2016年04月16日

「すこし」をたくさんは、あんがいいいことかも

まえに見学させてもらった介護事業所で、
行政からうけとる補助金の金額と、
効果的な支援との関係を、水の沸騰にたとえられた。
あるレベル以上のエネルギーをそそがなければ、水は沸騰しない。
支援が効果をうむには、
一定量をこえる資金が必要なのであり、
それ以下ではなにもしないにひとしい、と。

それをきいたわたしは すっかり感心してしまい、
しばらくのあいだ、「それでは水は沸騰しないよ」なんて
わかったような顔をしてうそぶいていた。
ひるがえって、自分の能力に目をむけると、
どれもこれも沸騰するまでにいたっていない。
仕事においても、あそびにおいても、
すべてに中途半端だ。

わたしは、はしるにしても およぐにしても、
ウェイトトレーニングにしても 柔軟性においても、
それぞれいくらかはこなすけれど、
どれもたいしたことのないレベルにとどまっている。
いろんなことに手をつけただけで、
これといってひいでたものがない。
スポーツだけでなく、すべてにおいて、
たとえば仕事における専門性や、
パソコンの知識、外国語の技量など、
さっぱりではないにしろ、たよりになるレベルではない。
ようするに、すべてが中途半端だ。

自分はなにをとっても中途半端な実力しかないと、
まえは悲観的にとらえていたけど、
このごろは、いろんなことが「すこし」できるのも、
あんがいわるくないようにおもえてきた。
この「すこし」は、たしかにすこしだけど、
その分野のおもしろさを理解したり、
実用になるレベルを意味している。

すこしおよげるし、すこしはしれる。
卓球とバドミントン、それにバスケットボールがすこしできる。
すこし本をよみ、
すこしは映画をみている。
すこし外国語をはなせるし、
すこしは文章をかける。
それぞれはすこしずつだけど、
それでも それぞれのおもしろさをしる程度には
くびをつっこんだといえる。
これはこれで、ひとつのたのしい人生かも。

ここにあげたすべてにおいて、
ふかい知識と技術をもっているひともいるだろうけど、
年をとってくると、たいしてうらやましくはない。
わたしはなにかをきわめられず、フラフラとあそんできた結果、
じゅうぶんな あそぶちからを身につけたとおもえばいい。
わかいころだったら、「すこし」をたくさん、なんていってたら、
まわりからヒンシュクをかうかもしれない。
人生のしめくくりをむかえるような年齢だからこそ、
「すこし」もわるくないと ひらきなおれる。
いまさらなにかに突出したちからがほしいなんて ねがわない。
「すこし」をつなぎあわせたら、
のこりの人生を、わたしは退屈せずにあそべるだろう。
沸騰させるレベルにはならなかったけど、
にっこりわらって いまわのときをむかえられそうな気がする。

posted by カルピス at 22:06 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする