2016年05月31日

まいごの子ネコにであったら

日曜日の朝日新聞に連載されている「くらしの扉」で、
散歩ちゅうや道ばたで まいごの子ネコにであったら、
という記事がのった。
5月中旬をすぎると、ノラネコたちの出産がふえ、
いまは子ネコが目につきやすい時期なのだという。
記事がすすめる対応は、離乳まえの子ネコなら
ほんとうにまいごなのかをたしかめるために、
いちにちはようすをみて、
母親がいないとわかれば保護しなさい、とある。
そして、まず保温してから 子ネコ用のミルクをあたえる。
つぎに動物病院へつれてゆき、診察をうける、というながれだ。
わたしの経験では、
まいごの子ネコはノミがついていることがおおく、
寄生虫をもっていたりするので、
はやめに獣医さんへつれていったほうがいい。

もしおたがいの相性がよさそうで、
いっしょにくらせる状況なら、そのまま家でかう。
病院へつれていったりしてるうちに、
愛着がわいてくるものだけど、
ときにはあまりなつかないネコもいるので、相性は大切だ。
条件がととのわなければ
だれかかってくれるひとをさがすことになる。
その気になって声をかけると、
あんがいひきとってもいいというひとがいるもので、
とにかくいろんなひとにはなしてみる。
ただ、むりにおねがいしても、
ネコがくつろげそうにない家では
ネコとひきうけさき、両方にとってよくない。
できるだけあせらずにさがしたほうがいい。

気ままに生きているようで、
自由な生きかたを うらやましがられる
ノラネコの平均寿命は3,4年と記事にあった。
家でかうネコは15年くらい生きるので、
それにくらべるとずいぶんみじかい。
自由の代償はずいぶんたかくつく。
もっとも、野性のライオンやイリオモテヤマネコは、
もっとながいきするはずだ。
ネコはもともと ひとといっしょにくらすのを
前提に進化した動物なので、
ノラネコの寿命がこんなにみじかいのかもしれない。

朝日新聞では、ちょうど『吾輩は猫である』が連載されている。
たいせつにかわれていた三毛子が突然なくなり、
威勢よくふるまっていた車屋の黒は いつしか調子をくずす。
「吾輩」にしても、たしかそうながいきはしなかったはずだ。
いつの時代でも、ネコたちが生きていくのは そうかんたんではない。

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2016年05月30日

わたしのワイン体験

3年にいちどひらかれるソムリエコンクールをテレビでみた。
世界一のソムリエをきめる大会で、
58人が参加して ワインに関する知識とサービスをきそう。
ワインの産地をあてたり、
そのワインにすすめる料理とその理由は?などの難問にいどんでいた。
ワインによって微妙にちがう 味とかおりをかぎわけるのだから、
これまでにものすごい量のワインを のんできたのだろう。
繊細な舌と鼻、それに膨大なデーターを記憶する
特別な才能をもったひとたちだ。
スマートにワインをあつかう姿がかっこよかった。

とはいえ、わたしには縁のない世界なのもたしかだ。
コンクールなのだから、そうやって順位をきめていくわけだけど、
すべてがどうでもよくなりつつあるわたしには、
なんだか冗談みたいな大会だった。
お客さんが気もちよく食事とワインをたのしむのに、
そんな曲芸みたいな能力が、ほんとうに必要なのか
不思議におもえる。

そんなわたしも、わかいころは、
なにかの記念日といえばワインをかった。
20年まえだと、あるていどお金をかけなければ
(といってもわたしの場合は3000円以下)、
ものすごいワインにあたってしまうおそれがあった。
保管がわるくて味がかわってしまったのだろう、
ひとくちのみこむたびに、顔をしかめないとのめない。
それが いまでは1000円もだすと、
じゅうぶんおいしいワインがのめるからありがたい。
3リットルいりの箱ワインや、
コルクすらついてない スクリューキャップの安ワインでも
それなりにおいしくのめたりするから、
わたしの舌は ソムリエコンクールと対極な役割しかはたさない。

すこし自慢めいたはなしをすると、
年のせいか、ワインをあけるのはだんだんうまくなった。
スクリューのさきをコルクにさしたときに
垂直にたてるのがちょっとしたコツなので、
コルクをぬくのがうまくいかないひとはためしてほしい。
まえはなかなかスマートにできず、コルクがちぎれたり、
コルクのかけらばビンにのこったりがあたりまえだった。
スクリューをねじこむのではなく、
ビンのほうをまわすと失敗しない、とどこかできき、
やってみたけどたいしてうまくいかなかった。
それに、ビンをまわすのは かなりかっこわるい。

映画『ポンヌフの恋人』に、
「ほんとうの のみかたをおしえてやる」といって
いかにも安ワインといったかんじの
ばかでかいプラスチック製ワインボトルを
(5リットルぐらいはいりそう)くちにくわえ、
グビグビとながしこむ場面があった。
ソムリエのお世話になるワインがあるいっぽうで、
そんなふうに、ただたくさんのめばいいというのも
またひとつのワインとのつきあい方だ。
わたしがやすいワインばかりもとめるのも、
『ポンヌフの恋人』の影響かもしれない。
もっとも、アルコールによわいわたしは、
グビグビなんてとてもできないので、
安ワインをチビチビという、
かなり残念なワインずきにそだってしまった。

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2016年05月29日

『犬と、走る』(本多有香)

『犬と、走る』(本多有香・集英社文庫)

犬ぞりレース「ユーコンクエスト」をとりあげた番組で
本多有香さんをしった。
犬ぞりに魅せられて18年まえにカナダへうつりすみ、
マッシャー(犬ぞり師)のもとへ弟子いりして経験をつむ。
番組では「ユーコンクエスト」という
1600キロの犬ぞりレースが中心だったけど、
本多さんがものすごくたのしそうに犬ぞりにかかわっていたので、
もっと本多さんのことがしりたくなり、この本を手にとった。
本書には、犬ぞりをしるために、
カナダとアラスカですごした修業のようすが くわしくかかれている。
マッシャーのもとでおくる きびしい生活をとおして
本多さんはすこしずつちからをつけていく。

いまでこそ、本多さんは森のなかでキャビンにすみ、
まわりには自分の犬たちの家(犬舎)があるけれど、
ここまでくるのは、かんたんな道のりではなかった。
マッシャー(犬ぞり師)に弟子いりし、
犬の世話やレースの手つだいにあけくれる。
修行ちゅうはもちろん給料などもらえない。
へたをすると、ずっと便利なお手つだいのまま、
いいようにつかわれてしまったりする。
そんななかで、本多さんはすこしずつ経験をつみかさね、
やがて ひとの犬をかりてレースに挑戦していく。
それはまた、お金をかえすために、
アルバイトづけの日々になることを意味した。

やっとレースにでられても、予想外の嵐にみまわれたり、
あてにしていたリーダー犬が調子をくずしたりで、
本多さんのレースは なかなか実をむすばない。
2009年のユーコンクエストでは、
リーダーをつとめる犬がいなくて、
本多さんはそりをおり、自分が犬たちの先頭にたって峠をのぼる。
チェックポイントにたどりつくと、
たくさんのひとたちが本多さんのためにないていた。
「有香、あんたは本当にすごいよ。イーグルサミットをリーダーとなって登ったのはあんたが初めてだよ。」(中略)
と鼻をすすりながら私を抱きしめて言うのだ。しかし私は、「それってカッコイイことではないよな。すんなり行けるのが本物だよな」と、自分でわかっていた。

3どめの挑戦で、本多さんはようやくユーコンクエストを完走する。
ゴールには、これまで本多さんをささえてくれた
たくさんの人たちがおいわいにかけつけた。
そして足元の犬たちを見た。氷の斜面で転がり諦めかけた私を、無言で励ましてくれた犬たちだ。
疲れて仕事から帰ってきたとき、私の周りを跳び回り、全身全霊で喜びを表現してくれた犬たち。
暗く寒い厳冬期に、何時間もともに走り続けた犬たち。
嵐に巻き込まれ、遭難しかけた雪山でも私を信じ従ってくれた犬たち。
今まで私に関わってくれた多くの犬たちのおかげで私はゴールすることができた。

この本は、18年にわたって本多さんが
犬ぞりレースにとりくんだ記録であり、
ひとりのわかものが夢をおいかけた青春記だ。
本多さんは2015年の「植村直己冒険賞」を受賞している。
無名なわかものが、ながねんにわたり努力をつみあげ、
とうとう夢を実現させたのだから、
まさに植村さんの名をいだく賞にふさわしい。
本多さんはいつしか ガッツと実力をかねそなえた
ほんものの犬ぞり師へとそだっていた。

そしてもうひとつ。
本書は、本多さんと犬たちとのものがたりだ。
本多さんは、犬たちといっしょにはしるのが
ほんとうにすきでたまらない。
「犬と、走る」というタイトルには、
犬ぞりレースうんぬんではなく、
とにかく犬たちといっしょにはしりたいという
本多さんのねがいがこめられている。
本多さんは自分のチームを「世界一」とほこりにおもい、
自分の犬たちがいとおしくてたまらない。
自分をしんじてくれ、自分のために
きびしいコースをいとわずにはしってくれる犬たち。
彼らとのあいだにきずいてきたふかくてかたい信頼関係を、
本多さんはなによりも大切にしている。
彼らの態度や少しの異変を素早く察知し、私がその問題に対処すれば、彼らはそれに感謝して私のために頑張ってくれるのだ。

レースの成績よりも、自分のねがいよりも、
本多さんはまず犬の体調を優先させる。
犬といっしょにはしれるからこそ、
本多さんは犬ぞりレースに夢中になる。
植村直己さんの『青春を山に賭けて』をよんだときの興奮を、
ひさしぶりにおもいだした。

posted by カルピス at 21:22 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月28日

ビンビールから缶ビールへ なぜうつったのか

土曜日版の朝日新聞「be」で連載されている
「サザエさんをさがして」に、
ビンビールから缶ビールへの変化がとりあげられている。
記事のかきだし
作家・村上春樹さんのデビュー作「風の歌を聴け」の主人公は、ビールばかり飲んでいる。
にひかれ、ついよんでしまったけど、
マクラにつかわれているだけで、
もちろんサザエさんと村上さんとの接点はない。
しめくくりに『風の歌を聴け』のなかにでてくる
自販機で缶ビールをかう場面をとりあげ、
「さすが村上さん、最新の風俗を取り入れている」
と、また村上さんが顔をだす。
それはちがうだろうと、つっこみたくなった。

はなしをもとにもどすと、
たしかにむかしはビールといえばビンだったのに、
いまではほとんどが缶ビールだ。
2015年の調査によると、ビンは9%なのにたいし、
缶ビールが72%と 圧倒しているらしい。
気づかないうちに、なにかが決定的にかわったのだ。
わたしも、90年代のはじめごろは、
中ビンをケースでかっていた。
缶ビールへとかえた はっきりした理由はおぼえてない。
あんがい村上さんの影響かもしれない。

記事によると、缶ビールへかわった理由として、
・80年台からの規制緩和でビールは酒屋だけのものではなく、
 スーパーやコンビニで1本1本かえるようになった
・核家族化がすすみ、ビンのケースはおおすぎた
・アサヒスーパードライのように、
 女性にものみやすいビールがでてきて、手がるな缶がこのまれた
・自動販売機の普及
をあげている。
とはいえ、どれも決定的な理由とはおもえない。
時代のながれというやつだったのだろうか。

こんどは公衆電話について。
椎名誠さんと目黒考二さんの対談に、
公衆電話がコイン式からカード式にかわったはなしがでていた。
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/10374
こちらのほうは、もっともな理由なので 納得できる。
コイン式だと1台ずつ公衆電話のコインを回収しなければならず、
膨大な手間がかかるのにたいし、
カードだと、その手間がまったくいらなくなる。
しかもカードはさきばらいなので、
NTTにとったらいいことずくめだ。

でも、公衆電話はたしか10円玉とテレフォンカードの
どちらかをえらんでつかえるようになっていた。
カード式にきりかえても、
コインの回収が必要だったのではないだろうか。
このごろすっかり公衆電話をつかわなくなったので
テレフォンカード専用がおおいのかどうか よくしらない。
携帯電話の普及により、公衆電話は激減するわけだから、
NTTは、天国と地獄の両方を、
わずかな間にあじわったのかもしれない。

変化へのきっかけがあきらかだとおもえるものに、
駅のゴミ箱がへったからスポーツ紙がよまれなくなった、
というのがある。
(「作家の読者道」本城雅人氏)
http://www.webdoku.jp/rensai/sakka/michi172_honjo/20160518_3.html
スポーツ新聞の記者をしていた本城雅人氏が、
サリン事件の影響により、
駅からごみ箱がなくなったおかげで、スポーツ新聞が一気に売れなくなったんです。今はゴミ箱もまた見かけますが、一時期はまったくなくなった。特に駅で買うスポーツ新聞は家には持って帰りにくいページもあるので、買われなくなったんです。
とはなしている。
こんなふうに、ある変化がひきがねとなり、
まったくよきせぬ結果をうみだすと感心してしまう。
ゴミ箱がなくなっただけが理由ではなく、
「スポーツ新聞には家に持って帰りにくいページがある」
と、新聞の内容がからんでいる。
オウム教もスポーツ新聞の編集部も、
ゴミ箱と購買数の関係まで、みとおしていなかったのではないか。

ビンビールから缶ビールへのうつりかわりは、
ゴミ箱とスポーツ紙の関係ほど
現象と起因がはっきりしていない。
いくつも理由があげられるけど、
どれだけあたっているかは わからない。
はっきりしなくても、なしくずし的にかわっていくときは、
理由がわからないだけに、
ながれをとめられないのかもしれない。
ひとのこのみは 理屈ではないからおそろしい。
トランプ氏へのながれが なんとなくあたまにうかんだ。

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2016年05月27日

退職後を いそがしくしすぎないほうがいい

朝日新聞の投書欄に、
「退職後の時間潰し」という記事がのっていた。
「退職後は、趣味がない、運動するほどの体力はない、
 草を抜くほどの庭もない・・・」と、ないことずくしで、
トホホな生活を、かくさずにしるされている。
散歩も不審者とおもわれないように気をつかうので、
図書館へいくか、家で新聞をよむくらいしか
することがないらしい。
退職後に時間をもてあます、典型的な例だ。
典型的すぎて、ほんとにこんなひとがいるのかとおどろいた。

しかし、記事をよくよんでみると、
トホホよりも達観と知性がかんじられる。
退職した男たちのおおくは、
ひまをもてあましているとおもわれたくなくて、
いそがしそうにふるまいがちらしい。
そんななかで、投書された男性は、
すこしもかっこつけずに なにもすることがないと
率直にうちあけている。
これだけストレートにひまな毎日をかたれるのは、
自分の生活をおもしろがれる 才能があるのかもしれない。
あんがい時間をじょうずにつかう達人なのでは。
じょうずにつかうから、時間がたくさんあるのだ。

わたしが失業していたときは、
やたらといそがしくすごしていた。
仕事をしてないのに
なんでいそがしいのか ふりかえってみると、
けっきょく自分で時間をつぶしていたからだ。
それまで車にのっていたところは自転車に、
自転車にのっていたところはあるく。
トレーニングの回数をふやす。
田んぼや畑に手をだし、
寝酒をのみすぎてふつかよいし、
よみきれないほど本がたまっているのに、
さらにまた図書館で本をかりてくるし、
なによりもブログなんかをかくからで、
ようするに、自分でいそがしくしている。
このうえ恋愛なんかをしたら、パンクしそうだけど、
その心配だけはないみたいだ。

わたしの失業ちゅうは、時間がたくさんありながら、
いそがしくうごきまわるばかりで、
おだやかな生活とはならなかった。
投書をされた男性のほうが、
じっさいはみちたりた生活を手にしている気がする。
わたしのはたんなる時間の浪費であり、
ひまをおそれて いそがしくすごす、
退職後のおとこたちと おなじふるまいではなかったか。
「ひまでこまっています」をめざすくらいが
わたしにはちょうどいい時間のつかい方かもしれない。

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2016年05月26日

林雄司さんの自由な拡大解釈にひかれる

林雄司さんのブログをよんでいて、
「ものすごく(自分のからだが)コントロールできてない」
という「発見」におどろいた。
http://yaginome.jp/?p=905
なんのことかというと、
「身体を思った通り動かせるとスポーツが上達する」
と、あるタレントのはなしをきっかけに、
自分のからだのコントロールについて林さんがかんがえはじめる。
たしかに仕事でダンスをしたときに、
「まったく身体が思った通りに動かなかった」
経験が林さんにはあり、なるほどといったんは納得する。
林さんのおもしろさは、
そこから発想を一挙に飛躍させるところだ。

今回は、おもったとおりうごかせないのは、からだだけではない、
という方向へ概念を拡大させている。
スポーツだけでなく、歌をうたったり、
絵をかくときにうまくいかないのも、
おもったとおりからだをコントロールできないからではないかと、
林さんはあらぬ方向へはなしをすすめる。
さらに「痩せるとか早起きみたいな習慣的なこと」も
うまくいかないのは、からだをコントロールできないからだと、
さらにはなれた場所へ発想をもっていく。
仕事があるのにビールをのんでしまうのも、
ビールをのみながら つまみの笹かまに意識がうつってしまうのも、
ぜんぶ自分のからだをコントロールできてないからだ。
ようするに、
たいていの場合、身体が思った通りに動いてない。
そして
むしろ他のものがコントロールしてるのではないかと思うぐらいだ。
と、はじめの気づきが、
さいごにはありえない場所にとんでしまっている。
ありきたりで なんということのない事実を、
ほかの条件といれかえていじくるうちに、
かくれていたおもいがけない本質が顔をみせる。

アイデアづくりは異質なものをくみあわせる、
とよくいわれているけれど、
林さんの発想はそれともすこしちがう。
くみあわせというよりも、
観察でえた気づきをありえない方向へ
拡大解釈させていくのが特徴だ。
「身体を思った通り動かせるとスポーツが上達する」は
あたりまえだけど、
「他のものが(自分を)コントロールしてるのではないか」は
発見だ。
わたしも、自分のからだやあたまを、
自分でコントロールしていると おもえないことがよくあるのに、
真理の発見にはつなげられなかった。
林さんをたかく評価するゆえんである。

posted by カルピス at 20:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 林雄司 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月25日

もっとネコっかわいがりを

「クールジャパン」で日本のネコ事情をとりあげていた。
空前のネコブームといわれ、
イヌとほぼおなじ1000万匹ちかくのネコが
日本でかわれているという。
たま駅長やたくさんの猫グッズ、ネコを専門にあつかう雑誌など、
日本ならではの現象が紹介されている
(『ねこ自身』という雑誌名がおかしかった)。

なぜそんなにネコがかわれるようになったかについて、
よく、ネコはかいやすいからといわれるけど、ほんとうだろうか。
相対的にみれば、散歩しなくてもいいぶん、
たしかにイヌよりは手がかからないかもしれないけど、
ネコだってそんなにかんたんではない。
年おいて、からだが自由にうごかなくなったネコは、
とうぜん人間とおなじような症状がでてくる。
いろんなところでおしっこをしたり、
ながく病気をわずらったりすると、
「かわいい」だけではやっていけないし、
もちろんお金だってかかる。
しあわせにくらしているネコが どれだけいるのか
気になるところだ。

ネコブームだといわれながら、
ネコとのつきあい方について あまり目にしない。
ネコがすきなこと、ネコにしてはいけないことを、
いっしょにくらす人間がしってないと おたがいにたのしくない。
ネコとくらす醍醐味は、ネコっかわいがりにあり、
どうやって「かわいい!」をつたえたら
ネコがよろこんでくれるかを、
もっと紹介したらいいのにとおもう。
ネコは、ネコっかわいがりするからネコになるのだ。
かわいいねー、おりこうだねーと、
めちゃくちゃほめちぎり、ハグハグする。
ネコっかわいがりこそが、
きわめて日本的なネコとのつきあい方ではないだろうか。
とはいえ、ひとがネコを溺愛するすがたは、
あまりみたいとはおもわないけど。

わたしがネコを家につれてかえるのは、
たまたまであった子ネコを
ほっておけなくなったときだ。
おなかをすかせたり、さみしくてないてる子ネコをみかけたら、
胸がいっぱいになり、とてもそのままにしておけない。
おおいときで3匹、すくなくても1匹のネコが、
とぎれることなく家にいる。
これまでに2ど、ネコの出産にたちあった。
村上春樹さんがかっていたネコは、
出産ちゅう、村上さんにからだをあずけ、手をにぎらせたという。
わたしのネコも、手まではもとめなかったけど、
そばにいてほしいと あまえた声でないた。
といって、わたしにできることなどなにもない。
たよりないお父さんになった気分をあじわった。
2時間ほどかけて 5匹の子ネコをうみおえたときは、
わたしもヘトヘトになった。

もう10年以上、身よりのない子ネコにであわない。
神さまがアレンジして、ネコのいきさきをきめているとしたら、
なにか意味のある空白の10年なのだろう。
2年まえに10歳のオスネコが急病で死に、
いまは年おいたピピ(14歳)の介護がわたしの役割だ。
わたしの寿命のほうが、ネコよりもみじかかったらたいへんなので、
このさきそんなにたくさんのネコとはつきあえない。
ピピにはわるいけど、子ネコが家にきたら、
グチャグチャにかわいがって
濃密なコミュニケーションをたのしみたい。

posted by カルピス at 20:59 | Comment(0) | TrackBack(0) | ネコ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月24日

畑でとれた ものすごくちいさなタマネギ

畑にうえたタマネギに、ネギ坊主ができてきた。
いわゆるトウがたった状態なので、
ほっておくとかたくなるから、はやくたべたほうがいいよ、と
しりあいにいわれた。
おおきそうな いくつかをぬいてみる。

土のうえに顔をだしている部分をみて、
ちいさなタマネギしかできていないのはわかっていたけど、
ぬいてみると ほんとうにちいさい。
タマネギにみえないくらい ちいさい。
このまえラジオをきいていたら、
ゴルフボールくらいにしかそだたない品種のタマネギがあり、
とてもたかい値段がついているのだそうだ。
包丁をいれなくても、そのままシチューなどにつかえるので、
あつかいやすいという。
わたしのタマネギは、ゴルフボールまでもいかない。
ニンニクよりも、ラッキョウよりもちいさい。
タマネギ.jpg
野菜もお米とおなじように、自然農法でそだてている。
土をたがやさず、肥料をやってないし、草もほとんどとってない。
おおきな野菜がそだたなくても、
できたものをありがたくいただけばいい、
なんてもっともらしい「理念」をとなえていたけど、
さすがにこのタマネギにはトホホとなった。
ふつうのタマネギとおなじだけの栄養が、
ぎゅっとつまっていたらいいけど、
きっと ただちいさいだけだ。

わたしがそだてるほかの野菜も、お店でうれているものより
はるかにちいさいものしかできないとはいえ、
タマネギのちいささは衝撃的だ。
ニンジンだって、大根だって、
ちいさいなりに野菜のすがたをしていたのに、
タマネギだけなぜ こんなにそだたないのかわからない。
11月にうえた苗は、たしかにものすごくほそかった。
でも それは、ほかのひとの畑もいっしょだ。
そこからのそだち方で、これだけ差がつくとは、
よほど手あつい管理をタマネギはもとめるのだろう。
わたしのタマネギは、なにをおもって成長するのをあきらめたのか。

シチューにいれてみる。
シチューくらいにしかつかえない おおきさだから。
トウがたってたわりには やわらかい実だ。
あまりにもちいさいので、すぐにノドをこえてしまい、
どんな味だったかつかめない。
スーパーでうられている「ふつうの」タマネギは、
ものすごく肥満してしまった いびつな形にちがいないと、
まけおしみする。
どうしたらあんなにおおきくそだつのか。
野性のタマネギに品種改良をくわえるうちに、
いまのようにおおきくそだつタマネギができあがったのだろうけど、
いくら肥料をやってないからといって、
いっきょに野性時代のすがたを おもいだしてしまうものなのだろうか。
いつもお店でうっている、あつかいやすい野菜だとおもっていたのに、
いいかげんな自然農法では、
タマネギの野性をすぐによびもどすことがわかった。
自然にはえていたちいさなタマネギを、
おおむかしの人類は よく食糧としてえらびだしたものだ。
この植物は、手をかけてそだてればおおきくなるとみぬき、
根気よくそだてつづけたホモ=サピエンスの苦労が、
たった一年、ほったらかしにしたらもとにもどるというのもすごい。
タマネギのつよい野性に拍手をおくる(わけない)。

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2016年05月23日

『カイバル峠からカルカッタまで』(梅棹忠夫)のなにもかもがすき

きのうのブログに引用した
梅棹忠夫さんが カルカッタからの飛行機にのる場面は、
『カイバル峠からカルカッタまで』のつづきの部分だ。

モゴール族をおった探検のあと、
おもいがけず ふたりのアメリカ人民族学者といっしょに
梅棹さんはカブールからカルカッタまで
フォルクスワーゲンにのって旅行している。
車の窓のそとにひろがる景色やひとびとのようすを、
梅棹さんはタイプライターをたたいて記録する。
座席はガタゴトはげしくゆれるので、メモはとれない。
タイプライターなら、ゆれとシンクロするので なんとかうてる。
夜もまた、タイプライターなら、指がキーをおぼえているので、
くらいなかでも記録をとりつづける。
そうしてかかれたローマ字による記録を、
あとから漢字かなまじりになおしたのが
『カイバル峠からカルカッタまで』であり、
現在進行形による躍動感のある文章のためか、
よんでいるわたしまで、
いっしょに旅行しているような気もちになってくる。
村はきのうからのひきつづきで、屋根は瓦屋根、女がときどきおおきなかごを頭からかぶっている。水田がつづく。ヤシの木。全体の印象はいちじるしく熱帯的になってきた。(『著作集第4巻P375)

このときの旅行でえた気づきが、
のにち『文明の生態史観』の発想へとつながるわけだけど、
『カイバル峠からカルカッタまで』では
そうした構想についてはまだふれられておらず、
車のなかからの観察を中心に、
旅行ちゅうにおきたできごとをかきとめるにとどめてある。
わたしはこの『カイバル峠からカルカッタまで』がだいすきで、
たまたまおとずれることになったみしらぬ土地を、
こうして記録をとりながら移動する旅行にあこがれている。
もっとも、梅棹さんのように博識な方が観察するからこそ、
あたらしい発見や気づきがあるわけで、
わたしがスタイルだけまねても
「それがどうした」みたいな記録にしかならないのは
よくわかっている。

『カイバル峠からカルカッタまで』にならい、
事業所見学に倉敷へむかう車のなかで、
わたしもパソコンをひらいてみる。
わたしはタッチタイピングができるけれど、
どうしてもときどきは画面に目をむけて
入力をたしかめてしまい、
すこしタイピングしただけで車によってきた。
車によわいわたしは、ながくつづけてうてない。

『カイバル峠からカルカッタまで』の なにもかもがすきだ。
1955年という、60年以上もまえにおこなわれたこの旅行が、
いまもわたしのオールタイム・ベスト旅行記となっている。

posted by カルピス at 06:46 | Comment(0) | TrackBack(0) | 梅棹忠夫 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月22日

身がるにうごけるひと

きのうの「ぬか」への事業所見学は、
松江から10人のりのハイエースにのってでかけた。
荷物は、ひとによっていろいろで、
ちいさなデイバッグのひとがおおい。
わたしは毎日つかっている 20リットルほどのデイパックに
マックブックエアー11インチやら、
さむくなったときにそなえて ウィンドブレーカーやら、
iPodに文庫本と、いろいろつめこんだので ずっしりおもい。
荷物がおおくなりがちなのが わたしの弱点で、
旅行のときも なんだかんだでカバンいっぱに
ごちゃごちゃとつめこんでしまう。

ひとりの職員は、まったくの手ぶらで車にのりこんだ。
ポケットにメモ帳をしのばせているわけでもない。
とちゅうよったコンビニでもかわなかったから、
ノートをわすれたのではなく、
つよい確信のもとに 断固としてもっていかなかったのだ。
見学にいきながら、ノートをもたないとはなにごとか、
とはおもわない。
メモしなくても、五感をはたらかせて情報にふれ、
うけた刺激をかえってからの仕事にいかしたらいい。
メモをかきまくり、パソコンにまでうちこんだわたしが、
だからといって いい仕事につなげられるとはかぎらない。
わたしはその職員の身がるさに、すっかり感心してしまった。
手ぶらで車にのりこむなんて、わたしにはぜったいにできない。
断捨離とかミニマリストとかいわなくても、
すくないものでやっていけるひとがいるのだ。

梅棹忠夫さんの記録に、カルカッタから飛行機にのって
チベットをたずねる場面がある
(『著作集第4巻』P381「カルカッタ以後」)。
カメラだけもってダムダム飛行場にゆく。手ぶらの旅はなんと気らくなことだろう。

日がえりの旅行ではない。
カリンポンやブータンをたずねる4泊の旅なのに、
カメラしかもたない すがすがしいまでの身がるさにおどろく。
ノートさえもたなかった職員は、情報にたいする態度が、
梅棹さんは、ものにたいする感覚が、
わたしとはまったくちがう。
なぜそこまで身がるになれるのかが わたしにはわからない。

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2016年05月21日

「ぬか〜つくるとこ〜」(倉敷市)の自由に衝撃をうける

倉敷市にある生活介護事業所「ぬか」を見学させてもらう。
http://nuca.jp/
古民家を改造したそうひろくない家に、
20人(登録は43人)の方がかよっておられる。
「ぬか」のとりくみは、創作活動をとおして、
そのひとらしく くらせる場所をつくろうというものだ。
代表の中野さんに「ぬか」の基本的なかんがえをはなしていただき、
シェフのつくるすばらしいひるごはん
(とろろめん・きゅうりの塩レモンあえ・サワラのやきもの、
そしてめちゃくちゃおしゃれなデザート)をあじわったあと、
じっさいの活動をみさせてもらった。
シェフの料理は「ぬか」の自慢のひとつで、
給食の域をこえた「ランチ」として、
ぬかびとたちとお客さんをワクワクさせている。
ひるごはん.jpg
おうちにあがらせてもらうと、
ほかの事業所だったら「重度」とよばれそうな
障害をもったぬかびとたちが、
あたりまえのお客さんとして わたしたちをむかえてくれた。
けしてひろくない家に、9名もの見学者がおとずれたら、
うけいれる側はたいへんだ。
お客がとくいでないひともいるだろうし、
ざわついた雰囲気となり おちついて仕事にとりくめない。
でも、ぬかびとたちは ごく自然にわたしたちをまねきいれ、
自分たちの活動を紹介してくれた。

どれだけたのしめるかを大切にしていると
中野さんがはなされる。
なんでもありなのだそうだ。
かならずしもアート活動でなくても、
おでかけだったり、かいものだったりする。
ただし、なんとなくのかいものにはおわらず、
たとえば「おしゃれ計画」といった、
「ぬか」的なあそびが かならずからめられている。
なかには「ぬか」にきて ただよこになり、
ごはんをたべてかえるひともおられるという。

自由をくちにするのはかんたんだけど、
「ぬか」ほどすきなことだけ すればいい場所を
わたしは はじめてみた。
すきなことをしていいよと、ほうりだすのではなく、
スタッフがこまかなところまで 目くばりをおこたらないからこそ、
ぬかびとたちは、すきで得意な活動に、安心して没頭できる。
スタッフがぬかびとたちのちからを じょうずにひきだしている。

「宇宙的かき氷」
「世界的コスプレ大会」

など、過激なまでの刺激的なネーミングが
あそびごころいっぱいのとりくみをあらわしている。
「ぬか」のひとたちは、基本的にコスプレがすきなのだそうで、
きょう見学におとずれたときも、
金色の衣装とアフロヘアーでギターをひいているスタッフがおられた。
「あつくないですか?」とたずねると、
夏バージョンの衣装なので大丈夫なのだそうだ。
わたしたちのためにその衣装をきてくれたわけではなく、
日常的にそうやってあそびまくる姿勢がしみついている。
そうした雰囲気が、ぬかびとたちの笑顔をひきだしていく。

「ぬかびと」とは、「ぬか」にかよってくる利用者のことだ。
「利用者」という、いかにも福祉的でよそよそしいことばをきらい、
「ぬかびと」とよぶことで、ただ事業所を利用するひとではなく
もっと主体的な存在だという「ぬか」の理念がつたわってくる。

ふだんわたしは、やりたくない、うごきたくないというひとを
どうやってその気にさせるか ばかりをかんがえ、
ときにはむりやりにでも
みんなとおなじ活動につくようもとめている。
「ぬか」のとりくみをみていると、
自分がいかにレベルのひくい「支援者」かを おもいしらされた。
仕事ばかりが活動ではないのに、たのしむことをわすれ、
かたちばかりをだいじにする つまらない職員でしかない。
こだわりを、そのひとにしか表現できないつよみだとみなおせば、
たくさんの芸達者にかこまれているのに気づく。
わたしがすがってきた常識を、
ぬかびとたちはかるがるとクリアーし、
みごとに生活をたのしんでいる。

「ぬか」には福祉的なにおいがまったくなく、
創造的で自由な精神にあふれている。
生活は、こんなに自由なんだと、
ぬかびとたちに衝撃をうけた。

posted by カルピス at 22:07 | Comment(2) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月20日

「あったら便利かも」と つい想像してしまう

本屋さんでしはらいをおえたあと、
レジのちかくにおいてあるルーペに気づいた。
手にとってみると、LEDライトもついており、
活字がとてもみやすい。
わたしごのみの形ではなかったので、
かう気にはならなかったけれど、
こういうルーペがあれば便利そうだ。
家にもどってからネットでさがしてみる。

倍率やおおきさのちがいで、いろんな商品がでており、
どれも便利そうでまよってしまう。
けっきょく倍率が2倍で(5倍の部分もすこしある)
1300円のルーペにきめた。
本をよむにはリーディンググラスをかければいいとして、
ちょっとした文字をよみたいときが意外とあり、
そのたびにメガネをとりだすのはすごくめんどくさい。
ポケットに いつも虫めがねをいれておくのも
ひとつのやり方だけれど、あまりかっこいい姿ではない。
注文したルーペは、老眼にこまって、というよりも、
探偵がこまかな部分をみおとさないためにつかってるかんじで、
抵抗なくつとりだせるはずだ。

もうひとつ最近かったのが、スマホ用のウエストポーチで、
ほとんどスマホだけをいれるためにつくられており、
ふつうのウエストポーチよりずっとうすい。
ちいさなメモ帳なら なんとかまえの部分にはいるので、
夏になり、うわぎのポケットをあてにできなくなっても、
最小限の荷物はこのウエストポーチでなんとかなる。

頭のなかで 便利そうだからとほしくなった ふたつの商品は、
荷物がとどいてみると あんがい出番がない。
必要にせまられてかったのではなく、
あったら便利だろうと 想像がさきにたったかいものは、
よけいな商品がおおいのかもしれない。

ひとの想像力をくすぐって、あったら便利だとおもわせるのが
じょうずな広告や展示なのだろう。
ほんとうにたかい機能をそなえた商品であっても、
それがだれにも必要かというと、そうとはかぎらない。
わたしの場合は、広告につられてではなく、
自分から「あったら便利」と 想像力をはたらかしたわけで、
このままでは ただのおろかな消費者だ。
じっさいに便利におもう場面が はやくおとずれないものか。

posted by カルピス at 22:32 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月19日

なぜひっかかるかより、ひっかからないほうが不思議

発達障害の方への支援技術として
構造化がよくつかわれる。
環境をととのえて刺激を調整し、
情報がつたわりやすくする方法だ。
たとえば、たくさんのボタンがついたCDラジカセだと
どのボタンをおしたらいいのかわかりにくいので、
必要なボタン以外はかくしてしまう。
そうした構造化のひとつにスケジュールがあり、
予定がわかりやすくつたわるように工夫する。
自分がきょうはなにをするのかについて
みとおしがはっきりしていたら
だれだっておちついてすごしやすい。
いちにちのスケジュールを、
相手に得意な方法でつたえるのが基本だ。
とはいえ、スケジュールがわかっているからといって、
スムーズにうごけるかというと、
なかなかそうかんたんにはいかない。

わたしだって、その日のスケジュールをしめされ、
つぎは◯◯の活動だと、カードをしめされても、
はいそうですかと うごける日ばかりではない。
気分がのらないときもあるし、
そのつぎの活動が気になって かたまってしまうときもある。
発達障害のひとにしても、
カードをしめしたからうごけるというものではないし、
つたわりやすいように配慮された情報でなければ、
こちらのひとりよがりなスケジュールになりがちだ。
いつ・だれと・なにをするのかにひっかかって、
うごけなくなった利用者をまえに わたしは途方にくれる。
どの車にのって どこへゆくかなど、
そのひとに必要な情報を正確につたえないと 混乱につながる。
つまずいてしまうネタは いくらでもころがっている。

そうしたひとたちを支援しながら、
彼らがなぜひっかかるかよりも、
ほかのひとたちは なぜひっかからないかのほうが、
だんだん不思議におもえてきた。
まいにちがおなじなんて ありえないわけで、
突発的なうごきがいくらでもはいってくるし、
予定がかわることもおおい。
そのうえに体調もからんでくるから、
混乱するネタにはこまらないのだ。
どうかんがえても、つまづかないほうがどうかしている。
にもかかわらず、わたしたちは
朝いつものようにおきて、ごはんをたべたのちに職場へむかう。
こきざみに状況がかわるなかで、
なんにんかのスタッフといっしょに、仕事をつづける。
あきたり、いやになっても、がまんするのが一般的だ。
スムーズにうごけるのは、ウルトラミラクルな曲芸であり、
あたりまえとおもわないほうがいい。
すっとうごけるひとのほうが おかしいのかもしれない。

posted by カルピス at 22:35 | Comment(0) | TrackBack(0) | 介護 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月18日

さいごのピースはパン用のお弁当箱

図書館でお弁当の特集がくまれていて、
何冊かめくってみると、
パンをつかったお弁当がいくつかのっていた。
わたしもときどきサンドイッチ
(のようなもの)をつくってもっていくけど、
てきとうなお弁当箱がなくてこまっている。
いろんな量や形に対応できるパン用のお弁当箱は
あんがいみあたらない。
ホームセンターやイオンのお弁当箱うり場をみても、
あまりほしくなるパン用のお弁当箱はなかった。
サンドイッチは、ただパンにおかずをのせてはさめばいいので、
かんたんにつくれるし、たまにパンのお弁当だと気分もかわる。
食パンでサンドイッチをつくるときと、
バゲットをひらいてチーズやオムレツをいれる場合の
両方につかえるお弁当箱があれば便利なのでは。

むすこが保育園のとき、保母さんが
のみおえた牛乳パックをひらいて
サンドイッチをつめていたのに感心したことがある。
タダだし、つかったらすてられるし
(もちろん資源ごみにもなる)、
いろんなおおきさに対応できる。
ただ、かわいくはないので、
だれにでもおすすめできるやり方ではない。

チャーリー=ブラウンは、
ピーナツバターのサンドイッチを
紙ふくろにいれて学校にもってきていた。
ごはんだったりめん類だったりの日はなく、
まいにちかならずサンドイッチだ。
くる日もくる日もおなじお弁当をたべるのも、
それはそれでわるくないとわたしはおもう。
おひるになると、紙ふくろから
きまりきったサンドイッチをとりだしつづけた結果、
チャーリー・ブラウンは人生に期待しない、
達観した少年にそだったのでないか。

日本のお弁当が外国のひとからも
みとめられていると、「クールジャパン」でとりあげていた。
お弁当のなかみが「かわいい」と 人気をあつめるだけではなく、
外国のひとからみれば、お弁当箱そのものがクールらしい。
どこの国でも、とくにアジアでは
お弁当を職場や学校にもっていくとおもっていたけど、
あんがいそうではないらしい。
お弁当があたりまえの存在すぎるせいか、
なぜ日本のお弁当が人気なのかが、
けっきょくわたしにはよくわからなかった。

わたしはお気にいりのアルミ製のドカベンに、
まいにちほとんどおなじおかず
(たまごやき・塩さば・ソーセージ)をもっていき、
まいにちたのしみにふたをあける。
ごはんもののお弁当箱は、このアルミ製で満足しており、
あとは実用的で かわいくないパン用のお弁当箱があれば、
人生におけるさいごのピースとなるような気がする。

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2016年05月17日

半月で46.52MBのデーター利用量は いったいなんなのだ

「椎名誠 旅する文学館」のサイトに、
目黒考二さんが椎名誠さんの本を出版順によみ、
感想や疑問点を 椎名さんにちょくせつぶつけるコンテンツがある
(「椎名誠の仕事」)。
毎週月曜日に更新され、数年かけて
ようやく2012年の12月に出版された
『ソーメンと世界遺産』(ナマコのからえばり8)まできた。
http://www.shiina-tabi-bungakukan.com/bungakukan/archives/10647
ふたりの会話は、書評といってはあまりにも世間ばなしで、
この回も 目黒さんが寝袋カバーのことを
しつこく椎名さんにたずねている。
そして、寝袋カバーにつづいてスマホが話題となった。
目黒 この本にスマホを買ったと出てきて驚いた。
   いまでも使っているの?
椎名 いや、使っていない。
目黒 どうして買ったの?
椎名 どうしてかなあ。お前、スマホ?
目黒 いや、ガラケー。おれの競馬友達、全員ガラケーだよ。
椎名 十分だよな。

わたしには、おふたりの気もちがよくわかる。
まったく「十分だよな」というしかない。
これはもう、世代間格差がそのままあらわれている いい例だ。
20代のひとは、90%がスマホをつかい、
50代では50%と、だんだんもっている割合がさがってくる。
椎名さんと目黒さんとも、70前後なので、
「おれの競馬友達、全員ガラケーだよ」もあたりまえの感想だろう。

先月スマホをかったわたしは、
予想どおり ほとんど電話としてしかつかわない。
2ギガのデーター量の契約でありながら、
5月にはいっての半月で、わずか46.52MBしかつかわなかった。
2ギガの約40分の1なのだから、
目黒さんと椎名さんのやりとり
「どうして買ったの?」
「どうしてかなあ」
は、まさしくわたしにも関係する謎だ。
自分のことながら わけがわからない。

目黒さんはスマホなんてかんがえてもみなかったようだし、
椎名さんはあっさりスマホからガラケーにもどしている。
50代のわたしは、
「どうして買ったの?」
「どうしてかなあ」
を いまだにくりかえしている。

posted by カルピス at 21:55 | Comment(0) | TrackBack(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月16日

『決戦!バルト海』(セシル=スコット=フォレスター)

『決戦!バルト海』
(セシル=スコット=フォレスター・高橋泰邦:訳・ハヤカワ文庫)

ねるまえに『決戦!バルト海』をすこしずつよむ。
ベッドで寝酒をのみながら、ほんの数ページずつ
いちにちをおえる儀式としてよみすすめる。
この本は、宮ア駿さんが「ホーンブロワーシリーズ」のおもしろさを、
どこかではなしていたのがきっかけとなり よみはじめた。
18世紀のイギリス海軍を舞台に、
平民出身のホーンブロワーが海軍元帥までのぼりつめていく。
『決戦!バルト海』はシリーズの8冊目で、
ホーンブロワーは、海軍司令官として登場する。

30年まえにシリーズをよみおえてから、
老後のたのしみとして本棚にねむらせていた。
むかしの文庫本は、いまの本とくらべて
どれくらい文字がちいさかったかを確認するために
ひさしぶりに『決戦!バルト海』をひっぱりだす。
ほんのすこしよみはじめたら、
ねるまえの読書としてかかせなくなった。
文字がちいさいので、ふだんつかっているリーディンググラスよりも
度のつよいメガネにかえないとよめない。
わざわざメガネをつけかえるというのも、
ねるまえの儀式として気にいっている。

本書でのホーンブロワーは、
ナポレオンが勢力をのばしているフランスがあいてだ。
バルト海を舞台に 艦隊をひきいてたたかいをいどむ。
司令官だからといって、ホーンブロワーは
むやみにいばったり、部下の感情をもてあそんだりしない。
自分のふるまいが、海軍の伝統からみて適切であるかどうか、
また、部下たちの士気をたかめるのに必要な配慮はなにかを、
ホーンブロワーはつねにこまかく計算する。
「もし異存がなければ」と、できるだけさりげない口調をこめて、一語一語を長く引っぱりながら「いつでも信号旗を揚げられるように用意させてもらいたい」
「ブッシュ艦長、ご苦労だが、追風をうけて帆走し、戦隊の後尾についてくれ」
「艦長に、わたしからの伝言ーデッキに来ていただければありがたいとな」

帆船をあやつるには、おおくの乗組員による
一糸みだれぬうごきがもとめられる。
ましてや軍艦は、スピードや火力において
敵をうわまわらなければ たたかえない。
緊急事態に迅速で調和のとれたうごきをとるためには、
ふだんから絶対的な規律が必要となる。
イギリス海軍が、提督を頂点にこまかな階級をもうけ、
一体となってたたかいにのぞむ(あるいはそなえる)伝統は
どのようにつちかわれていったのかが、
ホーンブロワーシリーズの背景にみえかくれする。
当時のイギリスにおいて、船にのる男たちが
どれだけ社会から尊敬をあつめたか。
そうした価値体系のすべてが
ホーンブロワーシリーズにおりこまれている。

『ツバメ号とアマゾン号』など、イギリスの児童文学には、
子どもたちが船をあやつりながら
忍耐力・責任感・勇気をはぐくんでいくようすが、
しばしばえがかれている。
イギリスにおいて、ふなのりであることは、
日本とはくらべものにならないほど 特別な意味をもつ。
それらの伝統が、ホーンブロワーの時代には
すでにできあがっているのが興味ぶかい。
日本の軍隊というと、理屈のつうじない
くらい世界を連想するけれど、
ホーンブロワーシリーズでのイギリス海軍は、
ほこりたかい乗組員たちのようすに胸があつくなる。

posted by カルピス at 23:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月15日

『本の雑誌 6月号』の特集「人の本は汚すな!」

本の雑誌社の社員があつまって、座談会をしていたとき、
本を180度以上ひらいてよむとか
「ぐいぐいごしごし」するといった
浜本氏(編集長)の本のあつかいについて
社員から苦情がでたのだそうだ。
浜本氏は、自分のよみ方くらいゆるされる範囲と、
ひらきなおっているのではない。
本を愛しているはずの自分が
無意識のうちに「ぐいぐい」やっていたことにおどろき、
無意識だからこそおそろしいと、よく認識されている。
ようするに、「人の本は汚すな!」に異論はない。

特集は、つづいて 本屋さんでみかけたひどいとりあつかいを
妖怪にみたて、名前と特徴を紹介している。

【かみなめ】自分の指に唾液をつけて本をめくる
【おれおれ】ページにおりめをつけながらのたちよみ
【おきにもつ】商品である本のうえに自分の荷物をおく
【どりんくおんな】コンビニでかったのみもので本をよごす

【おきにもつ】は、わたしもよくみかける。
わたしは荷物の下にある本をとりだすふりをして
できるだけ荷物をどかせる。
【どりんくおんな】はさいわいまだ目撃したことがない。
島根に棲息してないといいけど。
ときどき本屋さんに顔をだすわたしでさえ
気になるお客がちらほらいるのだから、
店員さんからみれば、目にあまるお客はたくさんいるだろう。
お客は神さまではないのだから、
もっとつよくでてもいいとおもうけど、
いまの社会では、なかなかむつかしいのだろう。

「人の本は汚すな」のタイトルにあるとおり、
「人の本は」よごしてはいけないけれど、
自分でかった本なら どうしようと自由だ。
自分でかった本について、わたしは
かなりぞんざいなあつかいをしている。
原則としてオビはとりのぞく。
これは、よむのに気がちるものは ないほうがいいという、
山口瞳さんのおしえによるものだ。
オビをつくるのにも労力がかかっており、
オビも本の一部として大切にするというかんがえ方もあるけれど、
本を神聖なかざりものにしないためにも じゃけんにあつかう。
本のなかみに、えんぴつで線をひいたり かきこんだりもする。

いっぽうで、本をたいせつにする気もちも
わからないではない。
サザエさんに、本をまたいだカツオがしかられるはなしがあり
(しかったサザエさんは、波平さんをまたいでいる、というオチ)、
それくらい精神的なシンボルにまつりあげるのも わるくない。
わたしも、本をひらいたままふせるのは
たとえ自分の本であっても行儀がわるいとおもう。

読者からの投書には
「お風呂で本を読むな!」というのもきている。
紙がふやけるにきまってるだろう、と
マジで腹をたてている。
わたしにしたら、お風呂で本をよまなければ
ほかになにをするのだ、とおもう。
ひとによって「常識」の境界線はさまざまだ。
わたしはもう10年以上お風呂で本をよんでるけど、
フタをしていたら そんなにふやけるものではない。
もちろん図書館でかりた本を お風呂にもってはいりはしない。
ふやけるというよりも、もしお湯のなかにおとしたらおっかないから。
けっきょくこれも、自分の本でないのに
お風呂にもってはいるから 腹がたつわけで、
自分の本なら なにをしてもいいはずだ。

「人の本は汚すな!」は、
けっきょく あたりまえのマナーにすぎない。
「人の本は」よごしたらいけないにきまっている。
どの程度ぞんざいにあつかったら非常識かは、
相手との関係によるわけだから、一般論にならない。
本をかしてくれたひとがいやがらない範囲で
ていねいにあつかうまでだ。
特集として、おおきくとりあげられているわりには、
あまりにもあたりまえなので、拍子ぬけした。

posted by カルピス at 22:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | 本の雑誌 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月14日

多伎のスイムランにエントリー

毎年参加している出雲市多伎町でのスイムランに
ことしもまたもうしこんだ。
この大会は、なまえのとおり
海でおよいでからはしるレースで、
自転車がないだけトライアスロンより参加しやすいし、
水泳があるので はしるだけではないおもしろさがある。
わたしはこの大会だけしかレースにでない年がおおく、
スイムランのおかげで、なんとか水泳とジョギングがつづけられる。

海でおよぐといっても、港のなかなので、
そんなにふかくないし、波もひくくおよぎやすい。
なんねんかまえから、海底にロープがはられるようになり、
いちいち顔をあげなくても それが目じるしになるので
ずいぶんらくになった。
プールそだちのわたしは、海でもなんとかおよげるけど、
波やふかいところがにが手で(こわいから)
とても沖にむかっておよぐ勇気はない。
多伎のコースなら そんなスイマーにもおすすめできる。

コースはショートの部とロングの部にわかれ、
ロングは、2.4キロおよいだあと、21キロはしり、
ショートはそれぞれその半分の距離だ。
おなじ参加料なのだから、ながい距離のほうが得のような気がして、
わたしは10回参加したうち、さいしょだけショートで、
あとはずっとロングの部にエントリーしている。
これまでの最高記録はきょねんだした3時間1分。
どうしても3時間をきれない。
年のせいか、タイムはだんだんとおちる傾向にあり、
きょねんはたまたま調子がよかっただけだ。
水泳は 9回のうち、じつに5回が52分と
みごとにひくく安定している。
いくら水泳にちからをそそいでも、
ほとんどタイムにかわりないのがわかり、
このごろは およぐカンをうしなわないていどに
プールへかようだけになった。

きょねんの参加者が406人ということからわかるように、
こじんまりとした いかにもローカルな大会で、気らくに参加できる。
道ばたでは町のひとたちが応援してくれるし、
エイドステーションでは子どもたちが
水やスポンジを手わたしてくれるのではげまされる。
わたしはほかの大会にでたことがないので
くらべられないけど、のんびりした いい運営だとおもう。
大会の宣伝としては、レースのあとで サザエやソーメンがふるまわれ、
完走したあとのひといきがたのしい。
参加料はショート・ロングとも9000円で、
しめきりは6月20日となっている。
ロングの部は69歳、ショートの部は99歳までエントリーできるので、
トレーニングの目標として、 いつまでも参加しつづけたい。

posted by カルピス at 22:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月13日

『ぼくの道具』(石川直樹)

『ぼくの道具』(石川直樹・平凡社)

しりあいが だいじなわすれものをしていたみたいに
あわててこの本をとりだして、わかれぎわにかしてくれた。
ふだんは、できるだけ図書館かネットの古本で
よみたい本をさがすひとなのに、
この本は、かってでも手にいれたかったそうだ。
冒険家として、石川氏の名前だけはしっていた。
アウトドア関係の小物にわたしはよわく、
こんな本をよんで、あれもこれもほしくなったらこまるなーと、
たのしみとともに、すこし心配しながらページをめくる。

ヒマラヤや極地などのきびしい環境では
ふだんつかっている道具がやくにたたなくなる。
通信が一切途絶えても、本来はそれが当たり前なんだ、と気構える。大切なのは、道具に頼らず、まずは自分自身をその環境に適応させていく努力をすることだ。

なんて ただしいかんがえ方がのべられており、
「まえがき」をよむと いかにも専門家ふうで 敷居がたかい。
その筋のプロフェッショナルが、
しろうと相手に おたかくとまられてはたのしくない。
たかくて手にはいらない道具を絶賛されてもしらけるし。

でも、よみはじめると、
石川氏は、あんがいかたぐるしいひとではないみたいだ。
「道具に対する固定観念は一度捨てたほうがいい」と、
コットンのパーカーをきていたシェルパを肯定している。
たいていの本では、山でコットンをさけるよう強調し、
化繊の下着とフリース、それにダウン製品ばかりとりあげがちだ。
ここちよくすごせるのであれば、
危険な場面でないかぎり、コットンでもいいというのは、
いえそうで、いえない。
おなじかんがえから、登山でのジーンズもありだという。

道具についてかたると、
おもいいれがあればあるほど、
自慢めいたはなしになりそうなところを、
この本は、しろうとでもいいそうなことを、
ひねらずに そのままかいてあるのでしたしみやすい。
道具によっては、アウトドアの入門書みたいだ。

いちにちの活動をおえて自分のテントにもどり、
ねるまえにDVDをみるのがとてもたのしいともある。
キンドルも山にもっていっており、
K2で『ナニワ金融道』を全巻よみとおしたそうだ。
こういうところは、いかにもいまどきの冒険家で、
いいとおもうことは柔軟にとりいれている。
DVDで精神衛生をたもち、本をキンドルにして 荷物をへらす。

けっきょくこの本で紹介されている道具は、
専門的すぎて、わたしの物欲を刺激しなかった。
わたしの場合、旅行でつかう程度なのだから、
極地仕様はさすがにおおげさすぎる。
ノースフェイスのダウンスーツなんて、
いかにもたかそうなので、
ほしくならなくてよかった。
たかすぎる道具には関心がむかわないように、
ケチで貧乏な性分が しみついているのかもしれない。

posted by カルピス at 23:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月12日

1640円でかったイヤホンに満足する

ネットでイヤホンを注文する。
朝日新聞の「かしこく選ぶ」シリーズで
すぐれもののイヤホンがとりあげてあり ほしくなった。
連載の1回目は、3000円くらいで手にはいる商品にしぼり、
3点が紹介されている。
オーディオテクニカからでているATH-CK330Mは、
「3千円でこのクオリティーが出せるのかと驚いた」
なんてかかれており、購買意欲をくすぐられる。
実勢価格が2千円前後なのもたいへんよい。
新聞記事に刺激された人間が
わたしだけでなく、おおぜいいるだろうから、
ものすごい数のATH-CK330Mがうれたのではないか。

3ヶ月まえに、わたしは3000円のヘッドホンをかっている。
ツタヤをうろついていたとき、
おためしコーナーできいたCDの音がとてもきれいだったので、
わたしもそんな音がきけるヘッドホンがほしくなった。
家でiPodをきいてみると、
たしかにそれまでのイヤホンとはぜんぜんちがい、
クリアーな音が耳にここちよい。
それでじゅうぶん満足していたはずなのに、
新聞でイヤホンが紹介されると、それもまたほしくなった。
世のなかは、ものをもたずにくらす価値観へとうつっていながら、
わたしはいまだに物質の魔力からにがだせない。
「いいものをほんのすこし」もてばいいところを、
「やすいものをあれもこれも」が わたし流だ。
「3千円でこのクオリティーが出せるのかと驚いた」は
わたしにとってころし文句となった。

ネットでATH-CK330Mを注文すると、1640円で手にはいった。
3ヶ月まえに3000円でかったヘッドホンとききくらべると、
正直なところ、どちらもそれぞれいい音としかわからない。
ヘッドホンは耳を完全におおう形をいかして あつみのある音、
イヤホンは、雑音が完全におさえてあり、
音が 耳からちょくせつ脳みそにとどく迫力に感心する。
ワインのボルドーとブルゴーニュをのんでも、
どちらもそれぞれにおいしいことしか わたしにはわからない。
ちょうどそんなかんじで、
3000円のヘッドホンと1640円のイヤホンは、
それぞれもち味をいかしてたのしませてくれる。

おおきさでいえば、もちろんイヤホンのちいささはメリットとなる。
わたしはつねにいつかでかけるであろうバックパック旅行を
頭のかたすみでイメージしており、
しかるべきときがくれば、コンパクトに荷物をまとめて
世界のボーダーをさまよう自分のすがたをおもいうかべる。
わかものは、ムダな荷物がたくさんつまったリュックをせおえても、
わたしには30リットルのリュックに8キロの荷物が限度だろう。
年をとったら、おおきなトランクに
ヘッドホンでもなんでも たくさんの荷物をつめこんで
優雅な旅行をすればいいけど、
わたしのこのみにあわないし、
だいいち、それだけのお金を準備できない。

そんなときに、そこそこの音をきかせてくれる
ちいさなイヤホンはとてもありがたい。
ヘッドホンをかったときのブログには、
旅行へももっていきたくなる音のよさ、
なんて調子のいいことをかいたけど、
イヤホンでいい音がきけるのなら、それにこしたことはない。
こんどかった164円のイヤホンは
場所をえらばず 純粋に音をたのしませてくれるだろう。
むすこへのしおくりがおわり、
自分の生活だけを心配すればいい日がくるまで、
旅行をイメージしながら そこそこの道具をあつめておきたい。
しばらくは それが旅行のかわりだ。

posted by カルピス at 22:28 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする