『ラストマン・スタンディング』
(ウォルター=ヒル監督・1996年・アメリカ)
『ラストマン・スタンディング』がBSで放映された。
ブルース=ウィリスにクリストファー=ウォーケン、
監督が『48時間』のウォルター=ヒルとくれば 期待できそうだ。
録画しておき、たのしみに再生すると、ふきかえ版だった。
ブルース=ウィリスがしぼりだすようなはなし方で、
不自然にすごみをきかせようとしている。
いかにも芝居じみており、きいてるとイライラする。
しばらくみていても、まったくおもしろくない。
ウォーケンがなかなかでないからかとおもったけど、
彼が登場してからも、たいしてかわらない。
ふきかえだからつまらないのか、
作品じたいがたいしたことないのか。
残念ながら、おそらく両方だ。
作品もひどいし、ふきかえがさらにダメにしている。
映画の場合、字幕でみてしまうと あるイメージができてしまい、
ふきかえたときに、もとのイメージとあまりにもちがえば
すんなり作品にはいりこめない。
ブルース=ウィリスもクリストファー=ウォーケンも、
ほかの作品を字幕でみたときに、あんなはなし方はしてなかった。
『ラストマン・スタンディング』にも、
とても自然にきこえるはなし方のひとがいた。
ようするに、ミスキャストなのだ。
もちろんこのみはひとそれぞれなので、
あのブルース=ウィリスに満足するひともいるだろう。
クリント=イーストウッドに山田康雄さんの声は、
わたしとしてはあわないとおもっていたけど、
一般的には評判がよかったみたいに。
ふきかえだと、字幕を目でおわなくてもいいので、
映画に集中できるといわれるけれど、
『ラストマン・スタンディング』は
そう複雑でないはずのスジが、わたしには理解できなかった。
字幕だと、すくない情報量でつたえなくてはならないので、
コンパクトな表現になり、わたしにはわかりやすいのかもしれない。
ふきかえは、ムダなおしゃべりまでしっかり訳してしまうので、
かえって よけいなことに気をとられ 混乱してしまう。
小中学生のとき、映画といえばテレビの映画番組であり、
映画番組はとうぜん字幕ではなく ふきかえられていた。
えらびようがないわけだから、ふきかえのことは気にせずに、
たとえば『ゴッドファーザー』をこころまちにして、
じゅうぶんたのしんだ。
当時の中学生たちにとって、
『ゴッドファーザー』をみられるのは ひとつの事件であり、
イベントといってよかった。
映画館にかよいはじめ、いったん字幕になれてしまうと、
わたしにはおおくのふきかえが 演技過剰におもえる。
ストーリーをおうのに じゃまにならないくらい
おさえた表現がちょうどいい。
じゃまにならないのが、字幕版なのだ。
字幕版がよくなければ、それはまちがいなく作品のせいだけど、
ふきかえでつまらない場合、もとの作品が
ほんとうにたいしたことないかどうかは わからない。
もうひとつのかんがえ方として、
つまらない作品は、字幕だろうがふきかえだろうが、
おなじようにつまらない、というのもある。
小説が翻訳されるとき、
すこしぐらい原作とちがうところはあっても、
作品の魅力がひどくそこなわれたりはしない。
映画でも、ふきかえ版がおもしろくない作品は、
字幕でみたとしても、たいしたことないのではないか。
ひとつの作品が、ふきかえだけのせいで
めちゃくちゃにされたりはしないだろう。
いい作品かどうかのみきわめに、
ふきかえ版はつかえるかもしれない。
『ラストマン・スタンディング』を字幕でみても、
おそらくわたしはあまり感心しないはずだ。
レンタル店で字幕版をかりてためしてみたい。