「みんなでたべるとごはんがおいしい」と
テレビなどでよく耳にする。
ほんとうだろうか。
おおぜいでたべたいのに、
しかたなく すくない人数でたべているひとは、
さみしさから そんな気もちになるのかもしれないけど、
ひとりでたべるごはんだって
そんなにわるくないとわたしはおもう。
鍋や焼肉を、わたしはひとりでもたのしくたべる。
「みんなでたべるとおいしい」は、
おおぜいで食事すると おいしいにきまっている、という
きめつけ・おもいこみがいやだ。
にぎやかにたべる食事がたのしいときもあるだろうし、
しずかにたべいいときだってあるわけだから、
ひとりでの食事を かならずしも否定しなくてもいい。
みんなといっしょに いい雰囲気で食事がとれるのは
おとなとしての大切な能力であり、
いろいろな条件をすべてクリアーしたうえで
「みんなでたべるとごはんがおいしい」
といえるまでの道のりは、かなりハードルがたかい。
意外にも、ひとりでの食事を ネコはいやがる(ピピだけ?)。
夜中に2〜3ど、トイレにあわせてピピは台所で食事をとっており、
このときわたしがいっしょにつきあわないと 機嫌がわるい。
ねむいところをおこされるだけでも たまらないのに、
ピピがたべるあいだじゅう、
さむいなか わたしはそばにつきそっている。
ごはんだけセットしてベッドにもどっても
ピピはゆるしてくれない。
わたしをまたおこしにきて、頭や顔をつめでひっかき、
それでもしらばっくれていると、
ふとんのうえでおしっこと、
いちばんやってほしくない 反則技をしかけてくる。
ピピになぜこのような社会性がそだち、
そばにいるのを大切にするのか、ながいあいだの謎だ。
「みんなでたべるとごはんがおいしい」は、
あんがいものすごくふかい意味があるのかもしれない。
ネコの祖先を おおむかしまでたどると、
集団でかりをしていた 時代にいきつく。
ひとりでは獲物をしとめられないので、
仲間と協力しあい、かりが成功すればともに宴をひらく。
むれでおいかけ、食事をするのは、
生きのこるうえで 大切な能力だった。
ピピは、かすかなそんな記憶を遺伝子からかんじとり、
わたしがそばにいるよう もとめるのではないか。
夜中に ねぼけた頭でピピがたべるのをみていると、
どうでもいいようなアブクが頭にわいてくる。
ピピがおしっこをひっかけるいじわるをしてでも
ひとりでたべたくないのはなぜか。
「みんなでたべるとごはんがおいしい」の謎をとくカギは、
真夜中のピピがにぎっている。