってもおそすぎる。
すでにほかのだれかが不幸につけいって
うまい汁をすっているだろう。
その結果として不幸になったともいえる。
こんなふうにこじつけると、
すべてを種としての「生物」のせいにできるので
便利だし、もっともらしい。
福岡伸一さんも、あんがいその線をねらってかいた記事だったりして。

posted by カルピス at 22:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月23日

冷蔵庫とマツダファミリアの匿名性

『本の雑誌 2月号』に、
青山南さんが「変身の半世紀」という記事をよせている。
 カフカの『変身』のグレゴール・ザムザは、20世紀のニッポンの翻訳ではおおむね、「毒虫」に変わったとされてきた。(中略)
 しかし、あらためて考えてみると、グレゴールはどうして自分を「毒虫」、すなわち「毒を持った虫」として認識できるのか?(中略)
 だから、「毒虫」という訳語は、冷静に考えてみれば、踏みこみすぎの、勇み足の選択だったのだと言って、きっとかまわない。

お、するどい指摘だ。
そういえば、目がさめたときに、
なんで自分が「毒虫」になったと ザムザは認識できたのだろう。

このはなしをよんでおもいだしたのが、
『海辺のカフカ』にでてきた冷蔵庫だ。
こまかいところはふたしかな記憶ながら、
メーカー名がかいてないけど東芝製、と描写されていた。
そうしたら、メーカー名がついてないのに
なぜ「僕」はそれが東芝製だとわかったのですか?と
たずねた読者がいた(メールによる質問集『少年カフカ』)。
村上さんは、メーカー名がなければわかるわけありませんね、と
あっさりまちがいをみとめ、増刷するときに訂正されている。
冷蔵庫がそれだけ没個性な製品だと、
それまではおもってもみなかった。
たしかに、テレビや洗濯機にしても、
みただけでメーカー名がわかるほど独特なデザインは
あまりおおくないかもしれない。
アップルのパソコンならまだしも、
冷蔵庫はそれほど個性をうりものにしていない。

そうかとおもえば、『カフカ』にでてくるマツダのファミリアは
駐車場に停まっている白のファミリアは、たしかに目立たなかった。それは匿名性という分野におけるひとつの達成であるようにさえ思えた。一度目をそらしたら、どんなかたちをしていたかほとんど思い出せなかった。

なんてかかれている。
冷蔵庫とちがい、たいていの車は
みただけでその車種がわかる。
そのなかでカフカにかかれているファミリの地味さはきわめて異例だ。
「匿名性という分野におけるひとつの達成」は
さすがに冗談だろうけど、このファミリアはきっと
めだたない、めだちたくないをコンセプトに
デザインされた車なのだろう。
自己主張がつよくない車の魅力というのも
わかるような気がする。

冷蔵庫はメーカー名がかかれてはじめて
その製品名がわかる。
マツダファミリアはマツダファミリアでありながら
匿名性をうりものにしている。
『変身』にはなしをもどすと、
ザムザは目をさましたときに 自分が毒虫だとわかった。
これはもう、ただわかったとしか、いいようがないのではないか。
そんなことをいえば、
わたしななぜ自分がほかのだれでもなく、自分自身だと、
なんの疑問もなくうけいれているのだろう。
なぜ自分が「毒虫」なのかは、
毒をもっているという本質をたしかめなくても 本人にはわかる。
東芝冷蔵庫もマツダファミリアも、
つけられている名前によって 本質を認識されるように。

自分でかいておきながら、まったく めちゃくちゃなこじつけだ。
自己認識とこじつけに、なにか関係があるだろうか。

posted by カルピス at 22:40 | Comment(0) | TrackBack(0) | 村上春樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月22日

ブログのバックアップがなかなかおわらない

ブログのサーバーに、もしなにかトラブルがおき、
これまでにかいてきた記事がきえてしまったら残念だ。
サーバーだけをあてにしないで、
自分でもバックアップをとっておこうと、
おもい腰をあげたのが きょねんの10月なのに、
いまようやく半分ほどおえたところだ。
機械的にバックアップをとればいいのに、
つい記事をよみかえし、誤字に気づいたり、
気にいらない表現をなおしだすときりがない。
はじめは毎日30記事を30分ほどでバックアップしてたのに、
なおしをいれると、1時間以上かかってしまう。
よみかえすたのしさよりも、
時間ばかりとられる苦行におもえてきた。
最近ようやくまた日課として再スタートできたので、
なんとかこのままのリズムでやりおえたい。

よみかえしてみると、記憶がいかにふたしかなものかわかる。
ずっとまえにかいたとおもっていた記事が、
あんがい最近のものだったり、その反対だったり。
わりとうまくかいたおぼえがあるのに、
日をおいてよんでみると、
あんがいたいしたことなくてがっかりしたり。
きわめつけは『ルパン三世カリオストロの城』だ。

2013年12月1日の記事に、

・ついまたみてしまった『ルパン三世 カリオストロの城』
http://parupisupipi.seesaa.net/article/381642011.html?1453470273
と、ヤフーの無料配信をみた感想をかいている。
そんなことをすっかりわすれ、
2年もたたない2015年の9月5日にも

・つい『カリオストロの城』をさいごまでみてしまった
http://parupisupipi.seesaa.net/article/425385502.html?1453470131
と、ほぼおなじ内容の記事をかいた。
2年もたっていないのに、おなじことをそのままくりかえすなんて、
自分でもおどろいてしまった。
たしかにすぐれた作品ではあるけれど、
みるたびに すっかり感心してブログにかくのは
さすがにまずくないか。
「カリオストロ」だけでなく、
ほかにもにたようなケースがありそうだ。
日記のようなブログとひらきなおっているものの、
おなじところをグルグルまわっているだけの日記なんて、
さすがにさみしい。

映画をみたことさえ おぼえていないぐらいだから、
よんだ本の感想も、自分がかいたとはおもえないものがある。
かいた内容をすっかりわすれていて、
こんなにいい本なら、ぜひよんでみたいと 自分の記事ながらおもう。
でも、よんだところで なにも頭にのこっていないのでは
あんまり意味がありそうにない。
本はよむだけでなく、記録をつけるのがだいじと
よくすすめられているけど、
わたしの場合、記録をつけても
これだけきれいにわすれているのだから、
よんだ体験が どれだけ身になったかは はなはだこころもとない。
わたしみたいな人間には、
自分がかいた記事を、定期的によみかえすのは
あんがい大切なテクニックかもしれない。
なんだかかなりひくいところで
どーでもいいことを ゴソゴソくりかえしているだけの気がしてきた。
だからこそ バックアップに意味があるのだと
残念な結論にたどりついた。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月21日

カロリーメイトのCM「見せてやれ底力」に胸をあつくする

カロリーメイトのCM「見せてやれ底力」がやばい。
黒板にチョークでかいたアニメーションで、
リアルな絵による高校時代のおもいでが
つぎつぎにおもいおこされる。
BGMは岡本孝子さんの『夢をあきらめないで』とくるから、
おもいっきり青春がつめこまれた120秒で、
とちゅうから胸がざわついてきた。
受験会場で、いよいよ試験がはじまるプレッシャーに
おしつぶされそうになったとき、
仲間たちの手のひらと笑顔が黒板いっぱいにひろがり、
よし、やってやる!と彼女は気もちがふっきれる。
みているわたしは、はげしく胸をゆすぶられ、いよいよやばい。

受験の日の朝、玄関でお母さんが女の子になにかをわたしている。
おまもりか、お弁当?とおもっていたら、
カロリーメイトのCMなので、カロリーメイトだった。
こんなすぐれた作品をみせられると、
ちゃっかり商品をだされても ぜんぜんわるい気はしない。
CMだからあたりまえだし、カロリーメイトが顔をだしたことで、
緊張をといてくれる。

CMにでてくる女の子は、鬼の顔になって
お母さんにきつくあたった日をおもいだしていた。
この年代の子どもたちは、だれもが親のまえで素直になれない
もんもんとした気もちをかかえているのだろう。
CMに胸をあつくしながら、自分の家にも
当事者である高校3年生がいるのをおもいだした。
むすこも彼女のように、
おもいでのつまった3年間をすごしただろうか。

このまえ職場の車で朝のおむかえにでかけたとき、
ちょうど自転車で学校へむかうむすこをみかけた。
しばらくならんではしる。むこうは気づいていない。
たくましくなったなー、とはおもわない。
ひょこひょこペダルをこぐ あの学生がむすこだなんて、
なんだかへんなかんじだ。
声をかけようとおもったけど、いかにもヤボにおもえ やめた。
いまはもう完全に自分の世界でくらしており、
毎晩かえってくるのが不思議な気さえする。
家や親の存在は、ほとんど意識にないようにみえる。

このCMや、すぐれた本によって、
青春時代がどんな多感な時代かは、
ひとつのジャンルとしてえがかれている。
家での彼らをみると、
そんなゆたかな内面をかかえているとは想像もつかない。
表面からはわからないからこそ、
青春時代をうまくあらわした本や映画に
おとなたちは胸をはげしくゆさぶられる。
カロリーメイトのCMは、受験の朝に、
高校生活をギュッとおしこめた すばらしいアニメーションであり、
青春ものの 名作となるだろう。

posted by カルピス at 16:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月20日

はじめてのロールキャベツ

おおきなナベにいっぱいのおでんをつくった。
当然3日くらいおかずになってもらわないとこまる。
2日目には おでんののこりに
ロールキャベツをいれようときめていた。
スーパーへいくと、ロールキャベツは
ひどくちいさいのが 4つはいっただけで380円もする。
これだったら自分でつくろうと、
はじめてのロールキャベツつくりにむかった。
なにかはじめてのことに挑戦するのは、
精神によい刺激をあたえるそうで、
このごろは、つとめて「はじめて」をもとめるようにしている。
公衆トイレにはいったら、はじめての便器をつかい、
仕事で車を運転するときも、とおったことのない道をえらぶ。
「はじめて」の体験に、ロールキャベツはぴったりだ。

