2016年03月13日

「マラソンは35キロをすぎてから」と瀬古さんはいった

たしか村上春樹さんの本に、
「35キロをすぎてからがマラソン」という
瀬古さんのことばが紹介されていた。
あんがい35キロではなく30キロだったかもしれないし、
とりあげていたのも村上さんではなかったかもしれない。
でもまあ趣旨はいっしょだ。

35キロまでは自分の体調をみきわめ、
まわりの選手たちとのかけひきをする時間であり、
しんどそうにみえて 意外とたいくつなのだそうだ。
テレビでマラソンのレースをみていると、
1キロ3分のすごいペースですすんでおり、
わたしには100メートルでもむりだろうから、
それを「たいくつ」とは、たいへんな世界だ。

35キロまでは、たとえおおきななうごきはなく、
先頭集団がまだかたまりであったとしても、
水面下では さまざまなうごきがでている。
表情やはしりがすこしずつかわり、
35キロからさきのかけひきに
ついていけるかどうかは、それまでにきまっている。
35キロからが本当のレースなら、
42.195キロなんてはしらなくても、
42キロひく35キロで、7キロのレースをすればいいかというと
もちろんそうではなく、
うごきをともなわない35キロまでが
それからのはしりをきめているというのがすごい。
「マラソンは35キロから」は、だから
なかなか含蓄のあることばであり、
マラソンの奥ぶかさをよくあらわしている。

これにならい、「30分をすぎてからがジョギング」
というのをわたしはおもいついた。
からだにあたえる影響や、運動の効果としては、
15分つづけてはしればそれでじゅうぶんらしいけど、
ジョギングの気もちよさは 15分では味わえない。
わたしの場合、30分までは ただくるしいだけで、
30分をこえたあたりから
あたまやからだがやっとたのしくなってくる。

スポーツだけでなく、あらゆる局面と相性がよさそうだ。
40をすぎてからがほんとうの人生、というのはどうだろうか。
わかいうちは、ただいきおいで生きているにすぎず、
人生の機敏がわかるのは 40をこえないとむりだよ、なんて。
ごはんは2杯めのおかわりをしてから、とか
お寿司は10貫をすぎてから、も
なんだか意味がありそうにきこえる。
旅行はプーケットにいってから、でもいいし
結婚は3年をすぎてから、は「いかにも」というかんじだ。

どうもこの「◯◯をすぎてから」は、
いったものがちのことばであり、
いわれたほうが かってにふかよみしがちだ。
いったほうは、かるい気もちでくちにだしただけなのに、
いわれたほうが もっともらしい意味はあとからつけくわえる。

あんがい瀬古さんも、
たいしてふかい意味をこめたわけではなく、
お得意のはったりで
いいはじめたセリフのような気がしてきた。

つまらないのが
「お酒は20歳をすぎてから」で、
ただしいだけに 奥ゆきがない。
いちばん実用的な「◯◯をすぎてから」が、
もっともふかみにかけるというのも
なかなかいいはなしだ。

posted by カルピス at 22:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする