「道路をなおしています」みたいな
工事の内容を説明した看板がたっている。
工事をしてるのはみればわかるけど、
どんな工事なのかまでわかると
すこしぐらいの不自由をもとめられても
納得できる心理があるのだろうか。
あんがい、工事の内容を くわしくしらせるよう
法律できめられているのかもしれない。
ものすごくおおきな橋をつくっている工事現場に、
「橋をつくっています」とかいてあった。
これなんか、だれがみてもわかるのに、
わざわざ「橋をつくっています」とことわっているのが
かえって非現実的で おかしかった。
だれがどうみても「橋をつくって」いるのだから、
そこをわざわざ看板にかくのは
間がぬけているというか、杓子定規というか。
おちゃめな現場責任者が、脱力をねらってかいたのならうれしい。
「みればわかるだろう」とよくいうけど、
かんたんに みてわかるようなら苦労はない。
空気をよめないものにとっては、
みてわからないから たいへんなのだ。
「いわなくてもわかるでしょ!」もそうだ。
気のきかないわたしは、これまでなんど女性にいわれてきたことか。
やっているひとにとっては当然かもしれないけど、
そばにいるものとしては、ことばで(あるいは文字で)
説明されないとわからない。
「橋をつくっています」の看板は、
「みればわかる」
「いわなくてもわかるはず」
ときめつけずに、あくまでも
「いわないことは わからない」を基本にすえた
あなどりがたい看板のような気がしてきた。
自分からこたえを先ばしってきめつけるのではなく、
どんなことでも たしかめながらすすめたほうがいい。
ひとにかんがえをたずねておいて、相手のこたえをまたずに
一方的なコミュニケーションを展開するひとが ときどきいるけれど、
そんなひとにこそ「橋をつくっています」の看板をおしえてあげたい。
謙虚に ひとつひとつを確認しながらすすめる姿勢は、
どんな巨大な橋づくりであろうと、
道路にできた穴をふさぐ ちいさな工事だろうと
対等にあつかっており、ゆるぎがない。
だれがどうみても橋をつくっている光景をまえに、
「橋をつくっています」と わたしもいいはなちたい。
こうしてみると、手にペンをもって
「これはペンです」というのも、
あんがいふかい意味があるのかもしれない。