では、このふたつの時代のちがいとはなんなのか。
稲作についての本をよんでいると、
弥生時代とは、ようするに
米づくりが日本じゅうにひろまった結果
ひきおこされた時代と、
とらえてもいいようにおもえてきた。
米づくりがひろまることで
社会のしくみがかわるほどの大変化がおき、
あたらしい時代、つまり弥生時代がはじまった。
年代でいうと、わたしの大雑把な理解では、
縄文時代はだいたい紀元前であり、
紀元後にはいると弥生時代がスタートする。
そんなとらえ方で、わかったつもりになっていたら、
24日の朝日新聞「文化の扉」で、弥生時代についての
最近の研究が紹介された。
それによると、 弥生時代のはじまりは
紀元前10〜9世紀と、これまでの説を大幅にさかのぼっている。
また、稲作をつたえた渡来人が、
狩猟採集をしていた縄文人を駆逐したと
以前はいわれていたけれど、
新説は
縄文系が農耕を受け入れ、(渡来人とともに)弥生時代をはぐくんだ
ととらえている。
ふたつの時代は特徴にちがいがあるけれど、
それをになったひとびとに断絶はなく、
縄文人が稲作をうけいれ、渡来人とともに
弥生文化をそだてていったというとらえ方は、
征服や駆逐ではなく、共存をイメージできる。
平和的な社会変革が日本でおこなわれていたことを
うれしくおもう。
渡来人がつたえたのは
おそらくほぼ完成された水田稲作の技術であり、
それが急速にひろまったのだから、
狩猟採集をしていた縄文人にとって、
よほど魅力的な技術とおもえたのにちがいない。
わたしにとって縄文時代とは、照葉樹林文化であり、
水田稲作をみたからといって、
すぐにとびついてほしくない気もちがあるけれど、
どうやらかんたんに勝負はついてしまったようだ。
この記事により、
渡来人が水田稲作、つまり田うえの技術をもちこみ、
それがすごいスピードで日本じゅうにひろまっていったようすが
リアルにイメージできるようになった。
渡来人に水田稲作をおそわる縄文人たちの姿が
ありありと目にうかぶ。
彼らは水田稲作をとりいれたけれど、
照葉樹林文化を完全にすてたわけではない。
たとえば納豆ごはんは、
照葉樹林文化と水田稲作とのすぐれた融合である。
渡来人に駆逐されたのではなく
ともに弥生時代をになったという新説にすくわれた。