3月1日の朝日新聞で、
文化審議会が常用漢字についてしめした
「とめてもはねても」どちらも正解という
指針が紹介されていた。
「保」は「ホ」なのか「木」なのか。
「女」の「ノ」は「一」からすこしでているのかどうか。
「吉」のうえの部分は「土」なのか「士」なのか。
「天」の「二」の部分は、上がみじかいのかどうか。
それらをぜんぶ「あやまりではない」とみとめてくれた。
とめる・はねるの わずかなちがいについて、
伝統を理由に きびしい基準をもうけるのは
いまの時代になじまない。
筆をつかってかいていた時代には、
とめたり・はねたりに意味があったかもしれないけど、
パソコンなどの画面にあらわれる文字や、
印刷された文字について、
いつまでも こまかな点にこだわるほうがどうかしている。
でも、「どうかしている」なんて おおっぴらにいえば
「とても大切」だとおもっているひとたちに さしさわりがあるので、
「どちらでもいい」というあいまいなままにしたのが
わたしはすばらしいとおもう。
「とめ・はね・はらいはどうでもいいといっているのではない」と、
とめ・はねを大切にしているひとたちの顔をたてながら、
実質的には「どうでもいい」といっている。
「どちらも正解」がだいじだ。
いっぺんに「どうでもいい」とするのではなく、
「どちらも正解」としておけば、
つかううちにおちついてくる。
なしくずし的に「なんでもあり」になればおもしろい。
これからますます手で漢字をかく場面は
すくなくなるだろう。
しばりがはずれたのだから、
どんどんあいまいで いいかげんな「はね」や「とめ」になり、
くっついたり はなれたり へんなおおきさになってゆく。
活字になんとなくようすがにていれば、
それでOKなのだから、外国人のかく漢字みたいに
日本人からみると とんでもない字でも 文句はいえない。
「どちらも正解」は、画期的な指針になりそうだ。