2016年04月30日

田んぼに種もみをまく

きょねんにつづき、ことしも田んぼで米づくりをする。
自然農法による米づくりをかかげており、
たがやしたり、しろかきをせずに
なによりも 田うえをしないで
田んぼにお米の種(種もみ)をまく。
きょねんは はじめてのこころみだったので、
たった18キロのお米しかとれなかった。
2年目のことしは、その5倍の100キロくらいほしい
(おおざっぱな目標、というか ねがい)。

きょうは一年のスタートととなる種まきだ。
田んぼに種もみを直接まくと、
鳥や虫にたべられてしまうので、
土と種もみをまぜて団子をつくり、
それを田んぼにまく(この方法を「じかまき」とよぶ)。

田んぼの土に種もみ5キロをまぜあわせる。
おおざっぱにまぜたところで、ほそいヒモをつくるように、
両方の手のひらでよりあわせる。
でも、おもうようにほそくなってくれない。
とてもヒモとはよべないほどふとい。
なんだかうんこみたい。
うんこがあのような形をしているのは、
わたしがいまあつかっている粘土と、
うんこの水分がほぼおなじだからではないか。
腸が、手のひらでよりあわせるようなうごきを
うんこにくわえると、ああいう形の作品が
からだのそとにおしだされる。

ブルーシート一面に、うんこ(みたいな形)のかたまりがならぶ。
そのまま4時間ほど外にだしたままほしておくと、
土団子はだいぶかわいていてくる。
それを手でポキポキおり、おおきめのサイコロみたいなのをつくる。
ぜんぶでバケツ4杯ちょっとの量になった。
土団子.jpg
きょねんの記録をみると、
土団子を5月10日にまいているので、
ことしは10日もはやい。
計算のうえはやくしたのではなく、
天気予報をみると、連休にお天気がつづかないようなので、
おもいきってきょうまいてしまった。
きょねんはほんの15分でまきおえ、
非常にこころもとない種まきだったのをおもいだす。
ことしは、種もみの量を倍の5キロにしたので、
きょねんにくらべると、まだ種まきらしかった。
草だらけの田んぼから、たくさんの芽がそだってほしい。

連休ちゅうに田うえをおえようと、
よその田んぼでは トラクターによるあらおこしや
しろかきがはじまった。
田うえは、秋におこなう稲かりとならんで、
米つくりにおける 山場のひとつになっている。
わたしは、土をたがやさず、
田うえもしていないので、
たった4時間で その山をこえたことになる。
きょねんの経験をいかし、
できるだけ手をくわえない米づくりにとりくみたい。

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2016年04月29日

『ラストマン・スタンディング』

『ラストマン・スタンディング』
(ウォルター=ヒル監督・1996年・アメリカ)

『ラストマン・スタンディング』がBSで放映された。
ブルース=ウィリスにクリストファー=ウォーケン、
監督が『48時間』のウォルター=ヒルとくれば 期待できそうだ。
録画しておき、たのしみに再生すると、ふきかえ版だった。
ブルース=ウィリスがしぼりだすようなはなし方で、
不自然にすごみをきかせようとしている。
いかにも芝居じみており、きいてるとイライラする。

しばらくみていても、まったくおもしろくない。
ウォーケンがなかなかでないからかとおもったけど、
彼が登場してからも、たいしてかわらない。
ふきかえだからつまらないのか、
作品じたいがたいしたことないのか。
残念ながら、おそらく両方だ。
作品もひどいし、ふきかえがさらにダメにしている。

映画の場合、字幕でみてしまうと あるイメージができてしまい、
ふきかえたときに、もとのイメージとあまりにもちがえば
すんなり作品にはいりこめない。
ブルース=ウィリスもクリストファー=ウォーケンも、
ほかの作品を字幕でみたときに、あんなはなし方はしてなかった。
『ラストマン・スタンディング』にも、
とても自然にきこえるはなし方のひとがいた。
ようするに、ミスキャストなのだ。
もちろんこのみはひとそれぞれなので、
あのブルース=ウィリスに満足するひともいるだろう。
クリント=イーストウッドに山田康雄さんの声は、
わたしとしてはあわないとおもっていたけど、
一般的には評判がよかったみたいに。

ふきかえだと、字幕を目でおわなくてもいいので、
映画に集中できるといわれるけれど、
『ラストマン・スタンディング』は
そう複雑でないはずのスジが、わたしには理解できなかった。
字幕だと、すくない情報量でつたえなくてはならないので、
コンパクトな表現になり、わたしにはわかりやすいのかもしれない。
ふきかえは、ムダなおしゃべりまでしっかり訳してしまうので、
かえって よけいなことに気をとられ 混乱してしまう。

小中学生のとき、映画といえばテレビの映画番組であり、
映画番組はとうぜん字幕ではなく ふきかえられていた。
えらびようがないわけだから、ふきかえのことは気にせずに、
たとえば『ゴッドファーザー』をこころまちにして、
じゅうぶんたのしんだ。
当時の中学生たちにとって、
『ゴッドファーザー』をみられるのは ひとつの事件であり、
イベントといってよかった。

映画館にかよいはじめ、いったん字幕になれてしまうと、
わたしにはおおくのふきかえが 演技過剰におもえる。
ストーリーをおうのに じゃまにならないくらい
おさえた表現がちょうどいい。
じゃまにならないのが、字幕版なのだ。
字幕版がよくなければ、それはまちがいなく作品のせいだけど、
ふきかえでつまらない場合、もとの作品が
ほんとうにたいしたことないかどうかは わからない。

もうひとつのかんがえ方として、
つまらない作品は、字幕だろうがふきかえだろうが、
おなじようにつまらない、というのもある。
小説が翻訳されるとき、
すこしぐらい原作とちがうところはあっても、
作品の魅力がひどくそこなわれたりはしない。
映画でも、ふきかえ版がおもしろくない作品は、
字幕でみたとしても、たいしたことないのではないか。
ひとつの作品が、ふきかえだけのせいで
めちゃくちゃにされたりはしないだろう。
いい作品かどうかのみきわめに、
ふきかえ版はつかえるかもしれない。
『ラストマン・スタンディング』を字幕でみても、
おそらくわたしはあまり感心しないはずだ。
レンタル店で字幕版をかりてためしてみたい。

posted by カルピス at 15:14 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月28日

『噂の女』(奥田英朗)

『噂の女』(奥田英朗・新潮文庫)

地方都市にくらす20代の女性、糸井美幸が
「女」を武器に しだいにのしあがっていく連作短編集。
高校のときはめだたない生徒にすぎなかった美幸が、
短大にすすんでからは、一転してやり手になった。
作品では、はじめ中古車販売店の事務員として登場し、
ものがたりがすすむにつれて、雀荘のアルバイトや
料理教室にかよう女など、しだいにスケールをあげていく。
なんにんもの男をとりこんで、ちからをつけていく美幸は、
やがてクラブのママとなり、ついには県議会議員の愛人におさまった。
弟はヤクザで、ちょっとしたもめごとには
暴力をちらつかせて解決する。
色気と権力、それに暴力をぞんぶんにいかして
美幸にはこわいものなどない。
まるで女性版のゴッドファーザーみたいだ。
「噂の女」とは、そんな美幸がひきおこす くろい噂をさす。

