青山南さんが「変身の半世紀」という記事をよせている。
カフカの『変身』のグレゴール・ザムザは、20世紀のニッポンの翻訳ではおおむね、「毒虫」に変わったとされてきた。(中略)
しかし、あらためて考えてみると、グレゴールはどうして自分を「毒虫」、すなわち「毒を持った虫」として認識できるのか?(中略)
だから、「毒虫」という訳語は、冷静に考えてみれば、踏みこみすぎの、勇み足の選択だったのだと言って、きっとかまわない。
お、するどい指摘だ。
そういえば、目がさめたときに、
なんで自分が「毒虫」になったと ザムザは認識できたのだろう。
このはなしをよんでおもいだしたのが、
『海辺のカフカ』にでてきた冷蔵庫だ。
こまかいところはふたしかな記憶ながら、
メーカー名がかいてないけど東芝製、と描写されていた。
そうしたら、メーカー名がついてないのに
なぜ「僕」はそれが東芝製だとわかったのですか?と
たずねた読者がいた(メールによる質問集『少年カフカ』)。
村上さんは、メーカー名がなければわかるわけありませんね、と
あっさりまちがいをみとめ、増刷するときに訂正されている。
冷蔵庫がそれだけ没個性な製品だと、
それまではおもってもみなかった。
たしかに、テレビや洗濯機にしても、
みただけでメーカー名がわかるほど独特なデザインは
あまりおおくないかもしれない。
アップルのパソコンならまだしも、
冷蔵庫はそれほど個性をうりものにしていない。
そうかとおもえば、『カフカ』にでてくるマツダのファミリアは
駐車場に停まっている白のファミリアは、たしかに目立たなかった。それは匿名性という分野におけるひとつの達成であるようにさえ思えた。一度目をそらしたら、どんなかたちをしていたかほとんど思い出せなかった。
なんてかかれている。
冷蔵庫とちがい、たいていの車は
みただけでその車種がわかる。
そのなかでカフカにかかれているファミリの地味さはきわめて異例だ。
「匿名性という分野におけるひとつの達成」は
さすがに冗談だろうけど、このファミリアはきっと
めだたない、めだちたくないをコンセプトに
デザインされた車なのだろう。
自己主張がつよくない車の魅力というのも
わかるような気がする。
冷蔵庫はメーカー名がかかれてはじめて
その製品名がわかる。
マツダファミリアはマツダファミリアでありながら
匿名性をうりものにしている。
『変身』にはなしをもどすと、
ザムザは目をさましたときに 自分が毒虫だとわかった。
これはもう、ただわかったとしか、いいようがないのではないか。
そんなことをいえば、
わたしななぜ自分がほかのだれでもなく、自分自身だと、
なんの疑問もなくうけいれているのだろう。
なぜ自分が「毒虫」なのかは、
毒をもっているという本質をたしかめなくても 本人にはわかる。
東芝冷蔵庫もマツダファミリアも、
つけられている名前によって 本質を認識されるように。
自分でかいておきながら、まったく めちゃくちゃなこじつけだ。
自己認識とこじつけに、なにか関係があるだろうか。