高校3年生のむすこが、きょう卒業式をむかえた。
3年かよえば自動的に卒業できるようなものだとはいえ、
そのあいだ心身ともにおおきくはくずれず、
無事に卒業できるのは なんといってもありがたい。
小中高の12年間をつうじ、けっきょくむすこは
とくにむつかしい問題をかかえることなく、
なんとなくおおきくなり、なんとなく卒業をむかえた。
なんてかくと、きっと配偶者は本気で腹をたてるだろう。
わたしがほとんど干渉しなかったかわりに
(きょうだって式にでていない)、
彼女はわたしのぶんまで むすこの成長に
気をもんでいたはずだ。
しかし 客観的にみれば、なにか問題をおこすでもなく、
手のかからない子だったといえるだろう。
手がかからなかったから いい子、
といっているのではないけれど、
むすこについて、ふかくなやんだおぼえがわたしにはない。
おさないときに ちゃんとむきあって、
人間としてのちからをそだてた自信があった
(幼児期を、すてきな保育園ですごせたことに感謝している)。
ひととして はずれたことはしないだろうと
信頼していたのはたしかだ。
自分のむすこを ぬけぬけとほめた文章なんて
ふつうはかけない。
高校を卒業した特別な日にあまえ、
事実をありのままにかきとめておこう。
・ネコのピピにはやさしくせっしてくれた。
足腰がよわって ふつうにうごけなくなっているピピが、
ふとんの上でおしっこをしても しかたがないと うけいれていた。
ピピがむすこの部屋でねると、
さむくないように 毛布を肩までかけてくれた。
・ギョーザをつくる日には、皮にアンをくるむのを
手つだってくれた。
・なによりも、わたしがつくる得体のしれない料理を、
わかい食欲にまかせて 胃袋におくりこんでくれた。
・ゴミ袋をあつめる場所まで、
家のゴミをもっていく係をつとめた(スマホの利用とひきかえ)。
・いっしょにすむ祖母(わたしの母)にたいし、
わたしより、ずっとやさしくせっしてくれた。
・わたしがすすめた本を こばまずにどれもよんでみて、
「おもしろかった」といってくれた。
・わたしが高校生のときは、友だちが家にあそびにくるなんて
めったになかったけど、
むすこには、きてくれる友だちがいた。
友だちの家にいくより、友だちがくるほうがおおかった。
きてくれる友だちは、ちゃんと挨拶をしてくれる
(失礼します・失礼しました)いい子ばかりだった。
わたしはずっと水泳をつづけてきて、
トレーニングやジョギングがすきだけど、
むすこにスポーツをすすめはしなかった。
むすこは中学で理科部をえらび、
高校はいわゆる「帰宅部」ですごした。
本をすきになってほしかったので、
わたしが気にいったをすすめはしたけれど、
そのさきは 本人のこのみにまかせた。
その結果、とくにふかくはいりこみはしなかった。
でも、本をよむたのしみはしっているとおもう。
ざっとまとめれば、わたしが高校生だったころとくらべると、
むすこのほうがずっと「いいやつ」にそだってくれた。
むすこがいてくれたおかげで、
わたしは子そだてを体験できた。
たいへんではあるけど、なかなかたのしくもあったし、
家に子どもがいると、世の中のあたらしいうごきや情報が
自然と耳にはいってきて、
わたしが浮世ばなれしたおやじになるのをふせいでくれた。
そだてた恩をうるよりも、
生まれてくれてありがとう、の子そだてだった。
高校卒業までそだてれば、
いちおう親の役目はおわったとしてもいいだろう。
このさきむすこは大学へすすむけど、
なにを勉強し、どんな道をすすむのかは
もう親のわたしがしるところではない。
きょうは、わたしの子そだてが、名実ともにおわった日なのだ。
配偶者の労をねぎらい、おいわいにワインをあけた、
なんていうときれいにきまるけど、
そこらへんはあいまいにしたまま いろんなおいわいをかね、
あさって焼肉をたべにいくことにした。