自分の魅力をいかし、つぎつぎに男をとりこむ美幸がすごいとはいえ、
男とは、つくづくしょうがないいきものだとおもう。
美幸にちかづけば、ろくなことにならないのがわかっていても
彼女をみると どうしてもひかれてしまう。
ひとつひとつのはなしをよんでいると、
どれも被害者の男にとって悲劇だけれど、
みずからの欲がまねいた問題なので
よんでいるものにとってはジメジメ感がない。
それに、ほんとうの修羅場をむかえる直前で
はなしがきりあげてあり、
男はアホだなー、のあかるい感想でおわる。

地方都市での公務員が
どれだけおいしい汁をすっているかも
本書ではあちこちに紹介されている。
市営住宅にはいれるかどうかは 公務員のコネ次第だし、
土建業界は、役人のあまくだりさきを
順番でひきうけなければならない。
すべてのなれあいは、地方でいきるものの たすけあいであり、
業界全体がいきのびるためにゆるされる。
しかし、そんな体質が地方都市だけにとどまるはずがなく、
日本全体、そして世界じゅうにはびこっているのは想像がつく。
この本にかいてあるできごとは、
どこにでもみられる、普遍的な人間のよわさだ。
そんなトホホの世界を背景に、
自由におよぎまわる美幸がにくめない。
あの好青年は、色仕掛けで美幸と寝て、その後、暴力団から脅されるのだ。
仕方がない。業界の平和のためだ。
なにやら気が抜け、仕事をする気がなくなった。急ぎの仕事もないので、竹内はパチンコに行くことにした。

土建会社の社長、竹内のことばが、
作品のすべてを的確にあらわしている。
男はアホで、色気と政治権力と暴力を自在にあやつる美幸に
どうしたってかなわない。
そんな美幸をつくりあげたのは、
女性をぞんざいにあつかってきた男たちだ。
美幸のえげつなさにわらいながら、
男のしょうもなさと、女のこわさをおもいしる。

posted by カルピス at 21:50 | Comment(1) | TrackBack(1) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月27日

ねるまえの時間が あっという間にやってくる

夜12時まえに いちにちの活動をすべておえ、
お酒を片手にベッドにこしかける。
きのうもこうだったし、おとついもおなじだ。
まったくおなじ場面が きりもなく くりかえされる。
いちにちがあっという間にすぎるのは、おどろくばかりだ。
きのうこうやってベッドにあがってから、
ほんとうに もういちにちがすぎたのか。

ほんの30分ほど お酒をのみながら音楽をきき、よみかけの本をひらく。
この時間をたのしみにしながらも、
またおなじ場面をむかえたのが、なんだかしんじられない。
やっとこさたどりついた時間だけど、
30分でふとんにもぐりこまなければ
つぎの日の仕事にさしさわる。
ほんとうは、すでにおそすぎるぐらいだ。

朝おきてからねるまでに、
わたしの自由になるのは、30分でしかない。
目がさめて いちにちがはじまると、日常にのっかり
きまりきったノルマをかたづけるだけで
一直線にこの時間へとすすむ。
たった30分なので、読書ははかどらはないし、
ゆっくり音楽をきく余裕もない。
ひといきつくだけできえる貴重な30分だ。

朝おきたときから、わたしのもとには
30分しかのこらないのをしっている。
いそがしすぎるとか、あわただしいわけではないのに、
なぜだかきまって30分しかのこらない。
ジョギングをしたりブログもかいてるので、
客観的には ぜいたくなすごし方にみえるかもしれないけれど、
わたしの主観としては いちにちに30分でしかない。
はたらいているひとのおおくが、こんなふうに
わずかな自由時間で くらしているのだろう。
いちにちが、あっという間にすぎるのに、毎晩おどろいている。
人生において、30分をたのしみにすごす時期があってもいいと、
いまのわたしは、なりゆきに身をまかせている。

posted by カルピス at 22:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月26日

スマホをつかえなくても、話題づくりには役だつ

いきつけの美容院で髪をきってもらう。
無難な話題なのだろう、なんとなくスマホのはなしをふられた。
40代後半の店長さん(女性)は、2年ほどまえ スマホにかえたそうだ。
わたしはずっとまえからスマホをつかっていたような顔で
中高年者のスマホ環境について、
わかったような顔をしながら あいづちをうつ。

店長さんがいわれるには、
スマホにしたものの、携帯のときのほうが
つかいこなしていた気がするそうだ。
まえには音楽をダウンロードして、
着信の曲を ひとによってかえたりしていたのに、
スマホではやり方がわからないという。
スケジュール管理をしても、
予定をしらせるアラームの設定ができないそうだ。
検索でしらべたらどうですか?とたずねると、
すべてが漠然としており、なにがなんだかよくわからないらしい。

スマホにかえてから2週間がたちながら、
あいかわらず通話にしかつかわないわたしは、
その通話さえスムーズにこなせないので、
店長さんの気もちがすごくよくわかる。
そうですね、スマホってやっかいですよね、
パソコンのほうがずっとあつかいやすい、とわたしが本音をもらすと、
店長さんはパソコンが家になかったので、
パソコンのよさはよくわからないといわれた。

わたしは、自分専用のパソコンとまではいかなくても、
1台くらいのパソコンが、たいていの家には あるのかとおもっていた。
どうも、パソコンはそこまで一般的な存在ではなく、
だからこそ スマホがこんなにもきゅうにひろまったようだ。
わかい職員にきいてみても、スマホはあっても
パソコンはもっていないのが あたりまえだ。
ネット社会は、パソコン時代は ほんとうのはじまりとはいえず、
スマホの登場によって、いっきに火がついた。
だれもかれもがネットにつながるようになったのは、
スマホが登場してからだ。

ネットにつながるまでのパソコンは、
どんなつかわれかたをしていたかというと、
ただの事務機だった。
人間のかわりに面倒な計算や作図をひきうけてくれた。
いままた パソコンは 事務機としての役割にもどり、
ひととひととをつなぐSNSは、
スマホを前提としたしくみとしてひろまっている。
そうしたスマホの存在意義をいかせないわたしは、
ネットをのぞくのはパソコンにたより、
スマホは携帯のかわりでしかない。
あるべき場所が、ひとつずつ ずれている。

でも、そのおかげで、髪をきってもらいながら
話題にこまらなくなった。
同世代のひととはなしていても、
スマホにつまずいているはなしをすると
ひとまず会話が成立する。
こういうのも 中高年者にむけた スマホの利用法のひとつだ。

posted by カルピス at 22:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月25日

「この試合をきっかけに、連勝街道に入りたい」と、ラミレス監督はいった

 序盤から得点できたのが勝利の要因。
 この試合をきっかけに、
 連勝街道に入りたい

朝日新聞のスポーツ欄に
ラミレスDeNA監督のコメントが紹介されていた。
外国人の監督が、「連勝街道」と 本当にいったのか気になる。
ラミレス監督は、日本語に堪能な方なのか、
あるいはスペイン語にも おなじような いいまわしがあるのか。
もしかしたら、もともと外国語にあった表現を、
日本語に直訳したのが「連勝街道」かもしれない。

「これをきっかけに、
 レンショウカイドーをつきすすもう!」と、
監督がこなれてない 日本語ではなしたら、
選手たちは へなへなっとちからがぬけそうだし、
流暢な日本語で「連勝街道を・・・」
とやられても、なんだか背中がざわざわしそうだ。
はたしてDeNAは、その試合をきっかけに
連勝街道をつきすすんだろうか。
ラミレス監督のコメントがあった4月20日以降、
DeNAは1勝1敗1分と、残念ながら
連勝街道というには無理のある結果におわっている。
ラミレス監督の発言が、選手たちに
ビミョーな影響をあたえてなければいいけど。

わたしがある外国語をならっていたとき、
「わたしがわかかったころ」をつかって
例文をつくる練習があった。
16,7歳くらいのアメリカからきていた少年が
「ぼくがわかかったころ・・・」と
半過去をつかって例文を発表したら、
一瞬の間ののち、教室じゅうからわらいごえがおこった。
16,7歳の少年が、過去をふりかえって
「ぼくがわかかったころ・・・」とやるのは すごくへんだ。

ことばのいいまわしとしてはただしくても、
全体の脈絡において 不自然な表現になるときがある。
ラミレス監督が、ほんとうはどんないい方で
インタビューにこたえたのかが気になる。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月24日

漢字がすくなくても よまれないブログがある

デイリーポータルZの編集長、林雄司さんが、
読者からの投稿ページによせたコメントで、
以下のように よみやすいレイアウトを強調されている。
http://portal.nifty.com/cs/fpz/detail/160415196256/1.htm
最近のブログサービスって文字や写真が大きくて読みやすいですね。読みやすくないと記事は読んでもらえないので実は大事な要素です。
逆に言えばレイアウトがきれいなだけでちゃんとして見えるのでこれを利用しない手はないです。

TIPS 損しないレイアウトにしよう
文字は大きく、行間は広く、写真は大きくのほかに、漢字をなるべく使わないのもおすすめです。漢字が多いと黒くなりますからね。
出来る、是非、事、などはひらがなで。さすがを流石と書くのも中2っぽいからやめましょう。

まったく同感だ。
でも、わたしがよむ範囲では、
「漢字をなるべく使わない」文章なんてみかけない。
わたしのブログくらい漢字がすくない文章は
あまりないはずだけど、
よむひとはどうおもっているのだろう。
このまえアルバイトさきにだした自己紹介は、
すんなりうけいれられたものの、感想として
「わざとひらがなをつかってるの?」とたずねられた。
わざとにきまってる。
かんがえたうえでのひらがなでなければ、
いったいなんだとおもったのか。
わたしなりに気をつかってかいていても、
よむほうは、なぜこうした表記法をとっているのかなんて、
ほとんどかんがえないみたいだ。

わたしのブログは日記みたいなもので、
よまれなくても あまり気にしてないけど、
それにしても ながくつづけているわりには(4年半)
ありえないほど PVに変化がない。
「損しないレイアウト」は
ひとつの大切なテクニックとはいえ、
それだけではだめなのが、わたしのブログからもわかる。
よむひとは当然ながら 内容によってブログを評価しており、
残念ながら わたしがかいている路線は、
読者の関心からずれている。
だとしたら、それなりに工夫したらいいようなものだけど、
どうせ日記だし、と、ひらきなおる かわいげのない性格が、
読者にそのままつたわるみたいだ。
進歩とか変化をめんどくさがる わたしのような人間が、
人生で どんなしめくくりをみせるのかを紹介する
トホホなブログとして 宣伝していきたい。

posted by カルピス at 20:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月23日

日本一かっこいい町

いろんな町が、こじつけみたいな「日本一」をかかげて
町おこしをねらっている。
鳥取市は日本一カレーライスをよくたべる町らしいし、
宇都宮市はギョーザでもりあげようとしている。
松江市の場合、このごろよくきくのが
「ぜんざい発祥の地」と
「日本一おでん屋さんのおおい町」、
というのがある。
どちらも すんでいるわたしでさえ
しらなかった「特色」であり、
かなり無理があるような気がする。
そうした たいして根拠のない「日本一」にこだわるよりも、
「日本一 横断歩道で車がとまる町」
という自慢はどうだろう。
道路にはたくさんの横断歩道がもうけられていながら、
とまる車はあまりにもすくなくて、
歩行者や自転車は ほとんどあてにしなくなっている。
もし、横断歩道にひとがたっていたら、
車がかならずとまるような町であれば、
ずいぶんかっこいいし、ほかの町に自慢できるのでは。

まえにカナダを旅行したとき、
歩行者優先の意識がたかいのに おどろいた。
ひとが道をわたろうとしていたら、
かならずといっていいほど 車がとまってくれる。
日本にかえってから、自分でも 横断歩道でとまってみると、
すごく気もちがよかった。
歩行者としても、車がすぐとまれば わるい気はしないだろう。

ほんとうは、横断歩道でないと 車がとまらないのではなく、
横断歩道がない場所でも、歩行者を大切にしてほしい。
横断歩道でとまるのは、義務であり、
歩行者にむけた最低限のエチケットだ。
だいたい 車の運転手は、なんの根拠があって
道路は自分たちだけのもの、みたいな
おれさま運転をするのか。
まえにフェイスブックで
横断歩道でとまってくれた車にたいし、
お礼のおじぎをした子どもをほめた記事がのり、
わたしは違和感をおぼえた。
横断歩道をまえに、車がとまるのは あたりまえだ。
おじぎをした子を、けなげだとか、子どもらしいと
もちあげるのではなく、
お礼をしたくなるほど、とまらない車がおおい状況を
おとなたちは はずかしくおもったほうがいい。

それほど絶望的に車がとまらない社会において、
自分の町は、日本一歩行者が大切にされる、というのは、
かなり自慢できるかっこよさなのでは。
ハード面のインフラをととのえたりしなくても、
意識をかえれば、かんたんに実現できる。
松江市の運転マナーのよさは、すぐに全国へひろまるだろう。
あの町では、車がかならずとまってくれたと、
旅行者が自分の町にもちかえり、
おどろきとともに 宣伝してくれる。

posted by カルピス at 21:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月22日

よごれおちよりも、まず安全性

11歳の小学生が、朝日新聞の投書欄に
「洗ざいのテレビCMに疑問」という記事をよせている。
私は台所洗ざいのテレビCMに疑問を持っています。ベットリ付いた油汚れにそのまま洗ざいを使って洗い、直接、排水こうに流しています。排水こうに汚れた水を流すと川が汚れてしまいます。

この小学生は、洗剤の安全性について
指摘しているわけではないけれど、
できるだけ洗剤を川にながさないほうがいい、という意味において
わたしもおなじかんがえだ。
CMは、効果的なよごれおちについて強調しながらも、
洗剤が川や海のいきものにとって安全とはいってくれない。
きれいな女性がにっこりわらって
あぶらよごれに洗剤をつけるCMをみると、
わたしはいつもつっこみをいる。
魔法みたいにお皿がきれいになって、
あなたはいいかもしれないけど、
その洗剤がながされる川や海はどうなんだ?
下水が合理的に処理してくれる、あるいは
安全性について気をくばってつくっていると、
洗剤会社はこたえるかもしれないけど、
にわかには信用できない。

オーストラリアでは、洗剤で食器をあらったあと、
アワをゆすがないで そのままつかうと きいたことがある。
水が貴重だから そうやってたいせつにつかうわけで、
あえて洗剤をお皿についたままのこすのだから、
口にしても害のないものをえらぶのではないか。

まえの職場いるとき、廃油せっけんをつくるのが
わたしの仕事だった。
テンプラなどにつかった油をもらってきて、
苛性ソーダとまぜてかきまわせば、
かんたんにせっけんができる。
リサイクルにつながるし、なによりも安全なのが気もちよかった。
子どもやネコがあやまって そのせっけんのついた水を口にいれても
からだに害がないとしっているので、あわてなくてすむ。
台所でつかうものは、とくに安全がだいじだ。
CMの洗剤は、よごれおちだけでなく、
いかにその製品が安全かについて はなしてくれないだろうか。

投書をよせた小学生は、洗剤をつかう量をへらすために、
お皿のよごれを まずふるい布でふいてから あらうのだそうだ。
わたしもそうしているし、そのあとにあついお湯をかけると、
たいていのよごれがおちる。
50をすぎたおやじがそんな記事をかいても、
だれもよんでくれないだろうから、
この小学生みたいな投書をどんどんとりあげてもらいたい。

posted by カルピス at 22:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月21日

あたらしくできた体育館への違和感

あたらしくなった松江市の体育館へでかける。
まえの体育館は できてから40年と ふるくなったので、
何年かまえから新築工事がおこなわれていた。
立派な体育館がようやくできあがり、
このまえの土曜日から公開されていた。

わたしの目的はトレーニングルームだ。
まえの体育館は、セノーのふるいマシンと
フリーウエイト(いわゆるバーベル)がおいてあり、
たしかにトレーニングルームではあるけれど、
かなり殺伐とした雰囲気だった。
そのためか、利用者はすくなく、
わたしとしてはありがたい練習場であり、
まるで部活動にでかけるかんじで、トレーニングにとりくめた。
体育館があたらしくなって、それがどうかわっただろう。

料金は200円が300円にねあがりした。
そのかわり、駐車場がことしだけは無料らしい。
トレーニングルームには、あたらしいトレッドミル4台と、
自転車が5台、それにたかそうなマシンがおいてあった。
フリーウエイトの場所もある。
でも、ぜんたいにせまく、きゅうくつだ。
カバンをおくところがないなど、こまかなところがつかいづらい。
トレーニングをよくしっているひとがかかわって
部屋をととのえたのではなく、
業者さんの提案を まるのみしたようにかんじる。

トレッドミルには「1回30分以内」と紙がはってあり、
30分たつと、自動的にスピードがおちた。
県立プールのトレッドミルも、
おなじように「30分」とかかれているけれど、
35分までは はしれるようになっており、この5分の差がおおきい。
県立プールでは、5キロはしってクールダウンをすると、
ちょうど35分となり、わたしにはぴったりだ。
体育館のトレーニングルームを
健康づくりとしてつかうひとには 問題ないだろうけど、
もうすこしハードにやろうとすると、ここではものたりない。

なによりも、トレーニングのあとで シャワーをあびようとすると、
100円をいれなければ お湯がでなかった。
海の家や道の駅じゃないんだから、
シャワーを有料にするのは ひどい発想だ。
体育館の運営は、民間企業に業務委託されている。
有料シャワーになったのは、その事業者の判断かもしれない。
シャワーの有料化には、いろんなかんがえ方があるだろうけど、
わたしにとっては まえよりもずいぶんつかいにくくなった。
人口がすくなくなり、インフラの整備にお金をかけられないと、
こういうところに影響がでるのだろうか。
体育館が立派になり、メインとサブをあわせると、
バスケットボールのコートが5面とれるので、
こうした球技をしたいひとには いい変化かもしれない。
しかし、プールがなくなり、
トレーニングルームがつかいにくくなりと、
わたしにとっては残念な「新築」となった。

トレーニングをしていると、
みかけがいいだけで つかいにくいことから、
なんだかしっくりこないものをかんじていたけど、
有料シャワーで それが確実になった。
あたらしいとりくみがはじまると、
これまでがよかったと、なれるまでは不便をくちにしがちだ。
体育館についての今回の変更は、そうした「不便」というよりも、
運営方針のみなおしであり、
有料シャワーに象徴となってあらわれている。
わたしはこの体育館を、おそらくほとんどつかわない。
外をはしり、家にもどってから体幹トレーニングというやり方で、
これからのトレーニングをくみたてよう。

posted by カルピス at 14:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月20日

スマホにしてから1週間

スマホにかえてから1週間がたった。
フリーテルの「雅」(ネットで1万7800円)という機種に、
2ギガ・1500円の契約で SIMカードをさしている。
初心者むけのアンドロイド・スマホだけど、
スピードについてはストレスはかんじない。
とはいえ、予想していたとおり、
ほとんど電話だけの利用にとどまっている。
まえからもっているiPadを、あまりつかわないのといっしょだ。
あつかいになれたら、もっとスイッチをいれる回数がふえるだろうか。

住所録をつくるのがめんどくさかった。
携帯電話から、よくつかう番号をスマホに登録する。
電話番号をうちこむのがわずらわしいし、
そもそも住所録のあつかいになれないので
あたりまえのことが しんじられないくらいにできない。
着信履歴から登録しようとして リダイヤルになってしまい、
なんどもあいてに迷惑をかけた(5回が最高)。

フェイスブックとツイッターは、アカウントをもっているけど、
自分では入力せずに、ひとのかきこみをみるだけだ。
それもパソコンですませるので、スマホの出番はない。
仕事ちゅうにスマホをのぞいたりしないし、
通勤は自転車なので スマホはカバンのなかだ。
いったい ほかのひとは なぜそんなにスマホを
ながい時間つかうのか 不思議におもえる。
都会でくらすひとが、通勤・通学のときに
スマホをのぞきたくなるのは わからないでもない。
でも、家にかえれば パソコンをひらいたほうが
ずっと快適な環境で、入力も簡単なのに。
あんまりかきたくないけど、
老眼鏡をいちいちとりだすのがわずらわしくて、
ますますスマホへにたよる場面はすくない。

職場の女性が スマホをつかって
ちゃんとしたチラシをつくっているのに おどろいたことがある。
レイアウトを、あんなちいさな画面でいじるなんて、
わたしにはしんじられない。
なぜパソコンでやらないのかが わからない。
わかいひとたちにとって、
パソコンはそんなに めんどくさい機械なのだろうか。
まだ本格的につかったことはないけれど、
スマホできくラジオは あんがい便利かもしれない。
それと音楽。マックのアイチューンズを、
どれだけスマホにうつせるかによる。

けっきょくわたしはふるい世代の人間なので、
スマホの本質的な革新性を つかみかねている。
スマホといっしょにそだった若者にとって、
スマホは空気のような あたりまえの環境なのだろう。
ここにかいたことは、おじいさんが
「ネットなんかつまらん!」といっているのとおなじで、
自分がふるい人間であることを さらしているだけだ。
得意気にスマホのわるぐちをいうのも なんだか年よりくさい。
電話専用機におわらないよう、わたしむきのアプリがないものか。

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2016年04月19日

ユーコンクエスト「犬と私の1600キロ」本多有香さんの生きかた

冬のアラスカを 犬ぞりではしるレース、
ユーコンクエストが、NHK-BSでとりあげられた。
日本人女性の本多有香さんに焦点をあて、
彼女と犬たちによるレースのようすを紹介している。
1600キロという距離を、本多さんと犬たちは、
10日かけてはしりきった。

本多さん(43歳)は 犬ぞりに魅せられて、
18年まえにカナダへうつりすんでいる。
http://www.e-nikka.ca/Contents/150101/topics_01.php
いまは26頭の犬とともに、
電気と水のないキャビンでくらしているそうだ。
冬は犬ぞりレースにでるため、夏しかはたらけないので
お金がたりたためしがないです、と
本多さんはわらってはなす。
本多さんはいつも笑顔をたやさない。
ほほえみをうかべながらレースのスタートにのぞみ、
おなじほほえみがゴールでもみられた。
ゴールすると、本多さんはまず
一頭ずつ犬たちの頭をなで、労をねぎらう。

スタートをまちきれず、
その場でほえ、ジャンプする犬たち。
いちにちのはしりをおえ、
本多さんにくつしたをぬがせてもらう犬たち。
頭をなでられると、だいすきなひとにからだをさわられてよろこぶ
信頼しきった犬たちのようす。

できるだけたくさんの、健康な状態の犬たちとゴールするのが
本多さんのねがいだ。
犬の調子がわるくなると、
そりのスピードよりも、犬の体調を優先させて、
本多さんは犬をそりからはずす。
犬ごやにつれていかれる犬たちの、
もうしわけなさそうな表情に胸があつくなる。
4頭をそりからはずしたので、
1600キロをはしりおえ、ゴールしたときは10頭になっていた。

番組が紹介する 犬ぞりレースのようすは
うつくしい映像とともに、非常に興味ぶかかったけれど、
なによりも本多さんの魅力に わたしはまいってしまった。
あんなすてきな笑顔をうかべられるひとは そういない。
彼女がやってきたたくさんの挑戦をおもうと、
わたしがかかえている問題など、
とるにたらないものにおもえて ちからがぬけた。
とてもおおきなスケールで生きているひとだ。

犬がすき。
犬といっしょにはしるのがすき。
これからも犬といっしょに成長していきたいという本多さん。
すてきなひと、すてきな番組だった。

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2016年04月18日

地区の総会に参加する

わたしがすんでいる地区の 総会に参加する。
3月下旬に、役員の方がわたしの家にこられ、
今年度からの副会長を ひきうけてしまったからだ。
これから最低2年はつとめなければならない。
任務は総会後からスタートするので、
総会では新役員として ひとこと挨拶するだけだ。

おもえば2年前の総会に はじめて参加したとき、
わたしはなにも役がない気らくさから、
キンドルをもちこみ 漱石の『こころ』をよんでいた。
朝日新聞で『こころ』が100年ぶりに連載されるため、
せっかくだから 連載を機会に
新聞よりもさきによみおえたかった。
ブログになんどかかいたけれど、
いかにも熱心に 資料をよみふけっているふりのできるキンドルは
研修とか会議において、絶大なちからを発揮する。

こんどの総会は、とてもキンドルをよむ余裕はなかった。
なにしろ次期副会長なのだから。
会はつつがなく、しゅくしゅくとすすむ。
すべてが形式にのっとり、形式だけをまもって。
議長をえらび、前年度の活動が報告され、
議案を拍手により承認する。
今年度の予算の説明につづき、新役員が紹介された。
会じたいは1時間15分でおわり、
お弁当を手わたされて解散となる。
家にもどってお弁当をひらくと、その豪華さにおどろいた。
上下2段の、ちらし寿司とおかずにわかれ、
お正月やお花見をおもわせるはなやかさだ。
500円くらいの幕の内弁当では なぜいけないのだろう。
たぶん2000円くらいする この日のお弁当代は、
おそらく会議費のなかからしはらわれる。

けっこうなムダづかいに 気もちがなえかけていたところ、
糸井重里さんが「今日のダーリン」で
今回の地震にからめ、「世話する役」をとりあげていた。
 
 できるだけたくさんの人に必要なものが渡るように、
 不公平や不平等がないように、
 なるべく多くの人の意見を聞くように、
 これからできることや足りないことを探し、
 目の前で苦しんでいる人に手を貸し、
 争いごとや迷惑ごとの解決を図り、
 正確な情報をとりいれるようにして、
 しかもじぶん自身の健康を守っている
 ‥‥というようなことが、求められているわけだ。
 それを、無理だと言って投げ出すわけにもいかず、
 ひっきりなしに注文や要望や批判や非難がくる。
 みんなが満足するような場面であるはずがないのに。
 「世話する役」のところに集中して、
 大きなストレスがかかってくる。
 そういう役割をしている人たちが、
 今回の被災地にもたくさんいると思うのだ。

なにかの縁で 地区の役員をすることになった。
ななめにばかりみてないで、
こまっているひとのたすけになるよう
自分なりにとりくんでいきたい。

posted by カルピス at 21:38 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月17日

1兆円をどうつかうか

イナモトさんのブログをよんでいると、
「お金と人間の構想力」として、
もし「1兆円宝くじ」があたったら、という記事があった。
http://d.hatena.ne.jp/yinamoto/20151128
1億円でも想像しにくい金額なのに、
それよりもはるかにおおいお金を手にしたとき、
どんな反応をみせるかで、
そのひとのスケールがはかれるかも、とある。

「1億円って、何万円?」というわらい話があったけど、
ほんとうに、1兆円は 1億円がいくつあつまったものだろう。
数字にすると、1,0000,0000,0000円。
ゼロが12個もならぶ。
たぶん1兆円は1万個(「個」というのもへんだけど)の1億円だ。

本多勝一さんは、金額をあらわすときのコンマを
4桁ごとにつけているので、それにならってみた。
一般的にもちいられている 3桁ごとにコンマをつける表記は、
欧米のかぞえ方にはあっているけれど、
日本語ではわかりにくいからだ。
たしかに、4桁ごとのコンマにすると、
1兆円は1億円が1万個あつまったものと、すぐわかる。
わかるけれど、あまりにもおおきすぎて想像力がおよばない。
わたしの得意なラーメンを何杯たべられるかでたとえると、
ラーメン1杯が500円の場合、20億杯となる。
まだおおすぎて、やっぱりなんのことだかわからない。

「いち、に、さん、し・・・」と
声にだして1からかぞえると、
ひとは死ぬまでに1億までたどりつけない、
という説をよんだことがある。
それだけ1億はとんでもない数字ですよ、というひとつの例だ。
おおまかに計算してみると、たしかにわたしの場合は
一生かけても 半分の5000,0000までくらいしか
かぞえられそうにない(個人の感想です)。
1億でもそれくらいとほうもない数なのだから、
それが1万個あつまった1兆は 実態としてとらえにくい。
しらべてみると、島根県の2016年度予算は約5300億円らしい。
とはいえ、島根の予算とくらべたところで、
やっぱり1兆円のとらえにくさはかわらない。
島根がちいさすぎるのか、1兆円がおおきすぎるのか。

はじめのはなしにもどり、人間の構想力としてみたときに、
1兆円はあまりにもなじみがないので
とっさにアイデアをしめせない。
1億円なら島をかって、旅行をして、
いくらかは寄付もしてと、
すぐに予算をたてれそうだけど、
1兆円になると わたしにはスケールがおおきすぎる。
ふだんから1兆という数字にしたしんでないと、
1兆円はつかいこなせない。
なにしろ、ラーメンなら20億杯、
まいにち1億円つかったとしても、
30年ちかく はたらかずにあそべる金額なのだ。
鷹の爪団にいれてもらい、
世界征服にのりだすくらいが 現実的なつかい道だろうか。

posted by カルピス at 20:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月16日

「すこし」をたくさんは、あんがいいいことかも

まえに見学させてもらった介護事業所で、
行政からうけとる補助金の金額と、
効果的な支援との関係を、水の沸騰にたとえられた。
あるレベル以上のエネルギーをそそがなければ、水は沸騰しない。
支援が効果をうむには、
一定量をこえる資金が必要なのであり、
それ以下ではなにもしないにひとしい、と。

それをきいたわたしは すっかり感心してしまい、
しばらくのあいだ、「それでは水は沸騰しないよ」なんて
わかったような顔をしてうそぶいていた。
ひるがえって、自分の能力に目をむけると、
どれもこれも沸騰するまでにいたっていない。
仕事においても、あそびにおいても、
すべてに中途半端だ。

わたしは、はしるにしても およぐにしても、
ウェイトトレーニングにしても 柔軟性においても、
それぞれいくらかはこなすけれど、
どれもたいしたことのないレベルにとどまっている。
いろんなことに手をつけただけで、
これといってひいでたものがない。
スポーツだけでなく、すべてにおいて、
たとえば仕事における専門性や、
パソコンの知識、外国語の技量など、
さっぱりではないにしろ、たよりになるレベルではない。
ようするに、すべてが中途半端だ。

自分はなにをとっても中途半端な実力しかないと、
まえは悲観的にとらえていたけど、
このごろは、いろんなことが「すこし」できるのも、
あんがいわるくないようにおもえてきた。
この「すこし」は、たしかにすこしだけど、
その分野のおもしろさを理解したり、
実用になるレベルを意味している。

すこしおよげるし、すこしはしれる。
卓球とバドミントン、それにバスケットボールがすこしできる。
すこし本をよみ、
すこしは映画をみている。
すこし外国語をはなせるし、
すこしは文章をかける。
それぞれはすこしずつだけど、
それでも それぞれのおもしろさをしる程度には
くびをつっこんだといえる。
これはこれで、ひとつのたのしい人生かも。

ここにあげたすべてにおいて、
ふかい知識と技術をもっているひともいるだろうけど、
年をとってくると、たいしてうらやましくはない。
わたしはなにかをきわめられず、フラフラとあそんできた結果、
じゅうぶんな あそぶちからを身につけたとおもえばいい。
わかいころだったら、「すこし」をたくさん、なんていってたら、
まわりからヒンシュクをかうかもしれない。
人生のしめくくりをむかえるような年齢だからこそ、
「すこし」もわるくないと ひらきなおれる。
いまさらなにかに突出したちからがほしいなんて ねがわない。
「すこし」をつなぎあわせたら、
のこりの人生を、わたしは退屈せずにあそべるだろう。
沸騰させるレベルにはならなかったけど、
にっこりわらって いまわのときをむかえられそうな気がする。

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2016年04月15日

「すき」は説明できるけど、「きらい」に理由はない

鷲田清一さんが、毎日ひとつずつ 含蓄のある
「折々のことば」を紹介する欄(朝日新聞)に、
ビートたけしさんの
僕は好きな理由など考えない
好きな理由がわかったら
嫌いな所も見つけてしまうから

ということばがのった。

なにかを「すき」になったとき、
ああだこうだとその理由をさがしだそうとせずに、
ただ「すき」という状態のまま そっとしておく、
という意味だろうけど、
「好きな理由がわかったら
嫌いな所も見つけてしまうから」
がよくわからない。

わたしは、「すき」なのは説明できるけれど、
「きらい」に理由はない、と、
なにかにつけて いいちらかしてきた。
たとえば、わたしはほしブドウがきらいで、
給食のレーズンパンに苦労したものだけど、
なぜほしブドウがきらいかの説明はできない。
このみの問題について、「きらい」は
ただ「きらい」としかいいようがない。
かんだときの感触がきもちわるい、とか
口のなかでへんな味がひろがる、とかいったって、
それはあくまで個人的な理由にすぎず、
なぜそれがいやなのかは 説明できない。

どうしてもすきになれないひとが
わたしには 何人かいるけど、
そのひとたちについても、なぜきらいかの説明はむつかしい。
わたしのコンプレックスとむすびつき、
わたしにないものをもっているからかもしれないし、
わたしとよくにすぎているから、きらうのかもしれない。
いずれにしても、そのおおくは生理的な嫌悪感であり、
理由がわかったからといって、
きらいな心理が 解消されたりはしない。

「すき」については 説明できる。
なぜすきなのかを、じっくりかんがえると
なぜ自分がそれにひかれるのかが うかびあがってくる。
そうやって「すき」を分析することへの ためらいを、
たけしさんが口にするのもわかるけど、
「すき」はどんどんさぐっていけばいい。
「すき」がわかったからといって、
すきの反対がきらいではないのだから、
「嫌いなところ」がみつかったりはしない。
たけしさんがいうともっともらしいけど、
たけしさんのことだから、ほんとうにそうおもって
この発言をしたのかどうかはわからない。
たとえばすきなアニメについて、
なぜ「すき」なのかがわかったら、
きらいなところもみつけてしまうことになるのか、
わたしにはよくわからない。

くりかえしよんでいたら、このことばは、
異性をすきになったときのこころえ かもしれないと
おもえてきた。
すきになったひとについて、「なぜ」をさぐるのは、
たしかに「嫌い」の発見につながるかもしれない。
ほしブドウやアニメではなく、
恋愛感情についてのはなしなのだこれは。

しかし、ではなぜ恋愛とたべものはちがうのだろう。
異性への「すき」は「きらい」の発見につながり、
ほしブドウの「きらい」は「すき」の反対でないのかが
宿題となった。

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2016年04月14日

あらたなスタートをきった女子サッカー

火曜日の朝日新聞で、津村記久子さんが
「大和撫子の誇り」として
サッカー女子日本代表をとりあげている。
東日本大震災の年に行われたサッカー女子Wカップで、本当に彼女たちは国は背負って戦っていた。(中略)わたしには、彼女たちほどわたしたちの落胆を引き受けてくれた存在はないように思えた。そして勇気づけてくれた存在はないように思えた。(中略)
今はただ、本当にどうもありがとうと言いたい。そして待ち望んでいる。彼女たちが再び世界に出ていけることを信じて待っている。

そうだった。
2011年の夏、東日本大震災によるおもくるしい空気のなかで、
彼女たちのひたむきなプレーが
どれだけちからをあたえてくれたことか。
よく「被災地の方々に勇気をあたえたい」なんていうけど、
ほんとうに それだけのプレーをするのは かんたんではない。
女子代表の試合は、まさしく みるものをふるいたたせた。
彼女たちの活躍がなかったら、あの年の日本は
もっとつらい状況になっていただろう。
それなのにわたしは すっかり感謝の気もちをわすれ、
オリンピック予選で なでしこらしさを発揮できなかった
代表チームにたいし、えらそうに批判めいた感想をのべた。

リオオリンピックに女子代表が参加できないと きまったとき、
おおくのサッカー関係者は技術的な問題点を指摘した。
戦術的なあやまちや、世代交代のおくれ、監督の選手起用など、
うまくいかなかった点がいくつもあり、
それらを批判するのはかんたんだった。
しかし、そんななかでも 彼女たちへの感謝をわすれずに、
声援をおくりつづけたファンもおおかった。

サッカージャーナリストの江橋よしのり氏が、
アジア最終予選をふりかえったとき、
「観客からの温かい激励」が予想外だったとのべている。
http://sports.yahoo.co.jp/column/detail/201603100002-spnavi
なでしこジャパンが近い将来、再び世界の頂点を争う日を迎える時、きっと多くの人が今大会を支えた観客たちを思い出すだろう。そして世界中が「日本はブーイングではなく、寄り添う心で選手を育てた」という物語を、尊敬とともに語らうことだろう。

キャプテンの宮間選手は女子サッカーを文化にしたいとねがい、
オリンピック予選の敗退では、
「もうしわけない」をくりかえした。
そんななかでの「観客からの温かい激励」は、
おおくのひとたちが女子代表への感謝を
わすれていないことがあらわれている。
文化として根づいたかどうかは、選手たちの責任というよりも、
2011年にちからをあたえられた
わたしたちがためされているといえる。

オリンピック予選にやぶれた女子サッカーは、
すでに今シーズンのリーグをたたかっている。
彼女たちのあらたなスタートに声援をおくりたい。
彼女たちへの感謝をわすれず、
「寄り添う心で」これからの再建を応援したい。

posted by カルピス at 22:10 | Comment(0) | TrackBack(0) | 女子サッカー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月13日

手がきの文章をそえるのに、意味があるのか

毎週すこしの時間アルバイトをしているお店で、
自己紹介文をもとめられた。
直筆でかいてほしいという。
納品書のうらにつけて、お客さんへのサービスとするのだ。
ネット注文という 顔のみえない関係でも、
手がきの文章をそえることで、
あたたかみがつたわるという。

わたしはつよい抵抗をしめした。
わたしはものすごく字がきたないため、
パソコン以外で字をかくのが ほんとうにいやだ。
顔に障害のあるひとにたいし、
整形や化粧なしでひとまえにでろというのは暴力だろう。
字のへたなひとに、気にしなくていいからと
直筆をもとめるのもおなじだ。

それに、なにかにつけて直筆をありがたがる感覚が
わたしにまったくはわからない。
直筆でかけば、誠意がつたわるとおもうのはなぜか。
情緒にたよって 相手の関心をひくようで
いかにも気がすすまない。
直筆と誠意とは、まったく関係がない。

たいせつなのは、文章のなかみのはずだ。
達筆で、うまい文章なら問題はないけれど、
わたしのように字がへたなものは、
無理して ていねいにかこうとするよりも、
パソコンをつかって推敲をかさね、
よむにあたいする文章をかいたほうがずっといい。
たぶんお店のひとだって、やりたくてやっているのではなく、
客商売にたずさわるものとして しかたなく、
といったところだろう。
「しかたなく」そうさせる圧力は、 わたしの美意識となじまない。

手がきの自己紹介文に抵抗した結果、
パソコンでかいて、さいごに直筆でサイン、
という形式でいいと 条件をゆるめてもらえた。
直筆で誠意をみせるよりも、内容で判断されるわけだから、
よんでつまらなければ、
そんな文章をかいたわたしがわるいと納得できる。
字がへたくそだから よんでもらえないよりも ずっといい。

ついでにいうと、
わざわざアルファベットでかかれた新聞をさがしてきて、
なにかをくるんだり、かざりにするのも、わたしはいやだ。
おしゃれでしょー、といいたいらしいけど、
いったいなんのことだかわからない。
なぜ日本語の新聞ではダサくて、
アルファベットならすてきなのか。

ずいぶんめんどくさい人間みたいだけど、
手がきによる誠意と、英語の新聞をつかっての包装を、
わたしはずっとうたがっている。

posted by カルピス at 21:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 文章 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月12日

お金って、すごく便利

すこしまえのデイリーポータルZに、
「今さら知った大発見」という企画があった。
「マイクをつかうと声がおおきくなる」とか、
「服をきるとあたたかい」といった、
いまさらながら 自分だけが気づいた大発見を報告する企画だ。
わたしはこれがだいすきで、
自分でもときどき「大発見」してよろこんでいる。

きょうは きわめつけの「大発見」をした。
わたしだけの発見ではもったいないので、ここに公開すると、
お金って、すごく便利
がそれだ。

みんな気づいているだろうか。
お金をだすといろんなものがかえる。
もしお金がなかったら、おもたい石や塩なんかをお店まではこび、
ほしい商品と交換しなくてはならない。
相手によっては、石や塩の価値をひくくみつもり、
わたしがほしいだけのものと交換してくれないかもしれない。
でも、お金さえあれば、たとえば1000円もっていたら、
その1000円は、だれにとっても1000円であり、
1000円分の商品をまちがいなく手にできる。
これは、じつはすごいことなのだ。
想像してみよう、お金がない世界を。
わたしたちは、どうやってスーパーでものをかい、
どうやって給料をうけとるのか。

なんで「今さらながら」お金の便利さに気づいたかというと、
事業所のプリンターをかうために3万円をあずかり、
じっさいにしはらったのは2万円だったので、
あまった1万円をカバンにいれたままもっていた。
新年度はなにかと必要なものがおおく、かいものをするときに、
その1万円をつかえば便利なのに気づいた。
いちいちめんどくさい「うかがい」なんかをたてなくても、
その1万円からはらえばすごくかんたんだ。

自分がはたらいて得たお金ではなく、
事業所のお金だと つかうのにためらいがない。
もちろんムダなものはかわないけれど、
もったいないとか、もうあまりのこったお金がない、
などといったよけいな感情をはさまずにすむ。
必要かどうかだけでかいものを判断するので、
お金の魔力にまどわされず、シンプルにお金の機能をあじわえる。
お金とは、ほしいものと交換するときの「札」にすぎないことが、
自分のお金でないと とくによくわかる。
銀行につとめるひとが、お金にすごく冷静なのも、
自分のものではないので、「札」にしかみえないからかも。

わたしはすこしかんがえたのち、
事業所のお金をもっているから便利なのではなく、
お金そのものが すごい役割をはたしているのに気づいた。
お金があれば、ほしいものと交換してくれる。
あたりまえだとおもっていたけど、
もしお金がなかったら どれだけ不自由だろうか。
1万円札なんて、あんなにちいさくてかるいのに、
レジでみせると、かなりたくさんの商品と交換できる。
お金のおかげで どれだけたすかっているのかを、
わたしたちは もっとよくかんがえたほうがいい。
だから たくさんはたらけ、といっているのではない。
純粋に、お金がはたしている機能のはなしだ。

さらにいえば、お金をいれるのに特化した道具、
つまりサイフも、すごく便利なのをご存知だろうか。
お札をいれる場所と、コインをいれるところがわかれていて、
必要な金額をさっとだせるように配慮されている。
封筒なんかにお金をしまっていると
レジでしはらうときに かなりわずらわしいし、
ポケットにお金をいれるのも、小銭がおおくなるとすごくじゃまだ。
けっきょくサイフにお金をいれるのが
いちばん便利というところにおちつく。

お金にまつわる「大発見」に、
いまさらながら かなり興奮した。

posted by カルピス at 22:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年04月11日

スマホへの道

わたしはこの10年間、ウィルコム
(いまはワイモバイル)の携帯をつかってきた。
ウィルコムがだいすきだったわけではなく、
ただスマホにうつりそこねただけだ。
10年まえにその携帯をかったときは、
サッカー日本代表の監督をオシムさんがしていた。
その以来、岡田→ザッケローニ→アギーレ→ハリルホジッチと
4人が代表監督として指揮をとり、
わたしはあいかわらずウィルコムのままだ。
総理大臣でいうと、10年まえは小泉純一郎氏が首相だったのだから、
10年といえば ほんとうに「ひとむかし」を実感する。

なんどかスマホをかんがえたけど、
もうひとつふみきれなかった。
SNSにほとんど関心のないわたしが、
スマホをもったからといって
こまめにつぶやいたり、ひとのうごきをチェックするとはおもえない。
それでも数年まえから格安スマホがでまわり、
携帯電話料金よりもやすいプランをみかけるようになると、
いつまでもウィルコムをつかいつづける 理由がなくなってきた。
スマホよりもたかいお金をはらってまで
携帯電話をつかう意味はないので、
ようやくおもい腰をあげてスマホをさがしはじめた。

マンガをよんでいたら、気のやさしい女の子ふたりが
なにかでしりあった男性についてはなしていた。
「アンテナつき携帯をいまだにつかっているひと」と
さみしそうに、ふっとつぶやく。
とおい星からきた生物みたいなあつかいだ。
いいひとかもしれないけど、「男」としては問題外。
彼女たちにとって、アンテナつきの携帯を
無神経につかいつづける男は、
想像をぜっする ふるいいきものでしかない。
存在じたいが気もちわるく、すんでいるところがちがうので、
そんな人種がいることを彼女たちは理解できない。
やばい。わたしのことだ。
ここにきて、わたしはようやく
ふるい携帯をつかいつづけるデメリットをおもった。
もしかしたら、人間をやめるくらい
スマホとそうでない世界とは おおきな断絶がある。

いったんかうときめれば、スマホえらびはあんがいかんたんだ。
ドコモやソフトバンクの料金プランは
わたしにとってたかすぎるので、
ねらうのはとうぜん格安スマホとなる。
携帯電話のときは、いろいろな料金体系が複雑すぎて、
よく理解できなかった。
会社によるちがいがたいしてないのに、
わずかな差をつくろうとするから無理がある。
それにくらべると、スマホの料金には実質的な差が存在し、
どういいつくろっても 大手の会社は格安スマホよりもたかい。
シムフリーの料金はシンプルで、スマホ本体を一括でかうと、
あとはデーター量によって 月づきの利用料金がかわるだけだ。

イオンのお店をみてまわると、
イオンモバイルが ほかの会社よりずいぶんやすい。
ただ、そこではあまりいいスマホをあつかっていなかった。
せっかくシムフリーのスマホにするのだからと ネットでさがしたら、
フリーテルのスマホが目についた。1万7800円。
5インチの画面で、そこそこの性能らしい。
スマホ初心者のわたしには、これでじゅうぶんだろう。
注文すると2日でとどいた。

めんどくさかったのは、携帯電話の番号をひきつぐ MNPの手つづきで、
ワイモバイルに電話をかけても、
音声ガイダンスではらちがあかず、MNPまでなかなかたどりつかない。
オペレーターとのやりとりを希望すると、15分ほどまたされた。
でもまあ、なんとか予約番号を手にできた。
あとはスマホをもってイオンへゆき、シムカードをえらべばいい。
こんどのやすみの日に、わたしはいよいよスマホを手にいれるはずだ。

posted by カルピス at 23:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする