2016年03月31日

自然現象に対しての技術的な処理とは

もともとの口内炎にくわえ、
ケガが化膿したために食欲をなくしたピピは、
ウエストが片手でにぎれるほどほそくなった。
ベッドにもとびあがれず、
ツメをたてて なんとかはいあがる。

しかし、そこからがピピのすごいところで、
お医者さんにつれていき、ケガがよくなると、
それまでの2倍のごはんをたべるようになり、肉づきもよくなった。
体調がいいと、おしっこをトイレシートでする回数がへり、
ちゃんと自分でトイレへいくようになった。
「衣食たりて礼節をしる」は ほんとうだった。
生活の質は体力がにぎっている。
からだに栄養がいきわたれば、状況は劇的にかわる。

とおもって気をゆるめていたら、
ピピが ふとんのうえでおしっこをした。
自分でトイレにいけるのに、
わざとふとんのうえにあがってのおしっこだ。
わたしはキレてしまった。
ふとんにもぐりこみ、ピピのもとめにたいし、
すべてしらんぷりをする。
ピピがわたしのそばにこようとしても、すぐに床のうえにもどす。
ピピはふとんのなかにはいろうと なんどもくりかえす。
そんなことをつづけているうちに、ピピのツメがふとんにひっかかり、
ちからずくではがすと、ほうりなげるかたちになってしまった。
あんなにだいじにしていたピピを、わたしがなげだすなんて。
ピピにたいして、そんないじわるをする自分にショックをうける。

いいわけをさせてもらえば、
夜になんどもおこされるのにたえられなくなった
いわば介護づかれだ。

梅棹忠夫さんが、探検隊が個人用のテントをもつことについて、
下記のようにかいている。
(一人一人が個人用テントをもつことは)個人の精神衛生を保つためにも、隊員間の平和を維持するためにも、経験的に言って最も有効な方法である。(中略)共同生活が長くなれば、波と波がぶつかりあって、しぶきを散らす機会も出てくる。そんなことは、探検心理学の対象となる自然現象であって、道徳の問題ではない。自然現象に対しては、技術的な処理が可能であり、かつ必要なのである。(『モゴール族探検記』)

・気もちのぶつかりあいは、道徳の問題ではなく、自然現象である。
・技術的な処理が可能であり、かつ必要である。

探検隊のテントも、ピピの介護も
さらにいえば、人間の介護の現場だって、きっといっしょだ。
「自然現象に対しての技術的な処理」が
なおざりになると、介護する側も される側も不幸となる。

グループホームや家で虐待がおこるのも、
介護が道徳の問題にすりかえられて、
しくみのうえで適切な処理がほどこされていないからだ。
密室にならないよう、ひとの目がはいるようにしたり、
相談できるひとがいる体制づくりが、
探検隊における個人用のテントの役割をはたす。
からだやこころがつかれはてた職員ひとりに、
ながい時間の介護をおしつければ、
自然現象として問題がおきてくる。

そんなことは わかっている、と
現場の介護職員はいうだろう。
すくない職員体制で、ながい時間はたらかざるをえないのが、
いまの介護状況なのだ。
職員の数をふやし、待遇をよくすることでしか、
根本的な解決は はかれないだろう。
50年前におこなわれた探検で、
すでに隊員の精神衛生がまもられていたのに、
2016年において いまだに介護職員のこころの安定は
じゅうぶんにかえりみられていない。

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2016年03月30日

40年間お世話になったプールとのおわかれ

ながいあいだお世話になってきた市立体育館のプールが、
今年度、つまりあと2日でおしまとなる。
体育館をあたらしくつくりかえるのにともない、
温水プールはとりやめとなったからだ。

ながいあいだ、とかいた。
正確には40年間だ。
わたしが中学3年生のときにできて、
それ以来わたしのホームプールとして
かぞえきれないほどおよがせてもらった。
体育館主催の水泳教室で、指導員をしたこともあるし、
プール監視もやった。

きょうは このプールでの さいごの練習となる。
あと2日でおよげなくなるのだから、
いつもより利用者がおおいだろうと 覚悟していたのに、
シャワーをあびて ドアをあけると、
ひとりもおよいでいなかった。
島根ではよくあることとはいえ、
あと2日で この状況にはおどろいた。
わたしはいつものように 1500メートルをめざして
ゆっくり(はやくおよげないから)およぎだす。
1100メートルまで、わたしひとりがプールをひとりじめしていた。
さいごの日まで 島根のプールらしく くつろがせてもらい
いいおもいでとなった。

40年間もおよいできて、きょうがさいごなのだから、
なにか胸にせまるものがあるかとおもったけど、
いつもとかわりない。
あいかわらずのひどいタイムに がっくりするのまでいっしょだ。
このプールは、水泳選手としてのわたしが ささやかなピークをむかえ、
そのあと ながいくだり坂を 延々とすべりおり、
着実におそくなっていく過程を ずっとみまもってくれた。

プールがなくなるのは、体育館のたてかえのためで、
体育館はあたらしくなるけど、
プールはみなおしの対象となり、きりすてられた。
これから人口がへっていく時代には、
こうして つかえるスポーツ施設が すくなくなっていくのだろう。
市の説明としては、ほかの公共施設に およげる場所があるから、
というのがみなおしの理由だった。
ほかにないわけではないが、市立体育館のプールがなくなると
ずいぶん不便になる。

プールがなくなるのは、もう何年もまえからわかっていたことだ。
いつまでも 残念がったところでしょうがない。
体育館のプールでおよげなくなるのを きっかけとして、
あたらしい練習スタイルをつくりあげたい。
とはいえ、現実的には 料金がたかく 利用者のおおい
県立プールしか ゆきさきがない。
コースをひとりじめしてなど とてもおよげないだろう。
島根でしかありえない、夢のような環境をわすれ
混雑するコースに 我慢しておよぐ日々となりそうだ。
40年もおよがせてもらえた 市立体育館に感謝したい。

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2016年03月29日

Wカップアジア2次予選 対シリア戦で5-0だけど、カウンターへの課題があきらかになる

Wカップアジア2次予選、対シリア戦

5-0と圧勝した日本は、
最終予選にむけてEグループを1位で通過した。
グループリーグ8戦の結果は、
7勝1分け・かち点22・失点ゼロと、
数字だけをみればわるくない。
とくに、無失点におえたことで、
おおきな目標を達成したかのようなコメントが
試合後のインタビューできかれた。

おもいおこせば、2次予選の初戦は、
シンガポールをホームのさいたまスタジアムにむかえておこなわれた。
これがまさかの0-0でひきわけにおわり、
それまでのハリルホジッチ神話がいっきょにくずれた。
結果としては、このシンガポール戦によって気がひきしめられ、
のこりの7試合を全勝でおえる。

5日まえの対アフガニスタン戦は、
6-0の圧勝となり、内容も もうしぶんなかった。
あたらしい選手を招集し、これまでにないフォーメーションをためし、
チームの競争意識がたかまったとして、
おおくの記事がほこらしげに日本代表をたたえていた。
そんななかで、わたしがサッカーの記事でたのしみにしている
フモフモさんと西部謙司さんは、
手ばなしで代表チームをほめたりはしなかった。
http://blog.livedoor.jp/vitaminw/archives/53164730.html
http://www.footballchannel.jp/2016/03/25/post144515/
このおふたりは、だいたいにおいてあまのじゃくな批評を展開する。
まわりが危機感をあおげば、ジタバタすることはないといい、
日本はすばらしい内容の試合をしたと、
ほかの記事がほめたたえるときは、
問題点はなにもかわっていないと、冷静な反応をみせる。
批評は、このおふたりのように、
ほかとちがう視点のものがおもしろいし、参考になる。
というわけで、今夜のシリア戦。
圧勝だったけど、わたしもえらそうに問題点を指摘したい。

グループリーグをぶじに首位で通過した日本は、
ひとまず目的をはたしたと、うかれたムードにひたっていた。
試合後のインタビューをきくと、
ハリルホジッチ監督がチームをほこらしげにもちあげ、
中心選手たちも、無失点でおえられたと
それなりの手ごたえを口にする。
しかし、日本が5-0でかったとはいえ、
そんなにほめられた内容だっただろうか。
シリアはひいてまもるだけでなく、
いつまでもねばりづよくはしり、
効果的なカウンターをなんどもしかけてきた。
日本が無失点におさえられたのは、
盤石の守備にたすけられというよりも、
ゴールキーパーのスーパーセーブと、
相手のせめいそぎにすくわれたといえる。
日本にも香川のうつくしいシュートがあったけれど、
後半はとくにカウンターの応酬みたいなかたちとなり、
なんどもあぶないシーンをつくった。
最優秀選手がだれかは微妙なところで、
わたしならゴールキーパーの西川をあげたい。
せめきってかったというよりも、
運と、西川のスーパーセーブがひかった試合ではなかったか。
点差ほどの内容があったとは、とてもいえない。

アジア最終予選は、2次予選にかちぬいた12チームを
2つのグループにわけ、9月からおこなわれる。
2次予選のように、極端に実力のはなれたチームなどなく、
どの試合もきびしいたたかいになりそうだ。
日本は、うまくいっている攻撃面に注目があつまり、
カウンターをうけるとよわいという
守備の課題はなにも解決しないまま、最終予選をむかえる。

これまでの日本は、Wカップ予選についてはまず問題なく、
課題はWカップ本戦において、
どうマネージメントするかだといわれていた。
しかし、アジアの国々はいちじるしい成長をみせており、
Wカップロシア大会への道は、けしてかんたんではない。
守備についての課題をのこしたまま、
日本代表はどんな試合をみせてくれるだろうか。

posted by カルピス at 23:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月28日

サンドイッチづくり

きょうの活動はサンドイッチづくり。
できたサンドイッチをもって、
午後はお花見にでかける お気楽メニューだ。
職場につくと、サンドイッチの材料が
すでに用意されていた。

サンドイッチ用のパン(耳なし)6袋
サンドイッチ用のパン(耳あり)2袋
ハム・チーズ・ゆでたまご
バター(といいたいところだけど、ほんとはマーガリン)
マヨネーズ・ホイップクリーム・カンヅメ(マンゴーとモモ)
レタス・きゅうり・こしあん。

こしあん?
想像力をためされる材料で、なにやら血がさわぐ。

職場にあったパンの本に、
サンドイッチの写真があり、
いろんな具をはさんだ食パンが
冗談みたいに たかくつみあげられていた。
そのままでは もちろんたべにくいだろうけど、
サンドイッチづくりのたのしさが よくあらわれている。
こんなふうに、ありあわせの材料を
テキトーにパンにのせれば それでサンドイッチだ。
パンにバターをぬり、
すきなおかずをのっけて はさめばいいのだから
サンドイッチづくりは かんたんで だれにでもできる。
その本のようなサンドイッチづくりをしたいとおもっていたら、
きょうはまさにそんな企画なのでうれしくなる。

ふつうにお弁当をたべたうえに、
これだけの材料をつかったサンドイッチを
お花見にもっていこうというのだから
わたしの胃袋からは かんがえられない別腹感覚だ。
わたしもお弁当をもってきていたけど、
せっかくのサンドイッチが
すこししかたべれないのは かなしいので、
お弁当は夕ごはんにまわし、
サンドイッチだけをしっかりたべる作戦をえらんだ。

たべてみると、マンゴーとモモのカンヅメは、
あまりサンドイッチにあわない。
ホイップクリームにまみれたマンゴーは、
マンゴーといわれなければ わからない味覚にかわっている。
ホイップクリームのあまさでごまかして のみこむかんじだ。
こしあんの活用は だれもおもいつかなかったようで、
封をきらないままのこされていた。
けっきょく、できあがったサンドイッチは
常識的な範囲内におさまる フツーの作品だった。
ただ、量だけはじゅうぶんにある
(とおもっていたのに、けっきょくぜんぶなくなった)。
サンドイッチづくり.jpg
できたサンドイッチをラップにくるみ、パットにのせる。
すこしまえから、サンドイッチ用のお弁当箱が、
意外とおろそかにされているとかんじていた。
お弁当として サンドイッチをつくるのは あんがい便利で、
食パンだけでなく、ロールパンやバケットにはさんでも
かんたんにたのしいサンドイッチができあがる。
問題は、サンドイッチにふさわしい いれものがないことだ。
タッパーでは、パンのおおきさにあわせられない。

むすこが保育園にかよっていたとき、
保母さんのひとりが牛乳パックをひらいて
サンドイッチをつめていたのに感心した。
どんなおおきさにもあわせられるし、
リサイクルの点からもいいアイデアだ。
ただ、色気がなく、いつも牛乳パックでは
なんとなくさみしそうな気がする。
ここはなにか、もっていくだけでたのしくなる
お弁当箱がほしいところだ。
ふつうのお弁当に、わたしはアルミのドカベンをつかっており、
つかいがってや、みた目の迫力にじゅうぶん満足している。
パンをつかったお弁当にも、アルミのドカベンみたいな
説得力のあるいれものがほしくなった。

きょうつくったサンドイッチは、
ちいさなかたまりごとに サランラップでくるみ、
それをプラスチックの箱につめてもっていった。
量がおおすぎるせいか、ぜんたいがグチャグチャになり
うつくしいとはいえない姿だ。
生活の質をたかめるためにも、
お弁当のいれものには気をくばりたい。

きょうのサンドイッチづくりでは、
バターとハムにチーズや、
マヨネーズときゅうりだけ、のように、
シンプルなものが そのままストレートにおいしかった。
つかう具はすくないほうが 舌にわかりやすい。
こしあんをどうサンドイッチにいかすのかは まるごと宿題となる。

posted by カルピス at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月27日

血液型と性格の話題について

血液型による性格のちがいが しばしば話題になる。
O型はおおざっぱで、A型はきちょうめん、
AB型はちょっとかわったひと、というのが定説だ。
血液型と性格を、簡単に関係づけられるわけがないとおもうけど、
当然の事実として おもいこんでいるひとがすくなくない。
わたしは、血液型と性格のちがいを、
まったくしんじていないので
「でもほんとうは関係ないそうですよ」と
水をさしたくなる。
おとなの対応としては、世間話のひとつとわりきり、
かるくながしておけば いいのだろう。

もしほんとうに、血液型と性格には 関係があるとしたら、
職業によって、血液型のしめる割合がちがうはずだ。
たとえば、几帳面なひとにむいていそうな
鉄道関係の仕事は A型がおおく、
すこしかわっているといわれるAB型は、
公務員にすくなそうだけど、
じっさいはどうなのだろう。
軍人と牧師とは、正反対の性格がもとめられそうだし、
陸上選手とサッカー選手をくらべても、
もとめられる資質がずいぶんちがいそうだけど、
あきらかなちがいが存在するのだろうか。
自民党と共産党の議員に、血液型のちがいがあるのか。

もうひとつ頭にうかぶのが、
『ノルウェイの森』で永沢さんがいっていた、
まともな人間の割合についてだ。
受験者の殆どは底なし沼に放りこんでやりたいようなゴミだが、まあ中には何人かまともなのもいたなと彼は言った。その比率は一般社会の比率と比べて低いのか高いのかと僕は質問してみた。
「おなじだよ、もちろん」と永沢さんはあたり前じゃないかという顔で言った。「そういうのって、どこでも同じなんだよ。一定不変なんだ」

どんなひとにもおおざっぱな面と、
几帳面さと、かわってるところが
いっしょに存在しているはずで、
なかなか血液型ごとに スッパリとは わけられない。
また、たいていの仕事で、几帳面さが要求されるし、
おおざっぱな面が必要なときもある。
結果として、「永沢さん」が
「そういうのって、どこでも同じ」というように、
一定不変の法則がなりたっているのではないか。

血液型による性格のちがいをはっきりさせたければ、
もとめられる資質が はっきりちがう職業について、
血液型のわりあいをしらべたらいい。
裁判官と受刑者は、おおきくちがいそうだけど、
じっさいは どうなのか。
職業ごとの 血液型の傾向について、
しんじるにたる調査があるだろうか。

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2016年03月26日

カゼがなおったので、頭とからだをリセットする

ゆうべは なんだかひどくさむいなー、とおもったら、
カゼをひいていたようだ。
夜なかに関節やノドがいたくなる。
ただ、熱はないようで、気分もわるくない。
かるいカゼだったのか、おきたときには なおっていた。
ときどき こんなことがおこる。
ねるまえにのんだ2杯の赤ワインがよかったみたいで、
ぐっすりねむれたし、かといって二日よいにもなっていない。

カゼがなおったときはいつもそうだけど、
頭とからだがすっからかんになる。
胃袋もからだになじんでおらず、
からだのいろんなところがバラバラに存在し、
ただいっしょにくっついているだけ、というかんじだ。
もとにもどるには、リセットとチューニングが必要となる。

といっても、じっさいはたいしたことではなく、
わたしの場合は、からだをうごかせば
たいていの場合、かんたんにリセットされる。
きょうは ものすごくはやくあるくひとと
いっしょのおでかけが仕事だった。
どれだけはやいかというと、時速7キロくらい。
これくらいのはやあるきだと、はしったほうがらくだ。
そのひとについて、2キロほどいっしょにあるき、
そのあとプールでおよいだら、
頭とからだのピントがあってきた。
わたしにとってのリセットは、
このように からだをうごかす以外 かんがえにくい。

今朝の朝日新聞に、
「私をリセットする方法」(土曜日版be)がのっていた。
なにをもって「リセット」とよぶのかによるとおもうけど、
1位 睡眠
2位 おいしいものを食べる
3位 お茶・コーヒーで一服
ときて、
4位にようやくウォーキング・散歩がはいる。

以下、
5位 飲酒
6位 音楽鑑賞
7位 本・雑誌を読む

となっており、わたしのように
からだをうごかさないとリセットできないものにとっては、
リセットが必要なときに、
音楽鑑賞や本をよむ気になれるのが不思議におもえる。
睡眠が1位にくるほど おおくのひとが
気分転換をじょうずにしてるのなら、
うつ病などは 縁がなさそうだけど。

9位の映画・演劇鑑賞は、わかる。
21位のスポーツ観戦も、おなじだ。
鑑賞する対象がすぐれていれば、
受動的なとりくみでも 気分がかわるだろう。
わたしにとってのリセットは、
脳になんらかの物質が分泌され、
頭とからだがまえの状態から はっきりかわることで、
そのためには からだをうごかすのが いちばんてっとりばやい。

今回の調査「私をリセットする方法」は、
リセットというよりも ストレス解消の方法について
読者がこたえた結果におもえる。
わたしにとってのストレス解消というか、
ストレスをかかえこまない方法は、
「かんがえない」で、ちょっとしたコツを身につけないと、
だれにでもできるわけではない。
「ま、いいか」といっしょに「かんがえない」を
つかえるようになると、
たいていの問題はどうでもよくなる。

posted by カルピス at 21:56 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月25日

わたしのいない世界

家の駐車場をみると、車が2台ともない。
配偶者の車がないのは、彼女が仕事にでかけたからで、
わたしの車がないのは、わたしが仕事にでかけたから、
ではなく、むすこがのっていったからだ。
配偶者のは当然として、自分の車がない光景は はじめてみる。
「自分のいない世界」、ということばがとっさに頭にうかんだ。
わたしが死んだら、こんなふうにわたしの車がなくなる。
わたしが死んでも、世界はなんのかわりもなく うごく。
そんなあたりまえなことが頭をかすめる。

わたしは存在感がきわめてうすいようで、
とても自然に無視されたり、
わたしの声がとどかなかったりする。
いぜんかいた自虐的な自己紹介をすこしかきうつすと、
弱点としては、存在感が希薄なことで、
職場にいても、居酒屋で注文しても
ときにはスーパーのレジにならんでいても
スルーされることがあります。
自己主張のよわさのあらわれであり、
典型的な島根県人といえるかもしれません。
よく、有名人について「◯◯なオーラがでている」
というふうなことをいいますが、
わたしはわざわざオーラをけす必要もなく、ごく自然に
「その場にいないひと」の気分をあじわいながら生きています。

いまでもだいたいそんなかんじだ。
自分がひとの目にはいりにくく、
記憶にものこらない事実になれてしまったので、
このごろはいちいち傷ついたりしない。
相手は無視しているのではなく、
ほんとうにわたしがみえていないのだから、
だれをせめるわけにもいかない。
ごく自然なかたちで 相手の記憶にのこらないのは、
いくぶん残念ではあるけれど、いまさらどうしようもない。
50代に特有の症状だろうか、すべてがめんどくさくもあり、
もし ほんとうに姿をけすことになっても、
あまりショックはないような気がする。
駐車場からわたしの車がなくなるていどのことで、
それはもう体験した。
わたしの存在がなにに似ているかといえば、透明人間かもしれない。
あのひとたちは、生きていてたのしいのだろうか。
なにがこころのささえに なっているのだろうか。

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2016年03月24日

『名作うしろ読み』(斎藤美奈子)

『名作うしろ読み』(斎藤美奈子・中央公論新社)
吾輩は猫である。名前はまだ無い。

よくしられている小説は、
かきだしもまた有名なものがおおい。
しかし、おわりの文章がどうだったかは
意外としられていないのではないか。
 名作の「頭」ばかりが蝶よ花よともてはやされ、「お尻」が迫害されてきたのはなぜなのか。
「ラストがわかっちゃったら、読む楽しみが減る」
「主人公が結末でどうなるかなんて、読む前から知りたくない」(中略)
 しかし、あえていいたい。それがなんぼのもんじゃい、と。
 お尻がわかったくらいで興味が半減する本など、最初からたいした価値はないのである。(斉藤)

この本は、世界の名作を 以下の7つのジャンルにわけ、
おわりの文章にまとをしぼって紹介している。

・青春の群像
・女子の選択
・男子の生き方
・不思議が物語
・子どもの時間
・風土の研究
・家族の行方

おわりをよんで、はじめてかきだしの意味がわかる作品もあり、
たしかに「お尻」もまた その本にとってきわめて重要な部分だ。

「風土の研究」のなかに
梅棹忠夫さんの『文明の生態史観』がおさめられている。

『文明の生態史観』をかんたんに紹介すると、
日本とヨーロッパは、地理的・生態的な条件から、
平行に進化してきた、というものだ。
ユーラシア大陸をおもいっきり単純化して だえん形であらわすと、
左のはしがヨーロッパ、右のはしが日本になる。
このふたつを『文明の生態史観』では第一地とよび、
のこりの地域は ぜんぶ第二地域としてあつかう。
ユーラシア大陸の両端にへだてられた
日本とヨーロッパは、距離ははなれているけれど、
とてもよくにた発展をとげており、
それは地理的・生態的にみて必然だったと梅棹さんはとなえる。
日本とヨーロッパの国々との、
ちがいばかりをきかされてきたわたしにとって、
このふたつの文明が同質のものだという指摘は とても刺激的だった。

この『文明の生態史観』をうしろからよむと どうなるか。
できるだけはやい機会に、いってみたいとねがっている。

梅棹さんは、ヨーロッパに まだいったことがなかったのだ。
それにもかかわらず、
このような大胆な説をとなえた梅棹さんに
斉藤さんはおどろいている。
み、みてなかったのか欧州を・・・・。

おどろくというよりも、ずっこけたかんじだ。
そういわれたら、たしかにふつうの神経ではかけない。

『文明の生態史観』の「お尻」もすごいけど、
かきだしもまた 非常に印象的だ。
トインビーという人がやってきた。歴史家として、たいへんえらい人だということだ。その著書は、いくつか翻訳がでているので、わたしも、そのうちの二つをよんだ。

わたしがわざとひらがなのおおい部分をえらんだのではない。
有名な論文が、ほんとうに このかきだしで はじまっているのだ。
論文といえば、むつかしい漢字をたくさんつかい、
専門性をふりかざした 特殊な文章だとおもっていたら、
梅棹さんの『文明の生態史観』は
このかきだしにみられるとおり、
まったくそうではなかった。

本書で「お尻」ばかりをよんでみると、
意味のよくわからない おわり方の本が
あんがいおおいのに気づく。
すべての謎があきらかになり、すっきりした気もちで
本をとじれるものばかりではない。
ラストに注目し、なぜそうしたおわり方になったのかを
説明してくれるこの本は、興味ぶかい読書となった。

それでは、この本はどんなおわり方がとられているだろうか。
とくにかわってはいないけれど、
もっともらしくないぶん いいおわり方だ。

posted by カルピス at 18:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月23日

ピピはなぜひとりでごはんをたべたがらないのか

「みんなでたべるとごはんがおいしい」と
テレビなどでよく耳にする。
ほんとうだろうか。
おおぜいでたべたいのに、
しかたなく すくない人数でたべているひとは、
さみしさから そんな気もちになるのかもしれないけど、
ひとりでたべるごはんだって
そんなにわるくないとわたしはおもう。
鍋や焼肉を、わたしはひとりでもたのしくたべる。

「みんなでたべるとおいしい」は、
おおぜいで食事すると おいしいにきまっている、という
きめつけ・おもいこみがいやだ。
にぎやかにたべる食事がたのしいときもあるだろうし、
しずかにたべいいときだってあるわけだから、
ひとりでの食事を かならずしも否定しなくてもいい。
みんなといっしょに いい雰囲気で食事がとれるのは
おとなとしての大切な能力であり、
いろいろな条件をすべてクリアーしたうえで
「みんなでたべるとごはんがおいしい」
といえるまでの道のりは、かなりハードルがたかい。

意外にも、ひとりでの食事を ネコはいやがる(ピピだけ?)。
夜中に2〜3ど、トイレにあわせてピピは台所で食事をとっており、
このときわたしがいっしょにつきあわないと 機嫌がわるい。
ねむいところをおこされるだけでも たまらないのに、
ピピがたべるあいだじゅう、
さむいなか わたしはそばにつきそっている。
ごはんだけセットしてベッドにもどっても
ピピはゆるしてくれない。
わたしをまたおこしにきて、頭や顔をつめでひっかき、
それでもしらばっくれていると、
ふとんのうえでおしっこと、
いちばんやってほしくない 反則技をしかけてくる。
ピピになぜこのような社会性がそだち、
そばにいるのを大切にするのか、ながいあいだの謎だ。
「みんなでたべるとごはんがおいしい」は、
あんがいものすごくふかい意味があるのかもしれない。

ネコの祖先を おおむかしまでたどると、
集団でかりをしていた 時代にいきつく。
ひとりでは獲物をしとめられないので、
仲間と協力しあい、かりが成功すればともに宴をひらく。
むれでおいかけ、食事をするのは、
生きのこるうえで 大切な能力だった。
ピピは、かすかなそんな記憶を遺伝子からかんじとり、
わたしがそばにいるよう もとめるのではないか。

夜中に ねぼけた頭でピピがたべるのをみていると、
どうでもいいようなアブクが頭にわいてくる。
ピピがおしっこをひっかけるいじわるをしてでも
ひとりでたべたくないのはなぜか。
「みんなでたべるとごはんがおいしい」の謎をとくカギは、
真夜中のピピがにぎっている。

posted by カルピス at 09:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月22日

『地球バス紀行』をみるときの注意点

前回の『地球バス紀行』はラオスが舞台だった。
ビエンチャン→バンビエン→ルアンプラバンをめぐる
よくしられているルートで、
ラオスをまわる旅行者のあいだでは 鉄板といっていい。

わたしがこのまえの旅行でまわった町ばかりなので
なつかしさもあり たのしみにしていた。
でも、みていると、なんだかようすがちがう。
3つの町とも 外国人旅行者がものすごくたくさんいたのに、
番組では、ほとんど地元のひとしかうつらない。
番組のコンセプトが、旅さきの日常を、
わざとらしくないように(わざとらしいけど)紹介する点にあり、
原則として旅行者はウサさんひとりであり、
現地のひとにかこまれて、旅さきでのひとときをすごす。

タイの北部をめぐるときもそうだった。
旅行客だらけの町をたずねながら、
外国人(とくに欧米からの旅行者)は 画面にうつらない。
番組でみる町と、わたしが旅行したときの町とでは
うける印象がずいぶんちがった。
観光客がまわらないところをとりあげたり、
ローカルバスをのりつぐのだから、
地元のひとにかこまれるのも当然か、と
はじめはおもっていたけど、
どうも そればかりが理由でないようだ。

たずねる側にとっては非日常のできごとでも、
おとずれたさきでは、現地のひとたちが
いつもの日常生活をおくっている、
というたてまえを この番組は注意ぶかくまもっている。
そのため 地元のひとが、
自分の国を観光しているという状況がよく登場し、
やすみを利用して観光地をたずねたり、
自分のうまれた町にもどったりするひとから
はなしをききだしている。
きっと、それこそが いかにも現地の日常だからだ。

わたしがいってみたい場所を、番組がとりあげるときは要注意だ。
あこがれの土地を、さいしょにテレビでみてしまうのは
旅行のたのしみからいって あまりいいことではない。
ピレネー山脈をこえるバス旅行のときは、
想像していた山のようすとずいぶんちがうのにおどろいたけど、
これなんかは、じっさいにたずねてみて
想像と実際のずれを体験したかった。

次回の番組は、ブータンでのバス旅行をとりあげる。
いつかいってみたい国、ブータン。
みたい気もするし、みないほうがいいような気もして、
録画をためらっている。
ほかの番組は、旅行のスタイルが
わたしとはっきりちがうので、
こんな心配をしたことがない。
『地球バス紀行』は、わたしがするかもしれない旅行を
さきどりされるから たのしみでもあり、問題でもある。
安心してみられるのは、わたしが興味・関心をもっておらず、
まったく予備知識のない町をめぐるときで、
なにもしらないほど、番組からの風景が新鮮にうつる。
スコットランドをとりあげたときがそうだった。
旅行者が、旅さきの日常にすんなりとけこみ、
さりげなく町をたずねるようすがここちよかったけど、
そんなにうらやましくはない。
『地球バス紀行』は、しらない町をめぐる旅がおすすめだ。

posted by カルピス at 22:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | 旅行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月21日

田んぼのものおき小屋が なんとかできあがる

田んぼの ものおき小屋づくりにむすことでかける。
このまえの仕事で、
だいたいのわくぐみができており、
きょうは波板をうちつけ、
補強用の金具をとりつけるだけだから、
かんたんにおわるはずだ。
とはいえ なにがおこるかわからないので、
念のため お弁当も用意した。
おにぎりとサッポロ一番みそラーメン。
おかしや紅茶もかばんにいれた。
仕事はすぐにかたずき、
そのあとはピクニック気分をたのしめるだろう。

職場からインパクトをかり、
ポリカの波板に穴をあけてから クギをうちつける。
インパクトをつかうと、かんたんに穴があく。
波板だけでなく、角材にクギをうつときも、
インパクトをつかって
とちゅうまで穴をあけておくと すごく楽だ。
このまえ苦労してクギをうったのは
なんだったのかと 拍子ぬけする。

くわしい設計図にそってつくったわけではなく、
とくにすみっこは、おもわぬすき間ができている。
こまかいところにおよんだしわよせを、
つじつまあわせで なんとかごまかす。
すきまだらけだらか安全
(一酸化炭素中毒に、なろうとおもってもなれない)、
という自虐ギャグがあるけど、
一酸化炭素どころか、肝心の雨と風さえ
ふせげない気がする。
できあがった小屋に足踏脱穀機いれたものの、
もしもの用心で、ブルーシートもまいておいた。
秘密兵器でもないのに ブルーシートをかぶったままの足踏脱穀機は
今回の仕事を象徴しており、残念な景色だ。
しばらくようすをみて、雨がふきこまないようなら
ブルーシートをはずして デビューさせよう。
ものおき小屋.jpg
たいした作業量でないとはいえ、
いちにち小屋づくりにとりくんだので
さすがにつかれた。
はじめはむすこに丸なげをしていたなんて、
ずいぶんひどいおもいつきをしたものだ。
なりゆりきはともかく、
もうすぐ家をはなれるむすこと
こうしていっしょに小屋づくりができたのは、
ものすごくしあわせなのかもしれない。
とりあえずの完成をいわい、
プレミアムモルツで乾杯した。

posted by カルピス at 22:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月20日

まつえレディースハーフマラソンでのお手つだい

まつえレディースハーフマラソンで、
伴走者としてお手つだいする。
この大会は、ハーフマラソンは女性だけしか
エントリーできないけれど、
それ以外にも、10キロ・ジョギング・「ちびっこ」と、
いくつもの部門にわかれており、
こちらには男性も参加できる。
わたしが伴走したのは、3.2キロのジョギング部門だ。

もう37回目というから、
春のおとずれをつげる大会として
すっかり定着したかんじだ。
それなりにゆたかな経験をつんでいるのだから、
運営もじょうずにこなされているかとおもったのに、
しらないものが参加すると わからないことだらけだった。
まず、レースまえの集合場所がわからない。
まえもって地図がくばられているけど、
おおざっぱすぎて役にたたない。
それに、肝心なスタートの場所がわからなくて
ほんとうにこまった。
黄色のジャンパーをはおった
関係者っぽいひとはたくさんいるのに、
だれにきいても はっきりしたこたえがかえってこない。
自分のうけもちをこなすだけで精一杯なようすで、
全体を把握してるひとが あまりいない印象だ。

部門がいくつもにわかれていることから、
ハーフマラソンとそのほかの部門は
ちがうスタート地点となっており、
さいごまでそれがわからなかった。
パンフにもかいてないし、集合場所にいても 案内がない。
いったいなんのための集合場所なのだ。
スタートまえからあわてさせられ、
なんて不親切な大会だと ちょっといらついた。
常連ばかりでなりたっている大会ではないのだから、
だれにでもわかる形で案内や表示がなければこまる。
伴走者としてつきそいながら、
あぶなくスタートできないところだった。
そんなことになったら、すごくかっこわるい。

文句ばかりいうのはまちがいだろう。
たくさんのボランティアの方が
大会をささえてくださるおかげで、
選手たちは はしりに専念できる。
わたしたちがはしっていても、
たくさんの方から応援してもらえたし、
更衣室となった武道館でも スタッフから親切にしていただいた。

わたしがいっしょにはしった方は、
練習の成果がいかされ、いいタイムでゴールした。
とちゅうで気もちがとぎれそうになったときは、
はしりおえたあとの おたのしみとして 約束していた
「温泉!」の声をかけると、またちからがはいるようだった。
さいごのほうは かなりくるしそうだったのに、
なんとか完走でき、手ごたえがあったようすだったし、
伴走したわたしとしてもうれしかった。

レースをおえて、わたしたちがかえり道をあるいていると、
10キロの部のランナーたちが
ゴールをめざして ラストスパートをかけているのにであった。
10キロ部門のせいか、はしりこんでいるひとばかりではなく、
愛好家、もしくは初心者っぽいはしりをみていると、
わたしも参加したくなってきた。
37回も松江でひらかれているのに、
わたしはまだいちども参加したことがない。
ものすごくたくさんの参加者で 混雑するほどの大会ではないし、
レベルもわたしにぴったりみたいなので、
つぎは選手としてエントリーしたい。
いまから来年のことをいうのは なんだか軽々しいけど。

きょうのために、2ヶ月ほどまえから
ポツリポツリと練習してきたので、
まずはぶじにおわって安心した。
いちにちの仕事をおえたあと、
きょうのコースとなった宍道湖岸をひとりではしる。
ちょうど夕やけの時間とかさなり、
たくさんのひとが宍道湖にカメラをむけていた。
すんでいるわたしがいうのもなんだけど、
レディースマラソンのコースはとてもうつくしい。
来年もおおくのランナーに参加してもらい、
春の松江をたのしんでいただきたい。

posted by カルピス at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月19日

アフリカ戦線のプラモデルをつくっていたあのころ

利用者のおでかけにつきそって
イオンのおもちゃ売場をまわったら、
戦車や戦艦のプラモデルがかざってあった。
いまでも軍事もののプラモデルは
人気をたもっているみたいだ。
日本の戦艦にドイツの戦車。
どちらも第二次世界大戦ちゅうのものだ。
おおくの兵器がこれまでにうまれてきたなかで、
人気があるのは あいかわらず第二次世界大戦というのははぜか。
この期間につくられた兵器には、
デザインや完成度において、
なにかひとびとのこころをかきたてるものが
あるにちがいない。

わたしも小学生のころは、
第二次世界大戦のドイツ陸軍を専門とする
プラモデルずきの少年だった。
平和をねがいながら兵器にロマンをかんじるのは、
矛盾した感情とおもいつつ、戦車づくりがやめられない。
第二次世界大戦といっても、東部戦線はソ連と、
西部戦線はイギリスとアメリカが相手であり、
つかわれた車輌も若干ちがってくる。
わたしはロンメル将軍ひきいるアフリカ戦線がすきで、
つくった戦車はぜんぶライトカーキーにぬりあげたものだ。

第二次世界大戦は、
戦車がもっとも戦車らしい時代だったのかもしれない。
おおきな鉄のかたまりが、
キャラキャラとキャタピラーの音をひびかさせながら
のしのしとすすんでくる。
それまでの戦車はまだ開発途上で、兵器としてこなれていない。
第二次世界大戦がおわってからの戦車は、
こんどは発達しすぎてしまい まるでかわいげがなくなった。
装甲車なみのスピードをたもちながら
はしったまま大砲をうつなんて、いきすぎた性能であり、
戦車としての魅力をうしなっている。

有名なタイガー戦車は、
連合軍を恐怖のどん底につきおとした、
なんてよくかかれているけれど、
生産台数はT型とU型をあわせても 2000両ほどで、
ドイツ全体の1割にもたっしていなかったという。
『戦場のコックたち』(深緑野分)は、
タイガー戦車ではなくパンターや突撃砲にひかりをあてている。
じっさいのたたかいにそくしており、
リアリティをもたせる意味でもうまい選択だ。
88ミリ対戦車砲もでてきた。
精密な機械としてのうつくしさと、
兵器としてのなみはずれた威力に
胸をときめかしてプラモデルをつくったころをおもいだす。
歴史や地理についてのわたしの知識は、
タミヤのミニタリーシリーズを基礎としている。

宮崎駿さんが、戦車にはその国の国民性があらわれる、
というようなことをかいておられた。
ガソリンをいれておけば
故障なくうごいてくれるのがアメリカの戦車で、
ドイツのタイガー戦車は精密すぎて、
こわれるようにできているらしい。
イタリヤの戦車は いかにもイタリヤだし、
日本の戦車にはぜったいにのりたくないとおもうほど、
なかにはいる兵士のことが かんがえられていない。
あのちゃちな車体にもぐりこみ、
シャーマン戦車とむきあった日本の戦車兵は、
自分の国の軍隊をうらんだにちがいない。

posted by カルピス at 22:53 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月18日

となりのコースで「ドボーン、ドボーン」と波をおこすおじさん

ドル平という泳法がある。
およげないひとが呼吸をマスターするのに
とてもわかりやすいおよぎだ。
足がドルフィンキック、
手のうごきが平およぎににていることから「ドル平」。
ビート板をもってのキック練習が
水泳の基礎とおもわれているけれど、
バタ足をいくらやったところで およげるようにはならない。
およげないのは、呼吸ができないからで、
その呼吸を身につけるのに、ドル平は最適な泳法なのだ。
およげないひとでも、ドル平を説明すると、
クロールよりずっとかんたんに
いきつぎができるようになる。

ドル平にはずいぶんお世話になったので、
わたしはドル平がだいすきなのだけど、
このまえプールでおよいでいたら、
となりのコースに ドル平とよくにたフォームで
「ドボーン、ドボーン」とはでに波をおこしているおじさんがいた。
ドルフィンキックというよりも、ひざをおおきくおって、
はでに水をうちつけている。
となりでおよいでいるわたしは、
なにごとがおきたかとおもえるほど、水中でつよい波をうけた。
宇宙戦艦ヤマトの波動砲をみればわかるとおり、
波はとほうもなくおおきなちからとなって、
まわりにつよい影響をあたえる性質をもつ。
そのひとはもちろん水泳をたのしんでいるのだろうけど、
となりでおよぐものにとっては、
波をおこしてこまらせようとしかおもえないうごきだ。
こういうひとにかぎってものすごく体力があり、
いつまでもやすまずに「ドボーン、ドボーン」をつづける。

プール監視のひとに、へんなおよぎをやめさせるよう
注意してもらおうかとおもった。
でも、水面をみているぶんには、
ほとんど波はあらわれておらず、
水のなかで そんなにつよい波ができているようには まるでみえない。
それなのに、となりでおよいでいると、
まるで荒波にもまれる木の葉みたいに 波にほんろうされる。
オープンウォータースイミングの
練習をしているとおもえばいいんだ、と
いいきかせてみるけど、
それにしてもひどい波なのでうんざりしてくる。
ながいあいだ水泳をやっていながら、
こんなやり方でまわりの迷惑になるひとをはじめてみた。
だいすきだったドル平まで
はらだたしいおよぎにおもえてきた。

でも、冷静にかんがえると、
たかだかひとりのおじさんがおこす波ごときに
およぎをじゃまされるわたしのほうがどうかしてるのだ。
わたしがつよいキックとプルをきかせておよげば、
そんな「ドボーン、ドボーン」にわるさをされたりしない。

それにしてもあのおじさんは、
ドル平もどきのおよぎで なにをしていたのだろう。
まえにすすむ快感よりも、「ドボーン、ドボーン」と
おおきな波をおこすよろこびに ひたっているとしかみえない。
あれはあれで、れっきとした 水泳のあたらしいたのしみ方なのだ。
クロールや平およぎで、ぐんぐんまえにすすむだけが
水泳のたのしさではない。
あのおじさんのように、ただうかびながら
「ドボーン、ドボーン」と波をおこすのも ありなのだろう。
いつまでも嬉々として「ドボーン、ドボーン」をつづけるおじさんは、
これまで水泳といわれている概念から
まったくはなれた たのしみ方を発見したのかもしれない。
あるいは、あんがい別の世界からきたひとだったのかも。

posted by カルピス at 23:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月17日

丸なげはダメ!

田んぼにものおき小屋があったら便利なので、
むすこに小屋づくりを丸なげした。
わたしが車にのらない日は、
むすこがつかってもいいかわりとして、
むすこが小屋をつくる、というとりひきだ。
わたしは楽だし、免許とりたてのむすこは
運転の練習ができる。
すばらしいアイデアだとおもったけど、
丸なげはやりすぎだった。

先週の水曜日に材料をかって田んぼにおいてきた。
あとはよろしく〜!とむすこにまかせたものの、
いちど田んぼにいったきり、
小屋づくりにとりくんだ気配がない。
どうも、どこから手をつけていいか
よくわからないみたいだ。
わたしだってよくわからないから
丸なげしたのだけど、
あまりにもそれは無責任すぎたようで、
むすことしては、小屋づくりをすすめられない無力感に
ひとしれずなやんでいたようだ。
なにかわたしにきりだしたいようすがあり、
にぶいわたしも ようなくむすこの「なやみ」に気づき、
いっしょに仕事をすすめたほうがいいと
きょうはふたりで田んぼにむかった。

やってみると、これはたしかにやっかいだ。
インパクトがないので、金づちでクギを材木にうちつけるのだけど、
おおきなクギをうちこむのはあんがいむつかしく、
とちゅうでまがったり、材木がわれたりする。
そもそも ひとりでは 木をささえながらクギをうてない。
おおくの作業は ふたりいないと うまくいかないのがわかった。
だれがこんな仕事をひとりでやれ、なんていったんだ。

職場でも、わかい職員になにか仕事をまかせるのは、
いい体験になるけれど、丸なげはよくない。
進行状況に目をくばり、必要におうじてアドバイスもいれないと、
まかされたほうは はじめてなので
どううごいていいかとまどっていることがおおい。
さいしょはスモールステップから、というのが
なにごとにおいても原則となる。

小屋づくりは、コンパネのひろさしかなく(180×90)
メジャーでおおざっぱに線をひくていどの やっつけ仕事なので、
だれにでもできるとおもいこんでいた。
おおざっぱなくみたてでも、
クギと金づちをつかっての大工仕事は 意外とたいへんだ。
DIYなどは、素人でもできるように
つかいやすい道具(インパクトなど)にたよっている。
お金をけちると、それだけ手間が必要になる。

きょうのところで、だいたいのわくぐみがおわった。
あとは屋根に垂木をつけ、そこに波板をはればできあがりだ。
ちょっとはなれたとこからみると、
あちこちにゆがんでいるのがわかる。
柱が土台にしっかりつけられていないので、
ぐらつきがひどく、まったく自立していない。
このままほっておいては、
つぎにきたときはこわれていそうなので、
野地板を地面につっかえとなるよう 仮どめしておいた。

材木どおしを固定する いろんなかたちの金具がうれているので、
つなぎの部分は ゴテゴテにうちつけて補強しよう。
それでもだめならロープをつけて ちかくの木にむすぶ覚悟だ。
みばえはどうでもいいから、
とにかく雨がもらず、ぐらつかない小屋にしあげよう。
21日(祝日)はお天気の予報なので、
その日の完成をめざしている。
ひとつのプロジェクトをやりとげた達成感に、
むすこも安心して広島へいけるだろう。

posted by カルピス at 21:52 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月16日

短時間の記憶力

認知症かどうかをしらべるときに、
3つの名前、たとえば「くま」「電車」「ボール」
などをおぼえてもらい、
しばらくほかのはなしをしたあとで、
さっきおぼえた3つの名前はなんでしたっけ?
と、ふりかえってたずねる検査がある。
わたしはこれがにが手で、
さっきまでしっかりおぼえていた名前なのに、
すこし時間をおくと まるででてこなくなる。
頭のなかがまっしろで、さっきまでそこにあった記憶が、
さらさらとこぼれおちてゆくのは いやなかんじだ。

だったら認知症をうたがえばいいのだけど、
あっさりみとめたくないし、
そもそも短時間の記憶力のよわさは、
いまにはじまったわけではなく、
30歳のころからあきらかに難があった。
30歳で すでに さっきおぼえた名前がでてこなかったのだから、
50をすぎて できなくてもあたりまえだ。

新聞に、まえの日の気温が毎日のっており、
最高気温と最低気温だけでなく、
それぞれ平年との差も わかるようになっている。
たとえば松江の きのうの気温は
 最高    最低
11.6(-1.0)/2.7(-0.4)
という4つの数字がしるされている。

短時間の記憶力がたかまればと、
3ヶ月ほどまえから、
この4つの数字を暗記するこころみに、毎朝とりくんでいる。
短時間といっても、5分たてば わすれるにきまっているから、
まずは4つの数字を 正確におぼえられるかどうか、という段階だ。
残念ながら いまのところ めだった進歩はなく、
数字が簡単なら(-1.0とか)おぼえやすく、
複雑なら とたんに成績がわるくなる。
3つまでならともかく、4つとなると
わたしの記憶力では 手にあまるらしい。
でも、こうやって毎日やっていれば、そのうち 5分たっても
スラスラと4つの数字がでてくるようになるはず(なってほしい)。
50歳をすぎて「くま」「電車」「ボール」では
さすがにたのしくないので、
気温の暗記はちょうどいい課題となっている。
もしわたしをあてにげするような車がいたら、
4けたのナンバープレートを 記憶するのにやくだちそうだ。

こうやって4つの数字に注目していると、
気温が平年なみの日は、あんがいすくない
(個人の感想です)。
平年にくらべて あついかさむいのだから、
「あついですねー」
「さむくなりましたねー」は、
あたりさわりのない挨拶というよりも、
からだが正確に反応した結果かもしれない。
おとながお天気のはなしにながれやすいのは、
それなりの理由があったのだ。

posted by カルピス at 20:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月15日

丸なげがすき

田んぼにものおき小屋があれば便利だ、とおもいつつ
なかなかとりかかれない。
いまは、足踏脱穀機やイノシシよけの電気柵が、
書庫としてつかっている部屋においてある。
部屋がごちゃごちゃしておちつかないし、
これでは書庫としての機能をはたさない。
脱穀機だけでなく、クワや長ぐつ、
草刈機などをおく場所が田んぼにあれば
ずいぶんすっきりするだろう。
冬をこし、やがて春になり、
もうすぐことしの米つくりがはじまってしまう。
本格的にうごきだすまえの段階で、
なんとか小屋づくりをおえておきたい。

ホームセンターで材料をかってくれば、
小屋をつくるのは そんなに手間はかからない。
ただ、最初のいっぽをきりだせないのだ。
なにかいいアイデアがないか、かんがえていたところ
むすこに丸なげするのをおもいついた。
高校の卒業式をおえたむすこは、
進学さきの広島へいく3月すえまで
とくになにをするわけでもなく、家でのんびりすごしている。
さいきん免許をとったばかりなので、
田んぼまでかよえば 運転の練習にもなるだろう。
わたしが車にのらない日は、むすこがつかってもいいから、
そのかわりに小屋をつくる、というのが
わたしがむすこにしめした交換条件だ。

わたしは大工仕事が得意ではなく、
わたしが小屋をつくったところで
どうせたいしたものはできない。
むすこだって きっとうまくはないだろうけど、
それだったら どちらがやってもたいした差はないのだから、
むすこにすべてまかすことにした。
いっしょにホームセンターへいき、
だいたいの材料をえらんで 田んぼまではこぶ。
たりないものがあったら 自分の判断でかうよう むすこにつたえた。

すべてをまかすのは、ひとをそだてるうえで効果的だといわれている。
丸なげではなく、進行状況をチェックしながら
必要におうじて アドバイスをいれたりするのだろうけど、
わたしの場合は まったくの丸なげだ。
でも、あんがいこういう体験が
ほんとうの教育なのでは、なんておもったりもする。
むすこが自発的にいいだしたのではなく、
まきこまれ型の体験というのが ちょっとよわい点だけど、
わたしが楽をして、むすこもすこしたのしめるとしたら
おたがいにいいとりひきではないか。

ものおき小屋づくりの丸なげに味をしめて、
今夜の夕ごはんづくりは むすこにたのんだ。
わたしがある会に出席することになり、
こんな場合、いつもだと夕ごはんを準備してでかけるのだけど、
家でのんびりすごす人間がなにもしないで、
はたらいているわたしが 夕ごはんの心配までするのは、
よくかんがえると まちがっている。
むすこには、カレーライスでいいから
なにかつくるようたのんだ。
カレーだけでなく、サラダやほかの料理があれば なおよい、
といったけど、それはあっさりかわされてしまった。

小屋づくりをきりだしたのが先週で、
きょうまでまだ1回しか作業をしていない。
基礎をおく場所の土をならして
たかさをそろえただけだという。
きょうはいい天気だったのに、田んぼにはいかなかった。
丸なげしてみまもるのも、
あんがい なにもしないためのちからがいる。
できればさいごまでわたしは手をださず、
むすこだけにまかせたい。
むすこが広島へいく今月すえまでに、小屋が完成するだろうか。

なんでもかんでも 丸なげされるのはかなわないと、
むすこがはやく家をでて、自立した人間になってくれたら
わたしはいちばんうれしい。
高校を卒業したら 家はもう自分がのんびりすごす場所ではないと
むすこが自覚するためにも、丸なげできる機会をいかしたい。

posted by カルピス at 22:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | むすこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

中高年期をむかえた元ボクサーたちの実力は?

朝日新聞に連載されている『春に散る』(沢木耕太郎)には、
もとボクサーたちのシェアハウスがでてくる。
わかいころおなじジムに所属し、
チャンピオンをめざして
トレーニングにあけくれていたボクサー4人が
40年後にふたたびあつまって
シェアハウスでいっしょにくらすようになる。
4人が再会をいわって食事をしていると、
町のチンピラがからんできてケンカになった。

元ボクサーだけあって、
4人はチンピラをまったくよせつけず
(ひとりは最近まで現役だったボクサーなのに)、
かんたんにうちのめしてしまうのだけど、
じっさいにそんなかっこよく はなしがすすむのだろうか。
いくらわかいころは それなりにつよかった4人とはいえ、
それは40年以上まえのはなしだ。
そのあとながいあいだ不摂生をつづけていた身なのに、
一瞬の技とはいえ、むかしとおなじキレを
たもてるわけがないようにおもう。

ひとりは引退後に自分でジムを経営していたので、
すこしぐらいはトレーニングをする機会があっただろうけど、
主人公の広岡は心臓発作をおこし、
いつたおれるかわからない状態だ。
のこるふたりは 日常的に
からだをきたえているようにはみえない。
おやじ体型となり、パンチのキレも
ボクサーだったころとはくらべようもない(はず)。

わたしが自分のからだにかんじるのは、
いくらむかしはそれなりのレベルにたっしていても、
年齢をかさねるうちに 実力はどんどんおちるきびしい現実だ。
50歳をこえるころには 頭がえがくフォームと、
じっさいの競技力との差がおおきくひらいてゆく。
むかしの貯金でなんとかやっていけるのは、
いいとこ30代までであり、
『春に散る』の4人がいまもまだつよいままなんて、
虫がよすぎるはなしではないのか。

わたしは沢木氏に、もうひとつの『春に散る』を提案したい。
チンピラたちにからまれた4人は、
むかしとった杵づかで、かっこよく相手になるのだけど、
からだはおもうようにうごかず
けちょんけちょんにやられてしまう。
チャンピオンをめざした自分たちが、
わかいだけがとりえのチンピラに まけたままではおわれない。
4人はシェアハウスにこもってトレーニングにとりくみ、
もういちどかつてのコンディションをとりもどしたのちに、
チンピラたちへ もういちど たたかいをいどむ・・・。
なんだか金城一紀の『フライ,ダディ,フライ』みたいだ。
『春に散る』は中高年の夢ものがたりであり、
ありえないはなしにリアリティをもたせるのは、
『フライ,ダディ,フライ』のほうがうまい。

たとえむかしはそれなりにならしたとはいえ、
なにもしないでおいて コンディションをたもてるほど
ボクシングがあまいスポーツとはおもえない。
中高年になった元ボクサーが、
むかしのうごきをとりもどすには
ある期間のハードトレーニングが必要なはずで、
それにうちかってこそ中高年の星となる。
中高年期をむかえた元ボクサーたちの、報告をまちたい。

posted by カルピス at 22:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月13日

「マラソンは35キロをすぎてから」と瀬古さんはいった

たしか村上春樹さんの本に、
「35キロをすぎてからがマラソン」という
瀬古さんのことばが紹介されていた。
あんがい35キロではなく30キロだったかもしれないし、
とりあげていたのも村上さんではなかったかもしれない。
でもまあ趣旨はいっしょだ。

35キロまでは自分の体調をみきわめ、
まわりの選手たちとのかけひきをする時間であり、
しんどそうにみえて 意外とたいくつなのだそうだ。
テレビでマラソンのレースをみていると、
1キロ3分のすごいペースですすんでおり、
わたしには100メートルでもむりだろうから、
それを「たいくつ」とは、たいへんな世界だ。

35キロまでは、たとえおおきななうごきはなく、
先頭集団がまだかたまりであったとしても、
水面下では さまざまなうごきがでている。
表情やはしりがすこしずつかわり、
35キロからさきのかけひきに
ついていけるかどうかは、それまでにきまっている。
35キロからが本当のレースなら、
42.195キロなんてはしらなくても、
42キロひく35キロで、7キロのレースをすればいいかというと
もちろんそうではなく、
うごきをともなわない35キロまでが
それからのはしりをきめているというのがすごい。
「マラソンは35キロから」は、だから
なかなか含蓄のあることばであり、
マラソンの奥ぶかさをよくあらわしている。

これにならい、「30分をすぎてからがジョギング」
というのをわたしはおもいついた。
からだにあたえる影響や、運動の効果としては、
15分つづけてはしればそれでじゅうぶんらしいけど、
ジョギングの気もちよさは 15分では味わえない。
わたしの場合、30分までは ただくるしいだけで、
30分をこえたあたりから
あたまやからだがやっとたのしくなってくる。

スポーツだけでなく、あらゆる局面と相性がよさそうだ。
40をすぎてからがほんとうの人生、というのはどうだろうか。
わかいうちは、ただいきおいで生きているにすぎず、
人生の機敏がわかるのは 40をこえないとむりだよ、なんて。
ごはんは2杯めのおかわりをしてから、とか
お寿司は10貫をすぎてから、も
なんだか意味がありそうにきこえる。
旅行はプーケットにいってから、でもいいし
結婚は3年をすぎてから、は「いかにも」というかんじだ。

どうもこの「◯◯をすぎてから」は、
いったものがちのことばであり、
いわれたほうが かってにふかよみしがちだ。
いったほうは、かるい気もちでくちにだしただけなのに、
いわれたほうが もっともらしい意味はあとからつけくわえる。

あんがい瀬古さんも、
たいしてふかい意味をこめたわけではなく、
お得意のはったりで
いいはじめたセリフのような気がしてきた。

つまらないのが
「お酒は20歳をすぎてから」で、
ただしいだけに 奥ゆきがない。
いちばん実用的な「◯◯をすぎてから」が、
もっともふかみにかけるというのも
なかなかいいはなしだ。

posted by カルピス at 22:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月12日

麻酔なしの手術にたちあう

ピピのシッポのキズがウミをもち、
そこがやぶれ 皮膚がずるむけになっている、
と先日のブログにかいた。
かかりつけの病院に、おとついピピをつれていく。
先生は キズのふかさ・おおきさにおどろかれ、
でも、これまでにたようなケガをなんどもくりかえしてきたので、
こうなるまでほったらかしたわたしを しかったりせずに、
淡々と治療してもらえた。

口内炎と腎不全でからだがよわっているピピは、
麻酔をうったら そのままむこうへいってしまうおそれがある、
と先生がいう。
つまり、麻酔なしでキズぐちをぬうわけで、
ピピに筒状の拘束着をつけ、
うごかないよう わたしがおさえ、先生が治療にあたる。
治療がすすむにつれ、なまなましい肉や骨がみえ、
ピピはなんとかにげようと おおさわぎする。
たった2.2キロしかない よわったネコでも、
必死になってあばれると、なかなかとめられるものではない。
わたしはキズぐちをみないよう顔をそむけ、
ピピにはなしかけながら なんとか治療がおわった。

最近『戦場のコックたち』(深緑野分)をよんだせいか、
戦場での衛生兵をおもいうかべる。
衛生兵は、2.2キロのネコがあいてではなく、
いたみや恐怖にふるえる兵士たちにむきあうので、
さぞかしたいへんな任務なのだろう。
麻酔なしでキズをぬわれるピピはくるしいし、
先生にしても むつかしい判断だったろうけど、
ピピをおさえているわたしだって ヘトヘトだった。

いぜんみた映画に、旧ユーゴスラビアのどこかの国を
国連が爆撃するはなしがあった。
主人公のわかい男性が、コカインかヘロインにラリったまま
空爆の荷物にまぎれ、カゴごとパラシュートで戦場におとされる。
たまたま野戦病院にたどりつくと、
そこでは医薬品が徹底的に不足し、
片足を切断する手術も 麻酔なしでおこなわれようとしていた。
ベッドにねかされた兵士は、麻酔なしでの手術ときき、
うろたえ 混乱し、おおさわぎする。
主人公の男は、自分が麻薬をもってるのをおもいだし、
麻酔のかわりに患者にのませ、
いたみなしで ぶじに手術が成功するのだった。

『プライベート・ライアン』にも、
戦場でおおけがをした兵士に、
仲間たちがモルヒネをうつ場面がある。
おおくうちすぎると、そのまま死んでしまうとしりつつ、
キズぐちからの出血がとまらず、
もうたすからないとわかっている兵士にたいし、
せめていたみだけでもやわらげようと、
3本目、4本目のモルヒネをうつ。

映画でよくとりあげられるように、
戦場といえばいたみであり、
いたみといえば麻酔なのだ。
現代の日常生活において、麻酔なしの手術は
ふつうおこなわれない。

麻酔なしで手術(ぬうだけだけど)にたえたピピは、
家にもどると すぐにごはんをたべ、
居場所とするコタツのなかにもぐりこんだ。
病院の先生に、キズ口をなめないよう
首にカラーをまくようにいわれたけど、
ピピがあんな不自然な装置に我慢できるわけがない。
でも 先生にそんなことをいう勇気は わたしになく、
カラー代1500円、全部で7500円をしはらって病院をでた。
キズがよくなったせいか、ピピは食欲をとりもどし、
何度目かの危機を なんとかまた きりぬけたようだ。
いつおわかれがくるかわからないので、
主食のカンヅメをすこしずつかいたしていたけど、
まだむこうの世界へいくつもりはなさそうだ。
おいわいに、モンプチの牛テリーヌ3個いり×24のセットを注文する。
夜2〜3回おこされ、ベッドのうえでおしっこされる生活を、
ありがたいことに、もうしばらくつづけられる。

posted by カルピス at 23:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする