毎日、人はおなじようなことをしている。
昨日と今日とをくらべても、あんまりちがってない。
毎日、「昨日におなじ」と記しておいても、
じぶんでは気づかないくらいだと思う。
しかし、毎日おなじように見えるのに、
日と日の間を、1年くらいおいてみると、
ずいぶん変わっているということに気づく。
と糸井さんがかいていた。
ほんとうだ。
変化がないようにみえて、
ながい目でみるとちゃんとかわっている。
最近まで、わたしはそれがわからずに
さきをいそいでばかりいた。
大切なのは過去でも未来でもなく、いまだ、とよくいわれる。
もっともらしくひびくので、それをきいたときは、
なにかだいじな秘密をしらされたような気がした。
でも、じっさいに「いま」を大切にするとは
どういうことなのだろう。
わたしは、「いま」がだいじといいながら、
解釈をまちがえて、さきをいそぎすぎていた。
動物やちいさな子どもには「いま」しかない。
でも、おとなが「いま」を生きるのは、
すごくむつかしいのではないか。
ついさきに目がいってしまい、
結果として「いま」をそこなっている。
わたしは 子どもみたいに生きられるほどの
人物ではなかった。
職場でおなじことをくりかえす日がつづくと、
あるいは、毎年おなじ企画をくりかえしていると、
これからずっとそんな生活のような気がして
なにか変化をつけたくなる。生きいそぐとでもいうのだろうか。
たとえばなにかの担当になったときに、
自分で何回かやると、もうわたしはいいから
はやく若手にバトンをわたしてしまいたくなる。
「いま」はかぎられているのだから、
おなじところでぐずぐずしたくなかったのだ。
わたしにとって「いま」を大切にするのは、
はやく さきにすすむことだった。
そんなにあわてなくても、
つづけているうちに だんだんかわると気づいたのは、
つい最近のことだ。
自分が担当者として そのままくりかえしていても
メンバーが経験をつみあげるうちに、
そしてみんなが歳をとるにつれ、
状況はすこしずつかわっていく。
さきのことを気にせずに、
目にまえの仕事をひとつずつ確実にこなしていくこと。
かんたんにできることでも手をぬかないこと。
そのなかで、自分のやりたいことを
すこしずつつつみあげていくこと。
けっきょくそれしかできないし、
そのくりかえしが すこしさきにつながっていく。
夜になると毎晩わたしのひざのうえにきてくれたピピが、
このごろは母のこたつのなかばかりにいる。
夜中におこされて文句をいっていたのに、
いまとなってはピピがこないとさみしい。
かわらないようにみえて
すこしながい目でみると 変化に気づく。
逆方向へもどったりしない。