2016年05月11日

「おもったことをそのままつたえる会社」というのはどうだろう

気のよわいわたしは、なにかとひとの顔いろをみて
はなしをする傾向がつよい。
相手が期待しているこたえを口にしがちだ。
いいにくいことほど はっきりいわなければならないそうだけど、
わかっていながら やっぱりいえない。
権威的なひとはきらいなので、
ちかよらないから害はないとして、
威圧感のあるひともにが手なので、
堂々とただしいことをきっぱりいわれると、
お腹のなかはそうでないのに、口についてでることばは、
つい そのひとにおもねる発言になってしまう。
相手が気にいりそうなことをいって
ごきげんをうかがう 太鼓もちみたいな自分がかなしい。

で、あたまにうかんだのが、
「おもったことをそのままつたえる会社」の設立だ。
たとえばお寿司屋さんが自分の店への評価をしりたいとき、
お客さんに直接たずねたって
なかなかほんとうのところはわからない。
面とむかってほんとうのことはいいにくいので、
あたりさわりのない意見ばかりがきこえてくる。
居酒屋が、ご意見ノートみたいなものを用意しても 効果はうすい。
かんたんにお客の本音をしろうとする かまえからしてまちがっている。
そんなとき「おもったことをそのままつたえる会社」へ
仕事をたのむと、
ふつうのひとがそのお店でたべたときに、
どんな感想をもったかを 率直におしえてもらえるわけだ。
お店とまったく関係のない第三者なので、
いいにくいことでも「仕事」としてそのままつたえる。
「おもったことをそのままつたえ」たらいいので、
事前のうちあわせはかんたんそうだし、
評価をつたえるときも、遠慮しなくてもいい。
プロフェッショナルのこまかな分析ではなく、
一般人のもやもやとした胸のうちこそに価値がある。
遠慮しないでつたえるのが仕事であり、
相手も それを承知のうえで依頼しているのだから、
気のよわいわたしにも つとまるのではないか。

問題は、そんな会社に
どれだけ仕事の依頼があるかということで、
たいして関係ない第三者から、
おもったことをそのままいわれて
とどめをさされるような気がする。
おもったことをそのままつたえるのは得意でも、
おもったことをそのままいわれるのはにが手なのだ。

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2016年05月10日

『ノーカントリー』みごとに表現されたマッカーシーの世界

『ノーカントリー』(コーエン兄弟:監督・2007年・アメリカ)

原作はコーマック=マッカーシーの『血と暴力の国』。
はじめてよんだマッカーシーがこの本だった。
きょくたんに句読点のすくない かわった文体と、
むだぐちをきかない登場人物がつよく印象にのこる。
だからといって、ハードボイルドともいえない気がする。
あの小説を、どう映画化したのかに興味があった。

麻薬がらみの大金を手にいれたモスが、
組織におわれながらにげまわる。
モスは、でどころのしれない大金なんかを
手にいれようとしなければいいのに、
いのちをねらわれながらも絶対にあきらめない。
まるっきりのかたぎではないにしろ、
犯罪とは縁のない世界でいきているモスが、
すごうでの殺し屋におわれても
ぜんぜんびびらないで、自分のやり方をとおそうとする。
自分にさしずしようとするものへの拒否反応が、
いかにもマッカーシーだ。

殺し屋のシガーが 不気味な雰囲気をはなっていた。
組織から仕事をうけおってモスをおっかけていながら、
だいじなのは自分の論理にあうかどうかであり、
その美意識をそこなうものへは
まったくためらわずに、けたはずれの暴力をふるう。
こころがないというよりも、ふつうの人間とは
ぜんぜんべつの価値体系にそっていきているからおそろしい。
シガーとかかわるひとは、彼とことばをかわすうちに、
相手が一般論のつうじない人間だとわかり おそろしくなる。
自分の運命が シガーのもとにあると 気づいたときはすでにおそく、
あまりの無条理にとまどいながら 彼の手のなかにおちていく。

3人目の主人公が、年おいた保安官で、
いい味だしてるなー、とおもったら、
缶コーヒー「BOSS」のおじさんだった。
すごうでの保安官というよりは、
引退前のひと仕事、というかんじだけど、
これまでに得た経験と、
生きるうえで身につけてきた土地の常識にそって、
つかずはなれずモスとシガーにせまっていく。
このひとがいっしょにいてくれたら、
一般市民はさぞかし安心だろう。
モスとシガーが 一般的でないメンタリティーのひとなので、
おちついた保安官の存在に、すくわれるおもいがする。

保安官は、自分のスタイルが
いまの社会につうじないことでみきりをつけ、
定年まえに辞職してしまう。
作品のなかで、ただひとり良識をもっていた保安官が
やめなければならない社会なんて、
まともな人間にはどれだけすみにくいことか。
この惑星の住人は・・・、と
ジョーンズさんでなくてもいいたくなる。

この映画が気にいったひとには、
マッカーシーの原作『血と暴力の国』もつよくおすすめしたい。
原作の世界がたくみに映像化されており、
どちらもすぐれた作品だ。
主要な登場人物の3人が、それぞれに印象ぶかい。

posted by カルピス at 22:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月09日

90歳以上のげんきなおとしよりはスーパーエリート

きのうのつづき。
90歳以上でも超げんきなおとしよりがいる、というはなしだ。
そんなひとばかりが番組に登場したので、
なんだかわたしもそのなかまいりができるような気がしたけど、
かんがえてみれば、あのひとたちは
スーパーエリートだからこそ、
ああして90をすぎても げんきに活躍されている。
おおくのその他おおぜいのひとは、そのまえに死んだり、
たとえながいきしても、からだやあたまが 自由にうごかない。
数々の病気やからだのいたみになやまされず、
一生をおえるひとの確率はどれくらいだろう。
あのひとたちは、そうしたハードルをくぐりぬけてきた
きわめて少数のエリートなのをわすれていた。

わたしは、スーパーエリートではないけれど、
腰はいたくないし、
ひざだって大丈夫だしし、
不眠症ではないし、
偏頭痛もないし、
「ぢ」でなやんでもないし、
糖尿病や高血圧、それに痛風でもない。
いちにち3どのごはんを
おいしく、ありがたくたべている。
おおくのひとをくるしめている苦痛からまぬがれており、
それだけでもめっけもののの人生ではないか。
生きているだけでラッキーな人間であり、
そのうえ90歳までのながいきをのぞんだら よくばりすぎだ。

はなしがとぶけど、
「止まるはず、老いの甘えが死をまねく」という標語があり、
はじめみたときは、たちのわるい冗談だとおもった。
「止まるはず」とかんがえることの、
どこが「老いの甘え」なのか。
状況判断のわるさを「老いの甘え」ときめつけ、
老人に責任をおしつけている。
とまらないで、ぶつかってくる運転手のほうがわるいだろう。
日本はものすごく老人につめたい社会だ。
やっぱり90歳までげんきに生きて、
ざまーみろといいたくなってきた。

posted by カルピス at 21:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 健康 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月08日

90歳以上でもげんきなおとしよりがいる

「オトナの社会科見学」で、90歳以上でも、
すごくげんきに仕事をされているおとしよりがとりあげられていた。
京都の山奥でくらすおばあさん3人組は、
とちモチをつくり、イベントにでかけてうっておられる。
3人とも、スクーターにのって自由にうごきまわる。
ほかにも94歳の床屋さんや、
90歳でピザをやくおばあさんが紹介された。
はたらいているからか、みなさん とてもしっかりされている。

96歳で現役の時計職人をされている方は、
電子時計以外はどんな時計でも修理できるといわれる。
年をとってもがんばってるねと、おなさけではなく、
たかい技術がほんとうにもとめられ お客さんがやってくる。
96歳としらされなければ、とてもそんな年にみえない。
すたすたあるけるし、自転車にものれる。
取材するひととのやりとりもしっかりしていて、頭の回転がはやい。
60mを全力ではしれるし、3キロの玉を 砲丸なげで5mちかくなげる。
キビキビとした身のこなしと、やわらかなうけこたえは、
70代といっても通用するだろう。
フランク=ダラボン監督の『グリーンマイル』
(原作はスティーブン=キング)に
年をとっても老化がすすまない男性がでていた。
96歳の時計屋さんは、ちょうどそんなかんじで、
あるときから 年をとるのをやめたようにみえる。

70になると背がまがり、よぼよぼのあるき方で、
頭はいつもモヤがかかったようにたよりなく、
ひとの手をかりて やっとこさ生きながらえている、
そんなイメージを、わたしは老人にたいしてもっていたけど、
あんなにげんきなおとしよりが、ほんとうにいるのだ。
わたしが日常的にみかけるおとしよりと、
なにかが決定的にちがっている。

番組は、ながいきの秘訣や、健康法について、
こまかな点にはふれていない。
ただ、こんなにもげんきなおとしよりがいるという
紹介にとどめているのがよかった。
わたしのまわりには、90になってなお、
あんなふうに いきいきとはたらいているひとがいないので、
紹介される老人たちの姿にとてもおどろいた。

あのひとたちは、なにかをしてもらうだけではなく、
だれかからあてにされている。
仕事をつづけ、ひとから必要とされるのが、
生きるうえでとても大切みたいだ。
わたしは、90歳までいきるなんて、かんがえたことがないけれど、
あのひとたちみたいにげんきなら
ながいきもわるくなさそうだ。
自分がどんな老いをむかえるのか
すこしたのしみになってきた。

posted by カルピス at 21:36 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月07日

草をかるから のびてくるのかも

きょねん庭仕事のアルバイトで 木の剪定をしたとき、
こんなにきっても大丈夫か?
と心配になるくらい大胆に枝をかりこんだ。
それくらいふかくハサミをいれて ちょうどいいそうで、
つよ気の剪定に すっかり感心した。
こわごわ枝をかるのではなく、ばっさりきってもいいという説明が、
初心者のわたしには わかりやすかった。

でも、ほんとはそんな単純なことではなく、
どうもわたしの解釈が度をこしていたようだ。
プロの庭師さんがいうには、
あんまりふかく枝をきると 木がおこり、
かえってのびすぎてしまうらしい。
そっとしておけば、木だってむちゃなのび方はしないのに、
へんにつよい刺激をあたえると、反発をまねくというのが
いかにも木の心理をついているかんじで、いいはなしだ。

そういえば、きょねんの秋に草をからないで
ほってあった田んぼには
春になってもあまり草がはえてこない。
こまめに草かりをした畑のほうは
いま雑草がおいしげっている。
草をからなければ、むやみにのびないというのは
すてきな発見だ。
草をからないからはびこるのではなく、
草をかるから、それだけのびるというのは
ひとつの真理ではないか。

美意識からか、草いっぽんものこさないよう、
たんねんに草とりをしているひとをみかけるけど、
そんなことをするから草ががんばってはえるのかもしれない。
そこそこの草とりにおさえておけば、
草のほうだってそこそこにしかのびようとしないのでは。
草だらけの田んぼ.jpg
1週間まえに土団子で種まきをした田んぼは、
秋からほったらかしたままだ。
きょねんは種をまいてから、草刈機で草をかりとったけど、
自然農法をかかげていながら 習慣にしたがって草をかるのは
余計なことにおもえてきた。
ことしはもうすこしようすをみて、
稲が草にまけそうなら手つだうくらいにとどめたい。

posted by カルピス at 13:01 | Comment(0) | TrackBack(0) | 農的生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月06日

『マッドマックス 怒りのデスロード』

『マッドマックス 怒りのデスロード』
(ジョージ=ミラー:監督・2015年・オーストラリア)

はじめてみるマッドマックスシリーズなのに、
まったく問題なく作品の世界にはいれた。
理屈なしでたのしめる。
あれはてた土地での絶望的な状況を、
「たのしめた」というのは なんだか不謹慎だけど、
つくったひとたちも、なにかの教訓をしめすためではなく、
きっと ただ たのしんでほしかったのだとおもう。
「あーおもしろかった」が、
この作品においては純粋にほめことばとなる。

説明しだすときりのなさそうな 現実ばなれした世界なのに、
すごいスピードで展開する映像をみているだけで
すんなりはいりこめるのだから、
よほど じょうずにつくってあるのだろう。
作品を成立させるのに必要なお約束は最小限にとどめ、
よけいなことに気をとられないで カーチェイスに没頭できる。
悪の帝国があって、そこからにげだしたら、おいかけられた。
ただそれだけなのに、みるものをひここむちからがすごい。
なぜこんな世界になったのか、とか、
砦を支配しているのはなにものなのか、は
しらなくても たいして問題ではない。
ただ、とてつもなく つよくてわるいやつがいて、
主人公とその仲間がもうすこしでつかまりそうになる、
という状況が大切なのであり、
そこだけおさえてあれば、あとは全力でにげまくるだけだ。
カーチェイスこそがこの作品のキモなのだから。

この作品を、わたしはデイリーポータルZの記事により、
映画をみるまえからしっていた。
そのときは なんのことかわからないまま、
やたらとハイレベルな工夫に感心したものだ。
(『俺を見ろ!おうちでマッドマックス』)
http://portal.nifty.com/kiji/151102194965_1.htm
映画のあとで、ふたたびこの記事をみると、
こまかなところまで きちんと再現してあるのがよくわかった。

マッドマックスをみたら、だれだってごついトラックを
フルスロットルではしらせたくなる。
馬力のあるタフなエンジンこそが、あの世界では正義だ。
残念ながら、ああした車は なかなか手にはいらないので、
現実の世界にいきる一般市民は 工作するしかない。
みかけはペラペラのおもちゃでも、
マシンにはマッドマックスの魂がやどっている。

きっと作者は、あまりにも興奮してしまい、
なんとかしてマッドマックスにかかわらないと
気がすまなかったのだろう。
ありえないところをつっこみがちなわたしよりも、
現実的かつただしいつきあい方である。
せっけんの箱とダンボールでつくった自動車が、
マッドマックスのトラックにしかみえない。

posted by カルピス at 19:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月05日

清志郎の命日をわすれていたなんて

きのうの夕方、いつものスーパーまで あるいてかいものへいった。
iPodでRCサクセッションの曲をきいていると、
ようやく清志郎の命日が連休ちゅうだったのに気づく。
しらべたら、5月2日だ。今年で7回目の命日となる。
まさか、こんなにかんたんにわすれてしまうなんて。

これまで 命日の夜には、お酒をのみながら
清志郎とチャボのコンサート
『GLAD ALL OVER』のDVDをみている。
毎年つづけてきたからといって、
むりしておなじことをなぞるのは、儀式めいていていやだ。
ことしはRCの曲をききながら、
2時間コースのジョギングにでかけることにした。
いつもはラジオ番組「とことん暑苦しい音楽」でながれた曲を参考に、
ジョギングむけに えらんだ曲をききながらはしっている。
でも、2時間コースとなると、
ギトギトロックな曲にせかされれるより、
フォークな曲もまじるRCを シャッフルできくほうが
わたしのゆっくりなペースにはちょうどいい。
シャッフルだと、あまりきかない曲もながれてくる。
ひさしぶりの2時間コースを、清志郎にたすけられ、
へろへろになりすぎず、さいごまではしれた。

いろんな時代の清志郎をシャッフルできいていると、
ひとくちに清志郎といっても、わたしがすきな曲は、
わりとせまい範囲にかたまっているのがわかる。
フォーク時代よりもうすこしあと、
1980年から83年につくられた曲がほとんどだ。
アルバムでいうと、
『PLEASE』(1980)
 「Sweet Soul Music」
 「いい事ばかりはありゃしない」
 「あきれて物も言えない」
 「体操しようよ」
『EPLP』(1981)
 「よごれた顔でこんにちは」
 「上を向いて歩こう」
 「君が僕を知ってる」
 「たとえばこんなラブソング」
『BEAT POPS』(1982)
 「つきあいたい」
 「こんなんなっちゃった」
 「恐るべきジェネレーションの違い」
 「エリーゼのために」
 「ハイウェイのお月様」
『OK』(1983)
 「お墓」
 「誰かがBedで眠ってる」
 「うんざり」
 「指輪をはめたい」
 「ドカドカうるさいR&Rバンド」
となる。

うだつがあがらず、トホホな毎日をおくるわたしにとって、
この時代につくられた清志郎の曲がすくいだった。
自分が主流からはずれているとかんじつつ、
でもどうしようもなくて
おなじところをうろつくわたしをなぐさめてくれた。
『雨あがりの夜空に』にある
「いいかげんあしたのこと かんがえたほうがいい」
「どうしたんだ ベイビー、おまえまでそんなこというの?」
は、わたしの気もちにぴったりだったし、
なにがおきても、
「どうぞ勝手にふってくれポシャるまで
 いつまでつづくのか みせてもらおう」
とつぶやけば、まえむきでいられた。

清志郎というと、ロックな反骨精神がよくとりあげられるけど、
わたしにとっての清志郎は、
うたいたい曲を すきなようにうたっていた
1980年から83年にかけての清志郎だ。
ブツブツいいながら なんとか生きていけたのも、
清志郎のおかげかもしれない。

posted by カルピス at 16:18 | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月04日

やっと外でもつかえるスマホを手にいれる

3週間まえにスマホを手にいれておきながら、
わたしのスマホは、Wi-Fiでしか ネットにつながらない。
通話はできる。
外でネットにつなごうとしたら
「オフラインです」と表示され、
いくら設定をいじってもどうにもならない。
マップもひらけないし、ラジコもきけない。
ネットにつながらないスマホって、
家にあるiPadと どうちがうのだろう。

こまったなー、といいながら、
じっさいはそれほど不便をかんじないので
3週間ほったらかしていた。
ほったらかしながら、このつながらないスマホが
ふつうのスマホのようにネットにつながったら
きっと便利だろーなー、ともおもった。
外でiPadがつかえるみたいなものだ。すごい。
スマホをもっていながら、こんなことをいうのもなんだけど。

きのうようやくイオンモバイルへもっていくと、
SIMカードを認識してないのでしょう、といわれた。
APNの設定をされましたか?とたずねられる。
やってない。SIMカードをさすだけではだめだったとは。
SIMカードをわたすときに おしえてくれたらいいのに
(わたしがききながしたのかもしれない)。
アクセスポイントの編集で、あたらしいAPNを追加し、
ユーザー名やパスワードを入力して保存する。
それだけで、するするっとネットにつながった。

すごく便利になったスマホながら、
けっきょく たいして用事はない。
家ではパソコンをひらくし、外ではスマホをいじらないし。
それでも、これでようやく名実ともに「スマホ」となり、
すごくうれしかった。だれかに自慢したいくらいうれしい。
どこでもつながるちいさなパソコンなわけだから
(パソコンよりかんたんだし、カメラやラジオもついてる)、
世界じゅうのひとが 携帯からスマホへと
ながれる気もちが すこしはわかった。
スマホの実力をしる、よい教訓だったかもしれない。

posted by カルピス at 13:29 | Comment(0) | TrackBack(0) | スマホ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月03日

女子陸上の選手は、なぜセパレートのウェアなのか。

新聞に、陸上女子100mの選手がのっていた。
セパレートのウェアは、水着みたいに露出度がたかい。
このごろはみなれてきたけど、そういえばなぜ彼女たちは
こうしたウェアではしるようになったのだろう。
なにもしらべずにかくけど、きっとただの流行だ。
まわりの選手がつけているから、自分もそれにしているだけ。
どの競技でも、ウェアは流行によってえらばれているのだから、
女子陸上の選手がわるいといっているのではない。
はやくてかっこいい選手が
セパレートのウェアではしっていたら、
だれだってマネがしたくなるだろう。

それでもなお、ある日 彼女たちが
自分のかっこうに気づいたらとおもうと ひやひやする。
意味もなく、ほとんど水着みたいなかっこうで
自分が競技場にたっているのを、
彼女たちはしらないのではないか。
まわりがみんなやっているから はずかしくないですよと、
うまくのせられているのではないか。
だれがこうしたウェアをしかけたのだろう。

ビーチボールバレーでは、女子選手のウェアが、
ブリーフはぴったりしたもので、
裾は左右が上向きにカットされ、
サイドは7センチ以下とする

という国際規程によって厳密にきめらられている。
7センチ以上のふとさがあっても、
競技にさしさわりはないとおもうけど、
露出度をたかめたいだれかが
ルールとして7センチ以下にきめたのだ。
ずいぶんひどいとりきめだとおもうけど、
ルールなのだからしかたがない。

ビーチボールバレーの選手は、ルールにのっとり
露出度のたかいビキニをきているのであり、
自分からセパレートのウェアをえらぶ
女子陸上の選手とはちがう。
ちがうけど、結果がおなじなのがおもしろい。
いっぽうはルールでしばり、
もういっぽうは自分たちの判断でえらびながら、
どちらも露出度がたかいのはなぜか。

posted by カルピス at 14:00 | Comment(0) | TrackBack(0) | スポーツ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月02日

なにごとも、頭のなかだけでなく やったほうがいい

「デイリーポータルZ」の特別企画として、
「生きているからにはやっておきたいこと」がとりあげられている。
http://dpz.cocolog-nifty.com/q/2016/04/42955gw-9b3e.html
生きているからといって、かななずしも
やりたいことをぜんぶクリアーしてきたわけではない。
ながねん頭のかたすみにありながら、
実現にむけてうごかなかった夢の数々。
デイリーポータルZでいう「生きているからには・・・」は、

・職人の下積み期間を体験したい
 (店のまえで大根のカツラむきをする)
・破った袖で止血したい(そのまえにキズぐちに酒をぶっかける)
・ぶら下がり取材されたい
・りんごを手でにぎり割りたい

など、シンプルながら おおくのひとが
身におぼえのあるリストではないか。
こうやって具体的にしめされると、
だれにだって、「生きているからにはやっておきたい」
ことをいくつかおもいだすだろう。

わたしのおばが、何年かまえに
「死ぬまでにルーブル美術館にいきたい」と
わりとまじめにいった。
いけばいいのに、とわたしはとっさにおもったけど、
年配の方にとって、外国への旅行、とりわけツアーでない旅は
そんなにかんたんではないようだ。
ルーブルなんて、かんたんにいける。
いけるけど、瞬間にはおわらない。
ルーブル美術館に足をふみいれ、感激しておわりではなく、
その前後にくっついてくるさまざまな雑務
(パスポートをとったり、飛行機やホテルを予約したり)や
移動時間にたくさんのエネルギーをとられる。
だからこそ、夢がかなったときの感激が、
いやがうえにもたかまるわけだけど、
そのまえにつかれきって 気もちがきれる場合もおおいだろう。
おいのわたしが かりに旅行を手つだったとしても、
長時間の旅行が、全体として成功するかどうかはわからない。

夢は、かなえるまえとあとがめんどくさい。
デイリーポータルZの企画は、めんどくさい部分をはぶき、
エッセンスだけにしぼっているので
実現はわりかしかんたんだ。
かんたんにかなえられるだけ、
よろこびはながくつづかないかもしれない。
それでもいいから、やってみようという企画であり、
じっさいに やってみたら ひとつのくぎりとなりそうだ。

「死ぬまでにやっておきたい」と
「生きているからにはやっておきたい」は、
ビミョーにちがうかもしれない。
「死ぬまでにやっておきたい」は
切実なねがいであり、冗談になりにくい。
「生きているからには・・・」は、
もうすこしかるくて即物的だ。
やらなくても人生に影響はないけれど、
あーおもしろかった、と
その場の充実感だけを目的とする。

「死ぬまでにやっておきたい」をやらないでいたら、
死ぬときにきっと後悔するだろうから やるしかない。
「生きているからには・・・」は、
やらなくても後悔しないけど、
やっておけば たのしいおもいでがリアルなので
できるだけやっておいたほうがいい。
けっきょく、頭のなかにあるだけではなく、やってみることが
なにごとにおいても大切となる。

posted by カルピス at 22:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | デイリーポータルZ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年05月01日

原発事故5年目の記録 「無人の町」にすむ野生動物たち

BS1スペシャル「原発事故5年目の記録」をみる。
後編では「無人の町はいま」として、
ひとがすまなくなった町で、
野生動物がふえている状況が紹介された。
除染がすすみ、これまですむのが禁止されていた地域へも、
すんでいたひとがもどれるようになりつつある。
しかし、ひとがるすをしていた5年のあいだに、
野生動物は町にたつ家でくらすようになっていた。
雨風をしのげる人間の家は、動物たちにとってもまた
すみかとして都合がいい場所だ。
自分のすんでいた家で、ひさしぶりに1泊できるようになり、
たのしみにしていたご夫婦は、
あまりにも動物くさくて、とまるのをあきらめられた。
ねずみが部屋にすみつき、なんどかたづけてもあらされる。
天井には黒いシミができており、糞尿のにおいがたちこめる。
屋根うらでくらすハクビシンたちが原因だ。

わたしは、野生動物がすんでいる土地にはいりこみ、
めちゃくちゃに開発する人間たちを わるものと とらえがちだ
(『平成狸合戦ぽんぽこ』をみよ)。
しかし、ひとがすまなくなった町に 堂々とくらすイノシシは
これまでにみたことのないおそろしい風景だった。
町がだんだんと自然にのみこまれていく。
彼らはまさしく野生動物であり、
とてもひとと動物たちが いっしょにくらせるとはおもえない。

人間のあやまちで放射能汚染がひろがり、
動物たちの天国(放射能汚染があるけど)となった土地を、
わたしは人間へのいましめとして
うけいれなければ、とおもっていた。
自分たちですめなくしておいて、
野生動物がはびこるとあわてるなんて、
あまりにも身勝手だから。
でも、「無人の町はいま」をみると、
ふるさとにもどろうとするひとの気もちも またよくわかる。
野生動物との共存などといえば、
きれいなはなしにきこえるけれど、
じっさいに自分がその状況にたたされたら
とてもおだやかな気もちで 野生動物をうけいれられそうにない。

原発事故によってくずれた ひとと野生動物との境界線が
これからどうなるのか、という問題を 番組はつきつける。
日本全国で、野生動物の農作物への被害がでているけれど、
原発事故で無人の町となった土地は、状況がまるでちがう。
5年のあいだに、動物たちはひとをおそれなくなった。
いまや町でくらすのが、動物たちにとって あたりまえであり、
いったん動物たちにあけわたした土地を、
除染がおわったからでていけというのは、
動物たちにつうじない。
イノシシのほかにも、サルやキツネなど、
おおくの動物が町にすみついている。
除染さえすめば、もとにもどれるとおもっていたのに、
「無人の町」となった5年間は、さまざまな問題をうみだしていた。
野生動物との境界線を、人間はひきなおせるだろうか。

posted by カルピス at 22:53 | Comment(0) | TrackBack(1) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする