2016年02月29日

ほぼ日が提案する「2月29日はさぼる日」

2月29日。
ほぼ日は4年にいちどのこの日を「さぼる日」と位置づけ、
会社をあげて「さぼる」のだという。
http://www.1101.com/20160229/index.html
さぼれ、さぼれ、今日は気持ちよくさぼってみたまえ。
映画館に行け。脂っこいものを食え。人に迷惑をかけろ。
約束を破れ。変な服を着ろ。大事なものを捨ててしまえ。
帳尻合わせのような2月29日を、
いつもと違う何かでいっぱいにしよう。

なんてすてきな提案だろう。
糸井さんが、うえにあげた理念をかかげたのは2008年で、
3回目となる今回は、
すこしずつまわりにひろがっている手ごたえがあるそうだ。
さぼるのを 反対するひとなんか いないとおもうけど、
「会社をあげて」となると さしさわりがでてくるのかもしれない。
バレンタインやハロウィンみたいに、
自由な解釈をくわえながら
日本じゅうにひろまればうれしい。

・なまける
・ぐーたらする
・さぼる

これら3つは、にているようで、
ビミョーになにかがすこしずつちがう。
これらの本質を理解するには、3つのうちのどれでもいいから
とにかく実践してみるといい。
あたまでいじくりまわすだけではだめで、
ある程度かずをこなす必要がある。
糸井さんは、あそびとして「さぼる」を提案しながら、
おおくのひとが じっさいに「さぼる」機会を得た意味はおおきい。

さぼるのがじょうずなひとは 年をとるにつれて
ますますさぼるのがじょうずになり、
そうでないひとは、いつまでもうまくさぼれない。
この格差をすくなくするには、
無理をしてでもさぼる体験がどうしても必要となる。
社会全体がいっせいに「さぼる」のに
抵抗があるひともいるかもしれない。
そんなひとこそ、日常的なさぼりがもとめられている。

「4年にいちど」では すこしものたりない。
とはいえ、毎月ではありがたみがないので、
春・夏・秋・冬の季節にあわせて
いちねんに4回くらいがちょうどいいとおもう。
それくらい頻繁に「さぼる」を体験すれば、
さぼり方が自然と身についてゆき
日本独特といわれる仕事のスタイルが
すこしはかわっていくだろう。

わたしもこの日をたのしみにしてたけど、
なぜかいちにちずれてかぞえており、
きょうが2月28日だとかんちがいしていた。
あしたが本番だとおもっていたら、
あしたはもう3月1日だ。
4年にいちどしかない わたしの2月29日は、
しらない間に どこかへまぎれてしまった。
いつもあたりまえにさぼりすぎていると、
さぼる日をとりにがしたりするので油断ならない。

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2016年02月28日

ぐるっと松江 レイクラインにのって観光地をまわる

松江には、市内の観光地を一周するバス
「レイクライン」がはしっている。
きょうは余暇支援の「仕事」で、
このレイクラインにのって市内をまわる。
観光客むけのコースをはしるけど、もちろん一般市民がのってもいい。
運転手はたいていわかい女性で、
ワインレッドの制服がきまっている。

レイクラインのデザインは、レトロ調に統一されており、
ハデめの車体がすごく目をひく。
一周50分と手ごろだし、観光客気分にひたれるので、
わたしはこのレイクラインをひいきにしており、
仕事がらみとはいえ、もう100回以上のっている。
きょうはお天気がよく、窓のそとをみると
お城をかこむ堀川には 遊覧船がうかんでいる。
きれいな町だなーと、しみじみとおもった。
観光客だって、こんな町をたずねたいとおもうだろう。

でも、レイクラインと堀川遊覧船がととのえられるまで、
松江はなにもない町、というイメージをわたしはもっていた。
有名な小泉八雲にしても、じっさいに松江にすんすんだのは
ほんのいちねんほどなのに、
小泉八雲だけでくっていこうという姿勢が
いかにもうしろむきで、町の停滞をかんじた。
松江の観光について、危機感をもったひとが市役所にいたのだろう。
堀川遊覧船につづき、レイクラインがはしりだすと、
わかりやすい観光のシンボルとなり、
市民も松江の観光に目をむけるようになった。
シャッターをおろした店がおおかった商店街も、
なんとかじぶんたちでもりあげようと、
いろいろなイベントにとりくむようになる。
どん底を経験したからこそ、
いまみたいに観光客がきてくれるありがたさを
おおくのひとが切実にかんじている。

きょうのレイクラインには、日本人の観光客のほかにも、
タイ人の女性観光客3人がのっていた。
このごろアジア系の旅行者を 町でよくみかける。
観光客がくるからいい町、というわけではないにしろ、
ひとがいきたいとおもわない町は、
そこでくらしているひとにとっても魅力がないのではないか。
わたしも以前は観光客なんて なんともおもわなかったけど、
ひとがきてくれるおかげで 町がげんきになった変化をみると、
町の新陳代謝をすすめるときに、
ひとのではいりが大切なのだとわかる。

鷹の爪団の吉田くんも、市内のあちこちでみかける。
なりふりかまわず島根を宣伝してるのではなく、
もうすっかり鷹の爪団の自虐ネタが
市民にうけいれられたみたいだ。
観光客がこなければこないほど 自虐ネタとなり、
自虐ネタがうければ まわりは関心をもってくれるので、
島根や松江にぴったりの観光キャラクターだ。
このさき「鷹の爪」が外国でも放送されたら、
ものすごく観光客がふえて、たいへんな状況になる可能性もある。
どん底をしってるだけに、
島根と松江の未来は、意外とあかるいのかもしれない。

posted by カルピス at 23:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月27日

フットサルの会に、つきそいとして参加する

障害者を対象としたフットサルの会に、つきそいとして参加する。
くしくも(というのは すこしおおげさだけど)
きょうから2016年のJリーグがはじまった。

フットサルの会は、障害をもったひとでも
サッカーをたのしめるようにと、
学校の先生を中心にしたボランティアで運営されている。
きょうあつまったのは、30人ほどのサッカー愛好家と
数名のボランティアだ。
わたしのようなヘルパーとしての参加もある。
まず、ウォーミングアップとして体育館のなかを5分間はしる。
ふつうにはしり、うしろむきにはしり、よこをむいてはしり、
スキップをして、けんけんまでやった。
そのあと準備体操とストレッチ。
これだけで すでにいい気分だ。
つづいてポールやはしごをつかった
サーキットトレーニングにとりくむ。
ほんもののサッカー選手になった気がして うれしい。

こうやって1時間うごいたあと、
4チームにわかれての試合となる。
わたしはUー20ともいうべきカテゴリーにまぜてもらった。
キーパーのまえに陣どって(自分ではリベロのつもり)
攻撃の起点となるパスをおくり(たぶん)、
まもってもあぶない芽を事前につみとった(はず)。
7分のゲームを2試合やったところで、
バスの時間になったのでひきあげる。

もっとわかい子のおおいチームでは、
小学校1年生の女の子が
試合開始のフエがなった瞬間にドリブルできりこみ
あっさり先取点をあげる。
そのあとすぐにおなじような形で2点目。
あまりにもあざやかな連続ゴールに
あちこちでおどろきの声があがる。
澤穂希選手のおさないころは、
きっとこんなかんじだったのだろう。
そのあとは、警戒した相手がマークをきつくしたのと、
キーパーがファインセーブを連発したために、
得点は2点にとどまる。
それにしてもあざやかなデビューだった。