ロールキャベツはめんどくさそうだけど、
やってみれば きっとかんたんだとおもっていた。
そして、ほんとうに、おもっていたとおりにかんたんだった。
これくらい「おもっていたとおり」にすすむ実践は なかなかない。

わたしは「ひとてま」によわく、
キャベツをゆでたり、ミンチをこねるのが
めんどくさくて たかいハードルとなる。
そんなことしなくても、キャベツやミンチを
そのままいためればいい、という原理主義者だ。
おおきくゆずっても ハンバーグでいいじゃないかとおもう。
こういう人間には、おいしい料理はつくれない。
たべられる材料をあわせるのだから、
たべられる料理はできるのだけど、
なにかすこしたりないものしかできない。
そのたりないものは、きっと愛だ。

はじめてつくるロールキャベツなので、
クックパッドをひらいてみた。
キャベツの葉をゆでて、ミンチボールをくるむだけだ。
ゆでずに電子レンジをつかえば
もっとかんたんだろう。
おもい腰をあげてしまえば、はじめての体験はたのしい。
このごろはすこし「ひとてま」をおしまなくなり、
料理に目ざめてきたような気がする。

といいながら、クックパッドのレシピを
すべてまもったわけではない。
豚ミンチがなかったので、あいびきでまにあわせる。
タマネギとかいてあるところをネギにかえ、
レシピにない酒やしょうがをくわえた。
キャベツだけがいっしょで、あとはべつの材料だ。
料理の本にはよく、
「レシピにある分量を正確にまもって」
とかいてあることがおおい。
2回目以降に自分でアレンジするのはいいとしても、
1度目はだまされたとおもってレシピどおりに、
というのがおきまりのアドバイスだ。
これがわたしはにがてで、
テキトーにたしたりひいたりするから、
できあがったものが どこまで
めざしていた料理にちかいのか わからない。

それなりにしあがったロールキャベツを、
2日目のおでんにいれてたべる。
おいしくないわけではないけど、
なにかすこしちがうかんじがする。
豚ミンチをあいびきですませたためか、
タマネギのかわりにいれたネギがわるかったのか、
レシピになかった酒としょうが余計だったのか。
せっかくわたしがはじめてつくったロールキャベツなのに、
家族はなんの感想もくちにしなかった。
わたしのとぼしいレパートリーに、
ロールキャベツがくわわるかどうかわからない。

posted by カルピス at 13:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月19日

『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい』(椎名誠)

『地球上の全人類と全アリンコの重さは同じらしい』
(椎名誠・早川書房)

椎名さんが体験してきた不思議なできごとや、
これまでによんだおもしろ本が紹介されている。
『SFマガジン』に隔月で連載されているエッセイ
「椎名誠のニュートラルコーナー」をあつめた一冊だ。
おもしろいはなしをあつめたのだから、
おもしろいにきまっているし、
それをまたこうしてブログにかくのは
あまりにも安易でずるい気がするけど、
興味をひかれたんだから、これでいいんだと、ひらきなおる。
透明人間と、地球が直径1メートルの球だとしたら、
というはなしが そのなかでもとくにかんがえさせられる。

透明人間になれたらさぞたのしいだろうと
だれもがいちどはおもったことがあるのではないか。
『透明人間の告白』(H=F=セイント)をよむと、
透明人間も あんがいたいへんそうなのがわかる。
たとえばハンバーガーをたべたりしたら、
それが完全に消化されるまでは
物体としての形をたもっているわけだから、
はたからみると かなり気もちのわるい光景となる。
椎名さんは透明人間ならではの問題を、
さらにエスカレートさせて心配する。

うんこについてだ。
トイレをさがさなくても、透明人間なのだから
どこでうんこをしようが ひとからはみえない。
ひとまえでうんこするのは、
まちがいなく かなりかわった気分があじわえそうだ。
こまるのは、うんこはみえなくても、
紙でおしりをふこうとしたときは、
紙がただよっているのがひとにはみえてしまうので、
ゆっくりおしりをふいている余裕などないわけだ。

さらに、そのうんこをふんずけるひとがいたら、
かなり悲惨さ状況になる、というのが椎名さんの指摘だ。
だれかが散歩していて、なにもふんでいないはずなのに、
なんとなくニュルッとしたかんじがする。
指でさわってみると、なにやらクツについているようで、
確認しようと指を鼻にちかづけたときに、
なにもみえないけど、あきらかにうんこをふんづけたことをしる。

まったくよけいなお世話でしかないけど、
椎名さんにいわれるまで 「うんこ問題」のたいへんさを
わたしはみのがしていた。
うんこはみえなくても、ひねりだせばにおいがただようだろうから、
そこらへんの道ばたでやるよりも、
トイレでうんこをしたほうが安全だ。
トイレだったら、トイレットペーパーだけがひらひらまっている
おかしな光景をひとにみられる心配もない。
しかし、せっかく透明人間になりながら、
トイレでうんこをするなんて すごく不自由なはなしだ。
透明人間にもしなれたとしても、
アドバンテージはかなり限定的なのではないか。

『地球がもし100pの球だったら』(永井智哉・世界文化社)
にたとえられている地球も刺激的だ。
 地球が100p、つまり直径1メートルだったらそれを覆う大気は1ミリしかないのだ。一番高い山エベレスト登頂は0.7ミリ。一番深い海溝は0.9ミリしかない。(中略)
 この惑星の水の全体の量は660cc。その殆どは海水で、淡水はわずか17cc。そのうち12ccは南極や氷河などで凍っており、循環している淡水は5ccしかない。スプーン1杯の量である。

椎名さんが気づいた「やるせない現実」とは、
この17ccの淡水は、これ以上ふえることなく
ずっと17ccのままという事実。
それなのに、文明がすすむにつれて
貴重な淡水は加速度的に汚染されている。
すでに国家的に「水不足」となっていて、よその国から水を輸入したり、あるいは「盗む」ことなども行われている。

日本の水は、外国の企業が自由にかいしめられるそうで、
中国などは、日本の水に目をつけて、
将来的な戦略をねっているかもしれない。
そんなことになってはたいへんなので、
いまのうちになんとか手をうたなければならない。
はなしのながれからいって、
ここは当然 透明人間のでばんだ。

posted by カルピス at 21:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 椎名誠 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月18日

『銃・病原菌・鉄』世界はなぜいまのすがたになったのか

『銃・病原菌・鉄』(ジャレド=ダイアモンド・草思社)

最近になって『銃・病原菌・鉄』をよみはじめている。
10年まえに話題となった本であり、
いつもながら「いまさらながら」の読書だ。
ひとことでいうと この本は、
世界の地域間に おおきな格差が生まれたのはなぜかを
ときあがそうとする。

著者はさまざまな現象について
「それはなぜだろうか」と といかける。
なぜ世界はいまのすがたとなり、
そうでない方向にはすすまなかったのか。
なぜヨーロッパ系の国々が、
南北アメリカの先住民、アフリカ大陸の人びと、
そしてオーストラリア大陸のアボリジニを征服し、
その逆にはならなかったのか。

本書の第9章は、
家畜化できている動物はどれも似たものだが、家畜化できていない動物はいずれもそれぞれに家畜化できないものである。

という 魅力的な文章からはじまっている。
著者はこれを「アンナ・カレーニナの原則」と名づけた。
人類史を大きく変えた動物の家畜化の問題も、この原則によって説明できる。シマウマやヘソイノシシなどの大型哺乳類は家畜化できそうなものだが、人類史において家畜化されたことがない。それはなぜだろうか。

なぜある種の動物は家畜になり、
それ以外のものは家畜とならなかったのか。
なぜある種の植物は栽培されたのに、
それ以外のものは栽培されなかったのか。
なぜ農耕をとりいれた民族がいるいっぽうで、
狩猟採集をつづけることをえらんだ民族がいるのか。
いくつもの分野に「アンナ・カレーニナの原則」はあてはまるだろう。
そうならなかったのには、さまざまな理由がある。

まだよみかけであり、わたしの理解もあさく
きれいに謎がはれたわけではないけれど
「それはなぜだろうか」と といつづける著者の姿勢にわくわくする。
そうやって格差の疑問をときあかすことは、
きのうのブログにかいた
「棚の上の荷物はアジア」とも関係するのではないか。
なぜヨーロッパ系のひとびとは、
棚のうえに荷物をおかないのに、
アジアではものをおくスペースになってしまうのか。
また、最近わたしが関心をもっている
農耕や稲作の起源についても 問題意識がかさなっている。
日本は弥生時代になってから稲作がつたわった。
それはなぜだろうか。

700万年まえに生まれた人類が、
1万3000年まえをスタートにして、
わずかなあいだに爆発的な発展をとげたのはなぜか。
ものごとの現状に疑問をなげかけ、
その起源についてさかのぼるのは すべてにおいて興味ぶかい。
世界の起源をかんがえるうえで、
本書は適切な解説書になってくれそうだ。

posted by カルピス at 23:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月17日

棚のうえの荷物はアジア

ヤマザキマリさんの本に
棚のうえにつかわない箱をおくのはアジア、
みたいなことがかいてあった(『望遠ニッポン見聞録』)。
ヤマザキさんの夫(イタリヤ人)にいわれたのだそうだ。
ヨーロッパ人はまずしないという。
そういわれると アジア的なふるまいが気になってきた。
ほかにも

・鼻をかまずに啜り上げる人を見た時。
・咀嚼中の食べ物が口の中に入ったまま喋っているのを見た時。
・車のなかにキッチュな縫いぐるみや
 お守りがぶら下がっているのを見た時。
・足をぺたぺた引きずり気味に歩く人を見た時。

といった場面をヨーロッパ人がみると、
日本人はアジア人だとおもうらしい。
アジア的なしぐさとしては、ほかにもしゃがむ姿勢を
ヨーロッパ人はめったにしないそうだし、
スパゲッティをたべるときに
音をたててすするのは日本人だけ、
というのは いまではだれもがしっている。

そんなふうに、ひとつひとつのマナーを
もぐらたたきみたいにチェックし、まねををしてなおすのと、
生まれおちた環境から、当然のこととして
身についているのとでは ずいぶんちがいそうだ。
わたしは鼻をすすりあげるし、
棚のうえを有効活用できるスペースとしてとらえていた。
知識として それらをやめたとしても、
わたしは骨のズイまでアジア人であり、
ほかにも いろいろなところで
「アジア」が顔をだしているにちがいない。

韓国人や中国人の旅行者が、
飛行機の座席をひどくちらかすのをみて、
なんて行儀がわるいのかとあきれ、
自分はもっと洗練されたマナーを
身につけているとおもっていたけれど、
アジア以外でそだったひとからみれば、
わたしの一挙一動はアジアがプンプンにおっているのだろう。
アジア人なのだからしょうがないとおもいながらも、
アジアといわれて おもしろくない心理と、
アジアでなにがわるいと ひらきなおる気もちの両方で
わたしのつけやき刃的なマナーはゆれている。

ためにし棚の上の箱をおろし、
アジアでない棚を体験してみた。
たしかにゴチャゴチャしてない棚のうえはうつくしく、
部屋がおちついてみえる。
地震のときに安全でもあるし、
ついものがふえるのをふせいでくれるので、
家じゅうの棚のうえをすっきりさせたくなった。

ただ、しゃがむ姿勢が「アジア」といわれると、
わたしのなかにながれているアジアの血がさわぐ。
しゃがむのをかっこわるいとはいいたくないし、
余計なお世話だと反発したくなる。
スパゲッティだって、日本ですするぶんには
ほっておいてほしいけど、
これだけ情報がゆきわたってしまうと、たとえ日本でも、
音をたててスパゲッティをたべるのは勇気がいる。

棚のうえの荷物は、おもわぬ指摘だった。
いい・わるいではなく、
ヨーロッパ人はそこにものをおく発想がなく、
日本人にとっては有効活用できるスペースにうつる。
おなじものをつかっていても、
基本的な精神において、ヨーロッパと日本は
ずいぶんちがいがありそうだ。
ひらきなおるのではなく、
ちがいはちがいとして うけとめたい。
ヨーロッパ的なマナーにいかれたくはない。

posted by カルピス at 22:47 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月16日

『ビート・オブ・ハート』(ビリー=レッツ)

『ビート・オブ・ハート』(ビリー=レッツ・文春文庫)

『ハートブレイク・カフェ』の著者によるデビュー作。
作品のあたたかさが2冊ともよくにている。

17歳のノヴァリーは、ボーイフレンドの車にのって
カリフォルニアにむかっている。
両親とも彼女をすて 家をでており、しばらくまえから
ひとりで生きていかなければならない身のうえだ。
ノヴァリーは妊娠しており、生まれ故郷をはなれ、
しらない町で ボーイフレンドとの
あたらしいくらしがはじまるはずだった。

ボーイフレンドのジャックは、そんなときのパートナーとして
どうかんがえても最低の男だ。
ことばにおもみがなく、自分のことばかりかんがえている。
あろうことか、ジャックは旅のとちゅうにとまったちいさな町で
ノヴァリーをおきざりにし、ひとりでいってしまう。
身よりのないノヴァリーは、とまる場所のあても、お金もない。
だれにもみつからないように
ウォルマートにかくれて夜をあかすうちに、
ある日とうとう店のなかで出産してしまった。

筋をおってるだけでノヴァリーがかわいそうになってくるけど、
彼女は生まれながらにひどい境遇がつづいていたせいか、
それほど状況を深刻にはうけとめていない。
すくなくとも、いじけたり、
自分をあわれんだりしなかった。
ジャックにおきざりにされ、とほうにくれながらも、
ちゃんと現実的な解決策をかんがえ なりゆきにまかせる。

おきざりにされたノヴァリーは、
たてつづけに町のひと3人から声をかけられる。
ノヴァリーは、自分がおきざりにされたと
身のうえばなしをしたわけではない。
3人ともそれぞれの立場で 妊婦としてのノヴァリーとむきあい、
敬意をはらってことばをかわしている。
このときにであった3人が、
ずっとあとまでノヴァリーにとって
なくてはならない大切なひととなる。

『ハートブレイク・カフェ』は、
店にあつまるひとたちのやりとりを
えがいたものがたりだったけど、
この『ビート・オブ・ハート』は
町ぜんたいが舞台となっている。
すてきなひとたちがすむ町に ノヴァリーがささえられて
生活をきずいていくものがたりだ。

ノヴァリーは、子どもをそだてながら
すこしずつ自分の世界をひろげていく。
本をよみ、写真のとり方をならい、
大学にもかようようになり、
なによりも 愛するひとをえる。
両親から親らしいことをなにもしてもらえず、
17歳で妊娠し、ボーイフレンドにすてられ、
ウォルマートで出産するという
はげしいマイナスからのスタートをおもうと、
よくここまでやってきたと ノヴァリーをたたえたい。
ノヴァリーがまえをむきつづけたからこそ
町のひとたちは彼女を大切にした。

わたしは『ハートブレイク・カフェ』のすがすがしさを
もういちど味わいたくて
この『ビート・オブ・ハート』をひらいた。
目的どおり、ビリー=レッツならではの世界に
どっぷりつかる読書となった。
どちらの本も、ものがたりのおもわぬ展開でよませてくれる。
ジョン=アーヴィングの作品から毒をすこしぬいたような
雰囲気が特徴だ。
世のなか、なにがおこるかわからない。
もしわたしのまえに妊娠している17歳の女の子があらわれたら、
ノヴァリーがされたように、尊厳をもってせっしたい。
その場でちからになりたいというのではなく、
そうすることが ひととして大切だとおもうから。
わたしのすむ町も、ノヴァリーの町みたいに
だれもをうけいれられる町であったほうがたのしい。

posted by カルピス at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月15日

『ぼくがきみを殺すまで』がいつの間にかおわっていた

朝日新聞に連載されていた
あさのあつこさんの『ぼくがきみを殺すまで』が
いつの間にかおわっていた。

ベル・エイドという架空の地域が舞台だ。
ふたつの民族が おたがいの得意な分野をいかして
たすけあいながらくらしていたのに、
いつのまにか対立するようになり、戦争がはじまる。
敵にとらわれた少年「L」が、処刑される夜あけをまつあいだ、
牢屋をみはる敵の兵士と ふるさとのはなしをはじめる。
なんでおれたちの国は、こんなになってしまったんだろうな、と
ふたりはおたがいにたずねあう。

この架空の地域を、
わたしはパレスチナとイスラエルの関係としてよんでいた。
いまの世界では、にたような状況の地域がほかにもあるだろう。
あさのさんは、あんがい日本の未来をみすえて
このものがたりをかいたのかもしれない。
現実の世界が おもわぬスピードでわるくなってゆき、
小説をうちきらざるをえなかったのではないか、
なんてあらぬことまで かんがえてしまった。

最終話は、たしかにひとつのくぎりをつけており、
あそこでおわるより手がなかったのかもしれない。
それにしてもきゅうな結末だった。
お正月があけても、なかなかはじまらないなーとおもっていたら、
まさか 年末でおわっていたなんて。

新聞の連載がおわるときは、
連載をふりかえって、みたいな作者のコメントがあったり、
つぎの連載をうけもつひとが紹介されたりするのに、
今回はそんなうごきに気づかなかった。
新聞の連載としては、異例なおわり方であり、
なにかややこしいはなしがもちあがっていたのでは、と心配する。
かつてのふるさとをおもいおこし、しずかにかたりながら、
なぜこうなってしまったのかを
敵対する陣営にいる わかいふたりはといかけあう。
みじかいけれど、いんしょうにのこる連載だった。
これからの展開が気になっていたので、
きゅうに連載がおわった形が残念だ。
ものがたりのつづきがよみたい。

posted by カルピス at 18:43 | Comment(0) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月14日

『48時間』B級ならではのしょぼさとかるさが魅力

『48時間』(ウォルター=ヒル監督・1982年・アメリカ)

録画してあった『48時間』をなんどかにわけて
こきざみにみた。
つまらないから「こきざみ」なのではなく、
もうなんどもみてきた なじみの作品だからだ。
ひさしぶりにみると、30年まえにおどろいた
かるさとスピード感は そんなにせまってこないけど、
むかしながらのローカルにとどまっている
犯罪者・警察の雰囲気がなつかしくなる。
この作品のキモはしょぼさだ。

刑事のジャック(ニック=ノルティ)は
脱獄した凶悪犯に仲間の刑事をころされる。
操作の手がかりに、ジャックは48時間限定で
レジー(エディー=マーフィー)を刑務所からだし、
犯人たちをおいかけていく。

まだタイプライターをつかっている時代の作品だ。
ゴリゴリおしていくしか能のないジャックに、
はじめぜんぜん共感できないけど、
このひとにはこのやり方しかないんだと、
だんだんいいやつにおもえてくる。
彼はむかしながらのやり方をかえるつもりはない。
あたらしいものになじめない。
仕事ちゅうにウィスキーをのみ、タバコをすいつづけ、
でもそれなりに筋はとおしていく。

単純なストーリーのはずなのに、
いったいいまなにをしてるのかがわからなくなってくる。
犯人をおっているのか、人質をたすけたいのか、
金をとりもどしたいのか。
でもまあ、わからないのが たいして気にはならない。
ジャックとレジーのコンビが、
ギクシャクしながらうごきまわるようすは、
ボーっとしながらみていてもたのしい。

なんどもおいつめながら、そのたびに犯人をとりにがす。
ジャックはボスにさんざんののしられ、
レジーを刑務所につれもどそうとする。
さいごにふたりがバーでおわかれするときがすきだ。
さんざんおっかけたけど、つかまえられっこないから、
もうやめようと、さっきまでレジーはいっていたのに、
そうだな、これからおまえをムショにおくらないといけないし、
とジャックがいうと、
レジーがコロッと態度をかえて 捜査のつづきにむかおうとする。
どんなにトホホな捜査でも、
刑務所にはいっているよりマシだ。

音楽がいい。
「(The Boys Are) BACK IN TOWN」(ブライアン=オニール)が
ガンガンながれるなか、レジーがはりこみをしているところ。
この曲は、エンディングにもながれてきて、
作品のかるくてローカルな世界観をあらわしている。

さいごの場面では、とりもどした金を
ぜんぶレジーにやるとジャックがいう。
そのかわり、あたらしい車をかうから2000ドルかせ、
というのが しょぼくていいはなしだ。
ジャックがいまのっているでかいコンバーチブルは、
ただであげるといわれても
おことわりしたくなるほどボコボコだ。
あんなのにのっていたら、人生をななめにみたくもなるだろう。
それなのに、つぎにかう車が
またコンバーチブルというから、どこまでもこりないおっさんだ。
このひとは、ずっとこうやって
底のほうで刑事をつづけていくのだろう。
それが自分だと ジャックはわりきっている。

完全なB級映画だとおもってたけど、
監督がウォルター=ヒルなので、
まったく期待されなかったわけではないだろう。
それにしてはやすっぽいつくりで、
B級ならではのしょぼさとかるさが魅力になっている。
エディー=マーフィーのデビュー作なのだそうだ。
これからのしあがろうとするエディー=マーフィーが
ギラギラしている。

posted by カルピス at 10:12 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年01月13日

『小林カツ代と栗原はるみ』(阿古真里)料理研究家をとおしてみた主婦像

『小林カツ代と栗原はるみ』(阿古真里・新潮新書)

サブタイトルの「料理研究家とその時代」が
本書の内容をあらわしている。
時代によってもてはやされる料理研究家はちがってくる。
高度成長期には西洋料理を紹介する研究家が、
国民の9割が中流を意識した安定性には
ホームパーティーをひらいてみせる研究家が
あこがれをかきたてる。
バブルにはバブルの、平成には平成の主婦像があり、
時代とともにもとめられる料理はかわっていく。
料理研究家をかたることは、
その時代の主婦像をかたることでもあり、
おのずと主婦論にもつうじていく。
本書は、料理研究家をとおしてみた
主婦論のうつりかわりとしてもよめる。
ケンタロウさんやコウケンテツさんがでてきても、
壇流クッキングや魚柄仁之助さんの料理はとりあげられない。
主婦論と関係ないからだろう。

家電の普及がすすんだ1960年代に、
主婦の家事時間はほとんどへらなかったという。
ラクになった分だけ、主婦たちは新しい仕事をふやしたのである。その一つが、手のかかる料理である。

ここらへんは、梅棹忠夫さんの『妻無用論』にかかれているとおりだ。
妻たちは、自分の存在価値をおとさないために、
たいして必要ではない あたらしい仕事をあみだした。
そんな時代には、どんな料理法がもとめられただろう。
家事をへらしたい、でも、ちゃんとつくって家族に食べさせたいというアンビバレントな気持ちを抱く主婦に、処方箋を示したのが小林カツ代である。

本書では、肉じゃがとビーフシチューのつくり方を例にとり、
どこにポイントをおいているかによって
その料理家の特徴をあきらかにしている。
小林カツ代さんは「料理の鉄人」で陳建一さんにかつほど
手ばやくつくれる時短料理をあみだした。
小林カツ代さんはいそがしい毎日の生活で
どうしたら手間をはぶいた家庭料理ができるかをおしえてくれ、
栗原はるみさんはあくまでも専業主婦として
家族のなかに自分を位置づける。

わたしは『ごちそうさまが、ききたくて。』によって
栗原はるみさんをしった。
本屋さんにいけば、たくさんの料理本がならんでいるし、
ネットでもかんたんにレシピをおしえてくれる。
でも、あんがい自分にあったつくり方の本はないもので、
たとえばケンタロウさんのフライパン料理の本は
かってみたものの、じっさいにつくる気になれなかった。
そんななかで栗原はるみさんの料理は
わたしがもとめる価値観にあっていて、
ハヤシライスやまぜごはんなど、
定番になった料理がいくつもある。
かんたんで、こまかすぎず、失敗しない。

わたしの人生観は、小林カツ代さんの料理にひかれそうなのに、
小林さんによる本は1冊ももってなく、
専業主婦を否定しながら 栗原はるみさんのつくり方をこのむ。
なにをどうつくっているかと、そのひとの価値観には、
あんがいズレがあるのかもしれない。
頭のなかと 生きかたの矛盾が、料理としてあらわれる。

「弁当男子」ということばも生まれているそうだ。
わたしもお弁当をもって職場へいくけど、アルミ製のドカ弁に、
たまごやき・ソーセージ・塩サケをならべるだけで、
ちっとも「いけてない」お弁当だ。
こういうのは「弁当男子」とはいわないだろう。
栗原はるみさんは、こんなお弁当をこのまないだろうし、
小林カツ代さんならほめてくれそうな気がする。

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2016年01月12日

『まことに残念ですが・・・』不採用通知160選

『まことに残念ですが・・・』(アンドレ=バーナード・徳間書店)

自由ポータルZにえらばれず くやしかったので、
『まことに残念ですが・・・』を図書館でかりてくる。
名作への不採用通知を、160通あつめた本だ。
だれもがしってる作品でも、
「まことに残念ですが」とことわられつづけ、
何年もかかって ようやく陽の目をみたものがたくさんある。
あの文豪も、有名な小説家も、
のきなみばっさりと きりすてられている。
ずいぶんひどくけなされながら
それでもあきらめず かきつづけたおかげで
作家たちは成功にたどりついた。
わたしが今回えらばれなかったといって、
そんなにへしゃげなくてもいいと勇気づけられる。
えらぶ側が、つねにただしい判断をくだしているとはかぎらない。
みる目のなかった編集者こそ、ふかくはじいるべきかもしれない。

とはいえ、おとされたものの心理は複雑だ。
就活もそうらしいけど、全人格を否定された気がしてくる。
かんがえてみると わたしは、
デイリーポータルから「残念ですが」の連絡すらうけていない。
ただはじかれただけなのも、けっこうさみしいものだ。

本書にある出版社からの返事をいくつかぬきだすと、
『大地』(パール・バック)
まことに残念ですが、アメリカの読者は中国のことなど一切興味がありません。

『愛へ戻る旅路』(メアリ・H・クラーク)
われわれも、彼女の夫と同様、ヒロインの退屈さに耐えられなかった。

『未発表短篇集』(ハリー・クルーズ)
火にくべよ、お若いの。焼いてしまうがいい。炎がすべてを浄化してくれるだろう。

『イプクレス・ファイル』(レン・デントン)
まことに残念ですが・・・といいたいところだが、本書を却下するのは残念でもなんでもない。

あの『チャタレイ夫人の恋人』でさえ
「ご自身のためにも、これを発表するのはおやめなさい。

なんていわれている。
おおもうけのチャンスをみすみすのがし、
ほかの会社から出版された本が 大ベストセラーになったら、
担当者はどれだけ後悔したことだろう。
この不採用通知集は、
あたらしい作品を評価するむつかしさとともに、
編集者たちがのこした まとはずれな感想の、
作品集でもある。

ジェイムズ=M=ケインの有名な『郵便配達は二度ベルを鳴らす』は、
出版社からの断り状をとどけにくる郵便配達人が、
必ず2度ベルをならしたから このタイトルがつけられた。
印象ぶかいタイトルは、かなしい体験がヒントになっていた。
おとされつづける体験も、ときにはヒットにつながることもある。

応募したのに えらばれなかったとしても、
ナイーブになりすぎる必要はない。
本書の序文には、
編集者であるヘンダースン氏の体験が紹介されている。
ヘンダースン氏がうけとった返事には、
きみは深刻な小説を書いた。それは結構なことだが、太古からの悲しむべき問題は、当節、だれが深刻な小説を出版するか、ということである。

とかかれていた。

ヘンダースン氏は、おちこむよりも
「深刻な小説」と認められたことだけをよろこび、
手紙の後半は無視している。
これくらいずーずーしくないと精神的にきつい。
不採用通知にたいする ただしいせっし方というべきだろう。

posted by カルピス at 21:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする