以前から人類の起源など、
ものごとのはじまりのはなしがすきだ。
アフリカをでた人類が、どんなふうに
世界じゅうへひろがったかをおもうとワクワクしてくる。
最近はこれに稲作がからまってきた。
稲作は、どんな形でスタートし、
水田への田うえが一般的な方法となっていったのか。
稲作はどのようなかたちで日本にはいり、
どうひろがっていったのか。
稲作のまえに、農耕の起源がある。
ひとは、なんで土をたがやすなんて
めんどくさいことをはじめたのか。
よほど圧倒的に収量がふえなければ、
土をひっくりかえそうなんて おもいつかないはずだ。
だって、それまでだれも「たがやす」なんて
みたこともなかったのだから。
それでもあえてクワでたがやしたり、
牛や馬にスキをひかせたりしたくなるほど
必然的な作業に、いつからなったのだろう。
稲作にはなしをもどすと、
めんどくさい移植栽培、つまり田うえが、
稲作のはじめからおこなわれていたとはかんがえにくい。
タネをまくのにくらべ、ものすごく手間な田うえがひろがったのは、
それなりの理由があるはずだ。
よほど決定的なアドバンテージがなければ、
田うえはめんどくさすぎる。
米つくり=田うえなんて、おもいこみにすぎないのではないか。
わたしのなかでは縄文時代の農耕と、
照葉樹林文化としての農耕がいっしょになり、
そこに福岡正信さんの自然農法がくっついて
じかまき(タネまき)による米つくりが
もっとも自然な栽培方法として頭にこびりついた。
でも、池橋宏氏の『稲作の起源』をよむと、
根菜類をそだてるときにおこなう株わけの延長として
イネの株わけ(田うえ)がおこなわれたとある。
そういわれると 田うえは革新的な栽培技術というよりも、
ふだんしているイモつくりのつづきであり、
株わけはによる米つくりは、突拍子もないおもいつきではない。
わたしは自然農法による米つくりとして、
タネをじかまきするのが「自然」だとおもっていた。
しかし、タネまきだけで植物がふえていくのではないのだから。
イネにとってなにが自然かは かんたんにきめられない。
縄文時代の日本で どんな農耕がおこなわれていたのか、
稲作は どんな方法だったのか。
じかまき以外の方法による イネの自然農法が、
これからあきらかにされるかもしれない。
2016年01月11日
2016年01月10日
変化がないようにみえて ちゃんとかわっていく
ほぼ日の「今日のダーリン」に
と糸井さんがかいていた。
ほんとうだ。
変化がないようにみえて、
ながい目でみるとちゃんとかわっている。
最近まで、わたしはそれがわからずに
さきをいそいでばかりいた。
大切なのは過去でも未来でもなく、いまだ、とよくいわれる。
もっともらしくひびくので、それをきいたときは、
なにかだいじな秘密をしらされたような気がした。
でも、じっさいに「いま」を大切にするとは
どういうことなのだろう。
わたしは、「いま」がだいじといいながら、
解釈をまちがえて、さきをいそぎすぎていた。
動物やちいさな子どもには「いま」しかない。
でも、おとなが「いま」を生きるのは、
すごくむつかしいのではないか。
ついさきに目がいってしまい、
結果として「いま」をそこなっている。
わたしは 子どもみたいに生きられるほどの
人物ではなかった。
職場でおなじことをくりかえす日がつづくと、
あるいは、毎年おなじ企画をくりかえしていると、
これからずっとそんな生活のような気がして
なにか変化をつけたくなる。生きいそぐとでもいうのだろうか。
たとえばなにかの担当になったときに、
自分で何回かやると、もうわたしはいいから
はやく若手にバトンをわたしてしまいたくなる。
「いま」はかぎられているのだから、
おなじところでぐずぐずしたくなかったのだ。
わたしにとって「いま」を大切にするのは、
はやく さきにすすむことだった。
そんなにあわてなくても、
つづけているうちに だんだんかわると気づいたのは、
つい最近のことだ。
自分が担当者として そのままくりかえしていても
メンバーが経験をつみあげるうちに、
そしてみんなが歳をとるにつれ、
状況はすこしずつかわっていく。
さきのことを気にせずに、
目にまえの仕事をひとつずつ確実にこなしていくこと。
かんたんにできることでも手をぬかないこと。
そのなかで、自分のやりたいことを
すこしずつつつみあげていくこと。
けっきょくそれしかできないし、
そのくりかえしが すこしさきにつながっていく。
夜になると毎晩わたしのひざのうえにきてくれたピピが、
このごろは母のこたつのなかばかりにいる。
夜中におこされて文句をいっていたのに、
いまとなってはピピがこないとさみしい。
かわらないようにみえて
すこしながい目でみると 変化に気づく。
逆方向へもどったりしない。
毎日、人はおなじようなことをしている。
昨日と今日とをくらべても、あんまりちがってない。
毎日、「昨日におなじ」と記しておいても、
じぶんでは気づかないくらいだと思う。
しかし、毎日おなじように見えるのに、
日と日の間を、1年くらいおいてみると、
ずいぶん変わっているということに気づく。
と糸井さんがかいていた。
ほんとうだ。
変化がないようにみえて、
ながい目でみるとちゃんとかわっている。
最近まで、わたしはそれがわからずに
さきをいそいでばかりいた。
大切なのは過去でも未来でもなく、いまだ、とよくいわれる。
もっともらしくひびくので、それをきいたときは、
なにかだいじな秘密をしらされたような気がした。
でも、じっさいに「いま」を大切にするとは
どういうことなのだろう。
わたしは、「いま」がだいじといいながら、
解釈をまちがえて、さきをいそぎすぎていた。
動物やちいさな子どもには「いま」しかない。
でも、おとなが「いま」を生きるのは、
すごくむつかしいのではないか。
ついさきに目がいってしまい、
結果として「いま」をそこなっている。
わたしは 子どもみたいに生きられるほどの
人物ではなかった。
職場でおなじことをくりかえす日がつづくと、
あるいは、毎年おなじ企画をくりかえしていると、
これからずっとそんな生活のような気がして
なにか変化をつけたくなる。生きいそぐとでもいうのだろうか。
たとえばなにかの担当になったときに、
自分で何回かやると、もうわたしはいいから
はやく若手にバトンをわたしてしまいたくなる。
「いま」はかぎられているのだから、
おなじところでぐずぐずしたくなかったのだ。
わたしにとって「いま」を大切にするのは、
はやく さきにすすむことだった。
そんなにあわてなくても、
つづけているうちに だんだんかわると気づいたのは、
つい最近のことだ。
自分が担当者として そのままくりかえしていても
メンバーが経験をつみあげるうちに、
そしてみんなが歳をとるにつれ、
状況はすこしずつかわっていく。
さきのことを気にせずに、
目にまえの仕事をひとつずつ確実にこなしていくこと。
かんたんにできることでも手をぬかないこと。
そのなかで、自分のやりたいことを
すこしずつつつみあげていくこと。
けっきょくそれしかできないし、
そのくりかえしが すこしさきにつながっていく。
夜になると毎晩わたしのひざのうえにきてくれたピピが、
このごろは母のこたつのなかばかりにいる。
夜中におこされて文句をいっていたのに、
いまとなってはピピがこないとさみしい。
かわらないようにみえて
すこしながい目でみると 変化に気づく。
逆方向へもどったりしない。
2016年01月09日
「自由ポータルZ」にえらばれなかった
残念ながら、「自由ポータルZ」に応募したわたしの記事
「なんちゃって自然農法でお米がつくれるか?」は採用されなかった。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/431512824.html?1452298646
落選の理由がしらされるわけではないので、
いたらなかった点を自分で分析する。
企画がまじめすぎたのかもしれない。
トホホ感にうすく、よんでおもしろい内容とはいえないし、
みせる技術や工夫がつたなすぎる。
おちるには、それなりに理由があるのだ。
「負けに不思議な負けなし」と自分にいいきかせる。
自分がよい読者である自信はあるけど、
だからといって すぐれたかき手にはなれなかった。
「デイリーポータルZ」にのる記事をみると、
わたしにはとうていおもいつけない発想がおおく、
常識からはみだすスケールのちがいをみせつけられる。
自然農法による米づくりは、
それまでの記事をまとめたものであり、
おなじ路線での第2弾はかけない。
ほかにこれといったもちネタはないし、
アイデアをいじくる「へんてこさ」にも とぼしいわたしは
自分のいたらなさをかみしめるしかない。
よくいうように「ピンチはチャンス」だ
(べつに「ピンチ」じゃないけど)。
おおもとから発想をみなおせという、神さまのおつげかもしれない。
とはいえ残念である。がっかりした。
林さんにコメントしてほしかったのに くやしい。
ふらふらと「デイリーポータルZ」をのぞいたら、
またものけぞるような記事がならんでいる。
http://portal.nifty.com/cs/anniversary9th/list/1.htm
・虫さされは無精ヒゲで掻くと気持ちいい
・鹿の角はあたたかくて気持ちいい
・湿布をはがした直後に入浴すると刺激的で楽しい
・ゲームコントローラーを持ってTVを見ると操作している気分
・差し入れを持っていくとみんな喜ぶので気持ちいい
・JR中央線の連結器部分のきしむ音があえぎ声に聞こえる
・バナナを横から裂いてスプーンで食べると新鮮
・熊のぬいぐるみのまねをするといい運動になる
など、このひとなにをかんがえてるんだ、
みたいな記事がずらっとならんでいる。
いぜんにやった「9周年とくべつ企画」だという。
「とくべつ」をひらがなでかかなければいけないくらい
特別にどーでもいいことばかりだ。
ひとりひとりのライターもすぐれているし、
チームとしてのおもしろみも発揮できるつよみがある。
おとされた残念さをうけとめながら、
デイリーポータルZのすぐれた点にまなんでいきたい。
「なんちゃって自然農法でお米がつくれるか?」は採用されなかった。
http://parupisupipi.seesaa.net/article/431512824.html?1452298646
落選の理由がしらされるわけではないので、
いたらなかった点を自分で分析する。
企画がまじめすぎたのかもしれない。
トホホ感にうすく、よんでおもしろい内容とはいえないし、
みせる技術や工夫がつたなすぎる。
おちるには、それなりに理由があるのだ。
「負けに不思議な負けなし」と自分にいいきかせる。
自分がよい読者である自信はあるけど、
だからといって すぐれたかき手にはなれなかった。
「デイリーポータルZ」にのる記事をみると、
わたしにはとうていおもいつけない発想がおおく、
常識からはみだすスケールのちがいをみせつけられる。
自然農法による米づくりは、
それまでの記事をまとめたものであり、
おなじ路線での第2弾はかけない。
ほかにこれといったもちネタはないし、
アイデアをいじくる「へんてこさ」にも とぼしいわたしは
自分のいたらなさをかみしめるしかない。
よくいうように「ピンチはチャンス」だ
(べつに「ピンチ」じゃないけど)。
おおもとから発想をみなおせという、神さまのおつげかもしれない。
とはいえ残念である。がっかりした。
林さんにコメントしてほしかったのに くやしい。
ふらふらと「デイリーポータルZ」をのぞいたら、
またものけぞるような記事がならんでいる。
http://portal.nifty.com/cs/anniversary9th/list/1.htm
・虫さされは無精ヒゲで掻くと気持ちいい
・鹿の角はあたたかくて気持ちいい
・湿布をはがした直後に入浴すると刺激的で楽しい
・ゲームコントローラーを持ってTVを見ると操作している気分
・差し入れを持っていくとみんな喜ぶので気持ちいい
・JR中央線の連結器部分のきしむ音があえぎ声に聞こえる
・バナナを横から裂いてスプーンで食べると新鮮
・熊のぬいぐるみのまねをするといい運動になる
など、このひとなにをかんがえてるんだ、
みたいな記事がずらっとならんでいる。
いぜんにやった「9周年とくべつ企画」だという。
「とくべつ」をひらがなでかかなければいけないくらい
特別にどーでもいいことばかりだ。
ひとりひとりのライターもすぐれているし、
チームとしてのおもしろみも発揮できるつよみがある。
おとされた残念さをうけとめながら、
デイリーポータルZのすぐれた点にまなんでいきたい。
2016年01月08日
年賀状の返事を手紙でだす
いただいた年賀状の返事をだす。
きょねんは1月5日まで旅行にでていたので、
いまさら年賀状をつくるよりは、と
手紙にして寒中みまいのような返事にしたらすごく楽だった。
それに味をしめ、これからも手紙ですまそうとおもう。
手紙というと、いっけんやっかいだけど、
年賀状のデザインをきめたり
印刷するのだって、あんがいめんどくさい。
手紙のよさは、画一されたうつくしさと、
なんとなくもっともらしい雰囲気にある。
年賀状をやめてクリスマスカードを、というやり方があるとはいえ、
年賀状もだせない人間が、クリスマスまでに とどけられるわけがない。
その点 寒中みまいは、松の内をおえた
1月7日よりあとにだせばいいそうで、
おそくなりがちなわたしには なにかと都合がいい。
手紙のスタイルは、『知的生産の技術』で
梅棹忠夫さんが紹介されていたものを
そのままつかっている。
1969年のふるい本なのに、
手紙のかき方は、いまでもじゅうぶん参考になる。
まさに「技術」であり、形式をおさえたら
ちゃんとうつくしい手紙ができあがる。
右うえに日づけ、左うえにあて名をかき、
本文のしたにサインをいれる。
かくことがあまりなくても、
おきまりのあいさつをのべ、行間をひろくとったりすれば
なんとかかっこうがつく。
本文には、あたりさわりのないことを
ただ紙をうめるためだけにかけばいい。
用件よりも たよりをだしたという事実が大切なのであり、
いくつかの形式をまもりさえすれば、
だれにだしてもはずかしくない手紙が わたしにもかける。
内容は、もちろんコピー・ペーストがおおい。
型ができあがると、ほとんどのひとにおなじものをつかう。
ほんのすこし内容をかえるだけで、
だれにたいしても にたような手紙をかいている。
味けないようだけど、それは年賀状だっておなじだ。
問題はサインだ。
自分の氏名を漢字でかくだけなので、
字のへたくそなのがごまかせない。
芸能人みたいなサインはさすがにはずかしいけれど、
外国人がサラサラっとかくようなサインをきめてみたい。
梅棹さんは、サンショウウオににせた
すてきなサインをつづっている。
わたしもそんなサインがほしいとおもいつつ、
ずっと気のきかない「署名」をつづけてきた。
ネットをみると、ちゃんと
「サインのかき方」みたいなサイトもあるようだ。
シンプルでかっこいいサインを
わかいうちから 身につけておけばよかった。
きょねんは1月5日まで旅行にでていたので、
いまさら年賀状をつくるよりは、と
手紙にして寒中みまいのような返事にしたらすごく楽だった。
それに味をしめ、これからも手紙ですまそうとおもう。
手紙というと、いっけんやっかいだけど、
年賀状のデザインをきめたり
印刷するのだって、あんがいめんどくさい。
手紙のよさは、画一されたうつくしさと、
なんとなくもっともらしい雰囲気にある。
年賀状をやめてクリスマスカードを、というやり方があるとはいえ、
年賀状もだせない人間が、クリスマスまでに とどけられるわけがない。
その点 寒中みまいは、松の内をおえた
1月7日よりあとにだせばいいそうで、
おそくなりがちなわたしには なにかと都合がいい。
手紙のスタイルは、『知的生産の技術』で
梅棹忠夫さんが紹介されていたものを
そのままつかっている。
1969年のふるい本なのに、
手紙のかき方は、いまでもじゅうぶん参考になる。
まさに「技術」であり、形式をおさえたら
ちゃんとうつくしい手紙ができあがる。
右うえに日づけ、左うえにあて名をかき、
本文のしたにサインをいれる。
かくことがあまりなくても、
おきまりのあいさつをのべ、行間をひろくとったりすれば
なんとかかっこうがつく。
本文には、あたりさわりのないことを
ただ紙をうめるためだけにかけばいい。
用件よりも たよりをだしたという事実が大切なのであり、
いくつかの形式をまもりさえすれば、
だれにだしてもはずかしくない手紙が わたしにもかける。
内容は、もちろんコピー・ペーストがおおい。
型ができあがると、ほとんどのひとにおなじものをつかう。
ほんのすこし内容をかえるだけで、
だれにたいしても にたような手紙をかいている。
味けないようだけど、それは年賀状だっておなじだ。
問題はサインだ。
自分の氏名を漢字でかくだけなので、
字のへたくそなのがごまかせない。
芸能人みたいなサインはさすがにはずかしいけれど、
外国人がサラサラっとかくようなサインをきめてみたい。
梅棹さんは、サンショウウオににせた
すてきなサインをつづっている。
わたしもそんなサインがほしいとおもいつつ、
ずっと気のきかない「署名」をつづけてきた。
ネットをみると、ちゃんと
「サインのかき方」みたいなサイトもあるようだ。
シンプルでかっこいいサインを
わかいうちから 身につけておけばよかった。
2016年01月07日
よろしくおねがいします。
まえにつとめていた職場で、
あたらしく事業所を利用される方の
歓迎会がひらかれたとき、
「よろしくおねがいします」をつかわないよう提案してみた。
たいていの職員は、こうした場合 かんたんな自己紹介のあとに、
「よろしくおねがいします」でおわることがおおい。
みんながおなじしめくくりをしては おもしろくないので、
たまにはちがった発言となるように しばりをつけたのだ。
やってみるとわかるけど、
「よろしくおねがいします」がいえないと、すごくこまる。
こまるけど、おもしろかった。
禁止されてみると、ひごろどれだけこのことばを
イージーにつかっているのかがよくわかる。
なにを「よろしく」なのか、
これだけではさっぱりわからないのに、
いったほうも いわれたほうも、
なんとなく納得できるからべんりなことばだ。
そもそも「よろしくおねがいします」に、
意味なんてない。
これはあいさつのひとつであり、
「こんにちは」に意味がないのとおなじで、
「よろしくおねがいします」は情報をふくまない。
ほかにも、たとえば葬式のときに「このたびは・・・」を
きんじられたら すごくこまる。
「おやすみなさい」にかえて、
たまにはちがうことばをつかいなさい、
なんてやられたら ベッドにもいけない。
ただ「よろしくおねがいします」は、
「おはよう」や「こんにちは」といった
完全なあいさつよりも なんとなく内容がありそうだ。
このあいまいさことが「よろしくおねがいします」の
ほんとうの意味ではないか。
なにかをいっているようで、じつはなにもいってない。
その場にいるひとが身内どうしとかんじる空気をつくり、
わたしも仲間のひとりですよと、つたえているだけだ。
「よろしくおねがいします」こそが、
日本語らしいことばかもしれない。
「よろしくおねがいします」をつかわずに
わたしがどんなあいさつをしたのかは わすれてしまった。
まえは あいまいなことばをきらっていたのに、
このごろは 日本語特有の便利な表現として
平気で連発している。
あいまいさがわるいなんて おもいこみにすぎなかった。
「よろしくおねがいします」をマスターしたおかげで、
わたしは日本人になった。
あたらしく事業所を利用される方の
歓迎会がひらかれたとき、
「よろしくおねがいします」をつかわないよう提案してみた。
たいていの職員は、こうした場合 かんたんな自己紹介のあとに、
「よろしくおねがいします」でおわることがおおい。
みんながおなじしめくくりをしては おもしろくないので、
たまにはちがった発言となるように しばりをつけたのだ。
やってみるとわかるけど、
「よろしくおねがいします」がいえないと、すごくこまる。
こまるけど、おもしろかった。
禁止されてみると、ひごろどれだけこのことばを
イージーにつかっているのかがよくわかる。
なにを「よろしく」なのか、
これだけではさっぱりわからないのに、
いったほうも いわれたほうも、
なんとなく納得できるからべんりなことばだ。
そもそも「よろしくおねがいします」に、
意味なんてない。
これはあいさつのひとつであり、
「こんにちは」に意味がないのとおなじで、
「よろしくおねがいします」は情報をふくまない。
ほかにも、たとえば葬式のときに「このたびは・・・」を
きんじられたら すごくこまる。
「おやすみなさい」にかえて、
たまにはちがうことばをつかいなさい、
なんてやられたら ベッドにもいけない。
ただ「よろしくおねがいします」は、
「おはよう」や「こんにちは」といった
完全なあいさつよりも なんとなく内容がありそうだ。
このあいまいさことが「よろしくおねがいします」の
ほんとうの意味ではないか。
なにかをいっているようで、じつはなにもいってない。
その場にいるひとが身内どうしとかんじる空気をつくり、
わたしも仲間のひとりですよと、つたえているだけだ。
「よろしくおねがいします」こそが、
日本語らしいことばかもしれない。
「よろしくおねがいします」をつかわずに
わたしがどんなあいさつをしたのかは わすれてしまった。
まえは あいまいなことばをきらっていたのに、
このごろは 日本語特有の便利な表現として
平気で連発している。
あいまいさがわるいなんて おもいこみにすぎなかった。
「よろしくおねがいします」をマスターしたおかげで、
わたしは日本人になった。
2016年01月06日
「ヤバイ」のつづき。南ア戦にもはげしく感動
澤選手の引退記念番組につられ、
録画しておいたラグビーWカップ「日本代表 南ア戦を語る」をみる。
これまたはげしくこころをゆさぶられる試合だ。
とくに後半終了間際、日本のがんばりに
会場全体が日本をあとおしするムードになってからがすごい。
魂をこめた日本選手のプレーに、お客さんがさけんでいる。
かんきわまったサポーターの目に、自然となみだがあふれている。
ラストのトライでは、アナウンサーが
「いけー!いけー!」と
声をふりしぼり、なきながらの実況放送に
こちらもまたなみだをこぼす。
感動的な試合内容がかたりつがれるように、
この実況もまた、歴史にのこるのではないか。
こうした試合は、なかないほうがどうかしている。
澤選手の試合にしろ、この南ア戦にしろ、
みれば感動するにきまっている。
涙腺がどうこうというよりも、
無意識のおくふかくにねむっている感情を
ゆさぶられるかんじだ。
試合をふりかえりながら、南アフリカの選手がコメントをいれる。
「あの敗戦でわたしたちは目をさまし、
よりつよくなるための教訓にしました。
それができるのがスポーツの魅力です」
たしかに、どんなにきびしい、あるいはうれしい結果でも、
つぎにどうつなげていくのかこそが大切になる。
南アフリカにかつのは ひとつの目標ではあったけれど、
それで時計がとまるわけではない。
まけたほうにしても、まけたときこそ
つぎにどうするかで 選手・チームの価値がとわれる。
日本だって、それまでのくやしい試合があったからこそ
あの南ア戦があった。
気になるのはスポーツイノベーションのうごきだ。
あらゆるデーターを分析して勝利をめざすのは、
情報戦の傾向がつよすぎるようにおもえてくる。
とはいえ、どこまでコンピューターにたよるのかの
線びきもまたむつかしいだろう。
いまではスマホに観戦用のアプリがはいっていると、
選手たとちとおなじデーターをお客さんもみられるそうだ。
そんな時代のスポーツ観戦が、ひとむかしまえと
おなじやり方ですむわけがない。
ビックデーターによるスポーツイノベーションは、
いまはじまったばかりだ。
いくら便利だからといって、だれもがスマホをあやつりながら、
リプレイやデーター分析に熱中する スポーツ観戦になってほしくない。
南ア戦でのジャイアントキリングは、
情報をもとにねられた作戦が背景にある。
だからといって、あの感動がさしひかれたりしない。
データーはデーター、試合は試合だ。
録画しておいたラグビーWカップ「日本代表 南ア戦を語る」をみる。
これまたはげしくこころをゆさぶられる試合だ。
とくに後半終了間際、日本のがんばりに
会場全体が日本をあとおしするムードになってからがすごい。
魂をこめた日本選手のプレーに、お客さんがさけんでいる。
かんきわまったサポーターの目に、自然となみだがあふれている。
ラストのトライでは、アナウンサーが
「いけー!いけー!」と
声をふりしぼり、なきながらの実況放送に
こちらもまたなみだをこぼす。
感動的な試合内容がかたりつがれるように、
この実況もまた、歴史にのこるのではないか。
こうした試合は、なかないほうがどうかしている。
澤選手の試合にしろ、この南ア戦にしろ、
みれば感動するにきまっている。
涙腺がどうこうというよりも、
無意識のおくふかくにねむっている感情を
ゆさぶられるかんじだ。
試合をふりかえりながら、南アフリカの選手がコメントをいれる。
「あの敗戦でわたしたちは目をさまし、
よりつよくなるための教訓にしました。
それができるのがスポーツの魅力です」
たしかに、どんなにきびしい、あるいはうれしい結果でも、
つぎにどうつなげていくのかこそが大切になる。
南アフリカにかつのは ひとつの目標ではあったけれど、
それで時計がとまるわけではない。
まけたほうにしても、まけたときこそ
つぎにどうするかで 選手・チームの価値がとわれる。
日本だって、それまでのくやしい試合があったからこそ
あの南ア戦があった。
気になるのはスポーツイノベーションのうごきだ。
あらゆるデーターを分析して勝利をめざすのは、
情報戦の傾向がつよすぎるようにおもえてくる。
とはいえ、どこまでコンピューターにたよるのかの
線びきもまたむつかしいだろう。
いまではスマホに観戦用のアプリがはいっていると、
選手たとちとおなじデーターをお客さんもみられるそうだ。
そんな時代のスポーツ観戦が、ひとむかしまえと
おなじやり方ですむわけがない。
ビックデーターによるスポーツイノベーションは、
いまはじまったばかりだ。
いくら便利だからといって、だれもがスマホをあやつりながら、
リプレイやデーター分析に熱中する スポーツ観戦になってほしくない。
南ア戦でのジャイアントキリングは、
情報をもとにねられた作戦が背景にある。
だからといって、あの感動がさしひかれたりしない。
データーはデーター、試合は試合だ。
2016年01月05日
いまでもヤバイ 澤選手のいあいぬきゴール
録画しておいた澤穂希選手の引退特別番組をみる。
いくつかの印象にのこる試合がとりあげられるなかで、
やはり特別なのは2011年Wカップ、アメリカとの決勝戦だ。
このWカップまで、女子サッカーをしらなかったわたしは、
あっという間に にわかファンとなり、
夜中におきだして 試合開始までの数時間をまった。
延長後半3分、宮間選手からのコーナーキックに澤選手が反応し、
いあいぬきのようなシュートをきめる。
起死回生の同点ゴール。
なんどみても、この場面はヤバイ。
なんであんなむつかしい角度のキックが
あの時間帯にきまるのだろう。
つづくPK戦を3-1でおさえた日本の選手たちが、
よろこびを爆発させてピッチをはしりまわる。
すこしまえのデイリーポータルZの
「高め合おう涙腺の弱さ」で
http://portal.nifty.com/kiji/151028194925_1.htm
ほんのささいな刺激に ないてしまうひとたちが、
涙腺のよわさを報告しあっている。
エアロビをみてなき、つかれたといってはなき、
自分の鼻歌にすらなみだをこぼすひとたち。
なかにはコンニャクをみただけでなく例も 紹介されている。
この記事をみると、澤選手のゴールにジワッとくるなんて
ごく正常な反応にすぎない。
おとなになってからこれまで
わたしがいちばんないたのは
かわいがっていたネコが みえなくなったときだ。
家のまわりをいくらさがしても みつからない
(ダメもとで図書館へいくと、
ちゃんと そんなときの本がおいてあっておどろいた。
さがし方や、ポスターのつくり方をおしえてくれる)。
さいわいネコは10日ほどでかえってきたけど、
さがしているあいだ わたしは絶望にかられ
なんどもなみだをこぼした。
そのときに、なくと とても気もちがすっきりするのをしる。
なにかこころをさわやかにする物質が 分泌されるにちがいない。
なきはじめはくるしいけど、
だんだんとすがすがしい気分になってくる。
女のひとがはげしくないても
たいして心配する必要はないな、なんておもった。
このまえラジオをきいていて、
『およげたいやきくん』のラストにジワッときた。
このときは、涙腺のよわさを気にするより
歌のつくり方がずるいとおもった。
きくひとを なかそうという意図が、
あの歌詞とメロディーには みえみえだ。
コンニャクをみただけでなくひとがいるのに、
みょなテクニックでなみだをさそうのはルール違反ではないか。
涙腺のよわさはしかたないけれど、
なみだをもてあそんではいけない。
いくつかの印象にのこる試合がとりあげられるなかで、
やはり特別なのは2011年Wカップ、アメリカとの決勝戦だ。
このWカップまで、女子サッカーをしらなかったわたしは、
あっという間に にわかファンとなり、
夜中におきだして 試合開始までの数時間をまった。
延長後半3分、宮間選手からのコーナーキックに澤選手が反応し、
いあいぬきのようなシュートをきめる。
起死回生の同点ゴール。
なんどみても、この場面はヤバイ。
なんであんなむつかしい角度のキックが
あの時間帯にきまるのだろう。
つづくPK戦を3-1でおさえた日本の選手たちが、
よろこびを爆発させてピッチをはしりまわる。
すこしまえのデイリーポータルZの
「高め合おう涙腺の弱さ」で
http://portal.nifty.com/kiji/151028194925_1.htm
ほんのささいな刺激に ないてしまうひとたちが、
涙腺のよわさを報告しあっている。
エアロビをみてなき、つかれたといってはなき、
自分の鼻歌にすらなみだをこぼすひとたち。
なかにはコンニャクをみただけでなく例も 紹介されている。
この記事をみると、澤選手のゴールにジワッとくるなんて
ごく正常な反応にすぎない。
おとなになってからこれまで
わたしがいちばんないたのは
かわいがっていたネコが みえなくなったときだ。
家のまわりをいくらさがしても みつからない
(ダメもとで図書館へいくと、
ちゃんと そんなときの本がおいてあっておどろいた。
さがし方や、ポスターのつくり方をおしえてくれる)。
さいわいネコは10日ほどでかえってきたけど、
さがしているあいだ わたしは絶望にかられ
なんどもなみだをこぼした。
そのときに、なくと とても気もちがすっきりするのをしる。
なにかこころをさわやかにする物質が 分泌されるにちがいない。
なきはじめはくるしいけど、
だんだんとすがすがしい気分になってくる。
女のひとがはげしくないても
たいして心配する必要はないな、なんておもった。
このまえラジオをきいていて、
『およげたいやきくん』のラストにジワッときた。
このときは、涙腺のよわさを気にするより
歌のつくり方がずるいとおもった。
きくひとを なかそうという意図が、
あの歌詞とメロディーには みえみえだ。
コンニャクをみただけでなくひとがいるのに、
みょなテクニックでなみだをさそうのはルール違反ではないか。
涙腺のよわさはしかたないけれど、
なみだをもてあそんではいけない。
2016年01月04日
トイレシート
このごろピピはトイレでおしっこをするより
ほかの場所での「おもらし」がおおくなった。
いろんなところでされてはたいへんなので、
あぶなそうなところにはトイレシートがひろげてある。
いちにちに4〜5回とりかえると、
100枚いりのシートがすぐになくなり
ホームセンターへかいたしにいく。
その気になってペット用品コーナーをみると、
おおきさや枚数のちがう いろいろな種類のトイレシートがおいてある。
それだけたくさんの としおいた犬やネコたちが、
さいごのときをむかえ、不自由になったシモの世話に
トイレシートがつかわれているのだ。
ちいさいときには ただかわいいといっていればよかったペットたちも、
年をとると人間とおなじように老化がすすんでくる。
わかいころのようにはたべられなくなり、
トイレが間にあわなくなったりするのも 人間とおなじだ。
トイレシートがたくさんうれているのは、
ちゃんとお世話をしてもらっている あらわれなのだろう。
すべての動物たちが、さいごまで家族として
たいせつにみとられるようねがう。
まえにみた番組で、
家族としてペットをかうのはいいけれど、
人間の寿命と相談してからにしましょうと、おさえていた。
犬やネコの平均寿命は15歳程度なので、
お世話をする人間の側が、
ちゃんとからだのうごくうちに
ペットたちのさいごを みとどけなければならない。
これから子ネコをわが家にむかえるときは、
わたしにのこされた時間の計算が必要になる。
ピピが口内炎をわずらってから1年半がすぎた。
たべたりのんだりがしにくくなり、
ゆっくり右さがりで体力がうばわれ 老化がすすんでいる。
わたしとしては、1年半まえから
さいごのおわかれのときをすごしているつもりなのに、
まさかこんなにがんばってくれるとはおもわなかった。
ながいきしてくれるのはうれしいものの、
介護のたいへんさもまた実感している。
なかには20歳以上いきるネコもいるし、
ギネス記録は32歳というから、そうなったら
老人というより もののけみたいだ。
ピピの介護をしながら自分の老後をおもう。
上野千鶴子さんがお父さんをみとったときの経験で
大型の哺乳類はなかなかかんたんには死なない、
となにかにかいていた。
からだがおおきければ それだけ体力があり、
さいごのくるしみがながい。
ネコの1年半は人間の6年にあたる。
6年も介護をうけたくはない。
寿命は自分でどうにもならないだけに残酷だ。
ほかの場所での「おもらし」がおおくなった。
いろんなところでされてはたいへんなので、
あぶなそうなところにはトイレシートがひろげてある。
いちにちに4〜5回とりかえると、
100枚いりのシートがすぐになくなり
ホームセンターへかいたしにいく。
その気になってペット用品コーナーをみると、
おおきさや枚数のちがう いろいろな種類のトイレシートがおいてある。
それだけたくさんの としおいた犬やネコたちが、
さいごのときをむかえ、不自由になったシモの世話に
トイレシートがつかわれているのだ。
ちいさいときには ただかわいいといっていればよかったペットたちも、
年をとると人間とおなじように老化がすすんでくる。
わかいころのようにはたべられなくなり、
トイレが間にあわなくなったりするのも 人間とおなじだ。
トイレシートがたくさんうれているのは、
ちゃんとお世話をしてもらっている あらわれなのだろう。
すべての動物たちが、さいごまで家族として
たいせつにみとられるようねがう。
まえにみた番組で、
家族としてペットをかうのはいいけれど、
人間の寿命と相談してからにしましょうと、おさえていた。
犬やネコの平均寿命は15歳程度なので、
お世話をする人間の側が、
ちゃんとからだのうごくうちに
ペットたちのさいごを みとどけなければならない。
これから子ネコをわが家にむかえるときは、
わたしにのこされた時間の計算が必要になる。
ピピが口内炎をわずらってから1年半がすぎた。
たべたりのんだりがしにくくなり、
ゆっくり右さがりで体力がうばわれ 老化がすすんでいる。
わたしとしては、1年半まえから
さいごのおわかれのときをすごしているつもりなのに、
まさかこんなにがんばってくれるとはおもわなかった。
ながいきしてくれるのはうれしいものの、
介護のたいへんさもまた実感している。
なかには20歳以上いきるネコもいるし、
ギネス記録は32歳というから、そうなったら
老人というより もののけみたいだ。
ピピの介護をしながら自分の老後をおもう。
上野千鶴子さんがお父さんをみとったときの経験で
大型の哺乳類はなかなかかんたんには死なない、
となにかにかいていた。
からだがおおきければ それだけ体力があり、
さいごのくるしみがながい。
ネコの1年半は人間の6年にあたる。
6年も介護をうけたくはない。
寿命は自分でどうにもならないだけに残酷だ。
2016年01月03日
高炭水化物な食事をたのしむ
きのうは配偶者の実家へむかうとちゅう
わたしだけ車をおりて 10キロはしった。
いつになくおだやかな天気がつづく年末年始となり、
順調にトレーニングがすすんでいる。
もっとも いつもながらゆっくりしかはしれず、
こんなランナーをみたら なにかの異常事態だと
かんちがいするひとがいるのではないか。
しりあいに
「はしっているのをみかけたよ」
といわれたら
「なんでたすけてくれなかったの?」
とききかえすことにしている。
それぐらいヘロヘロなはしりなのだ。
リハビリ中や、ものすごくていねいな
ウォーミングアップにみえたらありがたい。
LSDというには、はしりに余裕がなさすぎる。
たくさんはしってなにをするかというと、
ひるごはんをガツガツたべる。
ごはん・メン類・パンと、めちゃくちゃな献立の日がおおい。
献立というよりも、主食をならべただけ。
わたしにとっての食事とは、でんぷんをたっぷりとることで、
どうしてもごはんとメンとパン、みたいな
炭水化物の摂取に特化した食事となる。
すきなだけたべるために はしっているような気もする。
のこりもののおかずでごはんをたべたあと、
メン、そしてパンにうつる。
メンといっても、たいていはゆでたスパゲッティに
醤油とたっぷりのバターをからめただけだし、
パンもバターつき食パンがおおい。
スポーツ栄養学からみたときに、
こういう食事はどう評価されるのだろう。
このごろは、炭水化物がなにかと悪玉になっているけど、
こうした情報のうつろいやすさをよくしっているので、
低炭水化物ダイエットなんかにふりまわされない。
大胆に炭水化物をとりこみながら
低炭水化物ダイエットをしているひとに、
うらやましいでしょーと自慢したくなる。
炭水化物をたべれなくて、なにが食事かとおもう。
人類は、ながい歴史のうち
炭水化物をえられるようになったのは ごく最近にすぎず、
大量の炭水化物を処理できるからだに なっていないそうだ。
やっとふんだんに 炭水化物をたべられるようになったうれしさから、
わたしみたいな食事になるのかもしれない。
炭水化物をならべたメニューは
おさえられてきた欲求の反動であり、
人類が夢みてきた食事、ひとつの到達点ともいえる。
そういえば、すきな旅番組で料理がでてきても、
わたしが関心をよせるのたべものは パンやメンがおおく、
豪華な肉料理には ほとんどそそられない。
せっかく高炭水化物な食事を
かんたんにたべられるようになったのだから、
しっかりからだをうごかして、
ごはんとメンとパン、さらにいえば
粉モンとイモ類をたのしみたい。
いい時代に生まれたとおもう。
わたしだけ車をおりて 10キロはしった。
いつになくおだやかな天気がつづく年末年始となり、
順調にトレーニングがすすんでいる。
もっとも いつもながらゆっくりしかはしれず、
こんなランナーをみたら なにかの異常事態だと
かんちがいするひとがいるのではないか。
しりあいに
「はしっているのをみかけたよ」
といわれたら
「なんでたすけてくれなかったの?」
とききかえすことにしている。
それぐらいヘロヘロなはしりなのだ。
リハビリ中や、ものすごくていねいな
ウォーミングアップにみえたらありがたい。
LSDというには、はしりに余裕がなさすぎる。
たくさんはしってなにをするかというと、
ひるごはんをガツガツたべる。
ごはん・メン類・パンと、めちゃくちゃな献立の日がおおい。
献立というよりも、主食をならべただけ。
わたしにとっての食事とは、でんぷんをたっぷりとることで、
どうしてもごはんとメンとパン、みたいな
炭水化物の摂取に特化した食事となる。
すきなだけたべるために はしっているような気もする。
のこりもののおかずでごはんをたべたあと、
メン、そしてパンにうつる。
メンといっても、たいていはゆでたスパゲッティに
醤油とたっぷりのバターをからめただけだし、
パンもバターつき食パンがおおい。
スポーツ栄養学からみたときに、
こういう食事はどう評価されるのだろう。
このごろは、炭水化物がなにかと悪玉になっているけど、
こうした情報のうつろいやすさをよくしっているので、
低炭水化物ダイエットなんかにふりまわされない。
大胆に炭水化物をとりこみながら
低炭水化物ダイエットをしているひとに、
うらやましいでしょーと自慢したくなる。
炭水化物をたべれなくて、なにが食事かとおもう。
人類は、ながい歴史のうち
炭水化物をえられるようになったのは ごく最近にすぎず、
大量の炭水化物を処理できるからだに なっていないそうだ。
やっとふんだんに 炭水化物をたべられるようになったうれしさから、
わたしみたいな食事になるのかもしれない。
炭水化物をならべたメニューは
おさえられてきた欲求の反動であり、
人類が夢みてきた食事、ひとつの到達点ともいえる。
そういえば、すきな旅番組で料理がでてきても、
わたしが関心をよせるのたべものは パンやメンがおおく、
豪華な肉料理には ほとんどそそられない。
せっかく高炭水化物な食事を
かんたんにたべられるようになったのだから、
しっかりからだをうごかして、
ごはんとメンとパン、さらにいえば
粉モンとイモ類をたのしみたい。
いい時代に生まれたとおもう。
2016年01月02日
レッズファンにはありえない結果の天皇杯
杉江さんのブログ『帰ってきた炎の営業日誌』が
1月2日づけで更新されている。
はやい。
なにがあったのかのぞいてみると、
きのうのサッカー天皇杯についてかいてあった。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
むすこさんとやったウイイレの結果がそのまま試合で再現されたのだ。
レッズファンにとってはやりきれない結果、
というより悪夢だろうけど、
ブログとしてはとてもおもしろい。
がなける。
それにしても、なぜこんなことがおきるのか。
杉江さんは試合会場へむかおうとしてるのに、
わざわざむすこがゲームにさそってきて、
いつもはバルサのむすこが なぜかガンバをえらび、
いつもは杉江さんがかつのに
このときにかぎって1-2でまけ、
そして現実の試合もそのとおりにすすむ。
一般的には、印象にのこりやすい結果が
つよく記憶にやきつくだけ、と謎ときがされる。
むすこがほかのチームをえらび、
ほかの点差になったときがたくさんあっても
記憶にはのこりにくい、という説明だ。
でも、ここまで偶然がかさなると、
レッズファンにとっては
あらかじめおぜんだてされたとしか
おもえないだろう。
いったいだれがアレンジしたのか?
サッカーの神さまにきまっている。
わたしはガンバよりに試合をみていたので、
最高の展開だった。
すくないチャンスをいかしたガンバと、
いくらシュートをうってもきまらないレッズ。
だいじな試合にかてないのは レッズのお約束なので、
いつもながらのながれに わたしはほくそえむ。
決勝にふさわしい みどころいっぱの試合であったとともに、
レッズにたりないのは ツキだけではないと
おおくのひとがかんじる試合となった。
この試合でえた教訓を、レッズは来シーズンにいかせるだろうか。
1月2日づけで更新されている。
はやい。
なにがあったのかのぞいてみると、
きのうのサッカー天皇杯についてかいてあった。
http://www.webdoku.jp/column/sugie/
むすこさんとやったウイイレの結果がそのまま試合で再現されたのだ。
レッズファンにとってはやりきれない結果、
というより悪夢だろうけど、
ブログとしてはとてもおもしろい。
いつもどおりのサッカーを、いつもどおりのメンバーで、いつもどおりの相手に負けていく。
がなける。
それにしても、なぜこんなことがおきるのか。
杉江さんは試合会場へむかおうとしてるのに、
わざわざむすこがゲームにさそってきて、
いつもはバルサのむすこが なぜかガンバをえらび、
いつもは杉江さんがかつのに
このときにかぎって1-2でまけ、
そして現実の試合もそのとおりにすすむ。
一般的には、印象にのこりやすい結果が
つよく記憶にやきつくだけ、と謎ときがされる。
むすこがほかのチームをえらび、
ほかの点差になったときがたくさんあっても
記憶にはのこりにくい、という説明だ。
でも、ここまで偶然がかさなると、
レッズファンにとっては
あらかじめおぜんだてされたとしか
おもえないだろう。
いったいだれがアレンジしたのか?
サッカーの神さまにきまっている。
わたしはガンバよりに試合をみていたので、
最高の展開だった。
すくないチャンスをいかしたガンバと、
いくらシュートをうってもきまらないレッズ。
だいじな試合にかてないのは レッズのお約束なので、
いつもながらのながれに わたしはほくそえむ。
決勝にふさわしい みどころいっぱの試合であったとともに、
レッズにたりないのは ツキだけではないと
おおくのひとがかんじる試合となった。
この試合でえた教訓を、レッズは来シーズンにいかせるだろうか。
2016年01月01日
『夢果つる街』(トレヴェニアン)50代の必読書らしい
『夢果つる街』(トレヴェニアン・角川文庫)
『おすすめ文庫王国 2015』に、
50代の必読書としてすすめてあった。
わかいときによんでも「しみじみ感」がわからなくて、
もっとあとになると こんどは間にあわないらしい。
よみおえたいま、年代別の効果はともかくとして、
オールタイム・ベストにもランクインするくらい
すぐれた本だと ふかく満足している。
『夢果つる街』は、カナダのモンレアル
(英語よみではモントリオール)にある
移民たちのふきだまりの街、ザ・メインのものがたりだ。
アメリカや、カナダのほかの街ではなく、
フランス語圏という設定が、作品に独特の雰囲気をあたえており、
ザ・メインという街が影の主人公ともいえる。
ザ・メインは、チンピラや浮浪者もふくめ、さまざまな人々が
おたがいにおりあいをつけながらくらしている。
ザ・メインの微妙なバランスをたもっているのが
この地区を担当するラポワント警部補で、
よくもわるくもザ・メインの顔として
人々のくらしに目をくばる。
わかい男がさされる殺人事件がおき、
ラポワントは新人刑事のガットマンと捜査にあたることになった。
ところが、はじまったはずの捜査がなかなかすすまない。
ラポワントは街をぶらつきながら、ききこみをするのだけど、
いつまでたっても犯人像にちかづかない。
捜査線にうかんでくる人物は、
だれもがなにがしかの罪をおかしてはいるものの、
この事件の犯人ではなさそうだ。
犯人でないとわかれば かるくながせばいいようなものなのに、
この本はこまかな描写によってザ・メインの雰囲気をつたえている。
よんでいるうちに、この小説は、犯人さがしがテーマではなく、
ラポワントが ザ・メインへいだく 愛着をかいたものにみえてくる。
ラポワントは、ちからづくでにらみをきかせる ふるいタイプの警官で、
でもそれは自分の権力をたもつためではなく、
ザ・メインにくらす底辺のひとたちが
気になってしかたないからだ。
大学をでたばかりのガットマンは、
ラポワントのスタイルに反発をおぼえながらも、
しだいにザ・メインの特殊ななりたちを理解して
ザ・メインにはザ・メインのやり方があるとかんじるようになる。
ラポワントは53歳で、動脈瘤が原因の発作がときどきおこる。
いつまでこの仕事をつづけられるかわからない。
自分がそだってきたザ・メインを彼は愛し、
ザ・メインとともに生きた彼の人生は、
ザ・メインとともに くちおちてゆきそうだ。
ラポワント警部補とほぼおなじ年齢のわたしには、
おおくをのぞまなくなり、
自分にできることをこれまでどおりつづけるしかないという、
彼の人生観がよくわかる。
自分のスタイルは上司からふるいとおもわれてきたし、
動脈瘤もいつ破裂するかわならない。
それでもいまさらやり方をかえるわけにはいかないのだ。
捜査はきゅうな進展をみせ、おもわぬ犯人があきらかになる。
事件が解決してもラポワントの胸ははれず、
公園のベンチにひとり呆然とすわっている。
うしないつづけてきた人生に なみだがとまらない。
北村太郎氏の訳がこなれていて、
ラポワントのひとがらが 会話からよくつたわってくる。
この本にはコーヒーをのむ場面がおおい。
おいしそうなコーヒーだけでなく、
カスみたいなコーヒーを何杯もおかわりをする。
ふつうなら、よんでいるうちに
こっちもコーヒーがほしくなりそうだけど、
この本の場合はいちどもそんなふうにおもわなかった。
そのかわりにラポワントみたいに ひとにすすめたくなる。
「コーヒーでもどうだ?」
『おすすめ文庫王国 2015』に、
50代の必読書としてすすめてあった。
わかいときによんでも「しみじみ感」がわからなくて、
もっとあとになると こんどは間にあわないらしい。
よみおえたいま、年代別の効果はともかくとして、
オールタイム・ベストにもランクインするくらい
すぐれた本だと ふかく満足している。
『夢果つる街』は、カナダのモンレアル
(英語よみではモントリオール)にある
移民たちのふきだまりの街、ザ・メインのものがたりだ。
アメリカや、カナダのほかの街ではなく、
フランス語圏という設定が、作品に独特の雰囲気をあたえており、
ザ・メインという街が影の主人公ともいえる。
ザ・メインは、チンピラや浮浪者もふくめ、さまざまな人々が
おたがいにおりあいをつけながらくらしている。
ザ・メインの微妙なバランスをたもっているのが
この地区を担当するラポワント警部補で、
よくもわるくもザ・メインの顔として
人々のくらしに目をくばる。
わかい男がさされる殺人事件がおき、
ラポワントは新人刑事のガットマンと捜査にあたることになった。
ところが、はじまったはずの捜査がなかなかすすまない。
ラポワントは街をぶらつきながら、ききこみをするのだけど、
いつまでたっても犯人像にちかづかない。
捜査線にうかんでくる人物は、
だれもがなにがしかの罪をおかしてはいるものの、
この事件の犯人ではなさそうだ。
犯人でないとわかれば かるくながせばいいようなものなのに、
この本はこまかな描写によってザ・メインの雰囲気をつたえている。
よんでいるうちに、この小説は、犯人さがしがテーマではなく、
ラポワントが ザ・メインへいだく 愛着をかいたものにみえてくる。
ラポワントは、ちからづくでにらみをきかせる ふるいタイプの警官で、
でもそれは自分の権力をたもつためではなく、
ザ・メインにくらす底辺のひとたちが
気になってしかたないからだ。
大学をでたばかりのガットマンは、
ラポワントのスタイルに反発をおぼえながらも、
しだいにザ・メインの特殊ななりたちを理解して
ザ・メインにはザ・メインのやり方があるとかんじるようになる。
ラポワントは53歳で、動脈瘤が原因の発作がときどきおこる。
いつまでこの仕事をつづけられるかわからない。
自分がそだってきたザ・メインを彼は愛し、
ザ・メインとともに生きた彼の人生は、
ザ・メインとともに くちおちてゆきそうだ。
ラポワント警部補とほぼおなじ年齢のわたしには、
おおくをのぞまなくなり、
自分にできることをこれまでどおりつづけるしかないという、
彼の人生観がよくわかる。
自分のスタイルは上司からふるいとおもわれてきたし、
動脈瘤もいつ破裂するかわならない。
それでもいまさらやり方をかえるわけにはいかないのだ。
捜査はきゅうな進展をみせ、おもわぬ犯人があきらかになる。
事件が解決してもラポワントの胸ははれず、
公園のベンチにひとり呆然とすわっている。
うしないつづけてきた人生に なみだがとまらない。
ラポワントは深い悲しみに沈んでいた。祖父を思い、リュシールを思い、モイシェをおもったが、何よりも・・・自分を思って。わが身を思って。
北村太郎氏の訳がこなれていて、
ラポワントのひとがらが 会話からよくつたわってくる。
この本にはコーヒーをのむ場面がおおい。
おいしそうなコーヒーだけでなく、
カスみたいなコーヒーを何杯もおかわりをする。
ふつうなら、よんでいるうちに
こっちもコーヒーがほしくなりそうだけど、
この本の場合はいちどもそんなふうにおもわなかった。
そのかわりにラポワントみたいに ひとにすすめたくなる。
「コーヒーでもどうだ?」