日韓ワールドカップでにわかサッカーファンとなり、
もっともらしいことをいうわりに、
わたしはじっさいにサッカーをしたことがない。
たとえフットサルでも こんなかたちで仲間にいれてもらえるのは
すごくたのしかった。
なんでもないプレーにちからがはいって からぶりしたり、
テクニックのなさから ダンゴ状態でボールをつつきまわす
小学生サッカーを披露してしまっても、
じっさいにプレーできるよろこびは なにごとにもかえがたい。

2016年のサッカーは、2月20日におこなわれた
富士ゼロックススーパーカップからスタートした。
この試合は、きょねんのJリーグ優勝チームと、
天皇杯の優勝チームとによるカップ戦であり、
サンフレッチェ広島と、ガンバ大阪による試合は、
広島が3-1と、きょねんのいきおいがそのままつづいているような
安定したつよさで優勝した。
ひさしぶりにみるサッカーのはずだけど、
こうやって今シーズンがはじまると、
日本のサッカーがおやすみしていたのは
ほんの7週間でしかないことに気づく。
そのあいだにも、オリンピックアジア予選がひらかれ、
U−23の代表チームを応援していたので、
完全なサッカーの空白はほんのわずかな期間だ。
みるほうはありがたいけど、
これからハードなスケジュールで試合をこなしてゆく選手たちは、
たいへんなシーズンがはじまるわけだ。

Jリーグとわたしのフットサルが
おなじ日にはじまった2016年の日本サッカー。
ことしはWカップ最終予選にオリンピックと、たのしみ試合がおおい。
アジアチャンピオンシップに参加するチームにも
ぜひ予選リーグをかちのこってもらいたい。
ことしの日本サッカーと、わたしのフットサルに期待している。

posted by カルピス at 22:09 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月26日

キャベツがすてきにおいしい「広島おこのみやき」

きょうの活動はおこのみやきづくり。
もっとも、わたしは配達にでかけていたので、
たべるだけだった。
広島出身のスタッフによる 広島おこのみやきだ。
すごくおいしかったので、つくり方をきいてメモする。
キャベツの自然なあまさに、ほっぺたというか口のなかがよろこぶ。
じっくり鉄板に仕事をさせて、
キャベツのうまみをじょうずにひきだしている。
蒸煮料理におもえるほど 蒸す時間がながいのに、
たべてみるとちゃんと「おこのみやき」として
こんがりやきあがったしあがりになっている。
さっそくわが家の夕ごはんでつくってみた。

つくるところをみていると、
冗談におもえるほど 薄皮のうえに大量のキャベツをのせる。
山もりのキャベツが、火がとおるにつれ しんなりしてくるので、
もうのせられないというほど、
つよ気でキャベツをもりあげるのがひとつのコツだ。
もうひとつだいじなのは、
はじめにつくる薄皮の部分で、
これがきまればあとは鉄板がかってに仕事をしてくれる。
かなりゆるめにみえるタネだけど、
ゆるければいいというものでもなく、
かといって 生地があつければ広島おこのみやきにならない。
大阪おこのみやきになれたものには、
この薄皮の存在意義がいまひとつ釈然としない。
ちゃんとした皮というよりも、ただのうすい膜でしかないのに、
広島おこのみやきには、この部分がかかせないのが
感覚として理解しにくい。

できあがりをみると、広島おこのみやきは
たしかにおこのみやきの形をしているけれど、
つかわれている小麦粉はほんのわずかで、
中身のほとんどは野菜といってよい。
それなのに、みかけも 味も、
りっぱにおこのみやきなのは、すごく不思議だ。
広島おこのみやきをかたるとき、
なかにいれるヤキソバやうどんばかりに目をうばわれず、
薄皮の存在にも、もっと注目すべきではないか。

きょうのおこのみやきをつくってくれたスタッフに、
広島での「大阪おこのみやき」の地位についてたずねると、
広島に大阪おこみやきはない、と断言された。
広島でそだったひとにすると、大阪おこのみやきにたいして
無視よりも反発心をおぼえるそうで、
おたがいに なかよく共存しましょう、というつもりは
まったくないみたいだ。
おこのみやきといえば広島のやき方にきまっているのに、
全国的にみると、圧倒的に大阪おこのみやきなのが、
広島市民にはおもしろくないようで、
ついライバル心がわいてくるのだろう。
広島球場にいるタイガースファンが頭にうかんだ。
「広島おこのみやき」もおいしいけど、
「大阪おこみやき」もなかなかいけますね、
みたいなあゆみよりは、これからさきもおきそうにない。

家でつくった広島おこのみやきは、
1枚目はわりにうまくいき、
2枚目はあきらかに失敗だった。
鉄板をきれいにしないで
2枚目の薄皮をつくろうとしたのがよくなかった。
生地がパリっとやきあがらず、
いつまでもネトネトとかたまらない。
つかった材料はおなじなのに、
こんなにとおくはなれたものにしあがるのかと、
あきれるくらい ひどいできあがりだ。
おこのみやきづくりの 一番目のコツは、
鉄板のよごれをしっかりきれいにおとすことである。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月25日

『悲しみのイレーヌ』あまりにもむごい結末

『悲しみのイレーヌ』(ピエール=ルメートル・文春文庫)

この本は、話題作『その女アレックス』の前作にあたる。
前作なのに、日本ではあとから出版されたのだから、
はなしがややこしい。
イレーヌは、カミーユ警部の奥さんだ。
タイトルから、イレーヌによからぬことがおこると
あらかじめあかされている。
『その女アレックス』の冒頭に、
カミーユ警部は妻がころされたトラウマから
誘拐事件につかない、とかいてある。
つまり、本書のタイトルにあるイレーヌは、
「悲しい」結末におわるのを読者はすでにしっている。

残虐な連続殺人事件がおき、その犯行は
過去に出版された推理小説をなどっていることに
カミーユは気づく。
しらべていくうちに、以前におきた事件も、
おなじ犯人によるものであることがわかってくる。
捜査はつねに犯人が一歩さきをリードし、
カミーユたちのうごきをあざわらう声明がとどく。
いっぽうイレーヌは出産をまぢかにひかえ、
カミーユは私生活においてもデリケートな時期をおくっていた。

読者であるわたしは、イレーヌにおとずれるはずの不幸が、
なんとかさけられるようねがいつつ ページをめくる。
とちゅうまで、連続殺人事件とイレーヌには まったく接点がなく、
妊婦であるイレーヌが おびやかされる気配はない。
しかし・・・。

「悲しみ」に こころがまえができていたとはいえ、
終盤の意外な展開は とても予想がつかない。
これだけの作品をまとめあげたルメートルの力量をたたえたい。
これがデビュー作とは。
この事件によってうちのめされたカミーユが、
その後なんとかたちなおり、トラウマになやまされつつ
『その女アレックス』の捜査にあたるのは
読者がしるとおりだ。

連続殺人事件の捜査にあたるチームは、
『その女アレックス』でおなじみのメンバーが中心となる。
いつもおちついいているルイと、
しみったれのアルマンがわたしはすきだ。
ていねいにかかれた脇役たちには 血がかよっており、
上質のミステリーならではのリアルさがいいかんじだ。
現代の犯罪捜査は情報戦でもあり、
大量の情報を かぎられた時間内に
どう処理していくのかが 本書にはえがかれる。
コンピューターをつかった情報処理のいっぽうで、
これまでのように ほんのすこしの可能性でもみのがさない
根気づよいとりくみが もとめられる。
アルマンやルイの徹底した仕事ぶりが、
カミーユの捜査をささえている。

構成のみごとさと、魅力的な脇役たち。
すぐれたミステリーなのはまちがいないけれど、 
もむごすぎる結末に 息をのんだ。
気をとりなおすには『その女アレックス』の再読がいいかもしれない。
ただし、アレックスがしかえしするところまで。
さいごまでよみすすめると、彼女があまりにもかわいそうだ。
とちゅうで やめられるわけがないけど。

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2016年02月24日

『灯油ストーブで料理する日々』(デイリーポータルZ)に共感する

「デイリーポータルZ」に
『灯油ストーブで料理する日々』という記事がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/160222195778_1.htm
「これが灯油ストーブです」からはじまっている。
いまの世のなか、灯油ストーブをしらないひともいるのだ。
わたしも便乗して、灯油ストーブのすぐれた点にふれておきたい。

くらべるのはファンヒーターだ。
ファンヒーターは、すぐにあたたかくなり、
タイマーもついてるので、便利におもえるけど、
灯油を燃料とするストーブなのに、
電気がないとつかえないのが いただけない。
停電や、災害などによわいのは致命的な弱点となる。

また、うちにはネコがいるせいもあり、
ファンヒーターは故障がすごくおおい。
ネコの毛がつまりやすく、すぐにエラー表示がでるようになる。
こまめにフィルターをそうじすればいいわけだけど、
これがまたけっこうめんどくさい。
灯油ストーブがほぼ故障なしなのにくらべ、
ファンヒーターは反対に 故障するのがあたりまえな製品だ。

灯油ストーブは、洗濯物もかわかせる。
生活感がありすぎる風景となり、
美意識の点からは すこしひいてしまうけど、
雪で服や手袋がぬれたときなどに、
灯油ストーブのまえにおいておけば
劇的にはやくかわく。

そして、「灯油ストーブで料理する日々」にあるとおり、
ヤカンや鍋をかけられるのが、なによりもたすかる。
コトコト煮こむ料理は、
ストーブの上に鍋をのせておけばいいし、
冷蔵庫にはいっていた料理をあたためなおすのにも、
灯油ストーブの火力は適している。
記事にはオーストラリア産のかたい牛スジを
ながらく煮こんだ例があげられている。
わたしの実感では、そこまで時間をかけなくても、
3〜4時間ほどでじゅうぶんやわらかくなる。
おでんづくりには、灯油ストーブがかかせない。
また、夕ごはんをはやくつくりたいときなどに、
灯油ストーブが3つ目のコンロとなるのは
段どりのうえで ほんとうにたすかる。
春になって灯油ストーブをしまうと、
コンロがたりずにカセットコンロをとりだすくらいだ。
暖房をとりながら 火としてもつかえる灯油ストーブはすばらしい。

もともと灯油ストーブは、
暖房用の道具というよりも、調理器具だった。
電気やガスのないフロンティアで、
どうやって料理をしたかというと
まさにストーブをつかっていたのであり、
アウトドア製品のコンロは、
だからいまでもストーブとよばれている。
野宿をするときに、灯油ストーブは万能のアイテムであり、
アウトドア気分にひたりながら鍋料理をつつける。

ネコにとっての灯油ストーブはどうだろうか。
ファンヒーターをつかっているときは、
ファンヒーターのうえがネコのお気にいりの場所だった。
でも、灯油ストーブのまえで
じっとあたたまるネコたちもまた かわいい。
ネコにとっては ファンヒーターだろうが
灯油ストーブだろうが、あんまりかわりないようにおもう。
人間が ああだこうだと かってにストーブをくらべるだけで、
ネコたちは あたたかければそれでじゅうぶん満足している。

posted by カルピス at 09:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月23日

きのうはネコの日

きのうはネコの日。
ラジオやネットで、ネコの話題がおおかった。
ほぼ日手帳の「2月22日」には、中川翔子さんの
ほんとうに、宇宙中すべての猫が
ハッピーになるべきです。

ということばがとりあげてある。
日本はいま、空前のネコブームなのだそうだ。

職場にも、ごはんをねだりにやってくるネコがいる。
ノラネコのわりにはふとっているけれど、
家でかわれているにしては、ビクつくことがあり、
素性のしれないところが いかにもネコらしい。
まえは車のしたにうずくまり、
だれかごはんをくれないかと
ひかえめにまっていたこのネコが、
最近では玄関口からのぞきこみ、
おおきな声をあげて ごはんを催促する。
わたしは おなかをすかせたネコのために、
いつもリュックにカリカリをしのばせており、
彼のもとめにおうじていたら、
このごろはなれてきて、わたしがくるのを
スロープのうえでじっとまつようになった。
車イスがとおるのにじゃまなので、
どくようにたのんでもうごかない。
しかたがないので、かかえてべつのところへうつしても
ぜんぜん抵抗せずに、されるがままになっている。
きのうは頭をごっちーんと、わたしの足にぶつけたり、
しっぽのあたりをすりつけてもくれた。

わたしがごはんをあげても、
ぜんぶたべないうちにスロープにもどり、
わたしがとおりかかると、また声をあげる。
どうもごはんをたべるあいだ
そばにいてほしいみたいだ。
なんていうと、かんちがいを わらわれそうだけど、
そうおもわせてくれるから ネコはかわいいのだ。
ちかくにいると、またごはんをたべだす。

ノラネコにごはんをあげるというと、
責任をもってかうわけではないのにと、
きちんとしたひとからは 批判される。
でも、さむいなか、おなかをすかせたネコがいたら、
しらない顔なんて なかなかできない。
ただしい意見が つねに説得力をもつわけではなく、
なんとなく職場全体が このネコを気にするようになってきた。
彼はネコの日に、なにかいいおもいをしただろうか。

口内炎をわずらっている わが家のピピは、
ますますやせてきて、
このごろは足もとがおぼつかなくなっている。
ベッドにとびあがれないので、
ロッククライミングみたいに ふとんをよじのぼる。
毎晩わたしのベッドにやってきて、
わたしのうでをまくらに寝息をたてるピピ。
夜中にベッドのうえで2〜3回のおしっこがおやくそくだ
(トイレシートで対応ずみ)。
もうずいぶん介護の日がつづいたので、
いよいよピピがあぶなくなっても
覚悟はできているつもりだけど、
すこしでもながく いっしょにいてほしい。
毎晩ベッドにきてくれるピピにありがとうをいい、
ピピの寝息をききながら わたしもまたねむりにつく。
あのころは、あれはあれで しあわせだったと
きっとあとになって おもいかえすだろう。
すべてのネコが しあわせでありますように。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月22日

世界じゅうでスマホをつかうのを、もっとおどろいたほうがいいのでは

ほぼ日の「今日のダーリン」に
「スマホ」ってやつの発達は、
異次元というくらいおまけだらけに思える。
懐中電灯だって、電卓だって、カメラだってついて、
メールもできて、なんと電話までできるんだからね。
旅の荷物が軽くなったどころじゃなかったわ。
ネパールの山奥に行ってきた人が言ってたけれど、
そんな土地で暮らしてるおかみさんも、
いつでも「スマホ」を持ち歩いてるというものね〜。

と糸井さんがかいている。
ネパールの山奥でくらすおかみさんが、
スマホでなにをしているのか すごく気になる。
懐中電灯?電卓だろうか。カメラかもしれない。
あんがい電話だったりして。
電話だけどスマホをつかいたい、
という欲求がこの場合重要だ。

よくみる旅番組で、ローマの居酒屋をとりあげていた。
ローマっ子が満足する こってりしたローマ料理をだし、
土地のひとに人気の店だ。
ふつうにつくってもギトギトなのに、
そのうえにさらにクリームやらオリーブオイルやらを
ドバドバのっけて「ローマ料理」と
うれしがるお客たちをみると、
日本人との このみの差が とてもおおきいのにおどろく。
あつまるひとたちの価値観も、いかにもラテン系で、
人生はたのしむためにあると、
だれもが当然のようにとらえているようだ。
日本とのちがいばかりがめだつこの店で、
お客たちがつかっているのは
日本の風景とおなじスマホだった。

生活スタイルやかんがえ方がまるでちがうのに、
つかっている道具(スマホ)はいっしょ、
というのが すごくおもしろい。
ほかの国はスマホかもしれないけど、
自分たちは携帯電話でじゅうぶんだよと、
なぜならないのだろう。
よほど根源的な人間の欲求を
スマホはくすぐるにちがいない。
自動車という文化を 世界じゅうのひとびとがうけいれたように、
きわめてみじかいあいだに
だれもがスマホをつかうようになった。

こうした状況でも、わたしがスマホをつかわないのは、
とくに便利だとおもわないからで、
意地をはって携帯電話にとどまっているわけではない。
でも、そうした態度は、現代を生きるものとして
いかがなものかと、ときどきおもう。
スマホをつかうひとどおしは、
人種・国籍がちがっても、
にたような価値観でつながっているようにみえる。
おなじ日本人同士であっても、
わたしよりもスマホをつかう外国のひとと
彼らは はなしがあうのではないか。

もしわたしがスマホをもったとしても、
パソコンでやるようなことを
パソコンのないところでする便利さにとどまり、
そんなのだったら家でパソコンをひらいたほうが
つかいがってがいい、
だからスマホなんていらない、となりそうだ。
わたしはネパールの山奥でくらすおばさんより、
ずっと現代性にとぼしい人間みたいだ。

北朝鮮のひとびともまた、いまは携帯電話ではなくスマホだろう。
北朝鮮や中国の権力者であっても、
ひとびとがスマホをつかうのはとめられない。
距離的にも文化的にも ずいぶんはなれていて、
にたところなんかすこしもなくても、
つかうのがスマホであることだけは共通している。
テレビをみたり、自動車にのったりするのよりも、
スマホはもっと世界じゅうを均一にしたのではないか。
なぜネパールのおばさんが便利につかうスマホを
わたしはほしくないのかに とまどっている。

posted by カルピス at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月21日

『いいかげんに、生きる』(心屋仁之助)の広告に こころをゆさぶられる

朝日新聞の広告に、
心屋仁之助氏の『いいかげんに、生きる』がでていた。
「ちゃんと」より「がんばる」より
かなり「適当」くらいが人生うまくいく

とある。
かかれている宣伝文句のすべてが、わたしの胸にささりまくりだ。

・工夫・改善につながる「反省」でも、とりあえずしない
・「なんとなく」という理由で、誘いを断る
・「お金ができたら買う」のではなく、逆。まず、買う
・どんどん甘える、まかす、丸投げする、迷惑をかける
・「猫が猫を生きる」ように、あなたはあなたを生きる

あまりにもわたしのこのみにあった方針なので、
手にとるのがなんだか おそろしい。
こわいものみたさで、よみたい気がするいっぽう、
よまないうちから ずいぶん「いいかげ」に生きているわたしが
さらにこのような本をよめば、
とりかえしのつかない地点に
はまりこんでしまうのが心配になる。
それでいいんだ、なんて 心屋氏にいってもらうと、
わたしはますますつけあがって
自分をあまやかしてしまいそうだ。
大丈夫、それくらい適当でちょうどいい、と
この本はいってくれるかもしれないけど、
ほんとに「かなり適当」くらいで 人生うまくいくのだろうか。
まじめすぎて完璧をめざしがちなひとは、
「適当」くらいがちょうどいいかもしれないけど、
すでにじゅうぶん「適当」なひとは、
それ以上「いいかげん」に生きないほうがいいのでは。

そこらへんをはっきりさせるために、
この本をよんでみたいけれど、
よめばとりかえしのつかない事態に、と堂々めぐりだ。
あまりにもよくできた広告は、
かえって購買意欲をおさえる場合があるのを
はじめてしった。
「写真満載」なのに1404円もするので、
ケチなわたしとしては ためらいがある。
すでにわたしが実践している程度の「いいかげん」さで、
なおかつスカスカな構成なら、
かわずに たちよみですませたい。

わたしは梅棹忠夫氏の『わたしの人生論』をわかいころによみ、
つよい影響をうけた経験がある。
『わたしの人生論』は、一般的な人生論とはまるでちがう。
まえむきに「がんばろう!」という内容ではなく、
反対に「がんばるのは よくないのでは」と といている。
文明史的に人類の発展をとらえると、
「いかにしてがんばって仕事をやるかという問題ではなくて、
いかして仕事をやらないですませるか」
こそが人類の滅亡にブレーキをかける
唯一の方法であると 梅棹氏はいうのだ。
わかかっただけに わたしは影響をうけやすく、
この本をよんでからは 勇気をすて、創造に背をむけ、
進歩をなげだしてしまった。
この本とのであいを、けして残念とはおもわないけれど、
わたしの人生が ずいぶんちがう方向に
進路をかえたのはまちがいない。

『いいかげんに、生きる』で、いまさらわたしが
劇的に「適当」になるとはおもえないけれど、
皮いちまで なんとか社会とつながっている状況を、
決定的にまずくする可能性はある。
本から影響をうけたとしても、
その責任をおうのは もちろんわたしだ。
最近、ちょっとがんばりすぎてない?

といわれると、たしかにがんばりすぎのような気がする。
やはりこの本はわたしにとって
悪魔のささやきになりそうなので、
もうしばらくとおざけておこう。

posted by カルピス at 22:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月20日

どんなちいさな駅にも ホテルがあるはず

きょうの仕事は 電車にのって 境港にある水木しげるロードへ。
きのうのカニにつづき、なんだか仕事じゃないみたいだ。
これは、おでかけのお手つだいであり、
ひとりの利用者につきそって 余暇を支援する。
松江駅から境港駅まで直通のバスがはしっているけど、
40分でついてしまうのは もったいないので、
いきは電車にして、かえりだけバスをつかう。
松江から米子にいくと、境港線の のり場には
妖怪の絵やら像がたくさんあって、
そこからすでに 水木しげるロードへの旅行がはじまっている。
はいってきた電車には、いちめんにネコ娘がかいてある。
車内もネコ娘の絵にあふれていて、おでかけの気分がもりあがる。

電車にのっていると、むかしの旅行がおもいだされてきた。
もう30年ちかくまえのはなしだ。
どんな駅でおりても、ちかくにホテルがあると、
それまでの旅行で、わたしはさとっていた。
アジアの旅行がそうだったし、
かんがえてみれば、日本だって
ちいさな駅にもホテルがくっついている。
フランスを友だちとまわったときに そのはなしになり、
しらない駅でおりても、ぜったいにホテルがあると、
わたしいいはった。
なぜかわたしは自信満々で、
テキトーなところでためしてみようと、
いかにもひなびた田舎の駅で 電車をおりる。

ホテルはあったけど、もうずいぶんまえに営業をやめており、
駅のまわりにはカフェが1軒あるだけだった。
そのカフェにはいって、どこかとまれるところがないかたずねる。
ちかくの村をおしえてくれたけど、ずいぶんとおそうだ。
でもしかたがない。
ふたりして とぼとぼあるいていると、うしろからきた車がとまり、
さっきのカフェにいたお客さんが
わたしたちに「のれ」と合図してくれた。
車にのりこむと、ずいぶんながいことはしって
やっとちいさな村についた。
親切にわたしたちをのせてくれなかったら
ずいぶんつらいことになっていただろう。

村には、1軒のホテル・1軒の八百屋・1軒の雑貨屋・1軒のカフェが、
ロータリーをかこむようにたっていた。
西部劇にでるゴーストタウンよりもちいさな村だ。
つぎの日の電車をまつまで、
わたしたちは1軒ずつ店をまわり、ちかくを散歩し、
それでも なにもすることがなくなって、はやめの夕食をとる。

旅行のおもいではたくさんあるけれど、
ちいさな駅でおりた このときの旅行もまたわすれられない。
車にのせてもらえた親切がうれしかったし、
村のひととのみじかいやりとりも 印象にのこる。
駅のまわりに ホテルがなかったにもかかわらず、
いっしょに旅行していた友だちは あまりおこらなかった。
自由な旅行がここちよかったのだとおもう。
おもいがけず しらない村ですごすのはたのしかったし、
ふたりとも、ハプニングをおもしろがれるわかさがあった。

電車にのっておでかけしていると、
自分の旅行のことをよくかんがえる。
どんな荷持をもって、どこをまわろうか。
じっさいに、そうやって旅行をしているひとが
おなじ車輌にのっているのだから、
かんたんに想像がふくらんでいく。
身がるな旅行もいいし、
たくさんの荷物をもったひとも たのしそうだ。
もう1年以上どこへも旅行にでかけてない。
しらない駅でおりるような
テキトーな旅行にでかけたくなってきた。

posted by カルピス at 22:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月19日

職員の正当ないかりをたのもしくおもう

今年にはいり、ほぼ5年ぶりで
まえの部署にもどったわたしは、
わたしがいなかったあいだに
ずいぶんいい事業所になったのに気づいた。
わたしがいないあいだに、というのが残念なところだけど、
わたしのるすに意味があるのではなく、
5年間という時間をかけて
ゆっくり 着実に進歩したのだと おもうことにする。
職員が利用者を大切にかんがえ、
利用者も、自分の居場所として気にいってきてくれる。
もちろんいたらない点は まだたくさんあるにしても、
全体としての雰囲気はとてもすてきだ。
生活の場として、あたたかさにみちている。

いつもひかえめな態度で利用者によりそいながら、
こまかな目くばりをおこたらない職員が、
ほかの事業所のショートステイサービスについて、
腹だたしげな表情をうかべ よくない点を指摘した。
自分たちが大切におもっている利用者を、
いいかげんにあつかう事業所にたいして
おもわずこみあげてくる いかり。
その職員のいまいましげな表情を、
わたしはたのもしくおもった。
日ごろ本気で対応しているからこそ、
利用者がそこなわれることを この職員はゆるせない。
ショートステイの話題にふれるほかの職員も
おなじようないまいましさを口にした。
いい職員集団がそだっている、とかんじたのはこのときだ。
わたしがいなかったから、ではなく、
5年間の歳月をかけて。

川崎市の老人ホームで殺人事件がおきると、
施設をえらぶときに注意する点が 新聞にのっていた。
ある事業所が、どんなサービスを提供しているのかは
すこしみただけだと、なかなかわかりにくい。
重度障害者や認知症の方など、
自分で意見をつたえにくいひともおおい。
パンフレットやケアマネのはなしだけでは
かなりかぎられた情報でしかない。
やはり、いちばんいいのは、
じっさいに事業所をたずねて 雰囲気にふれることだろう。
わたしがいる事業所で、いちにち いっしょにすごしてもらえば、
おおくのひとが 安心して利用したいとおもうにちがいない。
自分がはたらく職場が、そうした事業所で ほんとうによかった。

きょうの仕事は海辺の民宿へでかけ、
カニ料理のフルコースをたべること。
理事長からのプレゼントみたいな企画で、
利用者はもちろん、職員もタダで フルコースをたべられる。
しんじられないくらい おいしい仕事だけど、
いつもとちがう場所で、ちがうひるごはんをたべるのは、
むつかしい面もある。
わたしの仕事は、あまりよいできではなかった。
せっかくのカニ料理なのに、わたしがうけもった方は
1/3くらいしかたべられない。
わたしの配慮がたりなかったわけで、
めったにないごちそうをまえに もうしわけなくおもう。
事業所全体のスキルアップは、
5年間という年月だけに意味があるのではなく、
やはりわたしの空白そのものが
プラスにはたらいていたのかも。

posted by カルピス at 22:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月18日

右翼のほうが本質的に革新である

西部謙司さんが『サッカー右翼 サッカー左翼』をだされた。
ある番組のポッドキャストにゲストとしてよばれ、
サッカーにおける右翼と左翼についてはなされていた。
http://www.tbsradio.jp/ss954/2016/02/20160211session.html
とにかくかてばいい、つまらなくてもかつのがだいじ、
というのがサッカー右翼で、
反対にサッカー左翼は、たとえ試合にかっても
内容がそのチームらしくなければ ブーイングをあびる。
まだこの本をよんでないないけれど、
ひとつのみかたとして、おもしろいものさしだ。
サッカー左翼の代表はバルセロナで、
右翼はアトレチコ=マドリーの名前があがった。
おもしろいのは、サッカーでは右翼のほうが
革新的なスタイルになる、というところ。
かつためにゴリゴリと理づめで戦術をねっていくから
おのずとあたらしいものをためしていく。

右翼のチームはずっと右翼のままかというと そうでもなく、
つよくなるにつれて左翼的な意識もたかまるというから、
右翼・左翼ののアナロジーは、いろんなところでつかえそうだ。
日本では保守政党がしくみをかえようと革新的になっている、
という指摘もあった。
保守的なのが右翼、とはいちがいに いえないのだ。

わたしは自分が変化をもとめるほうだとおもっていたので、
左派だと とらえていたけど、
あんがい保守的な面もある。
このまえおおきなスーパーへいったとき、
いくつものレジがならんでいる端に、
セルフサービスのレジがそなえつけられていた。
わたしはこういうのがにが手で、
すこしぐらい列にならんだとしても、
これまでどおりのレジでかいものをしてしまう。

このときいっしょにいた男性は、
知的障害のある方だったけど、
ためらわずにセルフレジにむかい、
じょうずにかいものをすまされた。
商品のスキャンもじょうずにできたし、
ながれそのものをよく理解されている。
もうなんどもセルフレジを体験ずみのようだ。

べつの日に、おなじ店でわたしがかいものをしたら、
どのレジにもながい列ができており、
ただセルフレジだけはすいていた。
セルフレジに抵抗をかんじるのは
わたしだけではないようだ。
わたしはこのまえの体験から、
セルフレジにならび、自分で商品を機械にとおす。
やってみたら、かんたんだった。
うまくいかなければ、ちかくにいる店員さんがたすけてくれる。

障害をもっている方は、
環境がかわるのをのぞまない、といわれるけど、
あんがいあたらしいものずきなひともおおい。
いまはやりのものに敏感で、
あたらしお店ができれば とにかくいってみるし、
携帯電話がではじめたときも、すぐに手にいれて
じょうずにつかいこなすひとがたくさんいた。
保守的なわたしよりも、障害をもった方のほうが ずっと革新的だ。

posted by カルピス at 15:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月17日

第169回の「作家の読者道」は深緑野分さん

第169回「作家の読者道」(Web本の雑誌)に、
深緑野分さんが登場した。
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi169_fukamidori/
わたしは深緑さんの名前さえきいたことがないのに、
これまでにどんな本をよんできたかを 紹介されるだけでたのしい。
瀧井朝世からのインタビューにより、
印象にのこる本の名前が 怒涛のようにあげられる。
かぞえてみると、映画やマンガをふくめ、
74の作品について 深緑さんはおもいでをかたっている。
もちろんこれにしたってごく一部なわけだけど、
おさないころから おとなになるまでの それぞれのステージで、
自分をそだててくれた本がよく整理されている。
すきな作家にであうと、集中してそのひとの作品をよみすすめ、
そのひとがおもしろいというものを
さらにまたおいかけていく。
わかいころに、こうしてよみふけった経験が
どれだけおおきな財産となることか。
深緑さんが名前をあげた作品について、
わたしもまたおいかけたくなった。

今回「作家の読者道」にとりあげられた深緑野分さんもそうだけど、
前回の早見和真さんや、芥川賞にえらばれた
本谷有希子さん・滝口悠生さんなども、
これまでの人生で つねに自分のやりたいことをやってきたひとたちだ。
芥川賞ですら、彼らの体験からすると、
ほんのつけたしみたいだ。
このごろ登場するわかい小説家たちは、
すでにつきぬけた存在のようにみえる。

深緑さんのはじめての長編『戦場のコックたち』が話題になっている。
深緑さんは、第二次大戦のヨーロッパ戦線、
なかでもアメリカ軍に興味があったそうだ。
戦場で日常もの、しかも後方支援という目のつけどころがいい。
テレビドラマの「コンバット」にも、
戦場で炊事を担当する部隊に 焦点をあてたはなしがあった。
前線の兵士たちに あたたかい料理をとどけようと、
きびしい環境にもかかわらず
淡々と自分たちの仕事をこなしていく。
コンバットは、アメリカ陸軍の歩兵小隊にスポットをあて、
最前線の兵士たちが、戦場でどんな体験をつんでいくをえがいている。
リアルな戦闘シーンがおおいなかで、
炊事班をメインにすえたこのはなしは かなり異質だった。

戦争は、武器をもってたたかう兵士だけでなく、
燃料や食糧の補給をなど、いわゆる兵站部門もまた
重要な役割をになっている。
はらがへってはいくさができないし、
ただカロリーがたりていれば
ちからがわいてくるわけでもない。
人間をその気にさせ、それをながくつづけるには、
最低限の生理的欲求をみたすだけでなく、
娯楽や嗜好品もまた必要となる。
戦場という、その国の特徴があらわれる特別な状況で、
それらをどう保障していったのがしりたい。

『戦場のコックたち』は、
タイトルをきいただけでそそられるし、
「作家の読者道」での深緑さんの発言をきくと、
本屋さんへ いそぎたくなった。

posted by カルピス at 21:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月16日

全体練習よりも、個人のトレーニングのほうがおおいラグビー

ラグビーWカップでにわかファンになった糸井さんと、
U-20の日本代表ヘッドコーチをつとめる
中竹竜二さんとの対談が
ほぼ日で連載されている。
http://www.1101.com/rugby_nakatake/2016-02-16.html
チームプレイが重視されているように見えますが、
これがおもしろいことに、
トップチームの指導プランや戦略を見ていくと、
圧倒的に個人のトレーニングが多いんですよ。
チーム全体の練習は全体の10分の1もなくて、
たぶん、20分の1ぐらいじゃないですかね。(中竹)

わたしはまったく逆にとらえていた。
レベルのひくいチームは、
個人練習にたよりすぎているからよわいのであり、
チームプレーの練習におおくの時間をかけるにしたがって、
つよいチームがそだってくる、と。

ラグビー日本代表の活躍が話題になるにつれ、
大会前の練習風景なども紹介されるようになった。
グランドでの全体練習もたしかにきつそうだったけど、
サーキットトレーニングふうに体幹をきたえている映像もあった。
めちゃくちゃおもそうな負荷をかけた体幹トレーニングなので、
ラグビー選手がやると体幹というより
筋力を重視した、ラグビーならではの ウェイトトレーニングにみえる。
あれは、準備体操や、 補助的なトレーニングだとおもっていたけど、
個をきたえる重要なトレーニングだったのだ。

わたしがにわかファンになったのも、
ラグビーのものすごい自己犠牲的な精神が
個人のこのみを尊重しすぎるいまの時代に
アンチテーゼとして かっこよかったからだ。
個人と個人が対面してぶつかって、
まわりの人が次に何ができるかを予想して、
それぞれに考えて動いている。
その結果として、集団に見えているんですね。(糸井)

わたしには自己犠牲的にみえたチームプレーも、
個のプレーがあつまったのを 集団としてとらえただけで、
肝心なのは、ボールをもっていない選手たちのうごきらしい。
わたしはいったいどこにこころをうごかされたのかと
がっかりしてくる。

サッカーの日本代表でも、「個」のちからをたかめなければ、
これからさきは世界に通用しない、
みたいなことが よくいわれている。
わたしはこれも ギリギリまでチームプレーをたかめたうえで、
さらにもう一歩ぬきんでるために さいごは個にたよる必要がある、
という意味だとおもっていた。
しかし、どうやら さいごに「個」がくるのではなく、
ずっと「個」があって、さいごにちょっと「チーム」というのが、
いまや集団競技における常識のようだ。

チームでたすけあい、ちからをだしあって
強力な相手をやっつける、という姿が、
集団競技でさえ幻想なのだから、
いまのスポーツをにわかファンがみてたのしむには、
どうしてもすぐれた解説者のたすけが必要だ。
テレビをみているかぎり、サッカーでは
そこまでおしえてくれるひとはおらず、
あいかわらず「気もちのつよいほうがかつ」
みたいなことをよく耳にする。
ボールをもたない選手のうごきを どう評価するかが、
これからはテレビ観戦のポイントになりそうだ。

posted by カルピス at 22:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月15日

旅行でみたいのは その土地の日常

旅行をあつかった番組がすきでよくみるけど、
旅行のいちばんのだいごみは、
おとずれた土地の日常をのぞけるときだ。
したがって、旅番組では 有名な観光地めぐりよりも、
路地や裏どおりが どんな表情をみせているのかに関心がむかう。
路線バスや市場めぐりはまさに土地の「日常」であり、
よそゆきでない町のひとのくらしにふれられる。
ランニングをきたおやじさんが
おもしろくなさそうな顔で料理をしていたり、
お店のおくで、家族が食事をしていたり。
生活からはなれたところに仕事があるのではなく、
お店にいるのが そのまま生活のいちぶとなっているかんじにひかれる。
わたしがすきな『地球バス紀行』と『世界入りにくい居酒屋』は、
どちらもその土地の日常風景を紹介するスタイルだ。

ホテルなんか とくに日常をだいじにしてほしいとおもう。
たかいお金をはらうのなら、プロ意識にてっした
ホテルらしいサービスをもとめるけど、
やすいゲストハウスでは、
家族みんなが なにがしかの役わりについているような宿、
子どもだってお手つだいしているような雰囲気のほうがおもしろい。
「ホテルとは」「サービスとは」
なんて へんにやる気をだされるよりも、
今夜はなにをしてあそぼうかと、うわのそらくらいがいい。
日常なのだから。

2020年の東京オリピックでは、日本ならではの「おもてなし」を、
なんてよくきくけど、ほんとうにそうだろうか。
旅行者としては、こころをこめた「おもてなし」よりも、
相手側の日常に、自分もまぜてもらえたときのほうが
つよく印象にのこるのではないか。
外国人に体験型の観光が人気なのも、
土地のひとの日常にふれたい心理があるような気がする。

ハレよりもケであり、スペシャルよりも
いつもどおりにふれるほうが
いまでは旅行の目玉になってきた。
おとずれるときの人数は
できるだけすくないほうがいいいだろうし(できればひとり)、
服だっていかにも旅行者といったよそいきのものではなく、
究極に地味なほうがいい。
自分は旅行という いつもとちがうことをしていいるくせに、
そうした自分を旅行者ではなく、
あたりまえで日常の存在として
うけいれてほしいのだから ややこしい。

自転車での旅行は、いかにも旅行者でありながら、
おとずれるさきが観光とは関係ない場合がおおいので、
日常を体験しやすい。
観光バスから旅行者が何十人もおりてきたら、
お店のひとだって商売をしたくなるだろうけど、
自転車にのった外国人がひとりやふたり とおりかかっても、
カモにはみえないので 商売からはなれた対応をしてもらえる。
特別な親切はうけれなくても、毎日の生活にまぜてもらえる。

旅さきの日常にひかれるのは、平凡な日常のありがたさを、
家にいるよりも はっきりと気づかせてくれるからかもしれない。
いまや、日常にふれるのが
非日常である 旅行の目的となった。

posted by カルピス at 23:41 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

ヨシダプロ氏の「犬を羽生くんにする」にのけぞる

デイリーポータルZに「犬を羽生くんにする」という
ものすごい記事がのった。
http://portal.nifty.com/kiji/160212195708_1.htm
ヨシダプロ氏は、家にいる犬の「もも」のねぞうが、
ほぼフィギュアスケートのジャンプとなってるのに気づいた。
羽生さんににせた服を「もも」にきせ、
フィギュアっぽいねぞうを
フォトショップで若干の修正をほどこし、
フィギュアの基本ジャンプ6つとして
わかりやすく説明してくれる。
そうやって ていねいに説明されてもなお
6つのポーズは、すべておなじようにしかみえない。
それでもちからずくでフィギュアのジャンプにしたてる
ヨシダプロ氏の説得力にあふれる文章は、
レトリックとはなにかを かんがえずにおれない。

この記事のすごさは、
「もも」に羽生くんっぽい服をきせただけにとどまらず、
さまざまなねぞうを、
フィギュアの基本ジャンプにかさねたところにある。
羽生くんをイメージした衣装をるだけでも
「もも」は違和感があっただろうに、
神妙な顔できなれない服に足をとおし、
カメラに目をあわせる「もも」がすごくいじらしい。
「ねぞう」なので、服をきたまま
「もも」にねてもらわないといけない。
きゅうにねろといわれても、「もも」だってこまるだろうに、
彼女はあんがいすぐにねついてくれたそうだ。
きなれない服をきせられて、へんだなーとおもいつつ、
愛用の座布団のうえで
いくつもの「ジャンプ」をみせてくれる「もも」。

わたしはソチオリンピックで「にわか」に
フィギュアのファンになった。
真央ちゃんの魂のこもった演技にかたずをのみ、
リプニツカヤのあまりのかわいさに胸をあつくし、
高橋選手の引退をかけたジャンプに愛国心をかきたてられた。
しかし 「にわか」だけに、そうした熱狂はすぐに過去へおいやられる。
今回こうしてヨシダプロ氏が
わかりやすくジャンプの要点をまとめてくれなかったら、
なにがアクセルで、なにがループかなど、
こんがらがったまま いっしょくたになっていたところだ。
「もも」の足の位置に注意してみると、ビミョーにかさなったり、
平行にたもたれているのに気づく。
それこそが、ジャンプの種類をみきわめる
「にわか」のための鑑賞ポイントである。

「ルッツ」については、
背中から、右足のつま先で(軸足は左足で)跳びがちなので、まさにルッツなのである。

と、ヨシダプロ氏は読者を暗示にかけようとする。
そうやって「まさにルッツ」といわれると、
まさにルッツとしかおもえなくなってきた。

「もも」のねぞうにフィギュアのジャンプをかさねた
ヨシダプロ氏の観察力に拍手をおくりたい。
しらないうちに、ジャンプのポーズをとり、
撮影にも協力してくれた「もも」は、
わたしにフィギュアのジャンプのみきわめをおしえてくれた。
そしてなによりも、フォトショップによる
魔法のような編集機能にも感謝しなければならない。
せっかくの「もも」のポーズも、フォトショップが
視覚的に整理してくれなければ、
いくらヨシダプロ氏が熱弁をふるっても、
まさかフィギュアのポーズだとは
とてもしんじられなかっただろう。
ピョンチャンオリンピックがたのしみになってきた。

posted by カルピス at 22:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月13日

パクチーいりドライカレーをつくる

冬のあいだは畑や田んぼでとくにすることがなく、
それをいいことに 何ヶ月もほったらかしにしていたら、
野菜がかわいそうなことになっていた。
3週間まえのつよい寒波が原因で、
カブがしみて(こおって)しまい、たべられなくなり、
チンゲンサイは花がさいている。
野菜をつくっておきながら、
収穫せずにムダにするのはよくない態度だと反省する。

いっぽう、11月にタネをまいたエンドウは
草のあいだから芽をだし、いいかんじだ。
とても畑にはみえない状況で、
ちいさく、でも げんきにそだっている。
もうひとつ、パクチー(コリアンダー)もぶじだった。
いつもはプランターでそだてるパクチーを、
はじめて畑にタネをまいてみたら、
ツンドラにはえているコケ類みたいに
いじけながら かろうじて生きながらえている。
せっかくのパクチーなのだから、
これをいかした料理にしたいと、今夜はドライカレーをつくった。

もっとも、コケみたいなパクチーからは
ほとんど葉がとれないので、
家のプランターでそだった
もうすこしましなパクチーをつかう。
レシピでは、カレールーをいれるときに
パクチーもいっしょにくわえて煮こむ、とあるけど、
煮こむほどの量はないので、
できあがったドライカレーにふりかけるだけとする。

たべてみると、パクチーらしい 強烈なかおりをかんじず、
かなりものたりない。
きっと、カレーにパクチーというくみあわせのせいだ。
カレールーにはいっているスパイスが
パクチーにまさってしまい、
パクチーらしさがきえている。
レシピに「煮こむ」とあったのは、
それなりに意味があったのかもしれない。
まえにとんこつラーメンにパクチーをいれたら
別の料理とおもえるくらい
とんこつスープとパクチーが、
おたがいにいい仕事をしていた。
わたしの感想として、
ドライカレーのトッピングに、パクチーはもったいない。
パクチーと相性のいいのはスープいりのメンであると
つよくいいきりたい。

これだけだと、せっかくそだったパクチーを
むだにしたかのような記事なので、
おまけとして ぴったり5000円のかいものをした
おどろきをつけくわえておく。

特売日のお米をふくめ、
夕ごはんの材料をいつものスーパーでもとめたら、
ぴったり5000円の金額がレジに表示された。
わたしはすこしおどろいたし、お店のひとも
なにがしかをかんじたようだけど、
残念ながらコメントはもらえなかった。

なぜぴったり5000円がすごいかというと、
まいにちのようにいくスーパーで、
かいものの合計が1万円にはまずならない。
高級品をあつかうスーパーではなく、
わたしがいくぐらいだから、
市内のスーパーにおける格づけとしては
まんなかへんに位置づけられる。
そうした中流のスーパーで、
日常的なかいものをしたときに、
いちばんきりのいい数字は5000円であると
わたしが主張してもまちがいではないだろう。

なぜぴったり5000円になったのかは
わたしにもわからない(あたりまえ)。
この ありえない偶然が、
パクチーいりのドライカレーをつくる日に
たまたまおとずれた不思議。
どんな意味がかくされているのだろうか。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月12日

歴史的使命をすでにおえた固定電話

電話がなっている。
携帯電話ではない、いわゆる固定電話だ。
すぐそこに電話機があるけど、
ろくでもない用件ばかりなので、
このごろはほとんどでないようになった。

・光ファイバーを、これまでよりおやすい料金プランで
 ご利用になれます。
・貴金属をおもちではありませんか?
・ふとんのうちなおしはいかがですか?

そんなのばっかりだ。
まえはていねいにはなしをきいていたけど、
ネットの料金プランなんて、
説明されてもよくわからないし、
ちゃんときこうとおもうと すごく時間がかかる。
「スパゲティの法則」があるかのように、
メンをゆでている微妙な時間をねらって
電話がなるような気がする。

めんどくさいので、
ためしに固定電話にはでないことにする。
そしたら それでぜんぜんこまらないことがわかった。
そういえば、携帯電話があるのに
なんで固定電話をいつまでもつかっているのだろう?
こっちを「お客さん」にしようとするひとのために
固定電話をもっているようなもので、
利用者のわたしが 固定電話を便利だとおもったときは
みごとになかった。

それに、固定電話なんてのがあるから
ふりこめサギなんてのに ひっかかるのではないか。
老人は携帯電話のあつかいになれておらず、
固定電話が必要なひとがおおい。
したがって、個人の家に電話をかけると
たかい確率で老人が電話にでる。
固定電話はふりこめサギをさそっているようなものだ。

ネットをみると、固定電話は信用をたかめるとか、
子どもがちいさいうちは 固定電話があったほうがいい、なんて
どうでもいい理由があげられている。
それくらいなら わたしは 固定電話なんて べつにいらない。

かんがえてみると、「固定電話」といういい方じたいが
携帯電話の存在を前提とした くるしいネーミングだ。
そのうちに電話といえば 携帯をさすようになるだろう。
いまはもう、事業所以外で固定電話が必要なのは、
携帯電話をもたないひとや、
電話といえば「やっぱり」固定電話、
とおもいこんでるひとぐらいだ。
固定電話は歴史的使命をすでにおえ、
いまはさいごの悪あがきをしているようにみえる。
ジーコジーコと 指で番号をまわした黒電話を
おじさん世代がなつかしがるように、
固定電話の存在も、もうじきむかしばなしになるだろう。
わたしは、しつこくなりつづけるベルを無視しながら、
固定電話のさいごをみとどけている。

posted by カルピス at 22:21 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月11日

主食級の料理がならんだ夕ごはん

きのうの夕ごはんは
スパゲティにチャーハンとピザ。
主食級の料理をならべたのは、それなりの理由があった。

しりあいにアンチョビーをいただいたのがきっかけとなる。
アンチョビーは、ほんのすこしはいっているだけなのに
何百円もするので ふだんはなかなか手がでない。
その「高級品」のアンチョビーが 生協で100円だったから、
よかったらどうぞ、ともらったのだ。
アンチョビーらしさを味わうには、
あまりごちゃごちゃと具をいれずに
バジルとまぜるくらいがいいとおもいつつ、
つい大量のキャベツをいれてしまった。
それでもひさしぶりにアンチョビーでつくったスパゲティは
ちゃんとアンチョビーでつくったスパゲティの味がした。

チャーハンは、スーパーで塩サケのアラをみかけたのでおもいついた。
貧乏性のせいか、さかなのアラとかパンの耳に
わたしはどうしてもひかれてしまう。
骨つきのおおきなサケのきれはしが
たくさんはいって200円なら、かわずにはおれない。
ほとんど条件反射だ。
その塩サケをやいて身をほぐすと、
すこし気もちのはいったチャーハンになるような気がする。
ごはんをいれすぎたため、
パラっとしたチャーハンにはしあがらなかった。
日本のお米でつくるチャーハンはむつかしい。

ピザは、まえの晩にみた旅番組で、
ローマのピザがでてきたから。
やきあがったばかりのピザをみていたら、
たまにはちゃんとしたピザがたべたくなってきた。
生地をこねるのがめんどくさくさいので、
このごろは食パンのうえにトッピングする
「なんちゃってピザ」ばかりだったけど、
画面にうつる おいしそうなピザには説得力がある。

もっとも、わたしはレシピをいいかげんに解釈するので、
立派なピザはなかなかやけない。
強力粉はちゃんと200グラムはかったけど、
ドライイースト3グラムなんて どうしようもないし、
一次発酵も二次発酵もてきとうにすませる。
やくのもフライパンで、表面がいつまでたってもナマだったから
とちゅうからトースターにいれた。
トッピングはピザソースにしめじとチーズだけ。
それでも こんがり生地がやけさえすれば おいしいピザになる。
すこしふくらみがたりなかったけど、
ふたきれ目がほしくなる程度には ピザらしく しあがった。

献立として すこし難があるとはいえ、
炭水化物がすきなわたしにとって
しみじみと満足できる夕ごはんになった。
主食級をならべればうれしいのだから、
ずいぶんおさない舌なのかもしれない。
こんな夕ごはんで食をかたるのはあつかましいけれど、
自分で料理をつくれたほうが、人生はぜったいたのしい。
この程度の夕ごはんで満足する人生なら、
わたしはおりる、といわれると すこし残念だ。

posted by カルピス at 10:30 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月10日

山田家のメンバーがでていない「ののちゃん」が気になる

2月4日の「ののちゃん」には、
山田家のメンバーがひとりもでてこなかった。
キクチくんが図書室へいき、本をかりるはなしで、
司書の猫久保さんとキクチくん ふたりだけの会話でなりたっている。
キクチくんがよみたい本を、猫久保さんはばっさりきりすてるので、
キクチはしかたなくそっちをかりる。
まえの日は山田家(ののちゃん・お母さん・おばあさん)がでたし、
つぎの日には、その3人にお父さんがくわわっている。
山田家のいない きわめて異例な「ののちゃん」は
なぜかかれなければならなかったのか。

山田家がでない「ののちゃん」といえば、
ファドをうたう、吉川ロカちゃんをおもいだす。
ロカちゃんがでる回は、ほとんど山田家ぬきだったような気がする。
ロカちゃんはキクチ食堂でバイトするストリート・ミュージシャンで、
ファド歌手としてのデビューをめざしている。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-fb23.html
ロカちゃんが登場する回に、
むりに山田家のメンバーが顔をだせば、
ロカちゃんのはなし全体がくずれてしまう。
ロカちゃんにおもいいれがある いしいひさいち氏は、
「おち」をすててさえ ロカちゃんのものがたりを大切にした。

図書室のはなしは、キクチくんでなくて
ののちゃんでもよかったはずだ。
あえて山田家をはずしたのは どんな意味があるのだろう。
なんどよみかえしても、いしいひさいち氏の意図がよめない。
キクチくんと猫久保さんは、
おなじみのメンバーではありながら
このふたりだけのからみは記憶にない。
冒頭で、「きわめて異例」とかいたけれど、
山田家がでてこない「ののちゃん」はときどきある。
こんかいの図書館でのやりとりが
そのなかでもめずらしかったのは、
キクチくんと猫久保さん ふたりだけしか登場しないからだ。
ずっとまえからメインキャラクターだったみたいに。

いしいひさいち氏は、ときどきおもいがけない石をおく。
こんかいの図書室でのやりとりは、
これからの「ののちゃん」をちがう場所にみちびいてゆく
布石としてうたれたとみるのは うがちすぎだろうか。
第6591回目の「ののちゃん」をよくおぼえておこう。
おおきな変化の ささやかなはじまりかもしれない。

posted by カルピス at 10:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | いしいひさいち | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする