2016年03月11日

たきだしで煮こみラーメンをつくる

5年目の3月11日をむかえた。
職場では、大震災をわすれずに、
自分たちのこととしてとらえようと、
たきだしでラーメンをつくる。
利用者と職員をあわせて16名にたいし、
みそラーメン3袋・煮こみラーメン1箱、
キャベツ3玉とニンジンが3本。
160311たきだしラーメン.jpg
庭でコンロに火をおこし、鍋をかける。
つかいこんだ鍋はボコボコで、いかにもたきだし風だ。
雰囲気だけでなく、穴があいているのがわかり、
とちゅうでほかの鍋にかえる。
するとそれにも穴が、と
非常時のたきだしを体験するには 絶好のアクシデントだ。
とはいえ、いまさらどうしようもなく こまっていると、
布のガムテープを鍋にはれば
水もれがとめられると、スタッフの女性がおしえてくれた。
家でよく急場をしのいでいたそうだ。
とても重要な知識だけど、いまからは間にあわない。
きょうのところは もうひとつ鍋をさがしてのりきる。

キャベツをきっているときには、
いくらなんでも3玉はおおすぎるだろうとはなしていたのに、
鍋にいれ、ラーメンをくわてみると、きっちりおさまった。
おこのみやきで体験したのとおなじように、
キャベツはいくらたくさんにみえても
主役(ここではラーメン)にあわせて自由に姿をかえ、
なんとなくピッタリになってしまう不思議なたべものだ。

あるもので対応するのが 震災でのたきだしでは大切だろうから、
すくなすぎるラーメンと、ふつりあいに大量のキャベツで
なんとか16名の胃袋をなだめなければならない。
あれがない、これではすくなすぎる、なんて
いってられないのだ。
あるものでなんとかするよりなく、
そうした意味において、
きょうのたきだしは よい体験となった。
なによりも、不平をいうひとはだれもおらず、
できたものをありがたくいただこうという姿勢が
全員に共通していた。
さむいなか、あつあつのラーメンをたべられるだけでも
どれだけありがたいことか。

利用者の方たちも、おどろくほどよくたべてくれた。
みそ味と、カレー味の両方とも、ほとんど鍋がからっぽになるほど
おかわりをかさねる。
これだけでお腹いっぱいになり、
おひるのお弁当は とてもたべられないだろう、
とはなしていたのに、影響があったひとはだれもおらず、
ラーメンはラーメン、お弁当はお弁当と、
完全に胃袋をわけてとらえられており、
いざというときにも たよりになりそうな健全な食欲だった。

きょうのたきだし体験で、
さむい日にたべる煮こみラーメンのありがたさと、
そのあとにいつものお弁当があっても
それはそれで おいしくいただけることがわかった。

posted by カルピス at 20:42 | Comment(0) | TrackBack(0) | 料理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月10日

とめてもはねてもどちらも正解

3月1日の朝日新聞で、
文化審議会が常用漢字についてしめした
「とめてもはねても」どちらも正解という
指針が紹介されていた。

「保」は「ホ」なのか「木」なのか。
「女」の「ノ」は「一」からすこしでているのかどうか。
「吉」のうえの部分は「土」なのか「士」なのか。
「天」の「二」の部分は、上がみじかいのかどうか。

それらをぜんぶ「あやまりではない」とみとめてくれた。
とめる・はねるの わずかなちがいについて、
伝統を理由に きびしい基準をもうけるのは
いまの時代になじまない。
筆をつかってかいていた時代には、
とめたり・はねたりに意味があったかもしれないけど、
パソコンなどの画面にあらわれる文字や、
印刷された文字について、
いつまでも こまかな点にこだわるほうがどうかしている。
でも、「どうかしている」なんて おおっぴらにいえば
「とても大切」だとおもっているひとたちに さしさわりがあるので、
「どちらでもいい」というあいまいなままにしたのが
わたしはすばらしいとおもう。

「とめ・はね・はらいはどうでもいいといっているのではない」と、
とめ・はねを大切にしているひとたちの顔をたてながら、
実質的には「どうでもいい」といっている。
「どちらも正解」がだいじだ。
いっぺんに「どうでもいい」とするのではなく、
「どちらも正解」としておけば、
つかううちにおちついてくる。
なしくずし的に「なんでもあり」になればおもしろい。

これからますます手で漢字をかく場面は
すくなくなるだろう。
しばりがはずれたのだから、
どんどんあいまいで いいかげんな「はね」や「とめ」になり、
くっついたり はなれたり へんなおおきさになってゆく。
活字になんとなくようすがにていれば、
それでOKなのだから、外国人のかく漢字みたいに
日本人からみると とんでもない字でも 文句はいえない。
「どちらも正解」は、画期的な指針になりそうだ。

posted by カルピス at 22:07 | Comment(0) | TrackBack(0) | 表記法 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月09日

むすこに運転のポイントをつたえそこねる

自動車の運転免許をとったむすこが、
練習するために わたしの車をつかわせてくれ、という。
たしかに運転の空白期間はつくらないほうがいいので、
保険を年齢無制限にきりかえて、
きょうからわたしのフィットをつかえるようにした。

運転していると、ほかの車にイライラさせられることがおおく、
むすこにはそうしたドライバーになってほしくない。
ポイントを2つにしぼり、むすこが免許をとったら、
それだけはどうしてもつたえようと ずいぶんまえからきめていた。

ひとつは、右折のときに 車を右によせる、というあたりまえなこと。
道路のまんなかに車をとめ、
うしろにながい列ができていても 平気なドライバーがいかにおおいか。
ウィンカーをだしただけで、道のまんなかにいすわっている車をみると
まわりがみえてない無神経さにうんざりする。

もうひとつが、右折でも左折でも、
道をまがるときは反対方向にふくらまない、というものだ。
トレーラーを運転しているかのように、
ものすごく反対側にふくらんで角をまがる車は、
みていてうつくしくないし、
自転車やバイクであとをついていると とてもあぶない。
ウィンカーをだした反対に車が路線をかえるのだから、
うしろをはしるものとしては 予想外のうごきになる。

むすこにつたえたい運転のマナーは
ほかにもたくさんあるけれど
あんまり口うるさくいうのは
こちらが自己満足するだけで、
あいての耳には たいしてはいらないだろう。
むすこには、せめて このふたつだけでも
気をくばれるドライバーになってほしかった。
いっしょに車をのっているときに
実例をしめして むすこにつたえようとおもった。

むすこの運転する車にしばらくのったあと、
わたしは用事があったので
そこまでむすこにおくってもらい、
3時間後にむかえにこさせる。
運転手つきえらいひとになったみたいで、わるくないかんじだ。
これからしばらくは 重役気分をあじわえるな、
なんておもっていたら、
むかえにきたむすこが「ちょっと事故した」ときりだした。

お店の駐車場からでようとしたときに、
まえからほかの車がはいってきて、
よけようとバックしたら うしろの車にあたったのだという。
はなしをきくかぎり、むすこのほうが100%わるそうだ。
すぐに保険会社に連絡して対応にあたる。

初心者のうちに事故を体験してよかったと
とらえることもできる。
いい線いっているつもりで運転していても、
かんたんにトラブルをまねくと ちいさな事故でおもいしれば、
これからしばらく あんまりむちゃなことはしないのではないか。
免許をとったばかりで 事故をおこしたむすこは
ずいぶんショックだったみたいで、
家にもどるときは わたしに運転をかわってほしいという。
運転についての2点のツボを つたえたかったのに、
いまのむすこには、なにをいっても頭にのこらないだろう。
自信をなくしたままではこまるので、
ようすをみながら なんらかのケアが必要かもしれない。
わたしの初期型フィットは、
重役用の送迎車にふさわしくないほど、バンパーがゆがんでいた。

posted by カルピス at 21:15 | Comment(0) | TrackBack(0) | むすこ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月08日

ピピにつよく反省をもとめたい

ピピがときどきおしりのあたりから血をだす。
血尿だろうか。
いよいよさいごのときか、と観念していたら、
キズがウミをもち、そこをおおっていた皮膚がずるむけして
血のまじったウミがでていたのだった。
おそらく外でケンカをしたときのケガが原因だ。

口内炎で、まともにごはんをたべられず、
足もとがふらふらでトイレにいけなくなり、
やせほそり、かたてでつかめるほど ほそいウエストで、
トイレシートではおしっこがまにあわず なんどもふとんをよごし、
口もとやハナの穴のまわりに かさぶたがはりついて、
どうみても 死にかけている年おいたネコなのに、
それでもまだ そとにでてケンカをし、
ケガをするほどたたかわなければ、
ネコはネコとして生きれないのか。
ネコの野性にあきれはてる。

とりあえず消毒液をかけてオロナイン軟膏をぬる。
ウミがでて ずるむけになっている皮膚が
このていどの治療で再生されるとはおもえない。
あさってのやすみの日に、病院へつれていくことにする。
口内炎でやつれはてたピピをつれて病院へゆき、
治療の目的がしっぽのケガとしったら
病院の先生にあきれられそうだ。

柔道の山下泰裕選手をおもいだす。
いや、おもいだすのは
ロサンゼルスオリンピックの決勝でたたかった
ラシュワン選手(エジプト)だ。
2回戦でふくらはぎの肉ばなれをおこした山下選手は、
足をひきずって決勝戦にのぞんでいた。
ラシュワン選手は、いためている足をねらわずに、
正々堂々とたたかった、という美談がつたえられている
(そうした事実はない、という説もある)。

ネコの社会は、このようなフェアプレーの精神とは無縁みたいだ。
へろへろにしかうごけなくなっている
年配のネコにむけてツメをたてるとは、
なんという無慈悲できびしい世界か。
それにしても、ろくにからだがうごかないのに
そとにでて よそのネコと一戦をまじえるピピにも
つよく反省をもとめたい。
そんなげんきがあれば、トイレシートでなしに
ちゃんとトイレでおしっこをしてほしいし、
わざとふとんのうえでおしっこするのは いかがなものか。
ネコたちの優先順位は、人間の合理的な価値観からすると
まったく うけいれがたい。
ケンカをするのは 病気をなおしてからにすればいいのに、
すこしでも エネルギーがたまってくると、
そとにでないわけにいかず、
そとでほかのネコにであえば
「こんにちは」くらいではおさまらない。
いっぽうがよわっていると、
なおさらつけこんだり、つけこまれたりしやすいのかもしれない。

お天気の日にグータラしているネコをみると、
ネコに生まれなかったのをくやみたくなるけど、
ネコがネコとして生きるのは
けしてたやすいことばかりではなさそうだ。
それでもピピはそとにでなければならない。
からだがすこしでもうごくかぎり、へろへろでもそとにででるのが、
ピピにとっては ネコとして生きたあかしのようだ。
もうそろそろおむかえか、となんどもおもいつつ
ピピの「さいご」は 予想外に ながくつづいている。
ピピとのおわかれをまえにして、
しんみりよりそっているつもりなのに、
ピピはネコであることを 絶対にやめたりしない。
あくまでネコとして生きるピピの頑固さに あきれはてている。

posted by カルピス at 21:27 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月07日

松江市立図書館の貸出ランキングベスト300におどろく

市立図書館にいったら
「ご自由におとりください」として
貸出ランキングベスト300(2015年)のリストがおいてあった。
4位に和田竜の『村上海賊の娘』(上巻)がはいっているのをのぞき、
1位から8位を東野圭吾の作品が独占している。
9位に又吉直樹の『火花』がはいり、
10位は『村上海賊の娘』(下巻)。
東野圭吾のつよさは圧倒的だ。

ベスト30をみても、16作品に東野圭吾がはいっている。
いったい松江市になにがおきたのか。
東野圭吾の作品について、研究会がひらかれたのか、
読書感想文のおすすめ本にリストアップされたのか、
松江市と東野圭吾には なにか特別なむすびつきがあるのか。
まさかほかの図書館でも おなじような傾向があるとはおもえないけど、
東野圭吾氏の作品と図書館には
なにか特別な関係があるのだろうか。
このランキングには、
かしだされた回数や、かしだした人数は あかされていない。
なぜこんなに東野圭吾氏の作品が
圧倒的によまれているのか 理由をしりたくなる。

翻訳本では19位の『フランス人は10着しか服をもたない』が最高で、
小説になると、58位に『その女アレックス』がはいるまで、
ずっと日本の本がしめている。
全体をみても、この2冊をのぞけば、
ベスト300のうち298冊が日本の本なのだから、
これもまたすごいはなしだ。
翻訳本がうれないというのは ほんとうなのだ。

新刊本がうれなくなったのは、
図書館のかしだしが一因とするみかたがあり、
新潮社が中心になっての
「貸し出しの1年猶予」を図書館にもとめるうごきが
2月18日の朝日新聞で紹介されていた。
出版社や作家の側からすれば、
図書館が新刊をどんどんかしだして、
そのぶん自分たちの本がうれなくなれば
なんらかの対応をもとめたくなるだろう。
松江市立図書館のかしだしランキングを東野圭吾氏がみれば、
こんなによまれていても、
はいる印税としては 図書館がかった分だけなので、
よろこんでいいのか、残念なのか、
ビミョーな心理になるのでは。

樋口毅宏氏が『雑司ケ谷R.I.P.』の奥付に、
公立図書館のみなさまへ
この本は、著作者の希望により2011年8月25日まで、
貸し出しを猶予していただくようお願い申し上げます。

と記している。
もっともな主張だとわたしはおもう。

わたしがよんだ本は、
ベスト300にたった7冊しかはいっていない。
本がうれなくなったのと、
わたしの図書館の利用とには
きわめてうすい関係しかないようで 安心した。

posted by カルピス at 21:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月06日

がんばらないように、がんばる

土曜日の朝日新聞に、
「オトナになった女子たちへ」というコラムがあり、
伊藤理佐さんと益田ミリさんが
交代で記事をよせている。
きのうは伊藤さんの番で、
タイトルは「がんばっちゃった」。

がんばるべきときに「がんばった」のではなく、
がんばってはならないのに「がんばっ」てしまったはなしだ。
がんばらないように「がんばる」には、どうしたらいのか。

これでは いったいなんのことだか
わからないだろう。
もうすこしくわしく説明すると、
伊藤さんは子どものためにお弁当をつくっており、
夫であるヨシダサンが
あまったおかずや、子どもがのこした朝ごはんを
ちいさなタッパーにつめようと 公園のハトがエサをねだるみたいに
(「ハトな仕草」とかいてある)
伊藤さんのすぐうしろでまっているそうだ。

おかずのきれはしを、ごはんのうえに
ぞんざいにならべるだけなのに、
ちいさないれもののせいか、すごくかわいくみえるという。
ツイッターでも評判になるほどで、
伊藤さんがそのタッパーを、しりあいにもみせようとしたら、
ヨシダサンがおもわずがんばってしまい
フツーのお弁当にすぎなくなってしまった。
ミニチュア感を出していた米粒が、そぼろたっぷりで見えていない。そぼろには手間感があって残り物感ゼロ。「喜ばしたい」が入っているのに「できることをできるだけしない」がなくなってて、この「ちゃんとしててつまらない」って、なんだろう・・・。

「次回はがんばらないように、がんばります」
がシメになっている。

わたしの存在が世のなかでいかされる場面があるとしたら、
この「できることをできるだけしない」だとおもった。
ちゃんとしたらつまらなくなるものが たしかにある。
あってほしい。
本気度のたりないわたしは、
「ちゃんと本気でやれよ」という雰囲気をかんじると、
いっぺんいしおれてしまう。
テキトーにやってこそ うかぶ瀬もあるのだ。
わたしに気をつけられるのは、
「がんばらないように、がんばる」しかない。

posted by カルピス at 20:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 伊藤理佐 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月05日

「No Phone」という道もある

林雄司さんのブログに「No Phone」が紹介されている。
http://yaginome.jp/?p=807
「ノーフォン」。
iPhone型の、ただの板だ。
スマホに依存症ぎみのひとにむけて「開発」された
にせものの電話である。
セットには、ちゃんとマニュアルもはいっているそうだ。

マニュアルをみると、
「No Phone」の図にそって、
ボタンやスイッチが「ない」と
ひとつひとつ説明してある。
板なのだからあたりまえで、
ふつうのスマホについている機能が なにもない。
だからこそ、依存症への効果がみこまれるわけだ。

NO CAMERA
NO BUTTONS
NO SCREEN
NO BATTERYで、

もちろん
NO MUSICに
NO PHONEだ。
ただの板にすぎず、家電屋さんに見本としておいてある
なんちゃって「IPhone」や「IPod」よりも
もっと「機能」がかぎられている。
「iPhone」に似せようというつもりはさらさらない。

冗談を「商品」にしたわけだけれど、
世界じゅうのすくなからぬひとが、
この「No Phone」を注文したのではないか。
まったく、なにごともアイデアしだいだ。
もしわたしが「No Phone」をおもいついていたら
おおもうけ できたのにと 残念におもう。
ただの板なのに、りっぱなマニュアルをつけ、
それらしい箱にいれるのをおもいついた「開発者」は、
もっともらしく工夫をこらしているあいだ、
おかしくてたまらなかったのでは。

こんな「商品」も わざわざ外国から すかさずとりよせる、
林さんの目くばりに感心した。

posted by カルピス at 22:13 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月04日

オリンピックアジア最終予選で対中国戦にやぶれる

女子サッカーオリンピックアジア最終予選、
6チームでおこなわれる総あたり戦で、
これまで1勝1分の日本は、
自力での出場をすでにとざわれている。
きょうおこなわれる中国戦にかてば、
かろうじて首の皮いちまいでつながるかっこうだ。
その中国戦に、日本は1-2でやぶれた。
まだ可能性がゼロではないらしいけど、
実質的には奇跡にかぎりなくちかい。

これまでの3試合、日本は日本らしさを発揮することなく
ランキングでは格下のチームをあいてに かちきれなかった。
1試合目のオーストラリア戦は、
阪口のパスが審判の頭にあたり、
それがまた相手にとって絶妙な前線へのパスとなってしまい、
2点目につながった。
この場面だけをみると、日本は運のなさにやぶれたみたいだけど、
試合全体をとおして日本は「らしくない」プレーがめだった。
まけるべくしてまけた印象がつよい。
ホームでの重圧に、おちつきをなくしていたのか、
ミスがおおく、選手どおしの意志がかよわない。
オリンピック出場を、当然のミッションとして
かせられている「なでしこ」は、
おもいどおりプレーできないもどかしさが悪循環となり、
チームとしてのまとまりがみられない。
審判がはなった相手への 絶妙なヘディングパスがなくても
試合の結果はかわらなかっただろう。

そしてきょうの中国戦。
かち点3が絶対に必要な試合なのに、
ミスがらみで相手に先取点をゆるす。
キャプテンの宮間は、いつもの彼女とは別人のようだ。
ひとりからまわりしているかんじで
ミスがおおく、セットプレーでも精度をかいている。
彼女の余裕のなさが、
チーム全体のおちつきをなくしているようにみえる。
横山のシュートがきまり、1-2においあげたものの、
さいごのところで精度をかいて 追加点がうばえない。
おしぎみに試合をすすめながら、
肝心なところは 相手にうまくまもられてしまった。
前線にロングパスをおくりつづける彼女たちが
いたいたしかった。
組織されたパスサッカーで
世界から賞賛された日本女子サッカーが、
まさか くるしまぎれのパワープレーに すがるしかないとは。

3試合をおえた時点で まさかひとつの勝利もなく、
なによりもチームとしてのまとまりさえままならない。
対オーストラリア戦も、きょうの中国戦も、
運がわるくてかてなかったのではなく、
総合力として 日本は相手チームよりおとっていた。

5年前のWカップドイツ大会の優勝により、
日本女子サッカーは世界から注目をあつめた。
日本でも、「なでしこ」はブームとなり、
彼女たちのひたむきなプレーは
大震災でちからをおとしていた日本に
希望と勇気をあたえてくれた。
わたしもまた、あのときから「にわかファン」として
彼女たちのプレーに胸をあつくしたひとりだ。
ねばりづよくはしりまわるプレーで
彼女たちのサッカーは みるもののこころをとらえた。

ロンドンオリンピックでは 銀メダルにおわったものの、
決勝戦にやぶれながら すぐに気もちをきりかえ、
よき敗者としてふるまった。
彼女たちのひたむきなプレーとあかるさは、
「かつ」だけが大切ではないことを
世界にしめしてくれた。

きょねんおこなわれたWカップカナダ大会では、
なんとか2位におさまったものの、
もはや日本のパスサッカーが
世界の強豪をあいてに 通用しないことがあきらかとなる。
世代交代がおもうようにすすまず、
主要メンバーは2011年の遺産にたよったままだ。
世界からおいつかれるのは 時間の問題だった。
そして今回のオリンピック予選。
格下の国が相手でも、すんなりかてない現実から
日本は再スタートをきるより道はない。
きょうの敗戦を、日本女子サッカーが生まれかわるための
屈辱の日として記憶したい。

posted by カルピス at 22:37 | Comment(0) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月03日

『戦場のコックたち』(深緑野分)『バンド・オブ・ブラザーズ』と『ビブリア古書堂の事件手帖』をアレンジ

『戦場のコックたち』(深緑野分・東京創元社)

「作家の読者道」(web本の雑誌)にのった
深緑野分さんのはなしがおもしろかったので、
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi169_fukamidori/
はじめての長編という『戦場のコックたち』をよんでみる。
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線、
そのなかでも後方支援に目をつけたのはすばらしい。
前線をささえるには、武器や燃料、それに食糧の補給がかかせない。
アメリカ陸軍は、兵士たちの食事をどうやって確保したのか。
前線ではなにをどのようにたべていたのか。
炊事を担当する部隊の仕事ぶりに興味があった。

主人公のコールは、ジョージア州にあるトコア基地で
2年間の訓練をこなしたのち、
ノルマンディー降下作戦の一員として、
フランスのコタンタン半島にパラシュートでおりたつ。
コールは第101空挺師団506パラシュート歩兵連隊に所属し、
料理を担当するだけでなく、通常は兵士としてたたかいに参加するのが
コールたちコックのメンバーの役割だ。
ドイツ軍のはげしい抵抗にくるしみながら、
コールの中隊は しだいにベルリンへと敵をおいこんでいく。

トコア基地での訓練をよみながら、
どこかでよくにたはなしにふれたことをおもいだした。
これは『バンド・オブ・ブラザーズ』だ。
よみすすめるうちに、ノルマンディー上陸作戦に、
マーケット・ガーデン作戦(映画での『遠すぎた橋』)、
アンデンヌの森でのさむくてつらい攻防戦と、
どのページをめくっても、
『バンド・オブ・ブラザーズ』でみた場面が目にうかんでくる。
本のさいごにあげられている主要参考文献では、
『バンド・オブ・ブラザーズ』がいちばんに名をつらねているので、
パクリとはいわないけれど、
オリジナリティとしては いくぶんよわくなる。
『バンド・オブ・ブラザーズ』を参考にした、というよりも
主要なエピソードをなぞった印象をぬぐいがたい。

めずらしいこころみとしては、
戦場を舞台にしながら、章ごとがミステリーじたてになっている。
『ビブリア古書堂の事件手帖』をわたしはおもいだした。
各章で戦場にまつわる不思議なできごとを、
コールと彼のなかまたちが ときあかしていく構成だ。
わたしがたのしみにしていた戦場での炊事は
ほんのすこししかかかれていない。

といって、つまらなかったわけではない。
深緑氏のわかさとエネルギーがうまくいかされて、
読者の興味をひきつけるちからづよさにあふれている。
完成度としては いまひとつかもしれないが、
初期の作品ならではの熱気がほとばしり、好感をおぼえる。
インフルエンザにでもかかって、
じっくりよみすすめたいとおもわせた迫力をたかく評価したい。

いつおわるともしれぬ 前線での日常につかれ、
コールはしだいに精神的な荒廃をかんじるようになる。
たくさんの経験をつみ、「戦争」になれるにつれて
こころをかたくしなければ、生きのこれなかった。
ドイツ軍をおいつめ、作戦のおわりがみえてくると、
戦争はべつのステージをむかえる。
ユダヤ人への対応をはじめとする人種差別や、
アメリカ軍が侵略者となっての、
略奪行為や軍事物資のよこながしなど、
さまざまな廃退が目にはいってくる。

コールはぶじにふるさとの町にもどり、
つい最近まですごした戦場とは
あまりにもちがう景色にいたたまれなくなる。
 
 平和だ。これこそが平和なのだ。僕らはこのために戦った。
 それなのに、この虚しさは何だ?

まるで人生のおわりをむかえた老人のように、
からっぽのこころをかかえてとまどうコールは
まだ20歳になったばかりだ。
Dデイから退役にいたるわかい兵士の体験を、
おくゆきのあるものがたりとして
かきあげた作者の力量をたたえたい。

posted by カルピス at 23:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月02日

「橋をつくっています」

工事をしている現場によく、
「道路をなおしています」みたいな
工事の内容を説明した看板がたっている。
工事をしてるのはみればわかるけど、
どんな工事なのかまでわかると
すこしぐらいの不自由をもとめられても
納得できる心理があるのだろうか。
あんがい、工事の内容を くわしくしらせるよう
法律できめられているのかもしれない。

ものすごくおおきな橋をつくっている工事現場に、
「橋をつくっています」とかいてあった。
これなんか、だれがみてもわかるのに、
わざわざ「橋をつくっています」とことわっているのが
かえって非現実的で おかしかった。
だれがどうみても「橋をつくって」いるのだから、
そこをわざわざ看板にかくのは
間がぬけているというか、杓子定規というか。
おちゃめな現場責任者が、脱力をねらってかいたのならうれしい。

「みればわかるだろう」とよくいうけど、
かんたんに みてわかるようなら苦労はない。
空気をよめないものにとっては、
みてわからないから たいへんなのだ。
「いわなくてもわかるでしょ!」もそうだ。
気のきかないわたしは、これまでなんど女性にいわれてきたことか。
やっているひとにとっては当然かもしれないけど、
そばにいるものとしては、ことばで(あるいは文字で)
説明されないとわからない。

「橋をつくっています」の看板は、
「みればわかる」
「いわなくてもわかるはず」

ときめつけずに、あくまでも
「いわないことは わからない」を基本にすえた
あなどりがたい看板のような気がしてきた。

自分からこたえを先ばしってきめつけるのではなく、
どんなことでも たしかめながらすすめたほうがいい。
ひとにかんがえをたずねておいて、相手のこたえをまたずに
一方的なコミュニケーションを展開するひとが ときどきいるけれど、
そんなひとにこそ「橋をつくっています」の看板をおしえてあげたい。
謙虚に ひとつひとつを確認しながらすすめる姿勢は、
どんな巨大な橋づくりであろうと、
道路にできた穴をふさぐ ちいさな工事だろうと
対等にあつかっており、ゆるぎがない。
だれがどうみても橋をつくっている光景をまえに、
「橋をつくっています」と わたしもいいはなちたい。

こうしてみると、手にペンをもって
「これはペンです」というのも、
あんがいふかい意味があるのかもしれない。

posted by カルピス at 21:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月01日

3月1日は むすこの高校の卒業式

高校3年生のむすこが、きょう卒業式をむかえた。
3年かよえば自動的に卒業できるようなものだとはいえ、
そのあいだ心身ともにおおきくはくずれず、
無事に卒業できるのは なんといってもありがたい。

小中高の12年間をつうじ、けっきょくむすこは
とくにむつかしい問題をかかえることなく、
なんとなくおおきくなり、なんとなく卒業をむかえた。
なんてかくと、きっと配偶者は本気で腹をたてるだろう。
わたしがほとんど干渉しなかったかわりに
(きょうだって式にでていない)、
彼女はわたしのぶんまで むすこの成長に
気をもんでいたはずだ。
しかし 客観的にみれば、なにか問題をおこすでもなく、
手のかからない子だったといえるだろう。

手がかからなかったから いい子、
といっているのではないけれど、
むすこについて、ふかくなやんだおぼえがわたしにはない。
おさないときに ちゃんとむきあって、
人間としてのちからをそだてた自信があった
(幼児期を、すてきな保育園ですごせたことに感謝している)。
ひととして はずれたことはしないだろうと
信頼していたのはたしかだ。
自分のむすこを ぬけぬけとほめた文章なんて
ふつうはかけない。
高校を卒業した特別な日にあまえ、
事実をありのままにかきとめておこう。

・ネコのピピにはやさしくせっしてくれた。
 足腰がよわって ふつうにうごけなくなっているピピが、
 ふとんの上でおしっこをしても しかたがないと うけいれていた。
 ピピがむすこの部屋でねると、
 さむくないように 毛布を肩までかけてくれた。
・ギョーザをつくる日には、皮にアンをくるむのを
 手つだってくれた。
・なによりも、わたしがつくる得体のしれない料理を、
 わかい食欲にまかせて 胃袋におくりこんでくれた。
・ゴミ袋をあつめる場所まで、
 家のゴミをもっていく係をつとめた(スマホの利用とひきかえ)。
・いっしょにすむ祖母(わたしの母)にたいし、
 わたしより、ずっとやさしくせっしてくれた。
・わたしがすすめた本を こばまずにどれもよんでみて、
 「おもしろかった」といってくれた。
・わたしが高校生のときは、友だちが家にあそびにくるなんて
 めったになかったけど、
 むすこには、きてくれる友だちがいた。
 友だちの家にいくより、友だちがくるほうがおおかった。
 きてくれる友だちは、ちゃんと挨拶をしてくれる
 (失礼します・失礼しました)いい子ばかりだった。

わたしはずっと水泳をつづけてきて、
トレーニングやジョギングがすきだけど、
むすこにスポーツをすすめはしなかった。
むすこは中学で理科部をえらび、
高校はいわゆる「帰宅部」ですごした。
本をすきになってほしかったので、
わたしが気にいったをすすめはしたけれど、
そのさきは 本人のこのみにまかせた。
その結果、とくにふかくはいりこみはしなかった。
でも、本をよむたのしみはしっているとおもう。
ざっとまとめれば、わたしが高校生だったころとくらべると、
むすこのほうがずっと「いいやつ」にそだってくれた。

むすこがいてくれたおかげで、
わたしは子そだてを体験できた。
たいへんではあるけど、なかなかたのしくもあったし、
家に子どもがいると、世の中のあたらしいうごきや情報が
自然と耳にはいってきて、
わたしが浮世ばなれしたおやじになるのをふせいでくれた。
そだてた恩をうるよりも、
生まれてくれてありがとう、の子そだてだった。

高校卒業までそだてれば、
いちおう親の役目はおわったとしてもいいだろう。
このさきむすこは大学へすすむけど、
なにを勉強し、どんな道をすすむのかは
もう親のわたしがしるところではない。
きょうは、わたしの子そだてが、名実ともにおわった日なのだ。
配偶者の労をねぎらい、おいわいにワインをあけた、
なんていうときれいにきまるけど、
そこらへんはあいまいにしたまま いろんなおいわいをかね、
あさって焼肉をたべにいくことにした。

posted by カルピス at 21:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 家族 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする