配偶者の車がないのは、彼女が仕事にでかけたからで、
わたしの車がないのは、わたしが仕事にでかけたから、
ではなく、むすこがのっていったからだ。
配偶者のは当然として、自分の車がない光景は はじめてみる。
「自分のいない世界」、ということばがとっさに頭にうかんだ。
わたしが死んだら、こんなふうにわたしの車がなくなる。
わたしが死んでも、世界はなんのかわりもなく うごく。
そんなあたりまえなことが頭をかすめる。
わたしは存在感がきわめてうすいようで、
とても自然に無視されたり、
わたしの声がとどかなかったりする。
いぜんかいた自虐的な自己紹介をすこしかきうつすと、
弱点としては、存在感が希薄なことで、
職場にいても、居酒屋で注文しても
ときにはスーパーのレジにならんでいても
スルーされることがあります。
自己主張のよわさのあらわれであり、
典型的な島根県人といえるかもしれません。
よく、有名人について「◯◯なオーラがでている」
というふうなことをいいますが、
わたしはわざわざオーラをけす必要もなく、ごく自然に
「その場にいないひと」の気分をあじわいながら生きています。
いまでもだいたいそんなかんじだ。
自分がひとの目にはいりにくく、
記憶にものこらない事実になれてしまったので、
このごろはいちいち傷ついたりしない。
相手は無視しているのではなく、
ほんとうにわたしがみえていないのだから、
だれをせめるわけにもいかない。
ごく自然なかたちで 相手の記憶にのこらないのは、
いくぶん残念ではあるけれど、いまさらどうしようもない。
50代に特有の症状だろうか、すべてがめんどくさくもあり、
もし ほんとうに姿をけすことになっても、
あまりショックはないような気がする。
駐車場からわたしの車がなくなるていどのことで、
それはもう体験した。
わたしの存在がなにに似ているかといえば、透明人間かもしれない。
あのひとたちは、生きていてたのしいのだろうか。
なにがこころのささえに なっているのだろうか。