2016年01月24日

福岡伸一さんの「トカゲを振り向かせる方法」

朝日新聞に連載されている福岡伸一さんのコラムに
「トカゲを振り向かせる方法」がのっていた
(「福岡伸一の動的平衡」1月21日)。
動物園の爬虫類コーナーなどで、じっとしているトカゲを
どうやってこちらにふりむかせるか。
ガラスをたたいても、まずうまくいかない。
福岡さんによると、
トカゲの目の前に手をかざしておいて、急にぱっと引っ込める。すると彼はキッと首をたてる。なぜなら生物にとっての「情報」とは消えることだから。

秋になってキノコがはえてくるのも、
「暖かい気温が消えたことを感知して」らしい。

人間は、きえてゆく変化に
あんがい気がつきにくいのではないか。
きゅうにきえたらわかるけど、ゆっくりの変化、
たとえばいままでたくさんみかけたものが
だんだんすくなくなって、
やがてなくなっていくときはみすごしやすい。

外国を旅行していると、かわったものが目にはいったときは
すぐに気がつくけど、
べつの地方にいって、それがみえなくなったときには
変化をみすごしやすいと、
フィールドワークの本にかいてあった。
だから記録には、目にはいるものと、みえなくなったものの
両方をかきこんでおかないとつかえない。

かつてはなばなしく活躍し、
最近はみかけなくなった芸能人たちの
「いま」をおっかけた記事がときどき雑誌にのるのは、
やじうま根性だけでなく、
生物としてただしい関心のもち方なのかもしれない。
はなばなしくあらわれた いまをときめくスターよりも、
表舞台からきえていった元人気者たちにより、
わたしたちはおおくの教訓をえる。

ついでにいうと、ブログやエッセイをよむときに、
だれかが好調に仕事をすすめているはなしよりも、
なんらかの事情によって つまづいているときのほうが
わたしは興味ぶかくよめる。
「傷口をなめあう」や、
「ひとの不幸は蜜の味」というのともちがう。
不幸ではなく調子のわるさのはなしだ。
ひとの不調は自分にもおぼえのあることがおおいので、
参考になるからだろうか。
調子よくいかないはなしにひかれるのは
生物として、なにかわけがあるような気がしてきた。

不調は変化であり、これからなにか
あたらしいうごきが おこりつつあるのかもしれない。
いっぽう、不幸はすでにおきてしまった状況なので、
いまさら関心をもってもおそすぎる。
すでにほかのだれかが不幸につけいって
うまい汁をすっているだろう。
その結果として不幸になったともいえる。
こんなふうにこじつけると、
すべてを種としての「生物」のせいにできるので
便利だし、もっともらしい。
福岡伸一さんも、あんがいその線をねらってかいた記事だったりして。

posted by カルピス at 22:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする